水流の先にあるものは

「なあ、お前知ってんだろ? あのこと」
 伏せていた上体を起こす。声の主は西川であった。
 3年生になり、幹央は颯とクラスが別れた。小学校は人数が少なくずっと1クラスで、中学でもこれまでは同じクラスだったので、別々のクラスになるのははじめてのことだった。
 自分との才能の差や、進路へのスタンスなど、良いとは言い難いマイナスの感情が渦巻きつつも、颯が幹央の唯一の友達であり、学校という社会で生きるための支えであることに変わりはなかった。そのため、掲示板に張り出されたクラス分けの紙を見た時、幹央は自分で自分が恥ずかしくなるくらいに、不安を感じた。
 新たなクラスを割り当てられ、幹央は1、2年生の時のクラスメイトや剣道部の仲間と一言二言話すように努めた。ただ、この人と仲良くなりたいという自分の基準もあやふやで、思うように会話は続かない。颯といる時間が長すぎて、自分は極度の人見知りであるということを忘れていた。颯と以外のコミュニケーション、そして颯がいない時の人とのコミュニケーションの仕方がわからない。幹央は、颯と出会う前のただ用水路を眺めることしかできなかった自分にすっかり戻ってしまったのである。
 新学期がはじまってから、颯は何度か幹央の元に現れた。しかし、これまで程一緒にいる時間は少ない。そして不思議なことに、颯が自分の教室に入ってくると、どこなく教室の空気が重くなる。颯の纏う空気や颯自身が変わったわけではないと、幹央は思う。ただ、周囲の視線の質が妙に陰湿なように感じられた。
 だから、幹央は驚いた。関わったことのない人間から、さも当たり前のように質問を投げつけられてきたことに面食らってしまった。
 西川と会話をした覚えはない。クラスも3年間バラバラだった。ただ、幹央は一方的に西川のこと知っていた。
 西川は、一年生から野球部のレギュラー入りをし、2年の頃には県選抜に選ばれた実力者であり、現在もまごうことなき我が校の野球部エースである。
 幹央の家にはテレビがなく、スポーツに興味もない。野球の知識というのもからっきしである。ただ、世間での野球の知名度というのはどの競技よりも勝るようで、西川にまつわる評判や噂話はたとえ聞き耳を立てていなくても伝わってきた。
 今、幹央の目の前には、西川と取り巻きであろう坊主頭が両隣に一人ずつ付いている。みな、なぜだか真剣な面持ちをしていた。
「えっと、その…… あのことっているのは何のことですかね?」
 声は恥ずかしいくらい震えていた。右の坊主はその震えを聞いて吹き出したが、正面にいる西川は鋭利な眉をひそめた。
「しらばっくれんなって。さっさと教えろや」
 左の小柄な坊主が喚く。クラス中の視線が集まる。ただ、視線は小柄な坊主ではなく西川の方に注がれている。それもそうだ。彼は学年全体、いやこの学校内の頂点に位置する人物といって過言ではないのだから。
 幹央は、颯という絶対的な実力とオーラを持つ人間と長く関わってきた。西川もまた上に立つ側の人間特有の空気を纏っているが、その性質は異なっている。颯は気に入る人間はいれど、特定のコミュニティには属さない。その代わり、どこでも一人で、自分の力と魅力を100%で発揮し、一目置かれていた。西川は、颯にない群れの長としての凄みがある。それもみなが潜在的に特別視している野球部の長だ。実力で頂点に立ち、その事実を別のコミュニティでも当然のように誇示する。そして周りもそれに何も意見することなく、納得するのである。
 幹央は今一度、目の前の西川を見る。上に立つべくして立っているという自信とある種の驕りが、浅黒く厚みのある身体から滲みでている。同い年で、同じ土地に生きているというのに、どうしてこうも自分と違うのだろう。幹央には西川が自分とは全く別の生き物のように見えた。だから、恐ろしかった。
「あの、ごめん。ほんとうに、わからなくて……」
「わっかんねえ奴だなあ。だ・か・らぁ、日高――」
「お前、ちょっとうるさい。千田、だっけ? お前日高のマブだろ。アイツの親父が犯罪者だって話、本当か知ってる?」
 まどろこしいとでもいうように、西川は尋ねる。
 颯の父親が犯罪者? そんなこと――――
「知らない。そんなこと、聞いたことない」
 本当のことをそのまま言葉にした。
 颯の家に行くことは何度もあったが、いるのは耳の遠い祖母だけで、父親はおろか母親する見たことがなかった。それに、幾度となくくだらない会話を繰り広げてきたが、颯が実の父親の話、ひいては家族の話をしていたことは一度だってなかった。
「嘘つくなよ。学校以外でもこの辺一帯、この話で持ちきりだぞ。お前がこの話広めたんじゃねえかって言われているし」
「しっ、してないですよ。ていうか、なにその話……」
 西川はまだ噛みつこうとする坊主を視線だけで制する。そして、幹央に向き直る。
「お前、ほんとに知らなねえんだな」
 お前の全てを見破らんとする、険しい瞳に幹央は思わず唾を飲み込んだ。
