『明日行けそう?』
デートの前日、ユッキーさんからメッセージが来た。
わざわざ確認が来たということは、きっと光恵さんとの一件を気にしているんだろうな。
あんな出来事がありつつも、結局ユッキーさんからの連絡は嬉しい。明日のデートのことを想像して、胸がドキドキしてくる。
そうだ、悪いのは彼氏持ちの光恵さんの方だ。自分の浮気を棚上げして、私を非難するなんて。
あの人がちゃんとしてさえいれば、こんなことにはならなかったはずだ。
涙一つでユッキーさんの唇を手に入れた光恵さん。本当にズルい。彼女に対する嫉妬は、今も消えない。
でも。
――タナチューは、ユッキーと付き合ってるんだっけ?
――じゃあさ、ユッキーのことに口出しする権利ないよね
光恵さんに言われたことは正論だ。私はユッキーさんの何でもない。悔しさに唇を噛む。
とにかく、ユッキーさんに会おう。会って話をしよう。まずはそれからだ。
『はい。大丈夫です!』
私がそう送ると、ユッキーさんから親指を立てた猫のスタンプが送られてきた。
えへへ、遊園地以来のデートだ。そう思うと、やっぱり顔が緩んでしまう。
私は、夏に買った可愛い下着を引っ張り出した。きゃあ、もしかしたら、ついに明日は出番があるかも?
私はそんなことを楽観的に考えていた。
でも。
「あ……」
私の手が止まった。カレンダーを眺めて、ため息をついた。
*
ユッキーさんの指定したデート先は、映画館。
私は映画が好きだけど、わざわざ映画館で見た経験はほとんどない。久しぶりの大スクリーンで見る映画に、心が躍っている。
今日は私の方が後に着いた。
私たちの関係について話をしなきゃと思っていたのに、ユッキーさんに会ったら光恵さんへの怒りは薄れた。それ以上に、二人で過ごせる幸せの方が勝る。
ああ、私って本当に単純。お得意の猫なで声で挨拶する。
「お待たせしましたぁ」
「よし、もう時間だから、行こう。お手洗いだけ済ませておいで」
映画は上映時刻が決まっている。私は話をする暇を奪われた。
お客さんはまばらだった。公開してから少し日が経っているからかな。
私の席の左隣はユッキーさん。でも、座席がゆったりしていて、そこまで距離は近くない。ホッとしたような、ちょっと残念なような。
ユッキーさんは今日のアニメ映画の話をした。
「田中はアニメとか見る?」
「あんまり見ませんねぇ」
「俺も。でも、小林がめっちゃいいって言ってたから」
その情報は、私に若干の不安をもたらした。
コバさんはアニメ好きで知られている。というか、典型的なアニメオタクってやつ。学園祭の展示でも、自分の作品の横に関係のない美少女アニメキャラのアクリルスタンドを置こうとして、光恵さんと言い争っていた。
大丈夫かな。デート向きのアニメなのかな。
新作映画の予告が流れ始めた。その音の大きさに、思わずびっくりしてしまう。
ユッキーさんは小さく「大丈夫?」と声をかけてくれた。一緒にいるときのユッキーさんは、やっぱり優しい。それが嬉しくて、顔が熱い。
とても面白そうな予告がいくつか流れた後に、本編が始まった。
このアニメは、ジュブナイルストーリーだった。見知らぬ世界に飛ばされた少年少女が、力を合わせて元の世界に戻るという話。
どうやらこれは万人向けだ。子供っぽくもオタクっぽくもない。ロマンチックではなさそうだけど、デートには無難な選択かも。
すぐ隣にユッキーさんがいるせいか、余計なことを考えてしまう。スクリーンの中の女の子を見ながら、ああいう髪型もいいな、ユッキーさん、好みかな、なんて。
映画も中盤に差し掛かった。一人の少年の不審な振る舞いにより、一部の子が疑心暗鬼になってしまったところだ。
突然、私の左手の甲に何かが触れた。私は驚いて跳びはねそうになるのを辛うじて堪える。腕に鳥肌が立った。
見ると、ユッキーさんの手がこちらに伸び、細長い指が私の手の甲をなぞっていた。指先が円を描き、私と触れている点を熱くする。
私は完全に油断していた。心臓がバクバクと音を立てる。でも、やっぱり嫌じゃない。左手に全神経を集中させて、彼の熱を感じ取る。
——体に触られそうになったら断ること
うっかり、裕子の言葉を思い出してしまった。くそう、こんな時に。でも、手ぐらいなら? ダメか。うう。
私は少し逡巡してから、手のひらを上に向けた。彼の手を握る。
触られているんじゃない。私が触っているんだ。
だから、これは大丈夫。
手のひら同士が触れ合い、肌と肌の間がしっとりと湿り始める。心臓の鼓動がさらに速くなる。
すると細長い指が動き、私の指の間に絡んできた。これは、恋人繋ぎ!
