翌朝、小春はほとんど荷物も持たされないまま、店の前に停められた馬車へと押し出された。
御者は一言も口を利かず、無言で手綱を握っている。馬車が動き出すと、見慣れた町並みがゆっくりと遠ざかっていった。
小春は膝の上で風呂敷包みを握りしめる。中に入っている桜餅が、かすかに温もりを伝えてきた。
『大丈夫、私たちがいるよ』
小さな声に、小春はそっと息を吐く。
「……うん」
風呂敷の中には、切り倒された桜からもらった花びらの塩漬けがある。それを使って作った桜餅だ。これが毒とならぬようにと、小春は静かに祈った。
やがて御神影家が近づいた頃、不意に空気が変わった。窓の外の景色が、どこか色を失ったように見える。周囲の人の気配が、ふっと途切れた。
(御神影の領域に入った)
小春は理由もなく、そう理解した。
馬車が止まる。扉が開かれたときには、もうここだとわかっていた。足を下ろし石畳に草履の底が触れた瞬間、ひやりとした冷たさが伝わってくる。
小春は顔を上げた。
社殿を中心に築かれた、広大な屋敷だった。重厚な表門をくぐると、石畳の参道の先に古い鳥居が立っている。色褪せた朱はところどころ黒ずみ、張られた注連縄は清めというより、何かを封じるためのもののように見えた。
昼だというのに屋敷全体は薄暗く沈み、風が吹いているはずなのに庭木はほとんど揺れない。鳥の声も、人の気配もなかった。
「……ここが、御神影家……」
思わず呟く。胸の奥にじわりと重たいものが広がる。息を吸うが、うまく肺が開かない。
(……息が、苦しい)
そのときだった。
『……ここの空気、重いね』
懐の中で、ハッカの精霊が小さく震えた。
小春は反射的に胸元を押さえる。精霊が怯えることは滅多にない。
『でも、何かにちゃんと守られているわ』
『きっと、あの榊だよ。あの子、浄化する力がとても強いもの』
桜の精霊は、落ち着いた声でそう告げた。小春は参道脇に生える榊に視線をやる。しばらく、そこに意識を向けたが言葉は返ってこない。
(どの子とも、会話ができるわけじゃないよね)
小春はわずかに眉を寄せる。
この場所の異様さは、はっきりと感じ取れていた。鳥居の前で、一歩を踏み出しかけて足を止める。
(逃げようと思えば、今ならまだ引き返せる)
その考えがよぎった瞬間、荒らされた花壇の光景が脳裏に浮かんだ。ぎゅっと唇を噛み、小さく息を吸った。
「……大丈夫よ」
誰に言うでもなく呟き、再び足を踏み出す。
「……お待ちしておりました」
石段の上に、一人の男が立っていた。
五十を過ぎているように見える。黒の羽織に袴という古風な装い。だが着こなしに一切の乱れはない。背筋はまっすぐに伸び、指先の動きひとつにまで無駄がなかった。長くこの家に仕えてきた者だけが持つ、静かな威圧感があった。
「御神影家に仕える執事、鷹宮と申します」
丁寧に頭を下げるが、その所作にも隙はない。だが、その目だけがわずかに細められていた。
(値踏みされている)
そう感じた瞬間、小春は思わず背筋を伸ばす。
「鈴白小春と申します……本日より、お世話になります」
声が震えないように気をつけながら、深く頭を下げた。そのやり取りを見守るように、もう一つの気配がそっと近づく。
「まあ……こんなに可愛らしいお嬢さんが」
やわらかな声だった。振り向くと、年配の女性が控えめに立っている。落ち着いた色合いの着物に身を包み、背筋はしゃんと伸びているが、その表情には温かみがあった。
「私は志乃と申します。身の回りのお世話をさせていただきますね」
にこりと微笑む。それだけで、小春の胸に張りつめていたものが、ほんの少し緩んだ。
「よろしくお願いいたします……」
自然に頭が下がる。志乃はやさしく頷いたあと、小春の手元の風呂敷包みに視線を落とした。
「……大事なものを、お持ちしていただけたのですね」
その言葉に、小春は思わず風呂敷を握りしめる。
「……あの……本当に、私の菓子をお望みなのでしょうか?」
志乃は答えず、ただ静かに微笑んだ。
「当主様に甘いものが必要なのです。ですがもう、他の菓子では無理なのです」
やわらかな口調のまま、その言葉だけがわずかに重く沈んだ。
鷹宮が一歩前に出る。
「ご案内いたします。当主様は奥にてお待ちです」
短く告げ、振り返ることなく歩き出した。小春はその背を追う。
(人はいる。言葉も通じる。それなのに、この場所の空気は少しも軽くならない)
むしろ、奥へ進むほど、何かが濃くなっていく。不安から、包みを持つ指に力が入ってしまう。
案内された座敷は昼だというのに薄暗かった。障子越しに光は入っているはずなのに、部屋の奥へ届くころには色を失っている。
その中央に一人の男がいた。
白い狩衣。長い黒髪を無造作に垂らしている。
整った顔立ち。だが血の気はなく、生気を削ぎ落とされたように見えた。
鷹宮が告げる。
「御神影家当主、朔夜様にございます」
(この方が、朔夜様……)
その言葉を合図にしたかのように、伏せられていた瞳がゆっくりと開く。
視線が小春を捉えた瞬間、胸の奥がざわりと騒いだ。
(――目が)
白目までもが黒に染まっている。
底の見えない闇だった。
人ではないものを覗き込んだような感覚に、小春は息を飲む。
「帰れ」