「知りませんって。本当です」
 あらぬ誤解を掛けられるのを恐れ、幹央は震えながらも西川と対峙する。
 キーンコーン、カーンコーン
 張り詰められた緊張の糸は、気の抜けたチャイム音でブツンと切れた。
 学校の王とその取り巻きといえ、学生である。3人はつまらなそうに教室から出ていこうとする。
 しかし、幹央はいてもたってもいられず、背中を向けた西川に声をかけた。
「なんだよ」
「あの、その颯の父親がっていうのは、その……」
 なんて聞けばいいのかわからない。口ごもる幹央に、西川は背中越しで答えた。
「用水路で死体が流れてきったていうバラバラ殺人あったべ。その犯人の元ヤクザってのが、アイツの親父だとよ」
 
 その日、颯は幹央の教室にやってくることはなかった。部活にも来ず、颯と同じクラスの部員に尋ねると、今日は急用で休みらしい。
 負けん気の強い本人がいる手前、これまで話したくとも誰も口に出せなかったのであろう。今日の道場は颯の噂話で持ちきりだった。
 憶測が飛び交い、どれが真実であるかはわからないが、おおよその見解はこの通り。
 ある男は、何らかの粗相をし裏社会から足を洗わざるを得なくなった。男はヤクザ時代を支えてきた女と晴れて結婚し、子供を一人もうけた。地方で小さな飲食店を開店し、しばらくはつつましやかな生活を送っていたそうだ。しかし、一度黒に染まったものが、完全に白に戻ることは叶わないらしい。ある日、男の店に悪質なクレーマーが来店した。そのクレーマーは半グレのチンピラだったらしく、人づてに男の前職を知っていた。クレーマーの男は他の客がいる前で、男のことを「ビビッて逃げた腰抜けだ」とひどく煽り、罵った。男は激昂し、口論にまで発展。そこから詳しい経緯は不明だが、男はその後チンピラを殺し、見せしめのように分解された体を水に流した。この男が、一時期世間を賑わせたバラバラ殺人鬼であり、颯の父親だという。
 幹央はこの事件自体を物騒だと思うものの、他の生徒のように事件の真相をもっと深く知りたいだとか、颯の言動に犯罪者の子供たる特徴が現れていただとか詮索したいという気持ちは一切起きない。一方で、彼らとはまた別の方向で、幹央はこの事件について思いを巡らせていた。
 この事件が話題になったのは、幹央が4年生頃だ。なぜ今更、事件の発生地と離れた地域で掘り返されている? そして、なにより、どうして颯がその男の息子であるなんて噂が生まれて、ここまで広がっている? その真偽は? そして、それが本当であるなら、なぜ自分に話してくれていないのか……。
 怒り、疑念、悔しさ、寂しさ。様々なものがないまぜになって、幹央はいつも以上に稽古に集中することができず、顧問の宮澤から何度も怒声を浴びせられた。
 あやふやな心持ちで道場を後にしようと、珍しく宮澤から呼び止められた。
「はい。なんですか」
「なんだ今日の態度は。もう最上級生なんだぞ。下級生の模範になるような言動を心掛けてもらわんと」
「……すいません。気を付けます」
 言葉は右へ左へとすり抜けていく。惰性の謝罪が口からこぼれた。
 流石にこの言い方はマズかったと言い終えてから気が付き、急いで意識を宮澤に集中させる。
 追加の雷が落されると思った。しかし、宮澤は怒りというよりは、哀れみという言葉が適した表情を浮かべていた。
「えっと、あの、すいません。以後本当に気を付けつけます」
 表情の意図がわからず、先程より真摯を装って謝罪の言葉を口にしたが、宮澤は疲労が混じったため息を吐いた。
「ああ、そうだ。以後気をつけろ。……ところで千田」
「はっ、はい。何でしょう……」
「大丈夫か、その、最近……日高の件とか」
 こんなに言葉に詰まっている師をはじめて見た。だからこそ、この噂の広まりや騒がれ方が、深刻な事態であることがまざまざと感じられた。
「……大丈夫です、別に。というより、これが本当のことなのか、本当のことであっても自分がどうするべきか、何もわかりません」
「ああ、そうか。そういうものだよな。まあ、こういう話題は一過性のものだ。日高自身も気にしていない様子もだし、じきにすぐ収まる。ただ、お前が日高の友達だからって、何かいわれないことを言われたり、嫌がらせなんかされたら、すぐ相談しろよ。教師としてかならず、お前を守るからな」
 颯の父親の話を否定しない。学校の関係者であるから、ある程度家のことは把握しているのだろう。
 宮澤は幹央を心から気遣うような、いかにも善き師然とした顔をしている。――――この教師は何故自分の心配だけをするのだろうか。
 純粋な疑問だった。あくまで殺人という罪を犯したのは颯の父親であって、颯には関係がない。それなのに、何をするにも悪意から好奇の視線を当てられ、腫物を触るような態度をとられるという颯の置かれた状況が、「いわれのないことを言われる」「嫌がらせを受ける」に該当しないとでも思っているのだろうか。一過性のものであれ、それをさも当たり前のように捉えている目の前の大人は、一体何なんだ?
