第一章:光を流す樹
黒い雨が降っていた。
それは普通の雨ではなかった。
空そのものが腐り始めたような、重く、冷たく、不吉な雨だった。
ネオ・アムリトサル――世界最大級の超未来都市。
何千ものネオン広告が夜空を染め、高層ビル群が雲を突き刺している。だがその夜、都市の光はどこか弱々しく見えた。
空気が死んでいた。
風は止まり、鳥の声は消え、人々は誰も空を見上げようとしなかった。
そして。
空から降っていたのは雨だけではない。
銀色の魚だった。
無数の魚が雲の裂け目から落下し、高速道路や無人車両へ叩きつけられていく。
ガンッ。
ビシャッ。
魚たちはまだ生きていた。
濡れたアスファルトの上で苦しそうに跳ね、まるで海が空から捨てられたかのようだった。
高速道路を走る黒い高級車の中で、リディマは静かに窓の外を見つめていた。
長い黒髪。
冷たいほど整った美しい横顔。
誰もが羨む富と権力を持つ少女。
だが、その瞳には深い孤独が沈んでいた。
彼女は幼い頃から、巨大企業《レヴァナ財団》の後継者として育てられてきた。
自由など存在しなかった。
笑顔も。
友達も。
愛情さえも。
父は仕事しか見ておらず、母は数年前、謎の死を遂げている。
広すぎる屋敷。
冷たすぎる食卓。
毎晩、彼女は自分が巨大な牢獄の中にいるように感じていた。
「……気味が悪い。」
小さく呟く。
すると運転手が不安そうにバックミラー越しに彼女を見た。
「お嬢様、本日は早めに帰宅された方が――」
その瞬間だった。
「止めて。」
リディマの声が鋭く響いた。
車が急停止する。
前方。
黒い豪雨の中。
一人の少年が立っていた。
白い制服は血に染まり、片腕からは赤黒い血が滴っている。
少年――バクタワル・シン。
彼は巨大な樹の前に立っていた。
異様な樹だった。
葉が一枚も存在しない。
黒く腐った幹。
だが内部では赤い光が脈動していた。
まるで巨大な心臓のように。
そして。
樹皮の裂け目から、赤黒い液体が流れていた。
血だった。
リディマの呼吸が止まる。
少年はゆっくり顔を上げた。
その目を見た瞬間。
彼女の背筋に冷たい震えが走る。
悲しすぎる目だった。
何千年もの孤独を抱えたような瞳。
バクタワルの首元に奇妙な紋様が浮かび上がる。
赤い光。
古代文字のような模様。
それは皮膚の下で燃えていた。
彼は苦しそうに息を吐きながら、静かに口を開く。
「……最後の種を……目覚めさせるな……」
「え……?」
リディマが窓を開ける。
その瞬間。
都市中の光が消えた。
ネオン。
信号。
高層ビル。
広告。
すべて。
完全な闇。
運転手が叫ぶ。
「電力が全部……!」
雨音だけが世界を支配する。
魚たちの跳ねる音。
遠くで鳴る警報。
そして。
黒い樹の鼓動。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
バクタワルの身体が崩れ落ちた。
「待って!」
リディマは衝動的に車から飛び出す。
冷たい雨が全身を濡らす。
だが彼女は気にしなかった。
少年の元へ駆け寄る。
彼の体に触れた瞬間、異常な熱が伝わってきた。
熱い。
まるで体内で炎が燃えているようだった。
彼は薄く目を開ける。
「……また、会えた。」
その言葉に、リディマの心臓が強く跳ねる。
「私を……知ってるの?」
返事はない。
バクタワルは意識を失っていた。
だがその唇だけは微かに動いている。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
祈りだった。
静かで。
悲しくて。
どこか温かい祈り。
リディマは理解できない感情に飲み込まれていく。
恐怖。
哀しみ。
そして奇妙な懐かしさ。
まるで彼女自身も、この瞬間をずっと前から知っていたような感覚。
突然。
黒い樹が光り始めた。
幹を赤い紋様が走る。
空気が震える。
魚たちが一斉に動きを止めた。
世界そのものが呼吸を止めたような静寂。
その時。
空の奥から低い音が響いた。
まるで巨大な何かが目覚める音。
運転手が震えた声を漏らす。
「お嬢様……ここは危険です……!」
だがリディマは動けなかった。
彼女の視線は、倒れた少年から離れない。
彼の存在が、自分の空っぽだった心へ入り込んでくる。
そして彼女は気づいてしまう。
自分の人生が今、この瞬間から壊れ始めたことを。
遠く離れた監視センター。
暗闇に包まれたモニターの一つが突然ノイズを走らせる。
ザー……ザー……
監視員が眉をひそめた。
「なんだこれ……」
映像が復旧する。
そこには高速道路。
倒れた少年。
リディマ。
そして巨大な黒い樹。
だが次の瞬間。
監視員の顔から血の気が消えた。
樹が動いていた。
ゆっくり。
ゆっくりと。
まるで人間のように幹を歪めながら。
そして。
裂けた樹皮の奥から、低く濁った声が響く。
『……バクタワル……』
監視員が悲鳴を上げた。
画面が真っ赤に染まる。
映像は完全に途切れた。
その夜。
ネオ・アムリトサルでは、再び銀色の魚が降り始めていた。
そして誰もまだ知らなかった。
この夜が、人類最後の物語の始まりだったことを。
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第二章:沈黙を恐れる令嬢
黒い高級車は静かに夜の都市を走っていた。
窓の外では、ネオ・アムリトサルの光が雨粒に滲み、まるで壊れかけた星空のように揺れている。
だが、その美しい景色を見ている者は誰もいなかった。
後部座席。
リディマは意識を失ったバクタワルを支えていた。
少年の体温は異常だった。
熱い。
まるで身体の奥で炎が燃え続けているような熱。
彼の首元には、赤い紋様がまだ薄く光っていた。
それを見るたびに、リディマの胸の奥がざわつく。
怖いはずだった。
得体の知れない少年。
血を流す樹。
空から降る魚。
突然の停電。
すべてが異常だった。
なのに。
彼女は彼を見捨てられなかった。
「……どうして。」
小さく呟く。
返事はない。
バクタワルは静かに眠ったままだ。
しかしその唇は微かに動いていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
祈り。
雨音の中でも不思議とはっきり聞こえる声だった。
その響きには、奇妙な温かさがあった。
リディマは視線を逸らす。
胸が痛かった。
理由は分からない。
まるで彼の孤独が、自分の中へ流れ込んでくるようだった。
車は巨大な超高層ビルの地下へ入っていく。
《レヴァナ・タワー》。
ネオ・アムリトサルを支配する巨大企業、その象徴。
だが最上階にあるリディマのペントハウスは、豪華であるほど孤独だった。
広すぎる部屋。
静かすぎる廊下。
誰も笑わない家。
「誰にも言わないで。」
エレベーターの中で、リディマは低く言った。
運転手が驚く。
「ですが、お嬢様……旦那様に知られれば――」
「言わないで。」
冷たい声だった。
だがその奥には微かな震えがあった。
運転手は黙るしかなかった。
最上階。
巨大な自動扉が開く。
夜景が広がっていた。
ネオンの海。
だがその光景さえ、どこか死んでいるように見える。
リディマはバクタワルをソファへ寝かせた。
少年の顔を見つめる。
眠っているだけなのに、どこか悲しそうだった。
まるで夢の中でも苦しみ続けているような表情。
彼の右腕には無数の傷が刻まれていた。
古い傷。
新しい傷。
そして。
焼けるような赤い紋様。
リディマはそっと触れようとする。
その瞬間。
ブワッ――
紋様が強く光った。
彼女は反射的に手を引っ込める。
空気が震えた。
部屋の照明が一瞬明滅する。
そして。
壁に異変が起きた。
「……え?」
白い壁から、緑色の蔓が伸びていた。
細く、発光する蔓。
それはゆっくりと壁を這い始める。
まるで生き物のように。
リディマは息を呑む。
ありえない。
ここは超高層ビルの最上階。
土など存在しない。
なのに植物が生えている。
しかも。
蔓はバクタワルの呼吸に合わせるように脈動していた。
「……何なの……あなた。」
バクタワルの唇が再び動く。
「……森が……泣いてる……」
リディマの背筋に冷たいものが走った。
その時だった。
部屋の巨大モニターが突然起動する。
ザー……ザー……
ノイズ。
そして赤い警告画面。
《環境異常レベル上昇》
《監視対象確認》
《ジョセフ・サークルへ報告開始》
リディマの顔色が変わる。
ジョセフ・サークル。
世界中の環境異常や超常現象を監視していると言われる謎の組織。
だが実態を知る者はほとんどいない。
噂では。
政府よりも強い。
国家よりも古い。
そして、人類の“裏側”を管理している。
「……どうしてここに。」
彼女がモニターへ近づこうとした瞬間。
画面が突然ブラックアウトした。
静寂。
雨音だけが響く。
リディマはゆっくり後ろを振り返る。
バクタワルはまだ眠っていた。
しかし。
彼の周囲にはさらに多くの蔓が広がっていた。
緑色の光。
静かな呼吸。
まるで森そのものが彼を守っているようだった。
リディマは無意識に胸元へ触れる。
そこには母の形見のネックレスがあった。
幼い頃からずっと持っているもの。
銀色の古いネックレス。
母が死ぬ直前まで絶対に手放さなかった品。
リディマはゆっくりそれを外した。
何故か。
今、見なければいけない気がした。
ネックレスを開く。
中には古びた紙片が隠されていた。
「……これは。」
そこに描かれていたのは、奇妙な紋様。
赤い線で描かれた古代文字。
そして。
リディマの呼吸が止まる。
それは。
バクタワルの首に浮かぶ傷跡と、完全に同じ形だった。
部屋の照明が再び点滅する。
雨が激しく窓を叩く。
その時。
眠っているはずのバクタワルが突然低い声で呟いた。
「……見つけた……」
リディマが凍りつく。
少年の目は閉じたままだった。
なのに。
彼は確かに笑っていた。
まるで何百年も探し続けた何かを、ようやく見つけたかのように。
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第三章:禁じられた地下室
黒い雲が空を覆っていた。
ネオ・アムリトサル中央区に存在する《アルカディア学院》は、その巨大な塔を灰色の空へ突き刺すように建っている。
世界中の天才たちが集まる超名門学院。
政治家の子供。
軍事企業の後継者。
科学者。
財閥。
そして、この世界の未来を支配する者たち。
学院の廊下は白く美しかったが、その空気には奇妙な冷たさがあった。
誰も本音を語らない。
誰も本当に笑わない。
成功と恐怖だけが支配する場所。
そんな学院の正門前で、一人の少年が静かに空を見上げていた。
バクタワル・シン。
黒い制服。
静かな瞳。
だが彼の存在だけが、この学院の空気から完全に浮いていた。
「……あいつが例の転校生?」
「聞いた? 停電事件の中心にいたらしい。」
「政府の極秘実験体って噂もある。」
生徒たちの視線が彼へ集まる。
だがバクタワルは何も反応しなかった。
まるで慣れているように。
孤独に。
静かに。
彼は学院の門をくぐる。
その瞬間だった。
遠くの校舎窓から、一人の少女が彼を見つめていた。
ナナ。
長い黒髪。
透明感のある白い肌。
だがその瞳だけは、強い不安に揺れていた。
彼女の呼吸が止まる。
「……嘘。」
胸が痛い。
頭の奥で、幼い頃から繰り返し見続けていた夢が蘇る。
黒い雨。
燃える森。
泣いている少年。
そして。
『また会える。』
夢の中で、いつもその少年はそう言っていた。
ナナは震える指で窓に触れる。
「あの人……。」
その時。
バクタワルがゆっくり顔を上げた。
二人の視線がぶつかる。
ナナの心臓が激しく脈打つ。
懐かしい。
怖い。
なのに、どうしてこんなにも悲しいのか分からない。
その瞬間。
バクタワルの首元に赤い紋様が微かに浮かび上がった。
ナナの視界が揺れる。
頭の中へ知らない記憶が流れ込む。
巨大な樹。
崩壊する都市。
血まみれの少年。
そして。
「逃げろ!!」
誰かの叫び。
ナナはその場で崩れ落ちた。
「ナナ!?」
友人たちが慌てて駆け寄る。
だが彼女の瞳は震えていた。
まるで遠い過去を見ているように。
その頃。
学院地下深部。
立入禁止区域。
暗闇の中で無数のモニターが光っていた。
白衣を着た男たちが画面を見つめている。
映し出されているのは、バクタワルの顔。
「感情共鳴値が異常上昇しています。」
「《アートマヴァーン共鳴》が再活性化している可能性があります。」
「まさか、本当に“最後の共鳴者”が……。」
低い声が部屋に響いた。
「監視を続けろ。」
闇の奥に座る男。
その顔は見えない。
だがその瞳だけが、冷たく光っていた。
「もし覚醒すれば、この都市は終わる。」
その日の授業中。
教師がホログラムを展開する。
青白い光が教室全体へ広がった。
『感情エネルギー理論』
教室が静まり返る。
教師は淡々と説明を始めた。
「数十年前、人類は新たなエネルギー反応を発見しました。それが《アートマヴァーン共鳴》です。」
巨大な映像が浮かぶ。
心臓。
神経。
森林。
海。
動物。
それら全てが赤い光で繋がっていた。
「人間の感情、記憶、苦痛、祈り――それらは自然界と共鳴していることが判明しました。」
教室がざわめく。
「強い感情は力へ変わる。怒り、悲しみ、孤独、愛情。それらは自然エネルギーを増幅させる。」
教師は少し黙った。
そして静かに続ける。
「ですが代償があります。」
画面が変わる。
そこには暴走した人間たちの映像。
身体が崩壊していく者。
精神を失う者。
怪物へ変貌した者。
「感情に飲まれた人間は、共鳴に耐えられません。」
教室が静まり返る。
だがバクタワルだけは、窓の外を見つめていた。
遠くの空。
黒い鳥が死んだように落下していく。
彼は小さく目を閉じた。
「……また増えてる。」
彼には聞こえていた。
普通の人間には聞こえない声。
森の悲鳴。
海の苦しみ。
絶滅していく命の叫び。
それら全てが、彼の心へ流れ込んでくる。
だから彼はいつも孤独だった。
誰にも理解されない。
誰にも聞こえない。
夜。
学院寮。
窓の外では黒い雨が静かに降っていた。
バクタワルはベッドに座り、小さく祈る。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
静かな声。
それだけが、彼の壊れそうな心を繋ぎ止めていた。
すると突然。
廊下の奥から音が聞こえた。
ガリ……
ガリ……
何かを引きずる音。
バクタワルはゆっくり立ち上がる。
寮は静まり返っていた。
時計は深夜二時。
だが音は続いている。
ガリ……
ガリ……
まるで巨大な何かが床を這っているような音。
彼は廊下へ出た。
暗い。
非常灯だけが赤く点滅している。
そして。
壁に黒い液体が付着していた。
血のような。
だがどこか違う。
突然。
天井裏から低い唸り声が響いた。
バクタワルが顔を上げる。
そこには。
人間ではない何かがいた。
細長い手足。
魚のような濁った目。
骨が浮き出た身体。
そして口の奥には、人間の歯が並んでいる。
怪物は天井に張り付きながら、首を不自然に曲げた。
『……ミツケタ……』
その瞬間。
怪物が飛びかかる。
だがバクタワルの紋様が赤く光った。
空気が震える。
怪物が悲鳴を上げて吹き飛んだ。
壁へ激突する。
その身体は黒い煙になって消えていった。
静寂。
だが床には奇妙な痕跡が残っている。
地下へ続く濡れた足跡。
バクタワルはゆっくりそれを追い始めた。
学院地下。
使用禁止区域。
重い鉄扉。
普通なら開かないはずだった。
だが彼が近づいた瞬間、扉の紋様が赤く発光する。
ギギギギ……
扉が勝手に開いた。
冷たい空気が流れ出る。
腐ったような臭い。
そして。
巨大な地下施設。
無数のガラス容器。
黒い液体。
その中で浮かんでいたのは。
絶滅したはずの生物たちだった。
巨大な狼。
翼を持つ白鹿。
深海魚。
燃える羽を持つ鳥。
全てが眠るように保存されている。
バクタワルの呼吸が止まる。
そして施設中央。
最も巨大な黒い水槽。
そこに浮かんでいた存在を見た瞬間。
彼の瞳が大きく揺れた。
それは。
人間だった。
しかも。
自分と同じ紋様を持っていた。
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第四章:滅びゆく森の声を聴く少年
夜のアカデミーは静かだった。
窓の外では黒い雨が降り続けている。
ネオ・アムリトサルに太陽がまともに見える日は、もう何年も存在しなかった。
空は常に灰色で、人々はそれを「普通」だと思い込むようになっていた。
だがバクタワルには分かっていた。
これは普通ではない。
世界は壊れている。
静かに。
確実に。
誰にも気づかれないまま。
薄暗い学生寮の一室。
バクタワルは床に座り、静かに数珠を握っていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
低い祈りの声。
その瞬間だった。
突然、彼の視界が歪む。
頭の奥へ直接、何かが流れ込んでくる。
――痛い。
――苦しい。
――助けて。
無数の声。
バクタワルの瞳が揺れる。
次の瞬間、彼の意識は森の中へ引きずり込まれていた。
燃えていた。
巨大な森林が炎に包まれている。
黒煙。
焼け落ちる樹木。
逃げ惑う動物たち。
空は赤く染まり、湖には死んだ魚が浮かんでいた。
そして声が聞こえる。
樹の声だった。
『……なぜ……』
『……なぜ人間は……』
『……我々を忘れた……』
バクタワルは苦しそうに胸を押さえる。
これは幻ではない。
《アートマヴァーン・レゾナンス》。
感情と魂を共鳴させる力。
だが彼の場合、それは自然そのものと繋がってしまう。
世界中で死んでいく森。
滅びる生命。
その痛みが、直接彼の中へ流れ込んでくるのだ。
「っ……!」
彼は床へ倒れ込む。
呼吸が乱れる。
額から汗が流れ落ちる。
その時、部屋の扉が開いた。
「バクタワル!?」
リディマだった。
彼女は息を切らしながら駆け寄る。
「また苦しんでるの!?」
バクタワルは答えない。
いや、答えられなかった。
彼の耳にはまだ無数の悲鳴が響いている。
木々の叫び。
海の嘆き。
絶滅していく生き物たちの最後の声。
リディマは彼の肩を掴む。
「何が聞こえてるの……?」
その瞳には恐怖よりも強い感情があった。
知りたい。
理解したい。
彼女は気づき始めていた。
バクタワルだけが、この壊れた世界の真実へ触れていることを。
バクタワルは震える声で呟く。
「……森が泣いてる。」
「え……?」
「世界中の森が……助けてって……」
リディマは言葉を失った。
彼の目は嘘をついていなかった。
むしろ悲しすぎるほど真実だった。
その頃。
廊下の奥では、ナナが静かに二人を見つめていた。
その表情は暗い。
胸の奥が苦しかった。
リディマがバクタワルを見る目。
バクタワルがリディマの前だけで少しだけ安心した顔を見せること。
全部、嫌だった。
ナナ自身にも理解できない感情。
嫉妬。
孤独。
そして恐怖。
まるで大切なものを奪われていくような感覚。
彼女は拳を握り締める。
「……なんで、あの子なの。」
その時だった。
バクタワルの身体が突然光る。
赤い紋様が首筋から腕へ広がっていく。
リディマが息を呑む。
「また……!」
空気が震え始める。
窓ガラスが細かく揺れる。
そしてバクタワルの瞳が、完全な赤へ変わった。
彼の意識は再び引き裂かれる。
今度は海だった。
巨大な海。
だが青くない。
黒かった。
油と血で汚れた海。
死んだクジラ。
腹を裂かれたイルカ。
プラスチックに絡まる鳥たち。
そして燃えていた。
海そのものが。
『……人間は……』
『……奪いすぎた……』
『……もう限界だ……』
声が頭蓋骨を内側から叩く。
バクタワルは叫ぶ。
「やめろ……!!」
ドンッ!!
部屋の照明が爆発した。
リディマが驚いて後退する。
だが彼女は逃げなかった。
普通なら恐怖するはずなのに。
それでも彼女は彼から目を離せない。
むしろ彼をもっと知りたかった。
この少年の孤独を。
痛みを。
世界が隠している真実を。
突然。
景色が変わる。
雪山だった。
白銀の世界。
吹雪。
凍った大地。
その中央に、一人の男が立っている。
長い衣。
静かな瞳。
まるで何千年も生きてきたような存在感。
ヴィジャイ。
彼は雪の中で静かにこちらを見る。
「自然は怒っているのではない。」
低い声。
「悲しんでいるのだ。」
バクタワルは苦しそうに息を吐く。
「……あんたは誰だ。」
ヴィジャイは答えない。
代わりに空を見上げた。
すると空が裂ける。
その向こうには燃える海。
崩壊する都市。
泣き叫ぶ人々。
そして巨大な黒い樹。
ヴィジャイが静かに言う。
「最後の種が目覚めれば、世界は選ばれる。」
「……何を言ってる。」
「お前はまだ知らない。」
吹雪が強くなる。
ヴィジャイの姿が少しずつ消えていく。
「なぜ人類が滅び始めたのかを。」
その瞬間。
バクタワルの意識が現実へ戻った。
「っ……!」
彼は激しく咳き込む。
リディマが支える。
「大丈夫!?」
だが次の瞬間。
彼女の顔色が凍りついた。
バクタワルの口から流れ落ちた液体。
それは普通の血ではなかった。
黒かった。
まるで闇そのもののような血。
床へ落ちた瞬間、小さな植物が枯れる。
リディマが震える。
「……何、これ……」
バクタワル自身も理解できなかった。
だがもっと恐ろしいことが起きる。
突然。
無数の声が一斉に彼の頭へ流れ込んできた。
鳥。
狼。
鹿。
クジラ。
虎。
絶滅した生き物たち。
世界中の命の悲鳴。
何百万もの叫びが同時に響く。
『助けて――!!』
『痛い――!!』
『死にたくない――!!』
「やめろおおおおお!!」
バクタワルが絶叫する。
窓ガラスが砕け散る。
校舎全体が揺れる。
遠くで警報が鳴り響く。
そして彼は再び黒い血を吐きながら、静かに崩れ落ちた。
その瞬間。
誰にも見えない闇の中で。
巨大な黒い樹が、ゆっくり目を開いた。
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第五章:海の底に降る雨
雨が降っていた。
海の底で。
ネオ・アムリトサル地下第七層。
数十年前に封鎖された旧海洋研究区域。
そこは本来、人間が立ち入ることを禁じられた場所だった。
薄暗い非常灯だけが赤く点滅し、腐った海水の臭いが空気に混じっている。
崩壊したトンネルの天井から水滴が落ち続け、その音だけが静寂の中で不気味に響いていた。
ポタ……ポタ……
「本当にこの先にあるの?」
リディマが小さく尋ねる。
濡れた黒髪を耳へかけながら、彼女は慎重に足を進めていた。
その隣を歩くバクタワルは無言だった。
だが彼の目だけは、暗闇の奥を警戒するように鋭く揺れている。
ナナは少し後ろを歩いていた。
彼女は二人の距離を見つめながら、静かに唇を噛む。
リディマは最近、変わった。
以前のような冷たさが少しずつ消えている。
バクタワルといる時だけ。
それがナナには痛かった。
「……この場所、嫌な感じがする。」
ナナが呟く。
するとバクタワルが立ち止まった。
彼は静かに目を閉じる。
「聞こえる。」
「え?」
「海が泣いてる。」
空気が凍った。
リディマは彼を見る。
バクタワルの首元には、赤い紋様が微かに浮かんでいた。
アートマヴァーン・レゾナンス。
感情と自然を共鳴させる禁断の力。
その力を使うたび、彼は世界の“痛み”を感じてしまう。
そして今。
彼は海の悲鳴を聞いていた。
突然。
遠くから低い音が響く。
ゴゴゴゴ……
水面が震えた。
「まずい……!」
次の瞬間。
巨大な濁流がトンネルを飲み込んだ。
「走って!」
リディマが叫ぶ。
三人は崩れた通路を必死に駆け抜ける。
冷たい海水が足元を襲い、壁へ叩きつけられた魚の死骸が流れていく。
暗闇。
警報音。
赤い非常灯。
世界そのものが崩壊していくようだった。
バクタワルは咄嗟にリディマの腕を掴む。
「こっち!」
二人は横穴へ飛び込む。
直後。
巨大な水流が通路を飲み込んだ。
轟音が響く。
しばらくして。
静寂。
荒い呼吸だけが暗闇に残った。
リディマはバクタワルの胸へ倒れ込む形になっていた。
近い。
近すぎる。
彼の体温が伝わる。
静かな鼓動。
そして、どこか悲しい香り。
リディマの胸が苦しくなる。
「……どうして。」
「何が?」
「どうしてあなたは、そんなに悲しい目をするの?」
バクタワルは答えなかった。
代わりに静かに目を逸らす。
「俺は……」
彼の声は小さい。
「昔から、死んでいくものの声が聞こえる。」
リディマの呼吸が止まる。
「木も、海も、動物も……全部。」
彼はゆっくり天井を見上げた。
水滴が落ちる。
まるで涙のように。
「この世界は、ずっと前から壊れてた。」
沈黙。
リディマは彼を見つめる。
この少年は何者なのか。
なぜこんなにも孤独なのか。
なぜ彼を見ていると、自分の心まで痛くなるのか。
その時。
ナナの通信端末が小さく振動した。
彼女の表情が一瞬だけ変わる。
「……ちょっと先を見てくる。」
そう言い残し、彼女は暗闇へ消えた。
リディマは気づかなかった。
だがバクタワルだけは、彼女の瞳に浮かんだ迷いを見ていた。
数分後。
ナナは別通路へ出ていた。
そこは崩れた旧研究室。
壁には古い企業ロゴが刻まれている。
《ヨセフ・サークル》
彼女の前には、一人の男が立っていた。
黒いコート。
顔の半分を機械で覆った男。
「久しぶりだな、ナナ。」
彼女は冷たい目で男を見る。
「約束は守るんでしょうね。」
男は笑った。
「もちろんだ。バクタワル・シンを連れてくればな。」
ナナの拳が震える。
「……本当に、彼を殺さないの?」
男は答えない。
その沈黙だけで十分だった。
ナナは目を伏せる。
胸が痛い。
だが彼女には理由があった。
誰にも言えない理由が。
一方その頃。
リディマとバクタワルは最深部へ到達していた。
巨大な扉。
古代文字。
そして腐食した研究記録。
リディマが端末を起動する。
映像が映し出された。
そこにあったのは、人類が隠してきた真実だった。
死んだ海。
黒く変色した珊瑚。
大量死する魚群。
薬品に汚染された海洋生物。
そして。
世界中の大企業が、その事実を隠蔽していた証拠。
リディマの顔が青ざめる。
「そんな……」
バクタワルは静かに目を閉じた。
「人間は、自分で世界を殺した。」
突然。
地面が揺れる。
ゴゴゴゴ……
巨大な扉がゆっくり開いていく。
冷たい青い光が漏れた。
三人は息を呑む。
その先に広がっていたのは。
海だった。
地下深くに存在する、巨大な空洞海域。
暗い水面。
沈んだ研究施設。
そして。
海底に横たわる巨大な影。
リディマの声が震える。
「……嘘でしょ。」
それはクジラだった。
だが普通ではない。
骨だけだった。
巨大な白骨。
しかし。
死んでいるはずのその骨は、脈動していた。
ドクン。
ドクン。
まるで生きているように。
さらに。
骨の内部には赤い古代紋様が浮かび上がっていた。
アートマヴァーン・レゾナンスの文字。
その瞬間。
クジラの頭部がゆっくり動いた。
巨大な空洞の目が、三人を見下ろす。
海の底で。
死んだはずの存在が。
静かに呼吸していた。
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第六章:もう一つの時代を覚えていた少女
雨が降っていた。
ネオ・アムリトサルでは最近、晴れの日の方が珍しかった。
灰色の空。
冷たい風。
崩れ始めた自然。
都市全体が、ゆっくり死へ向かっているようだった。
アカデミーの窓際に座るナナは、ぼんやりと外を見つめていた。
校庭の木々は黒ずみ始めている。
葉は枯れ。
鳥は消え。
最近では昆虫の姿すら減っていた。
世界から「命」が静かに消えている。
そんな感覚があった。
だが今、ナナの心を支配していたのは別のものだった。
