「やめ」
しゃがれた声が道場に響く。それを合図に、竹刀がぶつかり合う音がピタリと止んだ。
「1時まで各自休憩」
「「はい」」
土曜日恒例、8時から17時までのスパルタ稽古。まだ午後の部も残しているというのに、幹央を含め大半の部員は、すでに息も絶え絶えである。しかし、みな礼儀を重んじる顧問・宮澤の逆鱗に触れるのを恐れ、ここぞとばかりに声を張り上げ返事をした。
「日高、お前はすこし残れ」
残心を終え、みな防具を外し出したところで、颯ただ一人が呼び止められる。
道場全体の視線が一斉に颯の方へ向く。颯はすでに面を外しており、頭に巻いていた手拭いに手をかけているところだった。
「……なんすか」
一切不満を隠そうとしていない声色。ただこれは、通常運転である。
「なんださっきのやる気のない気合いは、ちゃんと声を出しなさい。来週から選抜の練習会もあるんだぞ。うちの代表として行く自覚を持ってだな」
「オレ、別に代表したいとか一言も言ってないんで。勘違いしないでもらってもいいですか」
「お前、なんだその口の聞き方は。そもそもお前は年長者に対する礼儀というものが――」
幾度となく聞かされたやり合い。どっちかが身を引けばいいものを、毎度同じ熱量で争う。お互いよく飽きないなと、幹央は関心の域に達していた。
「適当に聞き流せばいいのになあ、アイツも」
隣に座っていた木下が、幹央に問いかけてくる。
「えっと、まあ……お陰で練習短くなることもあるし、いいんじゃないですかね」
「でも、宮澤先生むかつきすぎて、俺らにまで当たってくることあんじゃん。ありゃあ、勘弁だよな」
木下は外した小手下手袋をぷらぷらと揺らしながらそう呟いた。木下は一つ上の先輩であり、剣道部の部長である。それに、颯がいない時は一人になりがちな自分にも、積極的に話しかけてくれる実に気のいい人だ。だが、幹央は木下にすこし苦手意識を持っていた。
「はっ、はは……そりゃそうかもですね……」
「だろ? とばっちりだよ。いやあ、でも、羨ましい話だよ。俺があんな口聞いたら、あれ以上に怒られて、挙句は見限られて終わりそうだもの」
いかにも冗談のように言っているが、幹央にはいくらか本心が入っているように聞こえた。
颯が入部する前は、木下がこの剣道部で一番の実力者であったらしい。幼い頃から剣道を習っていたらしく、宮澤もよく目をかけていたそうだ。しかし、その座はいとも簡単に奪われた。そう、ただ「棒で人をしばきたいから」という理由で中学から剣道をはじめた颯によって。
勿論、部員の誰もが表立って木下を憐れんだりすることはない。木下本人も、颯に対してやっかむこともなければ、むしろ良き上級生として接している。ただ、わかってしまうのだ。言葉、表情、颯と対戦している時の気迫。そのどれもから、颯への嫉妬が隠しきれていない。
だから、幹央は彼が苦手だった。痛々しくて可哀想だと思うのに、結局自分は颯の味方をしてしまい、彼に寄り添うことはできないのだから。
「ミキ」
木下にかける言葉を模索していたところで、颯がこちらに近づいてくる。
「なんだよ」
「もう、まじムカつく。顧問だからって調子乗りやがって」
「お前の態度も悪いだろ」
「悪くねえよ、100であっちが悪い。はー、もう最悪。ミキ、もうサボろうぜ。久々にファミレスでも行くか」
隣から尋常でない圧を感じる。ちらりとを横を見る。張り付いたような笑顔の木下が、太ももに置いたこぶしをわなわなと震わせていた。
「日高~、それは流石に勘弁してくれよ。お前が抜けたらぬけたで、先生機嫌悪くなるんだから」
「オレ、アイツの機嫌とるために剣道してないんで」
「そんだけ期待してっるてことだから。なっ?」
「期待しろなんて頼んでないっすよ。オレんばっかに突っかかってきて。こんなやる気ない奴より、もっとやる気ある奴に時間取ればいいのに」
颯が言葉を発する度に木下のこぶしは激しく揺れ、袴に大きな皺を作っている。
「颯、あと部長も、こんな話してたら飯の時間なくなりますよ」
幹央は耐えきれず、声をあげた。それを聞いた颯は、いかにも不服そうに口を曲げた。
「時間もなにも、サボるっていってんじゃん」
「良いわけないだろ。ふてくされて、やることやらずに投げ出すとか、そんなの一番ダサい奴がすることだろ」
どういうわけだか、颯は「ダサい」という言葉に過敏だ。幹央の狙い通り、颯は「ダサい」に反応し、眉をひそめる。
すると、颯は観念したように幹央の隣に座り、防具を取り外しはじめた。
それを見ていた木下は、こっそり幹央に耳打ちする。
「あの猛獣、お前の言うことは聞くんだから、不思議もんだな」
そう言う木下は、愛想笑いでも怒りの形相でもなく、ただただ関心したような表情を浮かべていた。
中学生になってからこういうことを言われることが増えてきた。颯の誰にも屈しない態度、それを裏付ける能力の高さ、時を経るごとにどちらもより強固になっていく。そんな颯の進化を一番間近に見ているという自負が、幹央にはあった。だからこそ、颯の自分への接し方に、誰よりも疑問を抱いていた。
「おい、ミキ。グズだなさっさと外せ。オマエが飯の時間短くなるって言ってんだろ」
周囲を悩ます張本人は、そんなことつゆも知らないとでもいうように幹央に呼びかける。どうやら、幹央に言われるがままサボることを諦めたようだ。
「……グズは言いすぎだろ」
どしてお前みたいなすごい奴が、俺なんかをかまうんだよ。ここのところ、そんなことばかりを考えている。だからといいて、自分から颯を引き離すことはできない。だって、颯の友達でない自分に何の価値がある? ――――幹央は急いで胴紐を解いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――ぃ。おい。起きろ」
最近、学生時代の夢を見る。そして目が覚めると、馬乗りになった颯と目が合う。不服だが、それが毎日の日課になりつつあるのは否定できない。
馬乗りになって起こしくれるのが、かわいい彼女だったらどんなにいいものか。一瞬想像しかけたが、虚しくなるだけなのですぐに止める。幹央は腹部に乗る颯を振り落とし、身体から薄汚れた布団を引きはがした。
「なんで毎回馬乗りなんだよ。普通に起こしゃあいい話だろ」
「別いいだろ。起こしてやってんだから、どんなやり方だろうが感謝しろ」
魂のみの状態というのは、睡眠が必要ないらしい。颯が幹央の家にやって来てから早一週間、幹央が家にいる時間はどんな状況であっても颯は会話をしようとする。幹央は呆れつつも結局は話に乗っかってしまい、常に寝不足の状態になっている。
「お前がべらべら話すせいだろ……」
「オマエもノリノリだったじゃん。責任転嫁やめろ」
颯はぷかぷかと透明な身体を浮かばせている。幹央はその呑気な様が、心底羨ましかった。
聖地巡礼(といっても幹央は知らされていない)の後、颯は身体探しに幹央を誘ってこない。学期末の試験や課題に追われながらも、生活費を稼ぐためバイトの頻度を落すわけにもいかない幹央にとって、それはありがたい話だった。
しかし、身体探しをしなくては本末転倒。颯が自分の家にいる意味、そして自分といる意味がなくなってしまう。「これでは、あの頃のようにくだならない小競り合いをしているだけではないか」。そう思うのに、なんだかんだ会話に花が咲き、だらだらと二人の時間を過ごしてしまう。
正直に言えば、幹央はこの奇妙な状況を楽しんでしまっている。ただ、それを素直に認めことはできない。あくまで、振り回されているという立場でなければ、気恥ずかしいし、何より――ダメだ思った。崩壊してしまう気がする。何かが。
「お前、身体の方どうなの? 俺がいない間、ちゃんと探してんだろうな」