「俺は……、俺は、別に何ともないです。でも、その、颯は大丈夫なんですか。颯は何もしていない。なのに、変に自分の親のことでひそひそ噂されてちゃ、いくらなんでも気分が悪いでしょう」
「アイツは生意気だが芯のある奴だ。こういうのを気にするたまでもないだろう。それに、本気で何か起きたら、ちゃんと学校を上げて問題に取り組む。安心してくれ」
 意識して耳をそばだてると、颯の噂話は大分飛躍したものも多く、「犯罪者の息子」だと颯をこき下ろすような内容も頻繁に聞こえてくる。人とは愚かなもので、勝手に人に期待して、勝手に人の破滅を願う。上に立つ者の欠点を見つけ、立場が崩れていく様を極上の娯楽のように楽しみのだ。
「前から危ない気はしてた」「犯罪者の息子なら、あの横暴な振る舞いも納得だ」「でも、しょうがないんじゃない? 子は親を選べない。可哀そうだよ」
 揃いもそろって鬼の首でも取ったかのような口ぶり。わかったような薄っぺらい同情。これを毎日されるなんて、想像するだけでは吐き気がする。
 それなのに、なんだ「本気で何か起きたら」って。もう異常な何かは、起きているではないか!
「ッ……。わかりました。本日もご指導ありがとうございました」
 身体も頭も燃えるような怒りで満ちている。それでも、「颯ならまだしも、俺なんかが先生に逆らうなんていけないことだよ」と自分が自分を締め付ける。
 幹央は礼をして、逃げるように道場を後にした。
 家に帰った幹央は、夜勤で母が不在の家で、一人眠れぬ夜を過ごした。
 親がどうであれ颯には関係ない。それは丈夫な一本の軸。ぶれることはきっとない。ただ、自分は周りの目にめっぽう弱い。痛い程に自覚していた。
 幹央は不安だった。悪質な視線を浴びながら、自分は変わらず颯といつものやりとりができるのだろうか。多数の空気になびいてしまわないか。
 なんとか良い解決策はないかと、薄っぺらな布団の中でシミュレーションを繰り返す。ただ、いくつか分岐はあれど、どの結果もひどい有様であった。

 次の日、颯は何事もないように登校してきた。幹央は今朝、颯と学校へ出向き、朝から共に宮澤にしごかれた。
 しかし、午前中のうち一度は幹央のクラスを訪れるはずの颯が、今日は来ない。
 まあ、そういうこともあるかと、幹央は自分を納得させる。それなのに、胸の辺りは嫌に騒めきたち、意識せざるを得ない。
 比較的長い昼の自由時間。
 流石に、そろそろ来るか。いや、たまには自分の方から颯のクラスに出向いてもいいのかもしれない。
 給食で出たカレーの香りが残る教室で、幹央は一人、そんなことを考えていた。
 すると急に、何かと何かが激しくぶつかる音が聞こえてきた。
 周りを見渡すが、この教室からではない。この階のどこか、別の教室からであろう。何度か激しい音が続くと、それに共鳴するような女子の甲高い声も聞こえてくる。
 異常を察知したクラスメイト達は、互いに顔を見合わせ、無言のうちに納得し、ぞろぞろと教室を出ていく。
 幹央は人の波に紛れ、教室を出た。廊下は音の正体を知ろうとする野次馬に溢れ、肝心の正体は見えない。ただ、人が集う中心は辛うじて認識できる。
『3年5組』。颯のいる教室だ。
 幹央は考えたくもないのに、最近の学校の雰囲気、そして昨日ことを鮮明に思い出す。
 大丈夫。この騒動が、颯に関わるものと決まったわけではない。きっとそうだ。必死に、自分に言い聞かせる。
 聞こえてくる「日高」という言葉に気づかないフリをして、幹央はひしめく人波のなかを進んだ。
 ようやく、正体がもうすぐ目の前という距離に来た。『3年5組』というプレートが掲げられた引き戸には人が密集して、入れそうにない。