バクタワル・シン。
彼の存在だった。
「……なんで。」
小さく呟く。
胸が苦しかった。
彼を見るたび、心の奥が痛む。
初めて会ったはずなのに。
ずっと昔から知っていたような感覚が消えない。
彼の声。
彼の瞳。
彼の孤独。
すべてが、なぜか懐かしかった。
「またその顔してる。」
突然、後ろから声がした。
リディマだった。
黒い制服。
長い髪。
相変わらず完璧な美しさだったが、その瞳には疲れが浮かんでいた。
ナナは慌てて視線を逸らす。
「別に。」
「嘘。」
リディマは静かに隣へ座った。
沈黙。
遠くで雨音だけが響いている。
最近、二人の間には妙な空気が流れていた。
バクタワルを中心に、少しずつ感情が歪み始めている。
リディマは窓の外を見ながら呟いた。
「……あいつ、最近おかしい。」
「え?」
「夜になると消えるの。」
ナナの胸が小さく揺れる。
「昨日も、一人で旧地下区域へ行ってた。」
「危険だよ、あそこ……」
「止めても聞かない。」
リディマは唇を噛んだ。
怒っているようにも見えた。
だが本当は違う。
怖がっているのだ。
バクタワルがどこか遠くへ行ってしまうことを。
ナナは静かに聞く。
「……好きなの?」
その瞬間。
リディマの肩が止まった。
長い沈黙。
やがて彼女は小さく笑う。
だが、その笑顔はどこか壊れていた。
「分からない。」
「……。」
「でも、怖い。」
リディマの声は震えていた。
「見てると、消えてしまいそうで。」
ナナは何も言えなかった。
なぜなら。
自分も同じだったから。
その時だった。
教室の扉が開く。
バクタワルが入ってきた。
空気が変わる。
教室中の視線が彼へ集まった。
誰もが彼を恐れていた。
最近、奇妙な噂が広がっている。
「死んだ森と会話していた」
「地下施設で怪物を倒した」
「空を見上げるだけで魚が落ちてきた」
もちろん誰も証拠は持っていない。
だが人は、理解できないものを恐れる。
バクタワルは静かに席へ座った。
その横顔は相変わらず孤独だった。
まるで世界に居場所が存在しない人間のように。
ナナは彼を見つめる。
すると突然。
頭痛が走った。
視界が揺れる。
「っ……!」
同時に。
知らない景色が脳裏へ流れ込んできた。
巨大な森。
青白い月。
燃える神殿。
そして。
白い服を着た少年。
今より幼いバクタワルだった。
彼は泣いていた。
『逃げろ、ナナ!』
知らないはずの声。
だが胸が締め付けられる。
その瞬間。
視界が戻った。
ナナは荒く息を吐く。
「どうした?」
バクタワルがこちらを見ていた。
その目を見た瞬間。
また胸が痛んだ。
「……今、あなたを見た。」
「?」
「違う……でも、あなただった……」
バクタワルの表情がわずかに変わる。
リディマも不安そうに二人を見る。
ナナは震える声で言った。
「炎の中にいた。」
教室の空気が静まり返る。
バクタワルはゆっくり目を伏せた。
「……夢だ。」
「違う。」
ナナは即座に否定した。
なぜか分かる。
あれは夢ではない。
記憶だった。
遠い昔の。
消えたはずの。
バクタワルは静かに立ち上がる。
「来るな。」
それだけ言って教室を出ていった。
ナナは反射的に追いかけた。
廊下。
雨音。
薄暗い照明。
彼は人気のない旧校舎へ向かっていた。
「待って!」
バクタワルは止まらない。
ナナはようやく彼の腕を掴んだ。
その瞬間だった。
大量の映像が脳へ流れ込む。
古代の森。
巨大な白い樹。
無数の祈り。
そして。
黒い空。
滅びる世界。
若いバクタワルが剣を握っている。
その隣には――
自分がいた。
「……え……」
ナナの膝が崩れる。
息ができない。
涙が勝手に溢れてくる。
「なんで……」
バクタワルの顔が歪んだ。
苦しそうだった。
まるで思い出したくないものを見せられているように。
「見るな。」
「これ……何なの……」
「忘れろ。」
「無理だよ……!」
ナナの声が震える。
胸が痛い。
苦しい。
でも。
なぜか嬉しかった。
ようやく、自分が空っぽだった理由を見つけた気がしたから。
その時。
バクタワルの腕から血が流れ落ちた。
赤い血。
だが、その中には微かな青い光が混ざっていた。
ナナの指先へ血が触れる。
瞬間。
世界が止まった。
空気が震える。
床に奇妙な紋様が広がった。
赤と青の光。
共鳴。
ナナの瞳が光る。
彼女の周囲に無数の花びらが浮かび始めた。
存在しないはずの光の花。
風が吹き荒れる。
バクタワルが目を見開く。
「……まさか。」
ナナの胸に激痛が走る。
だが同時に、何かが目覚めていく。
忘れていた感覚。
遠い昔に失った力。
頭の中へ声が響く。
『守れ。最後の共鳴者を。』
ナナの身体から淡い光が溢れ始める。
その瞬間。
旧校舎全体が揺れた。
そして遠く離れた地下施設で、一人の男が静かに笑った。
ラナ・ナイドゥ。
彼は監視画面に映るナナを見つめながら呟く。
「……ついに目覚めたか。」
その瞳には、静かな狂気が宿っていた。
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第七章:ジョセフ・サークルの黒き聖堂
夜の雨は止んでいた。
だが、ネオ・アムリトサルの空には重苦しい雲が張り付き、月の光さえ街へ届かなかった。
廃墟地区。
誰も近づかない旧宗教区の奥で、巨大な聖堂が静かに佇んでいる。
崩れた尖塔。
割れたステンドグラス。
黒く腐食した十字架。
何十年も前に閉鎖されたはずのその場所には、異様な静けさが漂っていた。
「ここが……ジョセフ・サークルの本部……?」
リディマが低く呟く。
その声には緊張が混じっていた。
バクタワルは聖堂を見上げたまま答えない。
彼の瞳だけが暗闇の奥を見つめている。
まるで、この場所を知っているかのように。
ナナが不安そうに口を開いた。
「本当に入るの……?」
冷たい風が吹く。
その瞬間。
バクタワルの首元の紋様が赤く脈動した。
ドクン。
彼は小さく眉をしかめる。
また聞こえた。
声。
無数の悲鳴。
動物たちの泣き声。
焼かれる森。
溺れるクジラ。
絶滅していく命の叫び。
アートマヴァーン・レゾナンス。
自然と魂の痛みを感じ取る力。
だがその力は、使うたびに彼の精神を削っていた。
「……急ごう。」
バクタワルは静かに歩き始める。
聖堂の巨大な扉は半分崩れていた。
内部は暗い。
だが床には新しい足跡が残っている。
誰かが今もここを使っている。
リディマが懐中灯を照らす。
壁一面に古代文字。
奇妙な紋章。
そして。
大量の動物の骨。
「……何これ。」
ナナが青ざめる。
鹿。
狼。
鳥。
絶滅したはずの生物まで混ざっていた。
その奥。
祭壇の下に巨大な地下通路が続いている。
湿った空気。
鉄の匂い。
そして。
血の臭い。
三人はゆっくり地下へ降りていく。
階段は異常なほど長かった。
まるで地獄へ続いているように。
やがて。
巨大な空間へ辿り着く。
リディマは息を呑んだ。
地下世界だった。
無数の研究施設。
巨大水槽。
黒い液体。
ガラスケース。
その中には。
絶滅した生物たちが眠っていた。
「そんな……」
マンモス。
オオカミ。
巨大な鳥。
古代魚。
だが異常なのは、それだけではない。
全ての生物の胸には赤い紋様が刻まれていた。
バクタワルの紋様と同じ。
その時。
奥の研究室から声が聞こえる。
「共鳴率、安定しません。」
「魂の定着が不完全です。」
「もっと感情エネルギーが必要だ。」
リディマたちは物陰へ隠れる。
白衣の研究員たち。
巨大モニター。
そこには恐ろしい映像が映っていた。
人間と動物の魂を融合させる実験。
絶滅種の“魂”を兵器として利用する研究。
アートマヴァーン・レゾナンスを使い、死んだ生物の感情を人間へ移植している。
「狂ってる……」
ナナが震える。
「こんなの、人間じゃない……」
しかし。
バクタワルだけは静かだった。
怒りではない。
深い悲しみ。
彼は知っていた。
人類が自然を壊し続けた果てに、この狂気が生まれたことを。
その時。
研究室全体の照明が突然消えた。
闇。
静寂。
そして。
ゆっくりと拍手の音が響く。
パン。
パン。
パン。
低い男の声。
「素晴らしい。」
空間の奥から、一人の男が現れる。
黒いコート。
白髪混じりの髪。
落ち着いた瞳。
静かな笑み。
ラナ・ナイドゥ。
ジョセフ・サークル最高責任者。
世界を裏から操る男。
彼の存在だけで空気が重くなる。
リディマは instinctively 後退した。
だがラナは穏やかに笑う。
「ようこそ、子供たち。」
その声には怒気がない。
むしろ教師のように優しい。
それが逆に恐ろしかった。
ラナはゆっくり歩きながら言う。
「君たちは人類をどう思う?」
誰も答えない。
ラナは巨大水槽を見上げる。
そこには巨大なクジラの骨格が浮かんでいた。
「人類は美しい。」
「だが同時に、醜い。」
「森を燃やし、海を汚し、命を絶滅させながら、自分たちだけは特別だと思っている。」
彼は静かに笑った。
「地球はもう限界なんだ。」
「だから私は救おうとしている。」
ナナが怒鳴る。
「こんなの救いじゃない!」
ラナは優しく首を傾げた。
「では聞こう。」
「人類が存在する限り、自然は滅び続ける。」
「ならば、どちらを残すべきだ?」
その言葉に誰も答えられない。
重い沈黙。
ラナの瞳には本物の絶望があった。
彼は本気で信じている。
人類は滅ぶべき存在だと。
その時。
ラナの視線がバクタワルへ向く。
空気が変わる。
「……君は、本当に彼らに似ている。」
バクタワルの眉が動く。
「……誰のことだ。」
ラナは静かに微笑んだ。
だがその笑みには、奇妙な哀しみが混じっていた。
「君の両親だよ。」
その瞬間。
世界が止まった。
リディマが息を呑む。
ナナの顔が凍りつく。
バクタワルだけが動かなかった。
だが彼の瞳の奥で、何かが崩れ始めていた。
ラナはゆっくり近づく。
「私は彼らを知っていた。」
「いや。」
「共に世界を救おうとしていた。」
バクタワルの紋様が激しく脈動する。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「……嘘だ。」
低い声。
怒りではない。
震えるような恐怖。
ラナは静かに首を振る。
「嘘ではない。」
「君の両親は、自ら死を選んだ。」
「“最後の種”を守るために。」
その瞬間。
地下施設全体が揺れ始めた。
警報。
赤いランプ。
研究員たちの悲鳴。
だがバクタワルには何も聞こえていなかった。
彼の脳裏には、幼い頃の記憶が蘇っていた。
燃える森。
血。
泣き声。
そして。
誰かの祈り。
「ワヘグル……」
バクタワルの目から、静かに涙が落ちた。
その瞬間。
地下施設の全てのガラスが同時に砕け散った。
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第八章:祈りの中の怪物
雨が降っていた。
ネオ・アムリトサルの空は数日間ずっと黒い雲に覆われ、太陽は完全に姿を消していた。
学院上空では巨大な警報ドローンが巡回し、不気味な赤い光を地面へ照らしている。
街の人々は怯えていた。
最近になって増え始めた異常現象。
空から降る魚。
突然枯れる森林。
海岸へ打ち上げられる巨大生物の死骸。
そして夜になると現れる“黒い怪物”。
政府は情報を隠していた。
だが恐怖だけは、静かに人々の心へ広がっていく。
アルカディア学院でも、生徒たちの空気は変わり始めていた。
誰も笑わない。
誰も夜に外へ出ない。
廊下には監視兵が増え、地下区域は完全封鎖された。
その日の夜。
学院中央棟。
赤い非常灯だけが暗闇を照らしていた。
リディマは静かに廊下を歩いていた。
彼女の心は乱れていた。
ここ数日、バクタワルの様子がおかしかった。
笑わない。
眠らない。
一人でどこかへ消える。
そして時々、彼の身体から赤い光が漏れている。
まるで彼の内側で何かが目覚め始めているようだった。
「……どこにいるの。」
彼女は小さく呟く。
その時。
遠くから悲鳴が聞こえた。
リディマの顔色が変わる。
次の瞬間。
爆音。
ガァァァン!!
校舎全体が激しく揺れた。
窓ガラスが砕け散る。
生徒たちの悲鳴が夜へ響く。
「キャアアアア!!」
「逃げろ!!」
リディマは走った。
中央ホールへ向かう。
そして。
そこで彼女が見たものは、悪夢そのものだった。
巨大な黒い怪物。
天井近くまで伸びた異形の身体。
骨のような腕。
濁った無数の目。
そして口の中には、人間の顔が埋め込まれていた。
怪物は生徒を握り潰していた。
血が床へ飛び散る。
絶叫。
混乱。
地獄。
「なんなの……これ……。」
リディマの足が震える。
その瞬間。
怪物が彼女へ気づいた。
無数の目が一斉に向く。
『……ミツケタ……』
怪物が襲いかかる。
だが。
赤い光が空間を裂いた。
ドォォォン!!
怪物の身体が吹き飛ぶ。
壁へ叩きつけられる。
煙の中から現れたのは。
バクタワルだった。
黒い制服は血に濡れ、首元の紋様が赤く燃えている。
彼の瞳は異様だった。
怒り。
悲しみ。
絶望。
全てが混ざり合っている。
「……下がってろ。」
低い声。
だがその声には、人間らしい温度がほとんど残っていなかった。
怪物が咆哮する。
黒い液体を撒き散らしながら突進。
その瞬間。
バクタワルの紋様が全身へ広がった。
赤い線が皮膚を這う。
空気が震える。
彼の周囲で無数の幻影が現れ始めた。
泣いている子供。
燃える森。
死んだ動物。
崩壊する海。
絶滅していく命の記憶。
それら全てが彼の感情へ流れ込んでくる。
《アートマヴァーン共鳴》。
感情を力へ変える禁断の能力。
だがその本質は。
“苦しみ”だった。
深い悲しみ。
孤独。
怒り。
それらが強ければ強いほど、力も増幅する。
代わりに。
人間性が削られていく。
怪物が再び飛びかかる。
バクタワルは静かに手を上げた。
「……消えろ。」
瞬間。
怪物の身体が内側から裂けた。
グシャアアア!!
血と黒い肉片が吹き飛ぶ。
生徒たちが悲鳴を上げる。
だがバクタワルは止まらなかった。
怪物はまだ生きていた。
苦しみながら這っている。
すると。
バクタワルの瞳が完全に赤く染まった。
その顔から感情が消える。
まるで別の存在になったように。
「バクタワル……?」
リディマが震える声で呼ぶ。
しかし。
彼は反応しない。
怪物へゆっくり近づく。
そして。
素手で怪物の頭を掴んだ。
次の瞬間。
空間そのものが歪む。
怪物の悲鳴。
絶叫。
泣き声。
無数の感情が爆発する。
バクタワルは怪物の記憶を“喰って”いた。
怪物が見てきた絶望。
苦痛。
憎しみ。
死。
それら全てを強引に吸収している。
リディマの顔が青ざめる。
「やめて……!」
だが止まらない。
バクタワルの身体が震える。
血が口から流れる。
それでも彼は怪物を握り潰し続ける。
怪物の身体が崩壊する。
黒い粒子となって消えていく。
そして静寂。
誰も動けなかった。
そこに立っていたのは。
もう“普通の少年”ではなかった。
赤い光に包まれた存在。
周囲の空気さえ恐怖で震えている。
バクタワルはゆっくり振り返る。
その目を見た瞬間。
リディマの呼吸が止まった。
恐ろしかった。
底知れない闇。
悲しみ。
壊れた魂。
彼の瞳には、人間では抱えきれないほどの苦痛が沈んでいた。
だが。
それでも彼女は目を逸らせなかった。
怖いのに。
逃げたいのに。
どうしても彼から離れられない。
彼女の胸が痛む。
理解してしまったから。
彼は怪物になりたいわけじゃない。
誰より苦しんでいるのは、彼自身なのだと。
その時。
バクタワルの身体が大きく揺れた。
「ッ……!」
彼は壁へ手をつく。
呼吸が乱れている。
紋様が暴走するように脈動していた。
リディマが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「来るな!!」
怒鳴り声。
リディマが止まる。
バクタワルは苦しそうに頭を押さえていた。
その脳裏へ、無数の声が流れ込んでいる。
助けて。
苦しい。
死にたくない。
森が燃える。
海が腐る。
命が消える。
世界そのものの悲鳴。
彼はそれを全部聞いてしまう。
だから壊れていく。
「……ワヘグル……。」
震える声。
彼は小さく祈り始めた。
「ワヘグル……ワヘグル……。」
まるで自分を繋ぎ止めるように。
だがその祈りの奥で。
別の声が囁いていた。
『もっと怒れ。』
『もっと憎め。』
『全て壊せ。』
バクタワルの瞳が揺れる。
そして。
彼は廊下奥の窓へ視線を向けた。
雨に濡れたガラス。
そこへ映っていたのは。
自分ではなかった。
黒く裂けた顔。
赤く発光する無数の目。
口元まで裂けた異形の笑み。
完全に“人間ではない何か”。
バクタワルの呼吸が止まる。
鏡の中の怪物が。
ゆっくり笑った。
________________________________________
第九章:根の下に眠る都市
雨の音が止んでいた。
それが逆に不気味だった。
ネオ・アムリトサルでは、黒い雨が止むことなど滅多にない。人々は雨音の中で眠り、雨音の中で絶望し、雨音の中で生きている。
だが今夜だけは違った。
世界そのものが息を潜めている。
そんな静寂だった。
アカデミー地下深層区域。
崩れかけた通路を、バクタワルたちは慎重に進んでいた。
壁一面に走る赤い古代文字。
天井から垂れ下がる黒い根。
まるで巨大な生物の内臓の中を歩いているような感覚だった。
リディマが小さく呟く。
「……ここ、本当に地下なの?」
ナナも周囲を警戒しながら歩く。
「空気がおかしい……。」
冷たい。
だが単なる温度ではない。
もっと深い何か。
時間そのものが腐敗したような空気だった。
バクタワルだけは黙っていた。
彼の耳には、また声が聞こえていた。
無数の囁き。
遠い昔の祈り。
消えていった命の残響。
《アートマヴァーン・レゾナンス》が、この場所へ異常に反応している。
彼は壁へ触れる。
すると赤い紋様が指先から広がった。
その瞬間。
ゴゴゴゴ……!!
巨大な音と共に、壁そのものが左右へ開き始める。
リディマが息を呑む。
「嘘……。」
その先に広がっていたのは――都市だった。
地下に存在する巨大な古代都市。
無数の石造建築。
巨大な神殿。
空の代わりに、天井全体を覆う青白い発光結晶。
そして都市の中央には、光り輝く巨大な樹が存在していた。
黒く死んだ地上の樹とは違う。
それは生きていた。
静かに。
神聖な呼吸を続けるように。
ナナが震える声を漏らす。
「……綺麗……。」
その光景は、あまりにも幻想的だった。
まるで文明そのものが自然と共鳴している。
ネオ・アムリトサルの冷たい鋼鉄都市とは正反対だった。
バクタワルはゆっくり歩き出す。
すると地面に埋め込まれた模様が次々と光り始めた。
赤。
青。
金。
それらはまるで彼を歓迎しているかのようだった。
リディマが周囲を見回す。
壁画があった。
巨大な壁一面に描かれた古代の記録。
そこには、人間と動物が共に祈る姿が描かれていた。
狼。
鳥。
鹿。
クジラ。
そして樹。
人間たちは自然を支配していない。
共に生きていた。
リディマは思わず呟く。
「昔の人類……?」
バクタワルが静かに答える。
「違う。」
彼の瞳は壁画を見つめていた。
「本当の人類だ。」
その言葉に空気が凍る。
ナナが眉をひそめた。
「どういう意味?」
バクタワルは苦しそうに目を閉じる。
また声が聞こえる。
悲鳴ではない。
もっと静かな声。
『最後の聞き手を導け。』
『世界はもう限界だ。』
『だが希望はまだ消えていない。』
突然。
都市中央の巨大樹が光り始めた。
青白い粒子が空間へ舞い上がる。
その時だった。
足元の地面が揺れる。
ゴオオオオ……!!
地下深くから巨大な振動。
遠くで何かが目覚める音。
リディマが警戒する。
「何か来る……!」
だがバクタワルは逆方向を見ていた。
地下都市のさらに奥。
暗闇の先。
そこに誰かが立っていた。
長い衣。
静かな目。
雪のように白い髪。
ヴィジャイだった。
リディマが息を呑む。
「……あの人……。」
今まで夢の中でしか現れなかった存在。
だが今、彼は確かに現実に存在していた。
ヴィジャイは静かに歩き出す。
その足元では、水が光っていた。
地下を流れる巨大な河川。
青白い光を放つ神秘的な川。
まるで星空が地面を流れているようだった。
ヴィジャイが口を開く。
「ここは《根の都》。」
その声は静かだった。
だが空間そのものへ響いていく。
「人類がまだ自然を恐れ、愛し、共に生きていた時代の最後の記憶。」
リディマが問いかける。
「なぜ地上から消えたの?」
ヴィジャイは光る河を見つめた。
「人類が選んだからだ。」
「……え?」
「便利さを。」
「欲望を。」
「支配を。」
彼の目には深い悲しみがあった。
「人類は自然と対話することをやめた。」
バクタワルが静かに尋ねる。
「……俺は何なんだ。」
ヴィジャイは彼を見る。
その視線は、まるで何千年も前から彼を知っているようだった。
「お前は《最後の聞き手》だ。」
その瞬間。
地下都市全体が震えた。
巨大樹の光が強くなる。
無数の古代文字が空中へ浮かび上がる。
リディマが驚く。
「最後の……聞き手?」
ヴィジャイは頷いた。
「世界が完全に沈黙する前に。」
「自然の最後の声を聞ける存在。」
「それがお前だ。」
バクタワルの胸が苦しくなる。
だから聞こえるのか。
森の悲鳴が。
海の絶望が。
滅びゆく命の叫びが。
ヴィジャイは続ける。
「だがその力は祝福ではない。」
「世界中の苦しみを受け入れる呪いでもある。」
その言葉にリディマの顔が曇る。
彼女は気づき始めていた。
バクタワルが毎日どれほどの孤独と痛みを抱えているのかを。
ナナは黙っていた。
だが胸の奥が苦しかった。
リディマの視線。
バクタワルの表情。
二人の距離。
それが少しずつ自分を置き去りにしていく気がした。
その時だった。
地下都市の奥で何かが光る。
巨大な壁画だった。
崩れた神殿の奥。
そこには、この文明最後の記録が描かれていた。
人々。
樹。
祈り。
そして。
一つの紋章。
リディマの顔色が変わる。
「……嘘。」
その紋章を彼女は知っていた。
幼い頃から何度も見てきた。
レヴァナ家の家紋。
そしてその下には古代文字が刻まれている。
《ヨセフ・サークル創設者》
ナナが息を呑む。
「……リディマの家が……?」
ヴィジャイは静かに目を閉じた。
「そうだ。」
「お前の一族こそ、人類を壊し始めた最初の血族だ。」
リディマの呼吸が止まる。
壁画には描かれていた。
古代文明を裏切る者たち。
自然を利用し始めた者たち。
そして地下都市を封印した存在。
その中心にいたのは――彼女の祖先だった。
リディマの膝が崩れる。
「……そんな……。」
彼女の瞳から涙が零れ落ちる。
その瞬間。
地下都市の奥深くで。
何か巨大な存在がゆっくり目を開いた。
________________________________________
第十章:億万長者の罪
雨が降っていた。
ネオ・アムリトサル中心区。
巨大企業《レヴァナ財団》本社。
黒い超高層ビルは、夜空へ突き刺さる墓標のようにそびえている。
ガラスの外壁には無数の広告映像が流れていた。
環境保護。
未来技術。
人類救済。
だがリディマは知ってしまった。
そのすべてが嘘だったことを。
重い自動扉が開く。
冷たい白い廊下。
無機質な照明。
社員たちは彼女を見るなり頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
だがその声には恐怖が混じっていた。
彼女は無言で歩き続ける。
その後ろを、バクタワルとナナが静かについていく。
空気が重かった。
誰も言葉を発しない。
リディマの瞳だけが冷たく燃えていた。
最上階。
総裁室。
巨大な扉の前で、彼女は立ち止まる。
深呼吸。
そして扉を開いた。
部屋の奥。
巨大な窓の前に、一人の男が立っていた。
リディマの父。
レヴァナ財団総裁。
世界経済を支配する男。
「……久しぶりだな。」
低い声。
感情のない声。
リディマは睨みつける。
「質問があるの。」
男は振り返らない。
「魚の大量死。」
「森林消滅。」
「地下海洋実験。」
「絶滅種研究。」
彼女の声が震える。
「全部……あなた達がやったの?」
沈黙。
窓の外では黒い雨が降り続いている。
やがて男は静かに口を開いた。
「世界を維持するには、犠牲が必要だ。」
その瞬間。
リディマの中で何かが壊れた。
「犠牲……?」
彼女の声が掠れる。
「何万もの命を殺しておいて……?」
「海を壊して……?」
「動物を実験材料にして……?」
「それを犠牲って呼ぶの!?」
男は表情を変えない。
「感情論で世界は救えない。」
「……っ!」
リディマは机を叩いた。
涙が溢れる。
止まらない。
「私は……何も知らなかった……」
彼女の呼吸が乱れる。
「ずっと信じてた……!」
「お父様は世界を守ってるって……!」
「でも違った……!」
「全部……全部……!」
彼女は崩れるように床へ膝をついた。
涙が落ちる。
静かな部屋に響く。
幼い頃から、彼女はずっと一人だった。
母は死に。
父は仕事しか見ていなかった。
誰も彼女を見てくれなかった。
だから。
せめて父だけは正しい人間だと信じたかった。
だがその最後の支えさえ、今崩れ落ちていく。
「……どうして。」
小さな声。
壊れそうな声。
「どうして私を、一人にしたの……。」
男の目が一瞬だけ揺れた。
だがそれもすぐ消える。
「感情は弱さだ。」
その言葉を聞いた瞬間。
バクタワルが静かに前へ出た。
「違う。」
部屋の空気が変わる。
男は初めて彼を見る。
バクタワルの瞳は静かだった。
だがその奥には深い怒りが眠っている。
「感情があるから、人は壊れた世界を救いたいと思える。」
「感情があるから、命を守ろうとする。」
「それを弱さって呼ぶなら……」
彼の首元に赤い紋様が浮かぶ。
「人間は、最初から終わってる。」
静寂。
男はバクタワルを見つめた。
まるで何かを思い出すように。
「……その目。」
「やはり似ているな。」
リディマが顔を上げる。
「何を知ってるの……?」
男は答えない。
代わりに端末を操作した。
部屋中央に立体映像が浮かび上がる。
古い研究施設。
白衣の研究員たち。
泣き叫ぶ子供。
そして。
小さな少年。
血だらけの腕。
首元に浮かぶ赤い紋様。
リディマの呼吸が止まる。
「……バクタワル……?」
映像の中の少年は、間違いなく彼だった。
幼い。
まだ十歳ほど。
研究台に拘束されている。
無数の管。
薬剤。
悲鳴。
「やめろ……!」
バクタワルが顔を歪める。
記憶が蘇る。
白い部屋。
冷たい手術台。
泣き声。
燃えるような痛み。
「被験体BS―01。」
研究員の声。
「共鳴適合率、異常上昇。」
「自然波長との同期確認。」
映像の中で、小さなバクタワルが涙を流しながら呟いていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
リディマの全身が震える。
「……誰がこんなことを。」
男は静かに答えた。
「私だ。」
世界が止まった。
リディマの顔から血の気が消える。
男は無感情のまま続ける。
「アートマヴァーン・レゾナンスを安定させるためには、特殊な共鳴体が必要だった。」
「彼は最適だった。」
バクタワルの拳が震える。
だが彼は怒鳴らなかった。
ただ静かに立っている。
その姿が逆に痛々しかった。
リディマの瞳から涙が溢れる。
「……嘘。」
「そんなの……嘘だよ……」
男は冷たく言った。
「世界を救うためだった。」
その瞬間。
リディマは叫んだ。
「救えてないじゃない!!」
窓ガラスが震えるほどの声だった。
「世界は壊れてる!!」
「海も!」
「森も!」
「人の心も!!」
彼女は泣き崩れる。
ずっと押し殺してきた感情が溢れていく。
孤独。
怒り。
悲しみ。
愛されたかった記憶。