これもそんな意地から出た言葉だった。それを聞いた颯は、ピタリと宙で制止し、睨みを利かせてくる。ここ最近、子供のような笑顔ばかりを見ていたため、その凄みのある表情は新鮮で、恐ろしかった。
「そんなん、オマエなんかに言われなくてもちゃんとやってるわ。そもそもオマエが非協力的すぎるんだろうが」
「それはごめんって。でも、俺、お前と違って用事あるし……」
「オマエの大学とかバイトなんかより、突然身体なくなって、探さないといけないほうがよっぽど大事な用事だろうがよ。ここからの人生かかってんだぞ。この重大さがオマエにわかんのか?」
勝手に押しかけられて、理不尽に詰められているというのに、攻め返すことができない。長年の付き合いでしみ込んだ従順さが、再会してたった一週間程度で如実に表れだしている。
「それはごめんって。そろそろ本格的に夏休みに入るし、そうなったらちゃんと俺も手伝うから」
「いや、今日だな」
「今日?」
今日は、バイトは無いが、午前中に補講が一つ入っている。それも、講義の内容が最終試験なので、休むわけにはいかなかった。
「午後からならいけないなくはないけど……」
「だめだ」
「でも、俺大事な試験が」
「じゃあ、オレも着いてく」
そこにいる大多数が、今後の人生で関わることがない人間である東京の町ならまだマシだ。ただ、今の幹央にとってメインの居場所である大学に、『旧友の生き霊』という不可解な存在を連れ込み、まして会話なんかしてしまっては、現状維持はおろか、この先の生活にも悪影響が及んでしまう。それだけは絶対に避けなくてはならない。
「だっ、ダメに決まってんだろ」
幹央は声を張り上げて言った。すると、家賃相応の薄い壁越しから、強い拳の音が聞こえた。幹央は隣の部屋が強面の中年男性であるを思い出し、顔面が青ざめていく。だがそんな事では、颯の猛攻は止まらない。
「オマエが変に疑ってくるから、見せてやるって言ってんだ。なのになんだ、ダメって」
「そりゃ、生き霊連れてる同級生なんてやだろ、引かれるだろ」
「オマエのことなんて誰もそんなに見てねえよ。調子乗んなよ。それにその試験とやらが終わって、すぐ探しにいくほうが効率いいだろ? 案外大学にあるかもだしな」
誰もいない。その言葉が、やけに引っかかる。
お前と離れて大分時間が経った。俺にはもう、新しい俺の社会がある。そんな対抗意識が、幹央の中で静かに芽吹いた。
「わかった、いいよ。勝手に来ればいい。ただ、大学いる時は静かにしてろよ」
自棄になっていた。その自覚はあったが、芽吹きだした感情を抑えるのは、なによりも難しいことであった。
校門をくぐる。キャンパスはいつになく静かだ。
補講期間で大学に来ている人がそもそも少ないというのもあるが、現在が2限目がはじまるギリギリの時刻であるのが一番の理由であろう。
颯との小競り合いで時間を取られ、ようやっと玄関を出ると強面の隣人と出くわしてしまい、注意を促されたこともあり、到着時刻は予定していたよりも大幅にオーバーしている。今日も当然のように猛暑日で、そのなかを必死の形相で走っているのだから、服はすでに汗でひどく濡れていた。
幹央が慌てて小教室の扉を引くと、教室中の視線が集まる。
「……遅れてきた人、前の用紙取ってって。席は自由でいいから」
教員は素っ気なくそう呟くと、途中であったホワイトボードの板書の続きを書きだす。『持ち時間は60分』。まだ試験の説明段階らしく、幹央は安堵の息を吐いた。
「大学の先生って、随分素っ気ないのな。教壇に立たされて、みんなの前で説教されると思って楽しみにしてたのに」
颯は大きな瞳をギョロギョロと動かしながらそう煽るが、幹央は無視して空いた席を探す。最終試験というだけあって、出席率は初回のガイダンス並みだった。いつもは空席が目立つが、今日は所せましと人が座っている。
用紙を取り、困りながら歩いていると、ふいにTシャツの裾を掴まれる。視線を向けると、そこには笑顔の山原庄司がいた。
山原の隣は空席だった。この微笑みはそういうことだろう。幹央はありがたくその席に座らせてもらう。
「ギリギリだったな」
「いや、もうほんと……」
「鬼電したのに全然でないし。ワンチャン事故った? とか、心配したよ」
ジーパンのポケットからスマホを取り出すと、山原からの通知がいくつも表示されていた。
「すまん…… 慌てすぎてて、気づいてなかった」
「勘弁してくれよ。でも、ほんとに焦ってる時って、見る余裕ないよなあ」
話していたところ、突然視界に白い紙が現れる。
「もう答案配る段階なんだから、私語は厳禁。あと、スマホもしまいなさいよ」
二人は顔を見合わせ、すぐに口をつぐんだ。
「では、半年お疲れ様でした。機会があれば、別の講義でもよろしくお願いします」
教員はそう言って、足早に教室を後にした。教員が不在となった教室は、絶対落単だという悲嘆の声や、講義から解放されたという歓喜の声で溢れかえっている。
「いやあ、俺、マジでやばいかも。後半の記述とかほぼ白紙だったし。マジでどうしよう……」
隣の山原は青ざめた顔をしてそう言った。
「俺も似たようなもんだったよ」
「嘘だー。隣からめっちゃ書いてる音聞こえたぞ。裏切り者め」
「裏切り者って…… 別に、山原がサボりまくってたからだろ」
「あー聞こえない、聞こえない~。千田、気を付けろ。正論は時に人の心を傷つけるんだからな」
同学年で同じ学科。取る講義もほんど一緒で、サークルも同じ。幹央と山原は互いに、大学内で一番時間を過ごすことが多い人物だ。山原はノリが軽く、誰にでも明るく接する男である。幹央の良き友人であり、入学当初、人見知りを最大限に発動していた幹央にも、臆することなく話しかけくれた恩人でもあった。
和気あいあいと話している最中、背中から鋭い圧を感じた。そっと振り返ると、感情を読み取れない無の表情をした颯が、幹央と山原を見下していた。
「ヒッ」
思わす情けない声を零す。迫力のある凛々しい顔立ちの無表情とは、こんなにも恐ろしいのか。幹央は恐怖と同時に、感心を抱いた。
「どした急に。そんな、おばけでも見たみたいな声あげて」
あながち間違っているとは言い難い。それでも、旧友の生き霊の真顔の迫力に色んな意味で驚いたなんて言えるわけがない。
「いや、その、虫がいただけ」
「えっ、どこ?」
「あっ、えっと…… すぐ飛んでった」
「いなくね? そんな苦手なんだ、意外」と言いながら、山原はあたりを見渡す。勿論虫なんていない。例えいたとしても、幼少期から田畑で見慣れているのでこんなに怯えることはない。
「やっぱ見えねえな。まっ、いっか。千田は今からなんか予定あんの?」
「えっと――――」
いつもの調子で「ない」と言いかけて、口が止まる。相変わらず、背中には圧が集まったままだ。
「なんとな、めずらしく懐があったまってんよ」
「ああ、それはめずらしい」
すると、山原は親指と人指し指で丸を作り、にやりと笑う。
「最近妙に勘が冴えてるみたいでさ、お馬さんの調子いいんだよ。せっかくだし、昼飯おごるよ。ていっても、俺はまだ講義残ってるから学食だけど」
山原は気さくな良い奴だが、少々目先の欲に弱いところがある。物価高だ節制だというこの時代で、成人してすぐにギャンブル、酒、たばこを嗜みはじめたらしく、常に金欠だと笑いながら自虐している。だからといって、金をせびられることもなく、今日のようにギャンブルの調子がいいという日は、よく奢ってくれる。幹央が山原を咎めるなんて一度でもしたことがないし、むしろ積極的に甘い汁を吸わせていただいていた。
だが、今日は話が違う。自分は今すぐにでも、この何を考えているかわけらない生き霊の機嫌取りをしなくてはいけないのだ。