 だが、このところずっと成長痛に悩まされている幹央には、これ以上近寄らずとも教室の様子が、騒動の正体はわかってしまった。
 規則的に並べられているはずの学習机と椅子は、定位置から押し出されるわ、ひっくり返るわで、乱雑を極めている。ただ、教室の中心はぽかりと空いていた。不規則に見える学校の備品たちは、まるで舞台装置のように、中心にいる二人の少年を囲っていた。
 一人の少年がもう一人の少年に馬乗りになっている。あまり対格差が目立たない体勢であるはずだが、馬乗りになる背中は小さく華奢で、敷かれている下半身はいかにもフィジカルエリートといった逞しさを持っている。
 小さな方が、おもむろに自分の腕を上げ、拳を握る。すると、下に敷かれた方は脚をばたつかせる。精悍な脚だからこそ、必死にもがく様子がひどく無様に映った。
 小さい方はそんなこと気にも留めていないようで、特になにか言うでもなく、ただ黙って拳を落した。
 肉と骨がぶつかる音。そしてくぐもった呻き声が続く。相変わらず二人の顔は見えないが、拳の方向から赤い液体が噴き出されたのが見えた。しかし、その拳が緩まることはなく、生々しい暴力の音は鳴り続けた。
 この光景に、溢れかえった野次馬達は声をあげる。悲痛そうな声をあげる者もいるが、好奇の念が隠しきれてない。見て、反応して、勝手な想像を膨らませる。第三者として、観客として、起きてはいけない非日常を楽しんでいる。
 幹央はというと、気が気でなかった。幹央は、下に敷かれる男が誰なのか大方予想がついた。そして何より、馬乗りになり暴力を振るう男の正体を確信した。間違えるはずがない。だって、ずっと、誰よりも側にいたのだから。
 
「おい、日高! 西川! 何してるんだ!」
 答え合わせは実にあっさりしていた。宮澤の怒声によって、子供達だけの非日常は終わりを告げられる。
 宮澤が教室に入り、颯を無理やり引きはがす。意外にも颯は抵抗を見せず、伸ばして遊ばれる猫のようになっている。宮澤の後に続き、二人の男の教師が教室に入ってきた。組み敷かれていた少年――西川の状態を確認すると、二人がかりで抱え、すぐに教室を後にする。
『3年5組』に残されたのは宮澤と颯のみ。当人達しか状況を把握できていないであろう今、宮澤は「落ち着け、とにかく落ち着くんだ」と颯に声をかけている。その声には、諭している側とは思えない程焦りの色が滲んでいた。
 颯はすこし身をよじらせる。
「おい、日高。落ち着けってば」
「落ち着いてるよ。先生の方が、大分テンションおかしいっすよ」
 通常運転の減らず口に拍子抜けしたのか、宮澤の腕の力が抜ける。颯は隙を見て、するり腕から抜けた。
「おっ、おい!」
「ずっとこの体勢でいるつもりなんすか? 指導室でも、職員室でもいいから、さっさと行きましょうよ」
 颯は扉の方へ向きを変える。左の拳から血が滴り、学ランの袖が赤黒く汚れている。だが、顔には興奮の色も後悔の色もない。ただ、瞳孔の開いた大きな瞳が、爛々と輝いている。
 何を狼狽えることがあるのか。自分はただ、やるべきことをやったまでだ。瞳が、雄弁に語っているような気がしてくる。
 それを見て、幹央は思った。コイツは――人ではない。恐ろしい。
 幹央ははじめて、颯に畏怖を覚えた。能力の高さや、尊大な態度に恐ろしさを感じたことはあれど、対人間として、ここまでの拒絶反応が出ることはこれまで一度もなかった。
 ここから今すぐにもでも立ち去らなければいけない。さもなくば喰われる。動物的な本能が、警鐘を鳴らす。
 だが、遅かった。振り返ろうとしたその瞬間、今最も直視したくないものと、目が合った。
