小さな頃から得意なことなど何もなかった。幼なじみの優奈がいなければ、絶望的な子供時代を過ごす事になっただろう。その点では僕はついている。
生まれ育ったのは長野県須山市だ。須山平と呼ばれる盆地の中ほどに市街地がありぐるりと山々に囲まれている。
南街駅前商店街の中ほどに僕の家、『中華そばキリマンジャロ』がある。曽祖父が店を始めた60年前は元々は喫茶店だった。祖父の代に中華料理店になり、父が継いだ今では人気のラーメン屋として何度かテレビにも出た。
優奈の家はパン屋だ。商店街の端にある『グーテンモルゲン』は人気のパン屋で早朝から美味しい匂いがしている。
物心つく前から同じ保育園だった。小学校、中学校でも僕たちは2人一緒だった。商店街の裏通りを通って、田んぼの真ん中の道を突っ切る。小学低学年の頃は早く早くと急かされ、転んでは泣いた。優奈がどこか勇ましい顔で『あっくん、一人で立てるよね』と言っていたのを今でも思い出せる。
5月25日、月曜日。朝7時45分。家を出た時に、ポツリと雨が鼻先に当たった。空を見上げると灰色だ。今からバスで行っては間に合わない。仕方なく自転車を漕ぎ出す。
県立箱崎高校、二年一組38番が僕、丸山朝陽。
身長は172センチで体重は忘れた。
部活は書道部。成績は学年で真ん中くらいだけれど、英語は1で体育は2。
優奈は頭が良くて、電車で遠くの高校へ通っている。箱崎高校は頭の出来ではかなり下だ。
「朝6時半に家を出るんだよ。あっくんは何時?」
「8時に出ても間に合うかも」
「いいなー。あっくんも私と同じ高校に連れていきたい。電車に一人で乗りたくない」
「じゃあラインして」
入学してすぐにこんな話をして以来、毎朝6時半にラインが来る。今朝も優奈からの『おはよ 今から電車』というラインで起きた。
『おはよ』『前髪が今日はいまいち』
他愛もない連絡。僕も寝起きの寝癖で爆発した自撮りを送る。優奈が笑ってくれるといい。
自転車で高校まで20分だが、次第に雨は強くなり、学校に着き駐輪場に停めた頃には、土砂降りの大雨になっていた。
教室に入り窓際の席まで行く。妖怪のようにずぶ濡れな僕に隣の席の女子が悲鳴を上げた。
「どうしたの、マル」
「あ、雨」凍えて口がまわらない。
パーカーのフードが雨でぐっしょり濡れている。
長野県のほかの多くの公立高校のように、箱崎高校も制服はなく私服だ。
パーカーを脱ぐと下のTシャツまで濡れていて、一緒に脱げてしまった。濡れた上半身に鳥肌が立つ。ジーンズもずぶぬれだ。5月はまだ高原の雨は冷たい。
上半身裸のまま教室の後ろのロッカーへ行く。しまった、ジャージがない。月曜日で体育はなく、金曜日に持って帰ったきりだった。
「丸山」後ろの席の室見から呼ばれ振り返る。
「ジャージ、貸そうか」頷く。気の利いた返事は凍えた口から出ては来なかった。
室見は自分のロッカーから靴下とTシャツとジャージの上下を出して押しつけるように渡し、僕を壁際に押しつけてからカーテンを引っ張って、クラスの皆から着替えが見えないよう、目隠しをした。
カーテンの陰でびしょ濡れのジーンズを脱ぐ。チラッと開いて室見が覗いた。
「パンツは無事?」
「うん」
「よかった。パンツの替えはない」
Tシャツはよその家の柔軟剤の匂いがした。ジャージを履き、上着も着て、カーテンの陰から出る。始業ベルが鳴る中、席について借りた靴下を履き、後ろの席の室見を振り返る。
「ありがとう。靴下まで借りちゃった。室見って優しい」
クラスで一番チャラい男、室見武流。明るく染めた髪は、褐色の濃くはっきりした顔に似合う。4月からずっと前後の席だが、室見が不機嫌そうなところをみたことがなかった。
「普通だろ」
