やりすぎなくらい冷房の効いた車両を出れば、身体がじっとりとした熱気に包まれる。
片面のみのプラットホーム。視界は緑で覆われている。
まだ夕方だからいいものの、もう少し日が落ちたら和風ホラーゲームの背景にでもなってそうだな。自分の生まれ育った地域ではあるが、その絵に描いたような田舎ぶりに、幹央は他人ごとのような感想を抱いた。
無人の改札を通ると、歓迎するようにすぐさま無数の羽虫達が寄りついてくる。
幹央は心底面倒くさそうに羽虫を手で払う。
(あぁ、故郷に帰ってきたんだな……)別に嬉しくもない実感が湧いた。
合宿を終え、帰宅すると、そこに颯はいなかった。
身体探しで家を空けているのかもしれないと待ってみても、一向に姿を現さない。
以前身体探しでいった場所や、颯が興味を持ちそうな場所を考えうる範囲で探してみたが、行方のヒントすら見当たらなかった。
俺はまた、タイミングを誤ったのだろうか。
ただ、中学生の時とは訳が違う。ここを逃してしまえば、本当の別れになってしまう可能性が大いにある。
そう思えば思う程、心臓が異様な動きを見せた。
四六時中落ち着く暇のない幹央の元に、一本の連絡が入った。幹央の母からだった。
『久しぶりです。そっちはすごい暑いらしいね。ちゃんと元気にしていますか? 忙しいとは思うけど、たまには帰ってきてくれていいからね。お刺身でも容易して待ってるから』
控えめながらもあたたかな文言に、ざわめく心がすこし和らいだ。
去年の今頃もこのようなメッセージが届いたが、バイトがあるとか言って結局帰省しなかった。
こんな心持ちだ。母には申し訳ないが当然帰省するやる気は起きない。
『ごめん。』とまで打ったところで、幹央の指の動きは止まる。
もしかしたら、颯がいるかもしれない。
あの町こそ、自分が知るなかで、颯と一番関連のある場所だ。もう近づきたくない場所かもしれない。だが、彼の居場所であったことは間違えない。
『突然でごめんだけど、明日帰ってもいい?』居ても立っても居られず送る。
『もちろん』とすぐに返信が返ってきた。
「おかえりなさい。移動、大変だったでしょ」
「そんなことないよ。俺の方こそ、突然ごめんね。今日もパートだったんでしょ?」
「いやあ、『今日息子帰ってくるんですー』って言ったら、人も少ないし早めに上がっていいよって言われてねえ。おかげで久々にちゃんとした料理したわ。一人だからって、最近は売れ残りのお惣菜ばっかでね」
食卓には、職場先のスーパーで買ったという刺身の盛り合わせとエビフライ、そして母の定番料理であるおから煮と松前漬けが並んでいる。
「わざわざありがとう。いただきます」
「あっ、お酒も一応買ってきたんだけど、あんたお酒飲める?」
「あぁ、俺あんま得意じゃないんだ。だからいいや」
「そう、体質はお父さんに似たのね。じゃあアタシが頂いちゃおうかな」
「母さん飲めるの?」
「これでも、昔は結構いける口だったのよ。最近も良いことあった日とか、たまーに自分で買って飲むのよ」
母はビールのプルタブを開け、飲み込む。母が酒を飲み姿というのは新鮮だった。
常に節制を心掛けながらも、幹央のために手料理やおかしを用意してくれていた母。
自分が出て行ったことで、母の重荷が少し軽くなったのかな。美味そうにビールを飲む母を見て、幹央は嬉しさとほんのすこしの寂しさを感じた。
「ほら、遠慮せず食べて。随分痩せたんじゃない? あっちなんて特に物価高がすごいっていうし……ちゃんと食べれてるの?」
「あぁ、ちゃんと食べてるよ。ただ、最近ちょっと夏バテ気味なだけ」
「ええっ、そんなおじさんみたいな。昔はそんなことなかったのに」
そう言うと、母は簡素な仏壇の方を見やる。そしてにやりと薄い唇を持ち上げた。
「あんた、久々に見ると、ますますお父さんに似てきたわ。昔は私似かなっと思ったんだけど」
幹央には父の記憶がほとんどないので、父に似ているということに嬉しいとか否定したいとか、これといった感情は沸かない。ただ、見比べる母が嬉しそうなので、それだけでよかった。
「随分急にきたけど、どのくらいいるつもり? パート仲間の人から聞く感じ、あんたの同級生とか結構戻ってきてるみたいね。飲み会とか、色々あるんじゃない?」
この人は息子が、話す人なんて居ないからと、成人式に参加しなかったことを知らないのだろうか。いや、予定があるとかいう分かりやすい言い訳を鵜呑みにしてるのかもしれない。母の呑気な様子が幹央には、すこしばかり鬱陶しく感じられた。
「いや、あっちでバイトとか大学関係の用事があるから……明後日には出ようと思ってる」
「あらぁ、随分短いのねえ」
「明日はその……幹央の家行こうかなって」
幹央。という言葉を聞くと恵比寿顔であった母の顔に陰りが差す。
「そうね、幹央くん、アンタと仲がよかったものね。うん……そう、そうね、それがいいわ」
見るからに言葉に詰まっている。その反応で、颯が死んだこと、そして、颯の死がこの土地で広まっていることが察せられた。
母はこの村に嫁いできた身で、父が死んですぐ仕事三昧になったので、地域の人との交流が薄い。そんな母でも颯の死を知っている。幹央が死んだというのは、一体いつ頃のことなのだろうか。
しかし、母に問い詰めたとて、母はこの件について詳しい話は知らないだろう。それに、久々に会った母に暗い話をしてもしょうがない。幹央はすぐに明日の予定についての話を切り上げて、大学での話や、合宿の話をしだした。すると、幹央の母も人見知りな息子が良き友人に恵まれ、忙しいながらも大学生活を謳歌していることに安心したのか、心底幸せそうにビールを煽った。
急いで干したという布団の中で目が覚める。太陽の香りがする布団に包まれて、幹央は久々に清々しい気持ちで朝を迎えられた。
「あら、おはよう。今丁度起こそうと思ってたんよ」
母は台所の方からひょっこりと顔を出す。手にはトーストの乗った皿を持っていた。
「ジャムの一つでもあればよかったんだけど、最近焼くのはおろか、そのまま齧るみたいなことが多くてね」
「……ごめん。お金、迷惑かけて……」
「あっ、そういう訳じゃないのよ。お金のことは全然関係なく……。なんかね、アンタがいた時今日は何作ろうかな、この新商品、アンタ好きかもなとかあんなに考えてたのに、一人になると全然なの。自分でもびっくり、アタシって思ってたより自分に無頓着みたい。んふふ」
幹央は何だか申し訳なくて、気恥ずかしくて、何も塗られていないてトーストを口にねじ込んんだ。
「そんな急いで食べんでも……。あっ、そうそう、これ。よかったら幹央くんとこ持ってって」
手渡されたビニール袋の中には、昔家によく置いてあったどこの会社のものかもわからないチーズスナックと、桃が一つ、そしてタッパーに詰められた昨日の惣菜が入っていた。
「これ、よく幹央くんと食べてたでしょ。桃も安いけど良いのが売っていてね。……あと、幹央くんち、今おばあちゃんが一人だけで暮らしてるらしいのよ。余計ないお世話かもしれないけど、食べ物のこととか心配じゃない? タッパーは返さなくていいし、要らないって言われればそのまま持って帰ってきてくればいいから。よかったらって渡してきてちょうだい」
幹央の家から颯の家はそう遠くない場所にある。
たたでさえ若者の少ない、田舎の寂びれた地区であるが、颯の家はその家々のなかでも特に山の奥まったところにある。
あまり手入れされてない草木をかき分けていくと、幹央の家はある。
日本家屋の家。今でこそ寂びれた田舎の象徴のように佇んでいるが、昔はそれなりに地位のあった家なのではないかと推察できる面積を有している。
それにしても、以前来た時よりも一層悲壮感が増しているように感じる。それは、幹央が祖母の趣味だと言っていた、園芸や家庭菜園といった植物の気配が消えたからであろう。砂埃がこびりついた空っぽのプランターがいくつもあり、支柱にはいつの何の野菜かもわからない枯れたツタがぽつねんと巻き付いてる。少し目をやると、隅の方にある小さな鉢があった。そこには青々としたいくつもの葉が付いている。ただ、身を隠すように茂っているだけなので、寂しい印象はけして拭えていなかった。
以前は、いつ来ても何かしらの花や野菜がこんもりと実り、幹央を迎え入れてくれていた。それらに特別何かを感じていた訳でないのだが、こんなにも変わり果てた姿を見ると、どこなく幹央の心は不安になった。
不安を抱えたまま、幹央はインターホンを押す。しばらくしても反応がないので、もう一度押す。すると、観念したようにスピーカーからしゃがれ声が聞こえてきた。
「土地の話か。あたすはここを出ていく気はさらさらない。それともどこぞの週刊誌か? 言っとくが家族についてこれ以上話すことはない。時間の無駄だ。アンタもはよう帰ったほうがええ」
「あっ、えっと、違います。僕、幹央くんのとっ、友達の千田幹央っていうんですけど……」
「ちだ、みきお……」
そう呟くと、スピーカーがぶつりと切れる。これでは、来客を許可されたのか、拒否されたのか、判断しかねる。
幹央は何度か幹央の祖母とは顔を合わせている。おそらく名前も覚えているだろう。ただ、あのインターホン越しでの囁きに、どんな感情が滲んでいるのかは理解しかねる。幹央の不安は瞬く間に広がっていった。
しばらくすると、立て付けの悪い引き戸から、幹央の祖母が出てきた。昔よりかは幾分か痩せたように見えるが、相変わらず背筋の伸びており、厳格な雰囲気を醸し出していた。
「あの、お久しぶりです。その、幹央くんの、あの……」
たるんで下がった瞼から覗く瞳は、幹央に似ていた。有無を言わせぬ何とも言えない圧がある。
「……まあ、上がんなさい。ジュースはないから、麦茶でええか?」
「はっ、はい」
外とほとんど暑さの変わらない居間で、幹央は颯の祖母と対峙している。
畳が敷かれた居間には、大きなテレビがある。幹央の世界は広がった、思い出深い場所である。ただ、そこにいたのは幹央だけであって、幹央が遊びにくると、今目の前にいる祖母は外で植物の世話をしているか、台所に行っていた。こうして二人でお茶を飲むことなんて一度もなかったので、まるで始めてきた場所のような緊張を感じた。
「それで、何しに来たんだい? 幹央に何か恨みがあるっちゅうなら、悪いが幹央はもういなし、あたすが何か応えてやることもできない」
「いや、そんなことはなく……ただ、やっぱり幹央は、死んだんですね……」
そういうと、祖母は目を大きく見開く。
「なんだ、あんたあ、知らんかったのか?」
「はい、失礼ながら……最近、知って」
