コールマイネーム

 バイト終わりに、二階には寄らなかった。

家に帰って、風呂から出てから布団がないことに気がつく。

もう11時半だ。

四組の女の子が来ているかもしれないムッちゃんの部屋に、行きたくなかった。

たまにうちのクラスに来て、ムッちゃんに話しかけている子だが、僕は一度も話したこともなく、目が合ったことすらない。

 ムッちゃんのひざに乗っているのは何回か見た。ムッちゃんもニコニコしていたから嫌では無いのだろう。善養寺といるときは、話しかけないようにしていた。あの子と付き合うのだろうか。


 ラーメン屋の2階に、充電中のスマホを忘れてきた事に気がつく。仕方ない。取りに行くしかない。

 まだ明かりがついている。チャイムを鳴らすと、足音が聞こえ、ドアが開いた。
「朝陽ぃ、やっと来た。今日は母屋で風呂に入ったんだ?」
「スマホを忘れて取りに来た。もう寝てると思ってた」
「鍵は?なんでチャイム鳴らした?」
「持ってるけど、女の子といたら嫌だから」

部屋に入る。スマホはキッチンカウンターの上にあった。
「いねーよ。そんな暇ない」
「善養寺さんは?」

「亜弥には勝俣から断ってもらった。なあ、俺の好きなバンドが新曲出したから一緒に聴こう」
「もう遅いよ。明日は何時起き?」
「明日は久々に休み。朝陽は?」
「僕は6時から仕込み」
「俺も手伝う」
「寝てなよ」
「夏休み初日だろ?夜更かししよう」

 ムッちゃんは上機嫌だった。

2人でスマホから流れる曲を聴く。ムッちゃんの好きなアフリカ系アメリカ人のアーティスト。

「イヤホンで聴いて」

両耳にイヤホンを挿れられて、曲が頭を支配した。

いい曲なのかはよく分からないが、これがムッちゃんの好きな曲なのだ、と思う。

「ムッちゃん」

目の前の顔に話しかけると『何?』と口が動き声がかすかに聞こえた。

「なんて曲」片耳のイヤホンが外される。

「『CALL MY NAME』」
「僕、英語はわからないんだ。なんて意味」
「『俺を必要として欲しい』って歌」

 ムッちゃんはイヤホンを自分の右耳に嵌めた。切ないロングトーン。
「悲しい歌だよね。そんな気がする」
「あー、どうした朝陽。もっと明るい曲にするか……」
「上手くできない事が多くて、疲れた」
「店で失敗した?」
「してない」
「補習でイジメられたのか」
「英語の先生は優しいよ。ただ、何をやってもほかの人の倍くらい頑張って、半分もできないだけ」

今日もらった通知表は2が並んでいて、前よりも悪かった。

「倍、頑張れるのも才能だろ」
「できなくても?」
「できなくても、勝てなくても、稽古は無駄になんねーから。それが鍛錬」
「怖くなるんだ。みんなに置いていかれる気がする」

ムッちゃんは、一度ため息をついた。嫌な感じのため息ではなかった。

「オジーが入院して、俺もそんな気持ちになった。朝陽、心配になったら俺を呼んで。必ず返事をするから」
「ムッちゃんはもう僕にたくさんしてくれた。だから気にしないで柔道頑張って」
「たくさん?朝陽に何もしてない」
「ジャージを貸してくれた。靴下も。長野県警のキーホルダーもくれた。あれから一回も自転車盗まれてないんだ」

ムッちゃんは黙った。笑顔はなく、何か打ちのめされたように見えた。



 夏休み最初の夜、2人で夜更かしをした。

12時過ぎに家を抜け出して、商店街のコンビニでアイスを買う。帰るときに警察に声をかけられる。

「こんばんは。未成年ですか」
「ハイ。こんばんは」
「二人とも知ってる顔だ。君、交番に出前に来るキリマンジャロさん?」
「ハイ。アイスを買ってかえるところです」手に持ったソーダアイスを見せる。むっちゃんが僕より半歩前に出て頭を下げた。

「杉山さん、室見武流です。ご無沙汰してます。室見寛治が、祖父がお世話になりました」
「……室見さんのお孫さんか。道場では室見師範にお世話になりました。お怪我の具合は」
「東京で専門のところに入院してリハビリをしてます。畳を恋しがってます」

警察官とムッちゃんは世間話をして、すぐ帰るようにと解放された。


「おまわりさんたち、ムッちゃんに警察官になってって言ってたね」
「警察官になりたい」
「そうなんだ。ぴったりだと思う。僕はキリマンジャロで働くよ」
「朝陽にもぴったり。いつもラーメンを出すとき『熱いです。気をつけて』ってお客さんに言うだろ。ラーメンは熱いに決まってて、常連さんが多くて、それでも朝陽は必ず言うんだ。お客さんがやけどしたりびっくりしないように思ってる」
「ラーメン屋だもん」
「すげーいいラーメン屋。熱々で美味くて、水もジョッキでくれる。店員も最高」
「警察官になっても食べに来て、約束」ムッちゃんは頷いた。