九条が去ったあと、屋敷には平穏な静けさが戻っていた。
西へ傾き始めた陽が、縁側へ長く影を落としている。
庭先では、夏蜜柑の葉が風に揺れ、さらさらと涼しげな音を立てていた。
小春と朔夜は、並んで縁側へ腰を下ろす。その横には、志乃が切り分けてくれた夏蜜柑が置かれている。
瑞々しい果肉から、甘酸っぱい香りがふわりと漂っていた。
「九条さんは、夏蜜柑が苦手のようで」
小春は一房を口へ運びながら、小さく笑う。
朔夜も一口齧り、
「あいつは柑橘全般が駄目だ。匂いが強いと集中できないらしい」
と淡々と言った。
「そうなのですね」
答えながらも、不意に九条の声が脳裏に蘇る。
『君が必要なわけではない』
その瞬間、小春の表情がかすかに曇った。胸の奥がきゅっと締めつけられる。自分では隠したつもりだった。
しかし隣に座る朔夜は、その変化を見逃さなかった。
「……気にするな」
その場に低い声が静かに落ちる。小春が顔を上げると、朔夜はこちらを見ていた。
「九条の言葉を、まともに受け取る必要はない」
「ですが……」
小春は膝の上で手を握る。
「もし、本当に私が朔夜様の負担になっているなら……」
最後まで言葉にできなかった。
朔夜は少しだけ眉を寄せる。
「何も考えなくていい。お前は、俺のそばにいればいい」
短く、そう言った。あまりにも真っ直ぐな言葉に、小春の胸が大きく揺れる。泣きそうになるのを誤魔化すように、慌てて顔を伏せた。
「……そ、それより!」
声が少し上擦る。
「買ってきたラムネを飲みませんか? 冷やしてあるんです」
朔夜が小さく目を瞬く。
「ああ」
小春は立ち上がると、ぱたぱたと湧水場へ向かった。冷たい水へ沈めていた硝子瓶を取り出す。青緑色の瓶は、表面に細かな水滴を纏っていた。
「お待たせしました」
縁側へ戻ると、朔夜は瓶を受け取り、不思議そうに眺めた。
「これをどうやって開けるんだ?」
「えっ……」
二人で瓶を見つめる。小春は店主から聞いた言葉を思い出した。
「たしか……上を押すとおっしゃっていたような……」
瓶口には小さな栓押しがついている。朔夜はそれを指先で確かめると、ぐっと力を込めた。
ぽんっ。
小気味のいい音が鳴った。
「わっ」
小春が思わず肩を揺らす。同時に、硝子瓶の中で閉じ込められていた泡が、一斉に弾けた。しゅわしゅわと白い泡が立ち上り、涼やかな音を響かせる。
「面白いな」
朔夜が珍しく興味深そうに瓶を傾ける。小春は目を輝かせながら、その様子を覗き込んだ。
「中に、何か閉じ込められているみたい……」
「これが、炭酸、というものか」
朔夜は一口、含んだ。そして次の瞬間、ぱっと目を見開いた。
「……っ」
その反応があまりにも予想通りで、小春は思わず吹き出しそうになる。
「ふふ……」
「笑うな」
「だって、朔夜様、すごく驚いていらっしゃるから」
朔夜は気まずそうに視線を逸らした。
「刺激が強いだけだ」
その姿が少しだけ子供っぽく見えて、小春の胸がじんわり温かくなる。先ほどまでの不安が、少しずつ溶けていくようだった。
「小春も飲んでみろ」
「はい」
小春は自分の瓶を手に取る。今度は自分で栓押しを押し込んだ。ぽんっ、と音が鳴る。
「わあ……! 面白い!」
硝子の中で泡が踊る様子に、小春は目を丸くした。
(本当に、閉じ込められていたみたい)
そっと口をつける。次の瞬間、舌の上で細かな刺激が弾けた。
「……っ!」
思わず肩を揺らす。しゅわっとした刺激が喉を抜け、そのあとを追うように甘さが一気に広がった。
「すごい……」
小春は感嘆の声を漏らす。
「飴とは、全然違います」
ゆっくり溶けるのではなく、一瞬で甘味が広がる。身体へ染み込むように、ぱっと届く感覚だった。小春ははっと顔を上げた。
「これを……携帯できるお菓子にできたら」
朔夜が小春を見る。
「携帯できる?」
「はい」
小春は瓶の中の泡を見つめた。
「九条さんの言葉は、全部を信じるつもりはありません」
そう言ってから、少しだけ目を伏せる。
「でも……飴の即効性が足りないというのは、本当かもしれないと思ったんです」
言葉にしながら、小春は気づく。舌の上で弾ける刺激を思い返し、瓶の中の泡を見つめる。
(これを……菓子に閉じ込められたなら)
飴より早く、もっと瞬時に力を届けられるかもしれない。
九条の言葉が脳裏をよぎる。
『携帯できる霊草飴。発想としては優秀だよ。でも即効性がない』
悔しいけれど、あれは間違っていなかった。
朔夜が向き合っているのは、一瞬の遅れが命取りになる現場なのだ。
小春はそっと隣に座る朔夜を見上げた。
(私は……私にできることで朔夜様を守りたい。
もっと早く、確かな力を届けられるお菓子を)
小春の胸に生まれた新しい願いは、夕暮れの中で静かに形を帯び始めていた。
庭を渡る夕風が二人の間を優しく吹き抜けたとき、硝子瓶の中で、しゅわりと泡が弾けた。
