2026-05-17
『崖の近く』
別に自殺願望があるというわけでもなく、ただ興味本位で崖から見下ろすようにして写真を撮った。追い風がビュンビュンと吹いていて、被っていた帽子は飛ばされそうな勢い。思わず、右手で帽子を押さえ、持っていたスマホを落としてしまいそうになる。遠くから「気を付けなさいよ」と母の声が聞こえた。「大丈夫だよ」と母に伝えようと、風の音でそれは搔き消されてしまう。
少し遠くのほうを眺めると、水平線がただ真っすぐに伸びていた。綺麗で、触れたくなるけれど。1歩前に出れば崖から落ちてしまう。下のほうからは波が岩にぶつかる音が聞こえてくる。泡を含んだ海水は白くなっていて、雲と同じような白さを感じた。また、触れたくなる。その場に座り込んで、下を覗くようにして寝転んだ。観光客がずらずらと訪れてくる。
この崖の近くには神社があって、それを観光客は拝めているようだった。母に名前を呼ばれた。そちらを振り返ると写真を撮っていて、僕は白目を剥いて写る。立ち上がり、また崖の近くで佇んで写真を撮った。怖くなんてなかった。それよりも、やり残したことのほうが多かった。それに気付くために、崖の近くまで行ったようなものだったのだと思う。
観光客はきっと、愛する人の無事を拝んでいるに違いない。もしくは、自分の無事を拝んでいるかもしれない。祈ったところで運命的に、死はやってくるのに。崖の近くまで行って落ちなかったのは、ただ運が良かったというより、まだタイミングではなかっただけ。「帰るよ」と母の声が聞こえた。崖から離れ、車に乗り込んでそのまま出発してしまった。
つい先日、母の日だった。家族で一緒に映画を観に行って、プリクラを撮って、僕は自分の家へと帰ってしまった。別れ際、ハイタッチをした。けれど、今日はハイタッチをしなかった。忘れただけ、忘れただけなのだけれど。きっとそれが、最後の別れになるかもしれない。なるだけ忘れたくないと思った。別れ際は、悔いを残すべきではないとも思った。
自分の家に着いて、撮った写真を見返してみる。もう覚えていなくて、撮った記憶のない写真が幾つか溜まっていた。その中で一段と輝いて見えたのは、1歩前に出れば落ちてしまう写真。どうも魅力的に見えて、波の白さにまた触れたくなった。

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『崖の近く』
別に自殺願望があるというわけでもなく、ただ興味本位で崖から見下ろすようにして写真を撮った。追い風がビュンビュンと吹いていて、被っていた帽子は飛ばされそうな勢い。思わず、右手で帽子を押さえ、持っていたスマホを落としてしまいそうになる。遠くから「気を付けなさいよ」と母の声が聞こえた。「大丈夫だよ」と母に伝えようと、風の音でそれは搔き消されてしまう。
少し遠くのほうを眺めると、水平線がただ真っすぐに伸びていた。綺麗で、触れたくなるけれど。1歩前に出れば崖から落ちてしまう。下のほうからは波が岩にぶつかる音が聞こえてくる。泡を含んだ海水は白くなっていて、雲と同じような白さを感じた。また、触れたくなる。その場に座り込んで、下を覗くようにして寝転んだ。観光客がずらずらと訪れてくる。
この崖の近くには神社があって、それを観光客は拝めているようだった。母に名前を呼ばれた。そちらを振り返ると写真を撮っていて、僕は白目を剥いて写る。立ち上がり、また崖の近くで佇んで写真を撮った。怖くなんてなかった。それよりも、やり残したことのほうが多かった。それに気付くために、崖の近くまで行ったようなものだったのだと思う。
観光客はきっと、愛する人の無事を拝んでいるに違いない。もしくは、自分の無事を拝んでいるかもしれない。祈ったところで運命的に、死はやってくるのに。崖の近くまで行って落ちなかったのは、ただ運が良かったというより、まだタイミングではなかっただけ。「帰るよ」と母の声が聞こえた。崖から離れ、車に乗り込んでそのまま出発してしまった。
つい先日、母の日だった。家族で一緒に映画を観に行って、プリクラを撮って、僕は自分の家へと帰ってしまった。別れ際、ハイタッチをした。けれど、今日はハイタッチをしなかった。忘れただけ、忘れただけなのだけれど。きっとそれが、最後の別れになるかもしれない。なるだけ忘れたくないと思った。別れ際は、悔いを残すべきではないとも思った。
自分の家に着いて、撮った写真を見返してみる。もう覚えていなくて、撮った記憶のない写真が幾つか溜まっていた。その中で一段と輝いて見えたのは、1歩前に出れば落ちてしまう写真。どうも魅力的に見えて、波の白さにまた触れたくなった。

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