二月の太陽は明るいのに、どこか頼りない。日差しは強くなってきても、空気だけは頑なに冬のままだ。
キャノンディーを牽引してきた四年生たちも、とうとう卒業してしまう。あと数ヶ月で彼らは大学生ではなくなり、社会人という新たなステージに立つ。
光恵さんは商社。コバさんは保険会社。萩野さんは家電メーカー。
もちろんユッキーさんも。彼はアパレルメーカーに内定している。
「最初は本社で研修だから大阪だよ。嫌だなあ」
あろうことか、地方の企業に入社してしまう。交際前に既に内定していたから、仕方がないけど。
今のユッキーさんの性格だと、放っておくと風船のように飛んで行ってしまいそうで怖い。
時々直接会って繋ぎ止めないと。こっちから行くか。いや、社会人で給料が入るんだから、できれば向こうから来てほしいな……。
そんな私の心配をよそに、大学では卒業に向けて浮かれた空気が漂っている。
「乾杯!」
今日は追いコン。といっても、キャノンディーのそれは、普段の飲み会に毛が生えたようなものだけど。場所はいつもの居酒屋だし。
ユッキーさんとの席は遠い。私たちに限らず、飲み会ではサークル内カップルが近くに座らないという暗黙の了解がある。
まあ、理解はできる。飲み会でカップルがいちゃつく様子を好まないメンバーもいるだろう。
今回は追いコンということで、卒業生に挨拶回りをするメンバーが多い。
挨拶に来た後輩女子に、いつものスマイルを向けるユッキーさん。何の話をしているのかわからないけど、時々穏やかに笑う。
ああ、いつもの顔だ。長い腕で私を捉えている時と、同じ顔。それを私以外の人に。
ウーロン茶しか飲んでいないのに、胃がムカムカしてくる。
「はい、皆さん注目! 恒例のクロスハンドに行きたいと思います!」
幹事が声を上げ、企画の開始を告げる。
来た。クロスハンド。キャノンディーの追いコンの恒例行事。一年生の私は初めて見る。
卒業生が他のメンバーを指名し、二人で腕をクロスさせて乾杯をするという企画だ。お世話になった人や、特別仲の良かった人を指定して、感謝を述べたりするらしい。
「ユッキーさんは誰を指名するんですか?」
数日前、私は事前に質問していた。当然私が指名されると思って。
「悪いけど、宙は指名しないよ。あの場で恋人の名前を出すやつは、まずいないだろうね」
そうなんだ。私はがっかりする。でも確かに、カップルが腕をクロスさせる姿は、見せつけるようで良くないかも。
「まだ考え中。当日までには決めるよ」
コバさんは萩野さんを指名した。四年間の友情を語ってから、クロスハンドで乾杯。そして、男同士の熱い抱擁が交わされ、場は大変盛り上がった。
長年の思いが伝わり、私も釣られて気分が高揚してくる。
次の萩野さんは、三年生の男子を指名した。どっと笑いが起こる。あれれ、コバさんの片想いだったのか……。
「次はユッキーさん!」
グラスを片手に、ユッキーさんが立ち上がった。
いったい誰を指名するんだろう。私ではない誰かを考えてドキドキする。せめて、女子ではありませんように。
「はいどうも。えー……」
周囲を見渡してから、語り始めた。
「俺が一年生の時」
昔話が始まった。あまり聞いたことのない彼の過去の話に、私はじっくりと耳を傾ける。
「まあ、いろいろと、相談に乗ってもらった人がいまして。それからもずっとお世話になってます」
なんだ、具体的な話がないじゃん。
でも、今の話からすると、相手はきっと四年生だな。
「我らが団長、後藤光恵」
は?
わあ! と場が沸く。
手で口を押さえた光恵さんが立ち上がる。驚きと喜びの混ざった顔で、ユッキーさんへ歩み寄る。
それはないでしょ。よりにもよって、光恵さん?