「ほおか、まあ、あんたあ高校は遠いとこ選んだらしいもんなあ。葬式も誰も呼んどらんし、知らんのも無理ないわ」
「お葬式は、誰も?」
「ああ、あの子の親父が犯罪者なことは流石にアンタも知ってるじゃろ?」
「はい……」
そう答えると、祖母は淡々と話し出した。
「ウチのグズ娘、その馬鹿の手伝いしてたんじゃ。刑はヤツより軽いが、まだ務所さいる。両親は来れん、親戚もみんなアイツらのことは腫物扱い。まして、死んだ原因の学校の奴らなんざ呼べるわけがねえ。あの子も望んでないじゃろう。だから、あたすと、つき合いの長い坊さんだけで式さ挙げたんだわ」
「――ありゃ、もう氷溶けてきてんな。あんた、もっと遠慮せず飲みな。ひどい汗じゃ。うちで熱中症なんかになられたら、また近所のもんに騒がれる」
そう言う老婆の顔には、疲労が色濃く表れている。随分、やっかいな来客が多かったのだろう。そんななかで、遠慮するのも躊躇われて、素直に祖母にグラスを手渡した。
「ありがとうございます。あの、御仏壇とかってあったりは……」
「……ああ、アンタならあの子も文句は言わんじゃろ」
祖母は幹央は麦茶を飲んだことを確認すると、立ち上がり居間の引き戸を開ける。
長い廊下を歩くと、豪華な客間であったであろう一角に豪勢な仏壇があった。壁には喪服の老人達の遺影が並ぶ中、一番端に学ラン姿の颯の姿があった。笑い皺を作りながら笑っていた。
「あの、これ、お供えしても?」
「あぁ、なんじゃ。わざわざ。でも、置いれかれても困るな。腐らすよりもあんたが持って帰ったほうがいいだろ」
「そうですか」
香炉には、ほぼ消えかけている線香が一本立っている。きっと、祖母が朝にあげたのだろう。
幹央は蝋燭にマッチで火を着け、線香にあてる。寂しかった香炉に、赤い光が灯った。
リンの音。白檀の香り。遺影からの視線。
日高颯は死んだ。ようやく、その実感が明確になった。
「ちゃんと蝋燭の火消してな」
「あっ、はい。えっと、じゃあ……」
慌てて蝋燭消しで火を覆う。
「じゃあ、あんがとなあ。それじゃ」
「いや、えっと、待ってください!」
これで終わらす訳にはいかない。まだ、颯の手がかりが見つかっていない。でも、実の祖母に『お孫さんの幽霊を探してて』なんて言えるのか? それに、冗談の通じなそうなんだこの人は。
「えっと、その……」
「なんだ、あんた。口ぱくぱくさせて。鯉みたいだな」
縦皺の入った唇を意地悪く上げる。急に、颯との血の繋がりを強く感じた。
「あんた、線香あげるためだけに来たわけじゃなさそうだ」
「えっと……」
「理由を聞かされてもこっちが困る。でも、少なからず雑誌なり記事なりに書きたいからとかではなさそうだ。そんな根性なさそうじゃもんなあ、今も昔も。だから、まあ、あんたにならええじゃろお」
「えっと、何を」
「あの子のこと、知りたいんだべ? そんでなきゃわざわざこんなとこさ来んだろ?」
図星だった。そして、幹央は迷わず首を縦に振った。
再び居間に戻ると、新しく入れた氷もすっかり解けていた。だが今度は飲み物を気にすることなく、颯の祖母は語り出した。
「さっきも少し話したが、あたすはあの子の母方のばあちゃんでね。勝手に出ってた娘が知らん間に悪い男にひっかかって子供こさえて、勝手に大事に巻き込まれちょった」
事件後、両親二人が逮捕された。父親もヤクザになるにあたってとうに家族とは縁を切っており、身寄りはない。目の前の老婆は唯一の身寄りとして颯を引き取らざるを得なくなったらしい。
「口うるせえじいさんが死んですこし経ったあたりのことだ。あぁ、やっと一人になれたわと思った矢先にこれよ。でも、あたすも鬼じゃねえ。憎かろうが血の繋がった娘の子。親のあんこが足りねえだけだ」
こつこつと白髪交じりの頭を指で叩く。
「あの子は何も悪くない。可哀そうな子じゃと思って引き取ったさ。かかあに似て生意気だったが、一応老人相手だからかな、そんなに粗暴なことはせんかった。なんやかんやで手伝いもようしてくれたし……まあ、かわいい孫だ」
「変なとこから始まった二人での生活じゃったが、どこにでもある普通の家族の暮らしをしてた。――だが、あの時から狂った。あんたも知っとるじゃろ? 中学ん時に親父の噂が流れた」
淡々とした語りが一変する。静かだがこちらを貫くような気迫に、幹央は身震いする。
「あたすがこのことを漏らしたことは一切ない。ヤクザも絡んだなかなか大きいやらかしじゃったから、今でもたまにどっかの下衆な記者がウチにくることがある。門前払いにしてるがの。だが、ここは狭い。都会の奴らは田舎の人は大らかで良い人なんざよく言いくさるが、実際のとこ人の粗探して、楽しむような狡賢いらばかりじゃ。んだから、噂はすぐに広まった」
幹央は黙って頷く。それしかできなかった。
「教師も真面目に取り合わんし、もお、いっそこんな村出て行ってやるかとも考えたが、あの子もあの子で意地っ張りで頑なに学校に行こうとする。で、あの子野球部の子殴ったべ。急いで学校行ったが、あの子も殴られた側も何も喋らん。結局、あの子は悪いところばっか背負って、学校に通った……でも、卒業式から帰った時は妙にさっぱりした顔しとってな」
幹央の脳裏に、生きていた颯との最後の記憶が再生される。
「それ見た時、あぁ、きっとこの子は大丈夫だって、勝手に思い込んだ。きっとそれがよくなかったんだろなあ」
「よくなかった?」
颯とよく似た瞳に、重い瞼がかかる。こうなると、威厳は消え、どこにでもいる孤独な老人といった印象だ。
「きっと、この子は大丈夫。そう思って、本人の希望通り高校に行かせた。せめてもと思って、あの子の頭でも入れる、なるべく遠いところを選ばせた。でも、中学の同級生がいてな。それに、スマホ、インターネットちゅうんか? そういうののせいで中学の時よりももっと早く、広く広まったらしい。半グレみたいなのも多い学校じゃったから、颯はすぐにいじめの対象になった。あの子、力は強いが身体はちいちゃいだろ? 流石のあの子も何人もに襲いかけられりゃあ、どうすることもできねがったみたで。そんでいじめはどんどんひどくなって、1年生の夏休みから、そのまま学校に行かんくなった」
幹央は目を丸くする。
あの颯が? 颯は小さくても、それを跳ね返せる程の強さと、力を持っている。頂点にいるべき存在なんだ。そんな颯が、颯が……。
自分の持っている颯の乖離していく。それが、怖くて、何故か怒りすらも浮かび上がった。
「あんな、弱ったあの子を見たのは、後にも先にも始めてだ。喋りかけると、いつもの調子で返そうとする。んだが、いつも口が震えてて、それが痛々しくてしょうがなくてねえ。心配かけないようにしてんだろうな、今の自分が何より嫌んだろうなってのがわかって、ほんとお、心苦しくなあ……」
座敷机に水滴が落ち、グラスから零れた結露と交じり合う。
「無理にでも、環境を変えてやればよかった。こんな場所、出てってやればよかった。そうすりゃあ、あの子も、川に身投げるなんて馬鹿なことしなかったかもしれんのに……」
荒れ狂う河。それに飛び込みあがる水しぶき。囚われていく颯。
「ああ、何でよりにもよって水なんだ。そもそもあの子を一人にしたのも、苦しめたのも、死体を水に流して大事にしたからだ。なのに、なんでわざわざ……そんなことしないでも、ばあちゃんがいるのに。探せば、地上のどこにだって居場所はあるっていうのに……」
泣いている祖母を前にして大変不謹慎だが、幹央は首をつるだとか、包丁で自分を貫くだとかよりも、何故だかずっと――――しっくりきた。
でも、そんなことは勿論言わない。それよりも、言うべきことがある。
「うまく言えなくて、すいません……でも、おばあちゃんのせいじゃありません。僕のせいです。僕が、中学の時、ちゃんと颯君に寄り添えていえば、こんなこと起きていないはずなんです。……本当にごめんなさい」
幹央は机から離れ、深々と頭を下げる。湿気った畳の匂いが、直に鼻腔へ広がった。
「顔あげなさい」
「……」
「あんたは悪くない。なんて言える程、あたすは懐が広くねえんだ。あの子と仲良くしてたことを知っとるから、あんたにそう言われると、あんたにも非があるように思えてきちまう」
「いえ、それは、その通りなので」
「……別に、本気では思ってねえ。結局全部、あの子とあたすら家族の責任だ。……でも、最近一人でいすぎて、どうにかなりそうだ。悪いが、今日だけあの子のこと、あんたのせいだと思ってええか? そんで、あんたを憎んでええか?」
「ええ、どうぞ。好きなだけ」
「ありがとう……、んだら、すぐに帰んな。ひょっとすると、あんたを殺しちまうかもしれん」
そう言って、老婆は不敵に笑った。それでも瞳には溢れんばかりの涙が浮かんでいて、ひどく滑稽で悲壮感は漂う様相であった。
物騒な宣言をした颯の祖母であったが、帰り際、幹央に颯の墓があるところを教えてくれた。
「まあ、盆も近いしな。気が向いたらそっちにも行ってやってくれ」
そういう彼女に、惣菜を渡すと以外にもあっさり貰ってくれた。
「ろくな料理なんて食うのは久々だ。お母さんにお礼沢山言っといてくれ」
すると、急いで台所に入っていきビニール袋を渡された。ビニール袋には、青い葉がこんもりと入っていた。小さな鉢で茂っていた葉だ。聞けば、この葉はモロヘイヤ。颯の好物で、全てのやる気を失くした今でも、これだけは無意識に育ててしまうらしい。
颯の家から、そのまま墓がある場所へと足を運ぶ。墓地は、ガタガタで急な石段の先にあるそうだ。
蝉の鳴き声がうざったく、沸き立つような暑さが憎い。足を動かす度に、石段へぼたぼたと汗が垂れた。
幹央の両親は、颯の両親程壮絶でないが、駆け落ちという形で結ばれたため、親戚との縁が薄い。そのため、墓参りというものにもいまいち馴染みがなかった。まさか、恐らくはじめての墓参りが颯のものになるとは、夢にも思わなかった。せめて夢であって欲しかった。茹ったような脳で幹央はそんなことを思った。
満身創痍のなか、階段を上り終えると、大小様々な墓石が並んでいるのが目に入る。だが、真新しいものはなく、苔を生やしたりと手入れの行き届いていない古めかしいものが圧倒的に多い。
幹央が住んでいた時から高齢者の多い地域であったが、今はよりそれが深刻であるのだろう。墓を定期的に訪れる人が減っていることが、その様子から見てとれた。
ひとまず日高の墓石を探そうと歩くと、奥からガサガサと物音がした。音の方みると、白い煙。そして、茶髪の頭部が見えた。