二人の手がしっかりと繋がりあう。彼がねっとりとした息を吐いた気がした。心と体が結合し、一つになってしまったように錯覚する。私の体温はユッキーさんへ渡り、彼の体温は私の中に入り込む。
脳がとろけてしまい、もう映画どころではない。
絡んでいた彼の指が伸び、私の太ももをなぞりだした。そこで少し現実に帰ってきた私は、手首をひねって彼の手を包み込み、動きを封じる。
すみません、ユッキーさん。私もいつまでも主導権を握られっぱなしじゃないですよ。
しばらくすると、彼の手がスッと引っ込んだ。私は気になって横を向くと、ハッとした。
スクリーンを見据えたままのユッキーさんが、涙を流していた。体をよじってポケットからハンカチを取り出し、目を拭っている。
え、マジで? いつも飄々としていて明るいユッキーさんが、ぐすぐすと泣いてる。
映画は終盤。仲違いしていた子ども達が一致団結し、最後の敵に立ち向かっているところだ。
確かに感動的なシーンだけど。
私が手の接触に夢中になっている間、彼は真剣に映画を見ていたのだろうか。
彼の普段は見せない姿に少しだけときめきつつも、一人相撲をしていたような気がして途端にバカらしくなった。
もし、逆に泣いているのが私だったら。光恵さんのときのように、ユッキーさんは慰めつつキスをしてくれるんだろうか。
人前で見せる涙って、ズルいな。
すすり泣く音が、映画のBGMに紛れて聞こえてきた。
*
「ああいうのに弱いんだよ」
ユッキーさんは照れながら言った。
「子どもが頑張っているのを見ると、グッとくるんだよね」
私たちは近くのファストフード店にいた。
彼はポテトをほおばりながら映画の感想を述べる。相変わらずよく食べるな。
「田中はどうだった? 映画」
「面白かったですね」
多分そうだと思う。でも、深い感想を述べられるほど集中して見られなかった。
あなたの手のせいですよ。
それに対してユッキーさんは、映画の見どころと感想を順番にしゃべりだした。ちょっと真剣に見すぎじゃないかな。
話がひと段落したところで、私は切り出した。
「ユッキーさん」
私は彼の目を見た。
「私と一緒にいて、楽しかったですか?」
「え? うん、楽しかったよ。つまんなそうだった?」
「光恵さんならどうでしたか」
思いがけない名前に、彼の顔が少しだけ曇った。
「あいつは関係ないだろ」
「光恵さんなら手を握りましたか」
「ひっぱたかれるだろうね」
「じゃあ、泣いてたらキスしますか」
「……」
少しだけ黙ってしまった。
「場所とか、状況によるんじゃないかな」
ぶっきらぼうに答えて、ポテトを口に放り込んだ。
「やめてください」
私はそう言ってから、つい目を伏せてしまった。期待していたわけじゃないけど、キスしないよ、とは言わなかったな。
「こんなこと言う権利ないのはわかってます。でもやめてください」
「どうして、やめてほしいのかな」
彼はあっという間に会話の主導権を奪った。にこにこしながら私を見ている。
「言葉にして、伝えてよ」
やっぱりズルい。絶対わかってるくせに。私に全部言わせるつもりなんだ。
「あの……好き、です」
「へえ」
彼はにやりと笑った。
「めっちゃ嬉しい」
本当に嬉しそうだ。でも、状況は何ら変わっていない。
違う、これではダメだ。ちゃんと言葉で彼を縛らないと。
「あの……」
心臓の高鳴りが止まらない。
何かが終わってしまいそうで、口に出すのが怖い。
緊張しすぎてめまいがする。
さっきまでコーラを飲んでいたはずなのに、口の中がカラカラだ。
でも、これを言わないと。
「私と、付き合って、ください」
言った。言ってしまった。
その途端に、恐怖が私を包んだ。どうしよう。なんてことを。
すると、ユッキーさんの目が細くなり、口角が上がる。
「うん、いいよ」
え。
「じゃあ付き合おっか」
「いいんですか」
私は驚きを隠せない。あれだけ悩んだユッキーさんと、こんなに簡単に付き合える?