「ごめん、ありがたいけど今日は――――」
「別に、行けばいいじゃん」
と、颯は言った。冷え冷えとしたその言い方に幹央は怯み、言われるがまま山原の提案を受け入れた。
いつもの昼時は人で溢れかえっていている学生食堂も、時期が時期なだけに閑古鳥が鳴いている。
「ここがこんな空いてるのはじめて見たなあ。あっ、千田は何にする? 遠慮なく好きなの頼めよ」
そう言って、食券機の前にいる山原は、かつ丼と豚汁、そして手作りプリンのボタンを押す。以前一緒に来たときはたしか、「金がない」と一番安いかけうどんだけを頼んでいた。「両極端な奴だな」とか、軽口の一つでも言いたいところだが、背後からの圧力のせいで、幹央は下手に声が出せないでいた。
「えー、かけうどんだけ? そんな遠慮すんなって。からあげでも、ハンバーグでも、なんでもいいんだぞ。なんならデザートでもつけちゃえよ」
奢られるを喜ぶくせに、なんでもという言葉に全面的に甘えられえる程、幹央は面の皮が厚くなかった。そしてなにより、奢ってもらう山原には申し訳ないが、自分はさっさとこの時間を切り上げて、颯に向き合わなければならないと本気で考えていた。だから、すぐに食べ終えれるものを選ぶし、品数を増やすなんてもってのほかだった。
「いや、本当にかけうどんで大丈夫」。そう言う前に、幹央の人指し指が突然動きだした。指は勝手に、辛味噌チャーシュー麺とフライドチキン、そしてみかんゼリーのボタンを押した。
「おっ、いいじゃん」
「あっ、いや、これは違くて……」
「うっし、オッケー。さっ、取りにいこうぜ」
山原は食券を取って、さっさとレーンへと向かっていく。幹央は理解の及ばない現象に戸惑って、その場を動くことができない。ただ、理解の及ばない現象には、このところずっと出会っている。意を決して、幹央は頭上へ目を向けた。
相変わらず、人形のような無の表情だ。幹央は周囲を見渡す。周りに人がいないことを確認し終えると、意を決した。
「おい、お前なんかした?」
質問に応答はない。色のない唇は、貝のように閉じられている。
「なんとか言えよ」
「……うるせえな。したからなんなんだよ」
「はあ? どんな理屈で――」
「魂だけで飛んでる時点で理屈もクソもねえだろがよ」
その証明だとばかりに、透明な脚で頭を蹴られる。脚は頭を貫通するが、痛みはない。ただ、風が通ったような涼しさを感じた。
「まあいいわ。それより勝手なことすんのやめろ。図々しい奴だと思われるだろ」
「アイツ、何でもいいよって言ってたじゃん。ああいう奴はオマエみたいなのに奢って、『ああ、良いことをした。オレは良い人間だ』って思いたいだけ。ようは、善意の押し付けだ。そういう奴に遠慮する必要はねえ」
対抗意識が、幹央の全身へ勢いよく根を張っていく。
「お前、なんてこと言うんだ。なにも知らない癖に知ったような口聞くなよ」
「なんだよ、ミキの癖に。オレは親切で選んでやったんだ。ああいう奴と仲良くしてたいなら、変に遠慮なんかするより、薄っぺらな善意を満たしてやったほうがいいんだよ」
許しがたい物言いに、怒りが込みあがる。幹央が食堂であるのも忘れて声をあげようとしたところで、颯は面倒くさそうに顎を上げた。颯の視線の先には、不思議そうにこちらを見つめている山原がいた。
「待ってるみたいだぞ、行け」
「お前に言われなくても行くわ」
幹央は奪うように食券を取り、レーンに向かおうとする。しかし、いつもなら鬱陶しいくらい自分についてまわる颯が、ピクリとも食券機の前から動こうとしない。
「おい、どうしたんだよ? 早く来いよ」
「今、オレ、オマエの顔見たくない。食い終わるまで待っててやる。だから、さっさと行ってこい」
吐き捨てるような言葉に、破裂する限界まで込みあがっていたはずの怒りが、根を張っていた対抗意識が、急に尻すぼみになっていく。
どうして颯が朝からこんなにも機嫌が悪く、いつも以上にあたりが強いのか。そして、その理由にどれほど自分が関与しているのか、幹央はいまだにわからない。「怒りたいのこちらの方だ」いう、通常の人間らしい感覚も持ち合わせている――――はずだった。
しかし、今の幹央は、怒りも忘れて気が動転している。幹央はこれまで、颯に強くあたられたことは数えきれない程あったが、拒絶されるなんてことはただの一度だってなかった。
「顔も見たくない」――――たったそれだけの言葉が、死刑宣告のように幹央の心に鋭く突き刺さった。
「あっ。二人とも奇遇じゃん」
山原はかき込んでいた丼を置き、大きく手を振り出す。声を掛けられた二人はすぐに気がついたようで、こちらに向かってくる。
「なんだ二人も補講?」
近藤澄孝。学科は違うが、同学年のサークル仲間である。相変わらず、長袖のオックスフォードシャツを一番上のボタンまできっちり留めるという、季節感など無視をした出で立ちだ。それでいて変な奴という印象にはならず、涼しげで上品な雰囲気を醸し出しているものだから、山原なんかによく「イケメンとはつくづく羨ましいねえ」と、定番のようにいじられている。
「そうそう。さっき丁度終わったとこ」
「私達もさっき、終わったところだよ。それにしても、我らアニメーション映像研究会の2年生が、学食で集まるなんて珍しいね。これまでそんなことあったけ?」
浅賀由奈は尋ねる。常に朗らかな笑みを浮かべている浅賀は、幹央が上京して一番話をする異性である。
「千田、そうだっけか?」
「えっ、あっ…… 多分、ないんじゃないかな……」
一番とは言ったものの、出会ってから一年以上経っているというのに会話はぎこちない。ぎこちない原因は全て、幹央の人見知りな性質と、異性への免疫のなさによる。しかし、浅賀は、幹央を揶揄ったりすることはない。あくまで一人のサークル仲間、友人というように幹央に接してくれてる。幹央はその事実に心が浮ついてしまい、見事に恥を塗り重ねている。
「まったくなんで毎回こうなるかね」
「まあまあ」
山原と近藤の二人も、こんな調子の幹央を呆れながらもやさしく見守ってくれている。心地いい距離感だ。
自分はつくづく人の縁に恵まれている。幹央は三人と話している時、必ずといっていいほどそんなことを思う。しかし、今日はありがたみを感じるよよりも、どうすればこの会話を切り上げるか、という方向に思考の舵を取らざるを得なくなっている。
「あっ、そうだ。千田君、今年は夏合宿来てくれるんだってね」
近藤はそう言いながら、山原の隣に座る。どうやら、立ち話では終わらないようだ。幹央は落胆する。
四人掛けのテーブル。そうなると、必然的に残る椅子は幹央の隣のみ。浅賀は躊躇いなく冷やし中華を乗せた盆を、チャーシュー麺の隣に置き、すこしはにかんで席を引いた。いつもなら、心躍るその表情が、今日の今この時だけは悪魔のように見えた。
「去年の合宿からもう一年かー、早いねえ。合宿なんて名目だけど、結局遊んでばっかでね。先輩達なんて飲み会でどんちゃん騒ぎしすぎて宿の人に怒られてたし……。でもすっごく楽しかった。今年は千田くんも楽しんでくれるといいなあ」
「そうだんあ。あっ、てか、なんで去年来てなかったんっけ? バイト?」
「……まあ、そんなとこ」
完全な嘘ではない。たしかに、去年の幹央は、そこそこする合宿費用を払い、他人と交流することに躊躇いを感じていた。
ただ、今だって生活の状況は変わっていない。たかだか数日のバイトを休むことも、金のない幹央にとっては死活問題だ。それでも、後々の苦労を加味したとしても、関わり合いたいと思える関係が今ここで築けている。きっと、昔の自分が見たら、さぞ驚くべ変化だろう。幹央は誇らしく思っていたはずなのに、今はすっかり昔の関係に気を取られている。
