君を祓うとき
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東京、A町。小さな路地を曲がり、雑居ビルの並ぶ薄暗い下町に、荒巻ビルはあった。海運業で大成した荒巻平蔵氏の建てた三階建ての小さなビルで、かつては荒巻海運の本社事務所が営まれ、事務所が都会の高層ビルに移転してからは、平蔵氏の息子に引き継がれた。ビルの各フロアはテナントが入居しており、ビルの一階には平蔵氏の孫娘、スミレが営む小さな花屋「シエル」が入っている。
狭い店内に所狭しと並ぶ花々。店主のスミレが持ち前のセンスで厳選した季節の花のラインアップ。「シエル」は小さいながらも、客のSNSへの投稿が火付け役となり、見た目に反して繁盛している。さびれた雑居ビルの一角を、文字通り華やかに彩っている。
季節は初夏。「シエル」の店内には大きく花開いた百合が並び、オリエンタルな芳香を放っていた。相並ぶ花の間を縫うように進むと、店の奥に、まるで花に埋もれるように、「荒巻霊媒事務所」と書かれた金属製のプレートがかかったドアが現れる。
「こんにちは、何かご用ですか?」
この事務所を訪ねた客は、まず花屋の前で躊躇し、そしてこのドアの前で躊躇する。躊躇していると、大体花屋の店主に声をかけられる。
「…荒巻穂高さんの事務所は、こちらでしょうか」
皆が何かに疲れたような、はたまた憑かれたような顔で、すがるような表情で、荒巻穂高の名前を口にする。
弟の名前を聞くと、スミレはにこりと微笑み、ドアを開ける。荒巻霊媒事務所のドアにはベルが吊り下げられており、ベルの音に、部屋の奥の安楽椅子に腰かけていた事務所の主、荒巻穂高が顔を上げた。
「――――それで、なんというか、その…」
この日荒巻霊媒事務所を訪れた客、高橋一郎は、極めて居心地が悪そうに事の経緯を話し、最後は歯切れ悪く言葉を濁した。
「結構ですよ、はっきりおっしゃってください。」
高橋の向かい側のソファに腰かけた穂高はにこりと愛想の良い笑顔を浮かべ、すらりとした長い足を組み替えた。
仕立ての良いスーツに高級時計、挨拶時に寄越した名刺の肩書からも、一般的にエリートと呼ばれるであろう高橋は、利発そうな顔を屈辱的に歪めて言葉を続けた。
「他に思い当たることが無いのです…。毎日女の声が聞こえて…」
「確か、最近ご結婚されたとおっしゃっていましたね。家で聞こえるなら、奥様のお声では?」
「いや、違う。妻の声ではありません。あれは…あの声は…」
高橋は、思いつめたように膝の上で組んだ手を見つめる。穂高は言葉の続きを待っていたが、話し出さない高橋の様子にしびれを切らし、口を開いた。
「あなたがご結婚前にお付き合いされていた女性ですね。名前は、山木志保さん?」
「な、なぜそれを…」
高橋は目を見開いて顔を上げた。穂高は先ほどまでの笑顔をなくし、無表情で高橋の肩のあたりを見ていた。その表情に、高橋はぞっとした顔で身をこわばらせる。穂高はじっと虚空を見つめたまましばらく黙り込んだ後、ふんと鼻を鳴らした。
「なるほど、奥様とご結婚される直前、彼女に別れを切り出したのですね。別れ話をした後すぐ、この方は事故でお亡くなりになってしまった。」
「い、いるのですか、志保がここに…」
恐怖に竦む高橋に視線を戻した穂高の顔には、再び人当たりの良い笑みが浮かべられていた。
「御心配には及びませんよ。正式にご依頼を頂ければ、きっちり祓わせていただきます。」
「す、すぐに、すぐにお願いします。もうたくさんだ。いくらでも払いますから…!」
高橋は祈るような姿勢で穂高に頭を下げた。その姿に呆れた顔をした後、穂高はまた虚空に目を向けた。
虚空に立つ女性は、じっと高橋を見つめていた。
―――事故とはいえ、これ幸いとろくに供養もせず結婚されたんじゃ、浮かばれないよなあ…。
彼女はうつろな目で高橋を見ている。交通事故で亡くなったらしい彼女の首は、あらぬ方向に折れ曲がっていた。その口が小さく開き、高橋を呼んだ。
「イ・・・チ、ロウサン…」
その声こそが、彼女の死後高橋を悩ませてきた女の声だろう。その声が耳に届き、高橋はがたがたと体を震わせ始めた。
「い、今、今、こ、声が…あの声が…俺を呼んでる…っ」
「結婚のタイミングからして二股か。恨まれるのも頷ける。」
「え?」
独り言ちた穂高の声は、恐怖で半泣きになって震えあがっている高橋の耳には完全には届かなったらしい。顔を上げた高橋と目が合うと、穂高はにこりと微笑んだ。
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柏木奏多は、高校生だった。幼少期からピアノを習っていて、家には防音付きの練習室がこしらえられていた。父親は大手商社で重要なポストを担い、母親は専業主婦で、二人ともいつも優しく、奏多のピアノ教室や発表会には揃って出席した。家庭環境はすこぶる良好で、絵にかいたような豊かな家族。息子である奏多も、ピアノで何度も賞を取り、母親の美しい容姿を引き継いでいる。
誰が見ても恵まれた環境で育った奏多だったが、彼には友達がいない。幼いころから病気がちで、中学校の時には大病を患って長い間病院で過ごした。塾や学校に行かなくても勉強ができたため高校には進学できたが、16歳になっても、友達の作り方がわからなかったのだ。性格が引っ込み思案だったのではない。友達を作る経験がなかったのだ。
高校進学後もたまに体調を崩して学校に来ない日があるうえ、その容姿はすっかり同級生たちを敬遠させてしまった。たまに学校に来ると、放課後の音楽室を借りて高校生とは思えない腕前でピアノを弾く姿に、彼らはますます遠巻きに奏多を見たのだった。
当の奏多にしてみれば、ピアノは呼吸みたいなもの。自分が孤高の存在になっていることにはまったく気が付いていなかったのだ。
ある春の日、窓から入って来た桜の花びらが舞う放課後の音楽室。日が落ちて暗くなった教室で一心不乱にピアノを弾いていると、突然教室のドアが開いた。そこに立っていたのが、荒巻穂高だった。
「では、明日、お宅へ伺わせていただきます。」
「はい…、どうかよろしくお願いいたします。」
東京、A町の下町の雑居ビルにある事務所で、穂高は依頼を済ませた客を見送った。ドアに吊り下げたベルがカランコロンと乾いた音を鳴らす。
「ふう…」
客がいなくなると、穂高はネクタイを緩め、来客用のソファにどっかりと腰を下ろした。長くてすらりとした足を投げ出して、ソファに沈み込む。ジャケットに合うように整えられている少し長めの前髪の下から、向かいのソファに腰かける男子高校生にちらと目を向ける。
「奏多、お前いつ来たんだ。」
「今のお客さんが帰る少し前からかな」
奏多は穂高とは違って姿勢よくソファに腰かけながら、「疲れてるね」と笑った。
「疲れた…客商売向いてない」
「嘘つけ。営業スマイルは得意でしょ。」
そう言って、奏多はじとっと穂高を見た。
荒巻穂高は霊媒師をしている。年齢は25。若い穂高が個人事務所を構えているのは、事務所の入っているビルが父親の持ちビルであることもそうだが、穂高の霊媒の仕事が業界内でしっかりその存在を確立している証拠でもある。一般的に訝しがられることの多い職業だが、穂高個人はモデルのようなルックスで、誰の目にも好意的に映る営業スマイルを武器に、本物の霊感でしっかり依頼をこなす。人が人を呼び、仕事は順調なのだった。
「いいよなあ、お客さんになればあんなイケメンスマイルで接客してもらえるのになあ」
奏多は、ソファに溶けるように沈む穂高を見ながら呆れたように言った。
「僕はこのぐだぐだのお前ばっかり見てるよ」
「いいんじゃない、身内って感じで。」
「適当な奴め」
穂高はふんと鼻を鳴らし、ジャケットのままソファに横になって机の上に広げていた先ほどの客の資料に手を伸ばした。奏多は窓際の安楽椅子に移動して、外を眺めた。
あの春の音楽室で出会ってから、奏多はここに通うようになった。通うというより、すっかり入り浸っている。来客時はちっとも構ってもらえないが、もの珍しい依頼ばかり扱っている霊媒事務所の仕事は、一人ぼっちでピアノを弾くしかない学校生活に比べるとうんと良いものだ。あの日穂高に出会ってから、奏多は穂高と穂高の仕事にすっかり興味津々になってしまった。
カランコロンと音がしてドアの方を振り向くと、穂高の姉であるスミレが立っていた。肩まで伸ばしたまっすぐな黒髪と、すこし吊り上がった大きな目が穂高に似ている。
「あら、奏多君。今日も来てたんだ。」
「スミレさん、こんにちは」
にこっとほほ笑むと、スミレもにっこりと笑顔を浮かべた。
「ほんとに奏多君てば、今日もかわいい!ここも奏多君が来てくれるようになって、すっかり雰囲気が明るくなったわよね~」
「…どこが。てか、それ何回言うんだよ」
さも気怠そうに穂高が言う。
「あのねえ、薄気味悪い霊媒事務所に、不愛想な弟を心配して、こうして少しでも明るい雰囲気になるよう毎日お花を届ける姉の身にもなりなさいよ」
そう言うスミレは、穂高のデスクの一輪挿しを手に取って、昨日飾ったスズランの花を今日持ってきた百合と交換した。
「それ、嫌なんだよ、匂いきついし」
「え~?いい香りじゃない。ね、奏多君」
「え、うーん…僕はそういうのわかんない」
「そ?いい香りなんだけど」
スミレは肩をすくめて、スズランを片手に出ていった。穂高はソファで資料を読んだまま、微動だにしない。
奏多は安楽椅子をデスクに寄せて、百合の花に近づいた。間近でじっと花を観察する。
この事務所は奏多の興味を掻き立てる依頼がたくさん集まるものの、来客もなく客のところへ出向くこともない今のような時間はさすがに退屈する。
「ねえ、今日はもうお客さん来ないの?」
「ああ、来ないよ」
「そっか」
時刻はまだ16時過ぎだ。手持ち無沙汰になった奏多は、事務所を出て街をぶらつくことにした。
事務所のあるビルは、他のビルと一緒に雑居ビルの林のような場所に建っている。少し離れたところに小さなアーケード商店街があり、商店街を横切っていくと路地が入り組み、そこを抜けると住宅街。さらにその向こうに高校がある。
住宅街の手前、入り組んだ裏路地を散歩していると、Y字路に顔見知りの女性が立っていた。奏多はその女性に近づき、隣に並んで立つ。
「早苗さん、こんにちは」
「あ、奏多君。こんにちは」
早苗は、見た目から推測するに年齢は大体30。温和だが不思議な空気を纏った女性で、いつも夕方になるとこのY字路に立っている。誰かを待つわけでもなく、ただ立っている。このY字路は奏多の高校と穂高の事務所の中間付近にあるので、いつの間にか顔見知りになったのだ。最初は奏多の方からおずおずとあいさつするだけの関係だったが、少しずつ世間話が増えていき、今となってはこうして隣に並んで少しの間雑談するようになっていた。
「今日も穂高君のところに行っていたの?」
「うん。でも今日はほとんど依頼の話は聞けなった。行ったらほぼ話が終わってたんだよね」
「そう。残念だったね。」
「うん」
事務所からさほど遠くないので、奏多を通して、早苗は穂高のことも見知っている。
早苗はほとんど目の前の道から目を離さずしゃべるので、こちらを向くこともほぼ無い。人通りもそんなに多くないY字路で、たまに車が通っていく。以前は国道への抜け道にする地元民の車が多かったが、1~2年前に前方不注意の車が歩行者と接触事故を起こし、それからは通行する車の数自体がかなり減った。こんな人気のないY字路で女性がただ立っているのは不思議な光景だが、その隣に制服姿の高校生が並んで立ち話している姿は、不思議さを増大させているに違いなかった。
「穂高君のお仕事は順調そうだね」
「うん、そうだね。割と間を開けずにどんどん依頼が来ているみたい。当の本人は、接客が嫌で辟易してるけど」
「ふふ。穂高君らしい。」
「でも、仕事モードの時は、全然そんなこと感じさせないくらい愛想がいいんだよ。女性のお客さんも多いけど、あいつの笑ってる顔見たら、結構みんな嬉しそう」
「そうなの、まあ穂高君、かっこいいもんね」
早苗と一緒に道路の方を眺めていた奏多だったが、思わず早苗の方を振り返った。
「早苗さんも、あいつがかっこいいとか思うの?」
「え?私にだって、きれいな顔と普通の顔の区別くらいつくよ」
「ああ、そういう意味」
きれいな顔とそうでない顔、とは言わないのが早苗らしいと奏多は思った。
「奏多君もとってもきれいな顔してるし、二人はお似合いだね」
「えっ」
早苗は相変わらずこちらを見ないが、少しいたずらそうに笑っている。
「からかわないでよ…。」
「本当なのに。奏多君と穂高君はとっても絵になるよ」
早苗には何も言っていないのに、穂高への気持ちを見透かされているようで気恥ずかしい。でも、「そんなんじゃない」などと否定する気も起きないのは、早苗が纏う温和な空気感がそうさせるのだ。
「早苗さんもきれいだよ」
「ふふ、どうもありがとう」
「ほんとなのに」
表情一つ変えない早苗には少し悔しい気がする。奏多の方は、あっさり片思いを見破られていて、動揺したというのに。
「お前はいつもこんなとこで女性を口説いてんのか」
「わ!」
振り返ると、いつの間にか穂高が立っていた。奏多を追いかけてきたのかと思ったが、手にはシエルで買ったらしい小さな花束を持っている。ジャケット姿で花束を持つ姿はさながらどこぞの王子様の様だが、すこぶる機嫌の悪そうな顔が雰囲気を台無しにしている。
「なんだよ、いつの間に来たんだよ」
「お前こそ、いつの間にか来たと思ったら知らない間に出ていくのやめろ。ま、どうせここだと思ったけど…」
「なんだそれ」
確かに行くところもないけど、と不満げに口をとがらせる奏多を一瞥して、穂高は早苗に会釈した。
「お久しぶり、穂高君」
「お久しぶりです。早苗さん」
穂高はY字路の角に、持ってきた花束をそっと置いた。早苗は黙ってその動きを見ている。
「奏多、暗くなるから帰るぞ」
「あ、うん」
穂高は、また早苗に小さく会釈をして、すたすたと事務所の方に歩き出した。奏多も慌てて後を追う。穂高は足が長いので歩くのも速い。気を抜くと置いて行かれるのだ。
「あ、早苗さん、じゃあまた…」
少し進んだところで手を振ろうと振り返ると、すでに早苗の姿はなかった。夕日が沈んで暗くなり始めたY字路には、小さな花束が一つ取り残されていた。
「なんでお前、何も言わずに出ていくんだ?」
隣を歩く不機嫌な様子の穂高に、奏多は思わずうろたえた。
「え、別に意味はないけど」
「いきなり来るのは別にいいから、出ていくときは声くらいかけろ」
「何、それ。高校生だと思って子供扱いしないでよね。僕はもう大人なんだから。」
「別に子供扱いじゃねえけど。いきなりいなくなったら心配になるから声かけろって言ってんだ。」
「心配になる」などと、この仏頂面に素直に言われると言い返す気が無くなる。
「…わかった」
奏多が穂高を好きなのは、早苗の予想が的中していた。春の日に放課後の音楽室で出会った穂高は、すでに今の仕事を始めていて、あの日も学校の関係者の依頼を受け、調査のために校内を見て回っていたと聞いた。その話がすっかり奏多の関心を引き、穂高の事務所に通うようになったのだ。最初は穂高の不愛想な態度に困惑していたが、慣れてくると、たまに見せる素の笑顔や、子供扱いとも思える過保護な優しさに惹かれていた。
自分のことを心配していると、どんな顔で言っているのだろうと、奏多は穂高の顔を覗き込んだ。
「…っなんだよ」
いきなり近づいた距離に、穂高が顔を背ける。
「あ、ごめん」
反応が面白くてにやりとすると、思い切り睨まれた。
「大人をからかうなよ」
「僕だって大人だし」
にやにや言い返すと、穂高はわざとらしい大きなため息をついて、さっきまでより早足で歩き始めた。
「あ、待ってよー」
顔を背けたときの穂高の顔を思い出してにやついていた奏多は、慌てて穂高の後を追った。
翌日。穂高は前日に事務所を訪れた依頼人の自宅に出向いた。学校が無い日で、奏多も興味津々でくっついて行った。
今回の依頼人である千田虎彦は、荒巻霊媒事務所があるA町から車で20分ほど離れた高級住宅街に居を構えていた。居を構える、と言っても千田は俗に言う成金というやつで、数年空き家となっていた邸宅を数か月前に買い取り、リノベーションして住み始める計画だったのだという。だった、というのは、とある理由でその計画が打ち止めになっているからである。
その理由こそが、幽霊である。
「せっかくこんな良い家土地ごと買ったのに、かわいそうだね」
助手席の窓から邸宅を見上げ、奏多は眉根を寄せた。
「まあ、空き家になってからしばらく放置されている間に、近所では幽霊屋敷だのなんだの噂はあったらしいし、単なるリサーチ不足だろ」
穂高は車を駐車するために、奏多が座る助手席のヘッドレストに手を置いて、後ろを見ながら車をバックさせる。
「実際、千田氏が言っている幽霊と噂の幽霊が同じかはわからないけどな。」
奏多は穂高の横顔をぼーっと見つめる。穂高は今日も接客のためのジャケット姿で、細身のシルエットがよく似合っている。
「ま、火のないところに煙は立たないというやつか。…何?」
至近距離でじっと見つめてくる奏多と目が合って、穂高は眉間に皺を寄せた。
「いや、運転姿かっこいいなって。」
「は?」
「さすが大人の男だね」
奏多がほほ笑むと同時に、コンコンと助手席の窓を叩く音がした。振り返ると、車のそばに千田が立っていた。
千田は、屋敷の門を開けて穂高たちを中に通した。門を入って玄関までの間には飛び石があり、日陰の苔や伸び放題の植物が目立つが、かつてはちゃんと手入れされていたと思われた。以前の持ち主がいなくなってから放置されたままで、千田もまだ手を付けていないのだろう。
奏多は、建物の物陰に誰かが立っているのに気が付いた。お手伝いさんだろうか。ぺこりと小さく頭を下げると、その人影も会釈を返した。
「いやあ、ご足労頂いてどうもどうも。道には迷いませんでしたかな?」
「ええ、大丈夫でした。道もさほど混みませんでしたし」
「そうですか、それは何よりですな」
千田はたっぷり肉のついた顔で笑った。
邸宅の中に入ると、カビっぽく古びた匂いがして、外は晴れているのに窓から指す光量が少ないのか、ずいぶんと暗い印象だった。
「いや、申し訳ない。これでも掃除は業者に頼む予定だったのが、今回の騒動で後回しになってしまって。」
「いえ、問題ありません。」
「まあ早速と行きたいところだがね、ここまでわざわざ出向いてもらったことだし、お茶のいっぱいくらいは出させてくれたまえよ。なかなか良い客間があるんだ。」
そう言って千田は、客間を案内した。部屋に入ってみると、誂えの良いソファに一枚板のテーブルが置いてあり、鬱蒼とした暗い雰囲気とは対照的に、全体的に上品でセンスの良い内装とインテリアが好意的だった。
「ここは気に入ったから、リノベーションも必要最低限にして、できるだけこのまま使うつもりなんですがね。悪くない部屋だと思いませんかな?」
「ええ、調度品もすべて品が良くて、素敵なお部屋ですね。」
穂高がそう言うのを聞いて、千田はさぞ満足そうにニタリと口角を上げた。
「やはりしっかりしたお家柄の方にお墨付きを頂くと気分が良いですな。何、せっかく良い物件をこのあたりの土地の相場からしても破格で買ったというのに、まだ誰一人招くことも出来ていませんので、歯痒い思いをしていたんですよ。いやいや自分で言うのもなんですが、自慢話が好きな性分でしてね」
千田は小さく肩をすくめた。穂高の家柄というのは、祖父が一代で築いて大成功をおさめ、今となっては数十の子会社を傘下に収める荒巻海運のことを言っているのだというのは、奏多にも分かった。穂高の顔をちらりと見たが、当の本人は、出自の話など出なかったかのように平然と千田の話を聞いている。事務所のビルが実家の所有物であることを除けば、穂高はほとんど家の恩恵を受けてはいないのだ。それは姉のスミレにしても同じことで、二人とも自営業で稼いで自活できているし、ビルへのテナント料も、他の店とほとんど同じ額を収めている。
「ああ、立ち話させてしまって申し訳ない。どうぞおかけになってください。すぐにお茶をお出ししますから。」
「では、お言葉に甘えて。」
穂高はにっこり微笑んで、お茶の準備をしに退出する千田を見送った。成金とはいえお金持ちだから、千田本人がお茶の準備をしに行くのには驚いたが、穂高いわく、幽霊騒動のせいで人を雇えないのだという。というのも、変な噂を立てられたくないので、解決するまでは家に入れる他人を最小限に抑えたいらしい。リノベーションの工事が保留になっているのも同じ理由だった。
「外から見るより感じの良い家だね。さっきのおじさんも、こういうセンスは理解できるんだ。」
奏多が言うと、ソファに腰を下ろした穂高がこらえきれずに噴出した。
「確かに。とんでもなく派手なおっさんだからな。」
先日事務所を訪ねてきた時と同じく、千田は和装だった。着付けはしっかり出来ているものの、色や柄が奇抜で、組み合わせが絶妙におかしい。おしゃれ上級者がコーディネートのアクセントに使うアイテムを、頭からつま先まで全身に纏っているような感じだ。
奏多は穂高を笑わせたことに気分を良くしながら、部屋の中をうろついて観察を始めた。家の作りも調度品も、派手だったり華美だったりするものはほとんどない。客間の隣は続きで違う部屋があるらしく、襖で仕切られている。奏多は、その襖の方に視線を移した。隙間の間からこちら側を覗いている誰かの目と、目があった。
「わ!」
瞬間、腰が抜けてしりもちをついた。穂高が奏多の声に驚いて立ち上がる。
「なんだよ」
「あ、あ、あの…そこに…」
「あ?」
奏多が震える指で襖の戸と戸の間に薄く空いた隙間を指す。穂高は、その方向に視線をやると、ため息をついてソファに座りなおした。
「お、おい、見えないわけじゃないよね…?」
「…見えるけど。ずっとそこにいただろ。」
「え」
「俺たちがこの部屋に来た時から、ずっとだ。」
「えええ」
恐る恐るまたその誰かの方を見ると、その目はまだ暗い瞳で奏多たちを見ていた。
「こっち来て座れ。怖いなら俺の近くにいろ。」
「う…わかった。」
うなだれて、穂高の隣に腰を下ろす。
「…近いんだよ!」
穂高が奏多を振り向いた。奏多は怖さのあまり、穂高の体にぴったりと寄り添うように座っていた。
「ひど!近くにいろっていったのに…だって怖いんだよ!」
「うるさいな。何もしてこねえよ、こっち見ているだけだ。怖くない。大体お前、霊の気配とかで気づかないわけ?」
「気配なんかわかんないよ。僕には見えるだけなんだから。何なら人間と幽霊の違いだって見ただけじゃわかんない!」
奏多はむっと頬を膨らませた。穂高が心底呆れたように、じとっとした視線を寄越す。
「なんだよ…もう」
その時、客間の戸が開いた。さっきから霊が覗いている襖の方ではなかったが、びくっと奏多が体を震わせる。穂高はすました顔になって、茶を持って入って来た千田に目線を向けた。
「すみません、頂きます。」
テーブルの上には洒落たティーカップが二つ並んだ。
「それで…何かお感じになりますかな?」
小指を立ててカップを持ち、ずずっと茶をすすった千田が、ちらと穂高を見た。
「はあ。千田様、ご依頼の件ですが、このお屋敷の幽霊退治、でしたね。」
「ええ、そうですよ。何、幽霊がいないというんじゃないでしょうな。」
「いえ。霊は確かにいますが、…千田様。霊というのはそこかしこにいるものです。こちらのお宅の中にも、いることにはいますが、それが千田様のおっしゃる件のものかはまだ判断出来かねます。」
「…ふうむ…」
千田は穂高の言葉に納得したのかしていないのかよくわからない表情をしたが、「よし!」と言ってティーカップをテーブルに戻した。
「では。私が以前その霊的な何それを目撃した場所をご案内しましょう」
千田は穂高たちを伴って、座敷の奥へ進んでいった。敷地の奥には蔵があり、母屋からはいったん庭へ出なければならないが、蔵と母屋をつなぐ最短距離はコンクリートで固められた小道になっているので、千田はスリッパのまま外に出た。穂高もそれに続いて外に出る。
「こちらですか、幽霊を目撃されたのは。」
「さようです。ま、私は幽霊だのいうものがはっきり見えるわけではないのだが…ここには私一人なのに、誰かがいる気配を感じたのですよ。気味が悪いの何のって…。」
奏多は、穂高の後ろに隠れるようにして立った。穂高は黙って千田の話を聞いていたが、にこりと笑って話し出した。
「なるほど。蔵を拝見しても?」
「ああ、もちろん。こちらへどうぞ。」
「蔵の中には何か入れてあるのですか?」
「ええ、ここへ引っ越してきた時、美術品をいくつか運び入れましてね。ああ、ぜひそれらも見て頂きたいですな。さ、どうぞどうぞ。」
千田が蔵の扉を開けた。日が陰って来た挙句、蔵がある位置はもともと日陰になっていて、小さい明り取りの窓があるものの、中はかなり暗かった。美術品を入れる前に清掃は済ませたらしいが、やはりここも母屋と同じで、少しカビっぽく古びた匂いがする。
「…」
蔵に入るなり、穂高は半眼で中を見渡し、仏頂面である方向を睨んだ。
「ほら、ここに置いてある掛け軸ですがね、数か月前にオークションで落札したんです。ぜひご覧に入れたいですな。」
穂高が睨みつけた方向に千田が歩み寄り、細長い桐の箱を手に取った。穂高は黙ってその姿を見ている。千田はどうしてもその掛け軸を穂高に見せたいらしく、箱を開けて掛け軸を広げた。
「千田さん」
「ひいっ!」
穂高が声をかけると同時に、千田が掛け軸を足元に落とした。落ちた掛け軸が広がり、その絵が露になる。
女の絵だった。髪を振り乱した女が、何かを叫ぶような表情でこちらを睨みつけている。
千田は数歩下がって、そのまま腰を抜かして地面にひっくり返った。代わりに穂高が歩み出て、掛け軸に近づく。
「千田さん、これはもともとこういった絵でしょうか?」
「ち、ちち違う…な、なんだこの絵は…こんなもの買ってない!女性の後ろ姿だったのに、なんでこっちを見ているんだ…っ」
千田が胸を押さえながら、息も絶え絶えに答える。奏多も千田の隣で足をすくませていたが、ふと気が付いて、掛け軸を拾い上げた穂高に向かって叫んだ。
「そこに立ってる!」
穂高が奏多の方をちらと見やる。と、同時に千田が叫び声をあげた。
掛け軸の女が、暗い蔵の隅に立っていた。
振り乱した髪の間から、落ちくぼんだ目で千田を睨んでいる。そのまま、千田に向かって襲い掛かった。
「ひいい来るなああああ!」
奏多は驚いて飛びのいたが、腰が抜けている千田は動けない。女は青白い手を伸ばし、千田の首に手をかけた。
確かに聞こえた。「殺す」という女の声が。千田は完全にパニックで、苦しそうにあえいでいる。怖くなって、奏多はその場でぎゅっと目を閉じた。
穂高が奏多を背中に隠すように立った。何かを払いのけるように手を動かす。あえいでいた千田が静かになった。
「…?」
恐る恐る片目を開けると、女はいなくなっていた。肩で息をする千田を、穂高が手を貸して立たせようとしている。
「な、な、な、なんだったんだ、今のは…」
千田の首は、女の手の形に紫に変色していた。
車のエンジンをかけると、穂高はすぐに車を発車させた。助手席には奏多、後部座席には千田が乗っている。掛け軸の入った桐の箱は、千田の隣に置かれている。千田は思い切り顔をしかめて箱を睨みつけながら、穂高に尋ねた。
「それでその、あの女は君が祓ってくれたのだね…?」
「ええ。ご覧になった通りです。千田さん、とんでもない品を掴まされましたね。」
穂高は、ミラー越しに千田に笑いかけた。
あの後、穂高が再び掛け軸を開くと、女の後ろ姿が描かれていた。髪は綺麗に結われ、美しい色の着物を着ている。蔵の中は暗くてわからなかったが、さっき現れた女の霊もこの着物を着ていたのだろうか。あの姿では、この絵の女と同一人物なのかは判断が付かなかった。
「それはもうただの絵ですから、ご安心を。ただし、先ほども申し上げましたが、しかるべきところでお焚き上げするのが良いでしょう。霊へのせめてもの供養です。」
「はあ…それは大事ですな…供養は…」
千田はどっと疲れた様子で、穂高の話に相槌を打った。ふくふくとした丸顔が、暗く沈んでいる。
「物には時として、それに執着していた人間の霊魂が憑いてしまうものです。珍しいことではないですが、殺意があるとなると、とんでもなく大きな執着ですね。おそらくは、元は正規の持ち主から合意なく奪われたものではないかと。平たく言えば盗品です。」
「え、と、盗品…?そんな怪しいところで買ったものでは…」
「ええ、わかっています。盗まれたとして、もう何十年と昔でしょう。私は絵の鑑定士ではないので詳しい年代はわかりかねますが。ま、絵に罪はないので、やはりお手元に残されたいとおっしゃるなら止めはしませんが。」
意地悪い顔で言う穂高の言葉に、千田は子供の様に首をブンブンと横に振った。
一行は車を走らせ、鵬印寺という寺に向かっていた。鵬印寺は、穂高の知り合いが住職をしている寺で、穂高の事務所のあるA町の隣のB町に位置している。蔵での騒動のあとすぐに穂高が電話をして、掛け軸の焚き上げを依頼しておいたのだ。
砂利の敷き詰められた駐車場に車を止め、寺の方に歩く。掛け軸は千田が嫌がるので穂高が持っていた。門前まで行くと、背が高く頬のこけた厳格そうな眼付きの住職が出迎えに出てきた。
「急なお願いですみません。」
「いや、君の頼みならね」
住職は穂高に微笑みかけたが、微笑んでもなお厳格な顔つきは変わらない。ちょっとだけ怖くて、奏多はまた穂高の背中に隠れた。
焚き上げはすぐに開始され、千田だけが本堂の中で待つことになり、穂高と奏多は外で待つことにした。
「いい加減離れろ。」
鬱陶しそうな顔をして、穂高が振り返った。今日、奏多は穂高にくっつきっぱなしだった。いくら穂高について仕事の内容を見て慣れているとはいえ、今日のは少し衝撃的だった。霊が殺意を持って襲い掛かってくるなんて…。あんな現場は初めてだ。
「何、震えてんの?」
あの落ちくぼんだ目を思い出して震えだした手を見て、一度距離を取った穂高が、寄り添うように奏多の隣に戻って来た。
やっぱり穂高は優しい。と、奏多は思う。さっきだって、守るべきは千田なのに、その背中は奏多を守っているようだった。
「そんなに怖かった?」
「…うん。怖かった。あの人は、あの掛け軸を盗られちゃって、それを恨んで霊になったのかな?」
「…うーん」
穂高は、一瞬逡巡するように目を宙に向けた。
「わからないけど…盗まれたときに殺されたのかもしれない。」
「え」
「じゃなきゃあそこまで殺意を持った霊になるか?いくら大事な掛け軸だったとして、物に執着してあそこまでになるか。」
「…大事だったのかもよ、それほどまでに。好きな人が描いてくれたとか。」
「じゃ、あの女が華原宗衛門のいつかの恋人だったってか?」
「かはら、何?」
聞きなれない名前がいきなり出てきて、奏多は思わず聞き返した。
「あの絵の画家だよ。もともと有名だったけど、最近亡くなって、更に作品の値が上がった。千田もそのことで自慢したかったんじゃねえかな。そんなん見せられたって反応に困るけど。」
「なんでそんなん知ってんの?」
「うちの親父も骨董に凝ってるから。つまんない趣味だよな。」
「へ、へえー」
ふつうは知らないでしょ…さすが荒巻海運の御曹司。とは口が裂けても言わない。
煮え切らない反応をしていると、怪訝そうに穂高が顔を覗き込んできた。
「何を暗い顔してんだよ、…そんなに怖かったならいつまでも考えてないで、さっさと忘れろ。」
「いや、その…いつか僕もあんな風になちゃったらどうしようって、考えてて」
「はあ?お前が?なんで。」
奏多の言葉の意味が理解できない、という表情で、穂高が首をかしげる。
「…だって僕、執着してるから。」
「何に?」
その時、「穂高!」と誰かが穂高を呼んだ。二人して振り返ると、背の高い若い男が、片手を上げて近づいて来た。小さくて丸いレンズのサングラス、ド派手な柄シャツ。少しだけ頬がこけている。
「四谷…」
「何してんの、こんなところで!もしかして俺に会いに来たの~?穂高ちゃん」
四谷と呼ばれた男が穂高の肩に手を回した。穂高は決して華奢なわけではないが、男の長い腕は、穂高の肩をすっぽりと抱いた。
「やめろ。近い。」
ぐいぐいと穂高が男の胸を押すが、びくともしない。
「まあまあつれないこと言わずに。お兄ちゃんがお茶入れてあげましゅから、こっちおいで~」
「きも。俺はいま仕事中なんだよ!」
やいやい言いながら、穂高はあっという間に男に連れていかれてしまい、奏多は本堂の前に一人で取り残された。
「…」
穂高を連れ去った男の背中を睨む。
―――「だって僕、執着してるから。」
―――「何に?」
穂高、わからない?
