コールマイネーム

 毎月、第一火曜日には書道部がある。
書道は保育園から始めた。今でも週に一度、商店街にある書道教室に通っている。
 学校でも書道部に入り、入学式や卒業式の看板を書いた。ラーメン屋でも、冷やし中華を始めるときは僕が『冷やし中華始めました』と書いて、店の扉に貼る。
今日の部活では納得のいく出来にはならず、家でやりますと言って持ち帰る。
墨の香り、手に微かについた落としきれない黒。唯一続いた趣味のようなもの。決して上手くは無い。
 
 午後6時半。武道館の明かりはまだついている。僕は書道道具を入れたトートバッグを持ったまま、渡り廊下を通って武道館へ行った。今日からムッちゃんは本入部だ。

 武道館の1階は剣道で二階が柔道だ。リノリウムの階段を登り、開いた扉から中をのぞく。

明るい二色の畳が敷かれた道場。
あちこちで、二人一組になった柔道部の部員が組み合っている。威勢のいい声が上がり、人が投げ飛ばされた。
部員は15人くらいは居そうだ。思ったよりも多い。
笛が鳴り、皆の動きが止まった。ムッちゃんを探す。1人だけ青い道着を着て、スクィーズボトルから水を飲んでいる。

「3分、始め!」
また威勢のいい声が上がった。ムッちゃんの相手は100キロくらいありそうな大柄な部員で、お互いの道着をつかもうとして激しく動き回り、アッと思った時にはもう勝負はついていた。

ムッちゃんは相手の袖と襟首をつかんで、足をひっかけ回転させながら床に勢いよく叩きつけた。激しい音。痛そうだ。慣れていてもきっと痛い。

もう一度組む。
今度はお互いに胸元をつかみ袖をつかもうと手が素早く、激しく動き、まるで鳥が闘っているようだ。
2人とも床に転がった。柔道の知識は僕には全く無く、授業でやったことも全て忘れた。

 ただ、ムッちゃんとムッちゃんの相手の帯は黒い。きっと強い。

 ちょっと練習を覗きに来たつもりが、どれだけ時間が経ったか分からない。筋トレが始まって、田代先生が僕に気がついた。

「丸山!入部希望か?」
「室見くんを観に来ました」
「仲がいいな。よし!全員ででおんぶスクワット!室見!ペアには1人足りないから丸山とやれ」
「ハイ!」反射的に出たようなムッちゃんの返事に、いつものおっとりとした響きはなかった。

書道のトートバッグを置き、柔道場に入る。
「丸山、畳に上がる前には礼」
「お邪魔します」田代先生が変な顔をした。挨拶が間違っているようだ。

「朝陽、おんぶするからつかまれ」
7組で円形になり、背中に自分と似た体格の部員をそれぞれが乗せた。おんぶスクワット、名前の通りだ。
僕もムッちゃんの背中に乗ると、ムッちゃんはヒョイと立ち上がった。思ったより不安定だった。
「うわッ」
「朝陽、しがみついていい」
「笛に合わせて30回、始め!」

ホイッスルに合わせて、スクワットが始まった。まじめなトレーニングなのに、なんだかおかしくて笑ってしまう。
「ゴメン」耳元で謝ると、ムッちゃんの首筋に鳥肌が立つのが見えた。

「29!30! 上下を交代!」僕は背中から降りた。ムッちゃんは軽く体を動かして、道着を整え、またしゃがんだ。
「乗って」おんぶされたのは何年ぶりだろう。中三の騎馬戦の時には背が高いから馬だった。もう一度青い道着の背中にしがみつく。
「頑張れ」
「うん」 

規則正しいホイッスル、しがみついた身体から伝わる熱と汗。首筋には汗が流れて行くのが見えた。30回はあっという間に終わり、周りは上下を交代するが、ムッちゃんはひたすら僕を背負ってスクワットをした。
合計四回、120回。四回目も終わり背中から降りる。Tシャツの胸のあたりは密着した熱と汗で濡れていた。
「びちゃびちゃだ」
「俺の汗?」
「僕とムッちゃんの汗」
「今日は店は?」
「出るよ。稽古を見に来ただけ」
「じゃあ、家で会おう」
「うん。バイトが終わったら二階に行くね。田代せんせー!俺帰ります。ありがとうございました!」
「いつでも入部は歓迎だ!」