和気あいあいと食事は進むなか、幹央はつっこまれない程度に急いで麺を啜っていた。かける言葉もまだ見つからないが、とにかく急がなければと、脳がひっきりなしに幹央へサインを送ってくるのだ。ただ、幹央はこの焦りで場の空気が乱れないよう、時折丼から目を離し三人に視線を向け、相槌を打った。山原と浅賀の二人は互いで向かい合っているのであまり視線が合わないが、正面の近藤とはいつもより目が合った。近藤の視線は、なぜだか自分を見透かすような鋭さを持っているような気がする。幹央は自分から仕掛けたのにも関わらず、近藤と目が合うとすぐに視線を外した。
「えっ、もうこんな時間。私これからバイトあるんだった」
「やっべ。俺も、一夜漬けすらやってねえから、最後に詰め込もうと思ってたの忘れてた」
「~っていう作品見た? ほんとうに作画が神がかってた」だの、「親愛なる〇〇監督の新作発表された。発表まで絶対に死ぬわけにいかない」だの、一番話を盛り上げていた山原と浅賀は、一気に箸のスピードを上げ、「それじゃあ、また」とその場を後にした。
タイミングを逃し、二人に便乗することができなかった幹央は、無料の麦茶を飲んでいる近藤と対峙している。
近藤と二人きりになるということは、いままでなかった。4人でいる時はどうということもないのに、先程の視線もあり、幹央は妙に緊張していた。
「あのさ、近藤。俺もちょっと、これからバイトがあって……」
沈黙に耐えきれず、幹央がそう切り出すと、近藤はプラスチックのコップを置いた。
「そっか。でも、少し気になることがあるんだ。ほんの一瞬だけいいかな?」
同じ歳とは思えないほど落ち着きはらった物言いは、颯とはまた別の種類の圧を感じる。幹央は立ち上がりかけた腰を、もう一度椅子に下ろした。
「僕の実家、寺だってこと、千田君にはもう話してたっけ?」
先の見えない問いに、幹央の警戒心が高まる。
「いや、聞いてない」
「島根にあるそれなりに由緒ただしい寺でね。でも規模はそこまで大きくないから、なにかある度に手伝いにかり出されて、ほとほと嫌気が差してね。三人兄弟の末っ子なのをいいことに、東京に飛び出してきたってわけなんだけど」
「あの、ごめん。さっきからなんの話? 悪いけど急いでるから」
立ち上がろうとすると、強引に腕を掴まれ、すぐさま席に戻される。
「ごめんね。でも、ここからが本題なんだ。うちの寺、厄除けの効果があるって一部では有名でね。霊に憑りつかれたとか、周りで霊障が、って相談に来る人がしょっちゅう来るし、そういう人話を真面目に聞いて必死になって祈願する親父の姿もよく見てきた」
霊という言葉に意表を突かれ、幹央の心臓はせかせかと脈を打ちだした。
「そういうのが当たり前の場所で住んでたからかな、信じてくれるかはわからないけれど、いわゆる人でないもの、もしくは人であったものを見たり、感じたっていう経験が普通の人より多いんだ」
そう言って、近藤はコップに向けていた視線を移し、真っすぐに幹央のことを見やる。
「千田君、僕は友人として君が心配だ。君、なかなか強烈なのに憑かれているよ」
近藤は、幹央がこれまで出会った人間の中でも上位に入る、真面目な奴だ。そんな人間が、こんな非現実的なことを話すとは到底思ってもみなかった。しかし、その視線は真剣そのもので、しかも話していることが大方合っているというのだから、幹央は唖然としてしまう。
「突然変な話をしてごめんね。でも、ほんとうに心配なんだ。真剣に相談の中でも、『やっぱり気のせいでした』なんてこともざらにあるよ。でも、やっぱり理屈じゃ説明できない症状に悩まされて、おかしくなってしまう人もいる。そういう人の周りには、往々にしておどろおどろしい何かがいる」
「その、つまり、俺の周りにもその何かがいるって、言いたいのか?」
「原因の根幹みたいものは……今のところ見えないね。でも、多分すぐ近くにいる。実態は掴めないけど、すごく強い気配みたいなのを感じる」
幹央には、ここで颯のことを打ち明けるという選択肢がたしかに存在する。そのほうがきっと、寝不足になることも、颯に振り回されることもなくなる。何より、これまでの日常に戻れる。
「でも、そんな――――ありえないよ。そんな非科学的な存在」
だが、咄嗟に出た判断は、『誤魔化す』であった。
近藤は一瞬、涼やかな目を見開いた。しかし、すぐに冷静な眼差しに切り替わる。
「ここ一週間くらいサークルがなくて会えてなかったけど、随分顔色が悪くなったね。体調とかも変に調子悪いんじゃない?」
「それが霊の仕業だって? 嫌だなあ、ただの寝不足だよ。バイトも多かったしね」
「千田君は一回ちゃんと鏡を見た方がいいよ。死相っていうか、いつあの世にいってもおかしくないって顔してる。多分山原も、千田君を心配してたから奢ったんじゃない?」
赤く濁ったラーメンの汁に浮かんだ、自分と目が合う。ぼんやりとしてわかりづらいが、たしかに尋常じゃないほど痩せこけている。
「夏で食欲がなかっただけよ。霊なんて、いるわけない」
すると近藤は、残り少ない麦茶を一気に飲み干す。そして、極めて冷静な口ぶりで言葉をつむぎだした。
「死んだら心も身体もそこで終わり、僕もきっとそれが普通なことだと思う。でもね、千田君。どうやら僕ら人間は、自分達が思うよりずっと往生際が悪いらしいんだ。死という道理も打ち破ってまで、果たしたいと思える執念。これを抱くことは、そんなに難しいことでないし、案外誰にだって起こりうる現象みたい」
「どういう意味?」
「執念というのは、大方の場合人同士の関わりから生まれる。僕らは一人で生まれることも、一人で生きることも、一人で死ぬこともできない。好きも嫌いも、行動の一つ一つにだって、どこかに他人の影響が及んでいる。僕らは他者がいてはじめて成立する脆弱な存在と言ってもいい。だから、僕らは互いに依存し合わずにはいられない。それでいて魂も身体も人によりけり。仏様や神様なんかからみたらひどく小さな違いだろうけどね。僕らは些細な違いから依存を望むのと同じくらい、他者を恨み、傷つけあう。他者がいないと自分でないのに、他者によって自分をすり減らす。まったく難儀なものだね。でも、だからこそ、死という生き物の暗黙の了解を超えることがある。」
死してなお断ち切ない執着。幹央は引っかかりを覚える。
「あのさ、俺はまだ幽霊とか信じれてないんだけど……」
「まあ、無理に信じることはないよ。けど、実害がでたり、もしなにか心当たりがあるなら、遠慮せず相談してよっていう、まあ忠告みたいなものかな。流石に県を跨いで僕の実家に来いとまでは言わないよ。ただこっちにも親父の知り合いはいるし、紹介したりはできるからね」
「お気遣いどうも……。あの、それでさ、一つ質問なんだけど」
「ああ、なにかな?」
「その幽霊ってさ、死んでる人限定のもの、なのか……? その、例えば生き霊とかさ」
絞り出した声は、ひどく震えていた。
「そうだね、たまに何かが嚙みあって、生きた人の魂が霊体になることはあるね」
「ある。そうか、そうだよな」
「ただ、千田君の顔とか、纏ってる雰囲気からして……多分相手は死んでる」
「死んで……」
「なんだろうな、言葉にするのは難しいんだけど、エネルギッシュじゃないというか……。やっぱり身体と魂って、一見別々なようで複雑に絡み合ってるみたいでね。生き物としての死、つまり身体の死を経験してもなお残っている『何か』っているのは、現実というフィルターを通して見ると、すごく異質なものとして映るんだ。千田君の側にいる霊は、はっきり異質だと言えるね」
つまり――――颯はもう死んでいる?
