コールマイネーム

 
 柔道部に復帰してからのムッちゃんは、夏休み初日の休みと、お盆に東京へ行ったくらいで、あとは息着く暇もなく忙しくしていた。
目標を11月の長野県高校生大会に定めて、地区予選のある10月末が迫る頃には減量も始めていた。
 
 僕は僕でラーメン屋のバイトとパン屋のバイトを往復する日々だ。優奈はテニス部と塾が忙しく、今までのようには会えなかった。ラインはまめにきて、SNSの優奈の動画や画像にいいねする。たくさん女の子がいても、優奈は特別かわいい気がした。
 
 二つ返事で、友達を家に住まわせてくれた親には感謝しかない。
 今、ムッちゃんと一緒にいられるのも、家族のおかげだった。減量のための食事もなぜか家族全員で付き合い、父と祖父はムッちゃんの試合が終わるまでと言って晩酌をやめた。
 
10月末はあっという間にきた。

試合は翌々日だ。ラーメン屋が終わり、2階へ行くと珍しくまだムッちゃんは起きていた。

最近は僕が部屋に来る頃にはいつも熟睡していた。

パンイチで保湿剤を塗っている。今のムッちゃんは頬の肉がそげ、硬く鍛え上げられた肉体に脂肪は全くない。練習はあれっきり見学していないが、自宅で見える肉体の変化に、柔道にかけるムッちゃんの本気を見た。
 
「おかえり。朝陽」
「まだ起きてたんだ」
「明後日の予定をチェックしてた。もう寝る。書類を書いてて思ったんだけど、朝陽の誕生日はいつ」
「3月30日」
「俺は3月21日だから近いな。1年で9日間だけ俺のほうが歳上」
「その間は室見先輩って呼ぼう。9日間はなんでも言うこと聞くね。何してほしい?室見先輩」

「何が出来る?」意外な返しだ。何が出来るだろう。
「言われた事なら何でもする」
「何でもぉ?怖い事を頼まれたらどうするんだよ」
「怖くてもやる」
「嫌なことだったら?」
「嫌なこと……キスしろとか?」
「朝陽にキスしてとは頼まない」
「だよね。最近思うんだ。たぶん一生誰とも付き合わないし、キスもしないと思う」
「朝陽、こっち向いて」ムッちゃんの顔が近づいて、唇に唇が当たった。乾燥して、わずかにカサカサしている。
「これで朝陽の一生キスしないって予定は崩れた。朝陽にはいいところがたくさんある。いつか誰かと付き合って、キスもしまくって、すげー幸せになれる」
「ムッちゃん、顔赤いよ」
「勢いでキスしたら、恥ずかしくなった」
「僕は全然平気。ムッちゃん、こっち向いて」僕からもキスした。
「見られたら朝陽のお母さんに怒られる」片手で押しのけられた。
「うん」嫌がってるのがおかしくて、もう一度僕からキスする。
「調子乗ってんな」
「だって面白い。ムッちゃんの顔、真っ赤なんだ」もう一度キス。

 あ、と思った時には僕は仰向けに倒れていた。両手が抑えられ、ムッちゃんが腹の上にまたがっている。さすが柔道選手だ。
「怒った?」
「先にした俺が悪いけど、ふざけるのはおしまい、朝陽」

 真面目な顔だった。本気で怒っている。手を動かそうとするが、ガッチリと抑えられていて動けない。
「約束して。朝陽は好きな人以外とはキスはしちゃだめだ」
「もうしません。ごめんなさい」ムッちゃんの手がゆっくり離れたが、腹の上に乗られたままで身動きが取れなかった。
「僕が嫌いになった?」
「違う。朝陽を守らなきゃいけない。辛い目にあってほしくない」

 辛そうなのはムッちゃんの方だった。
辛い目にあっているのもムッちゃんだ。家族を失い、家も無く、ブランクのある柔道に再び命をかけている。
手を伸ばし、ムッちゃんの短くなった髪を触った。
短い髪も好きだった。
「僕がいまムッちゃんにできることある?」
「ごめん、朝陽。あと1回だけ」

 ムッちゃんは覆いかぶさるように僕にキスした。かすかに震えているカサついた唇に、何かよくない予感がする。僕はムッちゃんに抱きつき、キスは長くなった。

「県大会が終わったら、話したい。それまで朝陽は母屋で寝て」
「ずっとムッちゃんの味方だよ」
「知ってる」ムッちゃんの手のひらに頬を拭われて、自分が泣いている事に気がついた。