僕が執着しているのは、穂高だよ。
置いて行かれた奏多は、駆け足で二人の後を追った。
*
穂高は四谷の部屋に連れていかれてしばらく話し込んでいたが、掛け軸の焚き上げが終了する頃には解放された。
鵬印寺から千田を屋敷まで送り、事務所に戻る道中、車の中で奏多は、ずっと気になっていたことを聞いた。
「そういえば、あの目の人は関係ないの?あの人のことは、祓ってないよね?」
「…あー」
客間で、襖の隙間から穂高たちを見ていた目のことだった。
「あれは別に害ないし。そんなこと言ったら、玄関の前でお前が挨拶してた霊も、庭にいた霊も、みんな祓わなきゃいけないじゃん。」
「…え?」
奏多は目を丸くして穂高を見たが、穂高はその視線に小さく首を傾げ、平然と車を走らせた。
2
柏木奏多は高校生だ。だから今日も学校へ行く。
学校へ行っても、相変わらず誰とも話すことはない。ぼーっと授業を聞いて、気が向かない時は抜け出して校内を散策する。病弱だったころに比べれば、今は体が軽くて、楽だ。だからこうしてただ歩き回るのが好きだ。
でも、やっぱり誰とも話せないのはつまらなかった。だから今日も、放課後は荒巻霊媒事務所に入り浸る。
事務所に入ると、穂高は一人だった。今日の来客は午前中で終わったようだ。
つまらないが、穂高と話せるならそれでいい。学校に居場所のない奏多にとって、ここは一番気持ちが安らぐ場所だ。
「おーい、来たよ~」
部屋に入った奏多に気が付かないのか、反応しない穂高に声をかけてやる。しかし返答がない。
「おいってば」
近づいてみると、どうやら穂高はいつもの安楽椅子に座ったままうたた寝しているようだった。後ろの窓が開いていて、そよ風がその黒い髪を撫でている。
「珍しい…」
腕組して、すらりとした長い足を組んで座っている穂高は、いつもなら不機嫌そうに歪めている顔から力を抜いて、小さく寝息を立てている。奏多は穂高の寝顔を覗き込んだ。比較的色素が薄い奏多に対して、黒々としたまつ毛が枝垂れかかっている。
「なんか、可愛い」
奏多は、ふふ、と小さく声を出して笑った。奏多は高校生、穂高は大人だ。だから穂高を可愛いと感じるなんて、なんだかおかしかった。何をするわけでもないのに、穂高の寝顔を見ているのは楽しいし、いつまでも見ていられそうだ。
「好きだからかな…」
わざと独り言ちてみる。奏多は、そよ風にかすかに揺れる穂高の前髪に手を伸ばした。
カランコロン…
穂高の髪に触れるか触れないかの瞬間に、事務所のドアが開いてベルが鳴った。その音に穂高がゆっくりと目を開ける。目を開けて最初に、穂高が奏多を見る。
「…かなた?」
奏多にしか聞こえないくらいの少しかすれた声だった。
じっと見つめ合っていると、ドアの方から男の声がした。
「おーい穂高、ご依頼人を連れてきてやったぜ~。」
その声に穂高と一緒に振り返ると、先日の依頼で掛け軸の焚き上げをした寺、鵬印寺で穂高に声をかけてきた男、四谷博隆が立っていた。
「…何だよ。」
「何だとは何だ。さっきお姉さまに聞いたぞ、今日はもう仕事ないんだろ。この優しいお兄さんが、いつものように仕事を持ってきてやったんじゃないか。」
四谷は、ふんぞり返ったポーズで、フンと鼻を鳴らした。先日寺で会った時と同じような格好で、丸くて小さいレンズのサングラスをかけ、派手な柄のシャツを着ている。穂高とは学生時代からの付き合いらしく、妙に距離が近い。鵬印寺の住職の息子なのだが、寺の跡継ぎは弟に任せ、この近所でバーを経営している。奏多は、この男が何度かこの事務所に出入りしているのを見ていた。
「…お前が持ってくる仕事は…」
「大抵あたり、だろ?」
四谷がサングラスからはみ出した目の片方を不格好につぶった。どうやらウインクだ。
「…依頼人は?」
「もうすぐ来るよ。待ってな。」
四谷の経営するバーには、様々な客が来る。四谷はたまに、霊障に悩まされている客を依頼人として荒巻霊媒事務所に斡旋しているのだ。しばらく待っていると、四谷の後ろに今回の依頼人だという人物がやって来た。
その日四谷が連れて来た依頼人―――田貫峰子は初老の女性で、パツパツに張ったツイードのツーピース姿で、来客用のソファにどっしりと腰を下ろした。
「田貫様、本日はどのようなご相談でしょうか。」
いつもの営業スマイルで応対する穂高を、田貫夫人はお気に召したようだった。
「まずは突然押しかけてしまったご無礼を謝らないといけませんわね。あたくしの友人の友人が以前、四谷さんを通してこちらでお世話になった話を突然思い出しましたの。最近もうお話するのも嫌になるくらい気味の悪いことがありましてね、いてもたってもいられず、ますは四谷さんのお店にお伺いしましたの。そうしたら、今日ご紹介くださるということだったから、お言葉に甘えた次第ですのよ。」
夫人は矢継ぎ早に話すと、さっきスミレが出したお茶をすすって一息ついた。
「あら、美味しいお紅茶ですこと。」
穂高はにこりとして、無言で話の続きを促した。
「手っ取り早く本題に入ってしまってよろしいかしら。…この写真を見て頂きたいの。」
夫人は暗い顔になり、手元の小さくて派手な色のバッグから、L版の写真を取り出し、忌々しそうに、半ば放るような形で裏向きでテーブルに置いた。
「ご覧になればわかるはずですわ…」
「拝見します。」
穂高は、躊躇なくその写真を手に取って表に返す。
「なるほど…」
穂高のソファの後ろに立っていた奏多と四谷も穂高の背後から腰を曲げて、写真を覗き込んだ。
「わっ」
「何これ」
二人とも思わず声が出た。その写真は、どこからどう見ても心霊写真だった。
「なんか気持ち悪い…」
「初めて見た」
「こんなの、本当にあるんだ。」
「これは面白い話になりそうだな」
「全然面白くないよ、何言っているのこの人…」
「いやあ人生で本物の心霊写真にお目にかかれる日が来るとは。」
奏多と四谷が口々に話すのに我慢ならなくなった穂高が、二人の方を振り向いた。
「うるさいぞお前ら。少し静かにしろ。」
「え?」
夫人と四谷が首を傾げた。穂高が二人を睨みつけた顔は夫人には見えなかったはずだが、急に言葉を崩した穂高に夫人は一瞬戸惑ったようだった。しかし、振り返った穂高が「失礼しました」と言ってにこりと微笑むと、気を取り直して、話の続きを始めた。
「その写真、四谷さんがおっしゃいますように、いわゆる心霊写真というものでしょう?」
「確かに、そのようにお見受けします。」
写真には、夫人と、この世の者ならぬ男の影が写っていた。
暗い顔で、ただ写真に写っている。
「…今すぐここで祓います。」
穂高は立ち上がった。「え?」と全員が穂高を見上げる。奏多は、まさかと思って夫人の背後を見た。
…いる。
奏多は硬直した。気が付かなかったが、暗く落ち窪んだ目をした男が、夫人の真後ろに佇んでいた。
でも、この人は…
「この人は、ただ立っているだけだ。」
穂高が言った。奏多に言っているのだ。
男の姿が見えない四谷と夫人は、ただ困惑している。
「でも、仕方がないよな。」
穂高は冷淡に言い、男の霊を祓った。
3
季節は本格的な夏になろうとしていた。梅雨が明けてセミが鳴きだし、太陽光が温度をぐんと上げた。
奏多は、いつものように学校に来て、授業を聞いていた。進学校だから真面目に授業を聞いている生徒も多いが、塾でも勉強できるからか、授業に集中できていない生徒もちらほらいる。教室の最前列の席で堂々と船を漕ぐ生徒に気が付いて、先生が注意する。注意された生徒は勢いよく起きようとして、寝ぼけているのか立ち上がってしまう。その姿を見て教室中が笑いに包まれた。この生徒はクラスでもお調子者で通っているのだろう。先生も半分笑いながら、冗談交じりにこぶしを上げてみせる。その姿に、何人かの男子が手を叩いて笑った。
奏多は、彼らの名前も知らない。奏多だけが、この教室の皆と同じように笑うことができない。相変わらずの、灰色の高校生活だ。窓から見える景色に目を向けた。景色と言っても、正面には向かいに建つ校舎が見えるだけ。その校舎の左右にも、校舎。建物が、ちょうどロの形に中庭を囲んでいるのだ。ぼーっと窓の外を見ていると、学校生活とは関係がないことばかり頭に浮かんでくる。
穂高の顔、穂高の声。除霊の仕事をしているときの穂高はかっこいい。かっこいいのに、寝顔はかわいい。接客用の笑顔は完璧で爽やかだけど、素の時の仏頂面や機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せる顔まで、かわいい。誰が見ても穂高は奏多より年上の大人の男なのに、こんなふうに感じるのはおかしいだろうか。穂高は、奏多が突然距離を縮めたり、顔をのぞき込んだりすると怒る。照れているのだとしたら、一層かわいい。
「大人のくせになあ」
誰にも聞こえないくらいの声量でつぶやいた。
最近は、灰色の学校生活も、こうして穂高のことを思い浮かべていると、以前よりだいぶ楽に一日を過ごせるようになった。学校がどんなに楽しくなくても、奏多はちゃんと通っていた。病気を患っている間はろくに登校できなかったから学校に行きたいという気持ちもあるし、何よりも、自分が理由なく学校を休んだら両親が悲しむ。
両親のことが頭に浮かぶと、複雑な気分になった。放課後や休日を荒巻霊媒事務所で過ごすようになってから、家で過ごす時間は無くなった。仲の良い家族だったが、両親の傍にいるのが辛くなっていた。
「…」
以前自分が横たわるベッドの脇で泣き崩れた母親の姿が脳裏に浮かび、奏多は考えを打ち消すように頭を振った。ため息をついて、気分が悪くなったため、教室を出る。親のことを考えると、すっかり暗い気持ちになってしまった。日陰になっていてひんやりとした廊下を少し歩いて、どこに向かうか考える。一旦校庭にでも行って、外の風に当たった方がいいだろうか。思案していると、さっきまで自分がいた教室の方から、女子の叫び声が聞こえた。
驚いて教室へ戻ると、皆が窓際に集まって下を見ていた。
「やばい、あっちの校舎から誰か落ちた!」
今度は男子生徒が叫んだ声がはっきり聞こえ、そこから先は、教室中、いや学校中が騒然となった。教師が制止するが誰も聞かず、窓際には人だかりができていて、奏多は近づくことができない。窓の外で何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。
「誰かが落ちたらしいよ」
「…えっ」
いつの間にか奏多の隣に立っていた男子生徒が、独り言のようにつぶやいた。驚いて顔を向けると、男子生徒も奏多の方をちらっと見上げた。奏多より少し低い背丈。全く日に焼けていない青白い肌。長い前髪の隙間から、つり気味の鋭い目が覗いている。
「屋上から、落ちたみたい」
その男子生徒は続けて言った。目はがっちりと奏多と合っている。
「そ、そうなの?」
奏多は少し思案してから遠慮がちに返事をした。何しろ、奏多は学校で誰かに話しかけられることがほとんどない。それに、多分同じクラスでもないし、見たことのない顔だった。だから、本当に奏多に話しかけたのか、そうだとして似た友達と勘違いしたのではないかと疑った。
奏多が返事を返したことに、その男子生徒は満足したようだった。どうやら本当に、奏多に話しかけたらしい。ちょっと首を伸ばして覗き込むと、制服のシャツに付けられた名札には、森と書かれている。
「…落ちたって、事故?」
名札から森の横顔に視線を移して問うてみる。森は窓に群がる生徒たちの人込みをじっと見つめ、少しの間黙っていた。
「さあ。知らない。」
黙った後につづいた答えはそっけなかった。
「そっか」
よくわからない。万年ボッチの奏多が言うのもなんだが、暗い子だなだと思った。そしてそこから会話が続くこともなく、奏多と森はただ並んで教室の隅に立っていた。
しばらくすると救急車のサイレンの音が近づいて来た。その音はだんだんと大きくなり、校門の方向で止まった。
「つまり、飛び降り自殺…?」
学校から荒巻霊媒事務所へ向かう途中の、夕方のY字路。今日学校であった出来事を話すと、さすがの早苗も目を見開いて奏多の方を振り返った。
「事故なのか何なのか、わからないんだけど…多分そうじゃないかって、皆言ってた。」
「誰も見ていないの?校舎に囲まれた場所だったんでしょう?」
「うん、それが、ちょうど僕がいた教室の目の前の校舎から落ちたみたいなんだけど、誰も落ちた瞬間は見ていないんだ。」
「…皆、落ちた後を見ちゃったのね。」
「うん。中庭の植え込みの上に落ちたみたいで、そういう、その…血とかは見えなかったみたいだけど」
「それでも、トラウマになるよね、そんなの。かわいそう。」
早苗は、自分の体がどこか痛いかの様に顔をしかめた。奏多も、見てしまった生徒たちのことは気の毒に思った。と言っても、好奇心で自分から覗き込んだ生徒も少なくないだろうが。
「もちろん、落ちた子もお気の毒だけどね。自殺は嫌だな、悲しいから…」
「僕もそう思う。」
二人の間に沈黙が流れた。
早苗が道路の方に体を向けなおしたため、奏多も同じ方向を向く。
「…穂高君に相談してみたら?彼なら、自殺なのか事故なのか、調べられるんじゃない?」
「早苗さん、あいつは霊媒師で、探偵じゃないよ。」
そうだったわね、と言って、早苗は弱弱しく笑った。
「この後も穂高君のところに行くんでしょ?」
「うん、行くよ」
「そう、じゃあ、一応穂高君に話してみたらどうかな?」
「うん、そうする」
奏多は素直に頷いて、Y字路を後にした。
荒巻霊媒事務所のあるビルの前に着くと、シエルの店先にスミレが立っていた。
「あら、奏多君。こんにちは。」
「こんにちは、スミレさん。」
「とっても良い天気ね。穂高は中にいるよ、今日はお客さんも来てないから、ゆっくりしていってね」
「ありがとう」
奏多はスミレににこりと微笑んで、花の咲き乱れるシエルの店内に入っていった。荒巻霊媒事務所はシエルと同じ一階の奥にあるため、事務所に行くにはシエルの中を通っていかなければならないのだ。相変わらず、シエルの店内には所狭しと花々が並んでいる。季節は夏の初め。紫陽花の鉢や、ラベンダーの切り花などが並ぶ店内を縫うように進んでいくと、荒巻霊媒事務所の扉が現れる。
事務所に入ると、穂高は机に向かって本を読んでいた。放課後事務所に行くとすでに来客の時間が終わっていて、穂高が一人なことが多い。接客が得意なくせに嫌いな穂高は、嫌なことはさっさと済まそうと、わざと依頼人とのアポイントメントを午前中に取っているらしかった。一緒にくつろいで話すのも良いけれど、仕事モードの穂高はかっこいいから、見られる機会が少なくて少し残念だ。
「おーい、来たよー。」
奏多が声をかけると、穂高は顔は上げずに片手を上げて答えた。
「なんだよ適当な反応だなあ。今日は聞いてほしいことがあるんだけど…。何読んでるの?」
「…黎弦さんが新しく出した本。さっき郵送されてきて、明日感想を聞きに来るって手紙が付いてた。」
相変わらず本から顔を上げないまま、穂高は不機嫌そうに答えた。
黎弦さん、というのは、オカルト系のテレビや雑誌で活躍するそれなりに有名なタレント霊媒師、氷川黎弦のことだ。黎弦は七〇歳近い大ベテランで、穂高の祖父である荒巻平蔵の大学時代の後輩だという。小さい頃から穂高を可愛がっていて、穂高が今の仕事を始めたときから何かと気遣ってくれているらしい。今日配送された本を翌日までに読めとはかなり押しつけがましい性格の様だが、小さい頃から世話になっている自覚がある穂高にとっては、簡単に逆らえない存在の様だった。
「へえ、あのおじいさん、明日ここに来るの?僕、お会いするの初めてだ!」
嬉しそうに奏多が言うと、そこで初めて穂高が顔を上げた。
「会う気かよ。」
「もちろん。ダメなの?」
「…ダメじゃないけど。てか、聞いてほしいことって、何?」
「あ、そうだった。」
奏多は、今日学校であった騒動の件を話した。帰りにY字路で、早苗と話したことも。穂高は黙って耳を傾けていたが、表情はだんだん厳しくなっていった。
「…と、いうことがあったって話なんだけど。」
「ふーん。」
「ふーん、て」
興味のなさそうな反応に、奏多は拗ねて唇を尖らせる。穂高はその顔を見て、安楽椅子から立ち上がって奏多に近づいた。
「で、その森って奴は何者?」
「え、森君?」
「おかしいだろ、いきなりお前に声をかけてくるなんて。見たことない奴なんだろ?」
「うん、別のクラスなんじゃないかな…?知らない子だった。」
「ま、お前が知っている奴なんかいないだろうけど。」
「…そりゃ、僕友達いないし…。あ、でも、もしかしたら森君が初めての友達になるかもなのかな」
思いついたことをつぶやくと、穂高の表情が曇った。凄みのある形相で奏多を睨む。その睨みに動揺して後退りすると、穂高もそのまま距離を詰めてくる。ついに奏多は壁際に追いやられ、背中が壁に着いた。穂高は奏多の顔の横に肘をついて、なおも睨んでくる。
「な、なに、顔すっごく怖いんだけど…」
怖いし、近い。奏多は思わず顔を背けたが、穂高はその顔を覗き込むように身をかがめた。
「お前はそいつと友達になりたいわけ?」
「え、そ、そりゃ、僕だって友達くらいほしいよ」
「…そんなにそいつが気に入ったの?」
「え?」
穂高の拗ねたような言い方が引っ掛かった。ちらっと穂高の顔を見上げると、眉間に刻まれた皺のせいで迫力があるが、どことなく拗ねた表情に見えないこともない。
「もしかして穂高、やきもち焼いてる?」
「はあ?」
形勢逆転の気配を察知して、奏多はにやっと口角を上げた。
「あはは。可愛すぎる。安心してよ、僕と一番仲良しなのは穂高だよ!」
「うるさいな、誰が可愛いだと。気持ち悪いこと言うな。それに、俺は別にお前と友達じゃないぞ。」
背筋を伸ばした穂高に、今度は奏多がぐいっと顔を寄せた。下から挑発するように見上げる。
「知ってるよ。でも、友達じゃなくても、僕と一番仲良いのは穂高だよ。」
にこりと笑いかけると、今度は穂高が言葉に詰まった顔をした。穂高は、人と距離が近いことに耐性がないのだろう、こうして奏多からぐっと距離を縮めると、ぼーっとした表情になったり、照れるような表情をしたりする。それが奏多には気分が良いことだった。今回完全に形勢逆転に成功した奏多は、更に気分が良かった。
至近距離でお互い見合っていると、まるで我慢大会の様になってきた。奏多が一歩も引かずに穂高を見上げていると、ついに穂高の方が後退って行って安楽椅子に座りなおした。
「僕の勝ち。」
にやっとしながら言うと、穂高はより一層眉間に皺を寄せてため息をついてから、話題を戻した。
「早苗さんが言っていた、その飛び降りが事故か自殺かって話は、お前の言う通り俺の専門外だ。それに俺が調べなくても警察が調査するだろうし、いずれわかる。」
「でも、警察が調査したって生徒まで情報が回ってくるのかな?」
「そういうのはどういうわけか簡単に噂になって、勝手に耳に入ってくる。どんなに聞きたくないことでも。」
「どんなに聞きたくないことでも?」
「そう。どんなに聞きたくないことでも。学校中がその話題で持ちきりになる。誰かが死ぬなんて、好奇心だらけの人間にとっては恰好のネタだからな。」
「…でも今回に限っては、僕は知りたいな。早苗さんが心配してるし。早苗さんにこのことを話しちゃったのは僕だし。」
そう言う奏多を一瞥して、穂高は机の上に置いた本を再び開いた。そこからは二人で何か話すわけでもなく、ただ事務所でくつろいで過ごした。途中スミレが一輪挿しに新しい切り花を入れて持ってきて、奏多と少し話し、出て行った。
翌日は土曜日で、奏多は朝から荒巻霊媒事務所にいた。この日は穂高の恩人である氷川黎弦が訪ねてくる日で、奏多はそわそわしていた。穂高は昨日の夜には黎弦の本を読了していて、気の抜けた様子で来客用のソファに沈み込んでいた。
「ねえ、黎弦さんて何時に来るの?」
「さあ。手紙には、午前中に来るって書いてたけど。ていうか、何をそわそわしているんだお前は。」
「だって、氷川黎弦って、僕初めて会うんだ。テレビでしか見たことない人だし、そんな人に会うなんて初めてだから」
「お前意外とミーハーだな。」
「え、そうかな」
穂高はじっと奏多を見つめると、自分の座っているソファをポンポン叩いた。
隣に座れという意味だと理解して、奏多は穂高の隣に座る。
「いいか。お前は今日ずっと俺の傍にいること。」
「え、どういう意味?」
「なんでもいいからそうしろ。黎弦さんはタレントに持ち上げられてはいるけど、見た目の胡散臭さとは違ってちゃんとした霊媒師だ。だから…」
「誰が胡散臭いだって?」
突然背後から声がかかり、穂高と奏多は驚いて振り返った。
そこには、上品な和装を身にまとった恰幅の良い老人が、ドアを背にして立っていた。
「ひ、氷川黎弦…」
思わず呟く奏多を、黎弦は一瞥する。たれ目で人相が良く、真顔でも笑っているような顔つきをしているが、テレビや雑誌で見るのとは違って、目の奥が笑っていない。柔和なお茶の間のイメージとは違って、実物は厳格そうな印象を受けた。
「あんた変なのに懐かれてんじゃないのよ。」
奏多には一瞥をくれただけで、黎弦は穂高に視線を向け、席を勧められるより前に、二人の向かいのソファに腰を下ろした。
「相変わらず暗い事務所だねエ。あ、この花はセンスが良い、さすがスミレだね。」
黎弦は、デスクの上に置かれた一輪挿しの花を見て満足そうに頷いた。
「ちょっと、師匠がはるばる訪ねて来たんだから、挨拶の一つもしないかい。」
黎弦は向かいに座る穂高にぴしゃりとした口調で言った。当の穂高は、なぜかさっきから呆然とした様子で黎弦を見ている。
「黎弦さん、あんた…」
穂高が何か言いかけるのと同時に、事務所のドアが開いてカランコロンとベルが鳴った。奏多がドアを振り返ると、入って来たのはスミレだった。
「あら」
スミレは、ソファに座る黎弦と目が合うと、驚いた顔をした。
「黎弦さん、いついらっしゃったの?」
「ついさっき。久しぶりだね、スミレ。」
黎弦はにこりともせず(と言っても笑っているような顔だから、にこりとしている様に見えるものの、表情筋は動いていない)、スミレに挨拶した。スミレも、「お久しぶりです」と改めて挨拶を返す。
「いらっしゃるって穂高から聞いていたから、お待ちしていたのよ。事務所に入るとき声をかけてくだされば良かったのに。」
「さア、どこにいるのかわからなかったのヨ。それより、スミレはちゃんと挨拶が出来て良い子だねエ。この馬鹿はさっきからぼーっとしちゃって、ろくに返事もしないんだヨ。」
そう言って黎弦は目を細めて穂高を見た。睨んでいるわけではなく、どことなく、生意気な子供を可愛がっているような空気が滲んでいる。
「いやだねエ。いちゃついているとこ邪魔されて怒ってんのかしら。」
「…誰もいちゃついてねえ。」
「おややっとしゃべったね。全く、こんなぼけっとした子じゃないはずなんだけどねエ」
黎弦はさっきから言いたい放題だ。奏多は言われっぱなしの穂高が珍しいやら、さっきの黎弦の視線が怖かったやらで、すっかり空気に吞まれている。穂高は小さく息を吐くと、また黎弦をじっと見つめた。何か言おうとして、言うべきか考えている顔だと、奏多には思えた。
「何見てんのサ。あたしの顔に何か付いてるかい。」
「…いや別に。」
穂高は、言おうとした言葉を結局飲み込んだようだった。奏多の方を見て、大丈夫、と目配せしてくる。さっきの黎弦の、奏多に向けられた冷たい視線についてだろう。
「お久しぶりですね、黎弦さん。お元気でした?」
「フン。何をボケてんだか知んないけど、その子は何なのサ。困ってんならあたしが追い払ってあげようか?」
「え?」
黎弦が奏多の方を見ると同時に、穂高が奏多の目の前に手を差し出した。ちょうど黎弦から、奏多の顔がすっぽりと隠れて見えなくなる。
「こいつは変なのじゃない。勝手なことしないで。」
奏多からは、黎弦を睨みつける穂高の横顔だけが見える。
「はア。勝手におし。あんたが良いなら何もしないヨ。」
一瞬張り詰めた空気が少しゆるみ、穂高も手を下ろした。奏多と黎弦の目が合う。奏多は小さく黎弦に会釈をしたが、黎弦の方は鼻を鳴らしただけだった。
「スミレ、お茶淹れてくんない?」
穂高がスミレの目を見て言う。スミレは頷いた後、「奏多君、手伝ってくれる?」と言って奏多を伴って事務所を出た。シエルの店内には販売スペースとは区切られたスミレの休憩スペースがあり、二人でそこに入る。
