月曜日、ムッちゃんは学校に来なかった。何度か後ろの席を振り返り、空っぽのなのを見て、ああそうだ休みだったと気がつく。
翌日も翌々日もムッちゃんは来なかった。
来週は期末テストだ。先生は何も言わず、クラスメイトも気にする素振りはない。
箱崎高校は、お世辞にも頭がいい部類の学校ではなく、1年生の終わりの時点で退学者は何人もいた。補導されたり、急に来なくなって気がつくと居なくなっているパターンが多い。
ムッちゃんは頭は良さそうだった。数学は少人数の一番上のクラスにいて、物理も取っている。
英語の先生は聞いても無駄な生徒は指さず、決まった3人をルーティンで指すのだが、そのうちの1人がムッちゃんだ。
バカ校に嫌気がさして転校したのかもしれない。キーホルダーを届けにきたのも、サヨナラを言いに来たのかもしれなかった。
木曜日の朝、7時15分。
学校に早めについた。前回の定期試験で赤点だった生徒のための英語の補習がある。駐輪場に自転車をとめ、自転車の鍵を抜く。大切な鍵だ、盗まれたくはない。
早朝の、生徒の姿がない廊下や階段を通り抜ける。
教室にはいると、窓際の一番後ろの席にムッちゃんはいた。
机に突っ伏して寝ている。静かに歩いて席まで行き、バッグを置く。
ムッちゃんは窓のほうを向いて寝ていた。寝顔が見える。いつもは強気な眉毛が力が抜け、背中がゆっくりと呼吸で上下している。
長いまつげが微かに震え、ゆっくりと開いた。
「おはよー」
「……朝陽か。おはよ。今何時」
「7時20分」
「なんでこんな早く来てんの」
「英語の赤点補習」ムッちゃんは伸びをして両手で顔をこすり、頬をペチンと叩いて気合をいれた。
「眠そー、アハハ」
「眠い。一昨日オジーが長野市で手術して、付き添い。眠れなかった。今日は始発で直接学校に来たけど……」大あくびだ。
「警察官だったおじいちゃん?大丈夫?」
「オジーは全然平気さー。殺されても死なない。月曜日の朝に階段から落ちて、腰と足を骨折した」
「大怪我じゃん。おじいちゃんかわいそう」
「あー、朝陽が泣いちゃうのか。うちのオジーのために泣くのは朝陽だけ。手術は成功。大成功。リハビリすれば、元気になるから。今朝まで付き添ったけど、東京の叔母ちゃんが病院に交代で来てくれたから、全部任せてきた」
「大変だったね」
「うん、ロビーで寝たり……目は閉じてたけど、眠ったか分かんねー」
「朝ごはん食べた?」
「昨日の昼から食べてない。腹が減らない」リュックから弁当を出して、ムッちゃんの机に置いた。
「これ、食べていいよ」
「朝陽の弁当だろ」
「食べて。僕、補習に行ってくる」
ムッちゃんはその日の午前中の授業をぶっ通しで眠っていて、英語の先生もムッちゃんを指さなかった。怒涛の丸3日間を終えたムッちゃんには、必要な眠りのように思えた。弁当箱の入った手提げは僕の机の隣に下げてあり、持ってみた感じでは空っぽだ。
「よく寝た」四時間目が終わるチャイムで、ムッちゃんは目を覚ました。
「おはよ」後ろの席を振り返り、今日二回目のおはようを言う。
「おはよう、朝陽」2人で購買へ行き、パンをムッちゃんからおごってもらう。
ジャムパンには県の名産の、甘酸っぱい桃のジャムがいっぱいに入っていて、ムッちゃんにも一口食べさせた。
「美味い。次はそれ買おう」
校内放送がかかった。
『二年一組の室見、職員室の番場のところまで来るように』
クラスに冷やかしの声が上がる。
「ムロ!何したんだよ?」
「何もしてねー」
「昨日まで何でいなかった?停学?」
「違う。親せきのいろいろで家にいなかっただけ。ハァ、めんどくせー」ムッちゃんはため息を付き、教室を出ていった。
「キーホルダー使ってるよ」放課後、駐輪場へ向かう途中で、自転車のキーに着けた長野県警のキーホルダーを見せる。
「あのさ、朝陽、今日はバイト何時から」
「夕方から。自分ちだから時間は決まってない」
「少しだけ話せる? 話してもどうにもならないけど、聞いてほしい」
「いいよ、どこで話す?うち来る?」ムッちゃんは疲れた顔でうなずいた。
僕は自転車で、ムッちゃんはバスで御海駅まで来た。
「上がって」
「お邪魔します」
ラーメン屋の二階の薄暗く誰もいない玄関。ムッちゃんは脱いだ靴を、きっちりと揃えて部屋に上がった。
「荷物はそこら辺に置いていいよ。テレビの部屋にいて」