笑顔のユッキーさん。照れた顔の光恵さん。
二人は再会した戦友の表情になり、向かい合った。
まるで、四年間の歴史が、二人の間で太い繋がりを生み出しているようだ。
みんなは、二人の間に男女の熱い友情を感じているだろう。
もしかしたら、あの二人自身も、それは友情だと思っているのかもしれない。
だけど私だけは知っている。部室での二人の密会を。
「後藤、今までありがとう」
「あはは、あの頃のあんたヤバかったもんね」
彼らにしかわからない話をしている。二人の世界だ。
二人はグラスを掲げた。
やめて。
二人の長い腕が絡まる。
やめて。
二人の顔が近づき、何かを囁きあっている。
やめて。
絆を確かめあうように、ゆっくりとグラスが飲み交わされた。
また場が沸く。拍手が起こる。
目の前の出来事が、部室で抱き合っていた二人の記憶と重なる。
あの日、ユッキーさんの長い腕は、光恵さんの腰を抱いていた。
——あんなやつのこと、何とも思わないよ
——なんか、拒めなくてね
もう何も思い出したくない。
居酒屋の喧騒が遠くなったように感じる。
私の心は今にも潰れてしまいそうだった。
なお、トリを務めた光恵さんは「誰か一人を選ぶなんてできない」と言って、メンバー全員を対象にした。八方美人の団長ムーブ。
当然クロスはできないので、全員で普通に乾杯をすることになった。なんで、私まで乾杯を。
でも、これでもしユッキーさんを指名していたら、間違いなく殴りかかっていただろう。だから、まだマシな方だったのかもしれない。
*
「二次会行く人!」
幹事が参加者を募る。
卒業前の最後のイベントということで、四年生の多くは二次会へ参加する。
でも、私はユッキーさんを引き止めた。
「行かないでください」
「え?」
「今日は私と一緒にいてください」
彼は少し驚いたように目を見張ったあと、いつもの柔らかい笑顔を浮かべた。
「可愛いこと言うじゃん」
彼は私のわがままをそう言って受け入れてくれた。
ヒューヒューと囃し立てる声を背に受け、私たちは夜の闇に消えていった。
*
ホテルに入ると、彼は優しく私を抱きしめてくれた。柔らかい唇も、細長い指も、すべてが優しかった。
そう、それはいつも通り、完璧に。
なのに。
「可愛いよ、宙」
今は魔法の言葉が心に響かない。
——私は、あなたの特別になれましたか?
天井を見つめながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
——あなたは、私を必要としていますか?
温かいはずの腕の中で、私は答えを見つけられなかった。
*
人気のない朝の歓楽街。私たちは駅に向かって歩いていた。
空気は冷たく、吐く息が白く凍る。
私達は手を繋いでいたけど、その温度さえも遠く感じた。
私は足を止めた。
——私はまだ信じてます。
「あの」
——私は期待を捨てていません。
「私達」
——まだ終わりたくないですよね?