全部。
全部。
壊れていく。
その時。
温かい感触が肩へ触れた。
バクタワルだった。
彼は何も言わない。
ただ静かに彼女の隣へ座る。
リディマは震えながら彼を見る。
「……どうして。」
「私は、あなたを苦しめた側なのに。」
「どうして優しくするの……?」
バクタワルは少しだけ笑った。
悲しい笑顔だった。
「お前は、あいつらとは違う。」
その言葉に、リディマの涙がさらに溢れた。
だが。
少し離れた場所で。
ナナはその光景を見つめていた。
静かに。
誰にも気づかれないように。
胸が痛かった。
リディマが羨ましかった。
バクタワルが見つめる相手。
支えたいと思う相手。
それが自分ではないことを、彼女は理解してしまっていた。
ナナは小さく俯く。
その瞳には、壊れそうな孤独が浮かんでいた。
その時。
研究映像の最後に、一枚の電子署名が表示される。
《実験承認責任者》
《レヴァナ財団総裁》
その下に刻まれていた名前を見た瞬間。
リディマの世界は完全に崩壊した。
それは。
彼女の父の名前だった。
________________________________________
第十一章:記憶を喰らう森
森は、生きていた。
ネオ・アムリトサル北部――政府地図から消された禁域。
そこには、誰も近づかない森が存在していた。
正式名称はない。
人々はただ、こう呼んでいる。
《記憶喰いの森》。
森へ入った人間は、必ず何かを失って帰ってくる。
名前。
家族。
愛した人。
あるいは、自分自身。
誰も理由を知らない。
だが一つだけ確かなことがあった。
この森は、“記憶”を食べている。
冷たい霧が木々の間を漂っていた。
空は見えない。
枝が異常なほど絡み合い、まるで巨大な生物の内臓の中を歩いているようだった。
湿った空気。
腐った花の匂い。
そして静寂。
鳥の声すら存在しない。
リディマは小さく息を吐いた。
「……本当にここに入るの?」
前を歩くバクタワルは振り返らない。
黒いコートの裾が霧に溶けていく。
「ここにしかない。」
低い声だった。
「最後の記録が。」
ナナが不安そうに周囲を見渡す。
最近の彼女は少し変わっていた。
共鳴能力が目覚めて以降、時々ぼんやり遠くを見るようになった。
まるで誰かの声を聞いているように。
「この森……嫌な感じがする。」
バクタワルは静かに言った。
「森が人を見てる。」
その言葉に、リディマの背筋が冷える。
風が吹いた。
木々が揺れる。
だが妙だった。
枝の動きが、生き物の呼吸に見えた。
リディマは無意識にバクタワルの背中を見る。
最近、彼はさらに危うくなっていた。
夜になると一人で祈っている。
「ワヘグル……ワヘグル……」
壊れそうな声で。
まるで、自分を保つために。
リディマは気づいていた。
彼は限界へ近づいている。
だが彼自身だけは、それを誰にも見せようとしなかった。
突然。
森の奥から子供の笑い声が聞こえた。
三人が止まる。
「……聞こえた?」
ナナが小さく呟く。
次の瞬間。
無数の足音が森中から響き始めた。
ザザザザ――
霧の奥。
何かが動いている。
人影だった。
だが顔がない。
空洞だった。
真っ白な輪郭だけの存在。
リディマが息を呑む。
「何、あれ……」
バクタワルの目が鋭くなる。
「見るな。」
その瞬間。
白い影たちが一斉にこちらを向いた。
そして。
囁き始める。
『返して。』
『返して。』
『私たちの記憶を。』
空気が震える。
ナナが頭を押さえた。
「っ……!」
彼女の脳裏へ大量の映像が流れ込む。
泣いている少女。
燃える村。
白い花。
知らない誰かの死。
「やめて……!」
ナナが膝をつく。
バクタワルが彼女を支えた。
その時。
森全体が脈動した。
ドクン。
巨大な心臓のような音。
地面から黒い根が浮かび上がる。
そして。
三人の視界が突然崩壊した。
――――。
バクタワルは暗闇の中に立っていた。
雨。
血。
燃える建物。
幼い頃の記憶。
「逃げろ!」
父の声。
母が彼を抱きしめている。
周囲では研究員たちが叫んでいた。
《ジョセフ・サークル》の紋章。
赤い警報灯。
幼いバクタワルは泣いていた。
「嫌だ……!」
だが次の瞬間。
銃声。
母の身体が崩れ落ちる。
赤い血。
震える指。
母は涙を流しながら微笑んでいた。
『生きて……』
『あなたは最後の希望だから……』
「やめろ……」
バクタワルの呼吸が乱れる。
彼は知っている。
これは森が見せている。
人間が最も忘れたい記憶。
最も痛い傷。
だが止まらない。
父が叫ぶ。
炎。
崩れる研究施設。
そして。
無数の動物たちの悲鳴。
『助けて。』
『苦しい。』
『人間が壊した。』
世界中の命の声。
バクタワルは頭を抱えた。
「やめろおおおッ!!」
同じ頃。
リディマも別の記憶へ閉じ込められていた。
巨大な病室。
窓の外には赤い空。
幼いリディマは泣いていた。
ベッドには母が横たわっている。
痩せ細った身体。
弱々しい呼吸。
だが、その目だけは優しかった。
『リディマ……』
「お母さん……」
母は震える手で娘の頬を撫でる。
『守って。』
「え……?」
『最後の種を……』
その瞬間。
病室の壁が崩れた。
巨大な黒い樹。
血を流す幹。
そして無数の檻。
絶滅した動物たち。
リディマは震えた。
「どういうこと……」
母が泣いていた。
『あの人たちは……世界を壊した……』
「誰が……?」
だが返事はない。
母の身体が崩れ始める。
砂のように。
リディマは必死に抱きしめた。
「嫌……!消えないで!!」
しかし母は消えていく。
最後に微笑みながら。
『あなたは……まだ間に合う……』
リディマは叫んだ。
森中へ響くほどに。
一方。
ナナは静かな湖の前に立っていた。
月明かり。
白い花。
そして。
そこには笑っているバクタワルがいた。
今とは違う。
穏やかな顔。
孤独のない瞳。
二人は並んで座っている。
楽しそうだった。
温かかった。
ナナは気づく。
これは、自分が最も幸せだった記憶。
遠い昔。
あるいは別の時代。
バクタワルが微笑む。
『ようやく笑ったな。』
ナナの胸が締め付けられる。
「……覚えてたんだ。」
だが次の瞬間。
湖が黒く染まった。
空が裂ける。
そして声が響く。
『代価を払え。』
森だった。
『一つ差し出せ。』
『さもなくば、彼は壊れる。』
ナナの目の前に、苦しむバクタワルの姿が映る。
彼の精神が森に呑まれ始めていた。
このままでは戻れない。
ナナは震える。
「やめて……」
『選べ。』
幸せな記憶か。
バクタワルの命か。
涙が零れる。
彼女は知っていた。
この記憶を失えば。
もう二度と、今の笑顔を思い出せない。
それでも。
ナナは静かに目を閉じた。
「……持っていって。」
湖が光る。
記憶が崩れ始める。
バクタワルの笑顔。
声。
月夜。
全部。
砂のように消えていく。
ナナは泣かなかった。
ただ小さく呟く。
「あなたが生きてるなら……それでいい。」
次の瞬間。
森全体が大きく揺れた。
そして現実へ引き戻される。
リディマが荒く息を吐く。
バクタワルは地面へ膝をついていた。
ナナが静かに彼を抱き支える。
「大丈夫?」
彼女は微笑んだ。
優しく。
けれどどこか悲しそうに。
バクタワルは不思議そうに彼女を見る。
「……なんで泣いてる。」
ナナは自分の頬に触れる。
涙が流れていた。
だが。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
________________________________________
第十二章:すべてを裏切った少女
雨が降っていた。
静かな雨だった。
まるで世界そのものが泣き疲れてしまったかのような、弱く冷たい雨。
ネオ・アムリトサルの夜景は霧に滲み、高層ビルの光さえぼやけて見える。
その街の片隅。
古びた列車基地の地下で、バクタワルたちは身を隠していた。
ジョセフ・サークルとの戦い以降、都市は完全に変わってしまった。
空には黒い雲が居座り続け、海では大量の魚が死に、森は一夜で枯れていく。
人々は原因不明の悪夢に苦しみ始めていた。
子供たちは突然泣き出し、大人たちは感情を失ったように無表情になっていく。
世界が壊れ始めていた。
そしてその中心にいるのが、バクタワルだった。
薄暗い地下室。
バクタワルは静かに座り込み、目を閉じていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
小さな祈り。
だがその声は以前より弱かった。
彼の身体は限界に近づいていた。
アートマヴァーン・レゾナンスを使うたびに、自然の痛みが彼自身を蝕んでいく。
森の悲鳴。
絶滅した命の絶望。
海の怒り。
それら全てが彼の中へ流れ込んでいた。
リディマは少し離れた場所から彼を見つめていた。
胸が苦しかった。
彼は確実に壊れていっている。
なのに誰も止められない。
その時だった。
「……少し外の空気、吸ってくる。」
ナナが静かに立ち上がる。
リディマが振り返った。
「一人で?」
「大丈夫。」
だがナナの表情はどこか暗かった。
地下基地を出た瞬間、冷たい雨が彼女を濡らす。
夜の街は静まり返っていた。
いや。
静かすぎた。
人の気配がない。
風もない。
まるで都市全体が呼吸を止めているようだった。
ナナは震える指でポケットから通信端末を取り出す。
数秒後。
低い声が響いた。
「来てくれて嬉しいよ。」
ナナの顔が強張る。
路地の奥。
黒い傘を持った男。
ラナ・ナイドゥ。
ジョセフ・サークルの支配者。
彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
それが逆に恐ろしかった。
「……本当に、止められるの?」
ナナの声は震えていた。
ラナは静かに頷く。
「このままでは世界が崩壊する。」
「君も理解しているはずだ。」
彼はゆっくり空を見上げる。
黒い雲。
赤く濁った月。
「バクタワルの存在そのものが、“最後の共鳴”を加速させている。」
「彼が生きている限り、地球は痛みを増幅し続ける。」
ナナは唇を噛む。
頭では分かっていた。
最近、バクタワルの力は制御不能になり始めている。
彼が苦しむたび、自然も暴走する。
昨日も、彼が悪夢を見た瞬間、都市全域で植物が暴走した。
もしこのまま進めば、本当に世界が壊れる。
だが。
「……それでも。」
ナナの目に涙が浮かぶ。
「私は……彼を……」
ラナは静かに近づいた。
「君は孤独なんだ。」
その言葉に、ナナの身体が止まる。
「リディマは彼に必要とされている。」
「だが君は違う。」
「君はずっと、“選ばれない側”だった。」
ナナの呼吸が乱れる。
図星だった。
幼い頃からそうだった。
誰かの代わり。
誰かの影。
誰にも本当に必要とされない。
バクタワルだけが違った。
彼だけが、自分を見てくれた。
だから。
失いたくなかった。
ラナは優しく囁く。
「彼を救いたいなら、渡すしかない。」
「我々なら止められる。」
「世界も。」
「彼自身も。」
ナナの瞳から涙が落ちた。
その瞬間。
彼女の中で何かが壊れた。
深夜。
地下基地。
バクタワルは一人で外へ出ていた。
冷たい雨。
崩れた高架橋。
彼は静かに空を見上げる。
最近、妙な感覚が続いていた。
誰かが泣いている。
遠くで。
ずっと。
その時。
後ろから足音が聞こえた。
振り返る。
ナナだった。
彼女は笑おうとしていた。
だが上手く笑えない。
「……どうした。」
バクタワルが静かに尋ねる。
ナナは震える声で答えた。
「ごめんね。」
次の瞬間。
周囲の闇から無数の赤い光が現れる。
ジョセフ・サークル。
武装部隊。
完全包囲。
リディマの叫び声が遠くから響いた。
「バクタワル!!」
全てが遅かった。
拘束用の黒い鎖が一斉に放たれる。
バクタワルの身体へ巻き付く。
紋様が激しく発光した。
ドクン。
空気が震える。
周囲の植物が暴走しかける。
だが。
彼は抵抗しなかった。
ただ静かにナナを見つめていた。
その目には怒りがなかった。
失望も。
憎しみも。
ただ。
深い悲しみだけがあった。
ナナの涙が止まらない。
「違うの……私は……!」
「私はあなたを助けたかっただけで……!」
声が崩れる。
ラナが静かに近づく。
「確保しろ。」
兵士たちがバクタワルを引きずる。
その時。
彼が小さく口を開いた。
「……ナナ。」
彼女が顔を上げる。
バクタワルは微かに笑っていた。
壊れそうなほど悲しい笑顔。
「……許してたよ。」
その瞬間。
ナナの心が完全に崩壊した。
「やめて……!」
彼女が叫ぶ。
だが遅かった。
地下への巨大扉が開く。
暗闇。
底の見えない深淵。
ジョセフ・サークルの地下監獄。
バクタワルは最後まで抵抗しなかった。
ただ静かに。
祈るように目を閉じる。
「……ワヘグル……」
重い扉が閉じ始める。
リディマが必死に走る。
「待って!!」
だが間に合わない。
最後に見えたのは。
闇へ沈みながら、それでも静かにナナを見つめるバクタワルの瞳だった。
そして。
完全な閉鎖音が響く。
世界から光が消えたような静寂。
ナナはその場に崩れ落ちた。
雨が降り続ける。
冷たい。
冷たい雨だった。
まるで世界そのものが、彼女を責めているように。
________________________________________
第十三章:絶滅機関
海が黒く染まり始めていた。
最初は小さな異変だった。
漁師たちが「魚が消えた」と騒ぎ始めた頃、政府はそれを気候変動による一時的な現象だと発表した。
だが一週間後。
世界中の海岸へ大量の死骸が打ち上げられる。
鯨。
イルカ。
深海魚。
そして、誰も見たことのない古代生物。
それら全ての瞳は真っ黒に腐っていた。
さらに異常は続く。
鳥が消えた。
ある朝、人々は違和感に気づく。
空が静かすぎた。
電線にも。
森にも。
ビルの屋上にも。
一羽もいない。
世界中の鳥が、一夜にして姿を消した。
ネオ・アムリトサルも恐怖に包まれていた。
巨大スクリーンでは緊急ニュースが流れ続ける。
《異常気象による通信障害》
《複数都市で原因不明の停電》
《集団精神錯乱の発生》
だが人々は知っていた。
これはもう普通の災害ではない。
“世界そのもの”が壊れ始めている。
アルカディア学院地下。
封鎖区域最深部。
赤い警告灯が暗闇を染めていた。
巨大な円形空間。
その中心には、異様な装置が存在している。
無数の黒い管。
脈動する赤い液体。
そして巨大な球体。
まるで地球の心臓そのものだった。
バクタワルはその光景を見上げていた。
彼の瞳には強い怒りが浮かんでいる。
「……これが。」
隣に立つヴィジャイが静かに頷く。
「《絶滅機関》。」
低い声。
空気そのものが重くなる。
「ジョセフ・サークルが数十年かけて完成させた、人類最大の罪だ。」
リディマが息を呑む。
巨大装置からは、無数の悲鳴のような音が漏れていた。
動物の鳴き声。
人間の泣き声。
海の轟き。
森の悲鳴。
それら全てが混ざり合っている。
ヴィジャイは静かに語り始めた。
「地球の深部には、太古から眠る“共鳴存在”がいる。」
その言葉に空気が凍る。
「それは神ではない。悪魔でもない。」
ヴィジャイの瞳が暗く揺れる。
「星そのものの感情だ。」
沈黙。
遠くで装置が脈動する。
ドクン。
ドクン。
まるで巨大な生命体の鼓動。
「人類は長い歴史の中で、自然を壊し続けた。森を焼き、海を汚し、生き物を絶滅させてきた。」
ヴィジャイは装置へ視線を向ける。
「その苦しみと絶望の感情エネルギーを集め、この存在を目覚めさせる。それがジョセフ・サークルの目的だ。」
リディマの顔色が変わる。
「そんなことしたら……。」
「世界は終わる。」
静かな声だった。
だがその言葉には絶望が滲んでいた。
その時。
巨大モニターが突然点灯する。
ザー……。
ノイズ。
そして。
一人の男が映し出された。
ラナ・ナイドゥ。
黒いスーツ。
静かな笑み。
その瞳には狂気と悲しみが混ざっていた。
『ようやくここまで来たか。』
リディマが睨みつける。
「あなた達は何をしようとしてるの!?」
ラナは静かに微笑む。
『救済だ。』
その言葉に、バクタワルの拳が握られる。
『人類はもう手遅れだ。欲望のために世界を壊し、命を踏み潰し続けた。ならば、一度全てを終わらせるしかない。』
映像が切り替わる。
燃える森林。
死んだ海。
泣いている子供。
絶滅していく動物たち。
『地球は悲鳴を上げている。だが人類は聞こうとしなかった。』
ラナの目がゆっくり細まる。
『だから我々が“目覚め”を与える。』
突然。
巨大装置が光り始めた。
警報音。
ゴォォォォン!!
床が激しく揺れる。
リディマがよろめく。
「なに……!?」
ヴィジャイの顔が険しくなる。
「始まったか……。」
装置中心の球体へ、黒いエネルギーが集まり始める。
その瞬間。
バクタワルの頭へ無数の声が流れ込んだ。
苦しい。
助けて。
痛い。
死にたくない。
絶滅していった命の感情。
数え切れないほどの悲しみ。
彼は膝をつく。
「ッ……!」
リディマが駆け寄る。
「バクタワル!」
だが彼の瞳は震えていた。
脳内へ世界中の絶望が流れ込んでくる。
燃えるアマゾン。
黒く腐る海。
氷の下で死んでいく白熊。
油まみれの鳥。
そして。
泣き続ける地球そのものの声。
「……やめろ……。」
彼は頭を押さえる。
だが止まらない。
《アートマヴァーン共鳴》が強制的に反応している。
感情が暴走する。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
その全てが彼の身体を蝕んでいく。
ヴィジャイが低く呟く。
「絶滅機関は“絶望”を燃料にしている。」
リディマの瞳が揺れる。
「そんな……。」
「生物が絶滅する瞬間、最も強い感情エネルギーが発生する。それを集めているんだ。」
沈黙。
リディマは理解してしまう。
だから世界中で異常が起きている。
全て。
計画だった。
その瞬間。
彼女の端末へ緊急通信が入る。
《レヴァナ財団本部より》
リディマの顔が凍る。
画面には父の姿。
冷たい表情。
『戻って来い。』
「……。」
『お前はレヴァナ家の後継者だ。この計画は人類進化のために必要だ。』
リディマの瞳に怒りが宿る。
「進化……?」
震える声。
「これが?」
彼女は世界映像を見る。
死んだ海。
崩壊する都市。
泣いている人々。
「こんなの地獄じゃない!!」
父は無表情のまま答えた。
『感情に流されるな。世界を変えるには犠牲が必要だ。』
通信が切れる。
静寂。
リディマは俯いていた。
肩が震える。
ずっと信じていた家族。
巨大企業。
自分の居場所。
その全てが。
世界を壊す側だった。
彼女はゆっくり顔を上げる。
その瞳に迷いはなかった。
「……もう従わない。」
バクタワルが彼女を見る。
リディマは静かに涙を拭った。
「私は止める。」
低い声。
だが強かった。
「たとえ家族でも。」
その瞬間。
学院全体が激しく揺れた。
ドゴォォォォン!!
天井が崩れる。
警報。
悲鳴。
そして。
誰かが叫んだ。
「空が……!!」
全員が上を見る。
地上。
ネオ・アムリトサル上空。
黒い雲が渦を巻いていた。
その中心。
空間そのものが裂け始めていた。
まるでガラスにヒビが入るように。
空が。
割れていた。
________________________________________
第十四章:笑わなくなった少年
青い雨が降っていた。
それは普通の雨ではない。
空気そのものが涙を流しているような、不自然な青色の雨だった。
崩壊した旧中央駅。
何年も前に放棄された巨大駅舎には、壊れた時計と止まった電車だけが残されている。
ネオ・アムリトサルでは、もう誰も列車を使わない。
人々は急ぎすぎた。
効率だけを求め、空を汚し、森を壊し、海を殺し、そして感情すら失い始めている。
駅はまるで、人類そのものの墓場のようだった。
その暗いホームの端に、バクタワルは一人で座っていた。
濡れた黒髪。
痩せ細った身体。
虚ろな瞳。
以前の彼には、まだ小さな温かさが残っていた。
だが今は違う。
ジョセフ・サークルの地下施設から逃げ出した後、彼の中で何かが壊れてしまった。
毎晩、彼は世界中の絶望を聞いている。
焼かれる森。
溺れる動物。
汚染された海。
滅びる命。
そして人間たちの醜い欲望。
それら全てが《アートマヴァーン・レゾナンス》を通じて、彼の魂へ直接流れ込んでくる。
耐えられるはずがなかった。
バクタワルは小さく呟く。
「……ワヘグル……」
だがその声は弱い。
昔のような温かさが消えている。
祈りはまだ続いている。
けれど希望が薄れていた。
彼はゆっくり空を見上げる。
青い雨。
まるで空まで泣いている。
「……もう、疲れた。」
その言葉は風のように静かだった。
彼は笑わなくなっていた。
リディマは遠くからその姿を見つめていた。
胸が苦しい。
以前のバクタワルなら、どれだけ苦しくても誰かを安心させるように笑っていた。
だが今は違う。
彼の孤独は、もう人間が抱えられる限界を超えている。
リディマはゆっくり彼へ近づいた。
濡れた床に靴音が響く。
バクタワルは振り向かない。
それでも彼は気づいていた。
彼女が来たことを。
リディマが静かに隣へ座る。
二人の間には長い沈黙が流れた。
遠くで崩れた電車が風に揺れる。
ギィ……ギィ……
死んだ世界の呼吸みたいな音だった。
リディマが小さく言う。
「……ずっと探してた。」
バクタワルは答えない。
彼の視線は線路の先を見つめている。
終わりのない暗闇。
まるで彼自身の心みたいだった。
リディマは震える声を押し殺す。
「なんで一人でいなくなるの。」
沈黙。
「私たちを頼ってよ……。」
バクタワルはゆっくり目を閉じた。
「……巻き込みたくない。」
「もう十分巻き込まれてる!」
リディマの声が初めて強くなる。
彼女は涙を堪えていた。
「あなたがどこかで苦しんでるって分かってるのに、何もできない方が苦しいの!」
バクタワルは静かに笑おうとした。
だが笑えなかった。
顔の筋肉が動かない。
心が凍っている。
「……俺は危険だ。」
「知ってる。」
「もう普通じゃない。」
「知ってる。」
「いつ壊れるか分からない。」
「それでもいい。」
その言葉に、バクタワルの瞳が少し揺れた。
リディマは彼を見る。
真っ直ぐ。
逃げずに。
「私は……あなたを理解したい。」
青い雨が二人の間へ降り続ける。
崩れた駅の照明が時折点滅し、青白い光がリディマの横顔を照らしていた。
彼女は静かに続ける。
「最初は怖かった。」
「あなたが何者なのか分からなかった。」
「でも今は違う。」
リディマの声が少し震える。
「あなたがどれだけ苦しいか分かるから……放っておけない。」
バクタワルは目を逸らした。
その優しさが怖かった。
失うのが怖い。
もう誰も傷つけたくない。
彼は低い声で呟く。
「……俺の近くにいると、不幸になる。」
リディマは即座に否定する。
「違う。」
「え……?」
「あなたはずっと、一人で世界の痛みを抱えてきた。」
彼女の瞳から涙が零れ落ちる。
「そんなの、孤独すぎるじゃない……。」
バクタワルの胸が痛む。
誰かにそんな風に言われたことはなかった。
彼はいつも「危険な存在」としか見られなかった。
利用され。
恐れられ。
隔離され。
だがリディマだけは違う。
彼女は彼の孤独そのものを見ていた。
その瞬間。
リディマが静かに口を開く。
「……好き。」
時間が止まる。
青い雨の音だけが響く。
バクタワルは動けなかった。
リディマは涙を流しながら笑う。
弱く。
壊れそうな笑顔。
「怖いよ。」
「あなたが消えてしまいそうで。」
「でも、それでも……好きなの。」
その言葉は静かだった。
だが世界のどんな叫びより強く、彼の心へ届いた。
バクタワルの瞳が震える。
彼は何かを言おうとした。
だが声にならない。
嬉しいはずなのに。
苦しい。
怖い。
温かい。
感情が壊れそうになる。
その時だった。
突然。
彼の身体を赤い紋様が走る。
「っ……!」
バクタワルが苦しそうに胸を押さえる。
リディマが青ざめる。
「バクタワル!?」
彼は激しく咳き込む。
ボタッ。
黒い血が床へ落ちた。
その瞬間、床に生えていた小さな草が枯れる。
リディマの顔から血の気が引いた。
「……嘘……。」
バクタワルは震える呼吸のまま笑おうとする。
だがその笑みは悲しすぎた。
「……やっぱり、駄目なんだ。」
「そんなこと――」
「リディマ。」
彼は静かに彼女を見る。
その瞳は、どこか諦めていた。
「俺……もう、死に始めてる。」
青い雨が、崩れた駅へ静かに降り続けていた。
________________________________________
第十五章:最後の種
世界は静かに壊れていた。
それは爆発でも戦争でもなかった。
もっと静かで。
もっと残酷な崩壊だった。
ネオ・アムリトサルの街を歩く人々は、皆どこか無表情だった。
笑わない。
怒らない。
泣かない。
ただ画面を見つめ、無機質に歩き続ける。
空では黒い雲が渦を巻き、銀色の魚が降り続けている。
だが誰も空を見上げない。
誰も不思議がらない。
まるで感情そのものを失ってしまったかのように。
「……始まってる。」
廃墟となった地下神殿の中で、ヴィジャイが静かに呟いた。
薄暗い空間。
無数の古代文字。
青白い炎。
そして中央には、巨大な共鳴結晶が脈動している。
ドクン。
ドクン。
まるで地球そのものの鼓動だった。
バクタワルは結晶を見つめながら問いかける。
「これは何なんだ。」
ヴィジャイはゆっくり振り返った。
長い白髪。
静かな瞳。
その存在は人間というより、古い神話の亡霊のようだった。
「お前達はずっと勘違いしていた。」
低い声が空間へ響く。
「最後の絶滅危惧種は、動物ではない。」
リディマが眉をひそめる。
「……どういう意味?」
ヴィジャイは静かに結晶へ触れた。
その瞬間。
無数の映像が空間へ浮かび上がる。
燃える森。
死んだ海。
崩壊する氷河。
絶滅していく生物達。
そして。
泣きながら倒れていく子供。
孤独の中で笑う老人。
無表情で働き続ける人々。
「人類は、自然との繋がりを失った。」
ヴィジャイの声は悲しかった。
「空を見なくなった。」
「風を感じなくなった。」
「命の痛みを理解しなくなった。」
映像が変わる。
古代文明。
人々は森へ祈りを捧げ、海へ感謝し、命と共に生きていた。
だが時代が進むにつれ、その光景は消えていく。
高層ビル。
工場。
汚染。
戦争。
金。
欲望。
「人間は便利さと引き換えに、“魂の感覚”を捨てた。」
ヴィジャイは静かに目を閉じた。
「つまり。」
「人類は、何百年も前に精神的絶滅を迎えていたんだ。」
空気が凍った。
ナナが震える声で尋ねる。
「じゃあ……私達は、もう終わってるってこと?」
ヴィジャイは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
リディマは拳を握る。
「そんなの……。」
「そんなの悲しすぎるよ……。」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
幼い頃から感じていた孤独。
誰にも理解されない空虚。
愛されているのに満たされない感覚。
それが世界全体に広がっていたのだと、彼女は今理解してしまった。
バクタワルは静かに天井を見上げる。
「だから俺には聞こえてたのか。」
「森の声も。」
「海の悲鳴も。」
ヴィジャイが頷く。
「お前だけがまだ、“感じる”ことを失っていなかった。」
「だから選ばれた。」
「最後の共鳴者として。」
バクタワルの胸が重くなる。
彼はずっと孤独だった。
普通の人間のように生きられなかった。
死んでいく命の声が聞こえた。
世界の痛みが流れ込んできた。
だがそれは。
彼だけがまだ、人間として壊れきっていなかった証だった。
突然。
結晶が激しく脈動する。
ドクン!!
