水流の先にあるものは

 痛いわけではない。
 しかし、千田幹央の腹部のあたりには、経験したことのない違和感が生じていた。無視して寝ようとしても、一向に不慣れな感覚は止まず、無理やり夢から現実へと意識が引き戻されていく。
 土曜日に講義を入れる程勤勉ではないし、珍しく引っ越し屋のバイトも入っていない。久々の丸一日の休日だというのに充分な睡眠さえ与えてくれないのかと、幹央は何かしらの神を恨んだ。
 必死に目を閉じるが、違和感は続く。しまいには、違和感は右に左にゆさゆさと移動をはじめた。
「勘弁してくれよ……」
 呟きながら目を開く。――そして、目が合った。
「やっと、起きたか。相変わらずグズだな、ミキは」
 獣を思わせる鋭く大きな瞳。東北訛りが混じった辛辣な物言い。幹央はそれらを知っていた。違和感の正体は、自分に馬乗りになっている男は、――まぎれもなく日高颯であった。
「はっ? お前、なんでここに?」
 幹央は困惑した。幹央は一人暮らしである。今日この家に誰かを呼んだ覚えなどなく、まして地元の中学で卒業して以来、連絡すら取っていなかった男など、迎え入れるはずがなかった。それに加えて、いやそれ以上に、幹央には困惑する理由があった。
「おっ、お前、なんか透けてない?」
 颯であることは認識できる。着ている服が季節外れの厚手のパーカーであることも、シルエットから推察できる。ただ、その身体は色褪せており、身体越しから乱雑な部屋の風景が映し出されている。
「まさか、お前、ゆっ、」
「言っとくけど、幽霊じゃないからな」
 図星を突かれる感覚に、ひどく懐かしさを感じた。しかし、懐かしさに浸っている状況ではない。
「じゃっ、じゃあ、一体なんなんだよ」
「オレは死んでない。でも、身体と魂は別々になってる。まあ、生き霊ってやつだな」
 そんなの非科学的だ。アニメやマンガじゃあるまいし。どこからともなく現実主義者な幹央が顔を覗かせるが、覗いたところでどうにかする手立てなどない。
「……あのさ」
「なに?」
「聞きたいことだらけなんだけど、まずはここから退いてくれ」
 颯は幹央の言葉に応えるように、大きな瞳を細め、目尻に何本も皺を作って笑った。昔は毎日のように見ていた笑顔だ。関係を断って以来、いや幹央が一方的に逃げ出して以来、久々に見るそれは、記憶よりもずっと幼い。そう感じた瞬間、胸に奇妙なざわめきが生じた。
 
 上京が決まり部屋を選んでいた頃は、幹央も自分の部屋を都会らしいオシャレにしようと意気込んでいたものだ。しかし、このワンルームに越してから早1年と半年。家具にかける金もなければ、友人を呼ぶ機会もない。ましていい感じになった異性を家に呼ぶなんてこと、夢のまた夢であった。
 見せる人がいない部屋を着飾ってもしょうがない。当初の意気込みはとうに塵となり、すっかり部屋の隅に追いやられている。
 安さだけが取り柄の家具と、捨て忘れたゴミが散乱した自分だけの空間に、小学校からの付き合いである男がいるというのは、幹央にとって不思議な感覚だった。
「随分汚ねえ部屋だな」
 颯はそう言って、空き缶や消しカスが散らばったテーブルに肘をつき、部屋を見渡した。肉食動物が獲物を探すような視線の動きに耐えきれず、向かいに座っていた幹央は大きくため息をついた。
「男の一人暮らしなんてこんなもんだろ」
「実家の部屋はそこそこ綺麗だったじゃん」
「あれは、お母さ……お袋が定期的に片付けてくれてたから」
 右端にある冷蔵庫に向けられていた視線は突然、真正面にいる幹央を捉えた。
「ふーん……」
 含んだような相槌に幹央の警戒心が高まる。颯は幹央のどんなに小さな隙も捕まえて、ここぞとばかりにイジってくるような奴だ。そのめざとさといったら、どんな大御所司会者も苦笑いを浮かべるほどだろうと、あの頃の幹央はよく思っていた。
「あっそ。それよりなに? 聞きたいことって」
 幹央はてっきり、「お母さん呼びもクソダセえけど、この歳になってまで母親の呼び方気にしてるのが何よりダセえな」とでも言われるのかと身構えていた。予想外のそっけない返しに呆気にとられて、口が思うように動かない。そんな幹央を見て、颯はゆるりと口角を上げ、またあの顔をした。
「鯉かてめえは。口ぱくぱくさせてるだけじゃわからん。ちゃんと腹から声出せ、そしてさっさとしろ」
「なんで押しかけてきたお前が上からなんだよ……」
 口では対等に返すが、頭の中はなんと言って質問するべきか、大慌てで回りだしている。
 颯の声は不思議だ。立派な喉仏を持った青年にしては、高い響きをしている。ただ、発せられる言葉には得も言われぬ圧がある。久々の再会であってもそれは顕在で、自分はそれに逆らえないのも変わらない。
 実に情けないことだ。そう思うのと同時に、胸のざわめきがなぜだかすこし落ち着いた。
「聞きたいことってそりゃ、なんでお前、俺の家知ってるの? そもそもなんで俺の前に現れた? てか、生き霊ってなに? それに――――」
「急にべらべら喋んな。オマエのくっせえ唾がかかんだろ」
「お前が聞けっていたんだろ」
 幹央は語気を強めてそう言った。颯はそれを嘲るようにふんっと顎を上げ、冷たい視線を送った。その視線は、幹央の記憶よりも大分低い位置から送られている。しかし、その低さを加味しても、人を見下すという動作の貫禄は失われておらず、むしろ以前より堂に入っているようにも見えた。
「まあ、今言った質問には答えてやる。まず、さっきも言ったが、オレは死んでない。つまり、幽霊ではない」
「じゃあ、何なんだよ。大分幽霊の見た目してるぞ」
「たしかに透けてるしな。だが、オレには生きた身体が残ってる。ただ、考えたり、話したりするオレは今ここにいる。ようは『魂』みたいなものと身体が分かれてる状態ってこと。それが生き霊って言った意味」
 言葉としては理解できる。ただ、それを現実として受け入れることは難しい。やっぱり、これは幻覚か、あるいはまだ夢の中にいるのか。思えばこのところ、学業とバイトに明け暮れて、まとまった休息を取れていなかった。そうだきっと、疲労が溜まっておかしくなっているだけなのだと、幹央は目頭を抑え強く目をつぶりながら、そう自分に言い聞かせた。
「おいグズ、なにぼーっとしてんだ。オレが話してやってんだから、ちゃんと聞けや」
 颯は凛々しい太眉を吊り上げながら言い放つ。幻覚であれ、夢であれ、颯がいるというこの現状に変わりはなく、今ここで幹央が颯と関わりを断つという選択肢は残されていないようだった。
「はいはい、すいませんね」
「はい、は一回。適当に返事すんな」
「……はい」
 わかればよろしいとでも言うように、颯は腕を組み頷く。腕を動かした拍子に捲れた袖から、華奢な手首が覗く。はたして学ランから覗く手首は、こんなに細かっただろうか。幹央のなかで小さな疑問が浮かんだが、昔もそんなものだったと自分に言い聞かせ、目の前の本題に意識を向きなおした。
「お前が生き霊なのは、まあ、とりあえずわかったってことにしとく。それで、なんで魂のお前がここにいるんだよ。俺、なんも関係ないだろ」
「……魂だけになるとな、疲れるとかないし、壁とかすり抜けられるしで、どんなとこにでも行けるんだよ」
 芯を食わない返答に、幹央の頭にはクエスチョンマークが次々と浮かびあがる。
「オマエも考えたことあるだろ? 透明人間になったらどこ行きたいかって。それが、この魂だけの姿ならできるってわけ。あっ、ちなみにオマエならどこいくの」
「えっ、まあそりゃあ、よくあるのは、そりゃ女風呂とか更衣室とかだけど……」
「きっしょ、すけべ脳が」
「よく言われてるのがそうって話で、別に俺の意見じゃねえよ…… そういうお前はどこいったんだよ」
「まあ、そういうとこだな」
「すけべはお前じゃねえか」
 それを聞いた颯はケラケラと笑う。幹央はそんな颯を見て、自分を突然摩訶不思議な事件に巻き込んでおいて、なんて無神経で緊張感のない奴だと呆れた。
 すると、颯は一通り面白がって満足したのか、急に何を考えているかわからない真顔に切り替える。その表情の落差に、幹央の背筋は自然と伸びた。
「寝てたら突然、身体と魂が分裂するようになった。ビビってたのは最初だけで、自分の意志で身体と魂に行き来はできるってわかったら、むしろ楽しむようになってた。でも、何回も繰り返していくうちに癖になっちまったのか、起きててもたまに分裂しそうなるし、今自分の身体と魂がどの状態なのかわかんなくなってボーとすることが増えた。――で、ある時目が覚めたら、魂のオレだけ。目が覚めた場所もどうやって来たかおぼえてないし、なんとか家に戻っても身体はなかった。どこにあるか見当もつかない」
 奇想天外なことを話す最中でも、颯が幹央から視線を外すことはない。そして視線はそのままに、颯はテーブルに身を乗り出し、透明な手で幹央のTシャツの襟ぐりを掴んだ。顔と顔の距離が近づく。
