2026-05-20
『幸福論』
上手く嘘を吐ける人も羨ましいけれど、やっぱり素直な人が羨ましい。笑ってしまうほどに素直な人がいる。嘘を吐いているのだけれど、全然上手くなくて、もはや素直になってしまうような人。周りからは「天然」だと言われていて、でもそれすら気にしていない人。大好き。淡い桜色の思いではなく、ブルーな思いを抱いてしまう。この人がいなくても幸せになれると思うけれど、この人がいれば知らない幸せに気付かせてくれると思える。
幸せって1人で育んでいくというより、誰かと育んでいくものだと思う。もしくは、誰かから知り得ていくものだと思う。まだ幼い頃、父親と祖父の家へ帰ったとき。道中にあったたこ焼き屋さんで1パックだけ買ってもらった。運転をしている父親の口へとそれを運び、ハフハフとしているのを横目で見ながら、僕も1つだけそれを食べる。同じようにハフハフして、でもそれが幸せだった。祖父の家へ帰るたび、その記憶が幾度となく蘇ってくる。
つい先日、姉が亡くなる夢を見た。僕はバイクを運転していて、ガソリンスタンドにいた。それから見覚えのないアパートに帰り、ボロボロの階段を上がった先にある角部屋へと入る。あたかもそこで暮らしているのが当たり前のような流れで、散らかった部屋に座り込んだ。連絡が来ている。母親からだった。姉が亡くなったと書かれている。亡くなったということよりも、父親に会っているんだろうかと思うと羨ましい。
家の近くにある踏切警報音で目が覚めた。姉が亡くなったという事実は夢の中。目から涙が溢れていた。父親は亡くなってもう、12年が経つ。部屋中、線香の匂いがする。いずれ死ぬ。でもまだ生きている。幸せは生きていなければ共有できないし、育むこともできない。久しぶりに家族が写っている写真を見た。もう十数年前のもので、でもその当時も幸せがあったに違いない。
「幸せって何ですか?」と、訊ねられる機会が増えた。「分からないね、僕には」と返す。人それぞれの幸せを言葉にできるほど、まだ長く生きているわけではない。「忘れようとしても忘れられなかった記憶は幸せだと思うよ」と、どこかから聞こえてくる。ところで、幸せって何ですか。

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『幸福論』
上手く嘘を吐ける人も羨ましいけれど、やっぱり素直な人が羨ましい。笑ってしまうほどに素直な人がいる。嘘を吐いているのだけれど、全然上手くなくて、もはや素直になってしまうような人。周りからは「天然」だと言われていて、でもそれすら気にしていない人。大好き。淡い桜色の思いではなく、ブルーな思いを抱いてしまう。この人がいなくても幸せになれると思うけれど、この人がいれば知らない幸せに気付かせてくれると思える。
幸せって1人で育んでいくというより、誰かと育んでいくものだと思う。もしくは、誰かから知り得ていくものだと思う。まだ幼い頃、父親と祖父の家へ帰ったとき。道中にあったたこ焼き屋さんで1パックだけ買ってもらった。運転をしている父親の口へとそれを運び、ハフハフとしているのを横目で見ながら、僕も1つだけそれを食べる。同じようにハフハフして、でもそれが幸せだった。祖父の家へ帰るたび、その記憶が幾度となく蘇ってくる。
つい先日、姉が亡くなる夢を見た。僕はバイクを運転していて、ガソリンスタンドにいた。それから見覚えのないアパートに帰り、ボロボロの階段を上がった先にある角部屋へと入る。あたかもそこで暮らしているのが当たり前のような流れで、散らかった部屋に座り込んだ。連絡が来ている。母親からだった。姉が亡くなったと書かれている。亡くなったということよりも、父親に会っているんだろうかと思うと羨ましい。
家の近くにある踏切警報音で目が覚めた。姉が亡くなったという事実は夢の中。目から涙が溢れていた。父親は亡くなってもう、12年が経つ。部屋中、線香の匂いがする。いずれ死ぬ。でもまだ生きている。幸せは生きていなければ共有できないし、育むこともできない。久しぶりに家族が写っている写真を見た。もう十数年前のもので、でもその当時も幸せがあったに違いない。
「幸せって何ですか?」と、訊ねられる機会が増えた。「分からないね、僕には」と返す。人それぞれの幸せを言葉にできるほど、まだ長く生きているわけではない。「忘れようとしても忘れられなかった記憶は幸せだと思うよ」と、どこかから聞こえてくる。ところで、幸せって何ですか。

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