空間が揺れた。
ヴィジャイの顔色が変わる。
「まずい……。」
「共鳴汚染が加速している。」
その瞬間。
ネオ・アムリトサル全域で警報が鳴り響いた。
巨大モニター。
通信端末。
ニュース映像。
世界中の都市が映し出される。
東京。
ニューヨーク。
上海。
ドバイ。
ロンドン。
人々が突然立ち止まり始めていた。
女性が赤ん坊を落としても、何も感じない。
恋人が倒れても、誰も助けない。
子供が泣いていても、大人達は振り返らない。
感情が消えていた。
完全に。
「なに……これ……。」
リディマの声が震える。
ヴィジャイは苦しそうに呟く。
「共鳴汚染は、人間の魂を空洞化させる。」
「感情を失えば、人は自然とも繋がれなくなる。」
「そして最後には、“生きる意味”そのものを失う。」
その時。
バクタワルの首元に赤い紋様が浮かび上がった。
痛み。
頭の奥へ無数の声が流れ込む。
助けて。
苦しい。
寒い。
怖い。
世界中の感情が彼へ流れ込んでくる。
「……っ!!」
彼は膝をついた。
リディマが慌てて支える。
「バクタワル!」
彼の瞳から涙が零れる。
「聞こえる……。」
「みんな、壊れていく……。」
その声は絶望に満ちていた。
ナナはそんな彼を見つめながら、胸を締め付けられる。
彼はずっと一人で、この痛みを抱えていた。
誰にも理解されず。
誰にも救われず。
それでも世界を守ろうとしていた。
ヴィジャイは静かに空を見上げた。
天井の裂け目から黒い雨が見える。
「もう時間がない。」
「人類は今、“最後の感情”を失おうとしている。」
その瞬間。
世界中で異変が起きた。
何百万人もの人間が、一斉に感情を失った。
笑顔が消える。
涙が止まる。
愛が消える。
怒りも悲しみも。
全部。
世界から“心”が消え始めていた。
そしてネオ・アムリトサルの空では。
巨大な黒い雲の奥で。
何か巨大な存在が、静かに目を開こうとしていた。
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第十六章:沈黙の中にいた神
世界は静かに壊れていた。
空は灰色に濁り。
海は黒く変色し。
鳥たちはもう歌わない。
都市では、人々が突然感情を失う事件が増えていた。
笑わない。
泣かない。
怒らない。
ただ虚ろな目で空を見つめ続ける。
まるで魂だけが抜け落ちたように。
ネオ・アムリトサルもまた、死に近づいていた。
巨大スクリーンは停止し。
ネオンは消え。
夜になると街全体が墓場のような静寂に包まれる。
その夜。
バクタワルは一人、崩壊した神殿跡へ向かっていた。
冷たい風。
砕けた石像。
そして天井のない空。
月だけが静かに彼を見下ろしていた。
彼はゆっくり目を閉じる。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
祈りの声は弱かった。
昔よりも。
彼自身、自分が少しずつ壊れていることに気づいていた。
最近、自然の声が強すぎる。
森の悲鳴。
海の痛み。
絶滅していく命の叫び。
それら全てが頭の中へ流れ込んでくる。
眠れない夜が増えた。
笑えなくなった。
そして時々、自分が本当に人間なのか分からなくなる。
その時だった。
「お前はまだ、祈るのか。」
低い声が響いた。
バクタワルは静かに目を開く。
神殿の奥。
そこに、一人の男が立っていた。
ヴィジャイ。
長い白髪。
黒い衣。
そして異様なほど静かな瞳。
まるで世界の終わりを何度も見てきた人間のようだった。
バクタワルは小さく息を吐く。
「……来ると思ってた。」
ヴィジャイは微かに笑った。
「お前は昔から、勘だけは鋭かった。」
風が吹く。
その瞬間。
神殿中の石が震え始めた。
空気が変わる。
まるで世界そのものが彼へ跪いているようだった。
リディマとナナも遅れて神殿へ到着する。
だが二人は入口で足を止めた。
ヴィジャイの周囲だけ、空間が歪んでいた。
星の光。
水の流れ。
風。
木々。
全てが彼の呼吸と共鳴している。
リディマが震える声を漏らす。
「……何、これ……」
ナナの瞳が揺れる。
「人間じゃない……」
ヴィジャイは静かに振り返った。
その瞬間。
二人の脳裏へ大量の映像が流れ込む。
何千年もの歴史。
生まれては滅ぶ文明。
燃える森。
汚された海。
殺される動物たち。
泣き続ける地球。
そして。
その全てを、一人で見続けてきた存在。
リディマが膝をつく。
「っ……!」
頭が壊れそうだった。
あまりにも巨大な記憶。
あまりにも深い悲しみ。
ヴィジャイは静かに言った。
「私は神ではない。」
だが次の言葉は、世界そのものの声のようだった。
「私は、“地球の記憶”だ。」
沈黙。
風だけが吹いている。
バクタワルは静かに目を閉じた。
どこかで分かっていた。
ヴィジャイは最初から普通ではなかった。
時代を超えて存在している。
老いない。
自然そのものと繋がっている。
そして。
彼だけが、バクタワルを最初から知っていた。
ヴィジャイは空を見上げる。
「人類は何度も同じ過ちを繰り返した。」
「奪い。」
「壊し。」
「忘れた。」
その声には怒りがなかった。
ただ、深い疲れだけがあった。
「だが自然は、それでも人類を愛そうとした。」
リディマが苦しそうに聞く。
「……なら、どうしてこんな世界になったの。」
ヴィジャイは静かに彼女を見る。
「人類が、“痛み”を聞かなくなったからだ。」
沈黙。
遠くで雷が鳴る。
ヴィジャイはゆっくりバクタワルへ近づいた。
「お前は特別だった。」
「……。」
「幼い頃から、お前だけが聞こえていた。」
バクタワルの瞳が揺れる。
ヴィジャイは続ける。
「森の悲鳴。」
「海の涙。」
「絶滅していく命の声。」
「普通の人間には聞こえない。」
「だが、お前だけは聞いてしまった。」
バクタワルの拳が震える。
幼い頃から感じていた孤独。
他人には理解されない痛み。
なぜ自分だけ苦しかったのか。
その理由を、今ようやく知ってしまった。
「……なんで俺だった。」
ヴィジャイは静かに答える。
「優しかったからだ。」
その言葉に。
バクタワルの表情が歪んだ。
「優しい?」
彼は笑った。
壊れたように。
「俺は何も救えてない。」
「人も。」
「自然も。」
「ナナも。」
「リディマも。」
「全部壊れていく。」
声が震える。
「こんなのが救世主なら……世界は終わってる。」
リディマの胸が痛んだ。
彼はずっと、一人で背負っていた。
誰にも理解されず。
誰にも救われず。
それでも壊れながら戦っていた。
ヴィジャイは静かに目を閉じる。
「救世主とは、世界を救う者ではない。」
「絶望の中でも、“愛すること”を諦めない者だ。」
風が吹いた。
神殿の石が光り始める。
その時。
ナナが小さく呟いた。
「……運命って、何。」
ヴィジャイは彼女を見る。
「呪いだ。」
その答えに全員が静まる。
「運命とは、本来なら誰かが背負わなくていい痛みを、一人へ押し付けることだ。」
「だが。」
彼はバクタワルを見る。
「それでも誰かが選ばなければ、世界は終わる。」
長い沈黙。
バクタワルは空を見上げた。
灰色の空。
壊れた世界。
彼は小さく呟く。
「……疲れた。」
その声は、少年のものだった。
ただ孤独だった、一人の人間の。
リディマが彼の手を握る。
「一人で背負わないで。」
ナナも静かに隣へ立った。
「私たちがいる。」
バクタワルは何も言わなかった。
だがその瞳だけが、少しだけ揺れた。
その瞬間だった。
ヴィジャイの表情が変わる。
初めて。
悲しそうに。
「……もう時間がない。」
空が震える。
遠くで巨大な咆哮が響いた。
地面に亀裂が走る。
自然そのものが苦しんでいた。
ヴィジャイは静かに告げる。
「均衡を戻すには、“代価”が必要だ。」
リディマが息を呑む。
ナナの顔が青ざめる。
バクタワルだけが静かだった。
まるで最初から知っていたように。
ヴィジャイは三人を見つめる。
そして。
静かに言った。
「お前たちの中の誰か一人が、死ななければならない。」
神殿が沈黙した。
風さえ止まる。
誰も言葉を失ったまま動けなかった。
ただ。
崩壊していく世界の音だけが、遠くで静かに響いていた。
________________________________________
第十七章:海が空へ昇った日
世界が壊れ始めた。
その日、人類は初めて理解した。
自然はただ静かに死んでいたわけではない。
怒っていたのだ。
ネオ・アムリトサル上空。
黒い雲が空全体を覆い尽くしていた。
雷は赤黒く歪み、雨はまるで海そのもののような塩の匂いを含んでいる。
そして。
空に“海”が浮かんでいた。
誰も理解できなかった。
巨大な海流が雲の中を流れ、クジラたちが空を泳いでいる。
絶滅したはずの巨大生物たち。
古代魚。
翼を持つ巨大な海獣。
人類が化石の中でしか見たことのない存在たちが、黒い空をゆっくり横切っていた。
都市中で悲鳴が響く。
「逃げろ!!」
「波が来るぞ!!」
次の瞬間。
空が崩壊した。
轟音。
巨大な海水が天から落下する。
超高層ビル群が一瞬で飲み込まれた。
道路。
列車。
広告塔。
全てが濁流に押し流されていく。
人々は叫びながら逃げ惑う。
だが自然災害ではなかった。
それは。
地球そのものの怒りだった。
アカディア学院。
ネオ・アムリトサル中心部に存在する巨大学園。
今、その周囲は完全な戦場になっていた。
赤い警報灯。
崩壊する校舎。
空を覆う巨大な影。
ジョセフ・サークルの武装部隊が学院を包囲している。
生徒たちは避難しながら泣き叫んでいた。
「どうしてこんなことに……!」
「世界が終わる……!」
その中央。
崩れた中庭で、バクタワルは静かに空を見上げていた。
彼の身体は限界だった。
紋様は全身へ広がり、赤い光が皮膚の下で脈動している。
呼吸するだけで痛みが走る。
だが。
それ以上に苦しかったのは、世界の声だった。
海の絶望。
森の怒り。
絶滅した命たちの悲鳴。
アートマヴァーン・レゾナンスが暴走し、地球の感情そのものが彼へ流れ込んでいる。
「……苦しい……」
バクタワルは膝をつく。
その瞬間。
遠くで爆発音。
学院東側の壁が吹き飛ぶ。
ジョセフ・サークルの部隊が侵入してきた。
黒い装甲兵。
赤い紋章。
彼らの背後には、異形の存在がいた。
絶滅種融合兵器。
狼と人間が混ざった怪物。
巨大な鳥の翼を持つ兵士。
骨だけの獣。
それらは叫びながら学院へ突撃してくる。
「来るぞ!!」
生徒たちが逃げ惑う。
リディマは歯を食いしばった。
「みんなを避難させて!」
彼女の周囲で青い共鳴光が広がる。
アートマヴァーン・レゾナンス。
彼女の力は“記憶”だった。
大切な記憶を代償に力へ変える能力。
彼女は右手を振る。
瞬間。
空中へ巨大な光壁が展開される。
怪物たちが激突する。
轟音。
だが数が多すぎた。
学院全体が揺れている。
ナナは屋上から戦場を見下ろしていた。
風が強い。
黒い雨が頬を叩く。
彼女は震えていた。
怖かった。
自分が裏切った結果、全てが壊れてしまった気がした。
バクタワルを渡した。
世界を救うためだった。
なのに。
何一つ救われていない。
むしろ地獄が始まっただけだった。
その時。
空が裂ける。
巨大な赤い光柱が都市中央から天へ伸びた。
消滅機関。
ジョセフ・サークル最終兵器。
ラナ・ナイドゥが起動した“絶滅エンジン”。
地球全体の絶滅感情を増幅し、文明を浄化する装置。
学院全体が震える。
空間が歪む。
海がさらに空へ昇っていく。
ラナの声が世界中へ響いた。
『人類は間違えた。』
『自然を愛する代わりに支配した。』
『命を守る代わりに消費した。』
『だから終わるべきなのだ。』
巨大モニターにラナの姿が映る。
彼は静かだった。
怒っていない。
泣いてもいない。
ただ深い絶望だけが存在していた。
『破壊は罰ではない。』
『浄化だ。』
その瞬間。
絶滅エンジンが完全起動する。
世界中の海が空へ持ち上がり始めた。
人類史上最大の津波。
都市が沈む。
森が崩れる。
人々の悲鳴。
そして。
空を泳ぐ絶滅生物たち。
まるで地球が、自分の失った命を取り戻そうとしているようだった。
「やめろォォォ!!」
バクタワルが叫ぶ。
彼の紋様が暴走する。
赤い共鳴波が学院全体を包む。
周囲の植物が一瞬で成長する。
巨大な樹木が地面を突き破り、怪物たちを飲み込んでいく。
だが。
その代償として、バクタワルの身体が崩れ始めていた。
皮膚が裂ける。
血。
黒い光。
リディマが叫ぶ。
「もうやめて!!」
だが彼は止まらない。
彼だけが理解していた。
今止まれば、本当に世界が終わる。
その時だった。
学院上空に巨大な黒い裂け目が現れる。
そこから現れたのは、巨大な骨の竜だった。
絶滅した古代生物。
ジョセフ・サークル最終融合体。
怪物は咆哮する。
音だけで窓ガラスが砕け散った。
そして。
一直線にリディマへ突撃する。
「危ない!!」
誰かが叫ぶ。
だが間に合わない。
リディマの瞳に死が映る。
その瞬間。
彼女の前へ、一人の少女が飛び出した。
ナナだった。
時間が止まったようだった。
怪物の巨大な爪が彼女の身体を貫く。
鮮血。
リディマの顔に温かい血が飛ぶ。
「……ナナ……?」
ナナは震えながら笑った。
悲しいほど優しい笑顔。
「……やっと……守れた。」
その瞬間。
リディマの心が壊れた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁ!!」
叫び声が学院全体へ響く。
バクタワルの瞳が揺れる。
ナナの身体は崩れ落ちていく。
黒い雨が彼女を濡らす。
彼女は最後にゆっくりバクタワルを見た。
その瞳には後悔があった。
愛があった。
そして。
救われたような静かな安堵も。
「……ごめんね……」
小さな声。
次の瞬間。
巨大な爆発が学院を包み込んだ。
________________________________________
第十八章:滅びゆく地球の心臓
世界は静かに壊れていた。
都市は沈み。
森林は黒く腐敗し。
空には巨大な裂け目が広がり続けている。
ネオ・アムリトサルの街並みは、もはや人類文明の姿を保っていなかった。
崩壊した高層ビル。
燃え続ける道路。
黒い雨。
そして空を漂う無数の赤い粒子。
それは《共鳴灰》だった。
生物が絶滅する瞬間に生まれる感情の残骸。
怒り。
恐怖。
悲しみ。
憎しみ。
人類は長い年月をかけて、地球そのものへ絶望を蓄積させていた。
アルカディア学院地下最深部。
そこには巨大な深淵が存在していた。
まるで地球へ開かれた傷口のように。
深く。
暗く。
底が見えない。
赤黒い光が脈動し、不気味な鼓動が響いている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
その音は、まるで星そのものの心臓だった。
ヴィジャイは静かにその深淵を見つめていた。
「……時間がない。」
彼の声は重かった。
バクタワルは深淵の前へ立つ。
首元の紋様が赤く脈動していた。
共鳴が限界まで高まっている。
リディマは彼の背中を見つめながら、小さく唇を噛んだ。
彼の身体はもう限界だった。
皮膚には黒い亀裂が広がり始めている。
感情を力へ変える《アートマヴァーン共鳴》は、使うほど魂を削る。
彼は既に、人間としての境界を失い始めていた。
「……本当に行くの?」
リディマの声は震えていた。
バクタワルは少しだけ振り返る。
その目は疲れていた。
だが不思議なほど優しかった。
「行かなきゃ、終わらない。」
静かな声。
「地球が泣いてる。」
その言葉に、リディマの胸が締め付けられる。
彼はずっと一人で聞いてきた。
森の悲鳴を。
海の苦しみを。
絶滅していく命の叫びを。
誰にも理解されないまま。
孤独の中で。
ヴィジャイが静かに告げる。
「深淵の先には、《星の核》がある。」
空気が重くなる。
「そこは地球の精神世界だ。普通の人間なら存在を保てない。」
バクタワルは黙って頷いた。
すると。
リディマが前へ出る。
「私も行く。」
「駄目だ。」
即答だった。
バクタワルの顔が険しくなる。
「死ぬぞ。」
「それでも行く。」
彼女は一歩も引かなかった。
その瞳には涙が滲んでいる。
「もう一人で苦しまないで。」
静寂。
遠くで世界崩壊の轟音が響いている。
リディマは震える声で続けた。
「私はずっと孤独だった。」
彼女は小さく笑う。
寂しそうに。
「でも、あなたと出会って初めて怖くなったの。」
「……。」
「失いたくないって思った。」
バクタワルの瞳が揺れる。
彼は人との繋がりを恐れていた。
近づけば傷つける。
自分は怪物になる。
だから孤独でいようとした。
だが。
彼女だけは違った。
怪物になりかけた自分を見ても、逃げなかった。
その時。
ヴィジャイが静かに目を閉じた。
「……行け。」
二人を見る。
「だが覚悟しろ。」
低い声。
「星の核では、“世界の痛み”そのものを見ることになる。」
次の瞬間。
深淵が赤く発光した。
巨大な共鳴波。
ゴォォォォォォン!!
空間が歪む。
バクタワルの紋様が暴走するように光り始めた。
リディマは彼の手を握る。
冷たい。
だが確かに生きている。
二人は深淵へ飛び込んだ。
落下。
永遠のような暗闇。
風もない。
音もない。
ただ無数の感情だけが漂っている。
悲しい。
苦しい。
痛い。
助けて。
その声が脳へ直接流れ込んでくる。
リディマが苦しそうに顔を歪めた。
「ッ……!」
頭が割れそうだった。
世界中の絶望が押し寄せてくる。
そして。
光。
二人は巨大な空間へ降り立った。
そこは地球内部とは思えなかった。
空が存在している。
だがその空は赤黒く脈動していた。
大地には巨大な樹木の残骸が広がり、黒い海が静かに波打っている。
無数の魂が漂っていた。
透明な光。
消えていった命たち。
絶滅した動物。
忘れられた種族。
そして。
人間たち。
彼らは静かに泣いていた。
バクタワルは膝をつく。
「これが……。」
ヴィジャイの声が頭の中へ響く。
『星の記憶だ。』
その瞬間。
無数の映像が流れ込んだ。
燃える熱帯雨林。
油に沈む海鳥。
実験室で苦しむ動物。
戦争。
飢餓。
汚染。
人類が積み重ねてきた全ての罪。
地球は叫んでいた。
ずっと。
だが誰も聞こうとしなかった。
リディマは涙を流していた。
「こんなの……。」
声が震える。
「苦しすぎる……。」
その時。
黒い海の中心が割れた。
巨大な光。
星そのものの心臓。
無数の根が空間中へ伸びている。
それは生命そのものだった。
バクタワルは引き寄せられるように近づく。
すると。
突然。
彼の脳裏へ別の映像が流れ込んだ。
古代文明。
巨大な神殿。
そして。
ジョセフ・サークル。
黒い衣を纏った者たち。
彼らは“予言”を書き換えていた。
バクタワルの瞳が見開かれる。
「……違う。」
映像が続く。
石板。
古代文字。
そこに刻まれていた本来の予言。
《最後の共鳴者は世界を滅ぼす者ではない》
《世界を繋ぎ止める者である》
呼吸が止まる。
バクタワルは震える声を漏らした。
「予言は……改ざんされてた……。」
リディマが振り向く。
「え……?」
さらに映像が流れる。
ラナ・ナイドゥ。
レヴァナ財団。
ジョセフ・サークル。
彼らは恐怖を利用するために予言を書き換えた。
“最後の共鳴者は災厄になる”と。
世界を支配するために。
絶望を加速させるために。
バクタワルの身体が震える。
怒りだった。
悲しみだった。
彼はずっと怪物だと思っていた。
人類を滅ぼす存在だと。
だが違った。
最初から。
世界を救うために選ばれていた。
その瞬間。
星の核が激しく脈動する。
ドクン!!
空間全体が揺れた。
黒い海が荒れ狂う。
そして深淵の奥から、巨大な何かが目を開いた。
________________________________________
第十九章:人類の悲しみを背負った少年
世界が崩れていた。
空は裂け、海は空へ浮かび上がり、黒い雷が大地を焼き続けている。
ネオ・アムリトサルはもう都市ではなかった。
終末そのものだった。
高層ビル群は半分以上が崩壊し、赤い植物がコンクリートを突き破って広がっている。
空には絶滅したはずの巨大な鳥たちが飛び、街路には光る鹿の群れが静かに立っていた。
自然が世界を奪い返し始めていた。
だがそれは美しい再生ではない。
人類文明そのものを飲み込む、痛みを伴う復讐だった。
崩壊した中央塔の頂上。
そこにラナ・ナイドゥは立っていた。
黒いロングコート。
風に揺れる白髪。
その背後では《絶滅機関》が巨大な鼓動を鳴らしている。
ゴオオオオオ……
巨大な黒い球体。
無数の魂。
絶滅した生命の怨念。
地球そのものの怒り。
それら全てが融合し、空間を歪めていた。
ラナは静かに空を見上げる。
その瞳には狂気だけではない。
深い疲労があった。
「……美しいな。」
彼は小さく呟く。
「人類がようやく裁かれている。」
その時。
背後から足音が響いた。
ゆっくり。
静かに。
だが迷いのない足音。
ラナは振り返らない。
「来ると思っていた。」
バクタワルだった。
彼は血だらけだった。
身体中を赤黒い紋様が覆い、瞳の奥では光が不安定に揺れている。
《アートマヴァーン・レゾナンス》は限界へ近づいていた。
彼の身体はもう人間として保てなくなっている。
それでも彼は立っていた。
世界の悲鳴を背負いながら。
ラナが静かに笑う。
「その顔。」
「昔の私によく似ている。」
バクタワルは何も言わない。
青白い風が二人の間を通り過ぎる。
遠くでは人々の悲鳴が響いていた。
世界は今、滅びようとしている。
ラナはゆっくり振り向く。
「知っているか?」
「私は昔、お前と同じだった。」
その言葉にバクタワルの瞳が揺れる。
ラナは静かに歩き出した。
崩れた塔の床を踏みながら。
「昔の私は、本気で世界を救おうとしていた。」
彼の声は静かだった。
怒りではない。
諦めだった。
「森を守ろうとした。」
「海を守ろうとした。」
「人類へ警告し続けた。」
彼の目に過去の記憶が映る。
燃える森林。
死んだ川。
企業に買収される研究者たち。
笑いながら自然を壊していく権力者。
「だが誰も聞かなかった。」
「人間は便利さを選んだ。」
「欲望を選んだ。」
「命より利益を選んだ。」
彼の拳が静かに震える。
「だから私は理解した。」
「人類は救う価値がない。」
雷鳴が空を裂く。
その瞬間、絶滅機関がさらに強く脈動した。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
まるで地球そのものの心臓。
ラナはバクタワルを見る。
「お前も聞いただろう?」
「森の悲鳴を。」
「動物たちの絶望を。」
「海の苦しみを。」
「それでもまだ人類を許せるのか?」
バクタワルは静かに目を閉じる。
聞こえる。
今も。
世界中の悲鳴が。
絶滅していく命。
崩壊する自然。
泣き叫ぶ地球。
その全てが彼の魂へ流れ込んでくる。
耐えきれないほどの痛み。
普通の人間なら、とっくに壊れている。
だが。
その中で彼は別の声も聞いていた。
小さな声。
誰かを守ろうとする声。
泣きながら花を抱く子供。
森を植え直す老人。
傷ついた動物を助ける少女。
絶望だけではない。
希望もまだ存在していた。
バクタワルはゆっくり目を開く。
「……それでも。」
ラナが眉をひそめる。
「何?」
「それでも、人間は全部が腐ってるわけじゃない。」
ラナが低く笑った。
「甘いな。」
「お前はまだ期待している。」
「期待なんかじゃない。」
バクタワルの声は静かだった。
だが強かった。
「信じたいだけだ。」
風が吹く。
彼の髪が揺れる。
「人間は確かに間違えた。」
「自然を壊した。」
「命を踏みにじった。」
「でも――」
彼の瞳が揺れる。
そこには深い悲しみがあった。
「苦しんでる人間もいる。」
「後悔してる人間もいる。」
「守ろうとしてる人間もいる。」
ラナが叫ぶ。
「少数だ!」
その怒声と共に空間が歪む。
絶滅機関から黒いエネルギーが溢れ出す。
巨大な獣の形を作りながら咆哮する。
「大多数は変わらない!」
「また自然を壊す!」
「また奪う!」
「また繰り返す!」
ラナの目には涙が浮かんでいた。
怒りではない。
絶望だった。
彼もまた、世界に裏切られ続けた一人だった。
バクタワルはその瞳を見て理解する。
この男も孤独だった。
救いたかった。
本当は。
誰よりも。
だが人類に失望しすぎた。
だから壊すしかなくなった。
バクタワルは静かに呟く。
「……苦しかったんだな。」
その瞬間。
ラナの表情が止まる。
彼は何も言えなかった。
誰にも理解されなかった。
狂人。
破壊者。
怪物。
そう呼ばれ続けた。
だが今。
初めて誰かが、自分の痛みそのものを見ていた。
ラナの拳が震える。
「……黙れ。」
「ラナ。」
「黙れ!!」
轟音。
絶滅機関が暴走を始める。
黒い光が空へ放たれる。
都市全体が崩壊し始めた。
リディマが遠くで叫ぶ。
「バクタワル!!」
彼女は涙を流しながら走っていた。
だが間に合わない。
空間そのものが裂けていく。
ラナは崩れ落ちながら笑う。
悲しい笑みだった。
「結局……世界は終わる。」
だがバクタワルは首を振る。
「終わらせない。」
彼の身体を赤い光が包み始める。
《アートマヴァーン・レゾナンス》が限界を超える。
世界中の声が彼へ集まってくる。
森。
海。
空。
命。
絶望。
希望。
その全てを抱えながら、彼は静かに立っていた。
ラナが震える声で呟く。
「なぜ……そこまでして人類を……」
バクタワルは小さく笑った。
久しぶりだった。
本当に小さな笑顔。
「……まだ、愛したいからだ。」
その瞬間。
光が爆発した。
世界が白く染まる。
リディマが必死に手を伸ばす。
「嫌……!!」
バクタワルの身体が粒子へ変わっていく。
彼は静かに彼女を見る。
その瞳だけは、最後まで温かかった。
そして。
消えていく光の中で。
彼は最後に、小さく呟いた。
「……リディマ。」
次の瞬間。
彼の姿は、世界から消えた。
________________________________________
第二十章:忘れられた種族の最後の叫び
雨が降っていた。
だが。
あの日の黒い雨ではなかった。
静かで。
優しくて。
どこか懐かしい雨だった。
崩壊から七年後。
世界は少しずつ変わり始めていた。
空は以前より青くなり。
死んでいた海には、小さな魚の群れが戻り始めている。
焼け野原だった森には若葉が芽吹き、長い間姿を消していた鳥達の鳴き声も聞こえるようになっていた。
もちろん。
世界が完全に救われたわけではない。
多くの都市は消えた。
数え切れない命が失われた。
人々の心には、今も深い傷が残っている。
それでも。
人類はようやく立ち止まり始めていた。
空を見るようになった。
風を感じるようになった。
命の声へ耳を傾け始めた。
ネオ・アムリトサル郊外。
再生保護区域。
そこには広大な森林が広がっていた。
かつて企業達によって破壊され尽くした土地。
だが今では、絶滅危惧種保護区として管理されている。
雨の中。
一人の女性が静かに森を歩いていた。
リディマだった。
長い黒髪。
以前より少し柔らかくなった瞳。
彼女は今、世界各地の自然再生計画を指揮していた。
巨大企業《レヴァナ財団》も、もはや存在しない。
彼女自身の手で解体したのだ。
「……また雨。」
彼女は小さく呟き、空を見上げる。
雨粒が頬を濡らす。
その感触に、彼女はふと目を細めた。
昔の自分なら、こんな感覚に気づきもしなかっただろう。
だが今は違う。
世界は、生きている。
風も。
木も。
雨も。
全部。
静かに呼吸している。
その時だった。
遠くから子供達の声が聞こえる。
「ねぇ、また聞こえた!」
「森の奥だよ!」
リディマは振り返る。
保護区を訪れていた子供達が、雨の中を駆けていく。
「待ちなさい、危ないわよ!」
職員達が慌てて追いかける。
だが子供達は興奮していた。
「歌が聞こえるんだ!」
「変な言葉!」
リディマは静かに立ち止まる。
胸がざわついた。
雨の音。
風の音。
そして。
森の奥から、微かに聞こえてくる声。
『……ワヘグル……』
彼女の呼吸が止まる。
『……ワヘグル……ワヘグル……』
静かな祈り。
優しくて。
少し悲しくて。
どこか温かい声。
リディマはゆっくり目を閉じた。
忘れるはずがなかった。
あの日。
最後の共鳴の中で、バクタワルは世界そのものへ溶けていった。
誰も彼の遺体を見つけられなかった。
まるで最初から存在していなかったかのように。
だが。
彼が消えた後からだった。
世界が少しずつ変わり始めたのは。
海が静かになった。
黒い嵐が消えた。
共鳴汚染が止まった。
まるで。
