明治中期、東京は急速な近代化に飲まれていた。
鉄道が走り、赤レンガの建物が並ぶ。
人々は豊かさを求め、競い合うように生きていた。
だがその頃から、人の「祈り」は少しずつ形を変えていく。
誰かのための願いではなく、自分のためだけの「執着」へ。
行き場を失った欲や苦しみは、見えない淀みとなり土地に溜まっていった。
本来なら地脈に流れ、自然に浄化されるはずのもの。
だが近代化による開発は、その流れさえ断ち切ってしまった。
逃げ場を失った淀みは、その場に溜まり、やがて腐る。
――それが、『穢れ』。
穢れは瘴気を生み、人の心と身体を蝕む。
不安に呑まれ、眠れなくなり、正気を失う者もいた。
時には、集落ごと滅びた村さえあった。
この脅威に対し、明治政府は内務省に『霊災対策課』を設置した。
そして、その裏で動く秘密組織があった。
穢れを封じ、瘴気を鎮める者たち――それが、鎮定局。
近代化する東京の裏側では、今日も誰かが、人知れず穢れと戦っている。
その戦いが、のちに一人の少女が紡ぐ『奇跡の菓子』によって救われることを、まだ誰も知らない。
※※
満開の桜が風に乗って舞い散る帝都の路地裏に、老舗菓子「鈴白屋」は店を構えていた。表通りから一本入ったその場所は、かつては甘い香りに人が集い、行列ができるほどの賑わいを見せていたという。だが今では、看板の塗りは剥げ、軒先の木もところどころ黒ずみ、長く続いた店の衰えを隠しきれていなかった。
「……うん、いい香り」
店の奥にある厨房で、小春は小さく息をついた。
鈴白屋の長女、鈴白小春は大きな鍋の前に立っている。鍋の中では、小豆が白い湯気を立てながら、ことことと静かに煮えていた。小春は毎日、家族が眠る早朝から起き出して、この作業に取りかかる。
慣れた手つきで木杓子を動かすたび、たすき掛けにした着物の袖がゆらりと揺れる。着物はもとは淡い色だったが、長年の水仕事で色はくすみ、袖口には何度も繕った跡が残っていた。
大量の小豆を水で洗い、火にかけ、焦がさぬよう絶えず様子を見ながら煮続ける。単調で根気のいる作業だが、小春は一度も手を抜いたことがなかった。
鍋の前に立ち続けるその姿は、まるでそれが自分に課された唯一の役目であると理解しているかのようだった。
実際、小春に許されているのはこの下準備だけである。店に並ぶ菓子の仕上げに関わることは許されていない。それどころか、商品に触れること自体、もう何年も前から禁じられていた。
それでもなお、小春はこの時間を嫌いではなかった。むしろ、ほかのどの時間よりも心が安らぐひとときだった。
「小豆さん、今日はいい色ね。きっとおいしくなるわ」
そう言って、木杓子でゆっくりと鍋底からすくい上げるように混ぜる。
すると、鍋の中で赤紫の光が小さく弾けた。
『あつい、あつい! でも気持ちいい!』
『小春、もっと混ぜてよ!』
ぱちぱちと、かすかな音を立てながら声が重なる。それは、小豆に宿る精霊たちの声だった。
小春には、それがはっきりと聞こえる。幼い頃から変わらず、食材に宿る小さな命たちの声を感じ取ることができた。彼女にとって菓子作りとは、ただの仕事ではなく、彼らと向き合い言葉を交わす時間でもあった。
「だめよ。強く混ぜたら、形が崩れてしまうでしょう。ゆっくり、ね」
やわらかく諭すように言うと、精霊たちは不満そうにしながらも、どこか楽しげに光を揺らした。
その穏やかな空気を唐突に切り裂く声が落ちる。
「また化け物みたいな真似をして!」
低く冷たい響きに、小春の肩がびくりと震えた。
振り向くと、戸口に母と妹の紗良が立っている。二人とも、まるで汚れたものでも見るかのような目で小春を見下ろしていた。
紗良は春の光を映したような明るい着物をまとっていた。その袖で口元を覆いながら、わざとらしく顔をしかめて近づいてくる。
「姉様、気味が悪いわ。誰もいないのに独り言なんて」
その声には露骨な嫌悪が滲んでいた。
「だからお父様に言われるのよ。疫病神だって」
小春は何も言い返さなかった。ただ視線を落とし、木杓子を握る手にわずかに力を込める。
母もまた、ため息をつくように口を開いた。
「紗良の言う通りよ。お前があの『呪いの菓子』なんてものを作ってから、この家の評判はガタ落ちだわ」
かつて、小春が考案した菓子を口にした客が体調を崩したことがあった。それ以来、『呪いの菓子』という噂が広まり、小春は店の表に立つことを禁じられている。
「さっさと奥へ下がりなさい。余計なことをされると困るのよ」
母はそう言い捨てると、興味を失ったように視線を外した。
「今日はお父様から嬉しいご報告があるそうよ」
紗良がくすくすと笑いながら続ける。
「姉様、よかったわね」
その声音の含みを、小春は理解していた。この家族が自分にとって都合のいい話を持ってくるはずがない。それでも逆らうことはできず、小春は黙って頭を下げ、厨房を後にした。
