朔夜は九条をなぎ倒さんばかりの勢いで突進してきた。
九条が半歩身を引くほどの殺気だった。
だが朔夜は九条を一瞥しただけで、小春の隣で足を止めた。そして、奪い返すような力強さで片腕で小春を引き寄せた。
「あ……っ」
突然の衝撃に小春の身体が跳ねる。けれど、肩を抱く腕の熱は驚くほど心強く、ささくれ立ちそうだった小春の心を一瞬で包み込んだ。
朔夜と視線が合う。
その眼差しに含まれた深い慈しみだけで、小春の崩れかけていた心が持ち直していく。
そして、朔夜は小春の赤くなった目元を見た瞬間、何かが切れた。
次の瞬間、鋭く九条を睨み据えた。
「俺のものに手を出すなら、九条……お前をここで叩き斬る」
朔夜の低い声が、屋敷の芯まで震わせる。
だが九条も、表情から余裕を消しながらも怯まなかった。
「やだな。ちょっとした軽口だよ。本気にしないで」
九条は肩をすくめた。それでも朔夜の圧に気圧されることなく、背筋を伸ばしたまま立っている。
二人の視線が真っ向からぶつかり合う。
「……俺の懐から盗んだのは、お前か」
朔夜が冷たく問う。
九条は隠す様子もなく、後ろで手を組んだ。
「あの飴は毒だ。だから規則に則って処理しただけ」
「毒ではない。命を繋ぐ糧だ」
朔夜は即座に返す。
その朔夜の腕の中に包まれながら、小春は息を飲んだ。
この二人の間に流れる緊張は、肌がひりつくほど鋭く痛い。
「以後、この家のことに口を出すな」
朔夜の声が、地を這うような低音へと変わる。
しかし九条は引かなかった。
「でも、鈴白小春は排除すべき人物だよ。御神影にとってね」
その瞬間、九条の表情から愛想が消える。それは、異能検分官としての冷酷な眼差しだった。
小春の背筋がぞくりと震える。
だが同時に、小春を包む朔夜の腕に、ぐっと力がこもった。
「こいつは俺の管理下だ。……指一本、触れることは許さない」
そう言って朔夜は、小春を庇うようにさらに抱き寄せた。
朔夜の言葉が、小春の胸の奥へ真っ直ぐ落ちてくる。熱が込み上げ、涙が滲みそうになる。
(……私をこんなにも必要としてくれるのは、朔夜様だけ)
鈴白では居場所を奪われ、九条には毒だと言われた。それでも朔夜だけは、自分を側へ置こうとしてくれる。
(それなら私は、この方をずっと支えたい)
その時だった。静寂を破るように、すっと襖が開いた。
「水菓子をお持ちしましたよ。さあ、みなさん、どうぞ」
志乃がまるで何も見ていなかったかのような澄ました顔で盆を持って入ってきた。卓へ並べられたのは、先ほど収穫した夏蜜柑だった。切り分けられた果肉から、爽やかな香りがふわりと広がる。
その途端、九条の顔が露骨に引き攣った。
「うわ……僕、この匂いだめ」
口元と鼻を押さえ、そのまま踵を返す。
先ほどまでの重苦しい空気が、一瞬で崩れる。
だが廊下へ出る直前、九条はふと足を止めた。
「……諦めないよ。僕だって、御神影を助けたんだから」
振り返った横顔からは、いつもの軽薄さが少し消えている。それは、彼なりの狂気にも似た正義の片鱗だった。
九条はそれだけ言い残し、今度こそ屋敷を去っていった。
遠ざかる足音を聞きながら、小春はようやく息を吐く。
その時、朔夜が自分の腕を見下ろした。
「あ……」
まだ小春を抱き寄せたままだったことに、今さら気づいたらしい。朔夜はわずかに視線を泳がせると、気まずそうにそっと腕を解いた。
小春は、ふっと離れていく体温を名残惜しく目で追った。
朔夜の手が行き場を失ったように宙を彷徨い、誤魔化すように小さく咳払いをする。その様子に、小春の頬がふっと緩んだ。
気づけば、志乃の姿はいつの間にか消えていた。
二人きりになった居間に、夏蜜柑の香りだけが静かに残る。小春と朔夜は、再び視線を合わせた。
「九条の言葉は忘れろ。あれも、あいつなりの職務だ。お前が傷つく必要はどこにもない」
朔夜は言い聞かせるよう静かに言う。
けれど、小春の胸には九条の言葉がまだ棘のように残っていた。
『御神影の寿命を削っている』
もし、それが本当なら。
(私が……朔夜様を苦しめているの?)
不安が滲み、小春は縋るような思いで朔夜を見上げる。
朔夜はその震える瞳を見て、すべて察したようだった。
「お前のおかげで、俺は生きていられる」
そう言って、朔夜の手がそっと小春の頭へ伸びた。
大きな掌が、小春の髪を慈しむように撫でる。
胸の奥がじんわりと熱くなった。
誰かに必要とされることが、こんなにも温かいなんて知らなかった。
小春は、はにかむように微笑む。
「私は、何度でも朔夜様を人間へ戻します……ずっと、そばでお支えします」
朔夜の瞳がわずかに和らいだ。
「小春……お前は本当に、心強いな」
その声は驚くほど深く優しさに満ちていた。
見つめられるだけで胸がいっぱいになる。
けれど、九条の言葉は胸の奥から消えてくれなかった。
それでも──。
『お前のおかげで、俺は生きていられる』
朔夜がくれた言葉の熱が、その痛みを優しく溶かしていく。
今の小春には、その温もりこそがすべてだった。
小春はそっと目を伏せる。
夏蜜柑の甘酸っぱい香りが、静かに二人を包んでいた。