彼自身が地球へ溶け込み、この世界を支えているかのように。
「……あなたなの?」
リディマは小さく呟く。
返事はない。
だが風が優しく吹いた。
まるで誰かがそっと触れたように。
その時。
一人の少年が森の奥で叫んだ。
「見つけた!!」
人々が駆け寄る。
そして全員が息を呑んだ。
そこには一本の樹が立っていた。
小さな若木。
だが普通ではない。
幹の内部で、淡い赤い光が脈動していた。
ドクン。
ドクン。
静かな鼓動。
まるで心臓のように。
リディマの瞳が揺れる。
そこは。
あの“血を流す樹”が存在していた場所だった。
七年前。
世界の終わりが始まった場所。
だが今。
そこに立っていた樹は違う。
黒くない。
腐っていない。
柔らかな銀色の葉が雨の中で輝いている。
そして次の瞬間。
空から何かが降り始めた。
銀色の魚だった。
子供達が歓声を上げる。
魚達は静かに空を舞い、まるで光そのもののように森へ落ちていく。
だがもう、誰も恐れていなかった。
あの日とは違う。
これは警告ではない。
希望だった。
リディマの頬を涙が伝う。
彼女は静かに樹へ触れた。
温かかった。
まるで。
誰かの心臓へ触れているみたいに。
その時。
彼女の耳元で、微かな声が聞こえた気がした。
『……ありがとう。』
リディマは泣きながら笑った。
「……馬鹿。」
「最後まで、一人で全部背負うなんて。」
雨が降り続く。
優しい雨だった。
子供達は笑いながら魚を追いかけている。
風が森を揺らす。
鳥達が空を横切る。
世界はまだ完全じゃない。
きっとこれからも、人間は間違える。
欲望に負ける。
自然を傷つける。
互いを傷つける。
それでも。
人は変われる。
痛みを知れる。
誰かを愛せる。
命を守りたいと願える。
ヴィジャイの言葉が、リディマの脳裏に蘇る。
「最後の絶滅危惧種とは何か。」
彼女は今なら理解できた。
それは動物だけではない。
森でも。
海でもない。
本当に絶滅しかけていたのは――
人間の“心”だった。
誰かを愛する力。
痛みを感じる力。
命を守ろうとする力。
自然と共に生きようとする力。
人類は、それを失いかけていた。
だから世界は壊れた。
だが。
一人の孤独な少年が最後まで諦めなかった。
世界の痛みを聞き続けた。
命の声を抱き続けた。
そして。
人類へもう一度、“感じること”を残してくれた。
リディマは空を見上げる。
黒かった世界は、もうそこにはない。
雲の隙間から、静かな光が差し込んでいた。
その光の中で。
銀色の魚達が、まるで星のように輝いていた。
黒い雨が降っていた。
それは普通の雨ではなかった。
空そのものが腐り始めたような、重く、冷たく、不吉な雨だった。
ネオ・アムリトサル――世界最大級の超未来都市。
何千ものネオン広告が夜空を染め、高層ビル群が雲を突き刺している。だがその夜、都市の光はどこか弱々しく見えた。
空気が死んでいた。
風は止まり、鳥の声は消え、人々は誰も空を見上げようとしなかった。
そして。
空から降っていたのは雨だけではない。
銀色の魚だった。
無数の魚が雲の裂け目から落下し、高速道路や無人車両へ叩きつけられていく。
ガンッ。
ビシャッ。
魚たちはまだ生きていた。
濡れたアスファルトの上で苦しそうに跳ね、まるで海が空から捨てられたかのようだった。
高速道路を走る黒い高級車の中で、リディマは静かに窓の外を見つめていた。
長い黒髪。
冷たいほど整った美しい横顔。
誰もが羨む富と権力を持つ少女。
だが、その瞳には深い孤独が沈んでいた。
彼女は幼い頃から、巨大企業《レヴァナ財団》の後継者として育てられてきた。
自由など存在しなかった。
笑顔も。
友達も。
愛情さえも。
父は仕事しか見ておらず、母は数年前、謎の死を遂げている。
広すぎる屋敷。
冷たすぎる食卓。
毎晩、彼女は自分が巨大な牢獄の中にいるように感じていた。
「……気味が悪い。」
小さく呟く。
すると運転手が不安そうにバックミラー越しに彼女を見た。
「お嬢様、本日は早めに帰宅された方が――」
その瞬間だった。
「止めて。」
リディマの声が鋭く響いた。
車が急停止する。
前方。
黒い豪雨の中。
一人の少年が立っていた。
白い制服は血に染まり、片腕からは赤黒い血が滴っている。
少年――バクタワル・シン。
彼は巨大な樹の前に立っていた。
異様な樹だった。
葉が一枚も存在しない。
黒く腐った幹。
だが内部では赤い光が脈動していた。
まるで巨大な心臓のように。
そして。
樹皮の裂け目から、赤黒い液体が流れていた。
血だった。
リディマの呼吸が止まる。
少年はゆっくり顔を上げた。
その目を見た瞬間。
彼女の背筋に冷たい震えが走る。
悲しすぎる目だった。
何千年もの孤独を抱えたような瞳。
バクタワルの首元に奇妙な紋様が浮かび上がる。
赤い光。
古代文字のような模様。
それは皮膚の下で燃えていた。
彼は苦しそうに息を吐きながら、静かに口を開く。
「……最後の種を……目覚めさせるな……」
「え……?」
リディマが窓を開ける。
その瞬間。
都市中の光が消えた。
ネオン。
信号。
高層ビル。
広告。
すべて。
完全な闇。
運転手が叫ぶ。
「電力が全部……!」
雨音だけが世界を支配する。
魚たちの跳ねる音。
遠くで鳴る警報。
そして。
黒い樹の鼓動。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
バクタワルの身体が崩れ落ちた。
「待って!」
リディマは衝動的に車から飛び出す。
冷たい雨が全身を濡らす。
だが彼女は気にしなかった。
少年の元へ駆け寄る。
彼の体に触れた瞬間、異常な熱が伝わってきた。
熱い。
まるで体内で炎が燃えているようだった。
彼は薄く目を開ける。
「……また、会えた。」
その言葉に、リディマの心臓が強く跳ねる。
「私を……知ってるの?」
返事はない。
バクタワルは意識を失っていた。
だがその唇だけは微かに動いている。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
祈りだった。
静かで。
悲しくて。
どこか温かい祈り。
リディマは理解できない感情に飲み込まれていく。
恐怖。
哀しみ。
そして奇妙な懐かしさ。
まるで彼女自身も、この瞬間をずっと前から知っていたような感覚。
突然。
黒い樹が光り始めた。
幹を赤い紋様が走る。
空気が震える。
魚たちが一斉に動きを止めた。
世界そのものが呼吸を止めたような静寂。
その時。
空の奥から低い音が響いた。
まるで巨大な何かが目覚める音。
運転手が震えた声を漏らす。
「お嬢様……ここは危険です……!」
だがリディマは動けなかった。
彼女の視線は、倒れた少年から離れない。
彼の存在が、自分の空っぽだった心へ入り込んでくる。
そして彼女は気づいてしまう。
自分の人生が今、この瞬間から壊れ始めたことを。
遠く離れた監視センター。
暗闇に包まれたモニターの一つが突然ノイズを走らせる。
ザー……ザー……
監視員が眉をひそめた。
「なんだこれ……」
映像が復旧する。
そこには高速道路。
倒れた少年。
リディマ。
そして巨大な黒い樹。
だが次の瞬間。
監視員の顔から血の気が消えた。
樹が動いていた。
ゆっくり。
ゆっくりと。
まるで人間のように幹を歪めながら。
そして。
裂けた樹皮の奥から、低く濁った声が響く。
『……バクタワル……』
監視員が悲鳴を上げた。
画面が真っ赤に染まる。
映像は完全に途切れた。
その夜。
ネオ・アムリトサルでは、再び銀色の魚が降り始めていた。
そして誰もまだ知らなかった。
この夜が、人類最後の物語の始まりだったことを。
________________________________________
第二章:沈黙を恐れる令嬢
黒い高級車は静かに夜の都市を走っていた。
窓の外では、ネオ・アムリトサルの光が雨粒に滲み、まるで壊れかけた星空のように揺れている。
だが、その美しい景色を見ている者は誰もいなかった。
後部座席。
リディマは意識を失ったバクタワルを支えていた。
少年の体温は異常だった。
熱い。
まるで身体の奥で炎が燃え続けているような熱。
彼の首元には、赤い紋様がまだ薄く光っていた。
それを見るたびに、リディマの胸の奥がざわつく。
怖いはずだった。
得体の知れない少年。
血を流す樹。
空から降る魚。
突然の停電。
すべてが異常だった。
なのに。
彼女は彼を見捨てられなかった。
「……どうして。」
小さく呟く。
返事はない。
バクタワルは静かに眠ったままだ。
しかしその唇は微かに動いていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
祈り。
雨音の中でも不思議とはっきり聞こえる声だった。
その響きには、奇妙な温かさがあった。
リディマは視線を逸らす。
胸が痛かった。
理由は分からない。
まるで彼の孤独が、自分の中へ流れ込んでくるようだった。
車は巨大な超高層ビルの地下へ入っていく。
《レヴァナ・タワー》。
ネオ・アムリトサルを支配する巨大企業、その象徴。
だが最上階にあるリディマのペントハウスは、豪華であるほど孤独だった。
広すぎる部屋。
静かすぎる廊下。
誰も笑わない家。
「誰にも言わないで。」
エレベーターの中で、リディマは低く言った。
運転手が驚く。
「ですが、お嬢様……旦那様に知られれば――」
「言わないで。」
冷たい声だった。
だがその奥には微かな震えがあった。
運転手は黙るしかなかった。
最上階。
巨大な自動扉が開く。
夜景が広がっていた。
ネオンの海。
だがその光景さえ、どこか死んでいるように見える。
リディマはバクタワルをソファへ寝かせた。
少年の顔を見つめる。
眠っているだけなのに、どこか悲しそうだった。
まるで夢の中でも苦しみ続けているような表情。
彼の右腕には無数の傷が刻まれていた。
古い傷。
新しい傷。
そして。
焼けるような赤い紋様。
リディマはそっと触れようとする。
その瞬間。
ブワッ――
紋様が強く光った。
彼女は反射的に手を引っ込める。
空気が震えた。
部屋の照明が一瞬明滅する。
そして。
壁に異変が起きた。
「……え?」
白い壁から、緑色の蔓が伸びていた。
細く、発光する蔓。
それはゆっくりと壁を這い始める。
まるで生き物のように。
リディマは息を呑む。
ありえない。
ここは超高層ビルの最上階。
土など存在しない。
なのに植物が生えている。
しかも。
蔓はバクタワルの呼吸に合わせるように脈動していた。
「……何なの……あなた。」
バクタワルの唇が再び動く。
「……森が……泣いてる……」
リディマの背筋に冷たいものが走った。
その時だった。
部屋の巨大モニターが突然起動する。
ザー……ザー……
ノイズ。
そして赤い警告画面。
《環境異常レベル上昇》
《監視対象確認》
《ジョセフ・サークルへ報告開始》
リディマの顔色が変わる。
ジョセフ・サークル。
世界中の環境異常や超常現象を監視していると言われる謎の組織。
だが実態を知る者はほとんどいない。
噂では。
政府よりも強い。
国家よりも古い。
そして、人類の“裏側”を管理している。
「……どうしてここに。」
彼女がモニターへ近づこうとした瞬間。
画面が突然ブラックアウトした。
静寂。
雨音だけが響く。
リディマはゆっくり後ろを振り返る。
バクタワルはまだ眠っていた。
しかし。
彼の周囲にはさらに多くの蔓が広がっていた。
緑色の光。
静かな呼吸。
まるで森そのものが彼を守っているようだった。
リディマは無意識に胸元へ触れる。
そこには母の形見のネックレスがあった。
幼い頃からずっと持っているもの。
銀色の古いネックレス。
母が死ぬ直前まで絶対に手放さなかった品。
リディマはゆっくりそれを外した。
何故か。
今、見なければいけない気がした。
ネックレスを開く。
中には古びた紙片が隠されていた。
「……これは。」
そこに描かれていたのは、奇妙な紋様。
赤い線で描かれた古代文字。
そして。
リディマの呼吸が止まる。
それは。
バクタワルの首に浮かぶ傷跡と、完全に同じ形だった。
部屋の照明が再び点滅する。
雨が激しく窓を叩く。
その時。
眠っているはずのバクタワルが突然低い声で呟いた。
「……見つけた……」
リディマが凍りつく。
少年の目は閉じたままだった。
なのに。
彼は確かに笑っていた。
まるで何百年も探し続けた何かを、ようやく見つけたかのように。
________________________________________
第三章:禁じられた地下室
黒い雲が空を覆っていた。
ネオ・アムリトサル中央区に存在する《アルカディア学院》は、その巨大な塔を灰色の空へ突き刺すように建っている。
世界中の天才たちが集まる超名門学院。
政治家の子供。
軍事企業の後継者。
科学者。
財閥。
そして、この世界の未来を支配する者たち。
学院の廊下は白く美しかったが、その空気には奇妙な冷たさがあった。
誰も本音を語らない。
誰も本当に笑わない。
成功と恐怖だけが支配する場所。
そんな学院の正門前で、一人の少年が静かに空を見上げていた。
バクタワル・シン。
黒い制服。
静かな瞳。
だが彼の存在だけが、この学院の空気から完全に浮いていた。
「……あいつが例の転校生?」
「聞いた? 停電事件の中心にいたらしい。」
「政府の極秘実験体って噂もある。」
生徒たちの視線が彼へ集まる。
だがバクタワルは何も反応しなかった。
まるで慣れているように。
孤独に。
静かに。
彼は学院の門をくぐる。
その瞬間だった。
遠くの校舎窓から、一人の少女が彼を見つめていた。
ナナ。
長い黒髪。
透明感のある白い肌。
だがその瞳だけは、強い不安に揺れていた。
彼女の呼吸が止まる。
「……嘘。」
胸が痛い。
頭の奥で、幼い頃から繰り返し見続けていた夢が蘇る。
黒い雨。
燃える森。
泣いている少年。
そして。
『また会える。』
夢の中で、いつもその少年はそう言っていた。
ナナは震える指で窓に触れる。
「あの人……。」
その時。
バクタワルがゆっくり顔を上げた。
二人の視線がぶつかる。
ナナの心臓が激しく脈打つ。
懐かしい。
怖い。
なのに、どうしてこんなにも悲しいのか分からない。
その瞬間。
バクタワルの首元に赤い紋様が微かに浮かび上がった。
ナナの視界が揺れる。
頭の中へ知らない記憶が流れ込む。
巨大な樹。
崩壊する都市。
血まみれの少年。
そして。
「逃げろ!!」
誰かの叫び。
ナナはその場で崩れ落ちた。
「ナナ!?」
友人たちが慌てて駆け寄る。
だが彼女の瞳は震えていた。
まるで遠い過去を見ているように。
その頃。
学院地下深部。
立入禁止区域。
暗闇の中で無数のモニターが光っていた。
白衣を着た男たちが画面を見つめている。
映し出されているのは、バクタワルの顔。
「感情共鳴値が異常上昇しています。」
「《アートマヴァーン共鳴》が再活性化している可能性があります。」
「まさか、本当に“最後の共鳴者”が……。」
低い声が部屋に響いた。
「監視を続けろ。」
闇の奥に座る男。
その顔は見えない。
だがその瞳だけが、冷たく光っていた。
「もし覚醒すれば、この都市は終わる。」
その日の授業中。
教師がホログラムを展開する。
青白い光が教室全体へ広がった。
『感情エネルギー理論』
教室が静まり返る。
教師は淡々と説明を始めた。
「数十年前、人類は新たなエネルギー反応を発見しました。それが《アートマヴァーン共鳴》です。」
巨大な映像が浮かぶ。
心臓。
神経。
森林。
海。
動物。
それら全てが赤い光で繋がっていた。
「人間の感情、記憶、苦痛、祈り――それらは自然界と共鳴していることが判明しました。」
教室がざわめく。
「強い感情は力へ変わる。怒り、悲しみ、孤独、愛情。それらは自然エネルギーを増幅させる。」
教師は少し黙った。
そして静かに続ける。
「ですが代償があります。」
画面が変わる。
そこには暴走した人間たちの映像。
身体が崩壊していく者。
精神を失う者。
怪物へ変貌した者。
「感情に飲まれた人間は、共鳴に耐えられません。」
教室が静まり返る。
だがバクタワルだけは、窓の外を見つめていた。
遠くの空。
黒い鳥が死んだように落下していく。
彼は小さく目を閉じた。
「……また増えてる。」
彼には聞こえていた。
普通の人間には聞こえない声。
森の悲鳴。
海の苦しみ。
絶滅していく命の叫び。
それら全てが、彼の心へ流れ込んでくる。
だから彼はいつも孤独だった。
誰にも理解されない。
誰にも聞こえない。
夜。
学院寮。
窓の外では黒い雨が静かに降っていた。
バクタワルはベッドに座り、小さく祈る。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
静かな声。
それだけが、彼の壊れそうな心を繋ぎ止めていた。
すると突然。
廊下の奥から音が聞こえた。
ガリ……
ガリ……
何かを引きずる音。
バクタワルはゆっくり立ち上がる。
寮は静まり返っていた。
時計は深夜二時。
だが音は続いている。
ガリ……
ガリ……
まるで巨大な何かが床を這っているような音。
彼は廊下へ出た。
暗い。
非常灯だけが赤く点滅している。
そして。
壁に黒い液体が付着していた。
血のような。
だがどこか違う。
突然。
天井裏から低い唸り声が響いた。
バクタワルが顔を上げる。
そこには。
人間ではない何かがいた。
細長い手足。
魚のような濁った目。
骨が浮き出た身体。
そして口の奥には、人間の歯が並んでいる。
怪物は天井に張り付きながら、首を不自然に曲げた。
『……ミツケタ……』
その瞬間。
怪物が飛びかかる。
だがバクタワルの紋様が赤く光った。
空気が震える。
怪物が悲鳴を上げて吹き飛んだ。
壁へ激突する。
その身体は黒い煙になって消えていった。
静寂。
だが床には奇妙な痕跡が残っている。
地下へ続く濡れた足跡。
バクタワルはゆっくりそれを追い始めた。
学院地下。
使用禁止区域。
重い鉄扉。
普通なら開かないはずだった。
だが彼が近づいた瞬間、扉の紋様が赤く発光する。
ギギギギ……
扉が勝手に開いた。
冷たい空気が流れ出る。
腐ったような臭い。
そして。
巨大な地下施設。
無数のガラス容器。
黒い液体。
その中で浮かんでいたのは。
絶滅したはずの生物たちだった。
巨大な狼。
翼を持つ白鹿。
深海魚。
燃える羽を持つ鳥。
全てが眠るように保存されている。
バクタワルの呼吸が止まる。
そして施設中央。
最も巨大な黒い水槽。
そこに浮かんでいた存在を見た瞬間。
彼の瞳が大きく揺れた。
それは。
人間だった。
しかも。
自分と同じ紋様を持っていた。
________________________________________
第四章:滅びゆく森の声を聴く少年
夜のアカデミーは静かだった。
窓の外では黒い雨が降り続けている。
ネオ・アムリトサルに太陽がまともに見える日は、もう何年も存在しなかった。
空は常に灰色で、人々はそれを「普通」だと思い込むようになっていた。
だがバクタワルには分かっていた。
これは普通ではない。
世界は壊れている。
静かに。
確実に。
誰にも気づかれないまま。
薄暗い学生寮の一室。
バクタワルは床に座り、静かに数珠を握っていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
低い祈りの声。
その瞬間だった。
突然、彼の視界が歪む。
頭の奥へ直接、何かが流れ込んでくる。
――痛い。
――苦しい。
――助けて。
無数の声。
バクタワルの瞳が揺れる。
次の瞬間、彼の意識は森の中へ引きずり込まれていた。
燃えていた。
巨大な森林が炎に包まれている。
黒煙。
焼け落ちる樹木。
逃げ惑う動物たち。
空は赤く染まり、湖には死んだ魚が浮かんでいた。
そして声が聞こえる。
樹の声だった。
『……なぜ……』
『……なぜ人間は……』
『……我々を忘れた……』
バクタワルは苦しそうに胸を押さえる。
これは幻ではない。
《アートマヴァーン・レゾナンス》。
感情と魂を共鳴させる力。
だが彼の場合、それは自然そのものと繋がってしまう。
世界中で死んでいく森。
滅びる生命。
その痛みが、直接彼の中へ流れ込んでくるのだ。
「っ……!」
彼は床へ倒れ込む。
呼吸が乱れる。
額から汗が流れ落ちる。
その時、部屋の扉が開いた。
「バクタワル!?」
リディマだった。
彼女は息を切らしながら駆け寄る。
「また苦しんでるの!?」
バクタワルは答えない。
いや、答えられなかった。
彼の耳にはまだ無数の悲鳴が響いている。
木々の叫び。
海の嘆き。
絶滅していく生き物たちの最後の声。
リディマは彼の肩を掴む。
「何が聞こえてるの……?」
その瞳には恐怖よりも強い感情があった。
知りたい。
理解したい。
彼女は気づき始めていた。
バクタワルだけが、この壊れた世界の真実へ触れていることを。
バクタワルは震える声で呟く。
「……森が泣いてる。」
「え……?」
「世界中の森が……助けてって……」
リディマは言葉を失った。
彼の目は嘘をついていなかった。
むしろ悲しすぎるほど真実だった。
その頃。
廊下の奥では、ナナが静かに二人を見つめていた。
その表情は暗い。
胸の奥が苦しかった。
リディマがバクタワルを見る目。
バクタワルがリディマの前だけで少しだけ安心した顔を見せること。
全部、嫌だった。
ナナ自身にも理解できない感情。
嫉妬。
孤独。
そして恐怖。
まるで大切なものを奪われていくような感覚。
彼女は拳を握り締める。
「……なんで、あの子なの。」
その時だった。
バクタワルの身体が突然光る。
赤い紋様が首筋から腕へ広がっていく。
リディマが息を呑む。
「また……!」
空気が震え始める。
窓ガラスが細かく揺れる。
そしてバクタワルの瞳が、完全な赤へ変わった。
彼の意識は再び引き裂かれる。
今度は海だった。
巨大な海。
だが青くない。
黒かった。
油と血で汚れた海。
死んだクジラ。
腹を裂かれたイルカ。
プラスチックに絡まる鳥たち。
そして燃えていた。
海そのものが。
『……人間は……』
『……奪いすぎた……』
『……もう限界だ……』
声が頭蓋骨を内側から叩く。
バクタワルは叫ぶ。
「やめろ……!!」
ドンッ!!
部屋の照明が爆発した。
リディマが驚いて後退する。
だが彼女は逃げなかった。
普通なら恐怖するはずなのに。
それでも彼女は彼から目を離せない。
むしろ彼をもっと知りたかった。
この少年の孤独を。
痛みを。
世界が隠している真実を。
突然。
景色が変わる。
雪山だった。
白銀の世界。
吹雪。
凍った大地。
その中央に、一人の男が立っている。
長い衣。
静かな瞳。
まるで何千年も生きてきたような存在感。
ヴィジャイ。
彼は雪の中で静かにこちらを見る。
「自然は怒っているのではない。」
低い声。
「悲しんでいるのだ。」
バクタワルは苦しそうに息を吐く。
「……あんたは誰だ。」
ヴィジャイは答えない。
代わりに空を見上げた。
すると空が裂ける。
その向こうには燃える海。
崩壊する都市。
泣き叫ぶ人々。
そして巨大な黒い樹。
ヴィジャイが静かに言う。
「最後の種が目覚めれば、世界は選ばれる。」
「……何を言ってる。」
「お前はまだ知らない。」
吹雪が強くなる。
ヴィジャイの姿が少しずつ消えていく。
「なぜ人類が滅び始めたのかを。」
その瞬間。
バクタワルの意識が現実へ戻った。
「っ……!」
彼は激しく咳き込む。
リディマが支える。
「大丈夫!?」
だが次の瞬間。
彼女の顔色が凍りついた。
バクタワルの口から流れ落ちた液体。
それは普通の血ではなかった。
黒かった。
まるで闇そのもののような血。
床へ落ちた瞬間、小さな植物が枯れる。
リディマが震える。
「……何、これ……」
バクタワル自身も理解できなかった。
だがもっと恐ろしいことが起きる。
突然。
無数の声が一斉に彼の頭へ流れ込んできた。
鳥。
狼。
鹿。
クジラ。
虎。
絶滅した生き物たち。
世界中の命の悲鳴。
何百万もの叫びが同時に響く。
『助けて――!!』
『痛い――!!』
『死にたくない――!!』
「やめろおおおおお!!」
バクタワルが絶叫する。
窓ガラスが砕け散る。
校舎全体が揺れる。
遠くで警報が鳴り響く。
そして彼は再び黒い血を吐きながら、静かに崩れ落ちた。
その瞬間。
誰にも見えない闇の中で。
巨大な黒い樹が、ゆっくり目を開いた。
________________________________________
第五章:海の底に降る雨
雨が降っていた。
海の底で。
ネオ・アムリトサル地下第七層。
数十年前に封鎖された旧海洋研究区域。
そこは本来、人間が立ち入ることを禁じられた場所だった。
薄暗い非常灯だけが赤く点滅し、腐った海水の臭いが空気に混じっている。
崩壊したトンネルの天井から水滴が落ち続け、その音だけが静寂の中で不気味に響いていた。
ポタ……ポタ……
「本当にこの先にあるの?」
リディマが小さく尋ねる。
濡れた黒髪を耳へかけながら、彼女は慎重に足を進めていた。
その隣を歩くバクタワルは無言だった。
だが彼の目だけは、暗闇の奥を警戒するように鋭く揺れている。
ナナは少し後ろを歩いていた。
彼女は二人の距離を見つめながら、静かに唇を噛む。
リディマは最近、変わった。
以前のような冷たさが少しずつ消えている。
バクタワルといる時だけ。
それがナナには痛かった。
「……この場所、嫌な感じがする。」
ナナが呟く。
するとバクタワルが立ち止まった。
彼は静かに目を閉じる。
「聞こえる。」
「え?」
「海が泣いてる。」
空気が凍った。
リディマは彼を見る。
バクタワルの首元には、赤い紋様が微かに浮かんでいた。
アートマヴァーン・レゾナンス。
感情と自然を共鳴させる禁断の力。
その力を使うたび、彼は世界の“痛み”を感じてしまう。
そして今。
彼は海の悲鳴を聞いていた。
突然。
遠くから低い音が響く。
ゴゴゴゴ……
水面が震えた。
「まずい……!」
次の瞬間。
巨大な濁流がトンネルを飲み込んだ。
「走って!」
リディマが叫ぶ。
三人は崩れた通路を必死に駆け抜ける。
冷たい海水が足元を襲い、壁へ叩きつけられた魚の死骸が流れていく。
暗闇。
警報音。
赤い非常灯。
世界そのものが崩壊していくようだった。
バクタワルは咄嗟にリディマの腕を掴む。
「こっち!」
二人は横穴へ飛び込む。
直後。
巨大な水流が通路を飲み込んだ。
轟音が響く。
しばらくして。
静寂。
荒い呼吸だけが暗闇に残った。
リディマはバクタワルの胸へ倒れ込む形になっていた。
近い。
近すぎる。
彼の体温が伝わる。
静かな鼓動。
そして、どこか悲しい香り。
リディマの胸が苦しくなる。
「……どうして。」
「何が?」
「どうしてあなたは、そんなに悲しい目をするの?」
バクタワルは答えなかった。
代わりに静かに目を逸らす。
「俺は……」
彼の声は小さい。
「昔から、死んでいくものの声が聞こえる。」
リディマの呼吸が止まる。
「木も、海も、動物も……全部。」
彼はゆっくり天井を見上げた。
水滴が落ちる。
まるで涙のように。
「この世界は、ずっと前から壊れてた。」
沈黙。
リディマは彼を見つめる。
この少年は何者なのか。
なぜこんなにも孤独なのか。
なぜ彼を見ていると、自分の心まで痛くなるのか。
その時。
ナナの通信端末が小さく振動した。
彼女の表情が一瞬だけ変わる。
「……ちょっと先を見てくる。」
そう言い残し、彼女は暗闇へ消えた。
リディマは気づかなかった。
だがバクタワルだけは、彼女の瞳に浮かんだ迷いを見ていた。
数分後。
ナナは別通路へ出ていた。
そこは崩れた旧研究室。
壁には古い企業ロゴが刻まれている。
《ヨセフ・サークル》
彼女の前には、一人の男が立っていた。
黒いコート。
顔の半分を機械で覆った男。
「久しぶりだな、ナナ。」
彼女は冷たい目で男を見る。
「約束は守るんでしょうね。」
男は笑った。
「もちろんだ。バクタワル・シンを連れてくればな。」
ナナの拳が震える。
「……本当に、彼を殺さないの?」
男は答えない。
その沈黙だけで十分だった。
ナナは目を伏せる。
胸が痛い。
だが彼女には理由があった。
誰にも言えない理由が。
一方その頃。
リディマとバクタワルは最深部へ到達していた。
巨大な扉。
古代文字。
そして腐食した研究記録。
リディマが端末を起動する。
映像が映し出された。
そこにあったのは、人類が隠してきた真実だった。
死んだ海。
黒く変色した珊瑚。
大量死する魚群。
薬品に汚染された海洋生物。
そして。
世界中の大企業が、その事実を隠蔽していた証拠。