彼はまだニヤニヤしている。
「いいよ」
「私、こんなんですよ。光恵さんみたいにかっこよくないし、珠奈さんみたいに胸も大きくないですよ」
「じゃあやめる?」
本当にズルい。
「やめません」
「大丈夫。知ってるよ。田中はちっちゃくて可愛い」
本当に、本当に、ズルい。
彼の言葉をきっかけに、私の目の前が歪んだ。
私の目から涙が溢れていた。
涙だけじゃなかった。口から嗚咽が漏れる。
あっ、あっ、はあ、ユッ、はあ。
呼吸が荒くなって声にならない。
頭が真っ白になる。ユッキーさんはうろたえはじめた。
息を取り戻した私は、今度はおいおいと声を上げて泣き始める。
周りのお客さんは、何事かとこちらを見ているかもしれない。
「田中、落ち着いて」
少し慌てながらユッキーさんは言った。しかし一向に泣きやまない私。
すると、彼は私の手を取って店を出た。
「ちょっと場所を変えよう。田中が泣いているところを人に見せたくない。二人きりでゆっくり話せる場所に行こう」
そう早口に言うと、手を引いて歩き出した。
いつの間にか、人通りの少ない昼間の歓楽街を通り抜ける。もう涙は止まっていた。
着いた先の建物には、中学で習うような英単語が記されている。
——HOTEL
それは男女が愛し合うための建物だった。
「ごめんな、こんなところしか思いつかなくて」
ハッとしてから、私はしょんぼりしてうつむく。
「あの、ごめんなさい、今日はダメな日なんです」
よりによって、今日じゃなくてもいいのに。例の可愛いレースの下着だって、今日はクローゼットに置いてきた。
自分の体のタイミングの悪さに、罪悪感で胸が締め付けられる。
「体調は大丈夫?」
「平気です。私、軽いので」
また涙が出そうな私を、ユッキーさんは温かく気遣ってくれた。
「しなくてもいいよ。とりあえず二人でゆっくりしよう」
*
鏡に映った自分を見る。そこには小汚いパンダがいた。部屋に入るなり、ユッキーさんが私を洗面所に促した理由がわかった。
崩れた化粧を落としてから、大急ぎでアイライナーを引き直す。
洗面所を出ると、ユッキーさんはベッドに腰掛けてスマホを弄っていた。
「また可愛くなったね」
「本当にスミマセン……」
私はペットボトルの水を受け取り、ちびちびと飲んだ。
大泣きするし、顔は汚いし、エッチはできないし。さっきから迷惑ばかりかけてる。嫌われてないかな。
ユッキーさんは、自分の隣をポンポンと軽く叩いた。私はそれに促されて、彼の隣にちょこんと座る。
まだ緊張していて、私は自分の膝を見つめる。
「もう落ち着いた?」
「はい……」
「本当に体調は平気?」
「はい、ピンピンしてます」
「じゃあ、抱きしめてもいい? じゃあってのも変だけど」
思わず体がこわばる。こういうことを望んでいたはずなのに、いざその時が来ると体は思うように動かない。
彼の呼吸する音が横から聞こえる。
「嫌ならやめるよ」
まただ。こちらがいいと言わないと、彼はすぐに一歩引いてしまう。
「嫌じゃないです」
これは了承のつもり。抱きしめてください、とストレートに言えるほど、私は図太くない。
意図が伝わったのか、彼の腕は私の肩と腰を抱いた。久々の抱擁に、体中が熱くなる。
彼の手が私の顎に添えられる。二人の顔が向き合い、目と目が合う。
ああ。
私たちの関係性には名前が付いた。
だからもう、誰も私たちに文句を付けられない。裕子も、光恵さんも。
「田中、目を閉じて」
私は言われるがままに目を閉じる。
まだ私は田中か——そんな考えが一瞬頭をよぎったけど、唇が食まれた瞬間に全身を電撃で撃たれて、どうでもよくなった。
*
私は少し迷ったあげく、重なった二人の手の写真をSNSへ投稿した。
『今日の映画は最高でした』と添えて。
後日、「これはベッドの上で撮ったな!」って裕子に吠えられちゃった。
もう付き合っているから、と浮かれる私に、裕子は「本当に?」と何度も確認してきた。
まったく、わかってないな。私はもう、彼の特別なのに。
デートの前日、ユッキーさんからメッセージが来た。
わざわざ確認が来たということは、きっと光恵さんとの一件を気にしているんだろうな。
あんな出来事がありつつも、結局ユッキーさんからの連絡は嬉しい。明日のデートのことを想像して、胸がドキドキしてくる。
そうだ、悪いのは彼氏持ちの光恵さんの方だ。自分の浮気を棚上げして、私を非難するなんて。
あの人がちゃんとしてさえいれば、こんなことにはならなかったはずだ。
涙一つでユッキーさんの唇を手に入れた光恵さん。本当にズルい。彼女に対する嫉妬は、今も消えない。
でも。
――タナチューは、ユッキーと付き合ってるんだっけ?