「オレ一人で探しても埒が明かない。だから協力者がいると思って、片っ端から知り合いに声掛けた。けど、誰もオレに気づきやしねえ…… 彷徨って、彷徨って、やっと見える、聞こえる、話せる奴がみつかった。だから、ミキ、手伝え」
 手伝えといわれても、人数が一人増えたところで、この広い世界の中で手掛かりもなしにたった一人分の身体を探すなんて不可能に近い。もちろん、幹央もそれをわかっていたし、協力したとしても自分になんの得もないことはすぐに理解できた。
 それでも、幹央は、自分が颯の要望を聞き入れる未来が容易に想像できた。
 颯は傲慢で、人を揶揄っては笑う人間だ。お世辞にも性格が良いとは言えないし、そんな奴と一緒にいても心が休まることは一度だってなかった。ただ、颯と向き合う時に沸き上がる感情は、怒りとか苛立ちとかそんな単純な言葉では表せない。いや、それらもたしかにあるのだが、なにかもっと強大で強烈なものに、感情が突き動かされる。幹央には、その衝動の実態を掴めないでいた。しかし、それは絶対的な強制力を持って、幹央に前に立ちはだかり、いともたやすく幹央の意思を支配しようとする。
「チッ、なんで俺がお前のなんかのために無償で働かなくちゃいけないんだよ……」
 それでも、幹央は力を振り絞り、不可解な衝動に抗おうとする。しかし、目の前に座る小さな男は、オマエの抵抗など無価値だと言わんばかりに、余裕そうな表情を浮かべる。
「オレ知ってるよ。そういうこと言いつつ、オマエは結局オレの言うことを聞く。あの頃もずっとそうだった。そうだろ、ミキ?」
 たったこれだけのことで、幹央の必死の抵抗は簡単に崩壊へと追い込まれる。
 ああ、神様、なぜ今更私とこの男を引き合わせたのでしょうか。幹央は苦虫を嚙み締めたような表情を浮かべながら、諦めたように首を縦にふった。
「なんだその顔、ひっでえなあ。顔でも洗ってこい。したら、さっさと探しにいくぞ」
 数年越しの激しい衝動。でも、狼狽えているのは自分だけ。そんな状況にため息を零しながら、幹央は洗面台へ向かった。
 
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 幼い頃の幹央は、よく一人で家の近くの用水路を眺めにいった。別に、用水路が特別好きだったわけではない。ただ、その頃の幹央は、そうするしか自分の孤独を誤魔化すすべを知らなかった。
 潜水士であった幹央の父は、幹央の物心がつく前に海の中で命を落した。残された母は、幹央を育てるために朝から晩まで働いていた。幹央の母は底抜けに優しく、健気な人である。この素晴らしい人が自分をなかなかかまってくれないのは、冷たいからではなく自分のためであるということを、幹央はすぐに理解した。一人でいる時間が長いのも、仕方がないことだと受け入れた。だからこそ、幹央は一人でいることに慣れ過ぎてしまっていた。
 一人でいることに慣れた弊害が現れたのは、小学校に入学してからだった。
 小学一年生は未熟であれ、人である。人同士が集まれば、自然と社会が形成される。社会に属すということは、交流を余儀なくされるということである。そして、社会の中でどのように他者と関わるかによって、自分というものがより重層的、より多面的に確立されていく。
 この時の幹央には、わざわざ人と交流するという意味がまるで理解できなかった。だから、幹央は進んで人と関わろうとはしなかった。はじめのうちは、それでもよかった。しかし、次第に社会を形成する人物達の能力や価値観の差が色濃く現れだし、それに伴って社会の形も鮮明になっていくと、幹央の意志は揺らぎだした。
 あの人はすごい、アイツはダサい。あの人に好かれている自分はすごい、アイツと関わると自分までダサいと思われる。
 特別秀でたものがあるわけではなく、人に好感を持ってもらえるような行動などしてこなかった幹央は、クラスの中でアイツ側であった。勿論、幹央以外にもアイツ側の人間はいた。しかし、アイツらのなかにもアイツらだけの小規模な社会があったし、そこからも外れた孤高のアイツにも、趣味や特技いった特別な「自分だけの世界」があった。
 しかし、幹央にはそれもない。貧しさゆえ、無意識的に好きなことや、やりたいことをみつけるのを避けていた。母はそれを度々心配し、「お金のことなんて気にしないで」と、幹央にやさしく語りかけた。だが、母の痩せこけ、深い隈が刻まれた顔を見ると、幹央は口をつぐんでしまうのだった。
 周囲の人たちには、社会がある、自分だけの世界がある。自分は社会に属しているはずなのに、一人であり、熱中できるものもない。その事実が、幹央の胸にじわりじわりと突き刺さり、傷を深めていく。しかし、今更「一人は寂しい」と感じたところで、人との交流の仕方なんてわからない。それに、あまりに一人でいる時間が長かったため、幹央は一人であるということに、安心感そしてある種のアイデンティティを見出してしまっていた。
 いくら人とつながりたいと思っても、自分自身を否定される可能性を想像してしまうと、強い拒絶反応を起こしてしまう。だから、幹央は用水路に向かった。一刻も早く学校という社会から抜け出し、母もやることもない家で孤独から逃げるために。
 幹央の家は、この地域の中でも地価の安い地区にあるボロアパートである。大きな川の近くに流れ、山、そして田畑に囲まれたその地区には、幹央と同じくらいの年頃の子供が少なく、一人で過ごすには適していた。だからといって、時間を潰すための店や公園があるわけではない。
 そこで幹央が見つけた暇つぶしが、用水路の観察であった。用水路の水は、時期や天候によって大きく変化する。絶えまなく姿を変える水の動きを注意深く見ていると、自然と寂しさが薄れ、不安で押しつぶされそうな心が幾分かマシになった。
 母は夫を失った悲しみからか、海やプールなどなるべく幹央を水から遠ざけているふしがあった。それを幹央も漫然と受け入れていたが、放課後は母の目も無いし、暇は暇なので致しかたないと、用水路の観察をはじめ、ついにはひっそりとした習慣になっていた。
 
 5年生の夏休み最終日。夏休みとはいえ、相変わらず幹央は一人ぼっちで、多くの時間を用水路を見ることに費やしていた。5月から8月にかけて、農業用水の確保や降水量の多さによって用水路の水位は上がる。しかし、稲の収穫が終わると、水は引かれ、台風や大雨が降らない限り用水路は空っぽになってしまう。幹央は、また学校が始まることや、心の拠り所がもうそろそろ枯れしまうということに、どうしようもない不安を感じていた。
 その日の用水路の様子は、昨晩の雨の影響でひどく荒々しかった。今にも溢れだしそうな大量の水が、激しくしぶきをあげながら我先にと駆けていく。幹央は水がない時期でも水の流れを思い出せるように、この様子をしっかり焼き付けおこうと、うずくまり一心不乱に水の流れをみつめていた。
「なぁ」
 激しい水の音に混じって、聞き覚えのない子供の声が聞こえた。だが、幹央はどうせ自分への呼びかけではないだろうとその声を無視した。
「なあ、つってんだろ」
 声は幹央の頭上にまで近づいた。声色もはじめより刺々しさを増している。その声が自分に向けられたものだとわかると、幹央は急いで顔をあげた。そこには見知らぬ自分と同じくらいの少年がいた。
「あの……えっと、その」
 元来の人見知りという性質と、ただてさて夏休みで母以外と会話するのが久々であったため、幹央はうまく言葉が発せない。少年はそんな幹央をただジッと見つめてくる。瞳の鋭さに気圧されて、幹央は額からたらりと冷えた汗を垂らした。
「えっと、なっ、なんですか?」
「そこ、なんかあんの?」
 少年はそう言いながら、さらに距離を詰め、幹央の真横に腰を下ろした。膝と膝がぶつかりそうな距離から見る少年の顔は、一つ一つのパーツの主張が強く、クラスメイトの誰とも違う、特別な圧があるように幹央は感じた。
「なんもねえじゃん」
「あっ、はい…… ただ、見てた、だけです……」
 少年は再び、幹央を見つめる。品定めされているようで、落ち着かない。そして品定めであるのなら、自分はきっと見限られるか、手酷く扱われるかの二択であろうと、幹央は自分を守るために先に自分を傷つけた。――傷つけたその瞬間だった。
 少年は突然、用水路の中に片足を突っ込む。
 この時期は用水路による水難事故が特に多い。加えて、去年の今頃、関東の方で用水路からバラバラの死体が見つかったという物騒な事件があり、全国的なニュースとなっていた。犯人は捕まったようだが、いまだに多くの人々の記憶に用水路と死体が結びつているようで、夏休み前の学年集会でも『用水路には近づくな、入るな』と例年よりもきつく警告されていた。
 幹央は『近づくな』という忠告を破っている自覚はあった。それでも、だからこそ、自分から激しい水の中に入ろうとは考えたことがなかった。
 少年は片足をつけると、躊躇いなくもう一方の足を水に入れる。日に焼けたカモシカのような足は、すでに水の流れに持っていかれそうになっているというのに、少年は腰を持ち上げようとする。