リディマの顔が青ざめる。
「そんな……」
バクタワルは静かに目を閉じた。
「人間は、自分で世界を殺した。」
突然。
地面が揺れる。
ゴゴゴゴ……
巨大な扉がゆっくり開いていく。
冷たい青い光が漏れた。
三人は息を呑む。
その先に広がっていたのは。
海だった。
地下深くに存在する、巨大な空洞海域。
暗い水面。
沈んだ研究施設。
そして。
海底に横たわる巨大な影。
リディマの声が震える。
「……嘘でしょ。」
それはクジラだった。
だが普通ではない。
骨だけだった。
巨大な白骨。
しかし。
死んでいるはずのその骨は、脈動していた。
ドクン。
ドクン。
まるで生きているように。
さらに。
骨の内部には赤い古代紋様が浮かび上がっていた。
アートマヴァーン・レゾナンスの文字。
その瞬間。
クジラの頭部がゆっくり動いた。
巨大な空洞の目が、三人を見下ろす。
海の底で。
死んだはずの存在が。
静かに呼吸していた。
________________________________________
第六章:もう一つの時代を覚えていた少女
雨が降っていた。
ネオ・アムリトサルでは最近、晴れの日の方が珍しかった。
灰色の空。
冷たい風。
崩れ始めた自然。
都市全体が、ゆっくり死へ向かっているようだった。
アカデミーの窓際に座るナナは、ぼんやりと外を見つめていた。
校庭の木々は黒ずみ始めている。
葉は枯れ。
鳥は消え。
最近では昆虫の姿すら減っていた。
世界から「命」が静かに消えている。
そんな感覚があった。
だが今、ナナの心を支配していたのは別のものだった。
バクタワル・シン。
彼の存在だった。
「……なんで。」
小さく呟く。
胸が苦しかった。
彼を見るたび、心の奥が痛む。
初めて会ったはずなのに。
ずっと昔から知っていたような感覚が消えない。
彼の声。
彼の瞳。
彼の孤独。
すべてが、なぜか懐かしかった。
「またその顔してる。」
突然、後ろから声がした。
リディマだった。
黒い制服。
長い髪。
相変わらず完璧な美しさだったが、その瞳には疲れが浮かんでいた。
ナナは慌てて視線を逸らす。
「別に。」
「嘘。」
リディマは静かに隣へ座った。
沈黙。
遠くで雨音だけが響いている。
最近、二人の間には妙な空気が流れていた。
バクタワルを中心に、少しずつ感情が歪み始めている。
リディマは窓の外を見ながら呟いた。
「……あいつ、最近おかしい。」
「え?」
「夜になると消えるの。」
ナナの胸が小さく揺れる。
「昨日も、一人で旧地下区域へ行ってた。」
「危険だよ、あそこ……」
「止めても聞かない。」
リディマは唇を噛んだ。
怒っているようにも見えた。
だが本当は違う。
怖がっているのだ。
バクタワルがどこか遠くへ行ってしまうことを。
ナナは静かに聞く。
「……好きなの?」
その瞬間。
リディマの肩が止まった。
長い沈黙。
やがて彼女は小さく笑う。
だが、その笑顔はどこか壊れていた。
「分からない。」
「……。」
「でも、怖い。」
リディマの声は震えていた。
「見てると、消えてしまいそうで。」
ナナは何も言えなかった。
なぜなら。
自分も同じだったから。
その時だった。
教室の扉が開く。
バクタワルが入ってきた。
空気が変わる。
教室中の視線が彼へ集まった。
誰もが彼を恐れていた。
最近、奇妙な噂が広がっている。
「死んだ森と会話していた」
「地下施設で怪物を倒した」
「空を見上げるだけで魚が落ちてきた」
もちろん誰も証拠は持っていない。
だが人は、理解できないものを恐れる。
バクタワルは静かに席へ座った。
その横顔は相変わらず孤独だった。
まるで世界に居場所が存在しない人間のように。
ナナは彼を見つめる。
すると突然。
頭痛が走った。
視界が揺れる。
「っ……!」
同時に。
知らない景色が脳裏へ流れ込んできた。
巨大な森。
青白い月。
燃える神殿。
そして。
白い服を着た少年。
今より幼いバクタワルだった。
彼は泣いていた。
『逃げろ、ナナ!』
知らないはずの声。
だが胸が締め付けられる。
その瞬間。
視界が戻った。
ナナは荒く息を吐く。
「どうした?」
バクタワルがこちらを見ていた。
その目を見た瞬間。
また胸が痛んだ。
「……今、あなたを見た。」
「?」
「違う……でも、あなただった……」
バクタワルの表情がわずかに変わる。
リディマも不安そうに二人を見る。
ナナは震える声で言った。
「炎の中にいた。」
教室の空気が静まり返る。
バクタワルはゆっくり目を伏せた。
「……夢だ。」
「違う。」
ナナは即座に否定した。
なぜか分かる。
あれは夢ではない。
記憶だった。
遠い昔の。
消えたはずの。
バクタワルは静かに立ち上がる。
「来るな。」
それだけ言って教室を出ていった。
ナナは反射的に追いかけた。
廊下。
雨音。
薄暗い照明。
彼は人気のない旧校舎へ向かっていた。
「待って!」
バクタワルは止まらない。
ナナはようやく彼の腕を掴んだ。
その瞬間だった。
大量の映像が脳へ流れ込む。
古代の森。
巨大な白い樹。
無数の祈り。
そして。
黒い空。
滅びる世界。
若いバクタワルが剣を握っている。
その隣には――
自分がいた。
「……え……」
ナナの膝が崩れる。
息ができない。
涙が勝手に溢れてくる。
「なんで……」
バクタワルの顔が歪んだ。
苦しそうだった。
まるで思い出したくないものを見せられているように。
「見るな。」
「これ……何なの……」
「忘れろ。」
「無理だよ……!」
ナナの声が震える。
胸が痛い。
苦しい。
でも。
なぜか嬉しかった。
ようやく、自分が空っぽだった理由を見つけた気がしたから。
その時。
バクタワルの腕から血が流れ落ちた。
赤い血。
だが、その中には微かな青い光が混ざっていた。
ナナの指先へ血が触れる。
瞬間。
世界が止まった。
空気が震える。
床に奇妙な紋様が広がった。
赤と青の光。
共鳴。
ナナの瞳が光る。
彼女の周囲に無数の花びらが浮かび始めた。
存在しないはずの光の花。
風が吹き荒れる。
バクタワルが目を見開く。
「……まさか。」
ナナの胸に激痛が走る。
だが同時に、何かが目覚めていく。
忘れていた感覚。
遠い昔に失った力。
頭の中へ声が響く。
『守れ。最後の共鳴者を。』
ナナの身体から淡い光が溢れ始める。
その瞬間。
旧校舎全体が揺れた。
そして遠く離れた地下施設で、一人の男が静かに笑った。
ラナ・ナイドゥ。
彼は監視画面に映るナナを見つめながら呟く。
「……ついに目覚めたか。」
その瞳には、静かな狂気が宿っていた。
________________________________________
第七章:ジョセフ・サークルの黒き聖堂
夜の雨は止んでいた。
だが、ネオ・アムリトサルの空には重苦しい雲が張り付き、月の光さえ街へ届かなかった。
廃墟地区。
誰も近づかない旧宗教区の奥で、巨大な聖堂が静かに佇んでいる。
崩れた尖塔。
割れたステンドグラス。
黒く腐食した十字架。
何十年も前に閉鎖されたはずのその場所には、異様な静けさが漂っていた。
「ここが……ジョセフ・サークルの本部……?」
リディマが低く呟く。
その声には緊張が混じっていた。
バクタワルは聖堂を見上げたまま答えない。
彼の瞳だけが暗闇の奥を見つめている。
まるで、この場所を知っているかのように。
ナナが不安そうに口を開いた。
「本当に入るの……?」
冷たい風が吹く。
その瞬間。
バクタワルの首元の紋様が赤く脈動した。
ドクン。
彼は小さく眉をしかめる。
また聞こえた。
声。
無数の悲鳴。
動物たちの泣き声。
焼かれる森。
溺れるクジラ。
絶滅していく命の叫び。
アートマヴァーン・レゾナンス。
自然と魂の痛みを感じ取る力。
だがその力は、使うたびに彼の精神を削っていた。
「……急ごう。」
バクタワルは静かに歩き始める。
聖堂の巨大な扉は半分崩れていた。
内部は暗い。
だが床には新しい足跡が残っている。
誰かが今もここを使っている。
リディマが懐中灯を照らす。
壁一面に古代文字。
奇妙な紋章。
そして。
大量の動物の骨。
「……何これ。」
ナナが青ざめる。
鹿。
狼。
鳥。
絶滅したはずの生物まで混ざっていた。
その奥。
祭壇の下に巨大な地下通路が続いている。
湿った空気。
鉄の匂い。
そして。
血の臭い。
三人はゆっくり地下へ降りていく。
階段は異常なほど長かった。
まるで地獄へ続いているように。
やがて。
巨大な空間へ辿り着く。
リディマは息を呑んだ。
地下世界だった。
無数の研究施設。
巨大水槽。
黒い液体。
ガラスケース。
その中には。
絶滅した生物たちが眠っていた。
「そんな……」
マンモス。
オオカミ。
巨大な鳥。
古代魚。
だが異常なのは、それだけではない。
全ての生物の胸には赤い紋様が刻まれていた。
バクタワルの紋様と同じ。
その時。
奥の研究室から声が聞こえる。
「共鳴率、安定しません。」
「魂の定着が不完全です。」
「もっと感情エネルギーが必要だ。」
リディマたちは物陰へ隠れる。
白衣の研究員たち。
巨大モニター。
そこには恐ろしい映像が映っていた。
人間と動物の魂を融合させる実験。
絶滅種の“魂”を兵器として利用する研究。
アートマヴァーン・レゾナンスを使い、死んだ生物の感情を人間へ移植している。
「狂ってる……」
ナナが震える。
「こんなの、人間じゃない……」
しかし。
バクタワルだけは静かだった。
怒りではない。
深い悲しみ。
彼は知っていた。
人類が自然を壊し続けた果てに、この狂気が生まれたことを。
その時。
研究室全体の照明が突然消えた。
闇。
静寂。
そして。
ゆっくりと拍手の音が響く。
パン。
パン。
パン。
低い男の声。
「素晴らしい。」
空間の奥から、一人の男が現れる。
黒いコート。
白髪混じりの髪。
落ち着いた瞳。
静かな笑み。
ラナ・ナイドゥ。
ジョセフ・サークル最高責任者。
世界を裏から操る男。
彼の存在だけで空気が重くなる。
リディマは instinctively 後退した。
だがラナは穏やかに笑う。
「ようこそ、子供たち。」
その声には怒気がない。
むしろ教師のように優しい。
それが逆に恐ろしかった。
ラナはゆっくり歩きながら言う。
「君たちは人類をどう思う?」
誰も答えない。
ラナは巨大水槽を見上げる。
そこには巨大なクジラの骨格が浮かんでいた。
「人類は美しい。」
「だが同時に、醜い。」
「森を燃やし、海を汚し、命を絶滅させながら、自分たちだけは特別だと思っている。」
彼は静かに笑った。
「地球はもう限界なんだ。」
「だから私は救おうとしている。」
ナナが怒鳴る。
「こんなの救いじゃない!」
ラナは優しく首を傾げた。
「では聞こう。」
「人類が存在する限り、自然は滅び続ける。」
「ならば、どちらを残すべきだ?」
その言葉に誰も答えられない。
重い沈黙。
ラナの瞳には本物の絶望があった。
彼は本気で信じている。
人類は滅ぶべき存在だと。
その時。
ラナの視線がバクタワルへ向く。
空気が変わる。
「……君は、本当に彼らに似ている。」
バクタワルの眉が動く。
「……誰のことだ。」
ラナは静かに微笑んだ。
だがその笑みには、奇妙な哀しみが混じっていた。
「君の両親だよ。」
その瞬間。
世界が止まった。
リディマが息を呑む。
ナナの顔が凍りつく。
バクタワルだけが動かなかった。
だが彼の瞳の奥で、何かが崩れ始めていた。
ラナはゆっくり近づく。
「私は彼らを知っていた。」
「いや。」
「共に世界を救おうとしていた。」
バクタワルの紋様が激しく脈動する。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「……嘘だ。」
低い声。
怒りではない。
震えるような恐怖。
ラナは静かに首を振る。
「嘘ではない。」
「君の両親は、自ら死を選んだ。」
「“最後の種”を守るために。」
その瞬間。
地下施設全体が揺れ始めた。
警報。
赤いランプ。
研究員たちの悲鳴。
だがバクタワルには何も聞こえていなかった。
彼の脳裏には、幼い頃の記憶が蘇っていた。
燃える森。
血。
泣き声。
そして。
誰かの祈り。
「ワヘグル……」
バクタワルの目から、静かに涙が落ちた。
その瞬間。
地下施設の全てのガラスが同時に砕け散った。
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第八章:祈りの中の怪物
雨が降っていた。
ネオ・アムリトサルの空は数日間ずっと黒い雲に覆われ、太陽は完全に姿を消していた。
学院上空では巨大な警報ドローンが巡回し、不気味な赤い光を地面へ照らしている。
街の人々は怯えていた。
最近になって増え始めた異常現象。
空から降る魚。
突然枯れる森林。
海岸へ打ち上げられる巨大生物の死骸。
そして夜になると現れる“黒い怪物”。
政府は情報を隠していた。
だが恐怖だけは、静かに人々の心へ広がっていく。
アルカディア学院でも、生徒たちの空気は変わり始めていた。
誰も笑わない。
誰も夜に外へ出ない。
廊下には監視兵が増え、地下区域は完全封鎖された。
その日の夜。
学院中央棟。
赤い非常灯だけが暗闇を照らしていた。
リディマは静かに廊下を歩いていた。
彼女の心は乱れていた。
ここ数日、バクタワルの様子がおかしかった。
笑わない。
眠らない。
一人でどこかへ消える。
そして時々、彼の身体から赤い光が漏れている。
まるで彼の内側で何かが目覚め始めているようだった。
「……どこにいるの。」
彼女は小さく呟く。
その時。
遠くから悲鳴が聞こえた。
リディマの顔色が変わる。
次の瞬間。
爆音。
ガァァァン!!
校舎全体が激しく揺れた。
窓ガラスが砕け散る。
生徒たちの悲鳴が夜へ響く。
「キャアアアア!!」
「逃げろ!!」
リディマは走った。
中央ホールへ向かう。
そして。
そこで彼女が見たものは、悪夢そのものだった。
巨大な黒い怪物。
天井近くまで伸びた異形の身体。
骨のような腕。
濁った無数の目。
そして口の中には、人間の顔が埋め込まれていた。
怪物は生徒を握り潰していた。
血が床へ飛び散る。
絶叫。
混乱。
地獄。
「なんなの……これ……。」
リディマの足が震える。
その瞬間。
怪物が彼女へ気づいた。
無数の目が一斉に向く。
『……ミツケタ……』
怪物が襲いかかる。
だが。
赤い光が空間を裂いた。
ドォォォン!!
怪物の身体が吹き飛ぶ。
壁へ叩きつけられる。
煙の中から現れたのは。
バクタワルだった。
黒い制服は血に濡れ、首元の紋様が赤く燃えている。
彼の瞳は異様だった。
怒り。
悲しみ。
絶望。
全てが混ざり合っている。
「……下がってろ。」
低い声。
だがその声には、人間らしい温度がほとんど残っていなかった。
怪物が咆哮する。
黒い液体を撒き散らしながら突進。
その瞬間。
バクタワルの紋様が全身へ広がった。
赤い線が皮膚を這う。
空気が震える。
彼の周囲で無数の幻影が現れ始めた。
泣いている子供。
燃える森。
死んだ動物。
崩壊する海。
絶滅していく命の記憶。
それら全てが彼の感情へ流れ込んでくる。
《アートマヴァーン共鳴》。
感情を力へ変える禁断の能力。
だがその本質は。
“苦しみ”だった。
深い悲しみ。
孤独。
怒り。
それらが強ければ強いほど、力も増幅する。
代わりに。
人間性が削られていく。
怪物が再び飛びかかる。
バクタワルは静かに手を上げた。
「……消えろ。」
瞬間。
怪物の身体が内側から裂けた。
グシャアアア!!
血と黒い肉片が吹き飛ぶ。
生徒たちが悲鳴を上げる。
だがバクタワルは止まらなかった。
怪物はまだ生きていた。
苦しみながら這っている。
すると。
バクタワルの瞳が完全に赤く染まった。
その顔から感情が消える。
まるで別の存在になったように。
「バクタワル……?」
リディマが震える声で呼ぶ。
しかし。
彼は反応しない。
怪物へゆっくり近づく。
そして。
素手で怪物の頭を掴んだ。
次の瞬間。
空間そのものが歪む。
怪物の悲鳴。
絶叫。
泣き声。
無数の感情が爆発する。
バクタワルは怪物の記憶を“喰って”いた。
怪物が見てきた絶望。
苦痛。
憎しみ。
死。
それら全てを強引に吸収している。
リディマの顔が青ざめる。
「やめて……!」
だが止まらない。
バクタワルの身体が震える。
血が口から流れる。
それでも彼は怪物を握り潰し続ける。
怪物の身体が崩壊する。
黒い粒子となって消えていく。
そして静寂。
誰も動けなかった。
そこに立っていたのは。
もう“普通の少年”ではなかった。
赤い光に包まれた存在。
周囲の空気さえ恐怖で震えている。
バクタワルはゆっくり振り返る。
その目を見た瞬間。
リディマの呼吸が止まった。
恐ろしかった。
底知れない闇。
悲しみ。
壊れた魂。
彼の瞳には、人間では抱えきれないほどの苦痛が沈んでいた。
だが。
それでも彼女は目を逸らせなかった。
怖いのに。
逃げたいのに。
どうしても彼から離れられない。
彼女の胸が痛む。
理解してしまったから。
彼は怪物になりたいわけじゃない。
誰より苦しんでいるのは、彼自身なのだと。
その時。
バクタワルの身体が大きく揺れた。
「ッ……!」
彼は壁へ手をつく。
呼吸が乱れている。
紋様が暴走するように脈動していた。
リディマが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「来るな!!」
怒鳴り声。
リディマが止まる。
バクタワルは苦しそうに頭を押さえていた。
その脳裏へ、無数の声が流れ込んでいる。
助けて。
苦しい。
死にたくない。
森が燃える。
海が腐る。
命が消える。
世界そのものの悲鳴。
彼はそれを全部聞いてしまう。
だから壊れていく。
「……ワヘグル……。」
震える声。
彼は小さく祈り始めた。
「ワヘグル……ワヘグル……。」
まるで自分を繋ぎ止めるように。
だがその祈りの奥で。
別の声が囁いていた。
『もっと怒れ。』
『もっと憎め。』
『全て壊せ。』
バクタワルの瞳が揺れる。
そして。
彼は廊下奥の窓へ視線を向けた。
雨に濡れたガラス。
そこへ映っていたのは。
自分ではなかった。
黒く裂けた顔。
赤く発光する無数の目。
口元まで裂けた異形の笑み。
完全に“人間ではない何か”。
バクタワルの呼吸が止まる。
鏡の中の怪物が。
ゆっくり笑った。
________________________________________
第九章:根の下に眠る都市
雨の音が止んでいた。
それが逆に不気味だった。
ネオ・アムリトサルでは、黒い雨が止むことなど滅多にない。人々は雨音の中で眠り、雨音の中で絶望し、雨音の中で生きている。
だが今夜だけは違った。
世界そのものが息を潜めている。
そんな静寂だった。
アカデミー地下深層区域。
崩れかけた通路を、バクタワルたちは慎重に進んでいた。
壁一面に走る赤い古代文字。
天井から垂れ下がる黒い根。
まるで巨大な生物の内臓の中を歩いているような感覚だった。
リディマが小さく呟く。
「……ここ、本当に地下なの?」
ナナも周囲を警戒しながら歩く。
「空気がおかしい……。」
冷たい。
だが単なる温度ではない。
もっと深い何か。
時間そのものが腐敗したような空気だった。
バクタワルだけは黙っていた。
彼の耳には、また声が聞こえていた。
無数の囁き。
遠い昔の祈り。
消えていった命の残響。
《アートマヴァーン・レゾナンス》が、この場所へ異常に反応している。
彼は壁へ触れる。
すると赤い紋様が指先から広がった。
その瞬間。
ゴゴゴゴ……!!
巨大な音と共に、壁そのものが左右へ開き始める。
リディマが息を呑む。
「嘘……。」
その先に広がっていたのは――都市だった。
地下に存在する巨大な古代都市。
無数の石造建築。
巨大な神殿。
空の代わりに、天井全体を覆う青白い発光結晶。
そして都市の中央には、光り輝く巨大な樹が存在していた。
黒く死んだ地上の樹とは違う。
それは生きていた。
静かに。
神聖な呼吸を続けるように。
ナナが震える声を漏らす。
「……綺麗……。」
その光景は、あまりにも幻想的だった。
まるで文明そのものが自然と共鳴している。
ネオ・アムリトサルの冷たい鋼鉄都市とは正反対だった。
バクタワルはゆっくり歩き出す。
すると地面に埋め込まれた模様が次々と光り始めた。
赤。
青。
金。
それらはまるで彼を歓迎しているかのようだった。
リディマが周囲を見回す。
壁画があった。
巨大な壁一面に描かれた古代の記録。
そこには、人間と動物が共に祈る姿が描かれていた。
狼。
鳥。
鹿。
クジラ。
そして樹。
人間たちは自然を支配していない。
共に生きていた。
リディマは思わず呟く。
「昔の人類……?」
バクタワルが静かに答える。
「違う。」
彼の瞳は壁画を見つめていた。
「本当の人類だ。」
その言葉に空気が凍る。
ナナが眉をひそめた。
「どういう意味?」
バクタワルは苦しそうに目を閉じる。
また声が聞こえる。
悲鳴ではない。
もっと静かな声。
『最後の聞き手を導け。』
『世界はもう限界だ。』
『だが希望はまだ消えていない。』
突然。
都市中央の巨大樹が光り始めた。
青白い粒子が空間へ舞い上がる。
その時だった。
足元の地面が揺れる。
ゴオオオオ……!!
地下深くから巨大な振動。
遠くで何かが目覚める音。
リディマが警戒する。
「何か来る……!」
だがバクタワルは逆方向を見ていた。
地下都市のさらに奥。
暗闇の先。
そこに誰かが立っていた。
長い衣。
静かな目。
雪のように白い髪。
ヴィジャイだった。
リディマが息を呑む。
「……あの人……。」
今まで夢の中でしか現れなかった存在。
だが今、彼は確かに現実に存在していた。
ヴィジャイは静かに歩き出す。
その足元では、水が光っていた。
地下を流れる巨大な河川。
青白い光を放つ神秘的な川。
まるで星空が地面を流れているようだった。
ヴィジャイが口を開く。
「ここは《根の都》。」
その声は静かだった。
だが空間そのものへ響いていく。
「人類がまだ自然を恐れ、愛し、共に生きていた時代の最後の記憶。」
リディマが問いかける。
「なぜ地上から消えたの?」
ヴィジャイは光る河を見つめた。
「人類が選んだからだ。」
「……え?」
「便利さを。」
「欲望を。」
「支配を。」
彼の目には深い悲しみがあった。
「人類は自然と対話することをやめた。」
バクタワルが静かに尋ねる。
「……俺は何なんだ。」
ヴィジャイは彼を見る。
その視線は、まるで何千年も前から彼を知っているようだった。
「お前は《最後の聞き手》だ。」
その瞬間。
地下都市全体が震えた。
巨大樹の光が強くなる。
無数の古代文字が空中へ浮かび上がる。
リディマが驚く。
「最後の……聞き手?」
ヴィジャイは頷いた。
「世界が完全に沈黙する前に。」
「自然の最後の声を聞ける存在。」
「それがお前だ。」
バクタワルの胸が苦しくなる。
だから聞こえるのか。
森の悲鳴が。
海の絶望が。
滅びゆく命の叫びが。
ヴィジャイは続ける。
「だがその力は祝福ではない。」
「世界中の苦しみを受け入れる呪いでもある。」
その言葉にリディマの顔が曇る。
彼女は気づき始めていた。
バクタワルが毎日どれほどの孤独と痛みを抱えているのかを。
ナナは黙っていた。
だが胸の奥が苦しかった。
リディマの視線。
バクタワルの表情。
二人の距離。
それが少しずつ自分を置き去りにしていく気がした。
その時だった。
地下都市の奥で何かが光る。
巨大な壁画だった。
崩れた神殿の奥。
そこには、この文明最後の記録が描かれていた。
人々。
樹。
祈り。
そして。
一つの紋章。
リディマの顔色が変わる。
「……嘘。」
その紋章を彼女は知っていた。
幼い頃から何度も見てきた。
レヴァナ家の家紋。
そしてその下には古代文字が刻まれている。
《ヨセフ・サークル創設者》
ナナが息を呑む。
「……リディマの家が……?」
ヴィジャイは静かに目を閉じた。
「そうだ。」
「お前の一族こそ、人類を壊し始めた最初の血族だ。」
リディマの呼吸が止まる。
壁画には描かれていた。
古代文明を裏切る者たち。
自然を利用し始めた者たち。
そして地下都市を封印した存在。
その中心にいたのは――彼女の祖先だった。
リディマの膝が崩れる。
「……そんな……。」
彼女の瞳から涙が零れ落ちる。
その瞬間。
地下都市の奥深くで。
何か巨大な存在がゆっくり目を開いた。
________________________________________
第十章:億万長者の罪
雨が降っていた。
ネオ・アムリトサル中心区。
巨大企業《レヴァナ財団》本社。
黒い超高層ビルは、夜空へ突き刺さる墓標のようにそびえている。
ガラスの外壁には無数の広告映像が流れていた。
環境保護。
未来技術。
人類救済。
だがリディマは知ってしまった。
そのすべてが嘘だったことを。
重い自動扉が開く。
冷たい白い廊下。
無機質な照明。
社員たちは彼女を見るなり頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
だがその声には恐怖が混じっていた。
彼女は無言で歩き続ける。
その後ろを、バクタワルとナナが静かについていく。
空気が重かった。
誰も言葉を発しない。
リディマの瞳だけが冷たく燃えていた。
最上階。
総裁室。
巨大な扉の前で、彼女は立ち止まる。
深呼吸。
そして扉を開いた。
部屋の奥。
巨大な窓の前に、一人の男が立っていた。
リディマの父。
レヴァナ財団総裁。
世界経済を支配する男。
「……久しぶりだな。」
低い声。
感情のない声。
リディマは睨みつける。
「質問があるの。」
男は振り返らない。
「魚の大量死。」
「森林消滅。」
「地下海洋実験。」
「絶滅種研究。」
彼女の声が震える。
「全部……あなた達がやったの?」
沈黙。
窓の外では黒い雨が降り続いている。
やがて男は静かに口を開いた。
「世界を維持するには、犠牲が必要だ。」
その瞬間。
リディマの中で何かが壊れた。
「犠牲……?」
彼女の声が掠れる。
「何万もの命を殺しておいて……?」
「海を壊して……?」
「動物を実験材料にして……?」
「それを犠牲って呼ぶの!?」
男は表情を変えない。
「感情論で世界は救えない。」
「……っ!」
リディマは机を叩いた。
涙が溢れる。
止まらない。
「私は……何も知らなかった……」
彼女の呼吸が乱れる。
「ずっと信じてた……!」
「お父様は世界を守ってるって……!」
「でも違った……!」
「全部……全部……!」
彼女は崩れるように床へ膝をついた。
涙が落ちる。
静かな部屋に響く。
幼い頃から、彼女はずっと一人だった。
母は死に。
父は仕事しか見ていなかった。
誰も彼女を見てくれなかった。
だから。
せめて父だけは正しい人間だと信じたかった。
だがその最後の支えさえ、今崩れ落ちていく。
「……どうして。」
小さな声。
壊れそうな声。
「どうして私を、一人にしたの……。」
男の目が一瞬だけ揺れた。
だがそれもすぐ消える。
「感情は弱さだ。」
その言葉を聞いた瞬間。
バクタワルが静かに前へ出た。
「違う。」
部屋の空気が変わる。
男は初めて彼を見る。
バクタワルの瞳は静かだった。
だがその奥には深い怒りが眠っている。
「感情があるから、人は壊れた世界を救いたいと思える。」
「感情があるから、命を守ろうとする。」
「それを弱さって呼ぶなら……」
彼の首元に赤い紋様が浮かぶ。
「人間は、最初から終わってる。」
静寂。
男はバクタワルを見つめた。
まるで何かを思い出すように。
「……その目。」
「やはり似ているな。」
リディマが顔を上げる。
「何を知ってるの……?」
男は答えない。
代わりに端末を操作した。
部屋中央に立体映像が浮かび上がる。
古い研究施設。
白衣の研究員たち。
泣き叫ぶ子供。
そして。
小さな少年。
血だらけの腕。
首元に浮かぶ赤い紋様。
リディマの呼吸が止まる。
「……バクタワル……?」
映像の中の少年は、間違いなく彼だった。
幼い。
まだ十歳ほど。
研究台に拘束されている。
無数の管。
薬剤。
悲鳴。
「やめろ……!」
バクタワルが顔を歪める。
記憶が蘇る。
白い部屋。
冷たい手術台。
泣き声。
燃えるような痛み。
「被験体BS―01。」
研究員の声。
「共鳴適合率、異常上昇。」
「自然波長との同期確認。」
映像の中で、小さなバクタワルが涙を流しながら呟いていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
リディマの全身が震える。
「……誰がこんなことを。」