――じゃあさ、ユッキーのことに口出しする権利ないよね
光恵さんに言われたことは正論だ。私はユッキーさんの何でもない。悔しさに唇を噛む。
とにかく、ユッキーさんに会おう。会って話をしよう。まずはそれからだ。
『はい。大丈夫です!』
私がそう送ると、ユッキーさんから親指を立てた猫のスタンプが送られてきた。
えへへ、遊園地以来のデートだ。そう思うと、やっぱり顔が緩んでしまう。
私は、夏に買った可愛い下着を引っ張り出した。きゃあ、もしかしたら、ついに明日は出番があるかも?
私はそんなことを楽観的に考えていた。
でも。
「あ……」
私の手が止まった。カレンダーを眺めて、ため息をついた。
*
ユッキーさんの指定したデート先は、映画館。
私は映画が好きだけど、わざわざ映画館で見た経験はほとんどない。久しぶりの大スクリーンで見る映画に、心が躍っている。
今日は私の方が後に着いた。
私たちの関係について話をしなきゃと思っていたのに、ユッキーさんに会ったら光恵さんへの怒りは薄れた。それ以上に、二人で過ごせる幸せの方が勝る。
ああ、私って本当に単純。お得意の猫なで声で挨拶する。
「お待たせしましたぁ」
「よし、もう時間だから、行こう。お手洗いだけ済ませておいで」
映画は上映時刻が決まっている。私は話をする暇を奪われた。
お客さんはまばらだった。公開してから少し日が経っているからかな。
私の席の左隣はユッキーさん。でも、座席がゆったりしていて、そこまで距離は近くない。ホッとしたような、ちょっと残念なような。
ユッキーさんは今日のアニメ映画の話をした。
「田中はアニメとか見る?」
「あんまり見ませんねぇ」
「俺も。でも、小林がめっちゃいいって言ってたから」
その情報は、私に若干の不安をもたらした。
コバさんはアニメ好きで知られている。というか、典型的なアニメオタクってやつ。学園祭の展示でも、自分の作品の横に関係のない美少女アニメキャラのアクリルスタンドを置こうとして、光恵さんと言い争っていた。
大丈夫かな。デート向きのアニメなのかな。
新作映画の予告が流れ始めた。その音の大きさに、思わずびっくりしてしまう。
ユッキーさんは小さく「大丈夫?」と声をかけてくれた。一緒にいるときのユッキーさんは、やっぱり優しい。それが嬉しくて、顔が熱い。
とても面白そうな予告がいくつか流れた後に、本編が始まった。
このアニメは、ジュブナイルストーリーだった。見知らぬ世界に飛ばされた少年少女が、力を合わせて元の世界に戻るという話。
どうやらこれは万人向けだ。子供っぽくもオタクっぽくもない。ロマンチックではなさそうだけど、デートには無難な選択かも。
すぐ隣にユッキーさんがいるせいか、余計なことを考えてしまう。スクリーンの中の女の子を見ながら、ああいう髪型もいいな、ユッキーさん、好みかな、なんて。
映画も中盤に差し掛かった。一人の少年の不審な振る舞いにより、一部の子が疑心暗鬼になってしまったところだ。
突然、私の左手の甲に何かが触れた。私は驚いて跳びはねそうになるのを辛うじて堪える。腕に鳥肌が立った。
見ると、ユッキーさんの手がこちらに伸び、細長い指が私の手の甲をなぞっていた。指先が円を描き、私と触れている点を熱くする。
私は完全に油断していた。心臓がバクバクと音を立てる。でも、やっぱり嫌じゃない。左手に全神経を集中させて、彼の熱を感じ取る。
——体に触られそうになったら断ること
うっかり、裕子の言葉を思い出してしまった。くそう、こんな時に。でも、手ぐらいなら? ダメか。うう。
私は少し逡巡してから、手のひらを上に向けた。彼の手を握る。
触られているんじゃない。私が触っているんだ。
だから、これは大丈夫。
手のひら同士が触れ合い、肌と肌の間がしっとりと湿り始める。心臓の鼓動がさらに速くなる。
すると細長い指が動き、私の指の間に絡んできた。これは、恋人繋ぎ!