食器棚から中ジョッキをだして氷を入れ、水を注ぐ。自分用には小さなコップでいい。
「お水どうぞ」
「ジョッキ?」
「レモンサワーじゃないよ。水」乾杯して、水を飲む。
「美味い」
須山の水道水は美味しいのだ。飲料メーカーの工場もある。美しい山と美味しい水。綺麗な空気。
「朝陽、俺さぁ学校やめるかも」
「え……」
「オジーは折れた骨の場所が悪くて、1年くらいはリハビリが必要なんだ。叔母さんは、オジーを東京へ連れて行く、俺に一人暮らしをさせたくないから、東京で編入できる高校を探すらしい。今日担任に叔母さんが電話をしてきたって」
「今すぐ決めなきゃいけないの」
「オジーの家は山で、とんでもない場所にある。叔母ちゃんは前からオジーとオバーに家を売るように話してた。買いたい人がいたんだ。でもオバーが二年前に急に死んで、話がとまってた。俺はオジーと暮らすために中3の終わりに沖縄からこっちに来て……もう引っ越したくない。やっと馴染んだんだ。長野で卒業したい」
「一人暮らしじゃなければ、残れる?」
「たぶん。でも須山には学生寮は無い……」
「ちょっと待ってて!僕、お父さんとお母さんに聞いてくる!!」
「え?待てよ!どういう意味、朝陽!!」
6月30日。今日で6月も終わりだ。朝起きて、ハーフパンツにTシャツで母屋を出て通りを横切り、ラーメン屋の2階へ行く。
ムッちゃんは先週末、ラーメン屋の二階に引っ越してきた。
鍵は勝手に開けて入る。朝はそうして、とムッちゃんから言われたのだ。
「おはよう。ムッちゃん。6時でーす」
「あと30分」
目を開けもしないでムッちゃんは答えた。
引っ越してきて1週間。叔母さんが一人暮らしをしないほうがいいと言った理由が分かる。ムッちゃんはとにかく、朝が弱い。
「あーあ、僕も寝ちゃおう」
ムッちゃんの隣に寝転がり、寝顔を見る。眉間にシワが寄っているのを、人差し指でグリグリしてほぐした。
寝ているムッちゃんを見ていたら眠くなり、目は自然に閉じた。
「あら!来ないと思ったら!二人とも起きなさい」
母が二階にやってきて、僕たちを起こした。
「僕も寝ちゃった。ムッちゃんを起こそうと思ったのに」
「おはようございます……ふわぁ」
ムッちゃんの伸びをしながらの大あくびに母と二人で笑った。
母屋で朝食を食べ、身支度をして2人自転車で田んぼ道を出発する。
空はどこまでも青く、白い雲は控えめにあるっきりで、山は雪はもうなく緑に覆われ、黒黒として見えた。
「昨日オジイの見舞いに行ったんだ。もうスッカリ元気。来週退院して、東京に転院する」
「そっか」
「田代先生が、家が一段落ついたなら柔道部に入れって、うるさいんだ。7月になったら見学に行ってくる」
「ムッちゃんって強い?」
「普通」
放課後、僕はムッちゃんに連れられて祖父と暮らしていたという山の家に行った。古谷駅という無人駅で降りると山はもうすぐそこだった。
無舗装の坂道は、途中から草が生い茂っている。
道は途中で途切れ、山肌に張り付くような階段を登った。途中小さな祠に入ったお地蔵さんに2人でお参りし、更に上に登った。
夏草の青い匂いが強く漂う。ドクダミのニオイが強くなり、消えた。
前を登っていたムッちゃんの姿が、ふいに見えなくなる。
階段の上は広場になっていて、ムッちゃんはそこにいた。
広場の奥に平屋の日本家屋があるのが見える。
「ここが、俺の家」玄関の引き戸を開けて2人で中に入る。
「ふもとからは大回りになるけど、車で来る道もあるんだ。叔母さんが必要なものだけ持っていった。明日引き渡しだから、最後に朝陽に見せたかった」
部屋はきっちりと片づいているように見えた。座卓や座布団などもすべてそのままで、食堂の食器棚には食器も並んだままだ。
ムッちゃんは食器棚を開け、灰色に紺の柄のついた湯飲みを手に取った。
「オバーの湯飲み。やちむんって言う沖縄の陶器。昔、俺のお母さんがあげたんだ」
「引っ越しに持ってかなくていいの」
「……」ムッちゃんは黙った。
「ムッちゃん、悩むなら持っていけば」
「いらないだろ」
「いらなくても」
「なんだよ、朝陽が泣くのか」
「だって悲しい」
「そうだな、俺も悲しい」
ムッちゃんの手が肩に置かれ、慰めるようにさする。ムッちゃんを慰めなくてはいけないのは、僕の方だった。
食堂の窓には西日が差し、夕暮れの虫の声が聞こえて来た。