「――千田君。千田君、大丈夫かい?」
幹央の頭は一気に白で塗りつぶされ、近藤の呼びかけもまともに耳に入ってこない。
なにかに突き動かされたように、幹央は振り返る。
一見すると颯の姿が見えない。幹央の鼓動は尋常でないくらい早まった。
しかし、よく目を凝らすと、返却口と壁の隙間に隠れるようにして佇む颯を見つけた。
目が合う。様々な感情がない交ぜになり、今自分がどんな顔しているのかわからない幹央に対して、颯は安心したように笑い皺を作った。
しゃがれた声が道場に響く。それを合図に、竹刀がぶつかり合う音がピタリと止んだ。
「1時まで各自休憩」
「「はい」」
土曜日恒例、8時から17時までのスパルタ稽古。まだ午後の部も残しているというのに、幹央を含め大半の部員は、すでに息も絶え絶えである。しかし、みな礼儀を重んじる顧問・宮澤の逆鱗に触れるのを恐れ、ここぞとばかりに声を張り上げ返事をした。
「日高、お前はすこし残れ」
残心を終え、みな防具を外し出したところで、颯ただ一人が呼び止められる。
道場全体の視線が一斉に颯の方へ向く。颯はすでに面を外しており、頭に巻いていた手拭いに手をかけているところだった。
「……なんすか」
一切不満を隠そうとしていない声色。ただこれは、通常運転である。
「なんださっきのやる気のない気合いは、ちゃんと声を出しなさい。来週から選抜の練習会もあるんだぞ。うちの代表として行く自覚を持ってだな」
「オレ、別に代表したいとか一言も言ってないんで。勘違いしないでもらってもいいですか」
「お前、なんだその口の聞き方は。そもそもお前は年長者に対する礼儀というものが――」
幾度となく聞かされたやり合い。どっちかが身を引けばいいものを、毎度同じ熱量で争う。お互いよく飽きないなと、幹央は関心の域に達していた。
「適当に聞き流せばいいのになあ、アイツも」
隣に座っていた木下が、幹央に問いかけてくる。
「えっと、まあ……お陰で練習短くなることもあるし、いいんじゃないですかね」
「でも、宮澤先生むかつきすぎて、俺らにまで当たってくることあんじゃん。ありゃあ、勘弁だよな」
木下は外した小手下手袋をぷらぷらと揺らしながらそう呟いた。木下は一つ上の先輩であり、剣道部の部長である。それに、颯がいない時は一人になりがちな自分にも、積極的に話しかけてくれる実に気のいい人だ。だが、幹央は木下にすこし苦手意識を持っていた。
「はっ、はは……そりゃそうかもですね……」
「だろ? とばっちりだよ。いやあ、でも、羨ましい話だよ。俺があんな口聞いたら、あれ以上に怒られて、挙句は見限られて終わりそうだもの」
いかにも冗談のように言っているが、幹央にはいくらか本心が入っているように聞こえた。
颯が入部する前は、木下がこの剣道部で一番の実力者であったらしい。幼い頃から剣道を習っていたらしく、宮澤もよく目をかけていたそうだ。しかし、その座はいとも簡単に奪われた。そう、ただ「棒で人をしばきたいから」という理由で中学から剣道をはじめた颯によって。
勿論、部員の誰もが表立って木下を憐れんだりすることはない。木下本人も、颯に対してやっかむこともなければ、むしろ良き上級生として接している。ただ、わかってしまうのだ。言葉、表情、颯と対戦している時の気迫。そのどれもから、颯への嫉妬が隠しきれていない。
だから、幹央は彼が苦手だった。痛々しくて可哀想だと思うのに、結局自分は颯の味方をしてしまい、彼に寄り添うことはできないのだから。
「ミキ」
木下にかける言葉を模索していたところで、颯がこちらに近づいてくる。
「なんだよ」
「もう、まじムカつく。顧問だからって調子乗りやがって」
「お前の態度も悪いだろ」
「悪くねえよ、100であっちが悪い。はー、もう最悪。ミキ、もうサボろうぜ。久々にファミレスでも行くか」
隣から尋常でない圧を感じる。ちらりとを横を見る。張り付いたような笑顔の木下が、太ももに置いたこぶしをわなわなと震わせていた。
「日高~、それは流石に勘弁してくれよ。お前が抜けたらぬけたで、先生機嫌悪くなるんだから」
「オレ、アイツの機嫌とるために剣道してないんで」
「そんだけ期待してっるてことだから。なっ?」
「期待しろなんて頼んでないっすよ。オレんばっかに突っかかってきて。こんなやる気ない奴より、もっとやる気ある奴に時間取ればいいのに」
颯が言葉を発する度に木下のこぶしは激しく揺れ、袴に大きな皺を作っている。
「颯、あと部長も、こんな話してたら飯の時間なくなりますよ」
幹央は耐えきれず、声をあげた。それを聞いた颯は、いかにも不服そうに口を曲げた。
「時間もなにも、サボるっていってんじゃん」
「良いわけないだろ。ふてくされて、やることやらずに投げ出すとか、そんなの一番ダサい奴がすることだろ」
どういうわけだか、颯は「ダサい」という言葉に過敏だ。幹央の狙い通り、颯は「ダサい」に反応し、眉をひそめる。
すると、颯は観念したように幹央の隣に座り、防具を取り外しはじめた。
それを見ていた木下は、こっそり幹央に耳打ちする。
「あの猛獣、お前の言うことは聞くんだから、不思議もんだな」
そう言う木下は、愛想笑いでも怒りの形相でもなく、ただただ関心したような表情を浮かべていた。
中学生になってからこういうことを言われることが増えてきた。颯の誰にも屈しない態度、それを裏付ける能力の高さ、時を経るごとにどちらもより強固になっていく。そんな颯の進化を一番間近に見ているという自負が、幹央にはあった。だからこそ、颯の自分への接し方に、誰よりも疑問を抱いていた。
「おい、ミキ。グズだなさっさと外せ。オマエが飯の時間短くなるって言ってんだろ」
周囲を悩ます張本人は、そんなことつゆも知らないとでもいうように幹央に呼びかける。どうやら、幹央に言われるがままサボることを諦めたようだ。
「……グズは言いすぎだろ」
どしてお前みたいなすごい奴が、俺なんかをかまうんだよ。ここのところ、そんなことばかりを考えている。だからといいて、自分から颯を引き離すことはできない。だって、颯の友達でない自分に何の価値がある? ――――幹央は急いで胴紐を解いた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――ぃ。おい。起きろ」
最近、学生時代の夢を見る。そして目が覚めると、馬乗りになった颯と目が合う。不服だが、それが毎日の日課になりつつあるのは否定できない。
馬乗りになって起こしくれるのが、かわいい彼女だったらどんなにいいものか。一瞬想像しかけたが、虚しくなるだけなのですぐに止める。幹央は腹部に乗る颯を振り落とし、身体から薄汚れた布団を引きはがした。
「なんで毎回馬乗りなんだよ。普通に起こしゃあいい話だろ」
「別いいだろ。起こしてやってんだから、どんなやり方だろうが感謝しろ」
魂のみの状態というのは、睡眠が必要ないらしい。颯が幹央の家にやって来てから早一週間、幹央が家にいる時間はどんな状況であっても颯は会話をしようとする。幹央は呆れつつも結局は話に乗っかってしまい、常に寝不足の状態になっている。
「お前がべらべら話すせいだろ……」
「オマエもノリノリだったじゃん。責任転嫁やめろ」
颯はぷかぷかと透明な身体を浮かばせている。幹央はその呑気な様が、心底羨ましかった。
聖地巡礼(といっても幹央は知らされていない)の後、颯は身体探しに幹央を誘ってこない。学期末の試験や課題に追われながらも、生活費を稼ぐためバイトの頻度を落すわけにもいかない幹央にとって、それはありがたい話だった。
しかし、身体探しをしなくては本末転倒。颯が自分の家にいる意味、そして自分といる意味がなくなってしまう。「これでは、あの頃のようにくだならない小競り合いをしているだけではないか」。そう思うのに、なんだかんだ会話に花が咲き、だらだらと二人の時間を過ごしてしまう。
