「彼氏って、いいよねぇ……」
私は先日の水族館の思い出に浸りながら、うっとりと呟いた。
ひんやりとした館内。爽やかな香水の香り。ユッキーさんの綺麗な顔。今でも思い出すたびに頭がぽわんとなっちゃう。
大学の講義の空きコマ。昼時ではない校内のカフェテリアは、学生の姿はまばら。
私は学部の友人である笹島裕子と時間をつぶしていたところだった。
「おお? タナチュー、まさか彼氏ができたか?」
裕子はスマホを伏せ、目を輝かせた。高校の頃から彼氏持ちだという裕子なら、この手の話は好んで聞いてくれるだろうと思っていた。
そうでなくても、裕子は私とユッキーさんを引き合わせてくれた存在、つまり恋のキューピッド。だから絶対に報告したいと思っていた。
裕子は学部およびサークルの同期だ。そのサークルは男子の方が多く、同期では裕子が唯一の女子。
先に加入したのは裕子で、同期に女子がいなくてつまらないことから、私を誘ってくれた。
逆に私にとっては、男子が多いサークルなら恋のチャンス。だから、お互いにウィン・ウィンだ。
そのサークルで、私はユッキーさんに出会った。
サークルの四年生はみんなかっこよかった。筋肉質なコバさん。知的な眼鏡の萩野さん。
その四年男子のグループの中で、背が高くて笑いの中心にいるユッキーさんは特に目立っていた。
「いやぁ、まだ付き合っているわけではないんだけど。デートに誘われて、行ってきたんだよねぇ」
私はくねくねしながら説明した。別にくねくねしたかったわけではないのだが、体が言うことを聞かなかった。
「おお〜、いいね~。相手は? 私の知ってる人?」
「うん、ユッキーさん。遊ぼうよって連絡が来て、水族館でデートしたの」
その名を口に出すだけで、あの綺麗な顔が思い出される。あなたのおかげだよ、裕子。
ところが、相手の名前を聞いた途端、恋のキューピッドの顔は曇りだした。
「ユッキーさん? 遊ぼうって?」
「そうなんだよ〜。まだあんまり話したことなかったんだけど、いいなあって思ってたから、連絡が来てびっくりしちゃったぁ」
私は両手を頬に添えたポーズで答える。体のくねくねは止まらない。
対する裕子は目を瞑り、天を仰いだ。
「うーん、ユッキーさんかあ……」
数秒の後、裕子はこちらを向き直し、真剣そうな顔で私の目を見た。
「あの人、気を付けた方がいいと思うよ」
「気を付ける? 何で?」
はて、どういうことだろう。私は頭の上にクエスチョンマークとユッキーさんの顔を浮かべる。ああ、綺麗な顔。
裕子はアイスティーの氷をぐるぐると混ぜながら語った。
「だって、サークルに入ったばかりで、まだあまり話したことのないタナチューを遊びに誘ったんでしょ? 私がサークルに入ったときも、同じようにユッキーさんから連絡が来たよ。でも、彼氏がいるからって断ったけど」
え。裕子も以前誘われていた? それは、私にとってかなりの衝撃だった。私だけが特別なわけじゃなかったんだ。
でも。私は冷静に考え直す。裕子は可愛い。先輩から言い寄られることもあるだろう。
まずユッキーさんは、先に知り合った裕子にアプローチするも、彼氏持ちで玉砕。その次に、後から知り合った私に声をかけたのだ。
つまり、裕子が振ってくれたおかげで、私にチャンスが巡ってきたってことだ。なあんだ、やっぱりキューピッドじゃん。
「ごめんね裕子。ユッキーさんを譲ってもらう形になって」
裕子は口をぽかんと開けた。
「ええ、何を言ってんの。譲ったつもりなんかないし、今はそんな話をしてないでしょ」
「ううん、裕子に彼氏がいたから、ユッキーさんが私を気にかけてくれるようになったんだよ」
サンキュー、裕子の彼氏。私は顔も名前も知らない彼氏に、心の中でいいね! を送った。
「あっそ、まあいいや。で、ユッキーさんとはその後どうなの?」
「でへへ、もうね、思い出すだけで胸がふわふわするっていうか、頭がぽーっとするっていうか」
私はまた彼のことを思い浮かべる。
——キスするような仕草をするんだ
小さな魚(名前は忘れた)を前にして、ユッキーさんはそう説明した。二人の顔が近づく。ヤバい、まさか、このまま……?