「優しい」
「照れるからやめて。次に優しいって言ったら、明日の体育委員のプール清掃に丸山も参加な」
「室見は優しい!明日一緒にプール掃除しよう」
僕が笑うと室見も日焼けした顔で笑った。やはり室見は優しいのだ。
翌日は快晴だった。夏日、つまり25度以上でプール清掃日和だ。
水泳パンツに着替えてプールまで行った。足の裏にザリザリとしたプールサイド特有の床の感触がある。
室見と僕の2人とジャージ姿の女子が3人いるだけだ。
プールは5月頭に業者が清掃に来たそうで、ヘドロなどはなく、30センチくらいの深さの透き通った水が溜まっている。
「せんせー、体育委員会って全部で何人ですか」
「25人だ。丸山はボランティア参加か。先生は感動した!」体育の田代先生からデカい手で背中を叩かれ、息が詰まる。
バケツと網を渡し、田代先生はさっさと帰って行った。プールのなかの落ち葉や何かを取り除くのが、今日の僕たちの役目だ。
「ほかの奴ら待たないで始めよう。丸山はバケツ持って、網の中のゴミを集めて」室見が仕切り、デカいバケツを持たされてプールに入る。
1年生の女子がプールのはしごを降りるのをためらっている。はしごは途中までしかなく、飛び降りなければならない。
「手を貸すから待って」室見がはしごまで行き、女子三人に手を貸してプールに下ろした。まるで王子さまだ。
日差しが照りつける。女子三人と室見が網で辺りを掬い、僕はバケツに落ち葉とヤゴを集める。
網の中のヤゴを僕が掴むと、女子が怖がって叫んだ。出来るだけ素早くバケツに移す。
「もう平気だよ」
「先輩、それ何?」
「ヤゴ。おとなになったらトンボになる」プールの中には落ち葉に紛れてヤゴがたくさんいた。
「思ったより暑い。俺も丸山みたいに水着でこればよかった」
室見はTシャツにハーフパンツの裾をまくり上げていたが、いったんプールサイドまで行ってTシャツを脱いで戻ってきた。顔が褐色で日焼けしているのは知っているが、身体もむらなく褐色だった。
Tシャツを脱いだ身体つきに、驚く。自分と同じくらいの体格だと思っていたがまるで違う。肩のあたりから見栄え良く筋肉がつき、腹や腰のあたりの造形はまるで絵に描いたような仕上がりだった。
「室見ってすげーマッチョじゃん!サイヤ人?」
「普通だろ」
「絶対に普通じゃないよ!僕見て!ほら!普通!」
生白く、人並みの筋肉しか付いていない体を指さす。女の子三人が笑い、室見も笑った。
清掃には、最後まで残りの21人は来なかった。一時間後に田代先生がやってきて、プール清掃は解散になり、5人で学校脇の用水路に、バケツのヤゴを逃がす。
「先輩、ヤゴ大丈夫かな」
「うん。たぶん。用水路にもヤゴはいるから」
「そうなんだ」女の子は感心したようにいい、ヤゴが流されたあともしばらく用水路をみていた。
バケツを返しにプールに戻る。用具室にバケツをしまって出てくると、室見は制服のまま、またプールに入りゆっくりと水の中を歩いていた。
僕も制服の裾を捲って、プールにもう一度入った。日はわずかに傾き、夕暮れが近く、日差しは心持ち砂のような色味を帯びて、辺りを包んでいる。
室見に近づく。両耳にイヤホンをして体を揺らし、リズムに乗って水の中を進んでいる。室見は右耳に手をやり、イヤホンを外して、僕の耳にイヤホンをそっと挿れた。
溢れ出す音。このリズムに乗って、彼は揺れていたのだ。リズムが体を揺らし、ファルセットが僕の頭をしびれさせた。
「丸山朝陽」フルネームで呼ばれた。
「何だよ、室見武流」
「今からお前のこと朝陽って呼ぶ」
「じゃあ僕は……室見のことムッちゃんって呼ぶ」
とっさに思いついたのはダサ過ぎるあだ名。室見はにやりと笑い、踵を返してまた水の中を進んだ。