正直に言えば、幹央はこの奇妙な状況を楽しんでしまっている。ただ、それを素直に認めことはできない。あくまで、振り回されているという立場でなければ、気恥ずかしいし、何より――ダメだ思った。崩壊してしまう気がする。何かが。
「お前、身体の方どうなの? 俺がいない間、ちゃんと探してんだろうな」
これもそんな意地から出た言葉だった。それを聞いた颯は、ピタリと宙で制止し、睨みを利かせてくる。ここ最近、子供のような笑顔ばかりを見ていたため、その凄みのある表情は新鮮で、恐ろしかった。
「そんなん、オマエなんかに言われなくてもちゃんとやってるわ。そもそもオマエが非協力的すぎるんだろうが」
「それはごめんって。でも、俺、お前と違って用事あるし……」
「オマエの大学とかバイトなんかより、突然身体なくなって、探さないといけないほうがよっぽど大事な用事だろうがよ。ここからの人生かかってんだぞ。この重大さがオマエにわかんのか?」
勝手に押しかけられて、理不尽に詰められているというのに、攻め返すことができない。長年の付き合いでしみ込んだ従順さが、再会してたった一週間程度で如実に表れだしている。
「それはごめんって。そろそろ本格的に夏休みに入るし、そうなったらちゃんと俺も手伝うから」
「いや、今日だな」
「今日?」
今日は、バイトは無いが、午前中に補講が一つ入っている。それも、講義の内容が最終試験なので、休むわけにはいかなかった。
「午後からならいけないなくはないけど……」
「だめだ」
「でも、俺大事な試験が」
「じゃあ、オレも着いてく」
そこにいる大多数が、今後の人生で関わることがない人間である東京の町ならまだマシだ。ただ、今の幹央にとってメインの居場所である大学に、『旧友の生き霊』という不可解な存在を連れ込み、まして会話なんかしてしまっては、現状維持はおろか、この先の生活にも悪影響が及んでしまう。それだけは絶対に避けなくてはならない。
「だっ、ダメに決まってんだろ」
幹央は声を張り上げて言った。すると、家賃相応の薄い壁越しから、強い拳の音が聞こえた。幹央は隣の部屋が強面の中年男性であるを思い出し、顔面が青ざめていく。だがそんな事では、颯の猛攻は止まらない。
「オマエが変に疑ってくるから、見せてやるって言ってんだ。なのになんだ、ダメって」
「そりゃ、生き霊連れてる同級生なんてやだろ、引かれるだろ」
「オマエのことなんて誰もそんなに見てねえよ。調子乗んなよ。それにその試験とやらが終わって、すぐ探しにいくほうが効率いいだろ? 案外大学にあるかもだしな」
誰もいない。その言葉が、やけに引っかかる。
お前と離れて大分時間が経った。俺にはもう、新しい俺の社会がある。そんな対抗意識が、幹央の中で静かに芽吹いた。
「わかった、いいよ。勝手に来ればいい。ただ、大学いる時は静かにしてろよ」
自棄になっていた。その自覚はあったが、芽吹きだした感情を抑えるのは、なによりも難しいことであった。
校門をくぐる。キャンパスはいつになく静かだ。
補講期間で大学に来ている人がそもそも少ないというのもあるが、現在が2限目がはじまるギリギリの時刻であるのが一番の理由であろう。
颯との小競り合いで時間を取られ、ようやっと玄関を出ると強面の隣人と出くわしてしまい、注意を促されたこともあり、到着時刻は予定していたよりも大幅にオーバーしている。今日も当然のように猛暑日で、そのなかを必死の形相で走っているのだから、服はすでに汗でひどく濡れていた。
幹央が慌てて小教室の扉を引くと、教室中の視線が集まる。
「……遅れてきた人、前の用紙取ってって。席は自由でいいから」
教員は素っ気なくそう呟くと、途中であったホワイトボードの板書の続きを書きだす。『持ち時間は60分』。まだ試験の説明段階らしく、幹央は安堵の息を吐いた。
「大学の先生って、随分素っ気ないのな。教壇に立たされて、みんなの前で説教されると思って楽しみにしてたのに」
颯は大きな瞳をギョロギョロと動かしながらそう煽るが、幹央は無視して空いた席を探す。最終試験というだけあって、出席率は初回のガイダンス並みだった。いつもは空席が目立つが、今日は所せましと人が座っている。
用紙を取り、困りながら歩いていると、ふいにTシャツの裾を掴まれる。視線を向けると、そこには笑顔の山原庄司がいた。
山原の隣は空席だった。この微笑みはそういうことだろう。幹央はありがたくその席に座らせてもらう。
「ギリギリだったな」
「いや、もうほんと……」
「鬼電したのに全然でないし。ワンチャン事故った? とか、心配したよ」
ジーパンのポケットからスマホを取り出すと、山原からの通知がいくつも表示されていた。
「すまん…… 慌てすぎてて、気づいてなかった」
「勘弁してくれよ。でも、ほんとに焦ってる時って、見る余裕ないよなあ」
話していたところ、突然視界に白い紙が現れる。
「もう答案配る段階なんだから、私語は厳禁。あと、スマホもしまいなさいよ」
二人は顔を見合わせ、すぐに口をつぐんだ。
「では、半年お疲れ様でした。機会があれば、別の講義でもよろしくお願いします」
教員はそう言って、足早に教室を後にした。教員が不在となった教室は、絶対落単だという悲嘆の声や、講義から解放されたという歓喜の声で溢れかえっている。
「いやあ、俺、マジでやばいかも。後半の記述とかほぼ白紙だったし。マジでどうしよう……」
隣の山原は青ざめた顔をしてそう言った。
「俺も似たようなもんだったよ」
「嘘だー。隣からめっちゃ書いてる音聞こえたぞ。裏切り者め」
「裏切り者って…… 別に、山原がサボりまくってたからだろ」
「あー聞こえない、聞こえない~。千田、気を付けろ。正論は時に人の心を傷つけるんだからな」
同学年で同じ学科。取る講義もほんど一緒で、サークルも同じ。幹央と山原は互いに、大学内で一番時間を過ごすことが多い人物だ。山原はノリが軽く、誰にでも明るく接する男である。幹央の良き友人であり、入学当初、人見知りを最大限に発動していた幹央にも、臆することなく話しかけくれた恩人でもあった。
和気あいあいと話している最中、背中から鋭い圧を感じた。そっと振り返ると、感情を読み取れない無の表情をした颯が、幹央と山原を見下していた。
「ヒッ」
思わす情けない声を零す。迫力のある凛々しい顔立ちの無表情とは、こんなにも恐ろしいのか。幹央は恐怖と同時に、感心を抱いた。
「どした急に。そんな、おばけでも見たみたいな声あげて」
あながち間違っているとは言い難い。それでも、旧友の生き霊の真顔の迫力に色んな意味で驚いたなんて言えるわけがない。
「いや、その、虫がいただけ」
「えっ、どこ?」
「あっ、えっと…… すぐ飛んでった」
「いなくね? そんな苦手なんだ、意外」と言いながら、山原はあたりを見渡す。勿論虫なんていない。例えいたとしても、幼少期から田畑で見慣れているのでこんなに怯えることはない。
「やっぱ見えねえな。まっ、いっか。千田は今からなんか予定あんの?」
「えっと――――」
いつもの調子で「ない」と言いかけて、口が止まる。相変わらず、背中には圧が集まったままだ。
「なんとな、めずらしく懐があったまってんよ」
「ああ、それはめずらしい」
すると、山原は親指と人指し指で丸を作り、にやりと笑う。
「最近妙に勘が冴えてるみたいでさ、お馬さんの調子いいんだよ。せっかくだし、昼飯おごるよ。ていっても、俺はまだ講義残ってるから学食だけど」
山原は気さくな良い奴だが、少々目先の欲に弱いところがある。物価高だ節制だというこの時代で、成人してすぐにギャンブル、酒、たばこを嗜みはじめたらしく、常に金欠だと笑いながら自虐している。だからといって、金をせびられることもなく、今日のようにギャンブルの調子がいいという日は、よく奢ってくれる。幹央が山原を咎めるなんて一度でもしたことがないし、むしろ積極的に甘い汁を吸わせていただいていた。
だが、今日は話が違う。自分は今すぐにでも、この何を考えているかわけらない生き霊の機嫌取りをしなくてはいけないのだ。