男は静かに答えた。
「私だ。」
世界が止まった。
リディマの顔から血の気が消える。
男は無感情のまま続ける。
「アートマヴァーン・レゾナンスを安定させるためには、特殊な共鳴体が必要だった。」
「彼は最適だった。」
バクタワルの拳が震える。
だが彼は怒鳴らなかった。
ただ静かに立っている。
その姿が逆に痛々しかった。
リディマの瞳から涙が溢れる。
「……嘘。」
「そんなの……嘘だよ……」
男は冷たく言った。
「世界を救うためだった。」
その瞬間。
リディマは叫んだ。
「救えてないじゃない!!」
窓ガラスが震えるほどの声だった。
「世界は壊れてる!!」
「海も!」
「森も!」
「人の心も!!」
彼女は泣き崩れる。
ずっと押し殺してきた感情が溢れていく。
孤独。
怒り。
悲しみ。
愛されたかった記憶。
全部。
全部。
壊れていく。
その時。
温かい感触が肩へ触れた。
バクタワルだった。
彼は何も言わない。
ただ静かに彼女の隣へ座る。
リディマは震えながら彼を見る。
「……どうして。」
「私は、あなたを苦しめた側なのに。」
「どうして優しくするの……?」
バクタワルは少しだけ笑った。
悲しい笑顔だった。
「お前は、あいつらとは違う。」
その言葉に、リディマの涙がさらに溢れた。
だが。
少し離れた場所で。
ナナはその光景を見つめていた。
静かに。
誰にも気づかれないように。
胸が痛かった。
リディマが羨ましかった。
バクタワルが見つめる相手。
支えたいと思う相手。
それが自分ではないことを、彼女は理解してしまっていた。
ナナは小さく俯く。
その瞳には、壊れそうな孤独が浮かんでいた。
その時。
研究映像の最後に、一枚の電子署名が表示される。
《実験承認責任者》
《レヴァナ財団総裁》
その下に刻まれていた名前を見た瞬間。
リディマの世界は完全に崩壊した。
それは。
彼女の父の名前だった。
________________________________________
第十一章:記憶を喰らう森
森は、生きていた。
ネオ・アムリトサル北部――政府地図から消された禁域。
そこには、誰も近づかない森が存在していた。
正式名称はない。
人々はただ、こう呼んでいる。
《記憶喰いの森》。
森へ入った人間は、必ず何かを失って帰ってくる。
名前。
家族。
愛した人。
あるいは、自分自身。
誰も理由を知らない。
だが一つだけ確かなことがあった。
この森は、“記憶”を食べている。
冷たい霧が木々の間を漂っていた。
空は見えない。
枝が異常なほど絡み合い、まるで巨大な生物の内臓の中を歩いているようだった。
湿った空気。
腐った花の匂い。
そして静寂。
鳥の声すら存在しない。
リディマは小さく息を吐いた。
「……本当にここに入るの?」
前を歩くバクタワルは振り返らない。
黒いコートの裾が霧に溶けていく。
「ここにしかない。」
低い声だった。
「最後の記録が。」
ナナが不安そうに周囲を見渡す。
最近の彼女は少し変わっていた。
共鳴能力が目覚めて以降、時々ぼんやり遠くを見るようになった。
まるで誰かの声を聞いているように。
「この森……嫌な感じがする。」
バクタワルは静かに言った。
「森が人を見てる。」
その言葉に、リディマの背筋が冷える。
風が吹いた。
木々が揺れる。
だが妙だった。
枝の動きが、生き物の呼吸に見えた。
リディマは無意識にバクタワルの背中を見る。
最近、彼はさらに危うくなっていた。
夜になると一人で祈っている。
「ワヘグル……ワヘグル……」
壊れそうな声で。
まるで、自分を保つために。
リディマは気づいていた。
彼は限界へ近づいている。
だが彼自身だけは、それを誰にも見せようとしなかった。
突然。
森の奥から子供の笑い声が聞こえた。
三人が止まる。
「……聞こえた?」
ナナが小さく呟く。
次の瞬間。
無数の足音が森中から響き始めた。
ザザザザ――
霧の奥。
何かが動いている。
人影だった。
だが顔がない。
空洞だった。
真っ白な輪郭だけの存在。
リディマが息を呑む。
「何、あれ……」
バクタワルの目が鋭くなる。
「見るな。」
その瞬間。
白い影たちが一斉にこちらを向いた。
そして。
囁き始める。
『返して。』
『返して。』
『私たちの記憶を。』
空気が震える。
ナナが頭を押さえた。
「っ……!」
彼女の脳裏へ大量の映像が流れ込む。
泣いている少女。
燃える村。
白い花。
知らない誰かの死。
「やめて……!」
ナナが膝をつく。
バクタワルが彼女を支えた。
その時。
森全体が脈動した。
ドクン。
巨大な心臓のような音。
地面から黒い根が浮かび上がる。
そして。
三人の視界が突然崩壊した。
――――。
バクタワルは暗闇の中に立っていた。
雨。
血。
燃える建物。
幼い頃の記憶。
「逃げろ!」
父の声。
母が彼を抱きしめている。
周囲では研究員たちが叫んでいた。
《ジョセフ・サークル》の紋章。
赤い警報灯。
幼いバクタワルは泣いていた。
「嫌だ……!」
だが次の瞬間。
銃声。
母の身体が崩れ落ちる。
赤い血。
震える指。
母は涙を流しながら微笑んでいた。
『生きて……』
『あなたは最後の希望だから……』
「やめろ……」
バクタワルの呼吸が乱れる。
彼は知っている。
これは森が見せている。
人間が最も忘れたい記憶。
最も痛い傷。
だが止まらない。
父が叫ぶ。
炎。
崩れる研究施設。
そして。
無数の動物たちの悲鳴。
『助けて。』
『苦しい。』
『人間が壊した。』
世界中の命の声。
バクタワルは頭を抱えた。
「やめろおおおッ!!」
同じ頃。
リディマも別の記憶へ閉じ込められていた。
巨大な病室。
窓の外には赤い空。
幼いリディマは泣いていた。
ベッドには母が横たわっている。
痩せ細った身体。
弱々しい呼吸。
だが、その目だけは優しかった。
『リディマ……』
「お母さん……」
母は震える手で娘の頬を撫でる。
『守って。』
「え……?」
『最後の種を……』
その瞬間。
病室の壁が崩れた。
巨大な黒い樹。
血を流す幹。
そして無数の檻。
絶滅した動物たち。
リディマは震えた。
「どういうこと……」
母が泣いていた。
『あの人たちは……世界を壊した……』
「誰が……?」
だが返事はない。
母の身体が崩れ始める。
砂のように。
リディマは必死に抱きしめた。
「嫌……!消えないで!!」
しかし母は消えていく。
最後に微笑みながら。
『あなたは……まだ間に合う……』
リディマは叫んだ。
森中へ響くほどに。
一方。
ナナは静かな湖の前に立っていた。
月明かり。
白い花。
そして。
そこには笑っているバクタワルがいた。
今とは違う。
穏やかな顔。
孤独のない瞳。
二人は並んで座っている。
楽しそうだった。
温かかった。
ナナは気づく。
これは、自分が最も幸せだった記憶。
遠い昔。
あるいは別の時代。
バクタワルが微笑む。
『ようやく笑ったな。』
ナナの胸が締め付けられる。
「……覚えてたんだ。」
だが次の瞬間。
湖が黒く染まった。
空が裂ける。
そして声が響く。
『代価を払え。』
森だった。
『一つ差し出せ。』
『さもなくば、彼は壊れる。』
ナナの目の前に、苦しむバクタワルの姿が映る。
彼の精神が森に呑まれ始めていた。
このままでは戻れない。
ナナは震える。
「やめて……」
『選べ。』
幸せな記憶か。
バクタワルの命か。
涙が零れる。
彼女は知っていた。
この記憶を失えば。
もう二度と、今の笑顔を思い出せない。
それでも。
ナナは静かに目を閉じた。
「……持っていって。」
湖が光る。
記憶が崩れ始める。
バクタワルの笑顔。
声。
月夜。
全部。
砂のように消えていく。
ナナは泣かなかった。
ただ小さく呟く。
「あなたが生きてるなら……それでいい。」
次の瞬間。
森全体が大きく揺れた。
そして現実へ引き戻される。
リディマが荒く息を吐く。
バクタワルは地面へ膝をついていた。
ナナが静かに彼を抱き支える。
「大丈夫?」
彼女は微笑んだ。
優しく。
けれどどこか悲しそうに。
バクタワルは不思議そうに彼女を見る。
「……なんで泣いてる。」
ナナは自分の頬に触れる。
涙が流れていた。
だが。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
________________________________________
第十二章:すべてを裏切った少女
雨が降っていた。
静かな雨だった。
まるで世界そのものが泣き疲れてしまったかのような、弱く冷たい雨。
ネオ・アムリトサルの夜景は霧に滲み、高層ビルの光さえぼやけて見える。
その街の片隅。
古びた列車基地の地下で、バクタワルたちは身を隠していた。
ジョセフ・サークルとの戦い以降、都市は完全に変わってしまった。
空には黒い雲が居座り続け、海では大量の魚が死に、森は一夜で枯れていく。
人々は原因不明の悪夢に苦しみ始めていた。
子供たちは突然泣き出し、大人たちは感情を失ったように無表情になっていく。
世界が壊れ始めていた。
そしてその中心にいるのが、バクタワルだった。
薄暗い地下室。
バクタワルは静かに座り込み、目を閉じていた。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
小さな祈り。
だがその声は以前より弱かった。
彼の身体は限界に近づいていた。
アートマヴァーン・レゾナンスを使うたびに、自然の痛みが彼自身を蝕んでいく。
森の悲鳴。
絶滅した命の絶望。
海の怒り。
それら全てが彼の中へ流れ込んでいた。
リディマは少し離れた場所から彼を見つめていた。
胸が苦しかった。
彼は確実に壊れていっている。
なのに誰も止められない。
その時だった。
「……少し外の空気、吸ってくる。」
ナナが静かに立ち上がる。
リディマが振り返った。
「一人で?」
「大丈夫。」
だがナナの表情はどこか暗かった。
地下基地を出た瞬間、冷たい雨が彼女を濡らす。
夜の街は静まり返っていた。
いや。
静かすぎた。
人の気配がない。
風もない。
まるで都市全体が呼吸を止めているようだった。
ナナは震える指でポケットから通信端末を取り出す。
数秒後。
低い声が響いた。
「来てくれて嬉しいよ。」
ナナの顔が強張る。
路地の奥。
黒い傘を持った男。
ラナ・ナイドゥ。
ジョセフ・サークルの支配者。
彼は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。
それが逆に恐ろしかった。
「……本当に、止められるの?」
ナナの声は震えていた。
ラナは静かに頷く。
「このままでは世界が崩壊する。」
「君も理解しているはずだ。」
彼はゆっくり空を見上げる。
黒い雲。
赤く濁った月。
「バクタワルの存在そのものが、“最後の共鳴”を加速させている。」
「彼が生きている限り、地球は痛みを増幅し続ける。」
ナナは唇を噛む。
頭では分かっていた。
最近、バクタワルの力は制御不能になり始めている。
彼が苦しむたび、自然も暴走する。
昨日も、彼が悪夢を見た瞬間、都市全域で植物が暴走した。
もしこのまま進めば、本当に世界が壊れる。
だが。
「……それでも。」
ナナの目に涙が浮かぶ。
「私は……彼を……」
ラナは静かに近づいた。
「君は孤独なんだ。」
その言葉に、ナナの身体が止まる。
「リディマは彼に必要とされている。」
「だが君は違う。」
「君はずっと、“選ばれない側”だった。」
ナナの呼吸が乱れる。
図星だった。
幼い頃からそうだった。
誰かの代わり。
誰かの影。
誰にも本当に必要とされない。
バクタワルだけが違った。
彼だけが、自分を見てくれた。
だから。
失いたくなかった。
ラナは優しく囁く。
「彼を救いたいなら、渡すしかない。」
「我々なら止められる。」
「世界も。」
「彼自身も。」
ナナの瞳から涙が落ちた。
その瞬間。
彼女の中で何かが壊れた。
深夜。
地下基地。
バクタワルは一人で外へ出ていた。
冷たい雨。
崩れた高架橋。
彼は静かに空を見上げる。
最近、妙な感覚が続いていた。
誰かが泣いている。
遠くで。
ずっと。
その時。
後ろから足音が聞こえた。
振り返る。
ナナだった。
彼女は笑おうとしていた。
だが上手く笑えない。
「……どうした。」
バクタワルが静かに尋ねる。
ナナは震える声で答えた。
「ごめんね。」
次の瞬間。
周囲の闇から無数の赤い光が現れる。
ジョセフ・サークル。
武装部隊。
完全包囲。
リディマの叫び声が遠くから響いた。
「バクタワル!!」
全てが遅かった。
拘束用の黒い鎖が一斉に放たれる。
バクタワルの身体へ巻き付く。
紋様が激しく発光した。
ドクン。
空気が震える。
周囲の植物が暴走しかける。
だが。
彼は抵抗しなかった。
ただ静かにナナを見つめていた。
その目には怒りがなかった。
失望も。
憎しみも。
ただ。
深い悲しみだけがあった。
ナナの涙が止まらない。
「違うの……私は……!」
「私はあなたを助けたかっただけで……!」
声が崩れる。
ラナが静かに近づく。
「確保しろ。」
兵士たちがバクタワルを引きずる。
その時。
彼が小さく口を開いた。
「……ナナ。」
彼女が顔を上げる。
バクタワルは微かに笑っていた。
壊れそうなほど悲しい笑顔。
「……許してたよ。」
その瞬間。
ナナの心が完全に崩壊した。
「やめて……!」
彼女が叫ぶ。
だが遅かった。
地下への巨大扉が開く。
暗闇。
底の見えない深淵。
ジョセフ・サークルの地下監獄。
バクタワルは最後まで抵抗しなかった。
ただ静かに。
祈るように目を閉じる。
「……ワヘグル……」
重い扉が閉じ始める。
リディマが必死に走る。
「待って!!」
だが間に合わない。
最後に見えたのは。
闇へ沈みながら、それでも静かにナナを見つめるバクタワルの瞳だった。
そして。
完全な閉鎖音が響く。
世界から光が消えたような静寂。
ナナはその場に崩れ落ちた。
雨が降り続ける。
冷たい。
冷たい雨だった。
まるで世界そのものが、彼女を責めているように。
________________________________________
第十三章:絶滅機関
海が黒く染まり始めていた。
最初は小さな異変だった。
漁師たちが「魚が消えた」と騒ぎ始めた頃、政府はそれを気候変動による一時的な現象だと発表した。
だが一週間後。
世界中の海岸へ大量の死骸が打ち上げられる。
鯨。
イルカ。
深海魚。
そして、誰も見たことのない古代生物。
それら全ての瞳は真っ黒に腐っていた。
さらに異常は続く。
鳥が消えた。
ある朝、人々は違和感に気づく。
空が静かすぎた。
電線にも。
森にも。
ビルの屋上にも。
一羽もいない。
世界中の鳥が、一夜にして姿を消した。
ネオ・アムリトサルも恐怖に包まれていた。
巨大スクリーンでは緊急ニュースが流れ続ける。
《異常気象による通信障害》
《複数都市で原因不明の停電》
《集団精神錯乱の発生》
だが人々は知っていた。
これはもう普通の災害ではない。
“世界そのもの”が壊れ始めている。
アルカディア学院地下。
封鎖区域最深部。
赤い警告灯が暗闇を染めていた。
巨大な円形空間。
その中心には、異様な装置が存在している。
無数の黒い管。
脈動する赤い液体。
そして巨大な球体。
まるで地球の心臓そのものだった。
バクタワルはその光景を見上げていた。
彼の瞳には強い怒りが浮かんでいる。
「……これが。」
隣に立つヴィジャイが静かに頷く。
「《絶滅機関》。」
低い声。
空気そのものが重くなる。
「ジョセフ・サークルが数十年かけて完成させた、人類最大の罪だ。」
リディマが息を呑む。
巨大装置からは、無数の悲鳴のような音が漏れていた。
動物の鳴き声。
人間の泣き声。
海の轟き。
森の悲鳴。
それら全てが混ざり合っている。
ヴィジャイは静かに語り始めた。
「地球の深部には、太古から眠る“共鳴存在”がいる。」
その言葉に空気が凍る。
「それは神ではない。悪魔でもない。」
ヴィジャイの瞳が暗く揺れる。
「星そのものの感情だ。」
沈黙。
遠くで装置が脈動する。
ドクン。
ドクン。
まるで巨大な生命体の鼓動。
「人類は長い歴史の中で、自然を壊し続けた。森を焼き、海を汚し、生き物を絶滅させてきた。」
ヴィジャイは装置へ視線を向ける。
「その苦しみと絶望の感情エネルギーを集め、この存在を目覚めさせる。それがジョセフ・サークルの目的だ。」
リディマの顔色が変わる。
「そんなことしたら……。」
「世界は終わる。」
静かな声だった。
だがその言葉には絶望が滲んでいた。
その時。
巨大モニターが突然点灯する。
ザー……。
ノイズ。
そして。
一人の男が映し出された。
ラナ・ナイドゥ。
黒いスーツ。
静かな笑み。
その瞳には狂気と悲しみが混ざっていた。
『ようやくここまで来たか。』
リディマが睨みつける。
「あなた達は何をしようとしてるの!?」
ラナは静かに微笑む。
『救済だ。』
その言葉に、バクタワルの拳が握られる。
『人類はもう手遅れだ。欲望のために世界を壊し、命を踏み潰し続けた。ならば、一度全てを終わらせるしかない。』
映像が切り替わる。
燃える森林。
死んだ海。
泣いている子供。
絶滅していく動物たち。
『地球は悲鳴を上げている。だが人類は聞こうとしなかった。』
ラナの目がゆっくり細まる。
『だから我々が“目覚め”を与える。』
突然。
巨大装置が光り始めた。
警報音。
ゴォォォォン!!
床が激しく揺れる。
リディマがよろめく。
「なに……!?」
ヴィジャイの顔が険しくなる。
「始まったか……。」
装置中心の球体へ、黒いエネルギーが集まり始める。
その瞬間。
バクタワルの頭へ無数の声が流れ込んだ。
苦しい。
助けて。
痛い。
死にたくない。
絶滅していった命の感情。
数え切れないほどの悲しみ。
彼は膝をつく。
「ッ……!」
リディマが駆け寄る。
「バクタワル!」
だが彼の瞳は震えていた。
脳内へ世界中の絶望が流れ込んでくる。
燃えるアマゾン。
黒く腐る海。
氷の下で死んでいく白熊。
油まみれの鳥。
そして。
泣き続ける地球そのものの声。
「……やめろ……。」
彼は頭を押さえる。
だが止まらない。
《アートマヴァーン共鳴》が強制的に反応している。
感情が暴走する。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
その全てが彼の身体を蝕んでいく。
ヴィジャイが低く呟く。
「絶滅機関は“絶望”を燃料にしている。」
リディマの瞳が揺れる。
「そんな……。」
「生物が絶滅する瞬間、最も強い感情エネルギーが発生する。それを集めているんだ。」
沈黙。
リディマは理解してしまう。
だから世界中で異常が起きている。
全て。
計画だった。
その瞬間。
彼女の端末へ緊急通信が入る。
《レヴァナ財団本部より》
リディマの顔が凍る。
画面には父の姿。
冷たい表情。
『戻って来い。』
「……。」
『お前はレヴァナ家の後継者だ。この計画は人類進化のために必要だ。』
リディマの瞳に怒りが宿る。
「進化……?」
震える声。
「これが?」
彼女は世界映像を見る。
死んだ海。
崩壊する都市。
泣いている人々。
「こんなの地獄じゃない!!」
父は無表情のまま答えた。
『感情に流されるな。世界を変えるには犠牲が必要だ。』
通信が切れる。
静寂。
リディマは俯いていた。
肩が震える。
ずっと信じていた家族。
巨大企業。
自分の居場所。
その全てが。
世界を壊す側だった。
彼女はゆっくり顔を上げる。
その瞳に迷いはなかった。
「……もう従わない。」
バクタワルが彼女を見る。
リディマは静かに涙を拭った。
「私は止める。」
低い声。
だが強かった。
「たとえ家族でも。」
その瞬間。
学院全体が激しく揺れた。
ドゴォォォォン!!
天井が崩れる。
警報。
悲鳴。
そして。
誰かが叫んだ。
「空が……!!」
全員が上を見る。
地上。
ネオ・アムリトサル上空。
黒い雲が渦を巻いていた。
その中心。
空間そのものが裂け始めていた。
まるでガラスにヒビが入るように。
空が。
割れていた。
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第十四章:笑わなくなった少年
青い雨が降っていた。
それは普通の雨ではない。
空気そのものが涙を流しているような、不自然な青色の雨だった。
崩壊した旧中央駅。
何年も前に放棄された巨大駅舎には、壊れた時計と止まった電車だけが残されている。
ネオ・アムリトサルでは、もう誰も列車を使わない。
人々は急ぎすぎた。
効率だけを求め、空を汚し、森を壊し、海を殺し、そして感情すら失い始めている。
駅はまるで、人類そのものの墓場のようだった。
その暗いホームの端に、バクタワルは一人で座っていた。
濡れた黒髪。
痩せ細った身体。
虚ろな瞳。
以前の彼には、まだ小さな温かさが残っていた。
だが今は違う。
ジョセフ・サークルの地下施設から逃げ出した後、彼の中で何かが壊れてしまった。
毎晩、彼は世界中の絶望を聞いている。
焼かれる森。
溺れる動物。
汚染された海。
滅びる命。
そして人間たちの醜い欲望。
それら全てが《アートマヴァーン・レゾナンス》を通じて、彼の魂へ直接流れ込んでくる。
耐えられるはずがなかった。
バクタワルは小さく呟く。
「……ワヘグル……」
だがその声は弱い。
昔のような温かさが消えている。
祈りはまだ続いている。
けれど希望が薄れていた。
彼はゆっくり空を見上げる。
青い雨。
まるで空まで泣いている。
「……もう、疲れた。」
その言葉は風のように静かだった。
彼は笑わなくなっていた。
リディマは遠くからその姿を見つめていた。
胸が苦しい。
以前のバクタワルなら、どれだけ苦しくても誰かを安心させるように笑っていた。
だが今は違う。
彼の孤独は、もう人間が抱えられる限界を超えている。
リディマはゆっくり彼へ近づいた。
濡れた床に靴音が響く。
バクタワルは振り向かない。
それでも彼は気づいていた。
彼女が来たことを。
リディマが静かに隣へ座る。
二人の間には長い沈黙が流れた。
遠くで崩れた電車が風に揺れる。
ギィ……ギィ……
死んだ世界の呼吸みたいな音だった。
リディマが小さく言う。
「……ずっと探してた。」
バクタワルは答えない。
彼の視線は線路の先を見つめている。
終わりのない暗闇。
まるで彼自身の心みたいだった。
リディマは震える声を押し殺す。
「なんで一人でいなくなるの。」
沈黙。
「私たちを頼ってよ……。」
バクタワルはゆっくり目を閉じた。
「……巻き込みたくない。」
「もう十分巻き込まれてる!」
リディマの声が初めて強くなる。
彼女は涙を堪えていた。
「あなたがどこかで苦しんでるって分かってるのに、何もできない方が苦しいの!」
バクタワルは静かに笑おうとした。
だが笑えなかった。
顔の筋肉が動かない。
心が凍っている。
「……俺は危険だ。」
「知ってる。」
「もう普通じゃない。」
「知ってる。」
「いつ壊れるか分からない。」
「それでもいい。」
その言葉に、バクタワルの瞳が少し揺れた。
リディマは彼を見る。
真っ直ぐ。
逃げずに。
「私は……あなたを理解したい。」
青い雨が二人の間へ降り続ける。
崩れた駅の照明が時折点滅し、青白い光がリディマの横顔を照らしていた。
彼女は静かに続ける。
「最初は怖かった。」
「あなたが何者なのか分からなかった。」
「でも今は違う。」
リディマの声が少し震える。
「あなたがどれだけ苦しいか分かるから……放っておけない。」
バクタワルは目を逸らした。
その優しさが怖かった。
失うのが怖い。
もう誰も傷つけたくない。
彼は低い声で呟く。
「……俺の近くにいると、不幸になる。」
リディマは即座に否定する。
「違う。」
「え……?」
「あなたはずっと、一人で世界の痛みを抱えてきた。」
彼女の瞳から涙が零れ落ちる。
「そんなの、孤独すぎるじゃない……。」
バクタワルの胸が痛む。
誰かにそんな風に言われたことはなかった。
彼はいつも「危険な存在」としか見られなかった。
利用され。
恐れられ。
隔離され。
だがリディマだけは違う。
彼女は彼の孤独そのものを見ていた。
その瞬間。
リディマが静かに口を開く。
「……好き。」
時間が止まる。
青い雨の音だけが響く。
バクタワルは動けなかった。
リディマは涙を流しながら笑う。
弱く。
壊れそうな笑顔。
「怖いよ。」
「あなたが消えてしまいそうで。」
「でも、それでも……好きなの。」
その言葉は静かだった。
だが世界のどんな叫びより強く、彼の心へ届いた。
バクタワルの瞳が震える。
彼は何かを言おうとした。
だが声にならない。
嬉しいはずなのに。
苦しい。
怖い。
温かい。
感情が壊れそうになる。
その時だった。
突然。
彼の身体を赤い紋様が走る。
「っ……!」
バクタワルが苦しそうに胸を押さえる。
リディマが青ざめる。
「バクタワル!?」
彼は激しく咳き込む。
ボタッ。
黒い血が床へ落ちた。
その瞬間、床に生えていた小さな草が枯れる。
リディマの顔から血の気が引いた。
「……嘘……。」
バクタワルは震える呼吸のまま笑おうとする。
だがその笑みは悲しすぎた。
「……やっぱり、駄目なんだ。」
「そんなこと――」
「リディマ。」
彼は静かに彼女を見る。
その瞳は、どこか諦めていた。
「俺……もう、死に始めてる。」
青い雨が、崩れた駅へ静かに降り続けていた。
________________________________________
第十五章:最後の種
世界は静かに壊れていた。
それは爆発でも戦争でもなかった。
もっと静かで。
もっと残酷な崩壊だった。
ネオ・アムリトサルの街を歩く人々は、皆どこか無表情だった。
笑わない。
怒らない。
泣かない。
ただ画面を見つめ、無機質に歩き続ける。
空では黒い雲が渦を巻き、銀色の魚が降り続けている。
だが誰も空を見上げない。
誰も不思議がらない。
まるで感情そのものを失ってしまったかのように。
「……始まってる。」
廃墟となった地下神殿の中で、ヴィジャイが静かに呟いた。
薄暗い空間。
無数の古代文字。
青白い炎。
そして中央には、巨大な共鳴結晶が脈動している。
ドクン。
ドクン。
まるで地球そのものの鼓動だった。
バクタワルは結晶を見つめながら問いかける。
「これは何なんだ。」
ヴィジャイはゆっくり振り返った。
長い白髪。
静かな瞳。
その存在は人間というより、古い神話の亡霊のようだった。
「お前達はずっと勘違いしていた。」
低い声が空間へ響く。
「最後の絶滅危惧種は、動物ではない。」
リディマが眉をひそめる。
「……どういう意味?」
ヴィジャイは静かに結晶へ触れた。
その瞬間。
無数の映像が空間へ浮かび上がる。
燃える森。
死んだ海。
崩壊する氷河。
絶滅していく生物達。
そして。
泣きながら倒れていく子供。
孤独の中で笑う老人。
無表情で働き続ける人々。
「人類は、自然との繋がりを失った。」
ヴィジャイの声は悲しかった。
「空を見なくなった。」
「風を感じなくなった。」
「命の痛みを理解しなくなった。」
映像が変わる。
古代文明。
人々は森へ祈りを捧げ、海へ感謝し、命と共に生きていた。
だが時代が進むにつれ、その光景は消えていく。
高層ビル。
工場。
汚染。
戦争。
金。
欲望。
「人間は便利さと引き換えに、“魂の感覚”を捨てた。」
ヴィジャイは静かに目を閉じた。
「つまり。」
「人類は、何百年も前に精神的絶滅を迎えていたんだ。」
空気が凍った。
ナナが震える声で尋ねる。
「じゃあ……私達は、もう終わってるってこと?」
ヴィジャイは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
リディマは拳を握る。
「そんなの……。」
「そんなの悲しすぎるよ……。」
彼女の目には涙が浮かんでいた。
幼い頃から感じていた孤独。
誰にも理解されない空虚。
愛されているのに満たされない感覚。
それが世界全体に広がっていたのだと、彼女は今理解してしまった。
バクタワルは静かに天井を見上げる。
「だから俺には聞こえてたのか。」
「森の声も。」
「海の悲鳴も。」
ヴィジャイが頷く。
「お前だけがまだ、“感じる”ことを失っていなかった。」
「だから選ばれた。」
「最後の共鳴者として。」
バクタワルの胸が重くなる。
彼はずっと孤独だった。
普通の人間のように生きられなかった。
死んでいく命の声が聞こえた。
世界の痛みが流れ込んできた。
だがそれは。
彼だけがまだ、人間として壊れきっていなかった証だった。
突然。
結晶が激しく脈動する。
ドクン!!