「僕、黎弦さんに嫌われてる…?」
お茶を用意するスミレの横で、奏多はしょんぼりした顔をした。スミレは笑って、
「あんな人なのよ」
と答えた。
「昔から穂高が可愛くて仕方がないの。勿論私のこともね。本当の孫みたいに思ってくれていて、ちょっと過保護なのよ。奏多君は何も気にしなくて良いわ。あの人は、穂高の言葉なら信じるから。」
「そっか…」
奏多は力なく答えたが、もう黎弦に会う気にはなれなかった。スミレが話し相手になってくれたので、その日は黎弦が帰るまでシエルで過ごした。
月曜日。登校すると、穂高の言った通り、学校中が金曜日の事件のことで持ちきりだった。奏多は話す友達がいないため情報収集は難しいかと思ったが、勝手に事の詳細が耳に入ってきた。
飛び降りは、自殺―――。警察はそう判断したらしい。
飛び降りたのは二年生で、奏多がいた向かいの校舎に教室がある。ちょうど授業の時間だったため、一人で抜け出したその生徒は、自分から屋上へ行き、上履きを脱いで、飛び降りたのだという。
自殺だとわかり、奏多はやるせない気分に落ち込んだ。早苗が一番望んでいなかった結果だ。勿論、奏多も。気になるのは、誰もその生徒の名前がわからないことだった。皆の噂の主人公は、飛び降りた奴、と呼ばれていた。
授業中も、生徒たちは全く集中できていない様子だった。騒がしい教室の様子を見かねて教師が説教を開始し、奏多は一層やるせない気持ちになって教室を抜け出した。
どこへ行くでもなく、廊下を歩く。人が亡くなったのに、皆が面白い話のネタとして噂をしているのが嫌だった。
渡り廊下に差し掛かった時、足を止めた。ちょうど窓から、その生徒が落ちたという屋上が見えた。
「ねえ。この前話した人だよね?」
突然背後から声をかけられた。振り返ると、飛び降り事件があった時、教室で声をかけてきた生徒、森だった。
「あ、うん」
奏多が返事をすると、森は遠慮がちに手を差し出してきた。
「あの時はいきなり話しかけてごめんね。僕は、森圭吾。」
握手を求められているのだと気が付き、奏多も名乗りながら手を差し出した。軽い握手をして、手を離す。
「柏木君は、三年生?」
「うん。」
奏多たちの高校には、学年で色が違うピンバッジをつける校則がある。森は奏多の制服のシャツに付いている青いピンバッジを見て、奏多の学年がわかったのだ。奏多も森のピンバッジの色を見た。
「森君は、黄色だから二年生か。」
「そうだよ。柏木君はここで何をしているの?」
「え。何って?」
「だって授業中じゃないか。」
森は、引きつったように顔を歪めた。どうやら笑っているらしい。
「あ、僕は…」
教室の居心地が悪くて、抜け出してきたと正直に言った。後輩にこんなことを言って良いのだろうか、とも思ったが、他に理由が無いから仕方なかった。
「そっか。僕と同じだね。」
「森君も教室に居づらかったの?」
「僕は、教室に居やすかったことなんてほとんど無いよ。」
森はすっと真顔になった。奏多はその表情が少し怖いと感じたが、学校に居場所が無い者同士のシンパシーの様なものを感じた。
「柏木君はよく授業サボるの?」
「…まあね」
サボる、というか。もともと体が弱かった奏多は、授業中に体調が悪くなって抜けることも多かった。だから、授業中に誰もいない校内を歩くことには慣れている。
「何か良いサボり場所って無いかな?僕、あんまり授業を抜け出したことなんて無いんだ。」
「…うーん。」
学校で誰かとこんなに長く話すことなんて無いから、浮かれていたのかもしれない。奏多は森と一緒に、校内を散策することにした。校庭、体育館の裏、校舎からは見えない中庭の死角など、色んな所を徘徊して、色んな話をした。しかし、もともと立ち入り禁止で、さらに飛び降りの事件があった屋上には近づかなかった。
放課後、その日はまっすぐ穂高のもとへ向かった。
この前は森の話をしたら機嫌を損ねてしまったが、学校で話せる相手ができたことは嬉しく、嬉しい話はやはり穂高に聞いてほしかったのだ。
しかし、事務所には誰もいなかった。
穂高が事務所を開けることは珍しく、奏多は立ち尽くした。というのも、穂高は大抵の場合、外出を伴う霊媒の仕事は土日に入れる。大抵は憑かれている本人が依頼に来るため、そもそも外出しなければならない依頼の割合は少ない。だから土日のアポイントメントで事足りるのだという。基本的に平日には事務所にいるし、奏多は事務所にさえ行けばほぼ毎日いつでも穂高に会えるのだ。
だが今日はいない。どういうことだろう。ちょっとコンビニへ行ったような気配でもない。
うーん、と首をひねって考える。不思議な感覚だったが、真剣に集中して考えれば穂高の居場所がわかるような気がした。
神経を集中させていると、カランコロンとベルの音が鳴った。その音で集中が途切れる。ドアからスミレが覗いていた。
「あ、スミレさん。穂高がいないんだけど…」
奏多が尋ねると、スミレは困った顔をして答えた。
「それがね、前に来た黎弦さん、いるでしょ。」
「うん」
「ここを訪ねてきたあの日に、穂高にいろいろ仕事の手伝いを頼んでいったらしいの。それで朝から出かけているのよ。結構な数をこなさなきゃいけないみたい。」
「え、そうなんだ。今日はどこにいるの?」
「それがね、教えてくれなかったの。何でも黎弦さんのところの依頼人って、結構な大物が多いらしくて、守秘義務みたいなものを守らないといけないんだって。霊障に悩まされていることが公になると良くない人が多いみたい。」
「政治家とか、大企業の社長さんとか?」
「そうね、きっと。」
「そっか」
穂高が守秘義務を守って仕事をしているのなら、探すのはやめた方がいいだろう。奏多はそう思って、穂高の行き先を探るのは諦めた。
学校での話は、また穂高が戻ってきたらにしよう。
そう思っていたのに、穂高はなかなか帰って来ず、次の日も、その次の日も、事務所には戻らなかった。
穂高に会えない日々が続く中、奏多は学校へ行くと度々森に話しかけられるようになった。
学校生活に馴染めない者同士、お互いに共感できる部分が多く、奏多もだんだん心を許すようになっていた。
そんなある日、奇妙な事が起きるようになったのだ。
あの飛び降り事件以来、屋上は全面的に立ち入り禁止になった。もともと立ち入ってはいけないルールがあったのだが、今までは屋上に続くドアには鍵が掛けられていただけだったのが、バリケードが作られ、厳重に塞がれるようになっていた。しかし、何人かの生徒が授業時間に教室を抜け出し、屋上へ上がっていたのだ。それも皆バラバラの日に、バラバラの時間に、一人で屋上にぼーっと立ち尽くしていたり、階段を上がっていったりしているところを発見されている。彼らの中にはお互いに知り合いの生徒もいたが、全員につながりがあるわけでは無く、冷やかしや悪ふざけだとは考えにくかった。そして奇妙なのは、全員が、屋上へ近づいて行ったときの記憶が無い、と証言していることだった。まだ飛び降り事件の話題は生徒たちの関心の的だったため、この件も学校中で噂になっていて、「飛び降りた奴の呪いだ」と騒がれ始めていた。
その日、奏多は、今日こそ事務所に穂高がいる予感がしていた。放課後になり、駆け足で昇降口へ向かう。穂高が黎弦の仕事の手伝いで事務所を空けてから、四日経過していた。
「柏木君」
「あ、森君」
校門を出る直前、森に話しかけられた。早く穂高のところに行きたくてうずうずしていた奏多は、森には申し訳ないが急いでいる素振りをわざと見せた。
「そんなに急いでどこかに行くの?」
「うん。ちょっとね、早く会いたい人がいるんだ。」
「…会いたい人?」
森は、無表情で首を傾げる。悪いが、今は森と長く話すつもりはない。
「ごめんね、僕行かなきゃ。また明日!」
森はまだ話したそうだったが、奏多は一方的に挨拶を済ませると、校門の外へ出た。
「…あれ?」
違和感に気が付いて、後ろを振り返る。だが、もう森の姿は無かった。
「…森君、靴履いてなかったな。」
靴下で校舎の外に立っていた森の姿が気になったが、穂高に会うために奏多は急いで学校を後にした。
事務所に入ると、やはり穂高が戻ってきていた。
ソファに寝転んで、ぐったりしている。奏多は穂高の顔の横にしゃがんだ。声をかけると、穂高は閉じていた目を開いて奏多を見た。
「奏多…」
「穂高、久しぶり!」
会えなかったのは数日だが、すごく長く感じた。思い返せば穂高と出会ってから、こんなに会えない日々が続いたことは無い。
穂高は奏多の頬に触れようと手を伸ばしたが、やめて引っ込めた。
「黎弦さんのお手伝いに行ってたんでしょ?ずいぶん遠くまで行ってたんだね。」
「…あの爺さん、人使いが荒いんだよ。遠い上にあちこち行かされてマジで疲れた。」
「お疲れさま。がんばったね、穂高。」
穂高の顔が見られたのが嬉しくて、奏多はにっこりとほほ笑んだ。よっぽど疲れているのかとろんとした目でその顔を見つめる穂高に、今度は胸のあたりがきゅうっとなる。気づくと、引き寄せられるように穂高の顔に自分の顔を寄せていた。
「…奏多?」
かすれた声で名前を呼ばれて、奏多は我に返った。
「あ、なんでもない」
慌てて誤魔化して、顔を離す。自分は何をしようとしていたんだと動揺する。あのまま、穂高にキスしてしまうところだった…。自分がしようとしていたことに思い至ってものすごく恥ずかしくなった。いくら穂高のことが好きだからって、いきなりそんなことをしようとするなんて、自分が信じられなかった。しかも、穂高を愛しいと思うあまり、無意識でそんな行動をするなんて…。
当の穂高は、奏多がしようとしたことをわかっているのかいないのか、はたまた疲れすぎて考えが至らないのか、横になったまままた目を閉じた。仕事の無いときはだらけている穂高だけれど、かなりぐったりした様子に、今度は奏多の中に心配の気持ちが大きくなってくる。
「仕事、そんなに大変だったの?」
「…うん。大変だった。やっぱあの爺さん、伊達に何十年も祓い屋やってねえな。」
「そっか。一段落したの?」
「…ん」
二人の間に沈黙が流れる。嫌な沈黙ではなかったが、奏多は学校で起きた話をするのは無理だな、と思った。飛び降り事件の顛末や、最近起こっている奇妙な出来事、森という友人が出来たことも、穂高に聞いてほしかったのだが。
「ま、いっか。今日は穂高に会えただけでいいや。」
そうつぶやいた奏多の声は、すでに小さく寝息を立てている穂高の耳には届いていなかった。
次の日。飛び降り事件から一週間が経とうというその日、騒動が起きた。
「おい、誰か屋上に立ってる!」
誰かが叫び、教室は騒然となった。先生が慌てて携帯を取り出し、どこかに電話を掛ける。窓際で授業を聞いていた奏多も、窓の外に目を向けた。
小柄な女子生徒が、一人で屋上に立ち尽くしていた。
隣の教室の窓から、誰かが「やめろ!」と叫んだ。
次の瞬間、女子生徒が、一歩前に踏み出した。そこにはもう地面が無い。彼女の体は、校舎の下へ落ちた。
奏多は目を瞑ったので、彼女が落ちた瞬間は見なかった。皆が息を飲む気配が伝わってきたが、しばらくすると、それがどういうわけか歓声に変わった。
「…?」
目を開けて、おそるおそる下を見ると、彼女は避難用の巨大なマットの上に落ちていた。先生が一階にいた職員に電話をかけて、彼らが急いで用意したマットが彼女の体をギリギリのところで受け止めたのだ。
大けがになっている可能性はあったものの、一命は取り留められたようだった。ほっとして、顔を上げる。
「…あれ?」
さっきまで女子生徒が立ち尽くしていた屋上に人影が見えた。奏多以外には見えなかったのか、誰も気づいていない。皆、階下に向かって、女子生徒を救助した先生たちに完成を送っていた。
荒巻霊媒事務所を訪ねると、先客がいた。
四谷博隆は、ソファにくつろいでスミレが淹れたらしいコーヒーを飲んでいた。
今日は穂高に話したい事がたくさんあった奏多は、四谷の姿を見て顔をしかめた。昨日は穂高が眠ってしまって、ろくに話せなかった。何日もお預けを食らったのに、穂高を横取りされた気分だった。
「それで、依頼人はいつ来る?」
穂高に声をかけようとしたが、穂高が話し出したので機会を失った。黙って二人の話を聞く。穂高は奏多や四谷がいる方には背を向けて安楽椅子に座っていて、窓の外を見ていた。
「学校が終わって雑務が終わったらすぐ来るって言ってた。早くてあと三時間くらいか。」
奏多は、四谷の「学校」という言葉が引っ掛かった。おそらく今日も四谷の紹介で依頼人が来るのだろうが、教師なのか学生なのか、学校関係者の様だ。
「本当に嫌な話だよなあ。呪いだなんて。俺たちが高校生の頃は、そんなオカルトな事件起きたことないのになあ」
「…お前はただ自分が高校生だったら、そのオカルトな事件に関わりたかっただけだろ。」
「そりゃあね、オカルト研究会代表としては、悔しい話だよ。にしてもオカルトな事件が多い学校だよなあ。お前、覚えてる?何年か前にも、依頼があったよな。ほら、音楽室でピアノを弾く幽霊!」
「…はあ」
その手の話が好きなのか、顔を輝かせる四谷に背を向けたまま、穂高はため息をついた。
「そんな話、俺が学生の頃にはなかったのになあ。ほんと、なんで今俺はバーの経営なんてやってるんだ。俺がオカ研代表だったなら、今頃その事件解決に向けて乗り出しているというのに!」
四谷はドラマチックに頭を抱えた。その様子を見なくてもわかっている様な穂高は、あからさまに呆れた態度だった。
「…お前はしょうもないインチキ降霊術にかまけてただけなんだから、今高校生やってたとして何の役にも立たねえだろうが。」
「言うねえ、穂高チャンは。」
「…依頼人が来るのはわかったから、お前はさっさと帰れよ。」
そう言って椅子から立ち上がり、振り返った穂高の目が奏多を捉える。穂高は目を見開いて心底驚いた顔をした。
「そういえば、俺らの代にも亡くなった奴がいたよなあ。まああいつは、自殺なんかじゃなかったけど。だから呪いにならなかったのかなあ。」
穂高の態度にはお構いなしでソファに寝転ぼうとした四谷の腕を、穂高が掴んで引き起こした。いきなりのことに、四谷が目を白黒させる。
「なんだよ、穂高チャン」
「いいからさっさと帰れ。入り浸られたら邪魔。すっごい邪魔!」
「むむ、先輩に向かってなんだねその態度は!あ、こら、押すなよ!」
「うるさい。客が来る前にお前が汚したのを掃除する。」
「はあ?何も汚してないんですけど?てかあと三時間はあるったら!」
「黙って帰れ。お前も開店準備があるだろう」
「だからうちの開店時間もそんなに早くねえよ。バーなんだから!」
穂高はぐいぐい四谷の背中を押して、ドアの外に追い出した。バタンと四谷の鼻先でドアを閉める。ドアに付けられたベルが激しく鳴った。ドアの外では、「まだコーヒー全部飲んでないのにー!」と四谷が憤慨している声が聞こえたが、帰ったのかすぐに静かになった。
四谷が出て行った事務所は、しんと静まり返った。
事の次第をぽかんと見守っていた奏多を、穂高が振り返る。
「あ、僕も邪魔?」
「お前は居て良い。」
即答だったから安心した。穂高は基本的には人に冷たい態度を取る。心を許している人たちに対してはそうなのだ。だが、今の四谷への態度には少し驚いた。力尽くで強引に人を追いやるところなど初めて見た。
「今日お客さん来るの?」
「…そうらしい。」
穂高はさっきまで四谷が座っていたソファに腰を下ろした。奏多もその隣に腰を下ろす。
「お前、最近学校で何があった?」
体ごと奏多の方を向いて、穂高が尋ねてきた。
奏多は、穂高に会えなかった数日の間に起ったことを話した。飛び降り事件は自殺という判断が下ったこと、屋上へ近づく生徒が続出し、なぜか彼らにはその時の記憶が無いこと、それらが飛び降りした生徒の呪いとして噂になっていたこと、そして今日、第二の飛び降り事件が起きたがなんとか救助されたこと。最後に、蛇足かと思ったが、森のことも話した。
「はあ…」
全部聞き終わると、穂高はため息をついた。
「穂高?」
「今日来る依頼人は、そのことで来るらしい。」
「え?」
「お前の学校の教師だ。今回の飛び降りからの一連の話、もしかしたら霊障かもしれない。」
「じゃあ、それを調べに行くの?」
「…おそらくそうなるな。」
奏多は、穂高の体が心配になった。黎弦の依頼で、穂高は四日間も出ずっぱりだった。その間、ずっと依頼人の霊を祓っていたのだ。霊を祓うのがどんな負担を体に負わせるのかはわからないが、穂高の疲れが残っているのは明らかだった。
「ねえ、大丈夫?」
穂高の顔を覗き込む。近いのが嫌だったのか、穂高は顔を背けた。その様子に気が引けてしまって、奏多は黙った。
「ちょっと寝たら?疲れてるみたい。」
「…お前がどこにも行かないなら。」
「え?」
意外な発言だった。疲れすぎて甘えたくなっているのだろうか、と思い、奏多は穂高に微笑みかけた。
「大丈夫、僕はどこにも行かないから、少し休んで。お客さんが来るの、七時くらいだったよね?一時間前には起こすよ。」
「…ん」
穂高は疲れが限界なのか、奏多の言葉に素直に従った。
奏多は、六時になるまで、ぐっすり眠る穂高の顔を見て過ごした。思えば、昨日もずっと穂高の寝顔を見ていた。
目覚めた穂高は、眠る前より顔色が良くなっていた。
少しは回復したようで安心する。
依頼人は、四谷が言った七時を少し過ぎてやって来た。奏多の通う高校の教師ということだが、確かに見覚えがあるような気がした。しかし、奏多のいるクラスを受け持っていないのか、面識があるわけではなかった。
その教師が語った事の詳細は、ほとんど奏多が先刻話した内容と同じだった。付け足された情報としては、最初に飛び降りた生徒の自宅の部屋には遺書があり、それが自殺を決定付けたことだった。
「情けないことですが、学校側は、遺書に書いてあったようないじめには全く気が付きませんでした。内容としては、クラス全員からの無視。担任にヒアリングを行ったところ、確かにクラスメイトと交流する姿はほとんど見受けられなかったと。ただ、一年生の頃からかなりおとなしい生徒だったらしく、誰も異変に気が付きませんでした。」
今日あった第二の飛び降りについては、教師陣の中でも呪いについては半信半疑だったものの、事件後屋上に近づく生徒たちが続出していたことで、いつ同じ様なことが起きても対応できるように対策していたということだった。
「屋上に近づいた生徒たちに話を聞いても、皆口をそろえて覚えていないと言うのです。私も一人、屋上近くで生徒を発見したことがあるのですが、その生徒もまた、記憶が無いと言って、自分がなぜ授業を抜け出して屋上に向かっていたのか、わからない様子でした。生徒の言う呪いが本当だとは思えませんが、…本当だと思わずにはいられないありさまで。今回の飛び降りも、呪いを信じたわけではありませんが、もしもに備えていたため、事なきを得ました。まあ、飛び降りた女子生徒は骨折で入院しましたが、意識ももう戻っていますし、命は助かって一安心ですよ。ただやはり、自分がなぜあんなことをしたのか、記憶が曖昧でわからないと言うんです。彼女の担任にも話は聞きましたが、繊細で優しく共感性の高い子で、友達も多いということでした。本人の言う通り、彼女には自殺する理由が見受けられない。…このままでは、他の生徒たちにも何が起こるかわかりません。そこで、学校として公に動くことはできませんが、有志で話し合い、こちらにご相談に伺いました。」
そこまで話すと、依頼人は穂高の顔を見た。
「何年か前にも、こちらにはお世話になったとお聞きしました。その時こちらに依頼に来たという先生は他校に異動されていましたので、電話で今回の事情をお伝えし、四谷さんの連絡先をお聞きしたのです。荒巻さんはお忙しいとお聞きしましたが、四谷さんの紹介ならスムーズにお話を聞いていただけるとのことだったので…」
穂高は営業スマイルを崩さなかったが、「四谷の紹介なら…」のあたりで一瞬眉間に力が入ったのを、奏多は見逃さなかった。
「お話は分かりました。では、明日にでも調査で入校することは可能でしょうか」
「もちろんです、校長に話は通してきましたので。」
穂高は、来校の約束をして依頼人を帰した。明日は土曜日で授業は無いが、部活動があるため来校するのは夕方からになった。学校として呪いの噂を真に受けているという話を広めるわけにはいかないため、大々的に動くわけにはいかず、生徒たちが帰った後に、ということになったのだ。
翌日、奏多は穂高と一緒に学校へ行った。
昨日の依頼人が迎え入れ、穂高たちは調査のために校舎内を見て回ることになった。
奏多にとっては、穂高が自分の学校にいるのは変な気分だった。小学校の時の授業参観を思い出す。病弱だった奏多は授業参観の日を一回しか経験しなかったが、いつも通っている学校という空間に、母親が来た時の非日常に感じたわくわくした気持ちが、同じように湧き上がってきていた。
二人で校内を肩を並べて歩いているのが、なんだか嬉しい。
一回の理科室の前の廊下を通ると、写真部の展示コーナーになっていた。
「へえ、こんなのやってるの、知らなかった。」
「写真部か」
「きれいな写真だね。」
奏多が足を止めたので、穂高も立ち止まって二人で写真を見物する。
同じ写真を眺めながら、奏多はちらっとすぐ横にある穂高の顔を見た。
穂高はどんな高校生だったのだろう。どんな制服を着て、どんな学校生活を過ごしたのだろう。確か四谷とは高校時代からの知り合いと言っていたが、その時には学校でもいつもの不機嫌そうな顔をしていたのだろうか。いや、外面の良い穂高のことだから、何でもそつなくこなしていたに違いない。女子にもモテただろうな…。たくさんの友達に囲まれて笑っている姿は思い浮かばなかったが、女子たちからあこがれのまなざしを向けられながら涼しい顔をして校内を歩く穂高の姿は容易に想像できた。
「…何見てんの、さっきから」
「えっ」
奏多はさっきから、穂高の顔をガン見していたらしい。眉間に皺を寄せた穂高の顔が、至近距離で奏多を見返していた。
「な、なんでもない!」
焦って顔を離した。
穂高は、焦る奏多の様子に怪訝な顔をし、再び歩き始めた。奏多はなんとか取り繕おうとして、隣を歩く穂高に、テンション高く話し始めた。
「ね、穂高は高校生のころから霊感があったんだよね?」
「…まあ。高校生の頃からじゃなくて、ガキの頃から見えてはいたけど」
「じゃあさ!学校の怪談みたいなやつって、本物見たことあんの?」
奏多はわくわくした面持ちで、隣を歩く穂高の顔を見上げた。
「学校の怪談?」
穂高は、ピクリと片眉を上げる。
「うん!トイレの花子さんとか、音楽室のバッハとかベートーヴェンが夜な夜な動きだす、とか。」
「音楽室のバッハとかベートーヴェンが動いて何すんだよ」
眉間に皺を寄せる穂高にはお構いなしに、奏多は得意げに胸を張る。音楽室でやることと言ったら一つだ。
「そりゃ、ピアノでクラシックを演奏するんでしょ」
「…はあ」
穂高は呆れた顔で、わざとらしいため息をついた。
「四谷みたいなこと言うな。あほらしい。」
「えー。じゃあ、音楽室でピアノを弾く幽霊ってなんの話だったの?」
「は?」
四谷が言っていた。数年前にも、穂高は学校の音楽室でピアノを弾く幽霊について調査をしたと。
「…」
穂高は何か言いたげに、立ち止まって奏多を見つめた。
「…何?」
「いや、何でもない。」
再び歩き出した穂高を、奏多は慌てて追いかけた。
思い返せば、奏多が初めて穂高と出会ったのも学校だった。春の日の放課後に奏多が音楽室でピアノを弾いていると、突然教室のドアが開いて穂高が入ってきたのだ。誰とも話さないつまらない生活が、あの時一変した。穂高の視界に、奏多が初めて捉えられたあの日から。
だからこんなにも自分は浮かれているのかと、奏多は合点した。穂高と初めて出会った場所に二人で戻ってきたから、こんなにうれしいのだ。
「…そういえば、お前まだ音楽室でピアノ弾いてるのか?」
穂高が聞いた。
「え、ううん。全然弾いてないよ。久しく音楽室にも行ってないけど」
「あ、そ。」
「何、興味ないなら聞かないでよね」