幹央は男に近寄る。男はスポーティーな紺のTシャツにカーキのハーフパンツという平凡な恰好だ。佇まいからみても、その男は若い。ここは、若者が極めて少ない地区だ。幹央は彼に警戒心を持った。ただ、颯の祖母が言うには日高の墓は奥の方にある。つまり、幹央は、この空間にいるにはいささか違和感のある男の側を横切る必要がある。
気が進まず立ち止まっていると、男の方が振り返り歩き出した。
なに、所詮は他人だ。幹央は腹をくくり歩く。息を止め、通りすぎようとする。
「……お前、もしかして、千田か?」
驚いた。だが、その声には聞き覚えがあった。
「えっと……もしかして、木下部長、ですか……?」
すると、男は何ともいえない苦し気な表情で頷いた。
幹央は墓石の窪みに線香を置き、手を合わせる。
正直に言えば、颯の家の仏壇に手を合わせた時の方が、颯について集中することができていた。
背後から久々に会う中学時代の先輩の視線を浴びる中での合掌は、思った以上に気が散るものだった。
手を解き、改めて日高の墓石を見ると、濡れて石の色が変わっており、他の墓石に比べて汚れが拭き取られている。きっと、後ろにいる男がつい先ほど手入れしていたのだろう。
振り返ると、目が合う。別に、たかだか中学時代の部活の先輩後輩という繋がりだ。今更気を遣って話すことも、なんなんら挨拶なんかしなくても、これといった不快感もない。それくらいの関係。
それなのに、元部長は思いつめたような顔をして幹央を見ている。そして、きっと木下には、幹央が何か言いたげなように映っている。
別の場所で再会したならば、こうはなっていないだろう。しかし、ここは颯の骨が眠る場所。
そこにわざわざ足を運んでいるという時点で、お互い日高颯に対して、【何か】を抱えている。互いにそれは感じとれていた。
幹央は思いだしたように、颯の祖母が受け取られなかった桃とスナック菓子を置いた。
「部長、たしか、墓に供えたものって、その場で食べないといけないらしいですよ」
幹央から話し出したことに、木下は動揺したのだろう。しばらく考え込むように俯き、顔を上げた。
「そうなんだ? たしかにカラスとかに来られちゃ大変だもんな。……じゃあ、食べないとな。それ」
「桃だけなら一人で食うでも良いんですけど、コレがね。昔は一人でペロっといけたんでんすけど、最近一人でスナック菓子一袋はきつくって」
「ハハっ、なんだそれ。随分ジジ臭いこと言うな。後輩のくせに」
「だから、悪いんですけど部長手伝ってくれません?」
木下は一瞬大きく目を見開くが、すぐに幹央の意図を理解したように、目を伏せて笑った。
墓地にはスナック菓子をパーティー開けできるような場所はないし、流石にここに長居しては熱中症になると、木下の家に向かうことになった。
その場で食べなきゃなんて言ったが、幹央にとって、そのような聞きかじった墓参りのルールは話し合うための口実にすぎないので、異論はなかった。
石段を下りている時、二人は「今何をしているか」という当たり障りのない話をした。特段盛り上がったわけでもない。それもそのはず。二人とも、互いのことなんかに微塵も興味がない。ただ、本題にすぐ入れる程の度胸がない人間であることが、過去の少ないやりとりからも何となく察しがついていた。
「ただいま」
「あら、おかえり。えっと、お友達かしら?」
木下の母であろう。ふっくらとした人の良さそうな中年の女性が、掃除機の手を止め、微笑んだ。
「中学の時の後輩。たまたま会って、折角だから上がってけって」
「あらそうなのお。はじめまして良助の母です。えーと、たしか……ごめんなさいねえ、きっと試合の時とかに会ってるんだと思うんだけど、あんまり後輩の子って覚えてなくって」
「いえいえ、俺、あんまり目立つほうじゃなかったのでしょうがないですよ」
「そお? ごめんなさいねえ。やっぱり後輩の子っていうとどうしても――」
「母さん!」
突然の大声に、玄関にピリッとした空気が流れる。
「結構歩いてきたからさ、俺達結構疲れてて。悪いんだけど、早く俺の部屋行っていいかな?」
木下の母は「やあね、あの子」とでも言いたげ表情で、幹央にアイコンタンクを送った。幹央はそれに苦笑いを返すしかなかった。
木下の部屋は二階にあった。家といえば、自分のボロアパートと颯の妙に広い田舎の家しか幹央は知らない。そのため、ファミリー向けの普通の一軒家というものが、やけに新鮮に映った。
「お持たせ。麦茶でよかった?」
「ああ、ありがとうございます」
先に入ってくれと言われた木下の部屋は、数年前に流行っていたアイドルのポスターや少年漫画があったりと、どことなく懐かしい気分になる。ただ、ずっと幼少の頃から使っているのだろう勉強机には、パソコンにプリント、分厚い参考書が乱雑に置かれており、大学生としてのシンパシーを感じた。
ローテーブルに麦茶、そしてスナック菓子を広げる。
「千田と会ったから、クーラーつけっぱでよかったよ。出て気づいた時は、やっちまったと思ったんだけど」
「冷房代って馬鹿になりませんもんね」
「中学ん時とかはそんなに気にしてなかった。むしろ注意されてうるせなーな、とか思ってたけど、大学生ともなるとな。生きてくのってこんな金掛かるんだって流石に気づいてきたよ。ただでさえ実家から大学も通わせてもらってんだから、注意しないとなあ」
幹央は特に何かいうでもなく軽く笑って返した。また、当たり障りのない会話だ。木下はまだ踏ん切りがついてないようだ。その気持ちは、幹央にもわかる。しかし、ずっとこうしている訳にはいかない。意味がない。
「部長」
「部長はやめてくれよ。もう、何でもないんだから。でもだからと言って何ていうのが――」
「じゃあ、木下さんで。木下さん、颯の墓参り行くんですね。俺、行く前に颯のばーちゃんから場所教えてもらって、さっきはじめて行ったんですよ」
「ああ、そうなんだ……」
冷房は効いている。だが、木下の額からたらりと汗が流れた。
「ここから墓地まで結構距離もありますよね。たしか、木下さんとは小学校も違いましたし」
「そうだね……それで?」
「いや、どうして木下さんが颯の墓の場所知ってたのかなって。颯のばーちゃんが、葬式とかでも誰か呼んだわけじゃないとも言ってたし。それに知ってたとしても、すごい後輩思いだなって思って。だって、たかだが中学時代の後輩でしょ? それも高校時代に自殺した。同学年の俺らならまだしも、木下さんには、直接的に関係ないじゃないですか……随分、情の厚い人なんだなと思って」
木下は噴き出る汗を、自分のTシャツでがしがしと拭う。顔が紺で覆われている。そして、布越しから濁ったため息が聞こえた。
「……よく喋るようになったな。あの頃は、うんとかすんとか、たまに日高のことで話すくらいしかしなかったのに」
「そうですかね、あんま変わってないと思い、ます」
「そんなことない。やっぱ、都会に出たとかも関係あんのかな?」
そう言って、木下は紺色から顔を出す。その表情は、いつかの道場で見た、颯に対する嫉妬が滲み出ていた時に似ていた。
「ハハッ、お前のその顔、久々に見たわ。お前、俺が颯といる時、そういう顔してたよな。憐れんでるみたいな、それでいて僕は部外者ですよ~みたいな、そんな顔。……今見てもムカつくもんだな」
颯にはともかく、俺にまでこんな捻くれた考えを持っていたのか。幹央は驚いた。
「ああやだやだ、あん時のこと思い出してきた。あー、とりあえず、この麦茶お前にかけていい?」
「やですよ。それに、木下さんの部屋が汚れますよ」
木下はくつくつと意地悪く、それでいて自嘲するように笑う。
木下という男は、完璧に劣等感を隠すことはできていなかったが、総じて良い人ではあったと、幹央は記憶している。だが、屈折した人間特有の卑屈な笑みを浮かべる彼は、人の良い部長であった時の彼より、一人の人物としてずっとしっくりくる。きっと、これが本来の彼なのであろうと、幹央は勝手に納得し、感心した。そして、妙な親しみを持った。
「で、まあそんな顔してるってことは、俺が日高のこと嫌いだったのは察してるよな」
「まあ。でも、あの感じは誰でもわかると思いますよ」
「なんだ、今日に生意気な口聞きだして。……まあ、いいわ」
そのまま木下はスナックを頬張る。味が薄いだの、なんだこのどこのか知らんメーカーと、湯水のごとく文句を言ったと思えば、今日に雨だれのようにぽつりぽつりとした語りに変わった。
「あん時の俺って、剣道が全部だったんだよ。自分という人間とは何か、生きるための理由は何か、答え全部が剣道で。でも、その答えも『一番になったら人から認めてもらえる』っていう、根底があった。純粋に強くなりたいとか上達したいとかでは、全然なかったな。でも、そういう痛い自分を認めるのが嫌で、一身で取り組んでます、みんなで頑張って強くなりましょうみたいな風に振舞ってた。そうしてくうちに、人望を集めて、最終的に部長なんかを任されたりした」
「でも、思春期なんてそんなもんじゃないすっか。承認欲求の塊、みたいな」
「今思えばな。でも、あの時そんなこと言われても、『うっせーお前に何が分かんだよ』ってキレて聞く耳持ってねえだろ」
「まあ、そうっすね……」
二人して麦茶をすする。キンキンに冷えたこの部屋では、氷はまだ形を保っている。
「んで、お前らが入部してきた。お前らの世代、経験者いなかっただろ。日高も見るからに生意気そうで扱いはむずそうだけど、所詮後輩、ずぶの素人。『ラッキー、俺の地位は守られた』と思ってた。――はじめて、天才っていうのを見たよ。努力とか、執着とか、そういうちゃちなものでは太刀打ちできない、圧倒的な、力」
そう呟く木下の目は、深淵のように虚ろだった。
「今ならわかる。俺の才能は、精々狭い田舎で威張れるくらい。その程度なんだ。でもな、全てだったんだよ。世間知らずな俺には……。認めるわけにはいかなかったんだ。なんの努力も無しに、剣道への執念も無しに、俺より強くて、認められるなんて――――許せないっ……」
おそらく、木下はあの日のように拳をわななかせているのだろう。テーブルが小刻みに揺れた。
「だから、俺は、アイツの弱みを探した。実力では勝ってこない、ならいっそって。着けてたんだ。そしたら、アイツのばーちゃんに激昂されて追い返されてる男を見つけた。こりゃあ何かあるなと思った。何食わぬ顔であいさつしたら、ソイツは『君、日高颯くんと同じ中学校の子? なにか彼のこと、彼の家族のことで知ってることはない?』って聞いてきた。そこで知ったんだ、アイツの親父のこと。認知度も高くて、事件の内容もショッキングで、偏見も生みやすい。これは良い弱みを見つけたと思った」