「まって!」
 幹央はとっさに少年の肩に手を置く。久しぶりに出した大声は、ひどく掠れていた。少年は一瞬目を大きく見開くが、すぐに鋭い目に戻った。
「うるせえな。突然なんなの」
「あっ、あの。ここ、事故多い、です……から、やめたほうが、いっです……」
 人の行動を止めるなんてしたことがなかった幹央は、段々と自信がなくなり、声がか細くなっていく。やがては、口から言葉が出ず、パクパクと開閉させるだけになった。
「……ふふっ、ふははは」
 突然少年は笑いだす。どこに笑う要素があったのか幹央には見当がつかず、ただツボに入った少年をしばらく見つめるしかなかった。
「なんだよその口。鯉みてえじゃん」
「こい……」
「それに、ははっ。声もガタガタだし、そのくせめっちゃ力強いし」
 そう言われて、幹央はまだ少年の肩に手を置いていたことに気がつき、すぐにそれをどける。
 その動きも気に入ったのか、少年はさらに目を細める。笑い皺の寄った顔。自分がこの顔を引き出している。
「なあ、オマエ、名前なんていうの?」
 人かから名前を聞かれた。この人は自分に興味がある――――。
「みきお、千田幹央、です……」
「みきお……うん、ミキでいいな。オレは日高颯。颯でよろしく」
 あだ名なんてはじめてつけられた。この時の幹央は、一方的に互いの呼び方を決められているというのに不満は一切抱かず、喜びで胸がいっぱいだった。
「なあ、ミキ。ここは入っちゃいけないんだろ? 見てるだけなんてのも退屈だしさ、オレんち来いよ。いいもん見せてやる」
 その瞬間、大きな風が吹いた。水面は激しく揺れうごく。揺れる度、水は陽射しを集めては散らすを繰り返し、輝きを主張する。
「ほら、さっさと来いよ。置いてくぞ」
 ついさっきまでの幹央だったら、興味深い動きを見せる水を、そのまま眺めていただろう。しかし、今の幹央は水の動きよりも、自分から遠ざかっていく背中を追う方が優先すべき事柄になっていた。それだけ、日高颯という存在に、惹きこまれたのだ。
「まっ、待って」
 これが、幹央と颯の出会いだった。
 二学期からの転校生であった颯は、幹央と同じクラスになった。颯は持ち前の物怖じしない態度ですぐにクラスに馴染んだ。しかし、颯は、幹央がクラスでどんな立場であるかも把握したうえで、何かにつけて「ミキ」と呼んだ。
 
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 7月に入ったばかりだというのに、猛暑日が続いている。
 二人の地元である宮城の田舎町は、東北のなかでは比較的暖かい地域であったが、東京の純粋な気温の高さとまとわりつくような蒸し暑さには到底及ばない。それでも、東京は田舎とは違い、クーラーの効いた入りやすい店が多いという救いがある。しかし、ふわふわと浮かびながら先導する颯は、その状態ゆえか、それとも嫌がらせのためか、頑なに路上の道を選んで歩みを進めている。
 足を踏みしめる度に、全身から汗が吹き出す。とめどなく流れる汗は、ファストファッションブランドで買ったTシャツの脆弱な吸水性では、到底抑えきれない。Tシャツにはアクション映画の金字塔とも言える作品のワンシーンがプリントされている。しかし、歴史的な名シーンは、幹央の汗染みのせいでまったくの台無しになっている。
「おい、颯。ヒッ、ふう……これ、どこ向かってんだよ……」
「それ聞くの何回目だよ、根性ねえな。そんな遠くねえから心配すんな」
 たしかに家を出てからそこまでの距離は歩いていない。ただ、あまりの暑さに流れる時間は長く感じる。幹央は、汗など無縁な身体、というより魂だけという不可思議な形状が今はただただ羨ましいかった。
「てか、そんなに暑いの?」
「俺の惨状見ればわかるだろ。景色も陽炎でめちゃくちゃ歪んでるし」
「でも、あっちも夏はそこそこ暑いじゃん。そんなに違う?」
「比にならんよ。……てか、その口ぶり、オマエこれまでずっとあっちにいたのか?」
 なんとなく、そうだとしたら意外だと思った。小学、中学の同級生らに「俺と颯、将来どっちが都会に行きそう?」と聞いて回ったら、きっと大半は颯の方を選ぶだろう。颯は小柄という侮られる要素があるのにも関わらず、優れた運動神経、凛々しい顔立ち、そしてなにより見ていて気持ちがいい程の自信家ぶりは、上に立つ者としての魅力を燦燦と放っており、どのクラスの一員になったとしても自然とスクールカーストの頂点へと押し上げられていた。それゆえ、慕われるだけでなく、恨まれることも多かったようだが、それはなにより颯が上に立つ者であるという説得力を強めていた。幹央は颯の隣に並ぶことが多く、いわゆる一軍の奴らとも絡むこと機会も少なくなかったが、単体で見れば相変わらず「アイツ側」であった。
 そんな調子だったので、きっと当時クラスのどのヒエラルキーに属していた奴でも、「日高颯にこんな田舎は似合わない。きっと都会に行って、なにかしらの成功を収めるはずだ」と言うだろう。幹央は疑うことなくそう思っていた。
「……まあな。お前さては、都会だから良いとか、田舎にいるのがダサいとか思ってんだろ。言っとくけど、どんなとこにいてもすごい奴はすごいし、ダサい奴はダサい。環境を変えたからって、人の根っこみたいなのは変わらない。オマエがまさにそれだ」
「誰がダサ坊だよ」
 図星である。だが、幹央は、颯の言い分もいかにも田舎へのコンプレックスを拗らせ、遂には開き直った田舎者という感じがした。颯という人間の口からあまりそういう言葉を聞きたくなかったなと、幹央はひどく勝手な失望を覚えた。
 しばらく歩くと、黄緑色の屋根のスーパーが見えた。幹央の家から遠いわけではないが、足を運んだ覚えはない。でも、どこかで見たことがあるような気がする。幹央がそんなことを考えていると、颯は突然立ち止まり、そのスーパーをジッと見つめ出した。
「なに? なんかあんの」
「いや、オレの身体あるかなって」
「ここに?」
 パッと見たところ、何の変哲もないスーパーである。まして、ずっと地元を出ていないという颯にとっては、縁もゆかりもない場所であろう。
「スーパーにあるかよ、魂抜きの身体単品が。それに、三鷹のスーパーだぞ。絶対オマエに関係ないだろ」
「なんか感じたんだけどなあ、オレのオーラ的なやる」
「なんだよそれ」
「でも、勘違いそうだし。さっさと次行くぞ」
 ある可能性は極めて低そうだが、素通りというのもなんだか落ち着かない。それでも、颯は外装じっくりと見ながら、歩みを進める。記憶がない、手掛かりがないというわりにその足、というより魂は、進むことに躊躇いがない。まるで、もう行先が決まっているみたいだなと、幹央は思った。
 そう思ったが、幹央の身体は「流石に限界だ」「身体を冷やし水分を取れ」と警鐘を鳴らし、思考を溶かす。足がついていかない。
「……なあ、一応中も確認しておけよ。万が一、あったら勿体ないだろ」
 そういうと、颯はくるりと振り返る。
「そんなこと言って、オマエが休みたいだけだろ。やっぱり根性なしだ」
 やっぱり図星である。そして、陽炎や疲労でぼやける視界に映った揶揄うような笑顔は無邪気そのもので、否定しようにもガキ臭くという印象を拭えない。
「……もう、根性なしでいいよ。だから、入らせてください。お願いします」
「しょうがねーな。いいよミキ」
 笑い皺がより一層深く刻まれる。
 そんな顔見せんなよ。――口から無意識に言葉が零れた。幹央は慌てて口を押さえ、颯の動向をうかがう。颯はすでにスーパーへと動き出しており、幹央の言葉に反応することはなかった。それを確認すると、安堵から身体が脱力した。
 
 スーパーは元より、休むための施設ではない。
 それはわかっているのだが、それにしたって幹央は羽を休めることができなかった。颯は、飲み物や軽食を物色している幹央にくだらない質問を投げつけては、反応を見てけらけらと笑っていた。幹央もはじめのうちはそれに一つ一つ馬鹿正直応えていた。しかし、他の客から白い目で見られたのに気がつくと、すぐにそこにあった飲み物を手に取り会計を済ませ、足早に灼熱へと戻っていった。
 スーパーを出た後は、電車でお台場、渋谷とTHE・観光地といったところへ連れまわされた。しかし、颯はスーパーの時のように特定の建物に関心を示すことはなく、普通の観光客のように人混みの中をただ揺蕩っていた。ただでさえ、透明な身体だ。少しでも目を離したら見失ってしまいそうで、幹央は常に神経を尖らせてなければならなかった。
 どうしようもない暑さ、人からの視線、経験したことのない集中。その全てが、疲労という形で幹央の身体に重くのしかかった。
「さっきから拗ねてんの? オレのこと無視すんなって」
「……」
「おい。メニューばっか見てねえで、なんとか言えよ」