穂高と出会ってから、放課後はほぼまっすぐ荒巻霊媒事務所に向かっているから、音楽室に行く時間は無くなっていた。自分の人生の中で、ピアノを弾かない時間がこんなにも長くなるとは思わなかった。以前は、病弱で、友人もいない自分にはピアノしか無かった。ピアノを弾いていれば皆が褒めてくれたし、体調の良いときはコンテストに出場すれば賞もいくつか獲得した。両親も喜んでくれたし、奏多自身も、ピアノを弾いているときは、世間に馴染めない自分を忘れられた。何も出来ない自分の存在が、ピアノさえ弾いていれば世間と対等になれる気がした。
そんな自分が、今はピアノを置いて穂高に夢中になっている。深く考えてはいなかったが、随分穂高にのめり込んだな、と自覚した。
一階の理科室前の廊下の奥にある階段を上がり、上の階まで行くと、隣の校舎に繋がる渡り廊下がある。この渡り廊下を渡った先が、男子生徒が飛び降りた屋上がある建物だった。
渡り廊下の窓からは、屋上が見える。
穂高は立ち止まって、窓から外を見た。その視線は何故か階下に向けられている。
「あそこがあの屋上だよ」
と言って、屋上を指し示そうと奏多も窓から外を覗いた。その時、
「…あれ?」
屋上に誰かの人影が見えた気がした。よく見ようと身を乗り出すと、後ろから声をかけられた。
「柏木君、そんなことしてたら落ちちゃうよ。」
穂高の声ではなかった。声がした方を振り向くと、奏多より少し低い身長で、黄色いピンバッジを付けた男子生徒がすぐ傍に立っていた。
「え、森君…?どうして…」
「柏木君こそ。」
「奏多?」
穂高が異変に気付いて、奏多の方に近付いてくる。森の鋭い目が、長い前髪の間から穂高を見た。
「行こう、柏木君」
「え?」
森は突然奏多の手首を握って、渡り廊下の先の暗闇に引っ張った。
「奏多!待て!」
穂高が止めようと手を伸ばしたが、その手は奏多を掴むことは出来ず、虚しく空を切る。その間に、奏多は森に引っ張られて、廊下の闇に消えた。
いつの間に目を閉じたのかわからないが、目を開けると、奏多は外にいて、夜風が頬を撫でていた。
「ここって…」
辺りを見渡すと、すぐ向かいの校舎の屋上が見えた。いつも奏多がいる教室がある校舎だ。ということは、奏多が今いるのは、飛び降り事件のあったあの屋上だった。
「柏木君、大丈夫?」
「森君…」
屋上の淵に、森が立っていて、奏多の方を振り返る。
「危ないよ、森君。そんなところに立っていたら。こんなところにいちゃダメだ。早く降りよう。」
「危ないのは君の方だよ。どうしてあんなのと一緒にいたの?」
「あんなのって…?穂高のこと?」
「僕らみたいなのはあんなのと近づいちゃダメだ。何されるかわからない。」
「え、穂高は悪い奴じゃないよ。何もしたりしないよ。」
森は、青白い顔で奏多の顔を見た。
「つまんないよ。柏木君は、独りぼっちじゃなかったの?」
「え…?」
奏多には森の言っていることの意味がわからなかった。ただ、気になることがあって、奏多は森に尋ねた。
「ねえ、森君。君、さっきこの屋上から僕たちのことを見ていなかった?それに、女子生徒が落ちたときも同じ様な人影が見えた。…もしかして、君あの時もここにいたの?」
「…いたよ。」
「どして止めなかったの?全部見てたなら、あの子が落ちるときに止められたはずだよね」
「どうして僕が止めるの?」
「え?」
「落としたのは僕なのに。」
奏多は絶句した。森が言っていることが、いよいよよくわからない。オトシタノハ僕、とは、どういう意味だ。
「お、落としたって…どういうこと…?」
「突き落としたりはしてないよ。ちょっとあの子に、僕の記憶を見せただけ。そしたら、落ちた時の僕と同じ感情になって、ここまで上がってきて自分で落ちたんだ。他の生徒にも何人か試したけど、途中で先生に見つかったり正気に戻っちゃったりして、落とすところまで成功したのは彼女だけだった。」
森は淡々と話した。あまりにも淡々と話すから、奏多の方も段々と混乱が落ち着いてきて、森が何を言っているのか、少しずつわかってきた。
「…じゃあつまり、君が、あのとき死んじゃった子なの?」
「そうだよ。」
この校舎から飛び降りて、亡くなった生徒は森だったのだ。そして、生徒に取り憑いて彼らを屋上に誘ったのも。
「なんでそんなことするの」
「…僕一人であっちへ逝くなんて嫌だからだ。」
奏多の避難する視線に、森は少しだけ顔を背けた。あっちとは、あの世のことだろう。
「そんなのおかしいよ。他の子を道連れにするなんて…」
「もういい。柏木君は優しいから、全部わかってくれるはずだよ。」
森が奏多の言葉を遮ると同時に奏多の中で知らない記憶が再生され始めた。
桜の咲く季節。新しい生活に胸を高鳴らせ、入学した時のこと。勇気を出して声をかけたのに、クラスメイトに無視されたこと。最初は気のせいかと思ったのに、明確にクラス全員に無視され始め、存在を消されたいじめの日々。誰とも話せない灰色の学校生活…。薄っすら期待していたのに、二年生になっても扱いは変わらなかった。確かに存在しているのに、そこにいないような扱いを受け続け、森の心は限界だった。
もう死のう、と思った。
皆の前で死んでやろう。遺書を書いて自室に残し、授業を抜け出して屋上へ行った。森は空中に身を投げた。
これで誰も僕を無視はできない。
そう思っていたのに。
森の死は、学校中の注目の的になった。皆が事件のことを噂して、皆が「飛び降りた奴」の話をした。けれど気づいてしまった。誰の口からも、「森圭吾」の名前は出て来ない。同じクラスの者でさえ、森の名前を知っているはずなのに、名前を言わなかった。いや、同じクラスだったからこそ、皆忌避していたのだ。それが森には気に入らなかった。
死んだ直後、自分と同じ様な存在が生徒の群れに紛れているのに気が付いた。柏木奏多は独りぼっちで、授業をサボって廊下を歩いていた。僕と同じ、独りぼっちで居場所のない人。名乗ったら、僕の名前を呼んでくれた。この人は僕を無視しない。
…そう思っていたのに。彼は校門から颯爽と外の世界へ出ていった。僕を置いて、誰かに会うために急いでいた。
ダメだよ。あなたも僕と同じ、独りぼっちでいてくれなきゃ。
奏多の意識が森の記憶から復帰した。
森は無表情で奏多を見ていた。
「森君…」
「柏木君、僕は君なら僕の気持ちを分かってくれると思う。他の誰よりも。だから、僕と一緒に行ってほしい」
「…無理だよ。僕はここに残る。」
「どうして?」
森の鋭い目が一層吊り上がった。
「…確かに、君の言うことは当たっているよ。僕は学校に居場所が無いし友達もろくにいなかった。僕は独りぼっちだった。」
誰にも話しかけられず、誰にも話しかけない学校生活。誰にも存在を認められず、認識されない辛さ。奏多にも痛いほどよく分かった。奏多はかつて皆に無視されていたわけではなかったが、遠巻きに見られて関わってもらえなかった。その淋しさを思い出す。
「でも、僕は自分から死を選ぶようなことはしないよ。」
「…」
「僕は生まれつき病弱だったし、そのせいで友達の作り方もわからないまま高校生になって、ずっと独りぼっちだった。でも、僕は病気じゃなかったら、君みたいに健康な体を持っていたら、ずっと生きていたかったよ。」
奏多は森に心から訴えていた。
ずっと生きていたかった。生きている体で、穂高と出会いたかった。
生徒にも教師にも認識されない独りぼっちの学校生活、千田宅で出された二つのティーカップ、さっき奏多の手を掴もうとして空を切った穂高の手。
「…もう良いよ。柏木君となら分かり合えると思っていたのに。」
「ごめんね、森君。」
奏多は心の底から悲しかった。
その時、屋上へ上がってくるためのドアが重たく錆びついた音を立てて開いた。穂高だ。屋上へ上がる階段は立ち入り禁止になっていてバリケードが作られていたから、来るのが遅れたのだろう。
「穂高は良い奴だよ。霊媒師っていうのをやっているんだ。だから、きっと森君の話も穂高なら聞いてくれる…」
「良いよ。聞きたくない!」
森は奏多に向かって手を伸ばした。
「一緒に来て。君を道連れにするよ。」
奏多はぎゅっと目を瞑った。
穂高が奏多の名前を呼びながら奏多と森の間に立ちはだかった気配がする。
「こいつを連れて行くのは許さない。」
穂高の呟くような声が聞こえ、森が叫んだ。
一瞬の後、森の叫び声がぴたりと消えた。奏多が目を開けると、目の前には奏多を庇うようにして立つ穂高の背中があった。
穂高の背中越しに覗き込むと、もう森の姿はそこには無かった。
*
森が除霊され、穂高と奏多は学校を後にした。依頼人には全て完了と報告し、向こう1週間何も起こらなければ、事態を解決とすることとした。
事務所へ戻る道中、押し黙っている奏多を見て、穂高が言った。
「悪かったな、お前の友達を祓ったりして。」
「ううん」と奏多は首を横に振った。
「良いんだ。森君、すごく辛そうだった。成仏した後がどうなるのかはわからないけど、あのまま留まっていても、きっと辛かったと思う。」
「…お前も、成仏したいの?」
意を決した様に穂高が聞いた。
「え?」
意外な言葉に、奏多は目を丸くして穂高を見た。
「俺はお前たちの感覚はわからない。でも…、仕事柄、この世に留まっていて幸せそうな霊はほとんど、見たことない。…お前はどうなんだ…?」
穂高は途切れ途切れに聞いた。
「僕は…。僕はまだこっちにいたいよ。穂高とまだ一緒にいたい。」
「本当に?」
珍しく自信のなさそうな穂高の様子に、奏多は胸が締め付けられるようだった。
「本当だよ。でも、もし僕が成仏したいって言ったら、その時は穂高が僕を祓ってくれるの?」
奏多は、これだけは聞いておきたかった。だって、祓われるなら穂高にしてほしいから。
穂高は目を閉じて、息をついた。少し考えてから、目を開けて奏多をまっすぐにる。
「お前が望むなら。でも、俺がお前を祓うとしたら、俺が死ぬ時だよ。」
「…それって、死ぬまで僕とずっと一緒にいたいってこと?」
奏多はにやりと笑って穂高を見た。
穂高も珍しく口元を緩めて、奏多に笑い返した。
後日、事の顛末を話して聞かせると、早苗はとても悲しそうな顔をした。
「早苗さん?」
「あ、ううん、解決して良かった。二人とも、無事で。」
「うん。そうだね。」
早苗は少しの間黙った。奏多も、早苗の言葉を待つわけでもなく、黙った。
黙ると、森のことが思い出された。幽霊になってからの友人なんて奇妙だが、確かに森は存在していた。なのに、もうこの世のどこにもいないのだ。笑顔だとは分かりにくいあの笑い方も、ボソボソした話し方も、今となっては懐かしかった。せっかく、学校で出来た友達だったのにな…と、森が祓われてから初めて感傷的になった。
「奏多君、私ね、息子がいるの。」
二人して押し黙っていると、早苗が先に口を開いた。
「え、そうなの?」
「うん、…今はもう、小学二年生。私が一緒にいたころは、まだ幼稚園を卒業する前で、小学校入学する前だった。」
早苗は、愛おしくも悲しそうに目を細めた。
「あの子が小学生になるのも、見られなかった。中学生や、高校生になる姿も、きっと見られない。」
「…うん。」
「だから、悲しいな。奏多君や、その森君の話を聞くと、本当に悲しい。ずっと元気でいてほしいのに、どうして無理なんだろうね。私の息子だって、生きていれば、いつ何があるのかも、わからないんだよね。」
「…ごめんね、悲しくさせて。」
早苗は、学生服姿の奏多を見て高校生になった自分の息子の姿を想像していたのだろうか。
「ううん、いいの。」
早苗は、力なく笑った。
足元の、以前穂高がやってきて花束を置いた場所あたりに視線を移す。
「なんで私、あの子を残して死んじゃったんだろう。生きていれば、あの子に何かあった時、守ってあげられるのにね。」
「早苗さんは、事故だったの?」
奏多は、思い切って尋ねた。
早苗は小さくうなずいた。
「ここの道、今は閑散としているけど、以前は車通りが激しくてね。少し行けば国道があるから、通り抜ける車が多かったの。でも、この通り、曲がり角の見晴らしが悪いでしょう。」
早苗はすうと遠い目をして続けた。
「…息子が幼稚園で吐いたって電話があったの。ものすごい熱だって。小さい子にはよくあることだけど、…私、今思えばかなり過保護だったのよ。心細い思いをさせたくなくて、仕事先から自転車に乗ってこの道を急いで通った。」
曲がり角の死角から、いきなり目の前にトラックが現れて…と言って、早苗は言葉を切った。
「一刻も早くあの子に会いたかったのに、まさか二度と会えなくなるなんて思わなかった。」
「…早苗さんは息子さんに会いに行かないの?」
「…行けないの、どこにも。」
「え?」
「…幽霊になってから、ずっとここにいるの。奏多君みたいに好きな人のところに好きなように行けたらいいのにね。」
早苗は、悲しい横顔のまま、やはり目の前の道から目を離さなかった。
穂高の事務所に帰って早苗の話をすると、穂高は最初から何もかもわかっていたかのように平然とした態度だった。
「好きな人のところに好きなように行ける僕が羨ましいって、そう言われた。そう言えば、早苗さんをあのY字路以外で見かけることはなかったけど、そういうことだったんだな」
「…あの人は地縛霊だ。あのY字路に縛られている。」
「地縛霊…」
「おそらくだが、亡くなった時、あのY字路を通った後悔が大きいんじゃないか。そういう思いが鎖になって、あの人を縛っている。」
「鎖…」
「大抵の霊はそうだけどな、物に憑りついたり、場所に縛られたり、人に固執したり。何かこの世に未練があって幽霊になり、その未練を象徴するような物に憑く。…なあ。」
「何?」
穂高は、安楽椅子を動かして傍らに立っていた奏多に近づいた。組んだ足の膝の上に頬杖をついて、上目遣いに奏多を見上げる。
「一つ聞きたいんだけど。」
「何を?」
聞き返しながら、穂高の顔をじっと見る。今は穂高が座って奏多が立っているので、奏多が穂高を見下ろす形になる。背が高い穂高の上目遣いが珍しくて、可愛い。
「お前は何に未練があんの?」
「え?」
「お前が幽霊になった理由って、何?」
奏多は答えようとして、できなくて押し黙った。
「幽霊になったってことは、何かに未練があるんだよな?」
「未練…」
奏多はこのときはじめて、自分が幽霊になってこの世にとどまっている理由を考えた。正確には、思い当たることがいくつもあって纏まらなかった。皆と同じような学校生活が送れなかったこと、病気を拗らせて18歳で亡くなってしまったこと、そして今は、穂高の傍にいたいという思いが強い。
「…考えたこと、なかった、かも。」
「そうか」
穂高は少し期待が外れたような顔をして、奏多の顔を覗き込む体勢をやめて姿勢を戻した。その顔に、奏多の胸がチクリと痛む。いや、幽霊だから実際の痛みはない。でも心が痛い気がした。しかし奏多は、穂高の顔を見て、「思い当たることが多すぎて考えが纏らない」というところまで言い出せなかった。
「あの、穂高…?」
「いや、デリカシーの無いこと聞いて悪かったな。気にするな。」
「…そっか」
穂高は奏多に、どんな答えを期待していたのだろう。奏多になんと言ってほしかったのか。確かに何かの答えを期待したような表情だったのが気になった。でも、そのまま俯いた穂高に、何も聞くことができなかった。
4
氷川黎弦の逝去はお昼のワイドショーでも大きく取り上げられ、日本中の話題となった。亡くなったのは二週間前。ちょうど、黎弦が荒巻霊媒事務所を訪ねてきた日の朝、心臓発作で倒れ、そのまま搬送された病院で亡くなった。その死は、メディアには内々の葬儀や告別式が行われた後で公開された。黎弦に膨大な数の依頼の後任を頼まれた穂高は通夜には行けなかったが、スミレと共に葬儀と告別式には依頼の合間を縫って参列した。
「それにしても黎弦さん…ここにいらした時、やっぱり亡くなってたのね…」
後日、スマホで有名霊媒師、氷川黎弦の訃報を告げるネットニュースを見ながら、スミレは哀しみに沈んだ声で言った。
スミレや穂高は、黎弦が訪ねてきた時、彼がもうこの世の人ではなくなっていることに気が付いていた。
「あの爺さん、音もなく事務所に入ってきたからな。普通はそのベルが鳴るから、気付かないなんてありえない。お前と一緒だ。」
穂高は、訃報のニュースに驚く奏多に向けて言った。奏多はドアを開けなくても部屋に入れるため、事務所のドアに取り付けられたベルが鳴ることはない。確かにあの時も、黎弦は突然部屋の中に現れた。穂高は、その時に気が付いていたのだ。幼い頃からの恩人の死に。
「全く、自分が死んだからってとんでもない量の仕事を押しつけて行きやがって…」
「あら。それで黎弦さんが来たのがもし自分のところじゃなかったら、今ごろ盛大に拗ねてたくせに。」
事務所の来客用のソファに腰掛けてネットニュースを読んでいたスミレが顔を上げる。
穂高はぶつぶつ文句を言ったが、その表情を見て、スミレが言っていることは図星なんだろうな、と奏多は思った。黎弦は穂高たちの祖父の古くからの友人で、小さかった穂高たち姉弟を自分の孫の様に可愛がっていたのだという。子供の頃から霊感があった穂高にとって、その特殊な力との向き合い方を教えたのは実の祖父ではなく黎弦だったのだとスミレから聞いた。荒巻海運創始者の平蔵氏が霊感持ちだという噂は業界では有名な話らしいが、世間では面白可笑しい話のタネになっているだけだ。しかしその実、荒巻家には平蔵氏以前からの先祖の霊感が脈々と受け継がれているのだという。
「昔から私たちのこと気遣ってくださって、とっても良いお爺さんだったのにね、淋しいわ。」
スミレは心底悲しそうだった。
血の繋がりが無くても、大切な人との別れは辛いものだ。奏多はスミレの悲しそうな顔を見て、同じように悲しくなった。
奏多、奏多と自分の名前を呼んで、泣いていた母の姿を思い出す。
「ていうか、店は良いのかよ、いつまで入り浸っているつもりだ。」
眉間に皺を寄せて、穂高はスミレを睨んだ。
「良いじゃない、お昼休憩くらい。一人でいると淋しくなっちゃうの!」
「はあ。店が暇だと大変だなぁ。」
「暇じゃないわよ、休憩時間なの!」
「うるせぇな、人の仕事場に入り浸るなよ」
「うるさいのはどっちよ。私はあんたじゃなくて、可愛い可愛い奏多君の顔を見て癒されに来てるの」
「勝手に奏多で癒やされるな。」
姉弟喧嘩はいつも唐突に始まる。兄弟のいない奏多には慣れない展開なのだが、これもいつも大事にはならずお互い言いたいことを言い合うとそのうちあっさり収束してしまう。傍から見ると、お互い形良く吊り気味な大きな目を一層吊り上がらせて睨み合う美形の姉弟の図は、かなり迫力があるのだが。
この日も二人はしばし睨み合うと、どちらからともなく肩の力を抜いて平静に戻った。兄弟の感覚って不思議だなぁと、奏多はしみじみ思う。
「と、もうこんな時間か。本当に生産性の無い会話にしかならないんだから嫌になっちゃう。お店に戻るわ」
スミレは奏多ににこっと微笑むと、事務所の扉を開けた。カランコロン…と、扉に吊り下がったベルが鳴る。
「あら?」
外に出ようとしたスミレはそこで立ち止まった。
なんだろうと思って、奏多はスミレの後ろからドアの外を覗いた。
「あ…」
そこには、小さな男の子が立っていた。小学校二年生くらいで、その小さな顔には少し大きい眼鏡をかけ、スミレを見上げている。
「こんにちは、お客さん?」
スミレが優しく声をかけたが、男の子は走って店を出て行ってしまった。
「あらら…」
「何だ?」
奏多の後ろに穂高も立って、ドアの外を覗こうとしていた。顔を向けるとすぐ隣に穂高の顔があったので、奏多はそのまま答えた。
「なんか小さいお客さんがいたんだけど、帰っちゃった。」
「小さいお客さん?」
「もう!あんたの顔が怖いからでしょ!」
「は?俺見てもないけど。」
また喧嘩が始まりそうだったので、奏多は慌てて仲裁に入った。
その日、穂高はまた黎弦の遺していった仕事を片付けに外出していた。学校に行っている間に穂高は出かけてしまっていたため、奏多は暇になってしまった。
早苗のところにでも行こうかと、夕方になるのを事務所で待った。早苗はあのY字路に囚われる霊だが、姿を現す時間も、日が傾いて夕方になってからと決まっている。だから、早く行っても遅く行っても会えないのだ。
早苗はあのY字路で亡くなり、ずっとそこにいる。決まって現れる夕方という時間は、恐らくスミレが事故に遭った時刻で、彼女は場所にも時間にも縛られているのだと、穂高が言っていた。夕方のY字路、それがスミレの後悔の象徴なのだ。
奏多は自分のことについて考えた。以前、穂高に訊かれた、自分の未練について。あの時は、考えが上手く纏まらなかった。今自分が執着しているのは紛れもなく穂高だ。けれど、自分が幽霊になった時、何に未練を残してこの世に留まったのかが、上手く言えなかった。幽霊になって学校へ行ったって、ただピアノを弾くことしか出来ない自分は変わらなかった。それどころか、生前は遠巻きに見られて友達が出来ないでいたのに、今は誰にも視えないから、余計に独りぼっちだ。
亡くなってすぐ、奏多は両親の傍にいた。しかし、一人息子を失った両親の落ち込み様は、見ていられなかった。奏多の看病をいつでも出来るように専業主婦をしていた母親は、奏多の写真を見て昼も夜も泣き続けた。会社で重責を負っている父親は、忌引き休暇が明けてすぐ通常勤務に戻らなくては行けず、悲しみを押し殺して仕事をし、帰って母親を慰める姿が見ていて辛かった。
自分は本当に良い両親の元に生まれた。愛されていたと実感する代わりに、両親の傍に居続けることはとてもじゃないが辛くて出来なかった。そうして奏多は家に留まることもできず、学校へ戻ったのだ。授業を聞いたりサボったり、放課後にはピアノを弾いて過ごした。生きていても死んでいてもピアノしかない自分の生活を変えたのは、穂高だった。
あの日の音楽室で、穂高に出会わなかったら…。
奏多は考えを払う様に、首を横に振った。穂高がいなかったら、自分も森の様に淋しさでおかしくなっていたかもしれない、と思った。少なくともあの時穂高がいなかったら、森の道連れになっていただろう。
「早く穂高に会いたい…」
今出かけていて、ここにはいない穂高のことを想った。
カランコロン…
事務所のドアが開いた。
「穂高?」
奏多は穂高が帰ってきたのかと思って扉を振り向いた。しかし、そこにいたのは、長身にサングラス、派手なシャツを来た男だった。
「げ、四谷さん…」
四谷に霊感は無い。奏多の姿が視えない四谷は、ずかずかと事務所に入ってきた。
恐らく、シエルを通る時に穂高の不在はスミレから聞いているのだろう。穂高がいないことには特に反応はなかった。
「全く人使いが荒いんだから、うちの母ちゃんは」
四谷は独り言ち、手に抱えた段ボールを応接用の机に置いた。奏多は気になって、蓋の開いている段ボールの中を覗き込む。中には大根や胡瓜、白菜などの野菜が入っている。「母ちゃん」というのは四谷の母親で、鳳印寺の住職の奥さんだ。つまりは四谷母が、穂高宛の野菜のおすそ分けを四谷に持ってこさせたのだろう。
「重すぎんだよ、たく」
四谷は腰を擦りながら事務所を出ようとして、何かを思い出したように踵を返した。
「そういや、懐かしいモンが出てきたんだった。」
細身のジーンズのポケットから何かを取り出し、穂高のデスクの上に置き、今度こそ事務所を後にした。
「…なんだろ?」
奏多は四谷がデスクに置いていった物を見た。
「え、これって…」
そこには、青いピンバッジが置かれていた。奏多の制服のシャツに付いている赤いピンバッジの色違いだ。
「…何で四谷さんがこれを…?」
夕方になり、奏多はY字路に出かけていった。オレンジ色の空気に包まれ、早苗が立っていた。
「早苗さん、こんにちは」
「こんにちは、奏多君。」
奏多は、早苗と話す時間が好きだった。いつも同じ時間に同じ場所に立っている早苗は聞き役で、いつも話題を持ってくるのは奏多の方だ。だから、以前早苗が話した息子の話や早苗の死因については、知り合って数年になるのにも関わらず、全くの初耳だった。
「…それで、どういうわけか僕が付けてるコレと同じピンバッジを、四谷さんが持ってきたんだ。」
奏多は、自分の来ている制服のシャツに付いている赤いピンバッジを指さした。
「それは一体どういうことなのかしらね。」
「わからない。スミレさんなら知っているかと思ったけど、接客が忙しそうで訊けなかったし。」
「そう、それは残念だね。でも、穂高君が帰ってきたら、訊けば良いんじゃない?」
「うん、そうするつもり。」
会話が途切れ、二人はただ目の前の道を眺めた。早苗は亡くなってからずっとこうやって、自分の未練と向き合ってきたのだろうか。