「ごめん、ありがたいけど今日は――――」
「別に、行けばいいじゃん」
と、颯は言った。冷え冷えとしたその言い方に幹央は怯み、言われるがまま山原の提案を受け入れた。
いつもの昼時は人で溢れかえっていている学生食堂も、時期が時期なだけに閑古鳥が鳴いている。
「ここがこんな空いてるのはじめて見たなあ。あっ、千田は何にする? 遠慮なく好きなの頼めよ」
そう言って、食券機の前にいる山原は、かつ丼と豚汁、そして手作りプリンのボタンを押す。以前一緒に来たときはたしか、「金がない」と一番安いかけうどんだけを頼んでいた。「両極端な奴だな」とか、軽口の一つでも言いたいところだが、背後からの圧力のせいで、幹央は下手に声が出せないでいた。
「えー、かけうどんだけ? そんな遠慮すんなって。からあげでも、ハンバーグでも、なんでもいいんだぞ。なんならデザートでもつけちゃえよ」
奢られるを喜ぶくせに、なんでもという言葉に全面的に甘えられえる程、幹央は面の皮が厚くなかった。そしてなにより、奢ってもらう山原には申し訳ないが、自分はさっさとこの時間を切り上げて、颯に向き合わなければならないと本気で考えていた。だから、すぐに食べ終えれるものを選ぶし、品数を増やすなんてもってのほかだった。
「いや、本当にかけうどんで大丈夫」。そう言う前に、幹央の人指し指が突然動きだした。指は勝手に、辛味噌チャーシュー麺とフライドチキン、そしてみかんゼリーのボタンを押した。
「おっ、いいじゃん」
「あっ、いや、これは違くて……」
「うっし、オッケー。さっ、取りにいこうぜ」
山原は食券を取って、さっさとレーンへと向かっていく。幹央は理解の及ばない現象に戸惑って、その場を動くことができない。ただ、理解の及ばない現象には、このところずっと出会っている。意を決して、幹央は頭上へ目を向けた。
相変わらず、人形のような無の表情だ。幹央は周囲を見渡す。周りに人がいないことを確認し終えると、意を決した。
「おい、お前なんかした?」
質問に応答はない。色のない唇は、貝のように閉じられている。
「なんとか言えよ」
「……うるせえな。したからなんなんだよ」
「はあ? どんな理屈で――」
「魂だけで飛んでる時点で理屈もクソもねえだろがよ」
その証明だとばかりに、透明な脚で頭を蹴られる。脚は頭を貫通するが、痛みはない。ただ、風が通ったような涼しさを感じた。
「まあいいわ。それより勝手なことすんのやめろ。図々しい奴だと思われるだろ」
「アイツ、何でもいいよって言ってたじゃん。ああいう奴はオマエみたいなのに奢って、『ああ、良いことをした。オレは良い人間だ』って思いたいだけ。ようは、善意の押し付けだ。そういう奴に遠慮する必要はねえ」
対抗意識が、幹央の全身へ勢いよく根を張っていく。
「お前、なんてこと言うんだ。なにも知らない癖に知ったような口聞くなよ」
「なんだよ、ミキの癖に。オレは親切で選んでやったんだ。ああいう奴と仲良くしてたいなら、変に遠慮なんかするより、薄っぺらな善意を満たしてやったほうがいいんだよ」
許しがたい物言いに、怒りが込みあがる。幹央が食堂であるのも忘れて声をあげようとしたところで、颯は面倒くさそうに顎を上げた。颯の視線の先には、不思議そうにこちらを見つめている山原がいた。
「待ってるみたいだぞ、行け」
「お前に言われなくても行くわ」
幹央は奪うように食券を取り、レーンに向かおうとする。しかし、いつもなら鬱陶しいくらい自分についてまわる颯が、ピクリとも食券機の前から動こうとしない。
「おい、どうしたんだよ? 早く来いよ」
「今、オレ、オマエの顔見たくない。食い終わるまで待っててやる。だから、さっさと行ってこい」
吐き捨てるような言葉に、破裂する限界まで込みあがっていたはずの怒りが、根を張っていた対抗意識が、急に尻すぼみになっていく。
どうして颯が朝からこんなにも機嫌が悪く、いつも以上にあたりが強いのか。そして、その理由にどれほど自分が関与しているのか、幹央はいまだにわからない。「怒りたいのこちらの方だ」いう、通常の人間らしい感覚も持ち合わせている――――はずだった。
しかし、今の幹央は、怒りも忘れて気が動転している。幹央はこれまで、颯に強くあたられたことは数えきれない程あったが、拒絶されるなんてことはただの一度だってなかった。
「顔も見たくない」――――たったそれだけの言葉が、死刑宣告のように幹央の心に鋭く突き刺さった。
「あっ。二人とも奇遇じゃん」
山原はかき込んでいた丼を置き、大きく手を振り出す。声を掛けられた二人はすぐに気がついたようで、こちらに向かってくる。
「なんだ二人も補講?」
近藤澄孝。学科は違うが、同学年のサークル仲間である。相変わらず、長袖のオックスフォードシャツを一番上のボタンまできっちり留めるという、季節感など無視をした出で立ちだ。それでいて変な奴という印象にはならず、涼しげで上品な雰囲気を醸し出しているものだから、山原なんかによく「イケメンとはつくづく羨ましいねえ」と、定番のようにいじられている。
「そうそう。さっき丁度終わったとこ」
「私達もさっき、終わったところだよ。それにしても、我らアニメーション映像研究会の2年生が、学食で集まるなんて珍しいね。これまでそんなことあったけ?」
浅賀由奈は尋ねる。常に朗らかな笑みを浮かべている浅賀は、幹央が上京して一番話をする異性である。
「千田、そうだっけか?」
「えっ、あっ…… 多分、ないんじゃないかな……」
一番とは言ったものの、出会ってから一年以上経っているというのに会話はぎこちない。ぎこちない原因は全て、幹央の人見知りな性質と、異性への免疫のなさによる。しかし、浅賀は、幹央を揶揄ったりすることはない。あくまで一人のサークル仲間、友人というように幹央に接してくれてる。幹央はその事実に心が浮ついてしまい、見事に恥を塗り重ねている。
「まったくなんで毎回こうなるかね」
「まあまあ」
山原と近藤の二人も、こんな調子の幹央を呆れながらもやさしく見守ってくれている。心地いい距離感だ。
自分はつくづく人の縁に恵まれている。幹央は三人と話している時、必ずといっていいほどそんなことを思う。しかし、今日はありがたみを感じるよよりも、どうすればこの会話を切り上げるか、という方向に思考の舵を取らざるを得なくなっている。
「あっ、そうだ。千田君、今年は夏合宿来てくれるんだってね」
近藤はそう言いながら、山原の隣に座る。どうやら、立ち話では終わらないようだ。幹央は落胆する。
四人掛けのテーブル。そうなると、必然的に残る椅子は幹央の隣のみ。浅賀は躊躇いなく冷やし中華を乗せた盆を、チャーシュー麺の隣に置き、すこしはにかんで席を引いた。いつもなら、心躍るその表情が、今日の今この時だけは悪魔のように見えた。
「去年の合宿からもう一年かー、早いねえ。合宿なんて名目だけど、結局遊んでばっかでね。先輩達なんて飲み会でどんちゃん騒ぎしすぎて宿の人に怒られてたし……。でもすっごく楽しかった。今年は千田くんも楽しんでくれるといいなあ」
「そうだんあ。あっ、てか、なんで去年来てなかったんっけ? バイト?」
「……まあ、そんなとこ」
完全な嘘ではない。たしかに、去年の幹央は、そこそこする合宿費用を払い、他人と交流することに躊躇いを感じていた。
ただ、今だって生活の状況は変わっていない。たかだか数日のバイトを休むことも、金のない幹央にとっては死活問題だ。それでも、後々の苦労を加味したとしても、関わり合いたいと思える関係が今ここで築けている。きっと、昔の自分が見たら、さぞ驚くべ変化だろう。幹央は誇らしく思っていたはずなのに、今はすっかり昔の関係に気を取られている。