二人の手がしっかりと繋がりあう。彼がねっとりとした息を吐いた気がした。心と体が結合し、一つになってしまったように錯覚する。私の体温はユッキーさんへ渡り、彼の体温は私の中に入り込む。
脳がとろけてしまい、もう映画どころではない。
絡んでいた彼の指が伸び、私の太ももをなぞりだした。そこで少し現実に帰ってきた私は、手首をひねって彼の手を包み込み、動きを封じる。
すみません、ユッキーさん。私もいつまでも主導権を握られっぱなしじゃないですよ。
しばらくすると、彼の手がスッと引っ込んだ。私は気になって横を向くと、ハッとした。
スクリーンを見据えたままのユッキーさんが、涙を流していた。体をよじってポケットからハンカチを取り出し、目を拭っている。
え、マジで? いつも飄々としていて明るいユッキーさんが、ぐすぐすと泣いてる。
映画は終盤。仲違いしていた子ども達が一致団結し、最後の敵に立ち向かっているところだ。
確かに感動的なシーンだけど。
私が手の接触に夢中になっている間、彼は真剣に映画を見ていたのだろうか。
彼の普段は見せない姿に少しだけときめきつつも、一人相撲をしていたような気がして途端にバカらしくなった。
もし、逆に泣いているのが私だったら。光恵さんのときのように、ユッキーさんは慰めつつキスをしてくれるんだろうか。
人前で見せる涙って、ズルいな。
すすり泣く音が、映画のBGMに紛れて聞こえてきた。
*
「ああいうのに弱いんだよ」
ユッキーさんは照れながら言った。
「子どもが頑張っているのを見ると、グッとくるんだよね」
私たちは近くのファストフード店にいた。
彼はポテトをほおばりながら映画の感想を述べる。相変わらずよく食べるな。
「田中はどうだった? 映画」
「面白かったですね」
多分そうだと思う。でも、深い感想を述べられるほど集中して見られなかった。
あなたの手のせいですよ。
それに対してユッキーさんは、映画の見どころと感想を順番にしゃべりだした。ちょっと真剣に見すぎじゃないかな。
話がひと段落したところで、私は切り出した。
「ユッキーさん」
私は彼の目を見た。
「私と一緒にいて、楽しかったですか?」
「え? うん、楽しかったよ。つまんなそうだった?」
「光恵さんならどうでしたか」
思いがけない名前に、彼の顔が少しだけ曇った。
「あいつは関係ないだろ」
「光恵さんなら手を握りましたか」
「ひっぱたかれるだろうね」
「じゃあ、泣いてたらキスしますか」
「……」
少しだけ黙ってしまった。
「場所とか、状況によるんじゃないかな」
ぶっきらぼうに答えて、ポテトを口に放り込んだ。
「やめてください」
私はそう言ってから、つい目を伏せてしまった。期待していたわけじゃないけど、キスしないよ、とは言わなかったな。
「こんなこと言う権利ないのはわかってます。でもやめてください」
「どうして、やめてほしいのかな」
彼はあっという間に会話の主導権を奪った。にこにこしながら私を見ている。
「言葉にして、伝えてよ」
やっぱりズルい。絶対わかってるくせに。私に全部言わせるつもりなんだ。
「あの……好き、です」
「へえ」
彼はにやりと笑った。
「めっちゃ嬉しい」
本当に嬉しそうだ。でも、状況は何ら変わっていない。
違う、これではダメだ。ちゃんと言葉で彼を縛らないと。
「あの……」
心臓の高鳴りが止まらない。
何かが終わってしまいそうで、口に出すのが怖い。
緊張しすぎてめまいがする。
さっきまでコーラを飲んでいたはずなのに、口の中がカラカラだ。
でも、これを言わないと。
「私と、付き合って、ください」
言った。言ってしまった。
その途端に、恐怖が私を包んだ。どうしよう。なんてことを。
すると、ユッキーさんの目が細くなり、口角が上がる。
「うん、いいよ」
え。
「じゃあ付き合おっか」
「いいんですか」
私は驚きを隠せない。あれだけ悩んだユッキーさんと、こんなに簡単に付き合える?