「…あれ?」
奏多の視界の端に、何かが動いた。
「どうしたの?」と早苗が問う。
「今、小さい子が一人であそこに立っていたような…」
「え?」
道の奥の方に、確かに小さな人影が動いた気がした。しかしそれは一瞬で、すぐに走り去ったのか、既に見えなくなっていた。この道は子供が一人で通るような道ではないから、目についたのだ。
早苗はその人影が気になるようだった。奏多は、一か八かその子を追いかけたが、追いつくことはできなかった。早苗のところに戻ったが、既に日が陰っていて、夕方の時間は終わっていた。
「あ、穂高。帰ってたんだ。」
「ああ」
事務所に戻ると、穂高が先に戻ってきていた。ソファに四肢を投げ出して、完全にくつろいでいる。
「ねえ、穂高。それって…」
奏多は、まず穂高のデスクの上に四谷が置いて行ったピンバッジのことを訪ねたかった。
「あ?」
「これ、この机の上のバッジ、さっき四谷さんが置いて行ったよ。」
「バッジ?」
穂高は、デスクの上のピンバッジに気が付いていなかったらしい。だるそうに体を起こすと、デスクの上を確かめた。
「あ」
「ねえ、それって、僕の高校の制服に付けるバッジだよね?四谷さんが、懐かしいものって言ってたんだけど…」
「あいつ…」
穂高はこめかみに手を当てた。
「それって、…もしかして穂高のなの?」
穂高は、観念したように頷いた。
うすうす予想していたことだったが、奏多は驚きを隠せなかった。
「まさか、同じ高校だったなんて!なんで言ってくれなかったの?」
「別に…わざわざ言うことでもないだろ」
穂高はソファに座りなおした。奏多も、その隣に腰を下ろす。
「ねえ、穂高って、年齢で言うと…」
「…お前の二個下だ。」
「ってことは、在学期間ちょっとだけど被ってるじゃん!うわあ、もしかしたら、学校のどこかですれ違っていたかもしれないってことだよね!すごい!」
奏多は、お互いの年齢差についてはわかっていた。奏多は高校三年生で亡くなり、穂高は今二十五歳。亡くなってから経過しているはずの大体の年数を考えれば、生きていれば、穂高は奏多より年下なのだ。
穂高はどこか恨めしそうに奏多を見ていたが、奏多はそんな視線には気づくことなくただはしゃいだ。そして、高校時代の穂高を見たかったと悔しがった。その様子に、穂高がなぜか笑い出した。
「む、何笑ってんの。僕にこんな大事なこと、秘密にしておいて。」
奏多は頬を膨らませて穂高を見た。
ひとしきり笑った穂高は、奏多の膨らんだ頬にほとんど無意識で手を伸ばした。その手は奏多の頬に触れることはできず、宙を彷徨った。
穂高の顔から、ゆっくりと笑顔が消える。
「…死にたい。」
「え?」
穂高が小さくつぶやいた言葉を、奏多は聞き返した。
「お前に触りたいから、死にたい。」
奏多はその言葉に答える方法がわからなかった。二人はただ、お互いに見つめ合った。
次の日の夕方、穂高が食材の買い出しに行くのに、奏多も付いて行った。
スーパーで買い物をして、Y字路を通りがかる。ちょうど早苗がいる時間だった。早苗はやはり、いつものようにそこに立っていた。
「こんにちは、早苗さん。」
奏多が声をかける。
「こんにちは、奏多君、あら、今日は穂高君も一緒なんだね。」
「どうも。」
穂高は小さく会釈をした。早苗は、ニコニコと奏多と穂高を交互に見た。そして、ニコニコしたまま、目の前を通る道に視線を戻す。
「今日は鶏肉がセールだったから、から揚げするんだってー」
「へえ。穂高君が作るの?」
「そ。穂高はこう見えて料理上手みたいなんだよ。」
「おい。みたい、とは何だ。」
「だって僕は食べられないから、見た目しかわかんないもん」
「…反応に困ること言うなよ」
「そっちが聞いてきたんじゃん」
二人のやり取りに、早苗はくすくすと笑った。
その時だった。
「え、…優君…?」
早苗の目線が、目の前の道路からまたすこし奥の方向に釘付けになった。
「え?」
奏多と穂高も、同じ方向に目を向ける。
「あれ、あの子…。」
遠目だが、確かに、前に奏多が見かけた子供だった。
「優君って、もしかして早苗さんの…」
奏多が言いかけると同時に、穂高が走り出していた。
「穂高!」
穂高は走るのが速い。奏多は慌てて後を追った。
穂高はその子供に近づいたところで、スピードを落として、優しく声をかけた。
「ねえ、そこの君、ちょっと教えてほしいんだけど。」
まるでうたのお兄さんかのような優しく爽やかな笑顔は、さすがだ。
穂高は、笑顔のまま子供の目線に合わせてしゃがんだ。
「君、優君?」
「…なんで僕の名前知っているの?」
名前を呼ばれた優は、心底驚いた様子で、目を大きくして穂高の顔を見た。
「君のお母さん、早苗さんから聞いたんだ。」
「ママのお友達なの?」
「うん、そんなところかな。」
その時、優の名前を呼ぶ男の声がした。
「優!」
「あ、パパ。」
優の父親らしいその男は、穂高を見るなり険しい顔をして近づいて来た。
「うちの息子に、何か御用ですか?」
優の父親は、もともとは優しそうな人相に思えたが、今は眉間に皺を寄せ、不審感をあらわにしている。その形相に、奏多は焦った。穂高のことを不審者だと思っているのは明らかだ。
対して穂高は、よそ行きの柔和な笑顔を崩さないまま、そっと立ち上がった。長身な穂高を、優の父親が下から睨みつける。
「私、こういう者です。」
穂高は優の父親に向かって、名刺を差し出した。「荒巻霊媒事務所 荒巻穂高」と書かれたシンプルな名刺だ。奏多は心配になった。ただでさえ、今穂高は知らない小学生に声をかけている不審者扱いだ。霊媒師、という職業は一体身元証明としてどこまで通用するのだろう。
案の定、優の父親の疑心は深まってしまったようだった。
「霊媒…」
気持ち悪そうに顔をしかめる。だが、その表情は穂高の名前を読み上げた瞬間に変化した。
「荒巻って、まさか。」
「何でしょう。」
「あの、失礼ですが、お父様のお名前は何と?」
「…荒巻柊一です。」
優の父親は態度を一変させ、穂高の話を聞く気になったようだった。それもそのはずで、彼は穂高の父、柊一が経営する荒巻海運の子会社、荒巻海洋保険サービスの社員だったのだ。社内では、創始者一族の霊感について世間よりかなり真実味を持って語られているらしく、その噂と穂高の職業、そして名前が、点と点が繋がるように、彼を納得させたのだった。
立ち話を続けるわけにもいかず、一行は荒巻霊媒事務所に移動した。事務所に入るにはシエルを通る必要があるため、そこで優の姿を見たスミレは、目を丸くした。
「あれ、君は…」
「お姉さん、この間はごめんなさい。」
優はスミレにぺこりと頭を下げた。以前事務所のドアの前でスミレと対峙し、走って逃げ帰った時のことを言っているのだ。スミレは、「全然良いよ」と言ってにっこりと笑った。
「つまり、早苗はまだあの場所に留まっているのですか?」
事務所のソファに座った優の父親は、まだ半信半疑な様子ではあるものの、穂高の話を素直に聞いた。
「ええ、優君の話も、早苗さんからお聞きしました。熱を出した優君を迎えに行く途中だったとか。」
「…その通りです。そんなことは家族しか知らない。…本当に早苗は、幽霊になってこの世にまだいるんですね。」
優の父親は、開けっ放しになっているドアの向こうで、スミレと一緒に花を見ておしゃべりしている優の姿を見つめた。
「優にそのことを話してしまったのは僕です。あの子が一年生になった頃、ママはなんで死んじゃったの?と聞かれました。私は、馬鹿正直に話してしまった。熱が出た優を迎えに行く途中に、事故に遭って亡くなったことを。親として、熱が出た子供を迎えに行くなんて当然でしょう。そう思って…、それを聞いたあの子が、母親が死んだのは自分のせいだと思うなんて。そんなこと、少し考えればわかることなのに…。あの子は母親の墓参りに行くのを嫌がるようになりました。ママは僕のせいで死んだから、ママはきっと怒っているからって。そんなことないと何度言い聞かせてもダメで…。」
話し声にはだんだんと涙の気配が滲んできた。穂高の隣で話を聞いていた奏多は、胸が締め付けられている様だった。この人も、生きながら、後悔を抱えているのだ。
「あの、優君と一緒に早苗さんのところに行ってみませんか。」
「早苗のところに?」
「あのY字路に。早苗さんがあのY字路に留まって待っているのは、おそらく、あなたたちお二人です。」
奏多は窓の外を見た。
日が傾きだし、もうすぐ夕方になろうとしている。
早苗は優の顔を見るなり、泣き崩れた。いつも穏やかな顔で佇んでいる早苗が、こんなに感情をあらわにするのは初めてだった。
「優君…」
早苗は嗚咽の間に優の名前を呼んだ。
「…ママ?」
優には早苗の声は聞こえない。
けれど、優は虚空に向かって母親を呼んだ。
早苗は、優の頭に手を伸ばした。
「優君、大きくなったね」
優の頭にそっと手を置く。その瞬間、優は不思議そうな顔をして、穂高を見上げた。穂高は、何も言わずに頷いた。その顔を見て、優の顔がぱっと明るくなる。
「パパ、本当にママはここにいるよ!今、僕の頭を撫でたよ!ママ、僕、二年生になった!ママの名前の漢字も書けるし、時計もわかるよ!毎日楽しいよ!」
矢継ぎ早に話す優の前にしゃがみこんで、早苗は泣きながら「うん、うん」と頷いた。優の父親は、最初は何が何だかわからない様子だったが、そのうち目に涙を溜めて優の様子を見守っていた。
その日、夕日が見えなくなるまで、早苗たち家族は確かに、Y字路で家族の時間を過ごした。
早苗は夜と同時に、姿を消した。
次の日穂高は午前の依頼人との約束の前に、早苗に最後の献花をしにY字路に行った。
平日だったから、奏多はいつも通り学校へ行って授業を聞いていた。窓から空を眺めながら、早苗のことを考えた。
思えば、早苗とは長い付き合いになっていた。その間、早苗はずっと二人を待っていたのだ。家族だけの間に水を差すわけにはいかず、あの日を最後に消えてしまう早苗に奏多は声もかけられないまま、Y字路に指すオレンジの光は消えてしまった。
寂しいな、と思った。
早苗との思い出に浸りたくて、奏多は放課後、Y字路に立ち寄った。
まだ夕方というには少し早い時間だったが、いつも早苗の隣に立っていた位置に今日も立つ。足元には、今朝穂高が置いたらしい、シエルの花束があった。
何をしていたわけでもない。ただここに立ち尽くして、つかの間のおしゃべりをしていただけだ。けれど、早苗と過ごした時間は大切だった。今思えば、早苗は奏多の…
「最後の挨拶、しに来てくれたの?」
気づくと隣に早苗が立っていた。
「早苗さん!どうして。」
「ふふ。だって、大事なお友達に挨拶もせずに、行くわけにはいかないでしょ。」
「友達?」
「うん、友達。」
嬉しかった。早苗はやはり、奏多の友達だったのだ。
「僕、友達いたのか。」
「奏多君、今までありがとうね。奏多君と出会えて、良かった。」
「うん、僕もだよ。」
「私たち、もし生きている人同士だったら、きっとこんなふうに隣に並んでおしゃべりしたり、きっとあり得なかったよね。」
「うん、高校生と主婦だもんね。」
二人で笑った。
「奏多君、私、奏多君と穂高君のこと、応援しているよ。たとえ幽霊と生きている人だとしても、穂高君には奏多君が見えるし、…大切な人と一緒に居られるって、とても幸せなことだから。たくさん一緒に笑って、同じ時間を過ごして、たくさん愛を伝えてほしい。」
「うん。」
「いつまでも、二人の幸せを願っているからね。」
「うん。早苗さん、今まで、ありがとう。」
早苗はふんわりと、奏多に笑いかけた。そして、夕日が沈む前に、この世を後にした。
*
早苗を見送った後、奏多は急いで荒巻霊媒事務所に向かった。試したいことがあったのだ。奏多は、優の頭に手を置いた、早苗の姿を思い出していた。
いつものように、音も無く事務所に入り、安楽椅子に座る穂高を見つける。
「穂高!」
名前を呼ぶと、穂高が奏多に気が付いて顔を上げた。
「おかえり、奏多。」
奏多は穂高に近づいて、腰を屈めた。
急に縮まった顔の距離に、穂高が驚いて固まる。奏多はお構いなしに、穂高の唇に口付けた。
そのキスには、音も温度も無かった。
唇を離して、穂高の顔を見つめる。
穂高は一瞬何が起こったのかわからない様子で、奏多と見つめ合った。
どちらからともなく、笑みが零れた。
「穂高、僕、穂高が好きだよ。」
穂高は、愛おしそうに目を細めて奏多を見た。
「俺も。」
5
柏木奏多は高校生だった。そして、彼が3年生になった春、同じ高校に荒巻穂高が入学した。
入学して数日、渡り廊下ですれ違った奏多を初めて見たとき、穂高は息を飲んだ。あんなに綺麗な顔をした男を見たのは初めてだったからだ。
「なあ、あの人って…」
その時一緒にいたクラスメイトに、思わず訪ねた。
「ん?あー、3年の柏木先輩じゃね?結構有名だよ、あの人。」
「…そうなの?」
「うん。めちゃくちゃピアノがうまくて、いっぱい賞を取ってんだって、姉ちゃんが言ってた。」
おしゃべりなこのクラスメイトは奏多と同じ学年に姉がいるらしく、奏多の校内での評判を穂高に聞かせた。おかげで穂高は、奏多の名前、ピアノの腕前、学校を休みがちなこと、校内では高嶺の花の様な扱いをされていることまで知った。
「あんなイケメンで、家も金持ちらしいぜ。人生勝ち組って感じだなー」
「…」
“人生勝ち組”…?そうなのだろうか。
穂高は、すれ違った時の整った横顔が、なんだかひどく淋しそうに見えたのを思い出していた。
「よっ、荒巻クン。君、オカ研に入らないか?」
高校入学後半月も経たない内に、妙な先輩に絡まれだした。何やらオカルト研究会という非公認の部活動をごく少数の有志で立ち上げ、そこに穂高をしつこく誘ってくるのだ。なんでも荒巻海運の創始者が霊感を持っているらしいという胡散臭い噂を前々から聞きつけていて、その孫が偶然にも入学してきたのをこれ幸いと捉えているらしかった。
「前にも言いましたけど、僕、霊感とか無いので。」
「えー本当にぃ?おじいちゃまには霊感があるらしいじゃん。孫の君にも受け継がれているんじゃないの~?」
「さあ。祖父にそんな力があるかどうかも、僕は知りませんので。」
霊感があることを知られて得をしたことなど皆無に等しかった。だから最初のうちは笑顔を作って、知らぬ存ぜぬで断り続けていたのだ。しかし、この3年生―――四谷は非常にしつこかった。
ある日の昼休み、渡り廊下から奏多を見つけた穂高は、思わず足を止めて窓から下を通っていく奏多の後ろ姿を見ていた。
奏多は学校を休みがちだと聞いていた。確かに毎日の様に視界の端で奏多を探しているのに、見かける機会はかなり少なかった。
「あ、荒巻クン、こんなところにいた~。も~探したんだけどお」
…こいつは頼んでもないのに、毎日会いに来るというのに。
「そろそろ決心してくれた?ぜひとも僕たちオカ研に…」
「入りません。」
「そう言うと思った!諦めないよ僕は。」
「諦めてください、頼むから。」
もう付きまとわれて2週間ほど経っていた。いい加減笑顔で応対することも面倒になってきて、真顔で返すようになっていた。
四谷は全くのノーダメージという感じで、穂高の隣に立って窓の外を見た。
「何見てんの?もしかして何かいる?」
幽霊でも見ていると思ったのか、いかにもわくわくした様子で穂高の目線を追う四谷が、去っていく奏多の後ろ姿に目を留めた。
「あ、柏木だ。珍しい。今日は学校来てたんだ。」
「え?四谷さん、あの人と知り合いなの?」
穂高は、思わず目を丸くして四谷を見た。
「当たり前じゃん、同級生なんだから。去年同じクラスだったよ。」
「そうなの、話したことあんの?」
「ない」
「何だよ…」
少しがっかりした。あの人はどんな風に話すのか、知りたかった。どんな声で、どんなことに興味があって、どんな話を聞いて笑うのか興味があったのに。
「でも、学校に来られているってことは、体調が良いんだな。良かった良かった。」
四谷は穂高の様子にはお構いなしで、腕組みしてうんうんと頷いた。
「体調?」
「あれ、知らない?あいつめっちゃ体弱いんだよ。欠席理由のほとんどが病欠だし。」
知っているわけがない。でも、病弱なのは初めて知る情報だった。最初に穂高に奏多のことを教えたクラスメイトは、奏多が学校を休みがちだという話はしていたが、理由までは知らないらしかった。
「同じクラスだった時もかなりレアキャラだったなあ。俺は会えたらラッキーくらいに思っていたね、まさにツチノコだ。」
「何馬鹿なこと言ってんだ」
呆れた穂高のツッコミに、四谷はケラケラ笑った。こいつ、本当に変な奴だ…と四谷を睨んでから、また下に目線を戻したが、もう奏多は見えなくなっていた。
それから、ごくごくたまに奏多を見かけた。そして奏多を見かけた日は、下校時に音楽室の前を通るのが習慣になっていた。教室を覗くことももちろん話しかけることもなく、ただ、奏多がピアノを弾いているか確認するだけ。奏多は登校してきた日に、たまにだが音楽室でピアノを弾いていた。おそらくそういう日は体調が良好な日で、校内に響く美しいピアノの音を聞くと、たとえ姿が見られなくても奏多が比較的元気なことがわかって嬉しかった。
「聞いた?3年の柏木先輩、亡くなったらしい。」
その知らせは、8月のある日突然届いた。昼過ぎから分厚い雲が空を覆い、夕方には豪雨が降った日だった。
朝から何となく校内が騒然としていて、落ち着きがなかった。
穂高は騒ぎの原因を誰にも追及しなかったが、学校の高嶺の花だった柏木先輩の訃報は校内の注目の的で、皆がこの話をしていたために自然と耳に入ってきた。最初は何の話をしているのかよくわからなかったが、あまりにも周りがその話で持ちきりで、嫌でも、彼らの言葉の意味を理解しなければならなかった。少し前から奏多は持病が悪化して、ガッペイショウというやつを起こして入院していたのだと、クラスメイト達が話しているのを聞いた。―――ジャア、病死ッテコト?―――ソウミタイ…。―――カナシイネ。クラスメイト達の声はどんどん遠くなっていった。
柏木先輩が亡くなった。
結局その日は一日中、上の空だった。昔から幽霊が見えて、小さいときは生きている存在との区別がつかずお化けと遊んでいた。だからその手の話には人より馴染みがあるはずなのに、奏多の死は、どこか自分がいる世界とは違うところで起こった話の様だった。放課後になって、靴を履いて昇降口を出た。ぼーっとした頭のまま歩いていると、後ろから誰かに肩を掴まれた。振り向くと、四谷が立っていて、何度も呼んだのに、的なことを言っていた。その時初めて、自分が土砂降りの中傘もささずに歩いていたことに気付いた。
半年ほど経って、穂高はオカ研に入部した。四谷の熱量に押されたわけではなく、四谷が、オカ研で降霊会に挑戦すると言ったからだ。奏多が亡くなってから、もしかしたら、と校内で奏多を探すクセがついていた。もしかしたら、自分だけは会えるかもしれない。視界にあの淋しそうな綺麗な横顔が映らないか、淡い期待を抱いていた。しかし、そんな期待は徐々に打ち砕かれていた。そもそも、奏多が霊としてこの世を彷徨っている保証は無かった。だから、もしかしたらと降霊会に参加した。素人が寄ってたかって怪しげな儀式をやったって効果は無いだろうことは明らかだった。でも、そこに自分が参加したら、或いは…。
「…どうだ?穂高、どなたかいらっしゃったか?」
手作りのよくわからない黒いマントの下から、興奮した様子で四谷が訪ねた。ほかの参加者たちも、期待を込めた目で穂高を見た。窓に暗幕を貼った暗い仮の部室の中で、四谷が本で見たという下手な魔法陣が書かれた紙を、皆で囲んで座っていた。穂高以外の各々が、四谷同様、よくわからない黒いマントを着ている。
「何も。」
穂高は首を横に振った。この降霊で来た霊は一体もいない。そこの隅で何をするわけでもなく座り込んでこっちを見ている男は、四谷に引きずられて初めてこの仮部室に来た時からずっといるのでノーカウントだろう。
「やっぱダメか~」
皆落脱力して姿勢を崩した。魔法陣の書き方が間違っているのかもとか、必要な詠唱を飛ばしたのかもとか、各々落胆した様子で話し始める中、内心一番落胆していたのは穂高だった。家族の中でもひと際霊感が強くて、中学生の時、除霊の能力があることに気が付いた。そんな自分だから、もしかしたら、と思っていた。けれど、残念ながら自分には、霊をあちらに追いやる力はあっても、こちらに呼び戻す力はないのだ。
降霊会は失敗に終わったが、穂高は何となくオカ研に籍を置いていた。籍、と言っても非公式の部活動だったし、四谷達が卒業するまで彼らに仲間面されるのをいちいち拒否する体力が惜しかっただけだった。
大学に入り、四谷に再会した。それなりの偏差値の大学だったので驚いたが、四谷は意外にも勉強ができるようだった。なぜそんなに優秀なのに、あんな馬鹿なことに時間を使うんだろうか。しかも聞いてみると、大学を選んだ理由も、オカルトサークルなるものが存在しているから、という呆れた話だった。
「もちろんオカサー入るよね?穂高キュン」
「…入らない。」
「なーんでだよー」
四谷は渋ったものの、頑なな穂高を高校時代ほどしつこくは誘わなかった。代わりというわけではないが二人はそれなりに気心が知れた仲として、穂高が二十歳になってからはたまに飲みに行くようになった。
大学を卒業する少し前から、穂高は除霊の仕事を始めていた。と言っても、祖父の知り合いに頼まれた仕事をこなし、お小遣いをもらうような形だった。それを稼業にすることに決め、父親の所有する物件に事務所を構えることにした。父親の持ちビルに入ったのは、学生時代からの依頼人のツテでそれなりに収入があったとはいえ、駆け出しの仕事だったし、内容が内容なだけあって、テナントとして入れる物件が見つからなかったからだった。2年先に大学を卒業していた四谷は、外資系の商社に勤めた後、会社員が肌に合わないと言っていきなり退職し、バーを経営し始めた。四谷が会社員としてそれなりの成績を収めていたことを知っていた穂高からしてみれば勿体ない気がしたが、バーの店主は確かに四谷の適職だったようで、すぐに杞憂だと気づいた。四谷のところには学生時代のオカルト趣味繋がりの友人たちも顔を見せ、身の回りのその手の噂や相談ごとを酒の肴にしていた。四谷はその中から、これは、と思った話を穂高のところにまわし、依頼獲得に貢献するようになった。
依頼人が依頼人を呼び、四谷の持ってくる依頼も併せて徐々に安定して仕事を獲れるようになった頃だった。
「俺たちのいた高校なんだけどな、そこで今教師やっている同級生がいるんだけど。この前、お前の事務所の話を聞いてうちに来たんだよ。出るんだと。幽霊。」
「はあ」
幽霊なら、いくらでもいたけど。とは、四谷が喜ぶので言わない。
なんで自分たちがいたときには出ないんだ、幽霊、とぼやきながら、四谷は後日その同級生を依頼人として連れてきた。
依頼人はかつて穂高の2年上の学年であの高校に通い、最近教師として赴任して来たという。彼の話によると、日はまばらだが、暗くなった放課後の誰もいない音楽室で、ピアノの音がするのだという。
よくある学校の怪談話じゃないのか。額に飾られている絵の中からベートーヴェンが抜け出してきて、夜な夜な演奏をするとか、そういう。半ば呆れて話を聞いていたが、正式に依頼として受けることにした。
そして、あの日。穂高は調査のために入った校内で、知っているピアノの調べを耳にした。
一瞬で高校生の頃の記憶がよみがえり、思わず音楽室に向かって駆け出していた。近づくにつれて、ピアノの音がはっきりしてくる。この演奏をする人を知っている。高校生には見合わないような腕前で、しなやかに奏でられるこの音。
走って音楽室にたどり着くと、扉の前で呼吸を整えた。未だ鳴り続けるピアノの音が、心臓の動きを掻き立てるようだった。
本当にあの人なのか。
でも、どうして今?高校生のころ、あの人が、自分にだけは見える形でまたどこかに現れるんじゃないか、そう期待していた淡い日々を思い出す。そして降霊まで挑戦したのに、結局ただの一度も、あの人に会うことはできなかった苦い気持ちを思い出す。四谷は羨ましがるが、幽霊が見えたって、得したことはほとんど無い。せっかく好きな人に自分だけが会えたかもしれないのに、好きな人が霊にならなかったから、何の意味もなかった。
…なのに今更、この扉の向こうにいるっていうのか…?