ところが、裕子の冷めた声は私の妄想を遮り、現実へ引き戻した。
「いや、違くて。連絡とか取ってるのかって話」
その言葉を聞いて、私はハッとした。
スマホのメッセージアプリを開く。そこには水族館へ行くための事務的なやり取りが記録されている。それ以降の会話はない。
「何も連絡は来てないや」
私は少ししょぼくれる。裕子も私のスマホの画面を見た。
「うーん、せめて『デートに誘ってくれて楽しかったです。ありがとうございました』くらいは送った方がよかったと思うよ。何となく、ユッキーさんは連絡がマメな感じじゃなさそうだから、メッセージを送りやすいタイミングはどんどん拾っていこう。今からでも送ってみれば? 遅くなっちゃってすみませんって」
さすがは共学出身の彼氏持ち。経験のない私には思いもよらなかったアドバイスをくれる。持つべきものは友だ。
私は助言に従い『遅くなってごめんなさい』『この間の水族館サイコーでした!』『ありがとうございました』とメッセージを送った。まだ既読は付かない。
どんな返信が来るだろう。私はスマホを胸に当て、まだ来ていない返信を想像しながら幸せを噛み締めた。
念のためにもう一度スマホを見たけど、まだ既読は付いていない。
裕子はアイスティーをすすりながら、当たり前だろ、という顔をしていた。
その日の夜、家のリビングでだらだらしていると、スマホが鳴った。画面には「雪谷淳」からのメッセージ通知。
ユッキーさんからの返信だ! 彼は本名でメッセージアプリを使っている。
私は小さくジャンプし、親の横を素早くすり抜けて自室へ飛び込む。ベッドの上で少し転げ回ってから、恐る恐るスマホをタップする。
送られてきたメッセージは、ピースサインをした猫のスタンプだった。細身の猫が、ゆるいイラストで描かれている。
ピース。それはきっと、喜びの証。
思わず、うふふ、と声が漏れる。その声は部屋の中に飛び散り、壁に吸い込まれて消えていった。
私は先日の水族館の思い出に浸りながら、うっとりと呟いた。
ひんやりとした館内。爽やかな香水の香り。ユッキーさんの綺麗な顔。今でも思い出すたびに頭がぽわんとなっちゃう。
大学の講義の空きコマ。昼時ではない校内のカフェテリアは、学生の姿はまばら。
私は学部の友人である笹島裕子と時間をつぶしていたところだった。
「おお? タナチュー、まさか彼氏ができたか?」
裕子はスマホを伏せ、目を輝かせた。高校の頃から彼氏持ちだという裕子なら、この手の話は好んで聞いてくれるだろうと思っていた。
そうでなくても、裕子は私とユッキーさんを引き合わせてくれた存在、つまり恋のキューピッド。だから絶対に報告したいと思っていた。
裕子は学部およびサークルの同期だ。そのサークルは男子の方が多く、同期では裕子が唯一の女子。
先に加入したのは裕子で、同期に女子がいなくてつまらないことから、私を誘ってくれた。
逆に私にとっては、男子が多いサークルなら恋のチャンス。だから、お互いにウィン・ウィンだ。
そのサークルで、私はユッキーさんに出会った。
サークルの四年生はみんなかっこよかった。筋肉質なコバさん。知的な眼鏡の萩野さん。
その四年男子のグループの中で、背が高くて笑いの中心にいるユッキーさんは特に目立っていた。
「いやぁ、まだ付き合っているわけではないんだけど。デートに誘われて、行ってきたんだよねぇ」
私はくねくねしながら説明した。別にくねくねしたかったわけではないのだが、体が言うことを聞かなかった。
「おお〜、いいね~。相手は? 私の知ってる人?」
「うん、ユッキーさん。遊ぼうよって連絡が来て、水族館でデートしたの」
その名を口に出すだけで、あの綺麗な顔が思い出される。あなたのおかげだよ、裕子。
ところが、相手の名前を聞いた途端、恋のキューピッドの顔は曇りだした。
「ユッキーさん? 遊ぼうって?」
「そうなんだよ〜。まだあんまり話したことなかったんだけど、いいなあって思ってたから、連絡が来てびっくりしちゃったぁ」