彼はまだニヤニヤしている。
「いいよ」
「私、こんなんですよ。光恵さんみたいにかっこよくないし、珠奈さんみたいに胸も大きくないですよ」
「じゃあやめる?」
本当にズルい。
「やめません」
「大丈夫。知ってるよ。田中はちっちゃくて可愛い」
本当に、本当に、ズルい。
彼の言葉をきっかけに、私の目の前が歪んだ。
私の目から涙が溢れていた。
涙だけじゃなかった。口から嗚咽が漏れる。
あっ、あっ、はあ、ユッ、はあ。
呼吸が荒くなって声にならない。
頭が真っ白になる。ユッキーさんはうろたえはじめた。
息を取り戻した私は、今度はおいおいと声を上げて泣き始める。
周りのお客さんは、何事かとこちらを見ているかもしれない。
「田中、落ち着いて」
少し慌てながらユッキーさんは言った。しかし一向に泣きやまない私。
すると、彼は私の手を取って店を出た。
「ちょっと場所を変えよう。田中が泣いているところを人に見せたくない。二人きりでゆっくり話せる場所に行こう」
そう早口に言うと、手を引いて歩き出した。
いつの間にか、人通りの少ない昼間の歓楽街を通り抜ける。もう涙は止まっていた。
着いた先の建物には、中学で習うような英単語が記されている。
——HOTEL
それは男女が愛し合うための建物だった。
「ごめんな、こんなところしか思いつかなくて」
ハッとしてから、私はしょんぼりしてうつむく。
「あの、ごめんなさい、今日はダメな日なんです」
よりによって、今日じゃなくてもいいのに。例の可愛いレースの下着だって、今日はクローゼットに置いてきた。
自分の体のタイミングの悪さに、罪悪感で胸が締め付けられる。
「体調は大丈夫?」
「平気です。私、軽いので」
また涙が出そうな私を、ユッキーさんは温かく気遣ってくれた。
「しなくてもいいよ。とりあえず二人でゆっくりしよう」
*
鏡に映った自分を見る。そこには小汚いパンダがいた。部屋に入るなり、ユッキーさんが私を洗面所に促した理由がわかった。
崩れた化粧を落としてから、大急ぎでアイライナーを引き直す。
洗面所を出ると、ユッキーさんはベッドに腰掛けてスマホを弄っていた。
「また可愛くなったね」
「本当にスミマセン……」
私はペットボトルの水を受け取り、ちびちびと飲んだ。
大泣きするし、顔は汚いし、エッチはできないし。さっきから迷惑ばかりかけてる。嫌われてないかな。
ユッキーさんは、自分の隣をポンポンと軽く叩いた。私はそれに促されて、彼の隣にちょこんと座る。
まだ緊張していて、私は自分の膝を見つめる。
「もう落ち着いた?」
「はい……」
「本当に体調は平気?」
「はい、ピンピンしてます」
「じゃあ、抱きしめてもいい? じゃあってのも変だけど」
思わず体がこわばる。こういうことを望んでいたはずなのに、いざその時が来ると体は思うように動かない。
彼の呼吸する音が横から聞こえる。
「嫌ならやめるよ」
まただ。こちらがいいと言わないと、彼はすぐに一歩引いてしまう。
「嫌じゃないです」
これは了承のつもり。抱きしめてください、とストレートに言えるほど、私は図太くない。
意図が伝わったのか、彼の腕は私の肩と腰を抱いた。久々の抱擁に、体中が熱くなる。
彼の手が私の顎に添えられる。二人の顔が向き合い、目と目が合う。
ああ。
私たちの関係性には名前が付いた。
だからもう、誰も私たちに文句を付けられない。裕子も、光恵さんも。
「田中、目を閉じて」
私は言われるがままに目を閉じる。
まだ私は田中か——そんな考えが一瞬頭をよぎったけど、唇が食まれた瞬間に全身を電撃で撃たれて、どうでもよくなった。
*
私は少し迷ったあげく、重なった二人の手の写真をSNSへ投稿した。
『今日の映画は最高でした』と添えて。
後日、「これはベッドの上で撮ったな!」って裕子に吠えられちゃった。
もう付き合っているから、と浮かれる私に、裕子は「本当に?」と何度も確認してきた。
まったく、わかってないな。私はもう、彼の特別なのに。