視界が一瞬、真っ赤になった。しかし、幹央は深く息をつき、自分のこめかみが震えるのを感じながら、どうにか理性的に言葉を紡ごうとする。
「っ……でも、あの噂が広まった頃にはアンタは卒業してただろ? アイツが嫌われ者になったて、アンタに何の得も無いじゃないか」
「そうだよ。でも、あの時の俺はどうかしてたんだ。剣道ていう競技で嫉妬してるくせに、アイツという人間自体は憎くてしょうがない、陥れなくては気が済まない。――――何より、俺はアイツに勝たなくてはいけない」
「だから、俺に、少しでも負け筋があってはいけない。少しでもそれがあったら、きっと負けちゃうだろ? アイツは俺のような凡人ではないんだから」
嫉妬、そしてそこにたしかにある羨望。それに、幹央は痛い程身に覚えがあった。
「俺はその日、大切にその秘密を抱えてこの部屋に帰って来た。でもそのまま話したんじゃ、信じてもらえないかも知れないし、何より足が付く。だからネットとか図書館とかでこの秘密の信憑性を高めて、よりアイツのマイナスになるような伝え方をずっと考えてた。準備が整えて、高校で俺も誰かから聞いたってていで別の中学の奴に話した。そこからクラスへ、また別のクラスへ、塾へ、真偽を確かめるために中学校に通う弟、妹へ……。高校入ってスマホを持ってる奴が多かったのも大きかったな、思っていたよりすぐに広まった。そして、俺のもとに日高が暴力沙汰を起こして部活動停止しになったて情報が耳に入ってきた」
テーブルの震えが止まる。すると、虚ろであったはずの木下の目は、徐々に恍惚の色を帯びていく。
「この時強く思ったよ。――――あぁ勝った! 俺は日高に勝ったんだ! あんな、頭がはち切れそうなくらいの興奮はこれまで経験したことがない。今でも、あれを超える衝撃に出会えない。……もしかしたら、あれが俺の人生のハイライトなのかなって、たまに考える」
熱に浮かされたような顔。幹央は気がつけば、木下の頬を殴っていた。
幹央は人を殴ったことがなかった。殴られた木下はよろけたが、すぐに姿勢を立て直し、打たれた方の頬を軽く摩っていた。
「これ本気か? これなら前元カノにビンタされた時の方が痛かったわ」
「すいません、慣れてないもんで……」
「殴っといてすいませんって、お前日高に隠れてたけど大概変な奴だな」
この男に颯の名前を呼ばれると、カっとしいて、また手が出そうになる。
「まあまあ落ち着けって。俺が最低な奴だってのは、お前のへなちょこパンチがなくたってわかってるよ」
気付けば、木下の目から恍惚の色は消えていた。
「この喜びは長続きしなかった。日々、自分が調べて流した情報よりも、大きく悪い方向に広がった日高の噂が耳に入ってくる。それが、嘘か本当かはわからないし、知る権利を俺は持っていない。部外者としてそれを聞くだけ。……その状況が、立場が段々恐ろしくなってきた」
「恐ろしくって、アンタがそういう風に仕向けたんじゃないですか」
「ああ、そうだよ。でも、俺も剣道を辞めて、毎日のように顔を合わせることもなくなってみると、こう、冷静になってきたというか……俺はなんてことをしてしまったんだって、自業自得で今更過ぎる罪悪感に苛まれるようになった」
ああそうだ。自業自得だ。とでも幹央は言ってやりたかった。しかし、それを言っても無駄だと思うほど、木下は思い詰め、詰めつくしたような妙に達観した顔をしていた。幹央はただ黙って、木下に軽蔑の視線を送ることしかできなかった。
「アイツは俺に何かした訳じゃない。アイツには才能があって、俺にはそれが無かっただけ。ただ、それだけの話なんだよ。それを俺は、自分の都合だけで、アイツを貶めようとして……。何て、最低なことをしてしまったんだ! 本心から思った。今でも思ってる。でも、そう思った時には噂は広まりすぎてた。俺が広めましたっていったところでどうこうできる範囲を超えてる。そう言い訳して、ダラダラ部外者を続けていたら、日高が自殺したって噂が入ってきた」
木下の目から涙が零れた。
「それも色んな憶測が飛び交ってた。でも、数週間も立たないうちに、日高颯の噂をしなくなった。みんなすぐに飽きる。でも、俺はずっと、俺のせいだって。いや、でも本当に自殺に俺は関係してるかはわからないし、とかまた卑怯な考えもめっちゃしてたな。自責と自己保身が、行ったり来たりしてた。そんななかで、また突然日高の噂が流れだしたんだ」
「噂? どんな?」
「日高颯の幽霊を見た。夜な夜な現れては、いじめてきた奴を呪いに来る。そんな、非科学的な噂さ」
木下の乾いた笑い声が部屋に小さく響く。
幹央は、再開してすぐに颯が『協力者がいると思って、片っ端から知り合いに声掛けた』『彷徨って、彷徨って、やっと見える、聞こえる、話せる奴がみつかった』と言っていたのを思い出した。
「これは、恥ずかしいし、信じ難い話だけど、俺はたしかに、幽霊の日高を見たんだ」
ベッドと引き出しの狭い隙間を指差しながら木下は言う。
「妙に寝つきが悪い夜で、苦し紛れに目を開けたら、日高がそこに立ってジッと俺を見ていた。何か言っていたと思う。でも声が聞こえない。でも、きっと恨み節なんだろうと思うと、それが怖くて怖くてたまらなくて、脂汗がだばだば出てきた。『なんだ、やっぱり俺のこと恨んでるのか?』『本当にごめんなさい。俺は何も、お前を死ぬまで追い詰めようなんて思ってなかったんだ』とか、俺はとにかく思いつく限り謝罪と言い訳をした。あん時の俺は、俺史上一番情けなかったと思う」
「それで、結局、颯はアンタを呪ったの?」
木下は首を横に振る。
「いや、最初は何か言ってそうな素振りをしてたけど、俺の情けなさに呆れたのか、後は黙って俺を見下して消えてった。――その時の目といったら! 本当に人じゃないみたいだった。人なら、血の通った生き物なら、あんな冷え切った目はできない」
幹央は、その瞳を容易く思い浮かべることができた。なぜなら幹央はずっと側で、その瞳を見てきたから。そして、その瞳は持つ人外じみた【何か】に、ずっと悩まされて、囚われてきた。
「そう……それは怖いですね」
「ああ、本当に……って、お前何にやけてんだよ」
コイツは颯を知らないだけ、直視できなかっただけ。
幹央は何とも場違いで、歪んだ優越感に浸っていた。
「なんだとその反応。気持ちわる……。で、特に何にもなかったけどやっぱり安心できない。それで、線香だけでもと思ってアイツの家に行ったけど、勿論門前払い。しょーがねーからアイツのばーちゃんの後つけて、墓の場所を割った。それで、時間が空いたら『謝ります。許してください。そして、頼むから見逃してください』って手を合わせてる。――ハハッ、改めて言葉にすると、俺、自己保身の化物すぎるな。いやあ、ほんと笑っちまうくらい、最低な人間」
「そうですね」
「『そんなことないですよ』とか、フォローできない感じ? 俺、一応先輩だぞ」
「もうどっちもとっくに中学卒業してるんでしょ」
「たしかに、はじめの方は木下さんって言ってたけど、後半殴るしアンタ呼びになってたしな」
「それに、敬う気も失せるでしょう。この話聞いてたら」
そりゃそうかと、木下はまた意地の悪く笑った。
「でも、なんでこれを俺に話したんすか? 足付けたくないんでしょう?」
すると、木下は突然笑顔を崩し、顎に手を置いた。
「そうだよ。絶対一人で墓場まで抱えておこうと思ってた」
「じゃあ、なんで?」
「……何でなんだろうな。でも、お前とすれ違った時、似たようなことで悩んでるんだろうなって、直感で思った。そして、コイツにならわかってもらえるかな俺のことって、変な甘えが出た。多分、それだけ。深い意味はない」
幹央は、木下が颯にした仕打ちを到底許すことはできない。ただ、颯に対する屈折した強い想いと、学生時代に残した負い目を引きずり、後悔の海に沈んでいるという状況は、まったくもって同じだった。
同情と自己嫌悪が、二人の間を渦巻いている。二人はそれを心地良いとさえ思っていた。
しかし、見下し合いながら傷を舐め合っても何にもならない。それも二人は自覚済みであった。
「……そうですか。でも、俺、ばらすかもしれませんよ」
「いや、多分お前はしない。日高がまだ生きていたならまだしも、今の状況じゃそんなことするのも億劫なだけだろ」
「あたりです。流石、みんなをまとめる部長。人をよく見てますね」
そうだろ。と、木下は自嘲ぎみに言った。
「で、お前は教えてくれないの? 日高とのこと」
大学の友人には話した。それに、木下にシンパシーを感じている。
でも、だからこそ、自分よりも颯を知らないくせに颯を傷つけようとした男に、自分と颯の話をしてやる義理なんてない。幹央はそう思った。
「何だその笑み。見たことないタイプにキモイ顔だな」
「俺は随分情が厚い人ですねって言っただけなのに、に木下さんがべらべら喋ってきただけでしょ。俺が話す必要はどこにもないでしょ」
「あっそ、相変わらずノリが悪いな。――これじゃ大学での友人関係が、先輩として心配だ」
人の良さそうな、嘘くさい微笑み。それを見た幹央は、あの頃の道場に戻ったような感覚を覚えた。
「一応な」と連絡先を強引に交換させられ、幹央は木下の家を出た。
すっかり朱色に染まった空の中を、幹央は歩く。方角は家の方に向いていたが、本当に自分が家に向かっているか、実感はない。
食べ損ねていた桃を齧りながら、今日のあったことを思い返す。
あの頃、そして空白であった期間の颯の輪郭がはっきりしてきた。これは、良い収穫である。そして、自分の中にある颯への想い、執着のようなものが、実態はわからずとも、たしかに自分の中であると割り切れるようになったような気がする。
颯の中の真実を知りたい。自分の気持ち悪い気持ちを伝えたい。――――そして、出来るのであれば、過去を飲み込みんだ上で、またくだらない話がしたい。
気付けば、幹央は桃を強く噛み締めていた。口を超えて顎や頬にまで甘ったるい果汁が広がった。
流石にTシャツで拭うのは躊躇われるが、ハンカチなんて常備していない。
ここら辺にコンビニなんてないことは百も承知だが、一応周囲に目をやる。
すると、見慣れた用水路が目に飛び込んできた。
流石にこの水で洗おうとは思わないものの幹央は用水路に吸い寄せられていった。
特等席だった、颯と出会ったあの位置へ足が勝手に動く。
すると、そのあたりに奇妙な揺らぎが見えてきた。
陽炎とも違う、ただ一点、人一人分くらいの揺らぎ。
近づく度に、幹央の鼓動は速くなる。距離を詰めても揺らぎであることは変わらない。だが、その現象、その存在を幹央は知っている。間違えるはずがない。
