「こうして小春様とお出かけできるなんて、心が弾みます」
志乃は籠を右肘にかけ、嬉しそうに笑った。隣には同じように籠を抱えた小春が並んで歩いている。
今日は二人で近所の商店街へ買い出しに来ていた。
「重い荷物は私が持ちますから、遠慮なく仰ってくださいね」
「ありがとうございます。まずはお菓子を──あっ」
言いかけて、志乃は足を止めた。
「……もう、買わなくてよかったんでした。小春様のお菓子がありますものね」
くすくすと肩を揺らした。
「最近は本当に助かっているの。朔夜様も前よりずっと落ち着いていらっしゃるし」
その言葉に、小春は思わず足元へ視線を落とした。胸の奥がくすぐったいように温かくなる。
「私こそ……役に立てて嬉しいんです」
籠の持ち手を握る指先に自然と力がこもった。
「私のお菓子を美味しいと言ってくださったの……朔夜様が初めてでしたから」
ぽつりと零すと、志乃はふっと目を細める。
「あら。もう、お互いなしではいられないのね」
「し、志乃さん……!」
見透かされた気がして、小春は慌てたように顔を伏せた。耳まで熱くなっているのが自分でもわかる。
その後も二人は野菜や魚、調味料を買い込みながら商店街を歩いた。
「あら……」
帰り際、志乃が呉服屋の前で足を止めた。春色の反物を眺めながら少し困ったように笑う。
「小春様、少しだけ見てもよろしいかしら」
「はい。私はここで待っています」
志乃が店の中へ入っていく。
その時、小春の視線が隣の菓子屋へ向いた。
軒先に置かれた氷桶の中で、青緑の硝子瓶が細かな泡を立てていた。
(……綺麗だな)
小春は思わず一歩、近づく。
「気になるかい?」
店先から顔を出したのは店主だった。彼は氷桶から一本取り上げた。
「ラムネだよ。しゅわっとして美味いんだよ」
「しゅわっと……?」
小春が首を傾げると、店主は愉快そうに笑った。
「言葉では説明しづらいんだよね。飲めば分かるさ」
その瞬間、ふと朔夜の顔が浮かぶ。珍しそうに瓶を見つめて、一口飲んで。予想外の刺激に少しだけ目を見開く。そんな姿を想像してしまい、小春は思わず小さく笑った。
「……二本、ください」
「毎度あり」
受け取った瓶は、掌が冷えるほどひんやりとしていた。
その時だった。
菓子屋から大きな袋を抱えた男が出てきた。
ぶつかりそうになり、小春は慌てて顔を上げた。
「……源蔵さんっ!」
それは鈴白の菓子職人だった。小春と目が合った瞬間、源蔵の顔つきが一瞬で険しくなる。
「小春様……なぜここに」
抱えている袋の中身がこの店の商品だと気づいた瞬間、小春の胸がざわつく。
「それ……どうするんですか?」
源蔵は反射的に袋を抱え込んだ。
「……全部、小春様のせいですよ」
「え……?」
「公爵家のお茶会で鈴白の大福が不評でした。味が落ちた責任は私だと主人に叱責されました!」
(私のせい?)
「あんたがいなくなって、餡が死んだんだ……!」
小春の喉が詰まる。
(……違う。私がいないからじゃないわ。小豆たちを乱暴に扱っているから……!)