 目が合った。すると、人外じみた絶対的な瞳は、一瞬にして様相を変える。十全なる輝きに陰りが差し、迷子の子供のように弱々しく揺れる。どう考えてもコイツは、俺に、千田幹央に助けを求めている。
 でも、そんな目で見られても……今の俺には、何もわからない。何もしてやれっこない。
 幹央は、速足でその場を去った。離れているはずなのに、あの普通の幼い瞳が、ずっとついてまわっているような気がしてならなかった。

 しばらく学校は、その騒動のことで話題は持ちきりだった。現場を見ていた生徒の証言によれば、自分になびかず、傲慢な態度をとる颯に苛立った西川が、父親のことを持ち出して颯のことを罵った。颯もその挑発に乗り、口論が白熱していくと、颯の方から先に手を出した。西川もすぐに応戦したようだが早々に押され、許しを請いながら抵抗を示したが、颯の怒りは収まることなく、流血沙汰にまで発展したのだという。
 きっかけは西川だが、悪い意味で取り沙汰されるのはもっぱら颯の方だった。ただでさえここ最近、悪趣味な話題の的であったのが助長し、偏見じみた憶測が学校内に蔓延している。
 騒動の翌日には、西川は登校してきた。その顔のほとんどはガーゼで覆われていた。怪我のこともあり、一時部活動休止を言い渡されているそうだが、相変わらず子分を引き連れて歩いている姿を見かける。ただ、以前ほど堂々とした風格はない。
 聞けば、あの騒動について、西川は口を頑なに開かないのだという。自分から挑発しておいて、ただやられっぱなしだったというのは、強力な男社会の長としては大変情けなく、それでいてわかりやすく嘘をつき、誤魔化すことも沽券に関わる。取り巻き達もそれを察してか、普段通り西川を持ち上げているが、その様子はぎこちなくて、痛々しく見えた。
 颯はというと、しばらくの休学を命じられたらしく、まったく学校に姿を現さない。部活動も停止、噂ではほぼ確定であった剣道強豪校の推薦も水に流れたという。
 幹央は颯が休学してすぐの部活帰り、颯の家も前を通った。インターホンを押す勇気は出なかった。ただ、良くないと思いつつ、窓のあたりを覗いたりした。しかし、どの窓にもカーテンがかかっていて、颯の姿は見えなかった。
 一通り確認すると、いくらか心が軽くなるのを感じた。居合わせなかったから、まだ颯との関係について問題を先送りできる。それでいて、自分は颯を見捨てたわけではないと、友達としての自分を肯定することができた。それから、幹央は部活帰りに颯の家を通ることが、ルーティーンになっていった。そして、一向に颯に姿を現すことはなかった。
 
 一か月程時間が経ち、騒動に関する賑わいはある程度の落ち着きを見せた。西川も部活に復帰し、徐々に威厳を取り戻しつつある。
 人が人に向ける関心なんてこんなものか。自分は何をしていても、罪悪感と無力感でいっぱいだというのに。実に身勝手な苛立ちだが、幹央はここ一か月、そして現在でも、颯のあの瞳に怯えて気が気でいられない。どうにかなってしまいそうだった。
 そして、颯は学校にやってきた。5限目の途中から突然教室に現れたらしい。幹央はそれを、教室の掃除中に知った。同じ掃除当番のお調子者達の会話から聞こえきたのである。
 中学生ともあると真面目に掃除をする者などいない。担任も丁度席を外しており、ちょっとこの場を離れるくらいなら誰も咎めない。
「日高が学校に来たらしい」それを聞いた時、幹央はいますぐにでも握っていたデッキブラシを投げだし、3年5組に向かおうと思った。しかしそう思ったところで、一か月前の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
 会ったところで、どんな顔をすればいい。それに、自分を見捨てた奴に会いたい奴なんて、この世のどこにいる?