「颯!」
幹央は声の限り叫んだ。
片面のみのプラットホーム。視界は緑で覆われている。
まだ夕方だからいいものの、もう少し日が落ちたら和風ホラーゲームの背景にでもなってそうだな。自分の生まれ育った地域ではあるが、その絵に描いたような田舎ぶりに、幹央は他人ごとのような感想を抱いた。
無人の改札を通ると、歓迎するようにすぐさま無数の羽虫達が寄りついてくる。
幹央は心底面倒くさそうに羽虫を手で払う。
(あぁ、故郷に帰ってきたんだな……)別に嬉しくもない実感が湧いた。
合宿を終え、帰宅すると、そこに颯はいなかった。
身体探しで家を空けているのかもしれないと待ってみても、一向に姿を現さない。
以前身体探しでいった場所や、颯が興味を持ちそうな場所を考えうる範囲で探してみたが、行方のヒントすら見当たらなかった。
俺はまた、タイミングを誤ったのだろうか。
ただ、中学生の時とは訳が違う。ここを逃してしまえば、本当の別れになってしまう可能性が大いにある。
そう思えば思う程、心臓が異様な動きを見せた。
四六時中落ち着く暇のない幹央の元に、一本の連絡が入った。幹央の母からだった。
『久しぶりです。そっちはすごい暑いらしいね。ちゃんと元気にしていますか? 忙しいとは思うけど、たまには帰ってきてくれていいからね。お刺身でも容易して待ってるから』
控えめながらもあたたかな文言に、ざわめく心がすこし和らいだ。
去年の今頃もこのようなメッセージが届いたが、バイトがあるとか言って結局帰省しなかった。
こんな心持ちだ。母には申し訳ないが当然帰省するやる気は起きない。
『ごめん。』とまで打ったところで、幹央の指の動きは止まる。
もしかしたら、颯がいるかもしれない。
あの町こそ、自分が知るなかで、颯と一番関連のある場所だ。もう近づきたくない場所かもしれない。だが、彼の居場所であったことは間違えない。
『突然でごめんだけど、明日帰ってもいい?』居ても立っても居られず送る。
『もちろん』とすぐに返信が返ってきた。
「おかえりなさい。移動、大変だったでしょ」
「そんなことないよ。俺の方こそ、突然ごめんね。今日もパートだったんでしょ?」
「いやあ、『今日息子帰ってくるんですー』って言ったら、人も少ないし早めに上がっていいよって言われてねえ。おかげで久々にちゃんとした料理したわ。一人だからって、最近は売れ残りのお惣菜ばっかでね」
食卓には、職場先のスーパーで買ったという刺身の盛り合わせとエビフライ、そして母の定番料理であるおから煮と松前漬けが並んでいる。
「わざわざありがとう。いただきます」
「あっ、お酒も一応買ってきたんだけど、あんたお酒飲める?」
「あぁ、俺あんま得意じゃないんだ。だからいいや」
「そう、体質はお父さんに似たのね。じゃあアタシが頂いちゃおうかな」
「母さん飲めるの?」
「これでも、昔は結構いける口だったのよ。最近も良いことあった日とか、たまーに自分で買って飲むのよ」
母はビールのプルタブを開け、飲み込む。母が酒を飲み姿というのは新鮮だった。
常に節制を心掛けながらも、幹央のために手料理やおかしを用意してくれていた母。
自分が出て行ったことで、母の重荷が少し軽くなったのかな。美味そうにビールを飲む母を見て、幹央は嬉しさとほんのすこしの寂しさを感じた。
「ほら、遠慮せず食べて。随分痩せたんじゃない? あっちなんて特に物価高がすごいっていうし……ちゃんと食べれてるの?」
「あぁ、ちゃんと食べてるよ。ただ、最近ちょっと夏バテ気味なだけ」
「ええっ、そんなおじさんみたいな。昔はそんなことなかったのに」
そう言うと、母は簡素な仏壇の方を見やる。そしてにやりと薄い唇を持ち上げた。
「あんた、久々に見ると、ますますお父さんに似てきたわ。昔は私似かなっと思ったんだけど」
幹央には父の記憶がほとんどないので、父に似ているということに嬉しいとか否定したいとか、これといった感情は沸かない。ただ、見比べる母が嬉しそうなので、それだけでよかった。
「随分急にきたけど、どのくらいいるつもり? パート仲間の人から聞く感じ、あんたの同級生とか結構戻ってきてるみたいね。飲み会とか、色々あるんじゃない?」
この人は息子が、話す人なんて居ないからと、成人式に参加しなかったことを知らないのだろうか。いや、予定があるとかいう分かりやすい言い訳を鵜呑みにしてるのかもしれない。母の呑気な様子が幹央には、すこしばかり鬱陶しく感じられた。
「いや、あっちでバイトとか大学関係の用事があるから……明後日には出ようと思ってる」
「あらぁ、随分短いのねえ」
「明日はその……幹央の家行こうかなって」
幹央。という言葉を聞くと恵比寿顔であった母の顔に陰りが差す。
「そうね、幹央くん、アンタと仲がよかったものね。うん……そう、そうね、それがいいわ」
見るからに言葉に詰まっている。その反応で、颯が死んだこと、そして、颯の死がこの土地で広まっていることが察せられた。
母はこの村に嫁いできた身で、父が死んですぐ仕事三昧になったので、地域の人との交流が薄い。そんな母でも颯の死を知っている。幹央が死んだというのは、一体いつ頃のことなのだろうか。
しかし、母に問い詰めたとて、母はこの件について詳しい話は知らないだろう。それに、久々に会った母に暗い話をしてもしょうがない。幹央はすぐに明日の予定についての話を切り上げて、大学での話や、合宿の話をしだした。すると、幹央の母も人見知りな息子が良き友人に恵まれ、忙しいながらも大学生活を謳歌していることに安心したのか、心底幸せそうにビールを煽った。
急いで干したという布団の中で目が覚める。太陽の香りがする布団に包まれて、幹央は久々に清々しい気持ちで朝を迎えられた。
「あら、おはよう。今丁度起こそうと思ってたんよ」
母は台所の方からひょっこりと顔を出す。手にはトーストの乗った皿を持っていた。
「ジャムの一つでもあればよかったんだけど、最近焼くのはおろか、そのまま齧るみたいなことが多くてね」
「……ごめん。お金、迷惑かけて……」
「あっ、そういう訳じゃないのよ。お金のことは全然関係なく……。なんかね、アンタがいた時今日は何作ろうかな、この新商品、アンタ好きかもなとかあんなに考えてたのに、一人になると全然なの。自分でもびっくり、アタシって思ってたより自分に無頓着みたい。んふふ」
幹央は何だか申し訳なくて、気恥ずかしくて、何も塗られていないてトーストを口にねじ込んんだ。
「そんな急いで食べんでも……。あっ、そうそう、これ。よかったら幹央くんとこ持ってって」
手渡されたビニール袋の中には、昔家によく置いてあったどこの会社のものかもわからないチーズスナックと、桃が一つ、そしてタッパーに詰められた昨日の惣菜が入っていた。
「これ、よく幹央くんと食べてたでしょ。桃も安いけど良いのが売っていてね。……あと、幹央くんち、今おばあちゃんが一人だけで暮らしてるらしいのよ。余計ないお世話かもしれないけど、食べ物のこととか心配じゃない? タッパーは返さなくていいし、要らないって言われればそのまま持って帰ってきてくればいいから。よかったらって渡してきてちょうだい」
幹央の家から颯の家はそう遠くない場所にある。
たたでさえ若者の少ない、田舎の寂びれた地区であるが、颯の家はその家々のなかでも特に山の奥まったところにある。
あまり手入れされてない草木をかき分けていくと、幹央の家はある。
日本家屋の家。今でこそ寂びれた田舎の象徴のように佇んでいるが、昔はそれなりに地位のあった家なのではないかと推察できる面積を有している。
それにしても、以前来た時よりも一層悲壮感が増しているように感じる。それは、幹央が祖母の趣味だと言っていた、園芸や家庭菜園といった植物の気配が消えたからであろう。砂埃がこびりついた空っぽのプランターがいくつもあり、支柱にはいつの何の野菜かもわからない枯れたツタがぽつねんと巻き付いてる。少し目をやると、隅の方にある小さな鉢があった。そこには青々としたいくつもの葉が付いている。ただ、身を隠すように茂っているだけなので、寂しい印象はけして拭えていなかった。
以前は、いつ来ても何かしらの花や野菜がこんもりと実り、幹央を迎え入れてくれていた。それらに特別何かを感じていた訳でないのだが、こんなにも変わり果てた姿を見ると、どこなく幹央の心は不安になった。
不安を抱えたまま、幹央はインターホンを押す。しばらくしても反応がないので、もう一度押す。すると、観念したようにスピーカーからしゃがれ声が聞こえてきた。
「土地の話か。あたすはここを出ていく気はさらさらない。それともどこぞの週刊誌か? 言っとくが家族についてこれ以上話すことはない。時間の無駄だ。アンタもはよう帰ったほうがええ」
「あっ、えっと、違います。僕、幹央くんのとっ、友達の千田幹央っていうんですけど……」
「ちだ、みきお……」
そう呟くと、スピーカーがぶつりと切れる。これでは、来客を許可されたのか、拒否されたのか、判断しかねる。
幹央は何度か幹央の祖母とは顔を合わせている。おそらく名前も覚えているだろう。ただ、あのインターホン越しでの囁きに、どんな感情が滲んでいるのかは理解しかねる。幹央の不安は瞬く間に広がっていった。
しばらくすると、立て付けの悪い引き戸から、幹央の祖母が出てきた。昔よりかは幾分か痩せたように見えるが、相変わらず背筋の伸びており、厳格な雰囲気を醸し出していた。
「あの、お久しぶりです。その、幹央くんの、あの……」
たるんで下がった瞼から覗く瞳は、幹央に似ていた。有無を言わせぬ何とも言えない圧がある。
「……まあ、上がんなさい。ジュースはないから、麦茶でええか?」
「はっ、はい」
外とほとんど暑さの変わらない居間で、幹央は颯の祖母と対峙している。
畳が敷かれた居間には、大きなテレビがある。幹央の世界は広がった、思い出深い場所である。ただ、そこにいたのは幹央だけであって、幹央が遊びにくると、今目の前にいる祖母は外で植物の世話をしているか、台所に行っていた。こうして二人でお茶を飲むことなんて一度もなかったので、まるで始めてきた場所のような緊張を感じた。
「それで、何しに来たんだい? 幹央に何か恨みがあるっちゅうなら、悪いが幹央はもういなし、あたすが何か応えてやることもできない」
「いや、そんなことはなく……ただ、やっぱり幹央は、死んだんですね……」
そういうと、祖母は目を大きく見開く。
「なんだ、あんたあ、知らんかったのか?」
「はい、失礼ながら……最近、知って」