「ムッちゃんか。いいよ。ムッちゃんって呼んで、朝陽」
生まれ育ったのは長野県須山市だ。須山平と呼ばれる盆地の中ほどに市街地がありぐるりと山々に囲まれている。
南街駅前商店街の中ほどに僕の家、『中華そばキリマンジャロ』がある。曽祖父が店を始めた60年前は元々は喫茶店だった。祖父の代に中華料理店になり、父が継いだ今では人気のラーメン屋として何度かテレビにも出た。
優奈の家はパン屋だ。商店街の端にある『グーテンモルゲン』は人気のパン屋で早朝から美味しい匂いがしている。
物心つく前から同じ保育園だった。小学校、中学校でも僕たちは2人一緒だった。商店街の裏通りを通って、田んぼの真ん中の道を突っ切る。小学低学年の頃は早く早くと急かされ、転んでは泣いた。優奈がどこか勇ましい顔で『あっくん、一人で立てるよね』と言っていたのを今でも思い出せる。
5月25日、月曜日。朝7時45分。家を出た時に、ポツリと雨が鼻先に当たった。空を見上げると灰色だ。今からバスで行っては間に合わない。仕方なく自転車を漕ぎ出す。
県立箱崎高校、二年一組38番が僕、丸山朝陽。
身長は172センチで体重は忘れた。
部活は書道部。成績は学年で真ん中くらいだけれど、英語は1で体育は2。
優奈は頭が良くて、電車で遠くの高校へ通っている。箱崎高校は頭の出来ではかなり下だ。
「朝6時半に家を出るんだよ。あっくんは何時?」
「8時に出ても間に合うかも」
「いいなー。あっくんも私と同じ高校に連れていきたい。電車に一人で乗りたくない」
「じゃあラインして」
入学してすぐにこんな話をして以来、毎朝6時半にラインが来る。今朝も優奈からの『おはよ 今から電車』というラインで起きた。
『おはよ』『前髪が今日はいまいち』
他愛もない連絡。僕も寝起きの寝癖で爆発した自撮りを送る。優奈が笑ってくれるといい。
自転車で高校まで20分だが、次第に雨は強くなり、学校に着き駐輪場に停めた頃には、土砂降りの大雨になっていた。
教室に入り窓際の席まで行く。妖怪のようにずぶ濡れな僕に隣の席の女子が悲鳴を上げた。
「どうしたの、マル」
「あ、雨」凍えて口がまわらない。
パーカーのフードが雨でぐっしょり濡れている。
長野県のほかの多くの公立高校のように、箱崎高校も制服はなく私服だ。
パーカーを脱ぐと下のTシャツまで濡れていて、一緒に脱げてしまった。濡れた上半身に鳥肌が立つ。ジーンズもずぶぬれだ。5月はまだ高原の雨は冷たい。
上半身裸のまま教室の後ろのロッカーへ行く。しまった、ジャージがない。月曜日で体育はなく、金曜日に持って帰ったきりだった。
「丸山」後ろの席の室見から呼ばれ振り返る。
「ジャージ、貸そうか」頷く。気の利いた返事は凍えた口から出ては来なかった。
室見は自分のロッカーから靴下とTシャツとジャージの上下を出して押しつけるように渡し、僕を壁際に押しつけてからカーテンを引っ張って、クラスの皆から着替えが見えないよう、目隠しをした。
カーテンの陰でびしょ濡れのジーンズを脱ぐ。チラッと開いて室見が覗いた。
「パンツは無事?」
「うん」
「よかった。パンツの替えはない」
Tシャツはよその家の柔軟剤の匂いがした。ジャージを履き、上着も着て、カーテンの陰から出る。始業ベルが鳴る中、席について借りた靴下を履き、後ろの席の室見を振り返る。
「ありがとう。靴下まで借りちゃった。室見って優しい」
クラスで一番チャラい男、室見武流。明るく染めた髪は、褐色の濃くはっきりした顔に似合う。4月からずっと前後の席だが、室見が不機嫌そうなところをみたことがなかった。
「普通だろ」
「優しい」
「照れるからやめて。次に優しいって言ったら、明日の体育委員のプール清掃に丸山も参加な」