 お辞儀をして柔道場から出て、書道の道具を入れたトートバッグを肩に掛けた。武道館の階段を風が通り抜ける。風にあおられたTシャツから、ムッちゃんの匂いがした。
 
 家に帰っても、スクワットで揺らされたから、おんぶの姿勢のせいか、フラフラした。
店に出てからは気合をいれ、間違いの無いようにする。
「須山ラーメンの辛味ネギ追加です。熱いから気を付けてください」


 今日は30度を超えた。こんな日はお客さんには、氷を入れた水をジョッキで出す。
作業着で頭にタオルを巻いた若い男性は、ジョッキの水を一気に半分ほど飲んだ。

「ただいま帰りました」店の入り口から、ムッちゃんが顔を出した。
「武流くん、お帰り。母屋に夕食があるよ」父が声をかける。ムッちゃんはお辞儀をして、ドアを静かに閉めた。

閉店30分前になっても店のテーブルは半分ほど埋まっていた。今日は飲みの客が多い。
「ラストオーダーです」サラリーマン三人連れだ。
「お兄さん、この辺りで飲み直すなら、いい店ある?」
「居酒屋さんですか? 地酒?」
「女の子がいる店がいいな」
「お父さんに聞いてみます」
「悪いね」

 父は当たり障りなく、何件か繁華街の飲み屋を教えて、お客さんは上機嫌で帰っていった。


10時で上がり店の裏に出ると、まだムッちゃんの部屋には明かりがついている。

部屋のドアをノックすると、ボクサーパンツ姿のムッちゃんが現れた。
「ちょうどよかった。肩に湿布貼って」
「怪我?」
「たぶん筋肉痛。一ヶ月くらい練習してなかったから」肩の後ろと肩甲骨辺りに慎重に貼る。
 
「貼れた。ほかのところは?」
「朝陽、もう柔道を見に来るな」手が止まる。思ったより強い言葉だ。湿布の貼られた背中。本気でやっているところに、面白半分で、見に行ってはいけなかったのだろう。
「うん。もう行かない」
「田代先生が、朝陽も柔道部に誘えってうるさいんだ。次に見に来たら道着を着せられて、無理やり部員にされる」
「迷惑かけてごめん」
「迷惑じゃない。他の奴らより汗臭くなくて柔らかいから、朝陽ならずっと背負ってられる」
「やっぱり明日もムッちゃんを見に行こうか?」湿布を貼った背中におぶさる。
「駄目」 


 
 ラーメン屋の二階で、二人で寝起きするようになるまでそんなに時間はかからなかった。

ムッちゃんが引っ越して来た翌週には、僕は自分の布団をラーメン屋の二階に持って行った。
「ムッちゃんの彼女が来るときは帰る」
「彼女いないの知ってるだろ」
「かわいい子から『今からムロの家にいきたいな』って言われたら?」首をかしげて目をパチパチさせる。
「アハハ、朝陽の思う可愛い子って、そういう子か。わかりやすい。朝陽は彼女は欲しくないのかよ。告白された事は?」
「あるけど……僕さぁ、アルファベットが苦手なんだ。何回やっても途中でわかんなくなる。アルファベットを読めないヤツと付き合いたい子はいないと思う。付き合っても、後できっと嫌われる」
「誰だって、どうしても苦手な事くらいある。俺は気にしない。俺だって朝は起きられなくて朝陽に起こしてもらってる」
朝5時半のアラームでムッちゃんを起こして、朝練のあるムッちゃんが先に登校する。僕の毎日のスケジュールには、早朝の祖父の仕込みの手伝いが加わった。

 

優奈に行ってきますとラインをし、ムッちゃんの分の弁当も持って、8時少し前に家を出る。1人で走る7月の田んぼ道は、入道雲の方へと一直線に続いている。
 出来ないことはまだまだたくさんあって、わからない事も多かった。英語はきっと次の通知表も1だろう。それでも僕は泳げるようになり、山に囲まれたこの街で生きていく。