「ほおか、まあ、あんたあ高校は遠いとこ選んだらしいもんなあ。葬式も誰も呼んどらんし、知らんのも無理ないわ」
「お葬式は、誰も?」
「ああ、あの子の親父が犯罪者なことは流石にアンタも知ってるじゃろ?」
「はい……」
そう答えると、祖母は淡々と話し出した。
「ウチのグズ娘、その馬鹿の手伝いしてたんじゃ。刑はヤツより軽いが、まだ務所さいる。両親は来れん、親戚もみんなアイツらのことは腫物扱い。まして、死んだ原因の学校の奴らなんざ呼べるわけがねえ。あの子も望んでないじゃろう。だから、あたすと、つき合いの長い坊さんだけで式さ挙げたんだわ」
「――ありゃ、もう氷溶けてきてんな。あんた、もっと遠慮せず飲みな。ひどい汗じゃ。うちで熱中症なんかになられたら、また近所のもんに騒がれる」
そう言う老婆の顔には、疲労が色濃く表れている。随分、やっかいな来客が多かったのだろう。そんななかで、遠慮するのも躊躇われて、素直に祖母にグラスを手渡した。
「ありがとうございます。あの、御仏壇とかってあったりは……」
「……ああ、アンタならあの子も文句は言わんじゃろ」
祖母は幹央は麦茶を飲んだことを確認すると、立ち上がり居間の引き戸を開ける。
長い廊下を歩くと、豪華な客間であったであろう一角に豪勢な仏壇があった。壁には喪服の老人達の遺影が並ぶ中、一番端に学ラン姿の颯の姿があった。笑い皺を作りながら笑っていた。
「あの、これ、お供えしても?」
「あぁ、なんじゃ。わざわざ。でも、置いれかれても困るな。腐らすよりもあんたが持って帰ったほうがいいだろ」
「そうですか」
香炉には、ほぼ消えかけている線香が一本立っている。きっと、祖母が朝にあげたのだろう。
幹央は蝋燭にマッチで火を着け、線香にあてる。寂しかった香炉に、赤い光が灯った。
リンの音。白檀の香り。遺影からの視線。
日高颯は死んだ。ようやく、その実感が明確になった。
「ちゃんと蝋燭の火消してな」
「あっ、はい。えっと、じゃあ……」
慌てて蝋燭消しで火を覆う。
「じゃあ、あんがとなあ。それじゃ」
「いや、えっと、待ってください!」
これで終わらす訳にはいかない。まだ、颯の手がかりが見つかっていない。でも、実の祖母に『お孫さんの幽霊を探してて』なんて言えるのか? それに、冗談の通じなそうなんだこの人は。
「えっと、その……」
「なんだ、あんた。口ぱくぱくさせて。鯉みたいだな」
縦皺の入った唇を意地悪く上げる。急に、颯との血の繋がりを強く感じた。
「あんた、線香あげるためだけに来たわけじゃなさそうだ」
「えっと……」
「理由を聞かされてもこっちが困る。でも、少なからず雑誌なり記事なりに書きたいからとかではなさそうだ。そんな根性なさそうじゃもんなあ、今も昔も。だから、まあ、あんたにならええじゃろお」
「えっと、何を」
「あの子のこと、知りたいんだべ? そんでなきゃわざわざこんなとこさ来んだろ?」
図星だった。そして、幹央は迷わず首を縦に振った。
再び居間に戻ると、新しく入れた氷もすっかり解けていた。だが今度は飲み物を気にすることなく、颯の祖母は語り出した。
「さっきも少し話したが、あたすはあの子の母方のばあちゃんでね。勝手に出ってた娘が知らん間に悪い男にひっかかって子供こさえて、勝手に大事に巻き込まれちょった」
事件後、両親二人が逮捕された。父親もヤクザになるにあたってとうに家族とは縁を切っており、身寄りはない。目の前の老婆は唯一の身寄りとして颯を引き取らざるを得なくなったらしい。
「口うるせえじいさんが死んですこし経ったあたりのことだ。あぁ、やっと一人になれたわと思った矢先にこれよ。でも、あたすも鬼じゃねえ。憎かろうが血の繋がった娘の子。親のあんこが足りねえだけだ」
こつこつと白髪交じりの頭を指で叩く。
「あの子は何も悪くない。可哀そうな子じゃと思って引き取ったさ。かかあに似て生意気だったが、一応老人相手だからかな、そんなに粗暴なことはせんかった。なんやかんやで手伝いもようしてくれたし……まあ、かわいい孫だ」
「変なとこから始まった二人での生活じゃったが、どこにでもある普通の家族の暮らしをしてた。――だが、あの時から狂った。あんたも知っとるじゃろ? 中学ん時に親父の噂が流れた」
淡々とした語りが一変する。静かだがこちらを貫くような気迫に、幹央は身震いする。
「あたすがこのことを漏らしたことは一切ない。ヤクザも絡んだなかなか大きいやらかしじゃったから、今でもたまにどっかの下衆な記者がウチにくることがある。門前払いにしてるがの。だが、ここは狭い。都会の奴らは田舎の人は大らかで良い人なんざよく言いくさるが、実際のとこ人の粗探して、楽しむような狡賢いらばかりじゃ。んだから、噂はすぐに広まった」
幹央は黙って頷く。それしかできなかった。
「教師も真面目に取り合わんし、もお、いっそこんな村出て行ってやるかとも考えたが、あの子もあの子で意地っ張りで頑なに学校に行こうとする。で、あの子野球部の子殴ったべ。急いで学校行ったが、あの子も殴られた側も何も喋らん。結局、あの子は悪いところばっか背負って、学校に通った……でも、卒業式から帰った時は妙にさっぱりした顔しとってな」
幹央の脳裏に、生きていた颯との最後の記憶が再生される。
「それ見た時、あぁ、きっとこの子は大丈夫だって、勝手に思い込んだ。きっとそれがよくなかったんだろなあ」
「よくなかった?」
颯とよく似た瞳に、重い瞼がかかる。こうなると、威厳は消え、どこにでもいる孤独な老人といった印象だ。
「きっと、この子は大丈夫。そう思って、本人の希望通り高校に行かせた。せめてもと思って、あの子の頭でも入れる、なるべく遠いところを選ばせた。でも、中学の同級生がいてな。それに、スマホ、インターネットちゅうんか? そういうののせいで中学の時よりももっと早く、広く広まったらしい。半グレみたいなのも多い学校じゃったから、颯はすぐにいじめの対象になった。あの子、力は強いが身体はちいちゃいだろ? 流石のあの子も何人もに襲いかけられりゃあ、どうすることもできねがったみたで。そんでいじめはどんどんひどくなって、1年生の夏休みから、そのまま学校に行かんくなった」
幹央は目を丸くする。
あの颯が? 颯は小さくても、それを跳ね返せる程の強さと、力を持っている。頂点にいるべき存在なんだ。そんな颯が、颯が……。
自分の持っている颯の乖離していく。それが、怖くて、何故か怒りすらも浮かび上がった。
「あんな、弱ったあの子を見たのは、後にも先にも始めてだ。喋りかけると、いつもの調子で返そうとする。んだが、いつも口が震えてて、それが痛々しくてしょうがなくてねえ。心配かけないようにしてんだろうな、今の自分が何より嫌んだろうなってのがわかって、ほんとお、心苦しくなあ……」
座敷机に水滴が落ち、グラスから零れた結露と交じり合う。
「無理にでも、環境を変えてやればよかった。こんな場所、出てってやればよかった。そうすりゃあ、あの子も、川に身投げるなんて馬鹿なことしなかったかもしれんのに……」
荒れ狂う河。それに飛び込みあがる水しぶき。囚われていく颯。
「ああ、何でよりにもよって水なんだ。そもそもあの子を一人にしたのも、苦しめたのも、死体を水に流して大事にしたからだ。なのに、なんでわざわざ……そんなことしないでも、ばあちゃんがいるのに。探せば、地上のどこにだって居場所はあるっていうのに……」
泣いている祖母を前にして大変不謹慎だが、幹央は首をつるだとか、包丁で自分を貫くだとかよりも、何故だかずっと――――しっくりきた。
でも、そんなことは勿論言わない。それよりも、言うべきことがある。
「うまく言えなくて、すいません……でも、おばあちゃんのせいじゃありません。僕のせいです。僕が、中学の時、ちゃんと颯君に寄り添えていえば、こんなこと起きていないはずなんです。……本当にごめんなさい」
幹央は机から離れ、深々と頭を下げる。湿気った畳の匂いが、直に鼻腔へ広がった。
「顔あげなさい」
「……」
「あんたは悪くない。なんて言える程、あたすは懐が広くねえんだ。あの子と仲良くしてたことを知っとるから、あんたにそう言われると、あんたにも非があるように思えてきちまう」
「いえ、それは、その通りなので」
「……別に、本気では思ってねえ。結局全部、あの子とあたすら家族の責任だ。……でも、最近一人でいすぎて、どうにかなりそうだ。悪いが、今日だけあの子のこと、あんたのせいだと思ってええか? そんで、あんたを憎んでええか?」
「ええ、どうぞ。好きなだけ」
「ありがとう……、んだら、すぐに帰んな。ひょっとすると、あんたを殺しちまうかもしれん」
そう言って、老婆は不敵に笑った。それでも瞳には溢れんばかりの涙が浮かんでいて、ひどく滑稽で悲壮感は漂う様相であった。
物騒な宣言をした颯の祖母であったが、帰り際、幹央に颯の墓があるところを教えてくれた。
「まあ、盆も近いしな。気が向いたらそっちにも行ってやってくれ」
そういう彼女に、惣菜を渡すと以外にもあっさり貰ってくれた。
「ろくな料理なんて食うのは久々だ。お母さんにお礼沢山言っといてくれ」
すると、急いで台所に入っていきビニール袋を渡された。ビニール袋には、青い葉がこんもりと入っていた。小さな鉢で茂っていた葉だ。聞けば、この葉はモロヘイヤ。颯の好物で、全てのやる気を失くした今でも、これだけは無意識に育ててしまうらしい。
颯の家から、そのまま墓がある場所へと足を運ぶ。墓地は、ガタガタで急な石段の先にあるそうだ。
蝉の鳴き声がうざったく、沸き立つような暑さが憎い。足を動かす度に、石段へぼたぼたと汗が垂れた。
幹央の両親は、颯の両親程壮絶でないが、駆け落ちという形で結ばれたため、親戚との縁が薄い。そのため、墓参りというものにもいまいち馴染みがなかった。まさか、恐らくはじめての墓参りが颯のものになるとは、夢にも思わなかった。せめて夢であって欲しかった。茹ったような脳で幹央はそんなことを思った。
満身創痍のなか、階段を上り終えると、大小様々な墓石が並んでいるのが目に入る。だが、真新しいものはなく、苔を生やしたりと手入れの行き届いていない古めかしいものが圧倒的に多い。
幹央が住んでいた時から高齢者の多い地域であったが、今はよりそれが深刻であるのだろう。墓を定期的に訪れる人が減っていることが、その様子から見てとれた。
ひとまず日高の墓石を探そうと歩くと、奥からガサガサと物音がした。音の方みると、白い煙。そして、茶髪の頭部が見えた。