「不味い菓子を店頭に置くなと言われましてね。だから、こうするしかなかったんです」
源蔵は顔を歪ませ唇を噛んだ。
鈴白の矜持を捨て他店の品で凌ごうとする姿に、小春の背中に冷たいものが走る。
「他店の商品を混ぜても、いつか露見してしまうわ。そうなったら──」
「他人事みたいに言わないでください!」
源蔵の鋭い声が飛ぶ。
「鈴白がどれだけ苦労しているかも知らずに。沙良様から聞きましたよ。家伝の製法を持ち出したそうですね」
「そんなものありません!」
美味しくなれと丁寧に時間をかけて作っただけだ。きっと、源蔵は工程の何かを疎かにしている。小春は思わず手をぎゅっと握った。
「小春様、返してください。鈴白の技を!」
その瞬間、手首を強く掴まれた。
「……っ」
骨が軋むような力だった。
「……鈴白がどうなってもいいんですか?」
小豆を煮ていた厨房の光景が脳裏をよぎる。あの場所が消えると思うと、胸がきゅっと痛んだ。
けれど──もう、あそこは自分の帰る場所ではない。
小春は震えそうになる声を押さえ込み、はっきりと言った。
「……手を、離してください」
源蔵が目を見開く。
「ご実家が困っているのに見捨てるんですか? なんて冷たい女だ!」
その言葉を聞いた瞬間、小春の頭の奥がカッと熱くなった。
(私は、都合のいい道具じゃない!
私は朔夜様のために──あの方を救うために生きると決めたんだ!)
体中を巡る恐怖を、朔夜から貰った『美味しい』という言葉が、一瞬で烈火のような怒りへと変える。
小春は自分の手首を掴む源蔵の手を、今度は自らの手で力強く掴み返し思いっきり振り払った。
「私はもう鈴白の人間ではありません。私の菓子は、救いたい人のために作るんです!」
思った以上に大きな声に、周囲の視線が二人に集まった。
「小春さん、どうかなさって?」
呉服屋から戻った志乃が駆け寄る。
源蔵は周囲を見回し、舌打ちすると足早に去っていった。
「小春さん、大丈夫? 顔色が悪いわ」
小春の震える背を志乃がやさしくさすった。
「……大丈夫です」
そう答えながらも心臓は激しく脈打っていた。
(私は御神影家を支える──それが、今の自分のお役目)
落ち着かない胸元に手を添え、小春は深く息を吸い吐いた。
「志乃さん、帰りましょう」
小春は努めて明るく言った。
御神影家へ戻ると、小春は屋敷の東側にある湧水場に向かった。ラムネをそこの水の中へ置いた。
「冷たい……ここならよく冷えるわ」
水面に映る自分を見た時、ふっと思い出してしまった。
『鈴白がどうなってもいいのか。冷たい女だ』
源蔵の声が頭の奥にこびりついて離れない。
「私が……悪いの?」
不安が込み上げ、小春は花壇へ駆け出した。
(精霊さん。私はどうしたらよかったの?)
けれど返事はない。今朝も声を掛ければ、すぐに返してくれていたのに。
花壇は不自然なほど静かだった。
(お願い、答えて! どうしたの?)
精霊たちの様子がおかしいとわかると、小春は一気に不安が押し寄せた。
頭の奥に雑音混じりの声が流れ込む。
『……小春……もど……なく……』
「なに……?」
ノイズが強くなる。
「どうしたの!? 聞こえない!」
榊の前へ駆け寄り、必死に集中する。
『……保て……自分……』
かすかな声が届いた。
小春ははっと息を呑む。
(自分を保て……)
不安に呑まれると精霊の声が聞こえなくなる。
(源蔵さんの言葉に振り回されちゃいけない!)
小春は胸に手を重ね、ゆっくり息を吸って吐く。これを何度も繰り返した。
すると、ざわついていた胸が少しずつ静かになっていく。
「……もう大丈夫……私は、私だもの」
震えていた呼吸がようやく落ち着いていく。
誰かに認められなくても。
鈴白に必要とされなくても。
(朔夜様は私の菓子を美味しいと言ってくれたもの)
その事実が小春の心をゆっくり支えていた。
『よかったー!』
『小春は自分の心も大事にしないとね』
草花たちの声が今度ははっきり聞こえる。
小春はほっと肩の力を抜いた。
「……うん。私、自分を好きになれるように頑張るわ」
その言葉に応えるように、花壇の草花たちが風に揺れた。