私は両手を頬に添えたポーズで答える。体のくねくねは止まらない。
対する裕子は目を瞑り、天を仰いだ。
「うーん、ユッキーさんかあ……」
数秒の後、裕子はこちらを向き直し、真剣そうな顔で私の目を見た。
「あの人、気を付けた方がいいと思うよ」
「気を付ける? 何で?」
はて、どういうことだろう。私は頭の上にクエスチョンマークとユッキーさんの顔を浮かべる。ああ、綺麗な顔。
裕子はアイスティーの氷をぐるぐると混ぜながら語った。
「だって、サークルに入ったばかりで、まだあまり話したことのないタナチューを遊びに誘ったんでしょ? 私がサークルに入ったときも、同じようにユッキーさんから連絡が来たよ。でも、彼氏がいるからって断ったけど」
え。裕子も以前誘われていた? それは、私にとってかなりの衝撃だった。私だけが特別なわけじゃなかったんだ。
でも。私は冷静に考え直す。裕子は可愛い。先輩から言い寄られることもあるだろう。
まずユッキーさんは、先に知り合った裕子にアプローチするも、彼氏持ちで玉砕。その次に、後から知り合った私に声をかけたのだ。
つまり、裕子が振ってくれたおかげで、私にチャンスが巡ってきたってことだ。なあんだ、やっぱりキューピッドじゃん。
「ごめんね裕子。ユッキーさんを譲ってもらう形になって」
裕子は口をぽかんと開けた。
「ええ、何を言ってんの。譲ったつもりなんかないし、今はそんな話をしてないでしょ」
「ううん、裕子に彼氏がいたから、ユッキーさんが私を気にかけてくれるようになったんだよ」
サンキュー、裕子の彼氏。私は顔も名前も知らない彼氏に、心の中でいいね! を送った。
「あっそ、まあいいや。で、ユッキーさんとはその後どうなの?」
「でへへ、もうね、思い出すだけで胸がふわふわするっていうか、頭がぽーっとするっていうか」
私はまた彼のことを思い浮かべる。
——キスするような仕草をするんだ
小さな魚(名前は忘れた)を前にして、ユッキーさんはそう説明した。二人の顔が近づく。ヤバい、まさか、このまま……?
ところが、裕子の冷めた声は私の妄想を遮り、現実へ引き戻した。
「いや、違くて。連絡とか取ってるのかって話」
その言葉を聞いて、私はハッとした。
スマホのメッセージアプリを開く。そこには水族館へ行くための事務的なやり取りが記録されている。それ以降の会話はない。
「何も連絡は来てないや」
私は少ししょぼくれる。裕子も私のスマホの画面を見た。
「うーん、せめて『デートに誘ってくれて楽しかったです。ありがとうございました』くらいは送った方がよかったと思うよ。何となく、ユッキーさんは連絡がマメな感じじゃなさそうだから、メッセージを送りやすいタイミングはどんどん拾っていこう。今からでも送ってみれば? 遅くなっちゃってすみませんって」
さすがは共学出身の彼氏持ち。経験のない私には思いもよらなかったアドバイスをくれる。持つべきものは友だ。
私は助言に従い『遅くなってごめんなさい』『この間の水族館サイコーでした!』『ありがとうございました』とメッセージを送った。まだ既読は付かない。
どんな返信が来るだろう。私はスマホを胸に当て、まだ来ていない返信を想像しながら幸せを噛み締めた。
念のためにもう一度スマホを見たけど、まだ既読は付いていない。
裕子はアイスティーをすすりながら、当たり前だろ、という顔をしていた。
その日の夜、家のリビングでだらだらしていると、スマホが鳴った。画面には「雪谷淳」からのメッセージ通知。
ユッキーさんからの返信だ! 彼は本名でメッセージアプリを使っている。
私は小さくジャンプし、親の横を素早くすり抜けて自室へ飛び込む。ベッドの上で少し転げ回ってから、恐る恐るスマホをタップする。
送られてきたメッセージは、ピースサインをした猫のスタンプだった。細身の猫が、ゆるいイラストで描かれている。
ピース。それはきっと、喜びの証。
思わず、うふふ、と声が漏れる。その声は部屋の中に飛び散り、壁に吸い込まれて消えていった。