 幹央は震える手でデッキブラシを固く握った。

 中総体が近づく道場は、熱気で溢れている。
 しかし、個人戦はおろか、颯が抜けたからとて団体戦の補欠にも入れていない幹央には、あまり関係のない話であった。
 惰性のまま稽古を終え、一人帰路につく。
 今日は颯にたまたま会わなかったが、これから何もなければ同じ建物に、ほぼ毎日通うのだ。顔を合わせる機会はどこかであるだろう。そう思うと、気が滅入ってしょうがない。
 どう接するのが正解か考えあぐねていると、「なぁ」と後ろから呼び止められた。いくら目を凝らしても、視界には閑散とした田舎の風景が広がるだけ。自分以外に、人影はない。
「なあ、つってんだろ――ミキ」
 ミキなんて呼び方されたら、確定ではないか。嫌だ、振り返りたくない。
 しかし、無視するという選択肢は、至極当たり前のように幹央の中には存在していなかった。
「なっ、なん、だよぉ……」
 振り返ると、颯は一瞬ぽかんとして、すぐに声をあげて笑いだした。
「ははっ、なんだよその声。久々だからってビビりすぎだろ」
 自分を揶揄い、楽しむいつもの颯だ。こっちの姿の方が長く見てきたはずなのに、あの日の人外じみた恐ろしい姿と、子供のような瞳が鮮烈に目に焼き付いて離れない。何も考えず、くだらないことで小競り合いをしていたあの頃の感覚に、到底戻れる気がしなかった。
「いつまで黙ってんだよ、ミキ。ははっ、ははは…… おい、いつもみたく、何か言い返せよ」
 言葉に詰まる。沈黙が続く。
「……なんだ、オマエも結局アイツらと一緒か」
「あいつら?」
「オマエもオレを化物扱いするんだな」
『オマエも』という言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
「違う!」
 咄嗟に声が出た。これだけは、何が何でも否定しなければらならないと思った。自分は、学校の失礼な有象無象とは違う。同じである筈がない。だって俺は、お前の友達で、唯一の存在で――――
「でも、オマエ、目え合ったのに無視したじゃん。話聞いてくれるわけでもないし、味方してくれるわけでもなかったろ?」
 颯はいつでも図星を突いてくる。でも今日以上に、苦しい図星はなかった。
「でも、その、俺はほんとに……」
「まあでも、当たり前か。そりゃこえーよな。本気で人殴る奴。しかも、親父が猟奇殺人鬼。怖がるなってほうが、無理な話だ」
 颯はそう言うと、納得したように頷く。
 違う。そうだけど、違うんだよ。だって俺は、お前が誰の子かなんてどうでもいいし、理由もなく人に暴力を振るう奴だなんて、本当は思っていないんだ。でも、咄嗟のことだったから。みんながお前を怖がる流れがあったから。自分一人だけが味方になるのが怖くって……。
 言葉が浮かべば浮かぶだけ、そのどれもが都合のいい言い訳に思えてくる。そして、何より、どんなに颯のことを思っていたからとて、行動で示さなければなんの意味もない。なんの価値もない。失望したような目をした颯を見れば、その事実がありありと伝わってくる。
 何も言わない幹央に、とうとう見切りをつけたのだろう。颯は学ランの裾を翻し、後ろを向いた。
「こんな奴が声かけて悪かったな。学校でも話しかけるのはやめるから安心しろ。オレのことでなんか言われたら、『あんな奴とは縁切った、なんも知らないです』とでも言っておけ。そんじゃ。お疲れ」
 颯は走り出す。颯の家がその方向にはないことを幹央は知っている。
 追いかけなければと思うのに、幹央の脚は震えて一向に動こうとしなかった。
 夏を予感させる鮮やかな夕焼けは、今の幹央には痛いほどに眩しい。幹央の目から、大きな涙が零れた。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
「――そこから、俺達が口をきくことはなかった。頭ごなしにあいつのことを見捨てたし、あいつはそんな俺を見限った。なのに……」
「なのに突然現れて、親しかった時みたいに接してくる。だから、困ってるってことかな?」
「そう……。それに、なんやかんやあいつといて楽しんでる自分もいやだ。それなら、あの時だって、そうすればよかったのにって、自分が嫌で嫌でしょうがなくなる」
 幹央の手にあるレモンサワーは残りわずかになっている。頭の中は白んで、目に映るものはみな輪郭がぼやけている。だが、心の内にある罪の意識と自分に対しての恨みだけは堂々と顕在していた。