 渋谷の町を彷徨っていると、颯は急に「ここにはねえわ。帰ろう」と言い出した。それは、体力の身体の限界を感じていた幹央にとって、願ったり叶ったりの申し出だった。だが、最寄り駅まであと一駅というところで、颯は突然「降りるぞ」とすたすたドアの方に向かいだした。反発するのも面倒臭く、幹央はそれに従った。
 しかし、幹央は改札口を出ると、ふと自分が朝からまとも食事をしていなかったことを思い出した。猛烈な空腹に襲われた幹央は、必死の形相で颯に空腹を訴え、近くにあったファミレスに半ば無理やり入店した。
「もういいわ。じゃあ、オレにもメニューみせろよ」
「……お前、見ても意味ねえじゃん」
 そう言うと、颯はただ黙って幹央を凝視する。
「わかったよ。わかったから、その目やめてくれ」
 丁度幹央がそう言ったところで、店員が通りすがった。店員は一瞬大きく目を見開き、そして一瞬で幹央から目を逸らした。ああ、また異常者だと思われた。朝から幾度となく受けてきた反応だったが、幹央は毎度律儀に気を落す。
「あっ、オマエ頼むのこれじゃない? これだろ、絶対そうだ」
 こちらの苦労など知らない颯は、メニューを指さす。指の先には『復刻! スパイシーチキンジャンバラヤ』と書かれていた。
「いや別に……特別好きってわけじゃねーし。つーか食ったことねえよ、ジャンバラヤ」
 一通りメニューは見ていたが、別段ジャンバラヤに惹かれることはなかった。それなのに、向かいに座る颯は、自信満々といった様子で何度もジャンバラヤに指を突き刺している。
「いや、オマエ昔食いたがってたよ。あれだ、たしか中一の夏休みの時。ほら、夏休みの時か、外部からジジイ来てたじゃん。そいつめっちゃ厳しくて、『やってられっか』てさ。二人して昼休憩の途中で抜け出して、ファミレス行ったことあったろ」
 思い返せば、たしかにそんなこともあった。
 中学時代、幹央は、「合法的に人を棒で殴れるなんて最高じゃね?」と颯に言われるがまま、剣道部に入部した。礼節の欠片もない動機の奴と、ソイツにのこのこついてきた奴。そんな二人が気軽に入るにしては、彼らの母校の剣道部はいささか強豪校すぎた。
 普段の練習は、現役の剣士である体育教師に今時では珍しい程厳しく指導され、長期休みの時はいかにも剣豪といった風貌の老人に、朝から晩までしごかれた。
 帰り道散々二人で部活の愚痴を言い合ったものだが、練習中二人で抜け出したというのは、たしか一回きりの出来事であり、幹央は今の今まで忘れていた。
「たしかに…… あったな、そんなこと」
「そう、そんで、あん時のオマエ、ファミレスとか来たことなかったじゃん? すっげえはしゃいでて、メニューとかもめっちゃ悩んでただろ。それで、めっちゃ時間かけた末、『なんか響きがかっこいいから』とか言ってジャンバラヤ選んでさ。でも注文したら『すいません。チキン品切れでなんです~』って言われて。それで、ふふっ、オマエそん時全然気にしてないって顔しながら慌てて「あ、大丈夫っす。全然わかってるんで」って意味わからんこと言ってさ、店員のお姉さんにめちゃくちゃカッコつけてたよな」
 そう言って、颯は今日一番の笑い声をあげる。甲高く、弾けるようなその声に、幹央は胸のざわめきをも通り越して、誇らしいさを感じてしまった。
「……どんだけ笑ってんだよ。多分、そんなにカッコつけてなかったろ」
「いーや、してたね。だからさ、今日はリベンジだな。せっかく復刻したらしいしさ」
 邪気一つない笑顔。どうしてここまで何年も前の自分の失敗を事細かに覚えているのか、何故ここまで新鮮に面白がれるのか、幹央は不思議でたまらない。それなのに、どうしてか心が満たされる。忘れられていないことが、好かれることが、必要とされることが、こんなにも嬉しいとは。幹央にとってそれは、しばらくに忘れていた感覚だった。
「……あっそ、じゃあそれでいいわ」
「おう、頼め頼め。じゃあ、オレはラーメンな」
「お前食えないんだろ。てか、ファミレス来てまでラーメンって」
「いいだろ、ラーメンで。そこにあったら、何よりも優先されるべき食いもんなんだから」
 肩肘を張らないくだらない会話の応酬に、幹央は本当に学生時代に戻ったかのような錯覚に陥った。
 そして、幹央は意気揚々とジャンバラヤを頼んだ。しかしジャンバラヤは、あの日のように品切れであった。

「いやあ、まさか二回連続空振りとは。オマエって、つくづくついてないよな」
「お前、売り切れって聞いた時笑いすぎだろ。それで焦って、また店員に白い目で見られたじゃねえか」
「責任転嫁はよくねえぞ。オマエが不運でダサいだけだ」
 幹央は結局、ミックスグリルとポテトを選び、欲望のまま腹に収めた。腹は十分に満たされたのだが、空っぽの胃袋に突然、強烈な塩味と油を入れたので、横腹のあたりがきりきりと悲鳴をあげている。
「腹きつっ…… もう、早く帰らせてくれよ」
「だらしねえなあ。ほら、そこだそこ」
 何の変哲もないビルである。入り口である左側の階段は開けているが、右側の入り口はシャッターで閉じられている。
 「いやまあ、普通のビルだな」
 そう言うと、颯は眉をひそめる。しかし、怒っているというよりは、すねているような雰囲気だ。
 「えっ、なに? なんかマズいこと言った?」
 「シャッター締まってるからわかりづらいけど。よく見ろ、思い出せ」
 思い出せと言わても。幹央は目をこすり、もう一度じっくりビルを見る。二つの入り口。もしこのシャッターが空いていたとしたら――――
 「あっ、もしかして」
 そう、颯に出会った日。用水路を離れた後、颯の家にいった。用水路からほど近く、耳の遠い祖母がいるだけの家屋で、二人はある映画を観た。それは、カルト的な人気を誇る、日本のSFアニメ映画だった。心躍るサイバーパンクの世界観、超能力と世界の崩壊というテーマ、そしてなにより映像の緻密さ。その衝撃は、好きなものを作らないようにと閉じ籠っていた幹央の心の殻を、木っ端みじんに打ち砕いた。
「あれだろ、あの冒頭で店長が入ってくるシーンの……」
「そう、正解。やっと思い出したか」
 思い返せばそうだ。たしかあのスーパーも、ファンの間で爆発シーンの爆心地だと噂されている場所で、お台場や渋谷も作中で度々街並みが描かれていた。
「いやそうじゃん。てか、なに? なんでお前、聖地巡礼楽しんでんの?」
「楽しんでねえよ。ただオーラがある方行ってたら、たまたまそうなっただけだよ」
 絶対嘘だ。だったあんなに淀みなく歩いたりしない。――そう考えると、急に自分の察しが悪さが申し訳なくなってくる。
「にしても、オマエ全然気づかなかったな。映画のTシャツ着てるし、家に大量にスケッチブックあって色々描いてたから、すぐにわかると思ってた」
「えっ、おまっ、いつの間に。てか、見たのか、あれ?」
 スケッチブックの中身。それすなわち、当時颯にも隠していた、誰にも否定されたくない自分だけの世界。
「うん。オマエが起きる前、せっかくだと思って色々漁ったら、みっけた」
「なんだよそれ、プライバシーの侵害すぎるだろ……」
 幹央は思わず、膝を折って頭を抱える。
 あの映画を観た時から、幹央は漠然とアニメーションの世界に憧れを抱くようになった。そして、憧れを具現化するため絵を描きだすのに、それほど時間は掛からなかった。
 颯と出会ったことで、新たな自分の世界も見つかった。それは幹央という人間にとって、とても喜ばしいことであった。でも、だからこそ、誰にもなにより颯には、自分の世界を否定されたくないと思った。もしも絵を描いていることがばれて、それを馬鹿にされたら……考えるだけでも恐ろしい。そうなってしまったら、それこそ自分だけの世界に一生閉じこもるしかなくなってしまう。そんなこと、人と関わる楽しさを知ってしまった幹央には、耐えられるはずがなかった。
「おい起きろ、他の人の邪魔だろ」
 幹央の前に透明な手が伸びてくる。幹央は恐る恐る、立ち上がる。
「ほら帰るぞ」
「お前の家じゃないだろ」
「なんだよ、オマエオレを野放しにするつもりか?」
「……はいはい。しませんよ」
 ため息を吐く。それを見た颯は突然、浮かんでいた足を床に付け、そのまま跳ねるように走りだす。
「急になんだよ。待てって」
 羽が生えたような軽い足取りは、すぐに幹央との距離を遠ざけていく。追いつかなければ。幹央の足は自然と動きだす。
 まとわりつく暑さを振り払うように走る。安いサンダルは何度も脱げそうになる。相変わらず人の視線も痛い。
 それでも走った。颯との距離は、手を伸ばせばすぐそこ、というとこまで来た。すると、ふと、颯の速度が緩まる。
「悪くないよ、オマエの絵。もっと見してよ。設定とかもさ、帰ったら色々聞きたい」
 そう言う颯の顔は見えない。それでも、秘密をこっそり打ち明けるような声色に、幹央のあの頃から続いていた不安がいとも簡単に晴れていく。
「……まあ、しょうがねえから、いいよ」
「言ったな。恥ずかしがんなよ」
 二人は合図も無しに、同時に速度をあげる。
 何年来かの二人の夜は、まだはじまったばかりのようだ。