幹央は男に近寄る。男はスポーティーな紺のTシャツにカーキのハーフパンツという平凡な恰好だ。佇まいからみても、その男は若い。ここは、若者が極めて少ない地区だ。幹央は彼に警戒心を持った。ただ、颯の祖母が言うには日高の墓は奥の方にある。つまり、幹央は、この空間にいるにはいささか違和感のある男の側を横切る必要がある。
気が進まず立ち止まっていると、男の方が振り返り歩き出した。
なに、所詮は他人だ。幹央は腹をくくり歩く。息を止め、通りすぎようとする。
「……お前、もしかして、千田か?」
驚いた。だが、その声には聞き覚えがあった。
「えっと……もしかして、木下部長、ですか……?」
すると、男は何ともいえない苦し気な表情で頷いた。
幹央は墓石の窪みに線香を置き、手を合わせる。
正直に言えば、颯の家の仏壇に手を合わせた時の方が、颯について集中することができていた。
背後から久々に会う中学時代の先輩の視線を浴びる中での合掌は、思った以上に気が散るものだった。
手を解き、改めて日高の墓石を見ると、濡れて石の色が変わっており、他の墓石に比べて汚れが拭き取られている。きっと、後ろにいる男がつい先ほど手入れしていたのだろう。
振り返ると、目が合う。別に、たかだか中学時代の部活の先輩後輩という繋がりだ。今更気を遣って話すことも、なんなんら挨拶なんかしなくても、これといった不快感もない。それくらいの関係。
それなのに、元部長は思いつめたような顔をして幹央を見ている。そして、きっと木下には、幹央が何か言いたげなように映っている。
別の場所で再会したならば、こうはなっていないだろう。しかし、ここは颯の骨が眠る場所。
そこにわざわざ足を運んでいるという時点で、お互い日高颯に対して、【何か】を抱えている。互いにそれは感じとれていた。
幹央は思いだしたように、颯の祖母が受け取られなかった桃とスナック菓子を置いた。
「部長、たしか、墓に供えたものって、その場で食べないといけないらしいですよ」
幹央から話し出したことに、木下は動揺したのだろう。しばらく考え込むように俯き、顔を上げた。
「そうなんだ? たしかにカラスとかに来られちゃ大変だもんな。……じゃあ、食べないとな。それ」
「桃だけなら一人で食うでも良いんですけど、コレがね。昔は一人でペロっといけたんでんすけど、最近一人でスナック菓子一袋はきつくって」
「ハハっ、なんだそれ。随分ジジ臭いこと言うな。後輩のくせに」
「だから、悪いんですけど部長手伝ってくれません?」
木下は一瞬大きく目を見開くが、すぐに幹央の意図を理解したように、目を伏せて笑った。
墓地にはスナック菓子をパーティー開けできるような場所はないし、流石にここに長居しては熱中症になると、木下の家に向かうことになった。
その場で食べなきゃなんて言ったが、幹央にとって、そのような聞きかじった墓参りのルールは話し合うための口実にすぎないので、異論はなかった。
石段を下りている時、二人は「今何をしているか」という当たり障りのない話をした。特段盛り上がったわけでもない。それもそのはず。二人とも、互いのことなんかに微塵も興味がない。ただ、本題にすぐ入れる程の度胸がない人間であることが、過去の少ないやりとりからも何となく察しがついていた。
「ただいま」
「あら、おかえり。えっと、お友達かしら?」
木下の母であろう。ふっくらとした人の良さそうな中年の女性が、掃除機の手を止め、微笑んだ。
「中学の時の後輩。たまたま会って、折角だから上がってけって」
「あらそうなのお。はじめまして良助の母です。えーと、たしか……ごめんなさいねえ、きっと試合の時とかに会ってるんだと思うんだけど、あんまり後輩の子って覚えてなくって」
「いえいえ、俺、あんまり目立つほうじゃなかったのでしょうがないですよ」
「そお? ごめんなさいねえ。やっぱり後輩の子っていうとどうしても――」
「母さん!」
突然の大声に、玄関にピリッとした空気が流れる。
「結構歩いてきたからさ、俺達結構疲れてて。悪いんだけど、早く俺の部屋行っていいかな?」
木下の母は「やあね、あの子」とでも言いたげ表情で、幹央にアイコンタンクを送った。幹央はそれに苦笑いを返すしかなかった。
木下の部屋は二階にあった。家といえば、自分のボロアパートと颯の妙に広い田舎の家しか幹央は知らない。そのため、ファミリー向けの普通の一軒家というものが、やけに新鮮に映った。
「お持たせ。麦茶でよかった?」
「ああ、ありがとうございます」
先に入ってくれと言われた木下の部屋は、数年前に流行っていたアイドルのポスターや少年漫画があったりと、どことなく懐かしい気分になる。ただ、ずっと幼少の頃から使っているのだろう勉強机には、パソコンにプリント、分厚い参考書が乱雑に置かれており、大学生としてのシンパシーを感じた。
ローテーブルに麦茶、そしてスナック菓子を広げる。
「千田と会ったから、クーラーつけっぱでよかったよ。出て気づいた時は、やっちまったと思ったんだけど」
「冷房代って馬鹿になりませんもんね」
「中学ん時とかはそんなに気にしてなかった。むしろ注意されてうるせなーな、とか思ってたけど、大学生ともなるとな。生きてくのってこんな金掛かるんだって流石に気づいてきたよ。ただでさえ実家から大学も通わせてもらってんだから、注意しないとなあ」
幹央は特に何かいうでもなく軽く笑って返した。また、当たり障りのない会話だ。木下はまだ踏ん切りがついてないようだ。その気持ちは、幹央にもわかる。しかし、ずっとこうしている訳にはいかない。意味がない。
「部長」
「部長はやめてくれよ。もう、何でもないんだから。でもだからと言って何ていうのが――」
「じゃあ、木下さんで。木下さん、颯の墓参り行くんですね。俺、行く前に颯のばーちゃんから場所教えてもらって、さっきはじめて行ったんですよ」
「ああ、そうなんだ……」
冷房は効いている。だが、木下の額からたらりと汗が流れた。
「ここから墓地まで結構距離もありますよね。たしか、木下さんとは小学校も違いましたし」
「そうだね……それで?」
「いや、どうして木下さんが颯の墓の場所知ってたのかなって。颯のばーちゃんが、葬式とかでも誰か呼んだわけじゃないとも言ってたし。それに知ってたとしても、すごい後輩思いだなって思って。だって、たかだが中学時代の後輩でしょ? それも高校時代に自殺した。同学年の俺らならまだしも、木下さんには、直接的に関係ないじゃないですか……随分、情の厚い人なんだなと思って」
木下は噴き出る汗を、自分のTシャツでがしがしと拭う。顔が紺で覆われている。そして、布越しから濁ったため息が聞こえた。
「……よく喋るようになったな。あの頃は、うんとかすんとか、たまに日高のことで話すくらいしかしなかったのに」
「そうですかね、あんま変わってないと思い、ます」
「そんなことない。やっぱ、都会に出たとかも関係あんのかな?」
そう言って、木下は紺色から顔を出す。その表情は、いつかの道場で見た、颯に対する嫉妬が滲み出ていた時に似ていた。
「ハハッ、お前のその顔、久々に見たわ。お前、俺が颯といる時、そういう顔してたよな。憐れんでるみたいな、それでいて僕は部外者ですよ~みたいな、そんな顔。……今見てもムカつくもんだな」
颯にはともかく、俺にまでこんな捻くれた考えを持っていたのか。幹央は驚いた。
「ああやだやだ、あん時のこと思い出してきた。あー、とりあえず、この麦茶お前にかけていい?」
「やですよ。それに、木下さんの部屋が汚れますよ」
木下はくつくつと意地悪く、それでいて自嘲するように笑う。
木下という男は、完璧に劣等感を隠すことはできていなかったが、総じて良い人ではあったと、幹央は記憶している。だが、屈折した人間特有の卑屈な笑みを浮かべる彼は、人の良い部長であった時の彼より、一人の人物としてずっとしっくりくる。きっと、これが本来の彼なのであろうと、幹央は勝手に納得し、感心した。そして、妙な親しみを持った。
「で、まあそんな顔してるってことは、俺が日高のこと嫌いだったのは察してるよな」
「まあ。でも、あの感じは誰でもわかると思いますよ」
「なんだ、今日に生意気な口聞きだして。……まあ、いいわ」
そのまま木下はスナックを頬張る。味が薄いだの、なんだこのどこのか知らんメーカーと、湯水のごとく文句を言ったと思えば、今日に雨だれのようにぽつりぽつりとした語りに変わった。
「あん時の俺って、剣道が全部だったんだよ。自分という人間とは何か、生きるための理由は何か、答え全部が剣道で。でも、その答えも『一番になったら人から認めてもらえる』っていう、根底があった。純粋に強くなりたいとか上達したいとかでは、全然なかったな。でも、そういう痛い自分を認めるのが嫌で、一身で取り組んでます、みんなで頑張って強くなりましょうみたいな風に振舞ってた。そうしてくうちに、人望を集めて、最終的に部長なんかを任されたりした」
「でも、思春期なんてそんなもんじゃないすっか。承認欲求の塊、みたいな」
「今思えばな。でも、あの時そんなこと言われても、『うっせーお前に何が分かんだよ』ってキレて聞く耳持ってねえだろ」
「まあ、そうっすね……」
二人して麦茶をすする。キンキンに冷えたこの部屋では、氷はまだ形を保っている。
「んで、お前らが入部してきた。お前らの世代、経験者いなかっただろ。日高も見るからに生意気そうで扱いはむずそうだけど、所詮後輩、ずぶの素人。『ラッキー、俺の地位は守られた』と思ってた。――はじめて、天才っていうのを見たよ。努力とか、執着とか、そういうちゃちなものでは太刀打ちできない、圧倒的な、力」
そう呟く木下の目は、深淵のように虚ろだった。
「今ならわかる。俺の才能は、精々狭い田舎で威張れるくらい。その程度なんだ。でもな、全てだったんだよ。世間知らずな俺には……。認めるわけにはいかなかったんだ。なんの努力も無しに、剣道への執念も無しに、俺より強くて、認められるなんて――――許せないっ……」
おそらく、木下はあの日のように拳をわななかせているのだろう。テーブルが小刻みに揺れた。
「だから、俺は、アイツの弱みを探した。実力では勝ってこない、ならいっそって。着けてたんだ。そしたら、アイツのばーちゃんに激昂されて追い返されてる男を見つけた。こりゃあ何かあるなと思った。何食わぬ顔であいさつしたら、ソイツは『君、日高颯くんと同じ中学校の子? なにか彼のこと、彼の家族のことで知ってることはない?』って聞いてきた。そこで知ったんだ、アイツの親父のこと。認知度も高くて、事件の内容もショッキングで、偏見も生みやすい。これは良い弱みを見つけたと思った」