「でも、結局その人が暴力沙汰起こしたのは間違いないわけで、怖いと思う当時の千田くんは間違ってないんじゃない?」
「そもそもその事件自体には、千田君が関わってるわけじゃないわけだしね」
「でも……でもなあ……」
 幹央はがくんと項垂れた。しかし、いきなり肩に激しい力がかかり、無理やり顔を上げられた。
 視線の先には赤らんだ顔の山原がいる。半開きの口から洩れる息からはかなりアルコールの匂いがした。幹央は言えた義理はないが、目の前の友人は相当酔っている。
「――らしぃ……」
「えっ?」
「実にすあらしい青春だよ! 千田!」
 思いもよらない言葉に山原の言葉に、3人は唖然とする。
「親愛と劣等感。崩壊していく絆。そしてのこうほろ苦い後悔。いやあ、すあらしい、すあらしぃありふれた青春ら」
「ちょっと、山原くん。千田くんはすごく悩んでるっていうのに、何なのその反応。ちょっと無神経すぎるよ」
 浅賀は非難するが、幹央は山原の言葉に不思議と怒りは湧いてこなかった。
「山原、その……ありふれたっていうのは……」
「へあ? いやぁ、犯罪者の子でうんぬんってのは、めずらしい気ぃするけど。周りの目が気になってほんとは味方したいけどできないってのは、よくあることなんだろ? 能力の差がどうのとか、カーストどうのなんてのものに過剰に反応して、かつ自制が効かずに実際に何か起こすのも、思春期あるあるじゃない? そういう意味で、ちだと彼の関係は、真っ当に青春といえると思う。いやあ、羨ましい」
「うらやましい?」
「俺、これまでさ、そういう人間関係でのトラブルってあったことないんだよ」
「えっ、中学とか高校でも? 暴力とかいかなくても、すこしくらいはあるものじゃない?」
「それが本当にないんらよ、これが。周りに恵まれてるのは大きいな。けど、ここに踏み込んだらきっと、この人との関係が良くも悪くも深くなると思うと一本線を引く。和が乱れるなって予兆があればそこから離れる。この予兆みたいなの、結構あたるんだおれ」
「意外だね。山原といえば、デリカシーはないけどみんなに好かれる人気者って感じだけど」
「そりゃあ、嫌われる相手とは最初から距離とるし、許される相手に選んで絡んでるからな。学生時代から、ずっとそう。だから、息苦しい青春に憧れる。家族でもない他人のことを、他人と自分の関係を、この世の全てみたいに捉えて、本気で悩めることが羨ましい」
「変な奴……」
 幹央がそう言うと、山原は立ち上がり照れたように笑った。人懐っこい笑顔だ。本人のいう人と距離を置く人間には、けして見えない。
「変な奴じゃなくて、青春の、いや人間模様のオタクと言ってくれ。……オタクとしては、このままの関係も美味しい。が、友人が困ってるというのは、見過ごせない」
 はっきりと山原は言う。ただ、後から「それに、その事件の真相も気になるし……」と呟いたのは3人の耳にしっかり届いていた。
「さっきの発言の後によく友人とか言えるよね……。絶対最後に言ったのが本心だろうし」
「お酒って怖いね。普段なら山原もここまで自分のこと曝け出すことないだろうし」
「いやあ、違う違う。俺は3人のことを信頼してるだけだよ」
「どうだかねえ。まあ、面白いからいいけど……。で、千田くん」
 浅賀にキリっとした声で名前を呼ばれて、曲がっていた背筋が伸びる。
「千田くんが悩んでるのは、わかった。私は千田くんの対応が悪いとは思わないし、山原くんの意見に全面的に賛同するわけではないけど、友達同士でも他人の目が気になって関係が解消することは、よくあることだと思う。特に、学校時代って考えると」
 足元に何本もの酒の空き缶があると思えない理路整然とした喋りに、幹央は自分を叱る時の母親の姿が重なった。
「でもさ、結局千田くんは結局どうしたいの?」
「今、その人とはわだかまりを抱える前みたいに接することができてるんだよね? それが千田くんも楽しいと思ってる。それならそれで良いと思う。お互い嫌なとこには目をつぶって、ただ同じ時間を一緒に楽しむっていうのは、いい意味で健全で、大人な友達の関係じゃない?」
「そうかも……」
「それとも、昔のことを清算したいの? 当時の彼の心境を聞く、自分の考えをうち明かす。彼が実際のことを話すのか、話した結果、千田くんがどう思うかは、その時になってみないとわからないけれど、すっきりはするんじゃないかな。停滞してたわだかまりが、どんな結果であれ一先ず次に進むんだから。それに、なんで今更千田くんの前に現れたのかも、それでわかるんじゃない? 流石に用も無く会いに来た、って別れ方じゃないんだから」