 痛いわけではない。
 しかし、千田幹央の腹部のあたりには、経験したことのない違和感が生じていた。無視して寝ようとしても、一向に不慣れな感覚は止まず、無理やり夢から現実へと意識が引き戻されていく。
 土曜日に講義を入れる程勤勉ではないし、珍しく引っ越し屋のバイトも入っていない。久々の丸一日の休日だというのに充分な睡眠さえ与えてくれないのかと、幹央は何かしらの神を恨んだ。
 必死に目を閉じるが、違和感は続く。しまいには、違和感は右に左にゆさゆさと移動をはじめた。
「勘弁してくれよ……」
 呟きながら目を開く。――そして、目が合った。
「やっと、起きたか。相変わらずグズだな、ミキは」
 獣を思わせる鋭く大きな瞳。東北訛りが混じった辛辣な物言い。幹央はそれらを知っていた。違和感の正体は、自分に馬乗りになっている男は、――まぎれもなく日高颯であった。
「はっ? お前、なんでここに?」
 幹央は困惑した。幹央は一人暮らしである。今日この家に誰かを呼んだ覚えなどなく、まして地元の中学で卒業して以来、連絡すら取っていなかった男など、迎え入れるはずがなかった。それに加えて、いやそれ以上に、幹央には困惑する理由があった。
「おっ、お前、なんか透けてない?」
 颯であることは認識できる。着ている服が季節外れの厚手のパーカーであることも、シルエットから推察できる。ただ、その身体は色褪せており、身体越しから乱雑な部屋の風景が映し出されている。
「まさか、お前、ゆっ、」
「言っとくけど、幽霊じゃないからな」
 図星を突かれる感覚に、ひどく懐かしさを感じた。しかし、懐かしさに浸っている状況ではない。
「じゃっ、じゃあ、一体なんなんだよ」
「オレは死んでない。でも、身体と魂は別々になってる。まあ、生き霊ってやつだな」
 そんなの非科学的だ。アニメやマンガじゃあるまいし。どこからともなく現実主義者な幹央が顔を覗かせるが、覗いたところでどうにかする手立てなどない。
「……あのさ」
「なに?」
「聞きたいことだらけなんだけど、まずはここから退いてくれ」
 颯は幹央の言葉に応えるように、大きな瞳を細め、目尻に何本も皺を作って笑った。昔は毎日のように見ていた笑顔だ。関係を断って以来、いや幹央が一方的に逃げ出して以来、久々に見るそれは、記憶よりもずっと幼い。そう感じた瞬間、胸に奇妙なざわめきが生じた。
 
 上京が決まり部屋を選んでいた頃は、幹央も自分の部屋を都会らしいオシャレにしようと意気込んでいたものだ。しかし、このワンルームに越してから早1年と半年。家具にかける金もなければ、友人を呼ぶ機会もない。ましていい感じになった異性を家に呼ぶなんてこと、夢のまた夢であった。
 見せる人がいない部屋を着飾ってもしょうがない。当初の意気込みはとうに塵となり、すっかり部屋の隅に追いやられている。
 安さだけが取り柄の家具と、捨て忘れたゴミが散乱した自分だけの空間に、小学校からの付き合いである男がいるというのは、幹央にとって不思議な感覚だった。
「随分汚ねえ部屋だな」
 颯はそう言って、空き缶や消しカスが散らばったテーブルに肘をつき、部屋を見渡した。肉食動物が獲物を探すような視線の動きに耐えきれず、向かいに座っていた幹央は大きくため息をついた。
「男の一人暮らしなんてこんなもんだろ」
「実家の部屋はそこそこ綺麗だったじゃん」
「あれは、お母さ……お袋が定期的に片付けてくれてたから」
 右端にある冷蔵庫に向けられていた視線は突然、真正面にいる幹央を捉えた。
「ふーん……」
 含んだような相槌に幹央の警戒心が高まる。颯は幹央のどんなに小さな隙も捕まえて、ここぞとばかりにイジってくるような奴だ。そのめざとさといったら、どんな大御所司会者も苦笑いを浮かべるほどだろうと、あの頃の幹央はよく思っていた。
「あっそ。それよりなに? 聞きたいことって」
 幹央はてっきり、「お母さん呼びもクソダセえけど、この歳になってまで母親の呼び方気にしてるのが何よりダセえな」とでも言われるのかと身構えていた。予想外のそっけない返しに呆気にとられて、口が思うように動かない。そんな幹央を見て、颯はゆるりと口角を上げ、またあの顔をした。
「鯉かてめえは。口ぱくぱくさせてるだけじゃわからん。ちゃんと腹から声出せ、そしてさっさとしろ」
「なんで押しかけてきたお前が上からなんだよ……」
 口では対等に返すが、頭の中はなんと言って質問するべきか、大慌てで回りだしている。
 颯の声は不思議だ。立派な喉仏を持った青年にしては、高い響きをしている。ただ、発せられる言葉には得も言われぬ圧がある。久々の再会であってもそれは顕在で、自分はそれに逆らえないのも変わらない。
 実に情けないことだ。そう思うのと同時に、胸のざわめきがなぜだかすこし落ち着いた。
「聞きたいことってそりゃ、なんでお前、俺の家知ってるの? そもそもなんで俺の前に現れた? てか、生き霊ってなに? それに――――」
「急にべらべら喋んな。オマエのくっせえ唾がかかんだろ」
「お前が聞けっていたんだろ」
 幹央は語気を強めてそう言った。颯はそれを嘲るようにふんっと顎を上げ、冷たい視線を送った。その視線は、幹央の記憶よりも大分低い位置から送られている。しかし、その低さを加味しても、人を見下すという動作の貫禄は失われておらず、むしろ以前より堂に入っているようにも見えた。
「まあ、今言った質問には答えてやる。まず、さっきも言ったが、オレは死んでない。つまり、幽霊ではない」
「じゃあ、何なんだよ。大分幽霊の見た目してるぞ」
「たしかに透けてるしな。だが、オレには生きた身体が残ってる。ただ、考えたり、話したりするオレは今ここにいる。ようは『魂』みたいなものと身体が分かれてる状態ってこと。それが生き霊って言った意味」
 言葉としては理解できる。ただ、それを現実として受け入れることは難しい。やっぱり、これは幻覚か、あるいはまだ夢の中にいるのか。思えばこのところ、学業とバイトに明け暮れて、まとまった休息を取れていなかった。そうだきっと、疲労が溜まっておかしくなっているだけなのだと、幹央は目頭を抑え強く目をつぶりながら、そう自分に言い聞かせた。
「おいグズ、なにぼーっとしてんだ。オレが話してやってんだから、ちゃんと聞けや」
 颯は凛々しい太眉を吊り上げながら言い放つ。幻覚であれ、夢であれ、颯がいるというこの現状に変わりはなく、今ここで幹央が颯と関わりを断つという選択肢は残されていないようだった。
「はいはい、すいませんね」
「はい、は一回。適当に返事すんな」
「……はい」
 わかればよろしいとでも言うように、颯は腕を組み頷く。腕を動かした拍子に捲れた袖から、華奢な手首が覗く。はたして学ランから覗く手首は、こんなに細かっただろうか。幹央のなかで小さな疑問が浮かんだが、昔もそんなものだったと自分に言い聞かせ、目の前の本題に意識を向きなおした。
「お前が生き霊なのは、まあ、とりあえずわかったってことにしとく。それで、なんで魂のお前がここにいるんだよ。俺、なんも関係ないだろ」
「……魂だけになるとな、疲れるとかないし、壁とかすり抜けられるしで、どんなとこにでも行けるんだよ」
 芯を食わない返答に、幹央の頭にはクエスチョンマークが次々と浮かびあがる。
「オマエも考えたことあるだろ? 透明人間になったらどこ行きたいかって。それが、この魂だけの姿ならできるってわけ。あっ、ちなみにオマエならどこいくの」
「えっ、まあそりゃあ、よくあるのは、そりゃ女風呂とか更衣室とかだけど……」
「きっしょ、すけべ脳が」
「よく言われてるのがそうって話で、別に俺の意見じゃねえよ…… そういうお前はどこいったんだよ」
「まあ、そういうとこだな」
「すけべはお前じゃねえか」
 それを聞いた颯はケラケラと笑う。幹央はそんな颯を見て、自分を突然摩訶不思議な事件に巻き込んでおいて、なんて無神経で緊張感のない奴だと呆れた。
 すると、颯は一通り面白がって満足したのか、急に何を考えているかわからない真顔に切り替える。その表情の落差に、幹央の背筋は自然と伸びた。
「寝てたら突然、身体と魂が分裂するようになった。ビビってたのは最初だけで、自分の意志で身体と魂に行き来はできるってわかったら、むしろ楽しむようになってた。でも、何回も繰り返していくうちに癖になっちまったのか、起きててもたまに分裂しそうなるし、今自分の身体と魂がどの状態なのかわかんなくなってボーとすることが増えた。――で、ある時目が覚めたら、魂のオレだけ。目が覚めた場所もどうやって来たかおぼえてないし、なんとか家に戻っても身体はなかった。どこにあるか見当もつかない」
 奇想天外なことを話す最中でも、颯が幹央から視線を外すことはない。そして視線はそのままに、颯はテーブルに身を乗り出し、透明な手で幹央のTシャツの襟ぐりを掴んだ。顔と顔の距離が近づく。