「もう終わりにしませんか」
沈黙が二人を包む。
驚いてください。
引き止めてください。
なんでだよ、って怒ってください。
俺たちまだやれるよ、って言ってください。
ユッキーさんは何かを言いかけて、やめたように見えた。言葉を探すように、どこかを見ている。
そして静かに私を見下ろした後、穏やかに微笑んだ。
「わかった。いいよ」
頭が真っ白になった。
あっさり。
本当にあっさりと。
彼は私の要求を受け入れた。
もう目は涙で溢れていた。
私は子供のように声を上げて泣いた。
鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃになり、息もまともにできない。
すると、泣き声の向こう側から、優しい声が聞こえてきた。
「今までありがとうな、宙」
そう言って、彼は私の頭を撫でた後、私に背を向けた。
彼はわんわん泣く私を置いてけぼりにして、長い足で駅の方へ歩いていく。
振り返らなかった。
一度も。
特別になりたかった。
ただ、それだけだったのに。
冷たい風が吹きつけ、涙で濡れた頬に容赦なく突き刺さった。
キャノンディーを牽引してきた四年生たちも、とうとう卒業してしまう。あと数ヶ月で彼らは大学生ではなくなり、社会人という新たなステージに立つ。
光恵さんは商社。コバさんは保険会社。萩野さんは家電メーカー。
もちろんユッキーさんも。彼はアパレルメーカーに内定している。
「最初は本社で研修だから大阪だよ。嫌だなあ」
あろうことか、地方の企業に入社してしまう。交際前に既に内定していたから、仕方がないけど。
今のユッキーさんの性格だと、放っておくと風船のように飛んで行ってしまいそうで怖い。
時々直接会って繋ぎ止めないと。こっちから行くか。いや、社会人で給料が入るんだから、できれば向こうから来てほしいな……。
そんな私の心配をよそに、大学では卒業に向けて浮かれた空気が漂っている。
「乾杯!」
今日は追いコン。といっても、キャノンディーのそれは、普段の飲み会に毛が生えたようなものだけど。場所はいつもの居酒屋だし。
ユッキーさんとの席は遠い。私たちに限らず、飲み会ではサークル内カップルが近くに座らないという暗黙の了解がある。
まあ、理解はできる。飲み会でカップルがいちゃつく様子を好まないメンバーもいるだろう。
今回は追いコンということで、卒業生に挨拶回りをするメンバーが多い。
挨拶に来た後輩女子に、いつものスマイルを向けるユッキーさん。何の話をしているのかわからないけど、時々穏やかに笑う。
ああ、いつもの顔だ。長い腕で私を捉えている時と、同じ顔。それを私以外の人に。
ウーロン茶しか飲んでいないのに、胃がムカムカしてくる。
「はい、皆さん注目! 恒例のクロスハンドに行きたいと思います!」
幹事が声を上げ、企画の開始を告げる。
来た。クロスハンド。キャノンディーの追いコンの恒例行事。一年生の私は初めて見る。
卒業生が他のメンバーを指名し、二人で腕をクロスさせて乾杯をするという企画だ。お世話になった人や、特別仲の良かった人を指定して、感謝を述べたりするらしい。
「ユッキーさんは誰を指名するんですか?」
数日前、私は事前に質問していた。当然私が指名されると思って。
「悪いけど、宙は指名しないよ。あの場で恋人の名前を出すやつは、まずいないだろうね」
そうなんだ。私はがっかりする。でも確かに、カップルが腕をクロスさせる姿は、見せつけるようで良くないかも。
「まだ考え中。当日までには決めるよ」
コバさんは萩野さんを指名した。四年間の友情を語ってから、クロスハンドで乾杯。そして、男同士の熱い抱擁が交わされ、場は大変盛り上がった。
長年の思いが伝わり、私も釣られて気分が高揚してくる。
次の萩野さんは、三年生の男子を指名した。どっと笑いが起こる。あれれ、コバさんの片想いだったのか……。
「次はユッキーさん!」
グラスを片手に、ユッキーさんが立ち上がった。
いったい誰を指名するんだろう。私ではない誰かを考えてドキドキする。せめて、女子ではありませんように。
「はいどうも。えー……」
周囲を見渡してから、語り始めた。
「俺が一年生の時」
昔話が始まった。あまり聞いたことのない彼の過去の話に、私はじっくりと耳を傾ける。
「まあ、いろいろと、相談に乗ってもらった人がいまして。それからもずっとお世話になってます」
なんだ、具体的な話がないじゃん。
でも、今の話からすると、相手はきっと四年生だな。
「我らが団長、後藤光恵」
は?
わあ! と場が沸く。
手で口を押さえた光恵さんが立ち上がる。驚きと喜びの混ざった顔で、ユッキーさんへ歩み寄る。
それはないでしょ。よりにもよって、光恵さん?