 自分から話だしたので自業自得だが、こうも客観的に自分の悩みを解析され、提示されると、幹央は猛烈に恥ずかしさを感じた。
「でも。それって怖いよね。彼と向き合うことは、過去の自分と向き合うことだし。それに、本当の意味で、彼との関係が断たれてしまうことだってあるかもしれないから」
「……そう、そうなんだ。どうすればいいんだろう」
 目に涙の膜が張った。そして、しどしどと流れ出した。
「あぁ、ごめんね。そんな、泣かせるつもりで言ったわけじゃないかったんだけど」
「いや、浅賀の言う通りで。むしろごめん、すぐ止めるから。あぁ、俺は、どうするのが正解なんだろう……」
 すると、今度は近藤が、幹央の肩に優しく手を置いた。
「千田君とその人とのことだから、僕らはとやかく言えた義理はないけれど――人と人との関わりに、正解なんてものはないよ」
「こんどぉ、追い打ちかけるのてやめたれよぉ」
 いつも間に砂浜に寝転がっていた山原が言う。近藤はビニール袋から取り出したミネラルウォーターを山原の側に置く。そして、何事もなかったかのように話し出した。
「このままでいるにしても、過去を清算するにしても、傷つくことに変わりはない。でもね、千田君」
「なん、ですか」
「人同士の関係に正解・不正解は無いけれど、いつまでも悩んでいられる猶予というのも、どこにも無いんだよ」
 近藤のいつもの優しい微笑みが、どんな怒りの形相よりも幹央の心に痛みをもたらした。
 「人間はそれぞれ感じ方、考え方が違う。そして、何かを決断するタイミングも、人それぞれ。彼が千田君の決断を、いつまでも待ってくれるという保証はないだよ。千田君から聞いただけだから彼の詳しいことはわからないけれど、相当な気分屋で、本当の心の内は隠すタイプな気がするな。勝手な見解で申し訳ないけど、決断は早い方がいい。多分、彼は――――」
 近藤は何かを言う前に口をつぐむ。そして、またにこりと微笑む。今度の微笑みは、年相応でも大人っぽいとも言い難い、絶妙な温かさを持っていた。
「えっ、彼がなに? なんなの近藤くん」
「こんろお、なんとかいへよ……」
「何でもないよ。もう、山原もぐったりしてるし、そろそろ戻ろうか。千田君、もう一方の肩持ってくれない?」
 誤魔化すように近藤は立ち上がる。幹央も立ち上がり、山原と近藤の側に駆け寄る。
 すると、近藤は幹央の耳に口を近づける。
「幽霊って成仏できないと、恐怖の対象としてずっと独りぼっちで、この世をさまよい続けることになるんだ」
「えっ、……なんでそれを俺に?」
「あっ、なんか話してる! 近藤くん、やっぱ何かあるんでしょー」
 浅賀の声が海に響く。山原は、もはや意味を成していない言葉で浅賀に加勢する。
 近藤はやれやれといった面持ちで近藤を担ぎ出した。幹央も慌ててもう片方の山原の肩を担ぐ。
 
 帰路の会話はもうひっちゃかめっちゃかで、みな考えなしに口から言葉が出る。
 千鳥足での移動。やっと宿が見えてきた。そこで幹央は、まだ言っていないのことがあることに気がつき、急に立ち止まった。
 「あの、話聞いてくれて、相談のってくれて、ほんとにありがとう」
 思えば、面白くもない自分語りだ。改めて考えると、恥ずかしいことこの上ない。幹央は深く頭を下げた。
 すると、頭上の3人は笑った。幹央は顔を上げた。
 「気にすんらって。噂のソイツほろの深い関係じゃねえかもしねえけど。気軽に相談できるような、いい意味で軽い友達も必要だろ?」
 ぐでぐでな山原の言葉に呆れたような表情を浮かべながら、浅賀と近藤も頷く。
 あぁ、本当に良い縁に恵まれた。幹央は心からそう思った。
 それと同時に、一つの確かな決心がついた。
 まずは、話をしよう。怖気づいて、お互いのことを知ろうとしなければ、何も始まらない。俺達には時間が無い。
 

 決心はついていた。
 あの時のこと、そして今のこと。お互い、包み隠さず話さないかと開口一番に持ちかけるつもりで、幹央は自室の扉を開けた。
 しかし、誰もいない。一人暮らしの男の汚い部屋があるだけだった。
 幹央の身体に一気に汗が滲む。これは、部屋にこもった熱気のせいではない。
 
 『幽霊って成仏できないと、恐怖の対象としてずっと独りぼっちで、この世をさまよい続けることになるんだ』
 
 近藤の言葉が鮮明に思い出される。幹央は獣ような唸り声をあげて、自分の髪を激しく掻きむしった。