落ち着いた呼吸とは反対に、ピアノに交じって大きな音を立てる心臓。
穂高は初めて、奏多のいる音楽室の扉を開けた。高校時代、ただの一度も開けなかった扉だ。
扉を開けると、窓から入って来た桜が、外からの光を受けてちらちらと光っていた。
ピアノの音は止み、静けさの中に、あの人がこちらを振り返っていた。あの時と変わらない、穂高が一目惚れしたあの頃のままの姿で。
「…誰?」
穂高に聞こえているとわかっているのかいないのか、奏多は独り言のようにつぶやいた。
「…俺は、荒巻穂高。」
穂高が答えると、奏多は目を見開いて、すごい勢いで椅子から立ち上がった。
「僕が、見えるの?」
初めてだ。初めて、奏多の目に穂高が移った。
奏多は立ち上がった勢いのまま穂高に近づいて来た。対して穂高は、想い人が喜びに顔を輝かせ、かつては想像もできなかったほどの距離に近づいて来たことに動揺して、一歩後ずさった。
「僕が見えるんだね」
穂高は言葉に詰まって、こくりと頷いた。
初めて聞く声だ。姿はあんなに目で追っていたのに。いや、正面からちゃんと顔を見るのだって初めてだ。横顔や後ろ姿は、網膜に焼き付いているのに。
「初めてだ。僕が見えるなんて。あなたはここで何をしているの?制服じゃないから、先生?僕は最近はずっと学校にいるけど、今年赴任した先生の中にいたかなあ。荒巻先生は、何の先生なの?」
奏多は矢継ぎ早にしゃべった。正直、憧れた先輩はもっと大人びて物静かな印象で、穂高にとっては少し意外だった。
「…違う、先生じゃない」
「え?」
喉から言葉を捻りだすと、案外ちゃんと喋れた。
「俺は教師じゃなくて、霊媒師だ。今日は依頼の調査でここに来た。」
「え…」
奏多は大きな目をさらに大きくして穂高を見つめた。一瞬、穂高はしまった、と思った。目の前にいる想い人は、今はもう幽霊なのだ。そしてどうやら、自身が幽霊である自覚もある様だ。知識が無くても、霊媒師が何をするのか、何となくイメージが付くはずだ。奏多の中で、穂高に突然祓われる想像が成り立ったのではないかと心配になった。これまでだって、強制的に除霊されたくないと抵抗した霊はいる。奏多にとっての自分が、まるで敵の様な扱いになるのは避けたかった。
「じゃあ、霊を見たり祓ったりするんだね」
気まずく思いながら目線を合わせると、奏多はさっきまでと同じキラキラした目のまま穂高を見ていた。自分が除霊される対象だと思っていないのか、自分が見える人間に会えた興奮でそこまで思い至っていないのか、なんにせよ、奏多は気にしていないようだった。
「じゃあ、もしかして、ここに幽霊を探しに来たってこと?」
穂高はすぐには答えられなかった。今回の依頼で探しに来たのは、誰もいない教室でピアノを弾いているという幽霊、つまりは奏多のことだった。いや、まさかそれが奏多だとは思いもよらなかったが。
いつもなら、依頼にもよるが大抵は霊を祓って任務完了としている。依頼人が困っている霊障を取り除くのだ。でも今回は…。
―――俺はこの人を除霊しないといけないのか…?
穂高の困惑を、奏多は違う意味にとったようだった。
「あの、ごめんなさい、僕…。誰かと話すの久しぶりで。いきなり話しまくってしまって。」
奏多がしょんぼりと俯いた顔を見て、穂高は胸が詰まった。
「いや、いいんだ。その…、君、名前は?」
「僕?僕は」
―――柏木奏多
「柏木奏多」
自分の心の声と、奏多の声が重なった。
この人を祓ったりなんかしない。
要は、霊障を取り除けば良いのだ。自分が奏多を引き取ることに決めた。
奏多が場所に縛られるいわゆる地縛霊でないことは、うすうすわかっていた。地縛霊なら、亡くなってすぐに今いるこの学校に縛られたはずだし、もしそうなら穂高に見つけられないわけがなかった。奏多が何に未練があってこの世にいるのかはわからなかったが、興味の対象が自分になれば、きっと憑いて来るだろう。だから、穂高は奏多の興味をそそる話し方をして、自分の仕事について教えた。狙い通り、奏多は霊媒師の仕事に興味津々で、頻繁に穂高のところに現れるようになった。
奏多を自分に憑いて来させるつもりだったのに、穂高の中には高校生のころと同じか、それ以上の気持ちが湧き上がってきていた。
ある日、来客対応に疲れて事務所でうたた寝している間に、奏多がいなくなっていたことがあった。事務所のドアにはベルが取り付けられているため人間の出入りがあればわかるが、奏多は別だ。
音もなく現れ、音もなくいなくなる。奏多は生前の行動範囲が狭かったせいか、事務所にいない時は、大抵は学校にいるか、町内でも少し探せば見つかるところにいた。でも、奏多が何に執着しているのかわからない穂高にとって、奏多が突然いなくなることは不安でしかなかった。ある日突然、自分の知らないところで成仏してしまうかもしれないのだ。もう、突然二度と会えなくなるのは嫌だった。
かつては校内で見られただけで満足していたのに、今となっては、奏多が傍にいないと不安だった。
その日も、すこし事務所から離れたところにあるY字路に奏多はいた。遠目に奏多の姿を捉えて、ほっと胸を撫でおろす。奏多はY字路に毎日佇んでいる早苗という女の霊と、よくそこで立ち話をしていた。Y字路に女性が一人、何もせずただ道路を見つめて立っている。その隣には、学生服を着た奏多。見える穂高には奇妙な光景だが、二人が見えない人間たちはその前をまばらに通り過ぎていく。二人も、道行く人々のことはいちいち目に留めず、何やら楽しそうに話している。その姿を見て、穂高は顔をしかめた。なぜ自分だけがこうなのだろう。見える人間より見えない人間の方が圧倒的に多いこの世界で、奏多の姿を捉えられる自分は特別だ。自分にだけ、奏多が見えている。だからほとんどの場所で、奏多を独り占めできる。けれど、相手が見える人間だったり、幽霊だったりすると話が変わる。突然奏多が穂高だけのものではなくなる感覚に陥るのだ。淋しそうな顔も、楽しそうな顔も、自分だけが見ていたい。こんなことを考えているのは、きっと穂高のほうだけだ。
穂高はぎゅっとこぶしを握り締めて、事務所に踵を返した。姉、スミレが営む花屋「シエル」に行って、小さなブーケを作ってもらう。スミレは何も聞かずに、愛らしいブーケを作ってくれた。花があまり好きではない穂高が花を買うのは、誰かへの献花であるとわかっているのだ。穂高は早苗に手向けるブーケを片手に、再びY字路に向かった。
そんなに時間はかかっていないため、奏多はまだY字路にいた。早苗の隣に立って話し込んでいる。穂高が近づいても二人とも気が付かず、近づくに連れて二人の話し声も聞こえてきた。
「早苗さんもきれいだよ」
「ふふ、どうもありがとう」
「ほんとなのに」
―――何の話をしているんだ。
早苗に「きれいだ」という奏多の言葉に、一気に気分が悪くなった。早苗がきれいなのか、奏多にとっては。確かに早苗は一般的に見て素朴で愛らしい女性だったが、それとこれとは話が別だ。奏多がもし、早苗を好きになったらどうなるのだろう。自分以外に興味を持ってほしくないのに、幽霊である早苗を好きになってしまったら?早苗が消えたら、奏多まで消えてしまう。
「お前はいつもこんなところで女性を口説いてんのか」
この人は俺の。そんな幼稚な気持ちばかり膨らんでいく。
穂高には、仕事人間だった祖父の代わりに、まるで本物の孫の様に可愛がってくれた人がいた。その人は、氷川黎弦。テレビや雑誌に取り上げられる霊媒師で、何十年も活躍している人だった。小さい頃から霊感があったスミレや穂高は、その能力との付き合い方を黎弦から教わった。特に穂高は幼い頃は霊とばかり遊ぶような子供だったため、黎弦からの指導は役に立った。奏多や早苗の様に無害な霊は沢山いるが、そうではない場合、かなり危険な目に合うからだ。そういった霊との付き合い方を黎弦は教えてくれ、一族内でも力の強い穂高に除霊の力があることに最初に気が付いたのも黎弦だった。
そんな黎弦が、霊となって目の前に現れた。
荒巻霊媒事務所のドアにはベルが吊り下げられており、誰かが来たら必ず気付く。にも関わらず、黎弦は奏多がいつもそうであるように、音もなく部屋の中に現れたのだ。
「爺さん、死んじゃったのか?」
黎弦が奏多を見るなり除霊しようとしたため、スミレに目配せして奏多を退出させた後、穂高は単刀直入に尋ねた。
「ああ、そうらしいねエ」
黎弦は、何の気なしに答えた。
「じゃあなんでこんなとこに来てんだよ。あんたのことだから、長くこの世に留まる気はないんだろう。家族に会いに行くなら、今のうちじゃないのか。」
「会いに行ったって視えもしないのに、どうするってんだい。あんたに遺言託した方がよっぽど生産的じゃないのサ。」
黎弦の妻や子供達には霊感が無い。荒巻家の様に、脈々と霊感が受け継がれている家系ばかりではないのだ。
「…死んでも偏屈爺だな。」
黎弦は鼻で笑った。
「もちろん、あんたんとこが終わったら顔くらい見に行くヨ。」
「あ、そ。」
「それより何だい、あれは。あんた何でまた霊なんかと仲良しこよししてんのサ。」
黎弦は、穂高が奏多と仲良くしているのが気に入らないらしかった。それもそうで、黎弦にとっては、祓う側と祓われる側の存在は相容れない者同士なのだ。穂高にとっても、奏多に再会するまではそうだった。子供の頃、何も知らずに幽霊と遊んでいた穂高に、その価値観を教えたのは黎弦だ。
「あのさ、あいつに手出したら俺、いくらあんたでも許さないから。」
「わかったってば、うるさい子だねエ。」
「それで、今日はどんな用で来たの?」
「私の本読んだかい」
「読んだ。」
「どうだった?」
「最後の三行だけ面白かった。」
「そうかい」
黎弦は穂高の答えに満足したようだった。
「手紙に書いただろう、本の感想聞きに行くヨって。」
穂高はわざと大きなため息をついた。
「あのさ、郵送の時間を考えてよ。あの本昨日ここに着いたから、一日で読んだんだぞ。無駄に長い本書きやがって。」
「それが遺作になるんだから、長くてちょうどいいじゃないか。」
「そういうもんかな」
「そうだよ。」
他愛のない話をして、いつものように憎まれ口を叩き合って、黎弦は、自身が引き受けていた大量の依頼を穂高に託して行った。その量に辟易したが、世話になったことは確かだったので、最期の置き土産を断る選択肢は無かった。
「じゃ、ここいらでお暇するヨ。」
ソファから腰を上げた黎弦に、穂高は最後に質問した。
「あのさ、俺が死ぬまで、消えてほしくない人がいるんだ。そういう時は、どうしたら良い?」
「なあに、私は何を言われても行くヨ。」
「爺さんのことじゃねえよ。」
穂高が呆れたように言うと、黎弦はその日初めて、肩を揺すって笑った。
「わっかているヨ、あの幽霊のことだろう。何あんた、幽霊なんかに恋してんのかい。」
「…ほっとけ。」
「昔から偏屈な餓鬼だったけど、あんた相変わらず面白い子だねエ。」
黎弦は目を細めて穂高の顔を見上げた。恰幅の良い黎弦は、幼い頃から穂高にとっていつまでも大きな人というイメージだったが、今こうして向かい合って立つと、身長はとっくに穂高が追い越していることに改めて気付く。
「そうねエ。幽霊をこの世に留まらせようとしたことなんて無いんだけど。…やっぱり自分に憑かせるしかないだろうねエ。」
「自分に憑かせるには、どうしたら良いの?」
黎弦は、うーんと唸って首を捻った。
「あの子は何に未練があって幽霊になったのか、何に執着してこの世に留まっているのか、それを知りたいところだね。あんたもそこは考え付いているだろうけど、その未練や執着の対象があんたになれば、あんたが存在する限りは、消えたりしないだろうサ。」
「俺に執着しているかどうかはどうやったらわかる?」
「あんたのいるところに現れるようになるだろうサ。あの子の行動範囲じゃなくても、あんたさえいれば、見つけ出して傍にいるようになる。そうしたら、あんたに憑いているって、言えるんじゃないの。」
「そうか、わかった。」
穂高は奏多の行動範囲から出ることはほとんど無い。仕事も生活も、ほとんど事務所で事足りるからだ。それに、奏多は学校以外は穂高のところに入り浸っていて、離れる機会はそうそう無い。その時が来たらわかるだろうからと、穂高は気長に構える気でいた。
しかし、気が付いた。黎弦から引き継がれた大量の依頼の中には、金持ちの別荘やリゾートホテルなど、そもそも東京を離れなければいけない現場もたくさんある。ちょうど奏多の行動範囲から逸脱する機会だった。
穂高はわざと数日事務所を空け、地方の依頼を片付けに遠出した。高齢の黎弦は各依頼人との契約書に、自分が依頼遂行不可能になった時には代理人として荒巻穂高を遣わすという内容を盛り込んでいたため、どの現場でもスムーズに動けた。代理人の件は、穂高に断りなどなく勝手に決められていたのだが、あの偏屈爺め、と苦笑いで済ました。
数日の間に黎弦の葬儀と告別式があったため、穂高は東京と地方を往復した。通夜は、亡くなった日に本人と話し込んでいたため、時間が間に合わず欠席した。もともと血縁者だけで執り行うつもりだったということで、通夜に行けなかったことはお咎め無しだった。
奏多が現れるかと期待したが、奏多の姿はどこに行っても見えなかった。
葬儀と告別式にはスミレも参列していたので、奏多の様子を聞くことができた。
「あんたがいなくて淋しそうよ、奏多君。ギリギリ東京から通える距離なら、毎回帰ってくれば良いのに。」
「…淋しそうならなんで会いに来ないんだ?」
「場所もわからないのにどうやって会いに行くのよ」
黎弦との会話を知らないスミレは、呆れたように言った。
「…ま、私から言っといたから。」
「何を?」
「黎弦さんのお客さんは大物ばっかりだから、厳重な守秘義務があるって、あんたが言ったんじゃない。だから私も場所は知らないわけだし。奏多君にもそう言ったの。ちゃんと理解してくれて、おとなしくあんたの帰りを待っているから安心しなさい。」
「余計なことを…」
「え、何?」
それでは奏多が穂高に憑いているのかいないのか、わからないではないか。しかし穂高はスミレを睨んだが、何も言わなかった。
何となく不安だったのだ。いつまで経っても奏多が現れないのは、自分に憑いていないからではないか?そんな考えを否定する材料が、一つできたということだった。
久しぶりに事務所に帰った穂高は、奏多の学校で何か事件が起こっていることを知った。奏多の学校で飛び降り事件が発生したことは聞いていた。しかし、その事件が尾を引いていることは、奏多と依頼人の話で知った。
穂高は奏多とともに、学校へ調査に出向いた。穂高が卒業し、奏多が卒業できず今も通い続けている場所だった。そして、奏多を初めて見かけ、毎日の様に奏多を探していた場所であり、人間と幽霊として再会した場所だった。調査は部活動の生徒が帰った後に開始しなければならなかったため、日が陰りだして、校内は薄暗かった。世界は夜になろうとしている。あの春の日、音楽室で奏多と再会した時も、外が暗くなった後だった。
渡り廊下を奏多と歩いているのは不思議な感覚だった。
あの日、ここで奏多を見つけなかったら、今奏多と一緒にここを歩いている自分はいない。あの淋しそうな横顔を思い出したが、今隣を歩く奏多の横顔は、どこか楽しそうで、あの時のような淋しさは感じなかった。
幸せだ。
そう思った。高校一年生と高校三年生が、大人と高校三年生になっても。
たとえ人間と幽霊であっても、奏多と過ごせて幸せだ。
あの頃憧れていた柏木先輩は、儚くて物憂げで、綺麗だった。今の奏多は、病気から解放されて、あの頃の表情とは印象の違う明るい顔で笑いかけてくる。
奏多が好きだ。
憧れの柏木先輩を追い求めていた頃とは、また少し違う感情が芽生えている気がした。
渡り廊下の窓から階下を覗き込む。あの頃、ここから柏木先輩の後ろ姿を見つめていた自分には想像できない未来を生きている。
珍しく感傷に浸っていると、奏多が誰かと話す声が聞こえた。
目を向けると、小柄な男子生徒が奏多に話しかけている。こんな時間に生徒が?依頼人である教師の話では、部活動が終わったら校内に残っている生徒はいないということだった。それに、どことなく嫌な感じがする。
「奏多?」
奏多に声をかけると、その男子生徒も一緒に穂高の方を向いた。長い前髪の間から、陰気で尖った目が穂高を睨む。この男子生徒は、もしかして奏多の行っていた森という奴じゃないだろうか。奏多が見えるということは、霊感持ちか、幽霊だ。
森が後者であることはすぐに分かった。
森が奏多の手に触れたからだ。奏多の手首を掴んで、廊下の先の闇に消えようとする。
「待て!」
奏多を取り返そうと手を伸ばしたが、穂高の手は奏多の体に触れることはできず、むなしく空気を切り裂いただけだった。
「くそっ」
穂高は闇に向かって走った。
行き先はわかっている。森が飛び降りた生徒だとしたら、屋上だ。
屋上に続く階段には、生徒を立ち入らせないためのバリケードが組まれていた。人間とは不便だなと、こんな状況なのに笑えて来る。
穂高は懸命にバリケードを破って、屋上へ続く扉の鍵を壊して外へ出た。
穂高は森を祓い、奏多の救出に成功した。
「お前は何に未練があんの?」
「え?」
「お前が幽霊になった理由って、何?」
奏多は押し黙った。
「幽霊になったってことは、何かに未練があるんだよな?」
「未練…」
穂高は食い下がってみたが、奏多が困った顔をしたので諦めた。
奏多には、穂高こそが未練なのだと、穂高に執着しているのだと言ってほしかった。
だから、穂高が、祓われるなら穂高に祓われたいと言ったのは嬉しかった。
音も温度もない、感覚だけのキスが嬉しかった。
奏多が、自分に好きだと言ったことが、嬉しかった。
穂高は、このままずっと奏多と一緒にいるつもりだった。
ある依頼が舞い込んでくるまでは。
6
四谷博隆は、東京A町の下町で、小さなバーを経営している。店の規模は小さなものだが、連日客入りは良く、繁盛している。
もうすぐ本格的な夏になろうとしている時期だったが、その日は大雨で、珍しく客が少ない日だった。
グラスを磨いていると、カウンターに突っ伏して酔いつぶれていた客が顔を上げた。
「あ、起きました?お客さん、酔いつぶれるなんて珍しいですね。」
その客はいつもちゃんとした身なりをした会社勤めらしい男で、たまに仕事帰りに一人で来ては、ウイスキーを一杯だけ飲んで帰っていくのだが、この日はどういうわけか何杯もウイスキーを注文して、酔いつぶれて眠っていたのだ。かつて営業マンを経験した四谷が見るに、普段の物腰や、スーツの仕立て、腕時計のブランドなどから、所謂エリートで、かなり良い役職についているのではないかと思われた。
「すみません…お水を頂けますか。」
「もちろん。」
新しいグラスを手に取って、ミネラルウォーターを注いで渡す。
「大丈夫ですか?」
「…ええ、まあ。体の方は平気です。」
「心が弱っていらっしゃるんですか?」
「…もうすぐ、息子の命日なんです。」
その男性客は、弱弱しく笑った。
おっと、これは、と四谷は思った。飲みの席では珍しくないが、思ったよりも重たい話題を引き当ててしまった。
四谷は特に何も促さなかったが、客の方から事情を話し出した。酒ほど高くないが、ジンジャーエールを追加注文されたので、その分くらいは話を聞いても良いだろう。土砂降りの雨のせいで、客がまばらなのが良かった。
「息子は小さい頃からそれはそれは可愛くて、まるで天使の様な子だったんです。優しくて、お利口で。」
ほお、これは相当な親ばかだな、と四谷は小さく苦笑した。自分の子供、それを息子を天使とは。
「ただ、生まれたときから体が弱くて。本当にかわいそうだった。いろいろと持病があって、すぐに体調を崩してしまって。外でかけっこをしているところなんて、見たことも無かったなあ。」
客は、息子がどんな病気だったのか、どんな症状があったのかかいつまんで話したが、四谷は医学的なことにはまったく明るくないため、言われた病名のほとんどを聞き逃した。
「中学生になって、高校生になって。小さい頃、この子は長くは生きないかもしれないとお医者様に言われていたけれど、学生服を着た息子の姿には感動した。母親に似て美形でね、イケメンに成長して…」
息子がでっかくなっても相変わらずの親ばかだ。さらには愛妻家、というやつでもあるらしい。四谷の家では、父親が母親を美形と称するなんてまず考えられない。
「そうだ。ピアノを小さい頃から習わせていて、それがとってもうまくて、何度も何度も賞を取ったんですよ。何をとっても、いくら病弱でも、自慢の息子でした。」
自慢の息子なのはさっきからよくわかる。四谷は、うんうんと頷いた。
「でも…高校三年生の頃、持病が悪化して。そのまま合併症を引き起こして、あっさり亡くなってしまいました…」
客は、話しながら声を震わせた。
美形、高校生、病弱…さらにピアノ…?何か引っ掛かるワードの羅列だ。
「もうすぐあの子が亡くなってから、十年になるんです。私も妻もそれなりに前を向けるようにはなって来たんです。それでも、この時期になると辛くて。」
もうすぐ十年…?四谷は九年前、高校三年生だった。
高校三年生の夏、同級生が亡くなった。彼は病弱で学校を休みがちで、ただの高校生とは思えないほどピアノがうまかった。
「…あの。お客さん。息子さんが通っていた高校って…?」
ビンゴだ。
客が答えた高校は、まさに四谷が卒業した高校だった。
「だから、ここは霊媒事務所なの。カウンセリングとかやってねえの!」
穂高は、電話越しに相手に向かって怒鳴った。
『まあまあそう言わずにさ!話だけでも聞いて差し上げてよ~穂高チャン』
電話の向こうの調子の良い声は、どうやら四谷のものだった。
「だから、そういう話は専門外なんだって。…おい、聞いてる?」
穂高はスマホを耳から離して画面を睨んだ。どうやら一方的に切られたらしい。穂高が顔を上げると、来客用のソファに腰掛けて、その様子を見ていた奏多と目が合った。
「電話、四谷さん?」
「ああ」
穂高は安楽椅子から立ち上がって奏多の隣に座った。片膝を立ててソファの上に上げ、体を奏多の方に向けるように座り、奏多の顔をじっと見る。
「四谷さん、どうかしたの?」
奏多も、同じように穂高の方に体ごと向き直って座り直した。
「…また依頼人を連れてくるらしい」
「嫌な仕事なの?」
いつも客の前以外では機嫌の悪そうな仏頂面をしている穂高だが、電話越しでも声を荒げるなんて珍しい。奏多は心配そうに穂高の顔を覗き込んだ。
「嫌な仕事っていうか…専門外の仕事だ。かいつまんだ話しかしてなかったけど、どこにも霊障らしい話がない。」
「え、珍しいね。四谷さんがそんな依頼を持ってくるなんて。」
四谷は経営するバーの客やそのつてから、霊障に悩む依頼人を度々穂高のところへ斡旋している。多少強引に依頼を捩じ込むこともあるものの、穂高の仕事をよく理解していて、「霊媒師の仕事」を持ってくるのだ。だから、こんなふうに穂高を困らせるなんて珍しい。
「話を聞くだけでもって言われたけど、霊が出てこないんじゃ何の役にも立てねぇ。わざわざこんなところまで来てもらっといて、話を聞くだけで帰すなんて申し訳ないだろ。」
イライラして穂高は髪を掻きむしった。ジャケット姿に合うようにセットされた髪が少し乱れる。穂高の事務所では、一つの依頼にそれなりの報酬を提示する。冷やかしで依頼をしに来る客を追い払うために、高めに設定しているのだ。つまり、この事務所内で穂高が客に使う時間には、それなりの金額が発生するということだ。穂高は話を聞くだけでも賃金が発生するのに、自分の専門外の依頼で客に無駄足を踏ませることを心配している。それがわかっている奏多には、穂高がいじらしかった。穂高の髪に手を伸ばして、乱れた髪を直してやる。
温度も無い手の感触に、穂高はイライラが落ち着いたのが、眉間に皺を寄せるのをやめた。奏多にされるがままに、髪を触らせている。
奏多は、もっと早く、穂高に触れておけば良かったと後悔していた。幽霊の自分には、穂高に触れることは出来ないものと思い込んでいたのだ。思い返せば、幽霊になってから学校音楽室に入り浸り、ピアノを弾いていたのだから、物に触れることは可能だったのに、どういうわけか、自分が穂高に触れることができるとは思い至らなかった。奏多は移動の時は歩くし、生きている人とほとんど変わらない。しかし、部屋に出入りするときにドアを開ける必要はなく、そういった物理法則は無視して移動できる。つまり、物理法則に囚われた人間らしい動きも、物理法則を無視した幽霊らしい動きも、両方できるのだ。どちらも出来るのだから、少し考えれば穂高に触れられることもわかったはずなのに、物に触ることと、穂高に触れることは同等に考えられなかった。
「ピアノが弾けるから物には触れるのに、何で俺には手を出してこないんだろうって、それは思ってた。」
「え、穂高、気づいてたの?気づいてたなら言ってよ。」
「…誰が触ってくれってお願いするんだよ、気色悪い。」
「えー、僕はお前がそんなかわいいこと言ってきたら、一か八かでも速攻で触っていたと思うけどなぁ。」
「かわいくない。きしょいだろ。」
「僕がお願いしても気色悪い?」
「お前はきしょくない。」
奏多は、素直に即答してくる穂高が可愛かった。いつも無愛想なくせに、こういう時の言葉はストレートだ。見た目は大人なのに、素直に表現してくるところは年下っぽい、と感じる。学生時代に穂高に出会っていたらどうだったのだろう。二人はちゃんと出会って、今みたいにお互いを見つめ合っていただろうか。穂高が自分と同じ高校に通っていたと発覚したときから、奏多は度々高生の自分と穂高の姿を妄想していた。生きているときもなぜか皆に遠巻きにされ、嫌われている感じはしないものの誰とも友達にはなれなかった。穂高なら、その目に見えない壁を乗り越えて、近づいてきてくれただろうか。でもいくら考えても最後には、きっと自分たちは人間と幽霊だから出会えたのだ、という結論に落ち着いてしまう。
だから今を大切にしたい。せっかく穂高に触れられるようになったのだから。2人で過ごす時間を大切にしたい。奏多はそう思っていた。
奏多が穂高を愛おしく見ている反面、穂高は浮かない顔をしていた。
「…俺はもしお前頼んできても、お前に触ってやれない。」
穂高の思い詰めた表情に、こいつ、また死にたいとか言うかも、と奏多は焦った。
自分に触りたいから死にたいなんて、なんてことを言うんだ。
病気のせいで生きたくても生きられなかった奏多の前でよく死にたいなんて言うなぁと呆れるが、理由が理由だから責められない。奏多は、焦って話題を変えた。
「そういえばさ、気づいたことがあるんだけど」
「…何?」
「僕と初めて出会った時のこと、覚えてる?」
「え?」
穂高は目を丸くして聞き返した。
「ほら、音楽室で、僕がピアノを弾いていたら穂高がいきなり入ってきたでしょ?」
「…ああ」
穂高は目を伏せて、「なんだ、渡り廊下でのこと覚えてんのかと思った」と小さく呟いた。
「え、なに、渡り廊下?」
「なんでもない。で、それがどうかしたのか?」
「あの時も、幽霊の調査で学校に来たって言ってたよね」
「ああ」
「思ったんだけどさ、その幽霊ってもしかして僕のことだった?森君の事件の時、何年か前にも学校から調査依頼があった話してたよね?」
「…」
「音楽室でピアノを弾く幽霊って、もしかして僕のことだった?」
奏多が神妙な面持ちで尋ねると、穂高は堪えきれずに噴き出した。
珍しく、笑い声を上げる。
「お前、今更気がついたの?遅…」
「うわ、やっぱり僕のことだったんだ!」
「あの時お前が学校の怪談がどうのって言い出した時は呆れたよ。バッハだとかベートーヴェンだとか言い出して…お前だっつの」
穂高は、よっぽどおかしかったらしく、笑いすぎて脇腹を痛めるほど笑った。奏多も、最初は笑われてむっとしたものの、穂高があんまり気前よく笑うからだんだんつられて一緒に笑い出した。
「まさか自分がいつの間にか学校の怪談になってたなんて、考えもしなかったよ。」
「音楽室でピアノを弾いてるのなんか、お前くらいしかいないのにな。」
ひとしきり二人で笑い合っていると、カランコロンと事務所のドアベルが鳴り、来客を告げた。ドアを開けたのは四谷で、目を丸くして穂高を見ている。
「何、なんで一人で笑ってんだよ、穂高チャン」
そもそも穂高が笑っていることが珍しい。その上、事務所の中には穂高以外いなかったので、四谷は怪訝な顔をしていた。
穂高の方は気にしていない様子で、フンと鼻を鳴らすと、いつもの仏頂面に戻った。機嫌を損ねたのではなく、この仏頂面が穂高のデフォルトの表情なのだ。
「…ま、いいや。かわいい笑顔が見れてラッキー」
四谷はにっと笑って茶化し、思い出したように自分の後ろを振り返った。
「すみません、世にも奇妙な光景が広がっていたので…。どうぞ、中に入ってください」
「だれが世にも奇妙だ。」
穂高は独り言を言いながら、立ち上がって服装を正した。さっき奏多が直した髪はそのままだ。
四谷に誘われ事務所に踏み入れた依頼人は、二人だった。中年の男女で、二人とも温和そうで上品な印象だ。恐らく夫婦だろう。どことなく、お互いに寄り添うように立っている。
穂高は接客モードに切り替わり、笑顔で夫婦に一歩近付いた。その時背後で、夫婦の顔を見た奏多が驚愕の表情で固まっていることには気がついていなかった。
「はじめまして、荒巻穂高と申します。お茶を用意いたしますので、おかけになってお待ちください」
夫婦は微笑んで礼を言うと、来客用のソファに腰掛けた。穂高は来客用のティーセットでお茶を用意し、二人の前に置いた。
いつもは依頼人の側に座る四谷が、今回はスペースが足りず穂高の隣に座る。いつも穂高の隣には奏多が座っているため、穂高は立ちすくんでいる奏多を見やった。
奏多…?