それは、低い声だった。感情は、ない。
「ここにいれば、死ぬ」
御者は一言も口を利かず、無言で手綱を握っている。馬車が動き出すと、見慣れた町並みがゆっくりと遠ざかっていった。
小春は膝の上で風呂敷包みを握りしめる。中に入っている桜餅が、かすかに温もりを伝えてきた。
『大丈夫、私たちがいるよ』
小さな声に、小春はそっと息を吐く。
「……うん」
風呂敷の中には、切り倒された桜からもらった花びらの塩漬けがある。それを使って作った桜餅だ。これが毒とならぬようにと、小春は静かに祈った。
やがて御神影家が近づいた頃、不意に空気が変わった。窓の外の景色が、どこか色を失ったように見える。周囲の人の気配が、ふっと途切れた。
(御神影の領域に入った)
小春は理由もなく、そう理解した。
馬車が止まる。扉が開かれたときには、もうここだとわかっていた。足を下ろし石畳に草履の底が触れた瞬間、ひやりとした冷たさが伝わってくる。
小春は顔を上げた。
社殿を中心に築かれた、広大な屋敷だった。重厚な表門をくぐると、石畳の参道の先に古い鳥居が立っている。色褪せた朱はところどころ黒ずみ、張られた注連縄は清めというより、何かを封じるためのもののように見えた。
昼だというのに屋敷全体は薄暗く沈み、風が吹いているはずなのに庭木はほとんど揺れない。鳥の声も、人の気配もなかった。
「……ここが、御神影家……」
思わず呟く。胸の奥にじわりと重たいものが広がる。息を吸うが、うまく肺が開かない。
(……息が、苦しい)
そのときだった。
『……ここの空気、重いね』
懐の中で、ハッカの精霊が小さく震えた。
小春は反射的に胸元を押さえる。精霊が怯えることは滅多にない。
『でも、何かにちゃんと守られているわ』
『きっと、あの榊だよ。あの子、浄化する力がとても強いもの』
桜の精霊は、落ち着いた声でそう告げた。小春は参道脇に生える榊に視線をやる。しばらく、そこに意識を向けたが言葉は返ってこない。
(どの子とも、会話ができるわけじゃないよね)
小春はわずかに眉を寄せる。
この場所の異様さは、はっきりと感じ取れていた。鳥居の前で、一歩を踏み出しかけて足を止める。
(逃げようと思えば、今ならまだ引き返せる)
その考えがよぎった瞬間、荒らされた花壇の光景が脳裏に浮かんだ。ぎゅっと唇を噛み、小さく息を吸った。
「……大丈夫よ」
誰に言うでもなく呟き、再び足を踏み出す。
「……お待ちしておりました」
石段の上に、一人の男が立っていた。
五十を過ぎているように見える。黒の羽織に袴という古風な装い。だが着こなしに一切の乱れはない。背筋はまっすぐに伸び、指先の動きひとつにまで無駄がなかった。長くこの家に仕えてきた者だけが持つ、静かな威圧感があった。
「御神影家に仕える執事、鷹宮と申します」
丁寧に頭を下げるが、その所作にも隙はない。だが、その目だけがわずかに細められていた。
(値踏みされている)
そう感じた瞬間、小春は思わず背筋を伸ばす。
「鈴白小春と申します……本日より、お世話になります」
声が震えないように気をつけながら、深く頭を下げた。そのやり取りを見守るように、もう一つの気配がそっと近づく。
「まあ……こんなに可愛らしいお嬢さんが」
やわらかな声だった。振り向くと、年配の女性が控えめに立っている。落ち着いた色合いの着物に身を包み、背筋はしゃんと伸びているが、その表情には温かみがあった。
「私は志乃と申します。身の回りのお世話をさせていただきますね」
にこりと微笑む。それだけで、小春の胸に張りつめていたものが、ほんの少し緩んだ。
「よろしくお願いいたします……」
自然に頭が下がる。志乃はやさしく頷いたあと、小春の手元の風呂敷包みに視線を落とした。
「……大事なものを、お持ちしていただけたのですね」
その言葉に、小春は思わず風呂敷を握りしめる。
「……あの……本当に、私の菓子をお望みなのでしょうか?」
志乃は答えず、ただ静かに微笑んだ。
「当主様に甘いものが必要なのです。ですがもう、他の菓子では無理なのです」
やわらかな口調のまま、その言葉だけがわずかに重く沈んだ。
鷹宮が一歩前に出る。
「ご案内いたします。当主様は奥にてお待ちです」
短く告げ、振り返ることなく歩き出した。小春はその背を追う。
(人はいる。言葉も通じる。それなのに、この場所の空気は少しも軽くならない)
むしろ、奥へ進むほど、何かが濃くなっていく。不安から、包みを持つ指に力が入ってしまう。
案内された座敷は昼だというのに薄暗かった。障子越しに光は入っているはずなのに、部屋の奥へ届くころには色を失っている。
その中央に一人の男がいた。
白い狩衣。長い黒髪を無造作に垂らしている。
整った顔立ち。だが血の気はなく、生気を削ぎ落とされたように見えた。
鷹宮が告げる。
「御神影家当主、朔夜様にございます」
(この方が、朔夜様……)
その言葉を合図にしたかのように、伏せられていた瞳がゆっくりと開く。
視線が小春を捉えた瞬間、胸の奥がざわりと騒いだ。
(――目が)
白目までもが黒に染まっている。
底の見えない闇だった。
人ではないものを覗き込んだような感覚に、小春は息を飲む。
「帰れ」
それは、低い声だった。感情は、ない。
「ここにいれば、死ぬ」