「オレ一人で探しても埒が明かない。だから協力者がいると思って、片っ端から知り合いに声掛けた。けど、誰もオレに気づきやしねえ…… 彷徨って、彷徨って、やっと見える、聞こえる、話せる奴がみつかった。だから、ミキ、手伝え」
 手伝えといわれても、人数が一人増えたところで、この広い世界の中で手掛かりもなしにたった一人分の身体を探すなんて不可能に近い。もちろん、幹央もそれをわかっていたし、協力したとしても自分になんの得もないことはすぐに理解できた。
 それでも、幹央は、自分が颯の要望を聞き入れる未来が容易に想像できた。
 颯は傲慢で、人を揶揄っては笑う人間だ。お世辞にも性格が良いとは言えないし、そんな奴と一緒にいても心が休まることは一度だってなかった。ただ、颯と向き合う時に沸き上がる感情は、怒りとか苛立ちとかそんな単純な言葉では表せない。いや、それらもたしかにあるのだが、なにかもっと強大で強烈なものに、感情が突き動かされる。幹央には、その衝動の実態を掴めないでいた。しかし、それは絶対的な強制力を持って、幹央に前に立ちはだかり、いともたやすく幹央の意思を支配しようとする。
「チッ、なんで俺がお前のなんかのために無償で働かなくちゃいけないんだよ……」
 それでも、幹央は力を振り絞り、不可解な衝動に抗おうとする。しかし、目の前に座る小さな男は、オマエの抵抗など無価値だと言わんばかりに、余裕そうな表情を浮かべる。
「オレ知ってるよ。そういうこと言いつつ、オマエは結局オレの言うことを聞く。あの頃もずっとそうだった。そうだろ、ミキ?」
 たったこれだけのことで、幹央の必死の抵抗は簡単に崩壊へと追い込まれる。
 ああ、神様、なぜ今更私とこの男を引き合わせたのでしょうか。幹央は苦虫を嚙み締めたような表情を浮かべながら、諦めたように首を縦にふった。
「なんだその顔、ひっでえなあ。顔でも洗ってこい。したら、さっさと探しにいくぞ」
 数年越しの激しい衝動。でも、狼狽えているのは自分だけ。そんな状況にため息を零しながら、幹央は洗面台へ向かった。
 
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 幼い頃の幹央は、よく一人で家の近くの用水路を眺めにいった。別に、用水路が特別好きだったわけではない。ただ、その頃の幹央は、そうするしか自分の孤独を誤魔化すすべを知らなかった。
 潜水士であった幹央の父は、幹央の物心がつく前に海の中で命を落した。残された母は、幹央を育てるために朝から晩まで働いていた。幹央の母は底抜けに優しく、健気な人である。この素晴らしい人が自分をなかなかかまってくれないのは、冷たいからではなく自分のためであるということを、幹央はすぐに理解した。一人でいる時間が長いのも、仕方がないことだと受け入れた。だからこそ、幹央は一人でいることに慣れ過ぎてしまっていた。
 一人でいることに慣れた弊害が現れたのは、小学校に入学してからだった。
 小学一年生は未熟であれ、人である。人同士が集まれば、自然と社会が形成される。社会に属すということは、交流を余儀なくされるということである。そして、社会の中でどのように他者と関わるかによって、自分というものがより重層的、より多面的に確立されていく。
 この時の幹央には、わざわざ人と交流するという意味がまるで理解できなかった。だから、幹央は進んで人と関わろうとはしなかった。はじめのうちは、それでもよかった。しかし、次第に社会を形成する人物達の能力や価値観の差が色濃く現れだし、それに伴って社会の形も鮮明になっていくと、幹央の意志は揺らぎだした。
 あの人はすごい、アイツはダサい。あの人に好かれている自分はすごい、アイツと関わると自分までダサいと思われる。
 特別秀でたものがあるわけではなく、人に好感を持ってもらえるような行動などしてこなかった幹央は、クラスの中でアイツ側であった。勿論、幹央以外にもアイツ側の人間はいた。しかし、アイツらのなかにもアイツらだけの小規模な社会があったし、そこからも外れた孤高のアイツにも、趣味や特技いった特別な「自分だけの世界」があった。
 しかし、幹央にはそれもない。貧しさゆえ、無意識的に好きなことや、やりたいことをみつけるのを避けていた。母はそれを度々心配し、「お金のことなんて気にしないで」と、幹央にやさしく語りかけた。だが、母の痩せこけ、深い隈が刻まれた顔を見ると、幹央は口をつぐんでしまうのだった。
 周囲の人たちには、社会がある、自分だけの世界がある。自分は社会に属しているはずなのに、一人であり、熱中できるものもない。その事実が、幹央の胸にじわりじわりと突き刺さり、傷を深めていく。しかし、今更「一人は寂しい」と感じたところで、人との交流の仕方なんてわからない。それに、あまりに一人でいる時間が長かったため、幹央は一人であるということに、安心感そしてある種のアイデンティティを見出してしまっていた。
 いくら人とつながりたいと思っても、自分自身を否定される可能性を想像してしまうと、強い拒絶反応を起こしてしまう。だから、幹央は用水路に向かった。一刻も早く学校という社会から抜け出し、母もやることもない家で孤独から逃げるために。
 幹央の家は、この地域の中でも地価の安い地区にあるボロアパートである。大きな川の近くに流れ、山、そして田畑に囲まれたその地区には、幹央と同じくらいの年頃の子供が少なく、一人で過ごすには適していた。だからといって、時間を潰すための店や公園があるわけではない。
 そこで幹央が見つけた暇つぶしが、用水路の観察であった。用水路の水は、時期や天候によって大きく変化する。絶えまなく姿を変える水の動きを注意深く見ていると、自然と寂しさが薄れ、不安で押しつぶされそうな心が幾分かマシになった。
 母は夫を失った悲しみからか、海やプールなどなるべく幹央を水から遠ざけているふしがあった。それを幹央も漫然と受け入れていたが、放課後は母の目も無いし、暇は暇なので致しかたないと、用水路の観察をはじめ、ついにはひっそりとした習慣になっていた。
 
 5年生の夏休み最終日。夏休みとはいえ、相変わらず幹央は一人ぼっちで、多くの時間を用水路を見ることに費やしていた。5月から8月にかけて、農業用水の確保や降水量の多さによって用水路の水位は上がる。しかし、稲の収穫が終わると、水は引かれ、台風や大雨が降らない限り用水路は空っぽになってしまう。幹央は、また学校が始まることや、心の拠り所がもうそろそろ枯れしまうということに、どうしようもない不安を感じていた。
 その日の用水路の様子は、昨晩の雨の影響でひどく荒々しかった。今にも溢れだしそうな大量の水が、激しくしぶきをあげながら我先にと駆けていく。幹央は水がない時期でも水の流れを思い出せるように、この様子をしっかり焼き付けおこうと、うずくまり一心不乱に水の流れをみつめていた。
「なぁ」
 激しい水の音に混じって、聞き覚えのない子供の声が聞こえた。だが、幹央はどうせ自分への呼びかけではないだろうとその声を無視した。
「なあ、つってんだろ」
 声は幹央の頭上にまで近づいた。声色もはじめより刺々しさを増している。その声が自分に向けられたものだとわかると、幹央は急いで顔をあげた。そこには見知らぬ自分と同じくらいの少年がいた。
「あの……えっと、その」
 元来の人見知りという性質と、ただてさて夏休みで母以外と会話するのが久々であったため、幹央はうまく言葉が発せない。少年はそんな幹央をただジッと見つめてくる。瞳の鋭さに気圧されて、幹央は額からたらりと冷えた汗を垂らした。
「えっと、なっ、なんですか?」
「そこ、なんかあんの?」
 少年はそう言いながら、さらに距離を詰め、幹央の真横に腰を下ろした。膝と膝がぶつかりそうな距離から見る少年の顔は、一つ一つのパーツの主張が強く、クラスメイトの誰とも違う、特別な圧があるように幹央は感じた。
「なんもねえじゃん」
「あっ、はい…… ただ、見てた、だけです……」
 少年は再び、幹央を見つめる。品定めされているようで、落ち着かない。そして品定めであるのなら、自分はきっと見限られるか、手酷く扱われるかの二択であろうと、幹央は自分を守るために先に自分を傷つけた。――傷つけたその瞬間だった。
 少年は突然、用水路の中に片足を突っ込む。
 この時期は用水路による水難事故が特に多い。加えて、去年の今頃、関東の方で用水路からバラバラの死体が見つかったという物騒な事件があり、全国的なニュースとなっていた。犯人は捕まったようだが、いまだに多くの人々の記憶に用水路と死体が結びつているようで、夏休み前の学年集会でも『用水路には近づくな、入るな』と例年よりもきつく警告されていた。
 幹央は『近づくな』という忠告を破っている自覚はあった。それでも、だからこそ、自分から激しい水の中に入ろうとは考えたことがなかった。
 少年は片足をつけると、躊躇いなくもう一方の足を水に入れる。日に焼けたカモシカのような足は、すでに水の流れに持っていかれそうになっているというのに、少年は腰を持ち上げようとする。