奏多は思い詰めた表情で、夫婦に釘付けになっていた。
その様子が気にかかる。
「穂高?」
なかなか話し出さない穂高を不思議に思い、四谷が声をかけた。穂高は居住まいを正し、夫婦に話しかけた。
「それで、本日はどのようなご相談内容でしょうか?えっと…」
「あ、ご挨拶がまだでしたね」
夫の方が、ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出す。
「ほ、穂高…」
奏多は、何か言いたげに穂高を呼んだ。
こういうタイミングで、奏多が発言するのは珍しい。ただ、客と向かい合って座る穂高の隣に立つ奏多の顔を覗き込んで確認するのは難しかった。
「この度はお忙しい中お時間を作っていただいてすみません。」
その客は名刺を取り出し、ビジネスマン然とした所作で穂高に手渡した。
「私、」
「穂高、」
「柏木豊と申します。」
「この人たちは、」
「こちらは妻の柏木奏絵です。」
「僕のお父さんとお母さんだ。」
事務所に沈黙が満ちた。
穂高は、名刺も見ずに、目の前の夫婦を見て固まっていた。
唖然とする穂高に見つめられ、夫婦は不思議そうに首を傾げた。四谷だけが、どこか嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。
「穂高?びっくりしたか?もしかして、お前気がついたの?」
「…なにを」
「お前、覚えてる?俺と同じ学年に柏木奏多っていたろ?三年生のころ、亡くなっちゃった。」
「…ああ、覚えてる。」
「こちらは、柏木のご両親なんだ。」
四谷は得意そうに掌を向けて二人を指し示した。
「お前は専門外だなんて言っていたけど、そのことはちゃんとお話してある。不思議なご縁だし、話だけでも聞いて差し上げてくれないか?な?」
「いいだろ?」と四谷が念を押す。
つまりこの男は、かつて亡くなった自分の同級生である奏多の父親と偶然出会い、何か力になりたいと穂高を紹介しようと思ったらしい。
「…柏木様。早速ご相談内容をお聞かせ願えますか?」
穂高は冷静になろうと努め、目の前の依頼人に集中する。
依頼人夫婦は、夫が豊、妻が奏絵。二人とも上品で、姿勢良くソファに座る姿が、言われて見れば奏多と同じだ。
豊は中年男性にしては身綺麗で、清潔感がある。奏絵はいわゆる美人で、年齢を重ねていても衰えていない美しさがある人だった。奏多の顔は母親に似ている。
「私たちの間には、一人息子がおります。」
豊が事情を話し出した。奏絵は、黙ってその隣に座っている。
「名前は奏多。優しい子で、ピアノが上手くて、小さい頃から病弱な子でした。…四谷さんと荒巻さんは、奏多と同じ高校なのですよね。先ほど覚えて下さっていると仰っていましたので端的に申しますと、奏多は高校三年生の夏、亡くなりました。」
豊は、膝の上に置いた拳をぎゅっと握った。奏絵も悲しそうに下を向く。
奏多は、二人の様子を穂高の隣に立ちすくんでじっと見ていた。同時に脳裏には、自分が死んだ時、病院のベッドの横で泣き崩れた母、奏絵の姿が浮かんだ。
「…奏多は亡くなって、およそ十年になります。」
正確には、奏多が亡くなって、今年は九年目だ。
「私たちは、一人息子の死を乗り越えようと懸命に生きてきました。」
奏多は亡くなってすぐ、両親の傍にいた。幽霊になって家に帰り、両親と共にいた。しかし、両親の悲しみ様は凄まじく、特に奏絵が毎日奏多の写真を見て涙するのを、傍らで見ているのが奏多には耐えられなかった。それでも、幽霊として奏多がこの世に存在しているこの約十年のうち、三年あまりを両親の傍で過ごした。三年経っても二人が奏多を失った傷は消えず、奏絵は毎日泣くことはなくなっても以前のような明るさを取り戻すことはなかった。そのうち奏多は両親の元と学校を行き来するようになり、家を覆う哀しみの大きさに耐えきれずに学校に入り浸るようになった。手持ち無沙汰になり音楽室の幽霊となってしばらく経ったとき、穂高と出会ったのだ。
「しかし十年経とうとしていてもなお、私たちは、まだ…」
豊も奏絵と同じ様に俯いた。小さく肩を震わせる。泣くのを堪えているのだ。奏多はそれを知っていた。奏多が亡くなってから毎日悲嘆の涙に暮れる奏絵の隣で、この人は会社のために働きに行き、家では妻を慰め懸命に支えていた。自分が泣く時には、奏多が自宅でピアノを引くためにあつらえられた防音室の中で、一人で泣いていた。奏多はそれらの姿を、全て見ていた。
「…もう耐えられないんです。それで、荒巻さん」
「はい。」
この時この夫婦が穂高に言ったことは、依頼を斡旋した四谷にも聞かされていないことだった。
「私たちはもう奏多のところへ逝こうと思っています。」
「…え?」
穂高も、奏多も、四谷も絶句した。
「もう、この悲しみと向き合う術がわからないのです。だからあなたに教えていただきたい。どうしたら、死後、奏多に会えるのでしょうか。ばかばかしいと思われるかもしれないが、幽霊についてよくご存知の荒巻さんに、教えていただきたくて、今日は参ったのです。」
豊の目は据わっていた。奏絵は暗い目でじっと下を見ていた。二人とも、奏多の死に向き合うことに疲れ果ててしまった顔をしていた。
「穂高、お願い、お父さんとお母さんを止めてほしい!」
四谷と柏木夫妻が事務所を去った後、奏多は穂高に頼み込んだ。
柏木夫妻からの依頼内容については、追って連絡をするという曖昧な返事をして帰した。
「もちろん止める。今、何か策がないか考えている。」
穂高は来客用のソファに足を組んで座り、眉間に皺を寄せて考えを巡らせていた。
突然自殺したいなんて、相手が奏多の両親じゃなかったとしても、止めなければならない。だが初めてのケースすぎて、解決策が思い浮かばない。あの二人に霊感はないし、奏多がこうして幽霊になって、さっきも二人のすぐ傍にいたことなど、気付いていない。奏多が亡くなってから、悲嘆に暮れる二人をずっと見守っていたことだって、知る由もないのだ。
降霊術の類でも使えれば、霊感のない人に死者の姿を見せることもできるのだろうか。死へ向かおうとする二人を説得できるのは、奏多しかいないのは明らかだ。でも奏多が二人と話すことができない今、なす術がない。穂高が代理で話したって、信憑性は低く、ただ二人を慰めているだけにしか聞こえないだろう。
「そうだ、何か、僕と両親しか知らない情報を言うとか?そうしたら、僕がここにいるってわかるかも。」
「例えば?」
「えーとえーと…昔飼っていたインコの名前とか…」
「弱いだろ。少し調べれば分かるようなこと、言ったってダメだ。お前の親父さん、賢い人なんだろう。ああいう人は手放しでその手の話を信じたりしない。」
「そっか…そだよね…」
奏多は、しょんぼりと下を向いた。下を向いた時の角度で見える顔が、本当に母親似だった。
穂高は焦っていた。
うすうす、奏多がこの世に留まっている理由は両親なのではないかと思っていたからだ。両親を救うことができたら、それを見届けたら、奏多はいなくなってしまうかもしれない。
穂高はそんな考えを打ち切るために頭を振った。今はそんなことを考えている時ではない。人の命がかかっているのだ。真剣に、何か打開策がないか考えなくてはならない。夫妻はいつ死ぬのか言わなかったが、奏多の命日が差し迫ってきていることを考えると、もうあまり日がなかった。
「…そうだ。」
下を向いて頭を巡らせていた奏多が、何か思いついた様子で顔を上げた。
「穂高、これなら行けるよ。」
その日は朝から気持ちよく晴れた日だった。
穂高は、柏木夫妻に連絡を取り、奏多を伴って柏木家に来ていた。
奏多が使っていたピアノはまだ防音室にあり、調律も手入れもされていた。奏絵が、この約十年の間、それだけは欠かさずに行ってきたのだという。
「あの、荒巻さん、ピアノを見せてほしいとは、一体どういうことなのでしょか」
詳しく事情を言わずにやって来たため、夫妻は怪訝な顔をしていた。
「本日は、お二人が死ぬ前に、奏多さんに会っていただきたく参りました。」
「あの、奏多に会うとはどういう…」
もちろん、二人は奏多の姿を見ることは出来ない。
穂高は落ち着き払った顔をして、防音室の入口でじっと立っていた。
その時、ぽろん…とピアノの音がした。
夫妻は驚いてピアノを振り返る。
ピアノに触れている者は誰もいないはずなのに、ひとりでに音楽を奏でていた。優しくも軽快な調べが部屋に鳴り響く。
ピアノの音は、しっかり3分間、一曲分の音色を奏でた。その間、奏絵は泣き崩れ、豊はその肩を抱いて支えた。
音が鳴り止む。奏多が、ピアノの演奏を終えたのだ。
「お父さん、お母さん、これは僕が作曲していた曲で、譜面も無いし、他の誰も弾けない曲だよ。わかるよね?」
奏多の言葉を、穂高が代理で伝える。奏絵はうんうんと頷き、豊も耐えきれずに涙を零していた。
「僕、ほんとは死んですぐ、ずっと二人の傍にいたよ。お母さんが泣くのも、お父さんが耐えているのも、全部見ていた。もう死ぬんだってね。死にたいんだってね。」
奏多は二人の前まで歩み出て、向き合った。
「こんなにも生き続けたかった僕の前で、死にたいなんて、僕はがっかりしました。」
二人は目を見開く。奏多の姿を見ることはできないが、まるで見えるかのように、虚空を見上げる。
「僕はお父さんとお母さんの近くにいるよ。だから、死なないで。」
そこまで代弁すると、穂高は両親と見つめ合う奏多の姿をじっと見つめた。
両親の近くに留まることが奏多の望みなら、自分にできることは何もないのだ。
穂高は何も言わずに、柏木家を後にした。
*
柏木家での一件以来数日、穂高は荒巻霊媒事務所でひとり過ごした。夫妻からは、自殺はやめたと、連絡が来た。二人とも、奏多の激が効いたのか、思いのほかさっぱりした声をしていた。自死の相談をしたことを悔いていて、穂高に何度も謝っていた。
「何よあんた、灯りもつけないで」
ドアベルを鳴らしながら、スミレが向日葵を片手に入ってきた。もう夜になっていたのか。明るいうちに仕事をこなし、あとはひとりで事務所で過ごす。毎日ぼーっと奏多のことを考えていると、いつの間にか日が落ちている。
「奏多くんがいないと、ダメダメね。まったく。」
スミレは文句を言いながら灯りをつけた。眩しくて目を閉じる。
奏多はあの一件以来、柏木家にいるのか、まさか消えてしまったのか、穂高のところには戻ってきていない。
奏多がいないと妙に事務所が広い気がする。明るくても暗くても、どうでも良い。
「俺、明日は休業するよ。」
スミレに言うと、穂高は立ち上がった。
事務所にひとりで過ごしていたって何も解決しない。ただ虚しさが大きくなるだけだ。今は気分転換が必要だと思った。
次の日穂高は、海を見に出かけた。黎弦の仕事で地方にやってきた時に見つけた、綺麗な海岸たった。東京からは二時間ほどかかる。
凪いだ海を見ていると、心が落ち着いた。小さな海岸で、昼間地元民が散歩していた以外は、海水浴客もおらず、閑散としている。穂高は防波堤の上に腰掛け、夕方になっても日が落ちても、ずっとただ海を見ていた。
奏多は今どこにいるのだろう。自分は、奏多が視界からいなくなってしまえば、もう探す術も無いのだ。せっかく霊感があったって意味が無い。またそう思った。目を閉じて探せば、奏多がどこにいるのか分かればいいのに。少なくとも、まだこの世にいるのか、また会える可能性があるのか、それだけでも分かればいいのに。もう一生、会えないのだろうか。世の中の大切な人を失った人たちは、ほとんどがこうした感情と向き合っているのだ。
目を閉じて、波の音を聞く。
心がすっと凪いでいく。
「奏多…」
小さく名前を呼んだ。ずっと恋い焦がれてきた、今も好きで仕方ないその人の名前を。
「何?」
目を開けた。
隣を見ると、奏多が自分と同じ様に、防波堤の上に座っていた。
「…なんで」
「なんでって、事務所に帰ったらお前、いないんだもん。」
「お前、ここに来たことあんの?」
「え?無いよ?海なんて初めて!」
穂高は、心底楽しそうに笑う奏多の横顔を、じっと見つめた。
完
0
東京、A町。小さな路地を曲がり、雑居ビルの並ぶ薄暗い下町に、荒巻ビルはあった。海運業で大成した荒巻平蔵氏の建てた三階建ての小さなビルで、かつては荒巻海運の本社事務所が営まれ、事務所が都会の高層ビルに移転してからは、平蔵氏の息子に引き継がれた。ビルの各フロアはテナントが入居しており、ビルの一階には平蔵氏の孫娘、スミレが営む小さな花屋「シエル」が入っている。
狭い店内に所狭しと並ぶ花々。店主のスミレが持ち前のセンスで厳選した季節の花のラインアップ。「シエル」は小さいながらも、客のSNSへの投稿が火付け役となり、見た目に反して繁盛している。さびれた雑居ビルの一角を、文字通り華やかに彩っている。
季節は初夏。「シエル」の店内には大きく花開いた百合が並び、オリエンタルな芳香を放っていた。相並ぶ花の間を縫うように進むと、店の奥に、まるで花に埋もれるように、「荒巻霊媒事務所」と書かれた金属製のプレートがかかったドアが現れる。
「こんにちは、何かご用ですか?」
この事務所を訪ねた客は、まず花屋の前で躊躇し、そしてこのドアの前で躊躇する。躊躇していると、大体花屋の店主に声をかけられる。
「…荒巻穂高さんの事務所は、こちらでしょうか」
皆が何かに疲れたような、はたまた憑かれたような顔で、すがるような表情で、荒巻穂高の名前を口にする。
弟の名前を聞くと、スミレはにこりと微笑み、ドアを開ける。荒巻霊媒事務所のドアにはベルが吊り下げられており、ベルの音に、部屋の奥の安楽椅子に腰かけていた事務所の主、荒巻穂高が顔を上げた。
「――――それで、なんというか、その…」
この日荒巻霊媒事務所を訪れた客、高橋一郎は、極めて居心地が悪そうに事の経緯を話し、最後は歯切れ悪く言葉を濁した。
「結構ですよ、はっきりおっしゃってください。」
高橋の向かい側のソファに腰かけた穂高はにこりと愛想の良い笑顔を浮かべ、すらりとした長い足を組み替えた。
仕立ての良いスーツに高級時計、挨拶時に寄越した名刺の肩書からも、一般的にエリートと呼ばれるであろう高橋は、利発そうな顔を屈辱的に歪めて言葉を続けた。
「他に思い当たることが無いのです…。毎日女の声が聞こえて…」
「確か、最近ご結婚されたとおっしゃっていましたね。家で聞こえるなら、奥様のお声では?」
「いや、違う。妻の声ではありません。あれは…あの声は…」
高橋は、思いつめたように膝の上で組んだ手を見つめる。穂高は言葉の続きを待っていたが、話し出さない高橋の様子にしびれを切らし、口を開いた。
「あなたがご結婚前にお付き合いされていた女性ですね。名前は、山木志保さん?」
「な、なぜそれを…」
高橋は目を見開いて顔を上げた。穂高は先ほどまでの笑顔をなくし、無表情で高橋の肩のあたりを見ていた。その表情に、高橋はぞっとした顔で身をこわばらせる。穂高はじっと虚空を見つめたまましばらく黙り込んだ後、ふんと鼻を鳴らした。
「なるほど、奥様とご結婚される直前、彼女に別れを切り出したのですね。別れ話をした後すぐ、この方は事故でお亡くなりになってしまった。」
「い、いるのですか、志保がここに…」
恐怖に竦む高橋に視線を戻した穂高の顔には、再び人当たりの良い笑みが浮かべられていた。
「御心配には及びませんよ。正式にご依頼を頂ければ、きっちり祓わせていただきます。」
「す、すぐに、すぐにお願いします。もうたくさんだ。いくらでも払いますから…!」
高橋は祈るような姿勢で穂高に頭を下げた。その姿に呆れた顔をした後、穂高はまた虚空に目を向けた。
虚空に立つ女性は、じっと高橋を見つめていた。
―――事故とはいえ、これ幸いとろくに供養もせず結婚されたんじゃ、浮かばれないよなあ…。
彼女はうつろな目で高橋を見ている。交通事故で亡くなったらしい彼女の首は、あらぬ方向に折れ曲がっていた。その口が小さく開き、高橋を呼んだ。
「イ・・・チ、ロウサン…」
その声こそが、彼女の死後高橋を悩ませてきた女の声だろう。その声が耳に届き、高橋はがたがたと体を震わせ始めた。
「い、今、今、こ、声が…あの声が…俺を呼んでる…っ」
「結婚のタイミングからして二股か。恨まれるのも頷ける。」
「え?」
独り言ちた穂高の声は、恐怖で半泣きになって震えあがっている高橋の耳には完全には届かなったらしい。顔を上げた高橋と目が合うと、穂高はにこりと微笑んだ。
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柏木奏多は、高校生だった。幼少期からピアノを習っていて、家には防音付きの練習室がこしらえられていた。父親は大手商社で重要なポストを担い、母親は専業主婦で、二人ともいつも優しく、奏多のピアノ教室や発表会には揃って出席した。家庭環境はすこぶる良好で、絵にかいたような豊かな家族。息子である奏多も、ピアノで何度も賞を取り、母親の美しい容姿を引き継いでいる。
誰が見ても恵まれた環境で育った奏多だったが、彼には友達がいない。幼いころから病気がちで、中学校の時には大病を患って長い間病院で過ごした。塾や学校に行かなくても勉強ができたため高校には進学できたが、16歳になっても、友達の作り方がわからなかったのだ。性格が引っ込み思案だったのではない。友達を作る経験がなかったのだ。
高校進学後もたまに体調を崩して学校に来ない日があるうえ、その容姿はすっかり同級生たちを敬遠させてしまった。たまに学校に来ると、放課後の音楽室を借りて高校生とは思えない腕前でピアノを弾く姿に、彼らはますます遠巻きに奏多を見たのだった。
当の奏多にしてみれば、ピアノは呼吸みたいなもの。自分が孤高の存在になっていることにはまったく気が付いていなかったのだ。
ある春の日、窓から入って来た桜の花びらが舞う放課後の音楽室。日が落ちて暗くなった教室で一心不乱にピアノを弾いていると、突然教室のドアが開いた。そこに立っていたのが、荒巻穂高だった。
「では、明日、お宅へ伺わせていただきます。」
「はい…、どうかよろしくお願いいたします。」
東京、A町の下町の雑居ビルにある事務所で、穂高は依頼を済ませた客を見送った。ドアに吊り下げたベルがカランコロンと乾いた音を鳴らす。
「ふう…」
客がいなくなると、穂高はネクタイを緩め、来客用のソファにどっかりと腰を下ろした。長くてすらりとした足を投げ出して、ソファに沈み込む。ジャケットに合うように整えられている少し長めの前髪の下から、向かいのソファに腰かける男子高校生にちらと目を向ける。
「奏多、お前いつ来たんだ。」
「今のお客さんが帰る少し前からかな」
奏多は穂高とは違って姿勢よくソファに腰かけながら、「疲れてるね」と笑った。
「疲れた…客商売向いてない」
「嘘つけ。営業スマイルは得意でしょ。」
そう言って、奏多はじとっと穂高を見た。
荒巻穂高は霊媒師をしている。年齢は25。若い穂高が個人事務所を構えているのは、事務所の入っているビルが父親の持ちビルであることもそうだが、穂高の霊媒の仕事が業界内でしっかりその存在を確立している証拠でもある。一般的に訝しがられることの多い職業だが、穂高個人はモデルのようなルックスで、誰の目にも好意的に映る営業スマイルを武器に、本物の霊感でしっかり依頼をこなす。人が人を呼び、仕事は順調なのだった。
「いいよなあ、お客さんになればあんなイケメンスマイルで接客してもらえるのになあ」
奏多は、ソファに溶けるように沈む穂高を見ながら呆れたように言った。
「僕はこのぐだぐだのお前ばっかり見てるよ」
「いいんじゃない、身内って感じで。」
「適当な奴め」
穂高はふんと鼻を鳴らし、ジャケットのままソファに横になって机の上に広げていた先ほどの客の資料に手を伸ばした。奏多は窓際の安楽椅子に移動して、外を眺めた。
あの春の音楽室で出会ってから、奏多はここに通うようになった。通うというより、すっかり入り浸っている。来客時はちっとも構ってもらえないが、もの珍しい依頼ばかり扱っている霊媒事務所の仕事は、一人ぼっちでピアノを弾くしかない学校生活に比べるとうんと良いものだ。あの日穂高に出会ってから、奏多は穂高と穂高の仕事にすっかり興味津々になってしまった。
カランコロンと音がしてドアの方を振り向くと、穂高の姉であるスミレが立っていた。肩まで伸ばしたまっすぐな黒髪と、すこし吊り上がった大きな目が穂高に似ている。
「あら、奏多君。今日も来てたんだ。」
「スミレさん、こんにちは」
にこっとほほ笑むと、スミレもにっこりと笑顔を浮かべた。
「ほんとに奏多君てば、今日もかわいい!ここも奏多君が来てくれるようになって、すっかり雰囲気が明るくなったわよね~」
「…どこが。てか、それ何回言うんだよ」
さも気怠そうに穂高が言う。
「あのねえ、薄気味悪い霊媒事務所に、不愛想な弟を心配して、こうして少しでも明るい雰囲気になるよう毎日お花を届ける姉の身にもなりなさいよ」
そう言うスミレは、穂高のデスクの一輪挿しを手に取って、昨日飾ったスズランの花を今日持ってきた百合と交換した。
「それ、嫌なんだよ、匂いきついし」
「え~?いい香りじゃない。ね、奏多君」
「え、うーん…僕はそういうのわかんない」
「そ?いい香りなんだけど」
スミレは肩をすくめて、スズランを片手に出ていった。穂高はソファで資料を読んだまま、微動だにしない。
奏多は安楽椅子をデスクに寄せて、百合の花に近づいた。間近でじっと花を観察する。
この事務所は奏多の興味を掻き立てる依頼がたくさん集まるものの、来客もなく客のところへ出向くこともない今のような時間はさすがに退屈する。
「ねえ、今日はもうお客さん来ないの?」
「ああ、来ないよ」
「そっか」
時刻はまだ16時過ぎだ。手持ち無沙汰になった奏多は、事務所を出て街をぶらつくことにした。
事務所のあるビルは、他のビルと一緒に雑居ビルの林のような場所に建っている。少し離れたところに小さなアーケード商店街があり、商店街を横切っていくと路地が入り組み、そこを抜けると住宅街。さらにその向こうに高校がある。
住宅街の手前、入り組んだ裏路地を散歩していると、Y字路に顔見知りの女性が立っていた。奏多はその女性に近づき、隣に並んで立つ。
「早苗さん、こんにちは」
「あ、奏多君。こんにちは」
早苗は、見た目から推測するに年齢は大体30。温和だが不思議な空気を纏った女性で、いつも夕方になるとこのY字路に立っている。誰かを待つわけでもなく、ただ立っている。このY字路は奏多の高校と穂高の事務所の中間付近にあるので、いつの間にか顔見知りになったのだ。最初は奏多の方からおずおずとあいさつするだけの関係だったが、少しずつ世間話が増えていき、今となってはこうして隣に並んで少しの間雑談するようになっていた。
「今日も穂高君のところに行っていたの?」
「うん。でも今日はほとんど依頼の話は聞けなった。行ったらほぼ話が終わってたんだよね」
「そう。残念だったね。」
「うん」
事務所からさほど遠くないので、奏多を通して、早苗は穂高のことも見知っている。