和気あいあいと食事は進むなか、幹央はつっこまれない程度に急いで麺を啜っていた。かける言葉もまだ見つからないが、とにかく急がなければと、脳がひっきりなしに幹央へサインを送ってくるのだ。ただ、幹央はこの焦りで場の空気が乱れないよう、時折丼から目を離し三人に視線を向け、相槌を打った。山原と浅賀の二人は互いで向かい合っているのであまり視線が合わないが、正面の近藤とはいつもより目が合った。近藤の視線は、なぜだか自分を見透かすような鋭さを持っているような気がする。幹央は自分から仕掛けたのにも関わらず、近藤と目が合うとすぐに視線を外した。
「えっ、もうこんな時間。私これからバイトあるんだった」
「やっべ。俺も、一夜漬けすらやってねえから、最後に詰め込もうと思ってたの忘れてた」
「~っていう作品見た? ほんとうに作画が神がかってた」だの、「親愛なる〇〇監督の新作発表された。発表まで絶対に死ぬわけにいかない」だの、一番話を盛り上げていた山原と浅賀は、一気に箸のスピードを上げ、「それじゃあ、また」とその場を後にした。
タイミングを逃し、二人に便乗することができなかった幹央は、無料の麦茶を飲んでいる近藤と対峙している。
近藤と二人きりになるということは、いままでなかった。4人でいる時はどうということもないのに、先程の視線もあり、幹央は妙に緊張していた。
「あのさ、近藤。俺もちょっと、これからバイトがあって……」
沈黙に耐えきれず、幹央がそう切り出すと、近藤はプラスチックのコップを置いた。
「そっか。でも、少し気になることがあるんだ。ほんの一瞬だけいいかな?」
同じ歳とは思えないほど落ち着きはらった物言いは、颯とはまた別の種類の圧を感じる。幹央は立ち上がりかけた腰を、もう一度椅子に下ろした。
「僕の実家、寺だってこと、千田君にはもう話してたっけ?」
先の見えない問いに、幹央の警戒心が高まる。
「いや、聞いてない」
「島根にあるそれなりに由緒ただしい寺でね。でも規模はそこまで大きくないから、なにかある度に手伝いにかり出されて、ほとほと嫌気が差してね。三人兄弟の末っ子なのをいいことに、東京に飛び出してきたってわけなんだけど」
「あの、ごめん。さっきからなんの話? 悪いけど急いでるから」
立ち上がろうとすると、強引に腕を掴まれ、すぐさま席に戻される。
「ごめんね。でも、ここからが本題なんだ。うちの寺、厄除けの効果があるって一部では有名でね。霊に憑りつかれたとか、周りで霊障が、って相談に来る人がしょっちゅう来るし、そういう人話を真面目に聞いて必死になって祈願する親父の姿もよく見てきた」
霊という言葉に意表を突かれ、幹央の心臓はせかせかと脈を打ちだした。
「そういうのが当たり前の場所で住んでたからかな、信じてくれるかはわからないけれど、いわゆる人でないもの、もしくは人であったものを見たり、感じたっていう経験が普通の人より多いんだ」
そう言って、近藤はコップに向けていた視線を移し、真っすぐに幹央のことを見やる。
「千田君、僕は友人として君が心配だ。君、なかなか強烈なのに憑かれているよ」
近藤は、幹央がこれまで出会った人間の中でも上位に入る、真面目な奴だ。そんな人間が、こんな非現実的なことを話すとは到底思ってもみなかった。しかし、その視線は真剣そのもので、しかも話していることが大方合っているというのだから、幹央は唖然としてしまう。
「突然変な話をしてごめんね。でも、ほんとうに心配なんだ。真剣に相談の中でも、『やっぱり気のせいでした』なんてこともざらにあるよ。でも、やっぱり理屈じゃ説明できない症状に悩まされて、おかしくなってしまう人もいる。そういう人の周りには、往々にしておどろおどろしい何かがいる」
「その、つまり、俺の周りにもその何かがいるって、言いたいのか?」
「原因の根幹みたいものは……今のところ見えないね。でも、多分すぐ近くにいる。実態は掴めないけど、すごく強い気配みたいなのを感じる」
幹央には、ここで颯のことを打ち明けるという選択肢がたしかに存在する。そのほうがきっと、寝不足になることも、颯に振り回されることもなくなる。何より、これまでの日常に戻れる。
「でも、そんな――――ありえないよ。そんな非科学的な存在」
だが、咄嗟に出た判断は、『誤魔化す』であった。
近藤は一瞬、涼やかな目を見開いた。しかし、すぐに冷静な眼差しに切り替わる。
「ここ一週間くらいサークルがなくて会えてなかったけど、随分顔色が悪くなったね。体調とかも変に調子悪いんじゃない?」
「それが霊の仕業だって? 嫌だなあ、ただの寝不足だよ。バイトも多かったしね」
「千田君は一回ちゃんと鏡を見た方がいいよ。死相っていうか、いつあの世にいってもおかしくないって顔してる。多分山原も、千田君を心配してたから奢ったんじゃない?」
赤く濁ったラーメンの汁に浮かんだ、自分と目が合う。ぼんやりとしてわかりづらいが、たしかに尋常じゃないほど痩せこけている。
「夏で食欲がなかっただけよ。霊なんて、いるわけない」
すると近藤は、残り少ない麦茶を一気に飲み干す。そして、極めて冷静な口ぶりで言葉をつむぎだした。
「死んだら心も身体もそこで終わり、僕もきっとそれが普通なことだと思う。でもね、千田君。どうやら僕ら人間は、自分達が思うよりずっと往生際が悪いらしいんだ。死という道理も打ち破ってまで、果たしたいと思える執念。これを抱くことは、そんなに難しいことでないし、案外誰にだって起こりうる現象みたい」
「どういう意味?」
「執念というのは、大方の場合人同士の関わりから生まれる。僕らは一人で生まれることも、一人で生きることも、一人で死ぬこともできない。好きも嫌いも、行動の一つ一つにだって、どこかに他人の影響が及んでいる。僕らは他者がいてはじめて成立する脆弱な存在と言ってもいい。だから、僕らは互いに依存し合わずにはいられない。それでいて魂も身体も人によりけり。仏様や神様なんかからみたらひどく小さな違いだろうけどね。僕らは些細な違いから依存を望むのと同じくらい、他者を恨み、傷つけあう。他者がいないと自分でないのに、他者によって自分をすり減らす。まったく難儀なものだね。でも、だからこそ、死という生き物の暗黙の了解を超えることがある。」
死してなお断ち切ない執着。幹央は引っかかりを覚える。
「あのさ、俺はまだ幽霊とか信じれてないんだけど……」
「まあ、無理に信じることはないよ。けど、実害がでたり、もしなにか心当たりがあるなら、遠慮せず相談してよっていう、まあ忠告みたいなものかな。流石に県を跨いで僕の実家に来いとまでは言わないよ。ただこっちにも親父の知り合いはいるし、紹介したりはできるからね」
「お気遣いどうも……。あの、それでさ、一つ質問なんだけど」
「ああ、なにかな?」
「その幽霊ってさ、死んでる人限定のもの、なのか……? その、例えば生き霊とかさ」
絞り出した声は、ひどく震えていた。
「そうだね、たまに何かが嚙みあって、生きた人の魂が霊体になることはあるね」
「ある。そうか、そうだよな」
「ただ、千田君の顔とか、纏ってる雰囲気からして……多分相手は死んでる」
「死んで……」
「なんだろうな、言葉にするのは難しいんだけど、エネルギッシュじゃないというか……。やっぱり身体と魂って、一見別々なようで複雑に絡み合ってるみたいでね。生き物としての死、つまり身体の死を経験してもなお残っている『何か』っているのは、現実というフィルターを通して見ると、すごく異質なものとして映るんだ。千田君の側にいる霊は、はっきり異質だと言えるね」
つまり――――颯はもう死んでいる?
「――千田君。千田君、大丈夫かい?」
幹央の頭は一気に白で塗りつぶされ、近藤の呼びかけもまともに耳に入ってこない。
なにかに突き動かされたように、幹央は振り返る。
一見すると颯の姿が見えない。幹央の鼓動は尋常でないくらい早まった。
しかし、よく目を凝らすと、返却口と壁の隙間に隠れるようにして佇む颯を見つけた。
目が合う。様々な感情がない交ぜになり、今自分がどんな顔しているのかわからない幹央に対して、颯は安心したように笑い皺を作った。