笑顔のユッキーさん。照れた顔の光恵さん。
二人は再会した戦友の表情になり、向かい合った。
まるで、四年間の歴史が、二人の間で太い繋がりを生み出しているようだ。
みんなは、二人の間に男女の熱い友情を感じているだろう。
もしかしたら、あの二人自身も、それは友情だと思っているのかもしれない。
だけど私だけは知っている。部室での二人の密会を。
「後藤、今までありがとう」
「あはは、あの頃のあんたヤバかったもんね」
彼らにしかわからない話をしている。二人の世界だ。
二人はグラスを掲げた。
やめて。
二人の長い腕が絡まる。
やめて。
二人の顔が近づき、何かを囁きあっている。
やめて。
絆を確かめあうように、ゆっくりとグラスが飲み交わされた。
また場が沸く。拍手が起こる。
目の前の出来事が、部室で抱き合っていた二人の記憶と重なる。
あの日、ユッキーさんの長い腕は、光恵さんの腰を抱いていた。
——あんなやつのこと、何とも思わないよ
——なんか、拒めなくてね
もう何も思い出したくない。
居酒屋の喧騒が遠くなったように感じる。
私の心は今にも潰れてしまいそうだった。
なお、トリを務めた光恵さんは「誰か一人を選ぶなんてできない」と言って、メンバー全員を対象にした。八方美人の団長ムーブ。
当然クロスはできないので、全員で普通に乾杯をすることになった。なんで、私まで乾杯を。
でも、これでもしユッキーさんを指名していたら、間違いなく殴りかかっていただろう。だから、まだマシな方だったのかもしれない。
*
「二次会行く人!」
幹事が参加者を募る。
卒業前の最後のイベントということで、四年生の多くは二次会へ参加する。
でも、私はユッキーさんを引き止めた。
「行かないでください」
「え?」
「今日は私と一緒にいてください」
彼は少し驚いたように目を見張ったあと、いつもの柔らかい笑顔を浮かべた。
「可愛いこと言うじゃん」
彼は私のわがままをそう言って受け入れてくれた。
ヒューヒューと囃し立てる声を背に受け、私たちは夜の闇に消えていった。
*
ホテルに入ると、彼は優しく私を抱きしめてくれた。柔らかい唇も、細長い指も、すべてが優しかった。
そう、それはいつも通り、完璧に。
なのに。
「可愛いよ、宙」
今は魔法の言葉が心に響かない。
——私は、あなたの特別になれましたか?
天井を見つめながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
——あなたは、私を必要としていますか?
温かいはずの腕の中で、私は答えを見つけられなかった。
*
人気のない朝の歓楽街。私たちは駅に向かって歩いていた。
空気は冷たく、吐く息が白く凍る。
私達は手を繋いでいたけど、その温度さえも遠く感じた。
私は足を止めた。
——私はまだ信じてます。
「あの」
——私は期待を捨てていません。
「私達」
——まだ終わりたくないですよね?
「もう終わりにしませんか」
沈黙が二人を包む。
驚いてください。
引き止めてください。
なんでだよ、って怒ってください。
俺たちまだやれるよ、って言ってください。
ユッキーさんは何かを言いかけて、やめたように見えた。言葉を探すように、どこかを見ている。
そして静かに私を見下ろした後、穏やかに微笑んだ。
「わかった。いいよ」
頭が真っ白になった。
あっさり。
本当にあっさりと。
彼は私の要求を受け入れた。
もう目は涙で溢れていた。
私は子供のように声を上げて泣いた。
鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃになり、息もまともにできない。
すると、泣き声の向こう側から、優しい声が聞こえてきた。
「今までありがとうな、宙」
そう言って、彼は私の頭を撫でた後、私に背を向けた。
彼はわんわん泣く私を置いてけぼりにして、長い足で駅の方へ歩いていく。
振り返らなかった。
一度も。
特別になりたかった。
ただ、それだけだったのに。
冷たい風が吹きつけ、涙で濡れた頬に容赦なく突き刺さった。



