水流の先にあるものは

「顔色、随分良くなったね」
 近藤は呟く。しかし視線は話相手でなく、束になった設定資料の方を向いている。
「……大分涼しくなってきたからね」
 幹央もモニターに目をやり、ペンを走らせながら適当に相槌を打った。
 
 元々水曜日にサークルはない。しかし、大学祭が近づいてきているというのに、作業の進行は予定より大幅に遅れているという状況にある。
 自主的に動かなくては間に合わない。せめて主導である2年生で集まってなるべく作業を進めておこう。そう決まったのは、つい数日前のことである。
 ついさっき山原と浅賀から、2年生のグループラインで「講義で少し遅れる」と連絡がきていた。今部室には、近藤と幹央の二人だけ。ただ、部室に入ってすぐには特に話したりはせず、互いに黙々と自分に当てられた作業をこなしていた。
「それで、合宿の時話してた友達とはどう?」
 夏休みの間や、大学が始まってからも近藤と幹央は何度も顔を合わせている。だが、二人だけで会うという距離感では相変わらずなく、この件についてお互いに言及することはなかった。
 近藤は、幹央に憑いていた幽霊と、合宿で話した友達が、同一人物であることを薄々勘づいているのだろう。だが、それを根掘り葉掘りしたいわけではなさそうだ。ただ、友人としてそれとない会話から、幹央を心配している。幹央は濁すような口ぶりから、それを察した。
「地元に帰ったら、たまたま会ってね。それで、色々話せたよ。お互いの齟齬にも気づけた。でも……次会うってことはあんまりなさそう」
「……そっか」近藤は言い淀む代わりとでもいうように、設定資料をパラパラと繰った。
「近藤の言ってた通りだったよ」
 紙の音が止まる。
「ん?どれのことだろう」
「『いつまでも悩んでいられる猶予は無い』的なこと。悔やんでも時間は返ってこない。俺は取返しのつかないことをした」
 モニターの中の少女と目が合う。とはいっても、まだ瞳の中はまだ空白だった。
 
 大学祭で発表するアニメは紆余曲折の結果、大まかな設定や脚本に関しては「青春群像劇」という山原の意見が通り、演出に関しては全面的に浅賀が指揮を取ることに決定した。
 幹央は原画担当に任命された。勿論、人数不足なので他の作業も手伝うが、演出の意図をくみ取り、登場人物が映える要点を描く重要な役割を任された。といより、志願したのだった。
 これまでの活動では、とにかく絵を動かすことだけに注力していた。今回もそれに徹しようと思っていた。
 だが、内容を練っていくなかで、一人の人物に強く惹かれた。
 決まったテーマは「青春とコンプレックス」。音を映像として表現したいという浅賀の意見から軽音部を舞台に、では幼馴染であった少女達の葛藤を描こうと、ストーリーの大筋は案外あっさり決まっていった。
 重要となるキャラクターを決めていくなかで、『「コンプレックス」と銘打つなら、天才キャラは必要だ』と、出来上がった少女がいた。
 傍若無人な性格だが、それを裏付けるだけの音楽の才能を持つ天才。この設定だけで、幹央はその少女にグッと興味を持った。
 おまけに、「クール系でもいいが、ここは可愛いに全振りしよう。俺の趣味で」「小さい子が厳ついものを持つのはロマンだよ。未熟で異質な天才感があっていい」と山原と浅賀が趣味を盛り込んでできた最終的な彼女の造形は、猫のような大きな目が特徴の小柄な少女だった。
 もし本人に言ったら、どんな目に合うか知れない。だが、幹央は、無意識のうちに彼女に颯の姿を重ねた。そして、自分が『彼女』を描きたいという、強い欲が芽生えた。

 幹央はペンタブから、彼女の瞳に光を施していく。
 これは、演奏のシーン。彼女の魅力、そして才能を観客に見せつけるための、重要な場面だ。
 他に作業があるのはわかっているが、どうしても気合が入ってしまう。線を描いては消し、描いては消しを繰り返す。
 これが贖罪になるとは、けして思っていない。ただ、こうして何かに、そして颯に向き合っていなければ、生きた心地がしない。生きてはいけない気がした。
 
「千田くん。千田くんってば」
「おい、お前大丈夫か? めっちゃ息荒いぞ」
 いつの間にか来ていた浅賀と山原に呼ばれ、幹央は意識を取り戻す。
「……ああ、ごめん。集中しちゃってって」
「すげえ迫力だったぞ。あんま根詰め過ぎんなよ。千田だけで作ってるわけじゃないんだから」
 これ差し入れ。山原はビニール袋を開き、見せてくる。幹央はお礼を言い、そこからミネラルウォーターを選んだ。
 山原と浅賀が加わったことで、締め切りに追われながらも部室には明るい賑わいが生まれる。
 仲間がいる、絵が描ける、アニメを作れる。
 楽しい。ここが今の自分の今の居場所だと胸を張って言える。
 それなのに、心の裏側では常に波が猛っている。