「室見は優しい!明日一緒にプール掃除しよう」
僕が笑うと室見も日焼けした顔で笑った。やはり室見は優しいのだ。
翌日は快晴だった。夏日、つまり25度以上でプール清掃日和だ。
水泳パンツに着替えてプールまで行った。足の裏にザリザリとしたプールサイド特有の床の感触がある。
室見と僕の2人とジャージ姿の女子が3人いるだけだ。
プールは5月頭に業者が清掃に来たそうで、ヘドロなどはなく、30センチくらいの深さの透き通った水が溜まっている。
「せんせー、体育委員会って全部で何人ですか」
「25人だ。丸山はボランティア参加か。先生は感動した!」体育の田代先生からデカい手で背中を叩かれ、息が詰まる。
バケツと網を渡し、田代先生はさっさと帰って行った。プールのなかの落ち葉や何かを取り除くのが、今日の僕たちの役目だ。
「ほかの奴ら待たないで始めよう。丸山はバケツ持って、網の中のゴミを集めて」室見が仕切り、デカいバケツを持たされてプールに入る。
1年生の女子がプールのはしごを降りるのをためらっている。はしごは途中までしかなく、飛び降りなければならない。
「手を貸すから待って」室見がはしごまで行き、女子三人に手を貸してプールに下ろした。まるで王子さまだ。
日差しが照りつける。女子三人と室見が網で辺りを掬い、僕はバケツに落ち葉とヤゴを集める。
網の中のヤゴを僕が掴むと、女子が怖がって叫んだ。出来るだけ素早くバケツに移す。
「もう平気だよ」
「先輩、それ何?」
「ヤゴ。おとなになったらトンボになる」プールの中には落ち葉に紛れてヤゴがたくさんいた。
「思ったより暑い。俺も丸山みたいに水着でこればよかった」
室見はTシャツにハーフパンツの裾をまくり上げていたが、いったんプールサイドまで行ってTシャツを脱いで戻ってきた。顔が褐色で日焼けしているのは知っているが、身体もむらなく褐色だった。
Tシャツを脱いだ身体つきに、驚く。自分と同じくらいの体格だと思っていたがまるで違う。肩のあたりから見栄え良く筋肉がつき、腹や腰のあたりの造形はまるで絵に描いたような仕上がりだった。
「室見ってすげーマッチョじゃん!サイヤ人?」
「普通だろ」
「絶対に普通じゃないよ!僕見て!ほら!普通!」
生白く、人並みの筋肉しか付いていない体を指さす。女の子三人が笑い、室見も笑った。
清掃には、最後まで残りの21人は来なかった。一時間後に田代先生がやってきて、プール清掃は解散になり、5人で学校脇の用水路に、バケツのヤゴを逃がす。
「先輩、ヤゴ大丈夫かな」
「うん。たぶん。用水路にもヤゴはいるから」
「そうなんだ」女の子は感心したようにいい、ヤゴが流されたあともしばらく用水路をみていた。
バケツを返しにプールに戻る。用具室にバケツをしまって出てくると、室見は制服のまま、またプールに入りゆっくりと水の中を歩いていた。
僕も制服の裾を捲って、プールにもう一度入った。日はわずかに傾き、夕暮れが近く、日差しは心持ち砂のような色味を帯びて、辺りを包んでいる。
室見に近づく。両耳にイヤホンをして体を揺らし、リズムに乗って水の中を進んでいる。室見は右耳に手をやり、イヤホンを外して、僕の耳にイヤホンをそっと挿れた。
溢れ出す音。このリズムに乗って、彼は揺れていたのだ。リズムが体を揺らし、ファルセットが僕の頭をしびれさせた。
「丸山朝陽」フルネームで呼ばれた。
「何だよ、室見武流」
「今からお前のこと朝陽って呼ぶ」
「じゃあ僕は……室見のことムッちゃんって呼ぶ」
とっさに思いついたのはダサ過ぎるあだ名。室見はにやりと笑い、踵を返してまた水の中を進んだ。
「ムッちゃんか。いいよ。ムッちゃんって呼んで、朝陽」