視界が一瞬、真っ赤になった。しかし、幹央は深く息をつき、自分のこめかみが震えるのを感じながら、どうにか理性的に言葉を紡ごうとする。
「っ……でも、あの噂が広まった頃にはアンタは卒業してただろ? アイツが嫌われ者になったて、アンタに何の得も無いじゃないか」
「そうだよ。でも、あの時の俺はどうかしてたんだ。剣道ていう競技で嫉妬してるくせに、アイツという人間自体は憎くてしょうがない、陥れなくては気が済まない。――――何より、俺はアイツに勝たなくてはいけない」
「だから、俺に、少しでも負け筋があってはいけない。少しでもそれがあったら、きっと負けちゃうだろ? アイツは俺のような凡人ではないんだから」
嫉妬、そしてそこにたしかにある羨望。それに、幹央は痛い程身に覚えがあった。
「俺はその日、大切にその秘密を抱えてこの部屋に帰って来た。でもそのまま話したんじゃ、信じてもらえないかも知れないし、何より足が付く。だからネットとか図書館とかでこの秘密の信憑性を高めて、よりアイツのマイナスになるような伝え方をずっと考えてた。準備が整えて、高校で俺も誰かから聞いたってていで別の中学の奴に話した。そこからクラスへ、また別のクラスへ、塾へ、真偽を確かめるために中学校に通う弟、妹へ……。高校入ってスマホを持ってる奴が多かったのも大きかったな、思っていたよりすぐに広まった。そして、俺のもとに日高が暴力沙汰を起こして部活動停止しになったて情報が耳に入ってきた」
テーブルの震えが止まる。すると、虚ろであったはずの木下の目は、徐々に恍惚の色を帯びていく。
「この時強く思ったよ。――――あぁ勝った! 俺は日高に勝ったんだ! あんな、頭がはち切れそうなくらいの興奮はこれまで経験したことがない。今でも、あれを超える衝撃に出会えない。……もしかしたら、あれが俺の人生のハイライトなのかなって、たまに考える」
熱に浮かされたような顔。幹央は気がつけば、木下の頬を殴っていた。
幹央は人を殴ったことがなかった。殴られた木下はよろけたが、すぐに姿勢を立て直し、打たれた方の頬を軽く摩っていた。
「これ本気か? これなら前元カノにビンタされた時の方が痛かったわ」
「すいません、慣れてないもんで……」
「殴っといてすいませんって、お前日高に隠れてたけど大概変な奴だな」
この男に颯の名前を呼ばれると、カっとしいて、また手が出そうになる。
「まあまあ落ち着けって。俺が最低な奴だってのは、お前のへなちょこパンチがなくたってわかってるよ」
気付けば、木下の目から恍惚の色は消えていた。
「この喜びは長続きしなかった。日々、自分が調べて流した情報よりも、大きく悪い方向に広がった日高の噂が耳に入ってくる。それが、嘘か本当かはわからないし、知る権利を俺は持っていない。部外者としてそれを聞くだけ。……その状況が、立場が段々恐ろしくなってきた」
「恐ろしくって、アンタがそういう風に仕向けたんじゃないですか」
「ああ、そうだよ。でも、俺も剣道を辞めて、毎日のように顔を合わせることもなくなってみると、こう、冷静になってきたというか……俺はなんてことをしてしまったんだって、自業自得で今更過ぎる罪悪感に苛まれるようになった」
ああそうだ。自業自得だ。とでも幹央は言ってやりたかった。しかし、それを言っても無駄だと思うほど、木下は思い詰め、詰めつくしたような妙に達観した顔をしていた。幹央はただ黙って、木下に軽蔑の視線を送ることしかできなかった。
「アイツは俺に何かした訳じゃない。アイツには才能があって、俺にはそれが無かっただけ。ただ、それだけの話なんだよ。それを俺は、自分の都合だけで、アイツを貶めようとして……。何て、最低なことをしてしまったんだ! 本心から思った。今でも思ってる。でも、そう思った時には噂は広まりすぎてた。俺が広めましたっていったところでどうこうできる範囲を超えてる。そう言い訳して、ダラダラ部外者を続けていたら、日高が自殺したって噂が入ってきた」
木下の目から涙が零れた。
「それも色んな憶測が飛び交ってた。でも、数週間も立たないうちに、日高颯の噂をしなくなった。みんなすぐに飽きる。でも、俺はずっと、俺のせいだって。いや、でも本当に自殺に俺は関係してるかはわからないし、とかまた卑怯な考えもめっちゃしてたな。自責と自己保身が、行ったり来たりしてた。そんななかで、また突然日高の噂が流れだしたんだ」
「噂? どんな?」
「日高颯の幽霊を見た。夜な夜な現れては、いじめてきた奴を呪いに来る。そんな、非科学的な噂さ」
木下の乾いた笑い声が部屋に小さく響く。
幹央は、再開してすぐに颯が『協力者がいると思って、片っ端から知り合いに声掛けた』『彷徨って、彷徨って、やっと見える、聞こえる、話せる奴がみつかった』と言っていたのを思い出した。
「これは、恥ずかしいし、信じ難い話だけど、俺はたしかに、幽霊の日高を見たんだ」
ベッドと引き出しの狭い隙間を指差しながら木下は言う。
「妙に寝つきが悪い夜で、苦し紛れに目を開けたら、日高がそこに立ってジッと俺を見ていた。何か言っていたと思う。でも声が聞こえない。でも、きっと恨み節なんだろうと思うと、それが怖くて怖くてたまらなくて、脂汗がだばだば出てきた。『なんだ、やっぱり俺のこと恨んでるのか?』『本当にごめんなさい。俺は何も、お前を死ぬまで追い詰めようなんて思ってなかったんだ』とか、俺はとにかく思いつく限り謝罪と言い訳をした。あん時の俺は、俺史上一番情けなかったと思う」
「それで、結局、颯はアンタを呪ったの?」
木下は首を横に振る。
「いや、最初は何か言ってそうな素振りをしてたけど、俺の情けなさに呆れたのか、後は黙って俺を見下して消えてった。――その時の目といったら! 本当に人じゃないみたいだった。人なら、血の通った生き物なら、あんな冷え切った目はできない」
幹央は、その瞳を容易く思い浮かべることができた。なぜなら幹央はずっと側で、その瞳を見てきたから。そして、その瞳は持つ人外じみた【何か】に、ずっと悩まされて、囚われてきた。
「そう……それは怖いですね」
「ああ、本当に……って、お前何にやけてんだよ」
コイツは颯を知らないだけ、直視できなかっただけ。
幹央は何とも場違いで、歪んだ優越感に浸っていた。
「なんだとその反応。気持ちわる……。で、特に何にもなかったけどやっぱり安心できない。それで、線香だけでもと思ってアイツの家に行ったけど、勿論門前払い。しょーがねーからアイツのばーちゃんの後つけて、墓の場所を割った。それで、時間が空いたら『謝ります。許してください。そして、頼むから見逃してください』って手を合わせてる。――ハハッ、改めて言葉にすると、俺、自己保身の化物すぎるな。いやあ、ほんと笑っちまうくらい、最低な人間」
「そうですね」
「『そんなことないですよ』とか、フォローできない感じ? 俺、一応先輩だぞ」
「もうどっちもとっくに中学卒業してるんでしょ」
「たしかに、はじめの方は木下さんって言ってたけど、後半殴るしアンタ呼びになってたしな」
「それに、敬う気も失せるでしょう。この話聞いてたら」
そりゃそうかと、木下はまた意地の悪く笑った。
「でも、なんでこれを俺に話したんすか? 足付けたくないんでしょう?」
すると、木下は突然笑顔を崩し、顎に手を置いた。
「そうだよ。絶対一人で墓場まで抱えておこうと思ってた」
「じゃあ、なんで?」
「……何でなんだろうな。でも、お前とすれ違った時、似たようなことで悩んでるんだろうなって、直感で思った。そして、コイツにならわかってもらえるかな俺のことって、変な甘えが出た。多分、それだけ。深い意味はない」
幹央は、木下が颯にした仕打ちを到底許すことはできない。ただ、颯に対する屈折した強い想いと、学生時代に残した負い目を引きずり、後悔の海に沈んでいるという状況は、まったくもって同じだった。
同情と自己嫌悪が、二人の間を渦巻いている。二人はそれを心地良いとさえ思っていた。
しかし、見下し合いながら傷を舐め合っても何にもならない。それも二人は自覚済みであった。
「……そうですか。でも、俺、ばらすかもしれませんよ」
「いや、多分お前はしない。日高がまだ生きていたならまだしも、今の状況じゃそんなことするのも億劫なだけだろ」
「あたりです。流石、みんなをまとめる部長。人をよく見てますね」
そうだろ。と、木下は自嘲ぎみに言った。
「で、お前は教えてくれないの? 日高とのこと」
大学の友人には話した。それに、木下にシンパシーを感じている。
でも、だからこそ、自分よりも颯を知らないくせに颯を傷つけようとした男に、自分と颯の話をしてやる義理なんてない。幹央はそう思った。
「何だその笑み。見たことないタイプにキモイ顔だな」
「俺は随分情が厚い人ですねって言っただけなのに、に木下さんがべらべら喋ってきただけでしょ。俺が話す必要はどこにもないでしょ」
「あっそ、相変わらずノリが悪いな。――これじゃ大学での友人関係が、先輩として心配だ」
人の良さそうな、嘘くさい微笑み。それを見た幹央は、あの頃の道場に戻ったような感覚を覚えた。
「一応な」と連絡先を強引に交換させられ、幹央は木下の家を出た。
すっかり朱色に染まった空の中を、幹央は歩く。方角は家の方に向いていたが、本当に自分が家に向かっているか、実感はない。
食べ損ねていた桃を齧りながら、今日のあったことを思い返す。
あの頃、そして空白であった期間の颯の輪郭がはっきりしてきた。これは、良い収穫である。そして、自分の中にある颯への想い、執着のようなものが、実態はわからずとも、たしかに自分の中であると割り切れるようになったような気がする。
颯の中の真実を知りたい。自分の気持ち悪い気持ちを伝えたい。――――そして、出来るのであれば、過去を飲み込みんだ上で、またくだらない話がしたい。
気付けば、幹央は桃を強く噛み締めていた。口を超えて顎や頬にまで甘ったるい果汁が広がった。
流石にTシャツで拭うのは躊躇われるが、ハンカチなんて常備していない。
ここら辺にコンビニなんてないことは百も承知だが、一応周囲に目をやる。
すると、見慣れた用水路が目に飛び込んできた。
流石にこの水で洗おうとは思わないものの幹央は用水路に吸い寄せられていった。
特等席だった、颯と出会ったあの位置へ足が勝手に動く。
すると、そのあたりに奇妙な揺らぎが見えてきた。
陽炎とも違う、ただ一点、人一人分くらいの揺らぎ。
近づく度に、幹央の鼓動は速くなる。距離を詰めても揺らぎであることは変わらない。だが、その現象、その存在を幹央は知っている。間違えるはずがない。
「颯!」
幹央は声の限り叫んだ。