空間が揺れた。
ヴィジャイの顔色が変わる。
「まずい……。」
「共鳴汚染が加速している。」
その瞬間。
ネオ・アムリトサル全域で警報が鳴り響いた。
巨大モニター。
通信端末。
ニュース映像。
世界中の都市が映し出される。
東京。
ニューヨーク。
上海。
ドバイ。
ロンドン。
人々が突然立ち止まり始めていた。
女性が赤ん坊を落としても、何も感じない。
恋人が倒れても、誰も助けない。
子供が泣いていても、大人達は振り返らない。
感情が消えていた。
完全に。
「なに……これ……。」
リディマの声が震える。
ヴィジャイは苦しそうに呟く。
「共鳴汚染は、人間の魂を空洞化させる。」
「感情を失えば、人は自然とも繋がれなくなる。」
「そして最後には、“生きる意味”そのものを失う。」
その時。
バクタワルの首元に赤い紋様が浮かび上がった。
痛み。
頭の奥へ無数の声が流れ込む。
助けて。
苦しい。
寒い。
怖い。
世界中の感情が彼へ流れ込んでくる。
「……っ!!」
彼は膝をついた。
リディマが慌てて支える。
「バクタワル!」
彼の瞳から涙が零れる。
「聞こえる……。」
「みんな、壊れていく……。」
その声は絶望に満ちていた。
ナナはそんな彼を見つめながら、胸を締め付けられる。
彼はずっと一人で、この痛みを抱えていた。
誰にも理解されず。
誰にも救われず。
それでも世界を守ろうとしていた。
ヴィジャイは静かに空を見上げた。
天井の裂け目から黒い雨が見える。
「もう時間がない。」
「人類は今、“最後の感情”を失おうとしている。」
その瞬間。
世界中で異変が起きた。
何百万人もの人間が、一斉に感情を失った。
笑顔が消える。
涙が止まる。
愛が消える。
怒りも悲しみも。
全部。
世界から“心”が消え始めていた。
そしてネオ・アムリトサルの空では。
巨大な黒い雲の奥で。
何か巨大な存在が、静かに目を開こうとしていた。
________________________________________
第十六章:沈黙の中にいた神
世界は静かに壊れていた。
空は灰色に濁り。
海は黒く変色し。
鳥たちはもう歌わない。
都市では、人々が突然感情を失う事件が増えていた。
笑わない。
泣かない。
怒らない。
ただ虚ろな目で空を見つめ続ける。
まるで魂だけが抜け落ちたように。
ネオ・アムリトサルもまた、死に近づいていた。
巨大スクリーンは停止し。
ネオンは消え。
夜になると街全体が墓場のような静寂に包まれる。
その夜。
バクタワルは一人、崩壊した神殿跡へ向かっていた。
冷たい風。
砕けた石像。
そして天井のない空。
月だけが静かに彼を見下ろしていた。
彼はゆっくり目を閉じる。
「……ワヘグル……ワヘグル……」
祈りの声は弱かった。
昔よりも。
彼自身、自分が少しずつ壊れていることに気づいていた。
最近、自然の声が強すぎる。
森の悲鳴。
海の痛み。
絶滅していく命の叫び。
それら全てが頭の中へ流れ込んでくる。
眠れない夜が増えた。
笑えなくなった。
そして時々、自分が本当に人間なのか分からなくなる。
その時だった。
「お前はまだ、祈るのか。」
低い声が響いた。
バクタワルは静かに目を開く。
神殿の奥。
そこに、一人の男が立っていた。
ヴィジャイ。
長い白髪。
黒い衣。
そして異様なほど静かな瞳。
まるで世界の終わりを何度も見てきた人間のようだった。
バクタワルは小さく息を吐く。
「……来ると思ってた。」
ヴィジャイは微かに笑った。
「お前は昔から、勘だけは鋭かった。」
風が吹く。
その瞬間。
神殿中の石が震え始めた。
空気が変わる。
まるで世界そのものが彼へ跪いているようだった。
リディマとナナも遅れて神殿へ到着する。
だが二人は入口で足を止めた。
ヴィジャイの周囲だけ、空間が歪んでいた。
星の光。
水の流れ。
風。
木々。
全てが彼の呼吸と共鳴している。
リディマが震える声を漏らす。
「……何、これ……」
ナナの瞳が揺れる。
「人間じゃない……」
ヴィジャイは静かに振り返った。
その瞬間。
二人の脳裏へ大量の映像が流れ込む。
何千年もの歴史。
生まれては滅ぶ文明。
燃える森。
汚された海。
殺される動物たち。
泣き続ける地球。
そして。
その全てを、一人で見続けてきた存在。
リディマが膝をつく。
「っ……!」
頭が壊れそうだった。
あまりにも巨大な記憶。
あまりにも深い悲しみ。
ヴィジャイは静かに言った。
「私は神ではない。」
だが次の言葉は、世界そのものの声のようだった。
「私は、“地球の記憶”だ。」
沈黙。
風だけが吹いている。
バクタワルは静かに目を閉じた。
どこかで分かっていた。
ヴィジャイは最初から普通ではなかった。
時代を超えて存在している。
老いない。
自然そのものと繋がっている。
そして。
彼だけが、バクタワルを最初から知っていた。
ヴィジャイは空を見上げる。
「人類は何度も同じ過ちを繰り返した。」
「奪い。」
「壊し。」
「忘れた。」
その声には怒りがなかった。
ただ、深い疲れだけがあった。
「だが自然は、それでも人類を愛そうとした。」
リディマが苦しそうに聞く。
「……なら、どうしてこんな世界になったの。」
ヴィジャイは静かに彼女を見る。
「人類が、“痛み”を聞かなくなったからだ。」
沈黙。
遠くで雷が鳴る。
ヴィジャイはゆっくりバクタワルへ近づいた。
「お前は特別だった。」
「……。」
「幼い頃から、お前だけが聞こえていた。」
バクタワルの瞳が揺れる。
ヴィジャイは続ける。
「森の悲鳴。」
「海の涙。」
「絶滅していく命の声。」
「普通の人間には聞こえない。」
「だが、お前だけは聞いてしまった。」
バクタワルの拳が震える。
幼い頃から感じていた孤独。
他人には理解されない痛み。
なぜ自分だけ苦しかったのか。
その理由を、今ようやく知ってしまった。
「……なんで俺だった。」
ヴィジャイは静かに答える。
「優しかったからだ。」
その言葉に。
バクタワルの表情が歪んだ。
「優しい?」
彼は笑った。
壊れたように。
「俺は何も救えてない。」
「人も。」
「自然も。」
「ナナも。」
「リディマも。」
「全部壊れていく。」
声が震える。
「こんなのが救世主なら……世界は終わってる。」
リディマの胸が痛んだ。
彼はずっと、一人で背負っていた。
誰にも理解されず。
誰にも救われず。
それでも壊れながら戦っていた。
ヴィジャイは静かに目を閉じる。
「救世主とは、世界を救う者ではない。」
「絶望の中でも、“愛すること”を諦めない者だ。」
風が吹いた。
神殿の石が光り始める。
その時。
ナナが小さく呟いた。
「……運命って、何。」
ヴィジャイは彼女を見る。
「呪いだ。」
その答えに全員が静まる。
「運命とは、本来なら誰かが背負わなくていい痛みを、一人へ押し付けることだ。」
「だが。」
彼はバクタワルを見る。
「それでも誰かが選ばなければ、世界は終わる。」
長い沈黙。
バクタワルは空を見上げた。
灰色の空。
壊れた世界。
彼は小さく呟く。
「……疲れた。」
その声は、少年のものだった。
ただ孤独だった、一人の人間の。
リディマが彼の手を握る。
「一人で背負わないで。」
ナナも静かに隣へ立った。
「私たちがいる。」
バクタワルは何も言わなかった。
だがその瞳だけが、少しだけ揺れた。
その瞬間だった。
ヴィジャイの表情が変わる。
初めて。
悲しそうに。
「……もう時間がない。」
空が震える。
遠くで巨大な咆哮が響いた。
地面に亀裂が走る。
自然そのものが苦しんでいた。
ヴィジャイは静かに告げる。
「均衡を戻すには、“代価”が必要だ。」
リディマが息を呑む。
ナナの顔が青ざめる。
バクタワルだけが静かだった。
まるで最初から知っていたように。
ヴィジャイは三人を見つめる。
そして。
静かに言った。
「お前たちの中の誰か一人が、死ななければならない。」
神殿が沈黙した。
風さえ止まる。
誰も言葉を失ったまま動けなかった。
ただ。
崩壊していく世界の音だけが、遠くで静かに響いていた。
________________________________________
第十七章:海が空へ昇った日
世界が壊れ始めた。
その日、人類は初めて理解した。
自然はただ静かに死んでいたわけではない。
怒っていたのだ。
ネオ・アムリトサル上空。
黒い雲が空全体を覆い尽くしていた。
雷は赤黒く歪み、雨はまるで海そのもののような塩の匂いを含んでいる。
そして。
空に“海”が浮かんでいた。
誰も理解できなかった。
巨大な海流が雲の中を流れ、クジラたちが空を泳いでいる。
絶滅したはずの巨大生物たち。
古代魚。
翼を持つ巨大な海獣。
人類が化石の中でしか見たことのない存在たちが、黒い空をゆっくり横切っていた。
都市中で悲鳴が響く。
「逃げろ!!」
「波が来るぞ!!」
次の瞬間。
空が崩壊した。
轟音。
巨大な海水が天から落下する。
超高層ビル群が一瞬で飲み込まれた。
道路。
列車。
広告塔。
全てが濁流に押し流されていく。
人々は叫びながら逃げ惑う。
だが自然災害ではなかった。
それは。
地球そのものの怒りだった。
アカディア学院。
ネオ・アムリトサル中心部に存在する巨大学園。
今、その周囲は完全な戦場になっていた。
赤い警報灯。
崩壊する校舎。
空を覆う巨大な影。
ジョセフ・サークルの武装部隊が学院を包囲している。
生徒たちは避難しながら泣き叫んでいた。
「どうしてこんなことに……!」
「世界が終わる……!」
その中央。
崩れた中庭で、バクタワルは静かに空を見上げていた。
彼の身体は限界だった。
紋様は全身へ広がり、赤い光が皮膚の下で脈動している。
呼吸するだけで痛みが走る。
だが。
それ以上に苦しかったのは、世界の声だった。
海の絶望。
森の怒り。
絶滅した命たちの悲鳴。
アートマヴァーン・レゾナンスが暴走し、地球の感情そのものが彼へ流れ込んでいる。
「……苦しい……」
バクタワルは膝をつく。
その瞬間。
遠くで爆発音。
学院東側の壁が吹き飛ぶ。
ジョセフ・サークルの部隊が侵入してきた。
黒い装甲兵。
赤い紋章。
彼らの背後には、異形の存在がいた。
絶滅種融合兵器。
狼と人間が混ざった怪物。
巨大な鳥の翼を持つ兵士。
骨だけの獣。
それらは叫びながら学院へ突撃してくる。
「来るぞ!!」
生徒たちが逃げ惑う。
リディマは歯を食いしばった。
「みんなを避難させて!」
彼女の周囲で青い共鳴光が広がる。
アートマヴァーン・レゾナンス。
彼女の力は“記憶”だった。
大切な記憶を代償に力へ変える能力。
彼女は右手を振る。
瞬間。
空中へ巨大な光壁が展開される。
怪物たちが激突する。
轟音。
だが数が多すぎた。
学院全体が揺れている。
ナナは屋上から戦場を見下ろしていた。
風が強い。
黒い雨が頬を叩く。
彼女は震えていた。
怖かった。
自分が裏切った結果、全てが壊れてしまった気がした。
バクタワルを渡した。
世界を救うためだった。
なのに。
何一つ救われていない。
むしろ地獄が始まっただけだった。
その時。
空が裂ける。
巨大な赤い光柱が都市中央から天へ伸びた。
消滅機関。
ジョセフ・サークル最終兵器。
ラナ・ナイドゥが起動した“絶滅エンジン”。
地球全体の絶滅感情を増幅し、文明を浄化する装置。
学院全体が震える。
空間が歪む。
海がさらに空へ昇っていく。
ラナの声が世界中へ響いた。
『人類は間違えた。』
『自然を愛する代わりに支配した。』
『命を守る代わりに消費した。』
『だから終わるべきなのだ。』
巨大モニターにラナの姿が映る。
彼は静かだった。
怒っていない。
泣いてもいない。
ただ深い絶望だけが存在していた。
『破壊は罰ではない。』
『浄化だ。』
その瞬間。
絶滅エンジンが完全起動する。
世界中の海が空へ持ち上がり始めた。
人類史上最大の津波。
都市が沈む。
森が崩れる。
人々の悲鳴。
そして。
空を泳ぐ絶滅生物たち。
まるで地球が、自分の失った命を取り戻そうとしているようだった。
「やめろォォォ!!」
バクタワルが叫ぶ。
彼の紋様が暴走する。
赤い共鳴波が学院全体を包む。
周囲の植物が一瞬で成長する。
巨大な樹木が地面を突き破り、怪物たちを飲み込んでいく。
だが。
その代償として、バクタワルの身体が崩れ始めていた。
皮膚が裂ける。
血。
黒い光。
リディマが叫ぶ。
「もうやめて!!」
だが彼は止まらない。
彼だけが理解していた。
今止まれば、本当に世界が終わる。
その時だった。
学院上空に巨大な黒い裂け目が現れる。
そこから現れたのは、巨大な骨の竜だった。
絶滅した古代生物。
ジョセフ・サークル最終融合体。
怪物は咆哮する。
音だけで窓ガラスが砕け散った。
そして。
一直線にリディマへ突撃する。
「危ない!!」
誰かが叫ぶ。
だが間に合わない。
リディマの瞳に死が映る。
その瞬間。
彼女の前へ、一人の少女が飛び出した。
ナナだった。
時間が止まったようだった。
怪物の巨大な爪が彼女の身体を貫く。
鮮血。
リディマの顔に温かい血が飛ぶ。
「……ナナ……?」
ナナは震えながら笑った。
悲しいほど優しい笑顔。
「……やっと……守れた。」
その瞬間。
リディマの心が壊れた。
「嫌ぁぁぁぁぁぁ!!」
叫び声が学院全体へ響く。
バクタワルの瞳が揺れる。
ナナの身体は崩れ落ちていく。
黒い雨が彼女を濡らす。
彼女は最後にゆっくりバクタワルを見た。
その瞳には後悔があった。
愛があった。
そして。
救われたような静かな安堵も。
「……ごめんね……」
小さな声。
次の瞬間。
巨大な爆発が学院を包み込んだ。
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第十八章:滅びゆく地球の心臓
世界は静かに壊れていた。
都市は沈み。
森林は黒く腐敗し。
空には巨大な裂け目が広がり続けている。
ネオ・アムリトサルの街並みは、もはや人類文明の姿を保っていなかった。
崩壊した高層ビル。
燃え続ける道路。
黒い雨。
そして空を漂う無数の赤い粒子。
それは《共鳴灰》だった。
生物が絶滅する瞬間に生まれる感情の残骸。
怒り。
恐怖。
悲しみ。
憎しみ。
人類は長い年月をかけて、地球そのものへ絶望を蓄積させていた。
アルカディア学院地下最深部。
そこには巨大な深淵が存在していた。
まるで地球へ開かれた傷口のように。
深く。
暗く。
底が見えない。
赤黒い光が脈動し、不気味な鼓動が響いている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
その音は、まるで星そのものの心臓だった。
ヴィジャイは静かにその深淵を見つめていた。
「……時間がない。」
彼の声は重かった。
バクタワルは深淵の前へ立つ。
首元の紋様が赤く脈動していた。
共鳴が限界まで高まっている。
リディマは彼の背中を見つめながら、小さく唇を噛んだ。
彼の身体はもう限界だった。
皮膚には黒い亀裂が広がり始めている。
感情を力へ変える《アートマヴァーン共鳴》は、使うほど魂を削る。
彼は既に、人間としての境界を失い始めていた。
「……本当に行くの?」
リディマの声は震えていた。
バクタワルは少しだけ振り返る。
その目は疲れていた。
だが不思議なほど優しかった。
「行かなきゃ、終わらない。」
静かな声。
「地球が泣いてる。」
その言葉に、リディマの胸が締め付けられる。
彼はずっと一人で聞いてきた。
森の悲鳴を。
海の苦しみを。
絶滅していく命の叫びを。
誰にも理解されないまま。
孤独の中で。
ヴィジャイが静かに告げる。
「深淵の先には、《星の核》がある。」
空気が重くなる。
「そこは地球の精神世界だ。普通の人間なら存在を保てない。」
バクタワルは黙って頷いた。
すると。
リディマが前へ出る。
「私も行く。」
「駄目だ。」
即答だった。
バクタワルの顔が険しくなる。
「死ぬぞ。」
「それでも行く。」
彼女は一歩も引かなかった。
その瞳には涙が滲んでいる。
「もう一人で苦しまないで。」
静寂。
遠くで世界崩壊の轟音が響いている。
リディマは震える声で続けた。
「私はずっと孤独だった。」
彼女は小さく笑う。
寂しそうに。
「でも、あなたと出会って初めて怖くなったの。」
「……。」
「失いたくないって思った。」
バクタワルの瞳が揺れる。
彼は人との繋がりを恐れていた。
近づけば傷つける。
自分は怪物になる。
だから孤独でいようとした。
だが。
彼女だけは違った。
怪物になりかけた自分を見ても、逃げなかった。
その時。
ヴィジャイが静かに目を閉じた。
「……行け。」
二人を見る。
「だが覚悟しろ。」
低い声。
「星の核では、“世界の痛み”そのものを見ることになる。」
次の瞬間。
深淵が赤く発光した。
巨大な共鳴波。
ゴォォォォォォン!!
空間が歪む。
バクタワルの紋様が暴走するように光り始めた。
リディマは彼の手を握る。
冷たい。
だが確かに生きている。
二人は深淵へ飛び込んだ。
落下。
永遠のような暗闇。
風もない。
音もない。
ただ無数の感情だけが漂っている。
悲しい。
苦しい。
痛い。
助けて。
その声が脳へ直接流れ込んでくる。
リディマが苦しそうに顔を歪めた。
「ッ……!」
頭が割れそうだった。
世界中の絶望が押し寄せてくる。
そして。
光。
二人は巨大な空間へ降り立った。
そこは地球内部とは思えなかった。
空が存在している。
だがその空は赤黒く脈動していた。
大地には巨大な樹木の残骸が広がり、黒い海が静かに波打っている。
無数の魂が漂っていた。
透明な光。
消えていった命たち。
絶滅した動物。
忘れられた種族。
そして。
人間たち。
彼らは静かに泣いていた。
バクタワルは膝をつく。
「これが……。」
ヴィジャイの声が頭の中へ響く。
『星の記憶だ。』
その瞬間。
無数の映像が流れ込んだ。
燃える熱帯雨林。
油に沈む海鳥。
実験室で苦しむ動物。
戦争。
飢餓。
汚染。
人類が積み重ねてきた全ての罪。
地球は叫んでいた。
ずっと。
だが誰も聞こうとしなかった。
リディマは涙を流していた。
「こんなの……。」
声が震える。
「苦しすぎる……。」
その時。
黒い海の中心が割れた。
巨大な光。
星そのものの心臓。
無数の根が空間中へ伸びている。
それは生命そのものだった。
バクタワルは引き寄せられるように近づく。
すると。
突然。
彼の脳裏へ別の映像が流れ込んだ。
古代文明。
巨大な神殿。
そして。
ジョセフ・サークル。
黒い衣を纏った者たち。
彼らは“予言”を書き換えていた。
バクタワルの瞳が見開かれる。
「……違う。」
映像が続く。
石板。
古代文字。
そこに刻まれていた本来の予言。
《最後の共鳴者は世界を滅ぼす者ではない》
《世界を繋ぎ止める者である》
呼吸が止まる。
バクタワルは震える声を漏らした。
「予言は……改ざんされてた……。」
リディマが振り向く。
「え……?」
さらに映像が流れる。
ラナ・ナイドゥ。
レヴァナ財団。
ジョセフ・サークル。
彼らは恐怖を利用するために予言を書き換えた。
“最後の共鳴者は災厄になる”と。
世界を支配するために。
絶望を加速させるために。
バクタワルの身体が震える。
怒りだった。
悲しみだった。
彼はずっと怪物だと思っていた。
人類を滅ぼす存在だと。
だが違った。
最初から。
世界を救うために選ばれていた。
その瞬間。
星の核が激しく脈動する。
ドクン!!
空間全体が揺れた。
黒い海が荒れ狂う。
そして深淵の奥から、巨大な何かが目を開いた。
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第十九章:人類の悲しみを背負った少年
世界が崩れていた。
空は裂け、海は空へ浮かび上がり、黒い雷が大地を焼き続けている。
ネオ・アムリトサルはもう都市ではなかった。
終末そのものだった。
高層ビル群は半分以上が崩壊し、赤い植物がコンクリートを突き破って広がっている。
空には絶滅したはずの巨大な鳥たちが飛び、街路には光る鹿の群れが静かに立っていた。
自然が世界を奪い返し始めていた。
だがそれは美しい再生ではない。
人類文明そのものを飲み込む、痛みを伴う復讐だった。
崩壊した中央塔の頂上。
そこにラナ・ナイドゥは立っていた。
黒いロングコート。
風に揺れる白髪。
その背後では《絶滅機関》が巨大な鼓動を鳴らしている。
ゴオオオオオ……
巨大な黒い球体。
無数の魂。
絶滅した生命の怨念。
地球そのものの怒り。
それら全てが融合し、空間を歪めていた。
ラナは静かに空を見上げる。
その瞳には狂気だけではない。
深い疲労があった。
「……美しいな。」
彼は小さく呟く。
「人類がようやく裁かれている。」
その時。
背後から足音が響いた。
ゆっくり。
静かに。
だが迷いのない足音。
ラナは振り返らない。
「来ると思っていた。」
バクタワルだった。
彼は血だらけだった。
身体中を赤黒い紋様が覆い、瞳の奥では光が不安定に揺れている。
《アートマヴァーン・レゾナンス》は限界へ近づいていた。
彼の身体はもう人間として保てなくなっている。
それでも彼は立っていた。
世界の悲鳴を背負いながら。
ラナが静かに笑う。
「その顔。」
「昔の私によく似ている。」
バクタワルは何も言わない。
青白い風が二人の間を通り過ぎる。
遠くでは人々の悲鳴が響いていた。
世界は今、滅びようとしている。
ラナはゆっくり振り向く。
「知っているか?」
「私は昔、お前と同じだった。」
その言葉にバクタワルの瞳が揺れる。
ラナは静かに歩き出した。
崩れた塔の床を踏みながら。
「昔の私は、本気で世界を救おうとしていた。」
彼の声は静かだった。
怒りではない。
諦めだった。
「森を守ろうとした。」
「海を守ろうとした。」
「人類へ警告し続けた。」
彼の目に過去の記憶が映る。
燃える森林。
死んだ川。
企業に買収される研究者たち。
笑いながら自然を壊していく権力者。
「だが誰も聞かなかった。」
「人間は便利さを選んだ。」
「欲望を選んだ。」
「命より利益を選んだ。」
彼の拳が静かに震える。
「だから私は理解した。」
「人類は救う価値がない。」
雷鳴が空を裂く。
その瞬間、絶滅機関がさらに強く脈動した。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
まるで地球そのものの心臓。
ラナはバクタワルを見る。
「お前も聞いただろう?」
「森の悲鳴を。」
「動物たちの絶望を。」
「海の苦しみを。」
「それでもまだ人類を許せるのか?」
バクタワルは静かに目を閉じる。
聞こえる。
今も。
世界中の悲鳴が。
絶滅していく命。
崩壊する自然。
泣き叫ぶ地球。
その全てが彼の魂へ流れ込んでくる。
耐えきれないほどの痛み。
普通の人間なら、とっくに壊れている。
だが。
その中で彼は別の声も聞いていた。
小さな声。
誰かを守ろうとする声。
泣きながら花を抱く子供。
森を植え直す老人。
傷ついた動物を助ける少女。
絶望だけではない。
希望もまだ存在していた。
バクタワルはゆっくり目を開く。
「……それでも。」
ラナが眉をひそめる。
「何?」
「それでも、人間は全部が腐ってるわけじゃない。」
ラナが低く笑った。
「甘いな。」
「お前はまだ期待している。」
「期待なんかじゃない。」
バクタワルの声は静かだった。
だが強かった。
「信じたいだけだ。」
風が吹く。
彼の髪が揺れる。
「人間は確かに間違えた。」
「自然を壊した。」
「命を踏みにじった。」
「でも――」
彼の瞳が揺れる。
そこには深い悲しみがあった。
「苦しんでる人間もいる。」
「後悔してる人間もいる。」
「守ろうとしてる人間もいる。」
ラナが叫ぶ。
「少数だ!」
その怒声と共に空間が歪む。
絶滅機関から黒いエネルギーが溢れ出す。
巨大な獣の形を作りながら咆哮する。
「大多数は変わらない!」
「また自然を壊す!」
「また奪う!」
「また繰り返す!」
ラナの目には涙が浮かんでいた。
怒りではない。
絶望だった。
彼もまた、世界に裏切られ続けた一人だった。
バクタワルはその瞳を見て理解する。
この男も孤独だった。
救いたかった。
本当は。
誰よりも。
だが人類に失望しすぎた。
だから壊すしかなくなった。
バクタワルは静かに呟く。
「……苦しかったんだな。」
その瞬間。
ラナの表情が止まる。
彼は何も言えなかった。
誰にも理解されなかった。
狂人。
破壊者。
怪物。
そう呼ばれ続けた。
だが今。
初めて誰かが、自分の痛みそのものを見ていた。
ラナの拳が震える。
「……黙れ。」
「ラナ。」
「黙れ!!」
轟音。
絶滅機関が暴走を始める。
黒い光が空へ放たれる。
都市全体が崩壊し始めた。
リディマが遠くで叫ぶ。
「バクタワル!!」
彼女は涙を流しながら走っていた。
だが間に合わない。
空間そのものが裂けていく。
ラナは崩れ落ちながら笑う。
悲しい笑みだった。
「結局……世界は終わる。」
だがバクタワルは首を振る。
「終わらせない。」
彼の身体を赤い光が包み始める。
《アートマヴァーン・レゾナンス》が限界を超える。
世界中の声が彼へ集まってくる。
森。
海。
空。
命。
絶望。
希望。
その全てを抱えながら、彼は静かに立っていた。
ラナが震える声で呟く。
「なぜ……そこまでして人類を……」
バクタワルは小さく笑った。
久しぶりだった。
本当に小さな笑顔。
「……まだ、愛したいからだ。」
その瞬間。
光が爆発した。
世界が白く染まる。
リディマが必死に手を伸ばす。
「嫌……!!」
バクタワルの身体が粒子へ変わっていく。
彼は静かに彼女を見る。
その瞳だけは、最後まで温かかった。
そして。
消えていく光の中で。
彼は最後に、小さく呟いた。
「……リディマ。」
次の瞬間。
彼の姿は、世界から消えた。
________________________________________
第二十章:忘れられた種族の最後の叫び
雨が降っていた。
だが。
あの日の黒い雨ではなかった。
静かで。
優しくて。
どこか懐かしい雨だった。
崩壊から七年後。
世界は少しずつ変わり始めていた。
空は以前より青くなり。
死んでいた海には、小さな魚の群れが戻り始めている。
焼け野原だった森には若葉が芽吹き、長い間姿を消していた鳥達の鳴き声も聞こえるようになっていた。
もちろん。
世界が完全に救われたわけではない。
多くの都市は消えた。
数え切れない命が失われた。
人々の心には、今も深い傷が残っている。
それでも。
人類はようやく立ち止まり始めていた。
空を見るようになった。
風を感じるようになった。
命の声へ耳を傾け始めた。
ネオ・アムリトサル郊外。
再生保護区域。
そこには広大な森林が広がっていた。
かつて企業達によって破壊され尽くした土地。
だが今では、絶滅危惧種保護区として管理されている。
雨の中。
一人の女性が静かに森を歩いていた。
リディマだった。
長い黒髪。
以前より少し柔らかくなった瞳。
彼女は今、世界各地の自然再生計画を指揮していた。
巨大企業《レヴァナ財団》も、もはや存在しない。
彼女自身の手で解体したのだ。
「……また雨。」
彼女は小さく呟き、空を見上げる。
雨粒が頬を濡らす。
その感触に、彼女はふと目を細めた。
昔の自分なら、こんな感覚に気づきもしなかっただろう。
だが今は違う。
世界は、生きている。
風も。
木も。
雨も。
全部。
静かに呼吸している。
その時だった。
遠くから子供達の声が聞こえる。
「ねぇ、また聞こえた!」
「森の奥だよ!」
リディマは振り返る。
保護区を訪れていた子供達が、雨の中を駆けていく。
「待ちなさい、危ないわよ!」
職員達が慌てて追いかける。
だが子供達は興奮していた。
「歌が聞こえるんだ!」
「変な言葉!」
リディマは静かに立ち止まる。
胸がざわついた。
雨の音。
風の音。
そして。
森の奥から、微かに聞こえてくる声。
『……ワヘグル……』
彼女の呼吸が止まる。
『……ワヘグル……ワヘグル……』
静かな祈り。
優しくて。
少し悲しくて。
どこか温かい声。
リディマはゆっくり目を閉じた。
忘れるはずがなかった。
あの日。
最後の共鳴の中で、バクタワルは世界そのものへ溶けていった。
誰も彼の遺体を見つけられなかった。
まるで最初から存在していなかったかのように。
だが。
彼が消えた後からだった。
世界が少しずつ変わり始めたのは。
海が静かになった。
黒い嵐が消えた。
共鳴汚染が止まった。
まるで。
彼自身が地球へ溶け込み、この世界を支えているかのように。
「……あなたなの?」
リディマは小さく呟く。
返事はない。
だが風が優しく吹いた。
まるで誰かがそっと触れたように。
その時。
一人の少年が森の奥で叫んだ。
「見つけた!!」
人々が駆け寄る。
そして全員が息を呑んだ。
そこには一本の樹が立っていた。
小さな若木。
だが普通ではない。
幹の内部で、淡い赤い光が脈動していた。
ドクン。
ドクン。
静かな鼓動。
まるで心臓のように。
リディマの瞳が揺れる。
そこは。
あの“血を流す樹”が存在していた場所だった。
七年前。
世界の終わりが始まった場所。
だが今。
そこに立っていた樹は違う。
黒くない。
腐っていない。
柔らかな銀色の葉が雨の中で輝いている。
そして次の瞬間。
空から何かが降り始めた。
銀色の魚だった。
子供達が歓声を上げる。
魚達は静かに空を舞い、まるで光そのもののように森へ落ちていく。
だがもう、誰も恐れていなかった。
あの日とは違う。
これは警告ではない。
希望だった。
リディマの頬を涙が伝う。
彼女は静かに樹へ触れた。
温かかった。
まるで。
誰かの心臓へ触れているみたいに。
その時。
彼女の耳元で、微かな声が聞こえた気がした。
『……ありがとう。』
リディマは泣きながら笑った。
「……馬鹿。」
「最後まで、一人で全部背負うなんて。」
雨が降り続く。
優しい雨だった。
子供達は笑いながら魚を追いかけている。
風が森を揺らす。
鳥達が空を横切る。
世界はまだ完全じゃない。
きっとこれからも、人間は間違える。
欲望に負ける。
自然を傷つける。
互いを傷つける。
それでも。
人は変われる。
痛みを知れる。
誰かを愛せる。
命を守りたいと願える。
ヴィジャイの言葉が、リディマの脳裏に蘇る。
「最後の絶滅危惧種とは何か。」
彼女は今なら理解できた。
それは動物だけではない。
森でも。
海でもない。
本当に絶滅しかけていたのは――
人間の“心”だった。
誰かを愛する力。
痛みを感じる力。
命を守ろうとする力。
自然と共に生きようとする力。
人類は、それを失いかけていた。
だから世界は壊れた。
だが。
一人の孤独な少年が最後まで諦めなかった。
世界の痛みを聞き続けた。
命の声を抱き続けた。
そして。
人類へもう一度、“感じること”を残してくれた。
リディマは空を見上げる。
黒かった世界は、もうそこにはない。
雲の隙間から、静かな光が差し込んでいた。
その光の中で。
銀色の魚達が、まるで星のように輝いていた。