「まって!」
 幹央はとっさに少年の肩に手を置く。久しぶりに出した大声は、ひどく掠れていた。少年は一瞬目を大きく見開くが、すぐに鋭い目に戻った。
「うるせえな。突然なんなの」
「あっ、あの。ここ、事故多い、です……から、やめたほうが、いっです……」
 人の行動を止めるなんてしたことがなかった幹央は、段々と自信がなくなり、声がか細くなっていく。やがては、口から言葉が出ず、パクパクと開閉させるだけになった。
「……ふふっ、ふははは」
 突然少年は笑いだす。どこに笑う要素があったのか幹央には見当がつかず、ただツボに入った少年をしばらく見つめるしかなかった。
「なんだよその口。鯉みてえじゃん」
「こい……」
「それに、ははっ。声もガタガタだし、そのくせめっちゃ力強いし」
 そう言われて、幹央はまだ少年の肩に手を置いていたことに気がつき、すぐにそれをどける。
 その動きも気に入ったのか、少年はさらに目を細める。笑い皺の寄った顔。自分がこの顔を引き出している。
「なあ、オマエ、名前なんていうの?」
 人かから名前を聞かれた。この人は自分に興味がある――――。
「みきお、千田幹央、です……」
「みきお……うん、ミキでいいな。オレは日高颯。颯でよろしく」
 あだ名なんてはじめてつけられた。この時の幹央は、一方的に互いの呼び方を決められているというのに不満は一切抱かず、喜びで胸がいっぱいだった。
「なあ、ミキ。ここは入っちゃいけないんだろ? 見てるだけなんてのも退屈だしさ、オレんち来いよ。いいもん見せてやる」
 その瞬間、大きな風が吹いた。水面は激しく揺れうごく。揺れる度、水は陽射しを集めては散らすを繰り返し、輝きを主張する。
「ほら、さっさと来いよ。置いてくぞ」
 ついさっきまでの幹央だったら、興味深い動きを見せる水を、そのまま眺めていただろう。しかし、今の幹央は水の動きよりも、自分から遠ざかっていく背中を追う方が優先すべき事柄になっていた。それだけ、日高颯という存在に、惹きこまれたのだ。
「まっ、待って」
 これが、幹央と颯の出会いだった。
 二学期からの転校生であった颯は、幹央と同じクラスになった。颯は持ち前の物怖じしない態度ですぐにクラスに馴染んだ。しかし、颯は、幹央がクラスでどんな立場であるかも把握したうえで、何かにつけて「ミキ」と呼んだ。
 
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 
 7月に入ったばかりだというのに、猛暑日が続いている。
 二人の地元である宮城の田舎町は、東北のなかでは比較的暖かい地域であったが、東京の純粋な気温の高さとまとわりつくような蒸し暑さには到底及ばない。それでも、東京は田舎とは違い、クーラーの効いた入りやすい店が多いという救いがある。しかし、ふわふわと浮かびながら先導する颯は、その状態ゆえか、それとも嫌がらせのためか、頑なに路上の道を選んで歩みを進めている。
 足を踏みしめる度に、全身から汗が吹き出す。とめどなく流れる汗は、ファストファッションブランドで買ったTシャツの脆弱な吸水性では、到底抑えきれない。Tシャツにはアクション映画の金字塔とも言える作品のワンシーンがプリントされている。しかし、歴史的な名シーンは、幹央の汗染みのせいでまったくの台無しになっている。
「おい、颯。ヒッ、ふう……これ、どこ向かってんだよ……」
「それ聞くの何回目だよ、根性ねえな。そんな遠くねえから心配すんな」
 たしかに家を出てからそこまでの距離は歩いていない。ただ、あまりの暑さに流れる時間は長く感じる。幹央は、汗など無縁な身体、というより魂だけという不可思議な形状が今はただただ羨ましいかった。
「てか、そんなに暑いの?」
「俺の惨状見ればわかるだろ。景色も陽炎でめちゃくちゃ歪んでるし」
「でも、あっちも夏はそこそこ暑いじゃん。そんなに違う?」
「比にならんよ。……てか、その口ぶり、オマエこれまでずっとあっちにいたのか?」
 なんとなく、そうだとしたら意外だと思った。小学、中学の同級生らに「俺と颯、将来どっちが都会に行きそう?」と聞いて回ったら、きっと大半は颯の方を選ぶだろう。颯は小柄という侮られる要素があるのにも関わらず、優れた運動神経、凛々しい顔立ち、そしてなにより見ていて気持ちがいい程の自信家ぶりは、上に立つ者としての魅力を燦燦と放っており、どのクラスの一員になったとしても自然とスクールカーストの頂点へと押し上げられていた。それゆえ、慕われるだけでなく、恨まれることも多かったようだが、それはなにより颯が上に立つ者であるという説得力を強めていた。幹央は颯の隣に並ぶことが多く、いわゆる一軍の奴らとも絡むこと機会も少なくなかったが、単体で見れば相変わらず「アイツ側」であった。
 そんな調子だったので、きっと当時クラスのどのヒエラルキーに属していた奴でも、「日高颯にこんな田舎は似合わない。きっと都会に行って、なにかしらの成功を収めるはずだ」と言うだろう。幹央は疑うことなくそう思っていた。
「……まあな。お前さては、都会だから良いとか、田舎にいるのがダサいとか思ってんだろ。言っとくけど、どんなとこにいてもすごい奴はすごいし、ダサい奴はダサい。環境を変えたからって、人の根っこみたいなのは変わらない。オマエがまさにそれだ」
「誰がダサ坊だよ」
 図星である。だが、幹央は、颯の言い分もいかにも田舎へのコンプレックスを拗らせ、遂には開き直った田舎者という感じがした。颯という人間の口からあまりそういう言葉を聞きたくなかったなと、幹央はひどく勝手な失望を覚えた。
 しばらく歩くと、黄緑色の屋根のスーパーが見えた。幹央の家から遠いわけではないが、足を運んだ覚えはない。でも、どこかで見たことがあるような気がする。幹央がそんなことを考えていると、颯は突然立ち止まり、そのスーパーをジッと見つめ出した。
「なに? なんかあんの」
「いや、オレの身体あるかなって」
「ここに?」
 パッと見たところ、何の変哲もないスーパーである。まして、ずっと地元を出ていないという颯にとっては、縁もゆかりもない場所であろう。
「スーパーにあるかよ、魂抜きの身体単品が。それに、三鷹のスーパーだぞ。絶対オマエに関係ないだろ」
「なんか感じたんだけどなあ、オレのオーラ的なやる」
「なんだよそれ」
「でも、勘違いそうだし。さっさと次行くぞ」
 ある可能性は極めて低そうだが、素通りというのもなんだか落ち着かない。それでも、颯は外装じっくりと見ながら、歩みを進める。記憶がない、手掛かりがないというわりにその足、というより魂は、進むことに躊躇いがない。まるで、もう行先が決まっているみたいだなと、幹央は思った。
 そう思ったが、幹央の身体は「流石に限界だ」「身体を冷やし水分を取れ」と警鐘を鳴らし、思考を溶かす。足がついていかない。
「……なあ、一応中も確認しておけよ。万が一、あったら勿体ないだろ」
 そういうと、颯はくるりと振り返る。
「そんなこと言って、オマエが休みたいだけだろ。やっぱり根性なしだ」
 やっぱり図星である。そして、陽炎や疲労でぼやける視界に映った揶揄うような笑顔は無邪気そのもので、否定しようにもガキ臭くという印象を拭えない。
「……もう、根性なしでいいよ。だから、入らせてください。お願いします」
「しょうがねーな。いいよミキ」
 笑い皺がより一層深く刻まれる。
 そんな顔見せんなよ。――口から無意識に言葉が零れた。幹央は慌てて口を押さえ、颯の動向をうかがう。颯はすでにスーパーへと動き出しており、幹央の言葉に反応することはなかった。それを確認すると、安堵から身体が脱力した。
 
 スーパーは元より、休むための施設ではない。
 それはわかっているのだが、それにしたって幹央は羽を休めることができなかった。颯は、飲み物や軽食を物色している幹央にくだらない質問を投げつけては、反応を見てけらけらと笑っていた。幹央もはじめのうちはそれに一つ一つ馬鹿正直応えていた。しかし、他の客から白い目で見られたのに気がつくと、すぐにそこにあった飲み物を手に取り会計を済ませ、足早に灼熱へと戻っていった。
 スーパーを出た後は、電車でお台場、渋谷とTHE・観光地といったところへ連れまわされた。しかし、颯はスーパーの時のように特定の建物に関心を示すことはなく、普通の観光客のように人混みの中をただ揺蕩っていた。ただでさえ、透明な身体だ。少しでも目を離したら見失ってしまいそうで、幹央は常に神経を尖らせてなければならなかった。
 どうしようもない暑さ、人からの視線、経験したことのない集中。その全てが、疲労という形で幹央の身体に重くのしかかった。
「さっきから拗ねてんの? オレのこと無視すんなって」
「……」
「おい。メニューばっか見てねえで、なんとか言えよ」