鉄道が走り、赤レンガの建物が並ぶ。
人々は豊かさを求め、競い合うように生きていた。
だがその頃から、人の「祈り」は少しずつ形を変えていく。
誰かのための願いではなく、自分のためだけの「執着」へ。
行き場を失った欲や苦しみは、見えない淀みとなり土地に溜まっていった。
本来なら地脈に流れ、自然に浄化されるはずのもの。
だが近代化による開発は、その流れさえ断ち切ってしまった。
逃げ場を失った淀みは、その場に溜まり、やがて腐る。
――それが、『穢れ』。
穢れは瘴気を生み、人の心と身体を蝕む。
不安に呑まれ、眠れなくなり、正気を失う者もいた。
時には、集落ごと滅びた村さえあった。
この脅威に対し、明治政府は内務省に『霊災対策課』を設置した。
そして、その裏で動く秘密組織があった。
穢れを封じ、瘴気を鎮める者たち――それが、鎮定局。
近代化する東京の裏側では、今日も誰かが、人知れず穢れと戦っている。
その戦いが、のちに一人の少女が紡ぐ『奇跡の菓子』によって救われることを、まだ誰も知らない。
※※
満開の桜が風に乗って舞い散る帝都の路地裏に、老舗菓子「鈴白屋」は店を構えていた。表通りから一本入ったその場所は、かつては甘い香りに人が集い、行列ができるほどの賑わいを見せていたという。だが今では、看板の塗りは剥げ、軒先の木もところどころ黒ずみ、長く続いた店の衰えを隠しきれていなかった。
「……うん、いい香り」
店の奥にある厨房で、小春は小さく息をついた。
鈴白屋の長女、鈴白小春は大きな鍋の前に立っている。鍋の中では、小豆が白い湯気を立てながら、ことことと静かに煮えていた。小春は毎日、家族が眠る早朝から起き出して、この作業に取りかかる。
慣れた手つきで木杓子を動かすたび、たすき掛けにした着物の袖がゆらりと揺れる。着物はもとは淡い色だったが、長年の水仕事で色はくすみ、袖口には何度も繕った跡が残っていた。
大量の小豆を水で洗い、火にかけ、焦がさぬよう絶えず様子を見ながら煮続ける。単調で根気のいる作業だが、小春は一度も手を抜いたことがなかった。
鍋の前に立ち続けるその姿は、まるでそれが自分に課された唯一の役目であると理解しているかのようだった。
実際、小春に許されているのはこの下準備だけである。店に並ぶ菓子の仕上げに関わることは許されていない。それどころか、商品に触れること自体、もう何年も前から禁じられていた。
それでもなお、小春はこの時間を嫌いではなかった。むしろ、ほかのどの時間よりも心が安らぐひとときだった。
「小豆さん、今日はいい色ね。きっとおいしくなるわ」
そう言って、木杓子でゆっくりと鍋底からすくい上げるように混ぜる。
すると、鍋の中で赤紫の光が小さく弾けた。
『あつい、あつい! でも気持ちいい!』
『小春、もっと混ぜてよ!』
ぱちぱちと、かすかな音を立てながら声が重なる。それは、小豆に宿る精霊たちの声だった。
小春には、それがはっきりと聞こえる。幼い頃から変わらず、食材に宿る小さな命たちの声を感じ取ることができた。彼女にとって菓子作りとは、ただの仕事ではなく、彼らと向き合い言葉を交わす時間でもあった。
「だめよ。強く混ぜたら、形が崩れてしまうでしょう。ゆっくり、ね」
やわらかく諭すように言うと、精霊たちは不満そうにしながらも、どこか楽しげに光を揺らした。
その穏やかな空気を唐突に切り裂く声が落ちる。
「また化け物みたいな真似をして!」
低く冷たい響きに、小春の肩がびくりと震えた。
振り向くと、戸口に母と妹の紗良が立っている。二人とも、まるで汚れたものでも見るかのような目で小春を見下ろしていた。
紗良は春の光を映したような明るい着物をまとっていた。その袖で口元を覆いながら、わざとらしく顔をしかめて近づいてくる。
「姉様、気味が悪いわ。誰もいないのに独り言なんて」
その声には露骨な嫌悪が滲んでいた。
「だからお父様に言われるのよ。疫病神だって」
小春は何も言い返さなかった。ただ視線を落とし、木杓子を握る手にわずかに力を込める。
母もまた、ため息をつくように口を開いた。
「紗良の言う通りよ。お前があの『呪いの菓子』なんてものを作ってから、この家の評判はガタ落ちだわ」
かつて、小春が考案した菓子を口にした客が体調を崩したことがあった。それ以来、『呪いの菓子』という噂が広まり、小春は店の表に立つことを禁じられている。
「さっさと奥へ下がりなさい。余計なことをされると困るのよ」
母はそう言い捨てると、興味を失ったように視線を外した。
「今日はお父様から嬉しいご報告があるそうよ」
紗良がくすくすと笑いながら続ける。
「姉様、よかったわね」
その声音の含みを、小春は理解していた。この家族が自分にとって都合のいい話を持ってくるはずがない。それでも逆らうことはできず、小春は黙って頭を下げ、厨房を後にした。