 渋谷の町を彷徨っていると、颯は急に「ここにはねえわ。帰ろう」と言い出した。それは、体力の身体の限界を感じていた幹央にとって、願ったり叶ったりの申し出だった。だが、最寄り駅まであと一駅というところで、颯は突然「降りるぞ」とすたすたドアの方に向かいだした。反発するのも面倒臭く、幹央はそれに従った。
 しかし、幹央は改札口を出ると、ふと自分が朝からまとも食事をしていなかったことを思い出した。猛烈な空腹に襲われた幹央は、必死の形相で颯に空腹を訴え、近くにあったファミレスに半ば無理やり入店した。
「もういいわ。じゃあ、オレにもメニューみせろよ」
「……お前、見ても意味ねえじゃん」
 そう言うと、颯はただ黙って幹央を凝視する。
「わかったよ。わかったから、その目やめてくれ」
 丁度幹央がそう言ったところで、店員が通りすがった。店員は一瞬大きく目を見開き、そして一瞬で幹央から目を逸らした。ああ、また異常者だと思われた。朝から幾度となく受けてきた反応だったが、幹央は毎度律儀に気を落す。
「あっ、オマエ頼むのこれじゃない? これだろ、絶対そうだ」
 こちらの苦労など知らない颯は、メニューを指さす。指の先には『復刻! スパイシーチキンジャンバラヤ』と書かれていた。
「いや別に……特別好きってわけじゃねーし。つーか食ったことねえよ、ジャンバラヤ」
 一通りメニューは見ていたが、別段ジャンバラヤに惹かれることはなかった。それなのに、向かいに座る颯は、自信満々といった様子で何度もジャンバラヤに指を突き刺している。
「いや、オマエ昔食いたがってたよ。あれだ、たしか中一の夏休みの時。ほら、夏休みの時か、外部からジジイ来てたじゃん。そいつめっちゃ厳しくて、『やってられっか』てさ。二人して昼休憩の途中で抜け出して、ファミレス行ったことあったろ」
 思い返せば、たしかにそんなこともあった。
 中学時代、幹央は、「合法的に人を棒で殴れるなんて最高じゃね?」と颯に言われるがまま、剣道部に入部した。礼節の欠片もない動機の奴と、ソイツにのこのこついてきた奴。そんな二人が気軽に入るにしては、彼らの母校の剣道部はいささか強豪校すぎた。
 普段の練習は、現役の剣士である体育教師に今時では珍しい程厳しく指導され、長期休みの時はいかにも剣豪といった風貌の老人に、朝から晩までしごかれた。
 帰り道散々二人で部活の愚痴を言い合ったものだが、練習中二人で抜け出したというのは、たしか一回きりの出来事であり、幹央は今の今まで忘れていた。
「たしかに…… あったな、そんなこと」
「そう、そんで、あん時のオマエ、ファミレスとか来たことなかったじゃん? すっげえはしゃいでて、メニューとかもめっちゃ悩んでただろ。それで、めっちゃ時間かけた末、『なんか響きがかっこいいから』とか言ってジャンバラヤ選んでさ。でも注文したら『すいません。チキン品切れでなんです~』って言われて。それで、ふふっ、オマエそん時全然気にしてないって顔しながら慌てて「あ、大丈夫っす。全然わかってるんで」って意味わからんこと言ってさ、店員のお姉さんにめちゃくちゃカッコつけてたよな」
 そう言って、颯は今日一番の笑い声をあげる。甲高く、弾けるようなその声に、幹央は胸のざわめきをも通り越して、誇らしいさを感じてしまった。
「……どんだけ笑ってんだよ。多分、そんなにカッコつけてなかったろ」
「いーや、してたね。だからさ、今日はリベンジだな。せっかく復刻したらしいしさ」
 邪気一つない笑顔。どうしてここまで何年も前の自分の失敗を事細かに覚えているのか、何故ここまで新鮮に面白がれるのか、幹央は不思議でたまらない。それなのに、どうしてか心が満たされる。忘れられていないことが、好かれることが、必要とされることが、こんなにも嬉しいとは。幹央にとってそれは、しばらくに忘れていた感覚だった。
「……あっそ、じゃあそれでいいわ」
「おう、頼め頼め。じゃあ、オレはラーメンな」
「お前食えないんだろ。てか、ファミレス来てまでラーメンって」
「いいだろ、ラーメンで。そこにあったら、何よりも優先されるべき食いもんなんだから」
 肩肘を張らないくだらない会話の応酬に、幹央は本当に学生時代に戻ったかのような錯覚に陥った。
 そして、幹央は意気揚々とジャンバラヤを頼んだ。しかしジャンバラヤは、あの日のように品切れであった。

「いやあ、まさか二回連続空振りとは。オマエって、つくづくついてないよな」
「お前、売り切れって聞いた時笑いすぎだろ。それで焦って、また店員に白い目で見られたじゃねえか」
「責任転嫁はよくねえぞ。オマエが不運でダサいだけだ」
 幹央は結局、ミックスグリルとポテトを選び、欲望のまま腹に収めた。腹は十分に満たされたのだが、空っぽの胃袋に突然、強烈な塩味と油を入れたので、横腹のあたりがきりきりと悲鳴をあげている。
「腹きつっ…… もう、早く帰らせてくれよ」
「だらしねえなあ。ほら、そこだそこ」
 何の変哲もないビルである。入り口である左側の階段は開けているが、右側の入り口はシャッターで閉じられている。
 「いやまあ、普通のビルだな」
 そう言うと、颯は眉をひそめる。しかし、怒っているというよりは、すねているような雰囲気だ。
 「えっ、なに? なんかマズいこと言った?」
 「シャッター締まってるからわかりづらいけど。よく見ろ、思い出せ」
 思い出せと言わても。幹央は目をこすり、もう一度じっくりビルを見る。二つの入り口。もしこのシャッターが空いていたとしたら――――
 「あっ、もしかして」
 そう、颯に出会った日。用水路を離れた後、颯の家にいった。用水路からほど近く、耳の遠い祖母がいるだけの家屋で、二人はある映画を観た。それは、カルト的な人気を誇る、日本のSFアニメ映画だった。心躍るサイバーパンクの世界観、超能力と世界の崩壊というテーマ、そしてなにより映像の緻密さ。その衝撃は、好きなものを作らないようにと閉じ籠っていた幹央の心の殻を、木っ端みじんに打ち砕いた。
「あれだろ、あの冒頭で店長が入ってくるシーンの……」
「そう、正解。やっと思い出したか」
 思い返せばそうだ。たしかあのスーパーも、ファンの間で爆発シーンの爆心地だと噂されている場所で、お台場や渋谷も作中で度々街並みが描かれていた。
「いやそうじゃん。てか、なに? なんでお前、聖地巡礼楽しんでんの?」
「楽しんでねえよ。ただオーラがある方行ってたら、たまたまそうなっただけだよ」
 絶対嘘だ。だったあんなに淀みなく歩いたりしない。――そう考えると、急に自分の察しが悪さが申し訳なくなってくる。
「にしても、オマエ全然気づかなかったな。映画のTシャツ着てるし、家に大量にスケッチブックあって色々描いてたから、すぐにわかると思ってた」
「えっ、おまっ、いつの間に。てか、見たのか、あれ?」
 スケッチブックの中身。それすなわち、当時颯にも隠していた、誰にも否定されたくない自分だけの世界。
「うん。オマエが起きる前、せっかくだと思って色々漁ったら、みっけた」
「なんだよそれ、プライバシーの侵害すぎるだろ……」
 幹央は思わず、膝を折って頭を抱える。
 あの映画を観た時から、幹央は漠然とアニメーションの世界に憧れを抱くようになった。そして、憧れを具現化するため絵を描きだすのに、それほど時間は掛からなかった。
 颯と出会ったことで、新たな自分の世界も見つかった。それは幹央という人間にとって、とても喜ばしいことであった。でも、だからこそ、誰にもなにより颯には、自分の世界を否定されたくないと思った。もしも絵を描いていることがばれて、それを馬鹿にされたら……考えるだけでも恐ろしい。そうなってしまったら、それこそ自分だけの世界に一生閉じこもるしかなくなってしまう。そんなこと、人と関わる楽しさを知ってしまった幹央には、耐えられるはずがなかった。
「おい起きろ、他の人の邪魔だろ」
 幹央の前に透明な手が伸びてくる。幹央は恐る恐る、立ち上がる。
「ほら帰るぞ」
「お前の家じゃないだろ」
「なんだよ、オマエオレを野放しにするつもりか?」
「……はいはい。しませんよ」
 ため息を吐く。それを見た颯は突然、浮かんでいた足を床に付け、そのまま跳ねるように走りだす。
「急になんだよ。待てって」
 羽が生えたような軽い足取りは、すぐに幹央との距離を遠ざけていく。追いつかなければ。幹央の足は自然と動きだす。
 まとわりつく暑さを振り払うように走る。安いサンダルは何度も脱げそうになる。相変わらず人の視線も痛い。
 それでも走った。颯との距離は、手を伸ばせばすぐそこ、というとこまで来た。すると、ふと、颯の速度が緩まる。
「悪くないよ、オマエの絵。もっと見してよ。設定とかもさ、帰ったら色々聞きたい」
 そう言う颯の顔は見えない。それでも、秘密をこっそり打ち明けるような声色に、幹央のあの頃から続いていた不安がいとも簡単に晴れていく。
「……まあ、しょうがねえから、いいよ」
「言ったな。恥ずかしがんなよ」
 二人は合図も無しに、同時に速度をあげる。
 何年来かの二人の夜は、まだはじまったばかりのようだ。