早苗はほとんど目の前の道から目を離さずしゃべるので、こちらを向くこともほぼ無い。人通りもそんなに多くないY字路で、たまに車が通っていく。以前は国道への抜け道にする地元民の車が多かったが、1~2年前に前方不注意の車が歩行者と接触事故を起こし、それからは通行する車の数自体がかなり減った。こんな人気のないY字路で女性がただ立っているのは不思議な光景だが、その隣に制服姿の高校生が並んで立ち話している姿は、不思議さを増大させているに違いなかった。
「穂高君のお仕事は順調そうだね」
「うん、そうだね。割と間を開けずにどんどん依頼が来ているみたい。当の本人は、接客が嫌で辟易してるけど」
「ふふ。穂高君らしい。」
「でも、仕事モードの時は、全然そんなこと感じさせないくらい愛想がいいんだよ。女性のお客さんも多いけど、あいつの笑ってる顔見たら、結構みんな嬉しそう」
「そうなの、まあ穂高君、かっこいいもんね」
早苗と一緒に道路の方を眺めていた奏多だったが、思わず早苗の方を振り返った。
「早苗さんも、あいつがかっこいいとか思うの?」
「え?私にだって、きれいな顔と普通の顔の区別くらいつくよ」
「ああ、そういう意味」
きれいな顔とそうでない顔、とは言わないのが早苗らしいと奏多は思った。
「奏多君もとってもきれいな顔してるし、二人はお似合いだね」
「えっ」
早苗は相変わらずこちらを見ないが、少しいたずらそうに笑っている。
「からかわないでよ…。」
「本当なのに。奏多君と穂高君はとっても絵になるよ」
早苗には何も言っていないのに、穂高への気持ちを見透かされているようで気恥ずかしい。でも、「そんなんじゃない」などと否定する気も起きないのは、早苗が纏う温和な空気感がそうさせるのだ。
「早苗さんもきれいだよ」
「ふふ、どうもありがとう」
「ほんとなのに」
表情一つ変えない早苗には少し悔しい気がする。奏多の方は、あっさり片思いを見破られていて、動揺したというのに。
「お前はいつもこんなとこで女性を口説いてんのか」
「わ!」
振り返ると、いつの間にか穂高が立っていた。奏多を追いかけてきたのかと思ったが、手にはシエルで買ったらしい小さな花束を持っている。ジャケット姿で花束を持つ姿はさながらどこぞの王子様の様だが、すこぶる機嫌の悪そうな顔が雰囲気を台無しにしている。
「なんだよ、いつの間に来たんだよ」
「お前こそ、いつの間にか来たと思ったら知らない間に出ていくのやめろ。ま、どうせここだと思ったけど…」
「なんだそれ」
確かに行くところもないけど、と不満げに口をとがらせる奏多を一瞥して、穂高は早苗に会釈した。
「お久しぶり、穂高君」
「お久しぶりです。早苗さん」
穂高はY字路の角に、持ってきた花束をそっと置いた。早苗は黙ってその動きを見ている。
「奏多、暗くなるから帰るぞ」
「あ、うん」
穂高は、また早苗に小さく会釈をして、すたすたと事務所の方に歩き出した。奏多も慌てて後を追う。穂高は足が長いので歩くのも速い。気を抜くと置いて行かれるのだ。
「あ、早苗さん、じゃあまた…」
少し進んだところで手を振ろうと振り返ると、すでに早苗の姿はなかった。夕日が沈んで暗くなり始めたY字路には、小さな花束が一つ取り残されていた。
「なんでお前、何も言わずに出ていくんだ?」
隣を歩く不機嫌な様子の穂高に、奏多は思わずうろたえた。
「え、別に意味はないけど」
「いきなり来るのは別にいいから、出ていくときは声くらいかけろ」
「何、それ。高校生だと思って子供扱いしないでよね。僕はもう大人なんだから。」
「別に子供扱いじゃねえけど。いきなりいなくなったら心配になるから声かけろって言ってんだ。」
「心配になる」などと、この仏頂面に素直に言われると言い返す気が無くなる。
「…わかった」
奏多が穂高を好きなのは、早苗の予想が的中していた。春の日に放課後の音楽室で出会った穂高は、すでに今の仕事を始めていて、あの日も学校の関係者の依頼を受け、調査のために校内を見て回っていたと聞いた。その話がすっかり奏多の関心を引き、穂高の事務所に通うようになったのだ。最初は穂高の不愛想な態度に困惑していたが、慣れてくると、たまに見せる素の笑顔や、子供扱いとも思える過保護な優しさに惹かれていた。
自分のことを心配していると、どんな顔で言っているのだろうと、奏多は穂高の顔を覗き込んだ。
「…っなんだよ」
いきなり近づいた距離に、穂高が顔を背ける。
「あ、ごめん」
反応が面白くてにやりとすると、思い切り睨まれた。
「大人をからかうなよ」
「僕だって大人だし」
にやにや言い返すと、穂高はわざとらしい大きなため息をついて、さっきまでより早足で歩き始めた。
「あ、待ってよー」
顔を背けたときの穂高の顔を思い出してにやついていた奏多は、慌てて穂高の後を追った。
翌日。穂高は前日に事務所を訪れた依頼人の自宅に出向いた。学校が無い日で、奏多も興味津々でくっついて行った。
今回の依頼人である千田虎彦は、荒巻霊媒事務所があるA町から車で20分ほど離れた高級住宅街に居を構えていた。居を構える、と言っても千田は俗に言う成金というやつで、数年空き家となっていた邸宅を数か月前に買い取り、リノベーションして住み始める計画だったのだという。だった、というのは、とある理由でその計画が打ち止めになっているからである。
その理由こそが、幽霊である。
「せっかくこんな良い家土地ごと買ったのに、かわいそうだね」
助手席の窓から邸宅を見上げ、奏多は眉根を寄せた。
「まあ、空き家になってからしばらく放置されている間に、近所では幽霊屋敷だのなんだの噂はあったらしいし、単なるリサーチ不足だろ」
穂高は車を駐車するために、奏多が座る助手席のヘッドレストに手を置いて、後ろを見ながら車をバックさせる。
「実際、千田氏が言っている幽霊と噂の幽霊が同じかはわからないけどな。」
奏多は穂高の横顔をぼーっと見つめる。穂高は今日も接客のためのジャケット姿で、細身のシルエットがよく似合っている。
「ま、火のないところに煙は立たないというやつか。…何?」
至近距離でじっと見つめてくる奏多と目が合って、穂高は眉間に皺を寄せた。
「いや、運転姿かっこいいなって。」
「は?」
「さすが大人の男だね」
奏多がほほ笑むと同時に、コンコンと助手席の窓を叩く音がした。振り返ると、車のそばに千田が立っていた。
千田は、屋敷の門を開けて穂高たちを中に通した。門を入って玄関までの間には飛び石があり、日陰の苔や伸び放題の植物が目立つが、かつてはちゃんと手入れされていたと思われた。以前の持ち主がいなくなってから放置されたままで、千田もまだ手を付けていないのだろう。
奏多は、建物の物陰に誰かが立っているのに気が付いた。お手伝いさんだろうか。ぺこりと小さく頭を下げると、その人影も会釈を返した。
「いやあ、ご足労頂いてどうもどうも。道には迷いませんでしたかな?」
「ええ、大丈夫でした。道もさほど混みませんでしたし」
「そうですか、それは何よりですな」
千田はたっぷり肉のついた顔で笑った。
邸宅の中に入ると、カビっぽく古びた匂いがして、外は晴れているのに窓から指す光量が少ないのか、ずいぶんと暗い印象だった。
「いや、申し訳ない。これでも掃除は業者に頼む予定だったのが、今回の騒動で後回しになってしまって。」
「いえ、問題ありません。」
「まあ早速と行きたいところだがね、ここまでわざわざ出向いてもらったことだし、お茶のいっぱいくらいは出させてくれたまえよ。なかなか良い客間があるんだ。」
そう言って千田は、客間を案内した。部屋に入ってみると、誂えの良いソファに一枚板のテーブルが置いてあり、鬱蒼とした暗い雰囲気とは対照的に、全体的に上品でセンスの良い内装とインテリアが好意的だった。
「ここは気に入ったから、リノベーションも必要最低限にして、できるだけこのまま使うつもりなんですがね。悪くない部屋だと思いませんかな?」
「ええ、調度品もすべて品が良くて、素敵なお部屋ですね。」
穂高がそう言うのを聞いて、千田はさぞ満足そうにニタリと口角を上げた。
「やはりしっかりしたお家柄の方にお墨付きを頂くと気分が良いですな。何、せっかく良い物件をこのあたりの土地の相場からしても破格で買ったというのに、まだ誰一人招くことも出来ていませんので、歯痒い思いをしていたんですよ。いやいや自分で言うのもなんですが、自慢話が好きな性分でしてね」
千田は小さく肩をすくめた。穂高の家柄というのは、祖父が一代で築いて大成功をおさめ、今となっては数十の子会社を傘下に収める荒巻海運のことを言っているのだというのは、奏多にも分かった。穂高の顔をちらりと見たが、当の本人は、出自の話など出なかったかのように平然と千田の話を聞いている。事務所のビルが実家の所有物であることを除けば、穂高はほとんど家の恩恵を受けてはいないのだ。それは姉のスミレにしても同じことで、二人とも自営業で稼いで自活できているし、ビルへのテナント料も、他の店とほとんど同じ額を収めている。
「ああ、立ち話させてしまって申し訳ない。どうぞおかけになってください。すぐにお茶をお出ししますから。」
「では、お言葉に甘えて。」
穂高はにっこり微笑んで、お茶の準備をしに退出する千田を見送った。成金とはいえお金持ちだから、千田本人がお茶の準備をしに行くのには驚いたが、穂高いわく、幽霊騒動のせいで人を雇えないのだという。というのも、変な噂を立てられたくないので、解決するまでは家に入れる他人を最小限に抑えたいらしい。リノベーションの工事が保留になっているのも同じ理由だった。
「外から見るより感じの良い家だね。さっきのおじさんも、こういうセンスは理解できるんだ。」
奏多が言うと、ソファに腰を下ろした穂高がこらえきれずに噴出した。
「確かに。とんでもなく派手なおっさんだからな。」
先日事務所を訪ねてきた時と同じく、千田は和装だった。着付けはしっかり出来ているものの、色や柄が奇抜で、組み合わせが絶妙におかしい。おしゃれ上級者がコーディネートのアクセントに使うアイテムを、頭からつま先まで全身に纏っているような感じだ。
奏多は穂高を笑わせたことに気分を良くしながら、部屋の中をうろついて観察を始めた。家の作りも調度品も、派手だったり華美だったりするものはほとんどない。客間の隣は続きで違う部屋があるらしく、襖で仕切られている。奏多は、その襖の方に視線を移した。隙間の間からこちら側を覗いている誰かの目と、目があった。
「わ!」
瞬間、腰が抜けてしりもちをついた。穂高が奏多の声に驚いて立ち上がる。
「なんだよ」
「あ、あ、あの…そこに…」
「あ?」
奏多が震える指で襖の戸と戸の間に薄く空いた隙間を指す。穂高は、その方向に視線をやると、ため息をついてソファに座りなおした。
「お、おい、見えないわけじゃないよね…?」
「…見えるけど。ずっとそこにいただろ。」
「え」
「俺たちがこの部屋に来た時から、ずっとだ。」
「えええ」
恐る恐るまたその誰かの方を見ると、その目はまだ暗い瞳で奏多たちを見ていた。
「こっち来て座れ。怖いなら俺の近くにいろ。」
「う…わかった。」
うなだれて、穂高の隣に腰を下ろす。
「…近いんだよ!」
穂高が奏多を振り向いた。奏多は怖さのあまり、穂高の体にぴったりと寄り添うように座っていた。
「ひど!近くにいろっていったのに…だって怖いんだよ!」
「うるさいな。何もしてこねえよ、こっち見ているだけだ。怖くない。大体お前、霊の気配とかで気づかないわけ?」
「気配なんかわかんないよ。僕には見えるだけなんだから。何なら人間と幽霊の違いだって見ただけじゃわかんない!」
奏多はむっと頬を膨らませた。穂高が心底呆れたように、じとっとした視線を寄越す。
「なんだよ…もう」
その時、客間の戸が開いた。さっきから霊が覗いている襖の方ではなかったが、びくっと奏多が体を震わせる。穂高はすました顔になって、茶を持って入って来た千田に目線を向けた。
「すみません、頂きます。」
テーブルの上には洒落たティーカップが二つ並んだ。
「それで…何かお感じになりますかな?」
小指を立ててカップを持ち、ずずっと茶をすすった千田が、ちらと穂高を見た。
「はあ。千田様、ご依頼の件ですが、このお屋敷の幽霊退治、でしたね。」
「ええ、そうですよ。何、幽霊がいないというんじゃないでしょうな。」
「いえ。霊は確かにいますが、…千田様。霊というのはそこかしこにいるものです。こちらのお宅の中にも、いることにはいますが、それが千田様のおっしゃる件のものかはまだ判断出来かねます。」
「…ふうむ…」
千田は穂高の言葉に納得したのかしていないのかよくわからない表情をしたが、「よし!」と言ってティーカップをテーブルに戻した。
「では。私が以前その霊的な何それを目撃した場所をご案内しましょう」
千田は穂高たちを伴って、座敷の奥へ進んでいった。敷地の奥には蔵があり、母屋からはいったん庭へ出なければならないが、蔵と母屋をつなぐ最短距離はコンクリートで固められた小道になっているので、千田はスリッパのまま外に出た。穂高もそれに続いて外に出る。
「こちらですか、幽霊を目撃されたのは。」
「さようです。ま、私は幽霊だのいうものがはっきり見えるわけではないのだが…ここには私一人なのに、誰かがいる気配を感じたのですよ。気味が悪いの何のって…。」
奏多は、穂高の後ろに隠れるようにして立った。穂高は黙って千田の話を聞いていたが、にこりと笑って話し出した。
「なるほど。蔵を拝見しても?」
「ああ、もちろん。こちらへどうぞ。」
「蔵の中には何か入れてあるのですか?」
「ええ、ここへ引っ越してきた時、美術品をいくつか運び入れましてね。ああ、ぜひそれらも見て頂きたいですな。さ、どうぞどうぞ。」
千田が蔵の扉を開けた。日が陰って来た挙句、蔵がある位置はもともと日陰になっていて、小さい明り取りの窓があるものの、中はかなり暗かった。美術品を入れる前に清掃は済ませたらしいが、やはりここも母屋と同じで、少しカビっぽく古びた匂いがする。
「…」
蔵に入るなり、穂高は半眼で中を見渡し、仏頂面である方向を睨んだ。
「ほら、ここに置いてある掛け軸ですがね、数か月前にオークションで落札したんです。ぜひご覧に入れたいですな。」
穂高が睨みつけた方向に千田が歩み寄り、細長い桐の箱を手に取った。穂高は黙ってその姿を見ている。千田はどうしてもその掛け軸を穂高に見せたいらしく、箱を開けて掛け軸を広げた。
「千田さん」
「ひいっ!」
穂高が声をかけると同時に、千田が掛け軸を足元に落とした。落ちた掛け軸が広がり、その絵が露になる。
女の絵だった。髪を振り乱した女が、何かを叫ぶような表情でこちらを睨みつけている。
千田は数歩下がって、そのまま腰を抜かして地面にひっくり返った。代わりに穂高が歩み出て、掛け軸に近づく。
「千田さん、これはもともとこういった絵でしょうか?」
「ち、ちち違う…な、なんだこの絵は…こんなもの買ってない!女性の後ろ姿だったのに、なんでこっちを見ているんだ…っ」
千田が胸を押さえながら、息も絶え絶えに答える。奏多も千田の隣で足をすくませていたが、ふと気が付いて、掛け軸を拾い上げた穂高に向かって叫んだ。
「そこに立ってる!」
穂高が奏多の方をちらと見やる。と、同時に千田が叫び声をあげた。
掛け軸の女が、暗い蔵の隅に立っていた。
振り乱した髪の間から、落ちくぼんだ目で千田を睨んでいる。そのまま、千田に向かって襲い掛かった。
「ひいい来るなああああ!」
奏多は驚いて飛びのいたが、腰が抜けている千田は動けない。女は青白い手を伸ばし、千田の首に手をかけた。
確かに聞こえた。「殺す」という女の声が。千田は完全にパニックで、苦しそうにあえいでいる。怖くなって、奏多はその場でぎゅっと目を閉じた。
穂高が奏多を背中に隠すように立った。何かを払いのけるように手を動かす。あえいでいた千田が静かになった。
「…?」
恐る恐る片目を開けると、女はいなくなっていた。肩で息をする千田を、穂高が手を貸して立たせようとしている。
「な、な、な、なんだったんだ、今のは…」
千田の首は、女の手の形に紫に変色していた。
車のエンジンをかけると、穂高はすぐに車を発車させた。助手席には奏多、後部座席には千田が乗っている。掛け軸の入った桐の箱は、千田の隣に置かれている。千田は思い切り顔をしかめて箱を睨みつけながら、穂高に尋ねた。
「それでその、あの女は君が祓ってくれたのだね…?」
「ええ。ご覧になった通りです。千田さん、とんでもない品を掴まされましたね。」
穂高は、ミラー越しに千田に笑いかけた。
あの後、穂高が再び掛け軸を開くと、女の後ろ姿が描かれていた。髪は綺麗に結われ、美しい色の着物を着ている。蔵の中は暗くてわからなかったが、さっき現れた女の霊もこの着物を着ていたのだろうか。あの姿では、この絵の女と同一人物なのかは判断が付かなかった。
「それはもうただの絵ですから、ご安心を。ただし、先ほども申し上げましたが、しかるべきところでお焚き上げするのが良いでしょう。霊へのせめてもの供養です。」
「はあ…それは大事ですな…供養は…」
千田はどっと疲れた様子で、穂高の話に相槌を打った。ふくふくとした丸顔が、暗く沈んでいる。
「物には時として、それに執着していた人間の霊魂が憑いてしまうものです。珍しいことではないですが、殺意があるとなると、とんでもなく大きな執着ですね。おそらくは、元は正規の持ち主から合意なく奪われたものではないかと。平たく言えば盗品です。」
「え、と、盗品…?そんな怪しいところで買ったものでは…」
「ええ、わかっています。盗まれたとして、もう何十年と昔でしょう。私は絵の鑑定士ではないので詳しい年代はわかりかねますが。ま、絵に罪はないので、やはりお手元に残されたいとおっしゃるなら止めはしませんが。」
意地悪い顔で言う穂高の言葉に、千田は子供の様に首をブンブンと横に振った。
一行は車を走らせ、鵬印寺という寺に向かっていた。鵬印寺は、穂高の知り合いが住職をしている寺で、穂高の事務所のあるA町の隣のB町に位置している。蔵での騒動のあとすぐに穂高が電話をして、掛け軸の焚き上げを依頼しておいたのだ。
砂利の敷き詰められた駐車場に車を止め、寺の方に歩く。掛け軸は千田が嫌がるので穂高が持っていた。門前まで行くと、背が高く頬のこけた厳格そうな眼付きの住職が出迎えに出てきた。
「急なお願いですみません。」
「いや、君の頼みならね」
住職は穂高に微笑みかけたが、微笑んでもなお厳格な顔つきは変わらない。ちょっとだけ怖くて、奏多はまた穂高の背中に隠れた。
焚き上げはすぐに開始され、千田だけが本堂の中で待つことになり、穂高と奏多は外で待つことにした。
「いい加減離れろ。」
鬱陶しそうな顔をして、穂高が振り返った。今日、奏多は穂高にくっつきっぱなしだった。いくら穂高について仕事の内容を見て慣れているとはいえ、今日のは少し衝撃的だった。霊が殺意を持って襲い掛かってくるなんて…。あんな現場は初めてだ。
「何、震えてんの?」
あの落ちくぼんだ目を思い出して震えだした手を見て、一度距離を取った穂高が、寄り添うように奏多の隣に戻って来た。
やっぱり穂高は優しい。と、奏多は思う。さっきだって、守るべきは千田なのに、その背中は奏多を守っているようだった。
「そんなに怖かった?」
「…うん。怖かった。あの人は、あの掛け軸を盗られちゃって、それを恨んで霊になったのかな?」
「…うーん」
穂高は、一瞬逡巡するように目を宙に向けた。
「わからないけど…盗まれたときに殺されたのかもしれない。」
「え」
「じゃなきゃあそこまで殺意を持った霊になるか?いくら大事な掛け軸だったとして、物に執着してあそこまでになるか。」
「…大事だったのかもよ、それほどまでに。好きな人が描いてくれたとか。」
「じゃ、あの女が華原宗衛門のいつかの恋人だったってか?」
「かはら、何?」
聞きなれない名前がいきなり出てきて、奏多は思わず聞き返した。
「あの絵の画家だよ。もともと有名だったけど、最近亡くなって、更に作品の値が上がった。千田もそのことで自慢したかったんじゃねえかな。そんなん見せられたって反応に困るけど。」
「なんでそんなん知ってんの?」
「うちの親父も骨董に凝ってるから。つまんない趣味だよな。」
「へ、へえー」
ふつうは知らないでしょ…さすが荒巻海運の御曹司。とは口が裂けても言わない。
煮え切らない反応をしていると、怪訝そうに穂高が顔を覗き込んできた。
「何を暗い顔してんだよ、…そんなに怖かったならいつまでも考えてないで、さっさと忘れろ。」
「いや、その…いつか僕もあんな風になちゃったらどうしようって、考えてて」
「はあ?お前が?なんで。」
奏多の言葉の意味が理解できない、という表情で、穂高が首をかしげる。
「…だって僕、執着してるから。」
「何に?」
その時、「穂高!」と誰かが穂高を呼んだ。二人して振り返ると、背の高い若い男が、片手を上げて近づいて来た。小さくて丸いレンズのサングラス、ド派手な柄シャツ。少しだけ頬がこけている。
「四谷…」
「何してんの、こんなところで!もしかして俺に会いに来たの~?穂高ちゃん」
四谷と呼ばれた男が穂高の肩に手を回した。穂高は決して華奢なわけではないが、男の長い腕は、穂高の肩をすっぽりと抱いた。
「やめろ。近い。」
ぐいぐいと穂高が男の胸を押すが、びくともしない。
「まあまあつれないこと言わずに。お兄ちゃんがお茶入れてあげましゅから、こっちおいで~」
「きも。俺はいま仕事中なんだよ!」
やいやい言いながら、穂高はあっという間に男に連れていかれてしまい、奏多は本堂の前に一人で取り残された。
「…」
穂高を連れ去った男の背中を睨む。
―――「だって僕、執着してるから。」
―――「何に?」
穂高、わからない?
僕が執着しているのは、穂高だよ。
置いて行かれた奏多は、駆け足で二人の後を追った。
*
穂高は四谷の部屋に連れていかれてしばらく話し込んでいたが、掛け軸の焚き上げが終了する頃には解放された。
鵬印寺から千田を屋敷まで送り、事務所に戻る道中、車の中で奏多は、ずっと気になっていたことを聞いた。
「そういえば、あの目の人は関係ないの?あの人のことは、祓ってないよね?」
「…あー」
客間で、襖の隙間から穂高たちを見ていた目のことだった。
「あれは別に害ないし。そんなこと言ったら、玄関の前でお前が挨拶してた霊も、庭にいた霊も、みんな祓わなきゃいけないじゃん。」
「…え?」
奏多は目を丸くして穂高を見たが、穂高はその視線に小さく首を傾げ、平然と車を走らせた。
2
柏木奏多は高校生だ。だから今日も学校へ行く。
学校へ行っても、相変わらず誰とも話すことはない。ぼーっと授業を聞いて、気が向かない時は抜け出して校内を散策する。病弱だったころに比べれば、今は体が軽くて、楽だ。だからこうしてただ歩き回るのが好きだ。
でも、やっぱり誰とも話せないのはつまらなかった。だから今日も、放課後は荒巻霊媒事務所に入り浸る。
事務所に入ると、穂高は一人だった。今日の来客は午前中で終わったようだ。
つまらないが、穂高と話せるならそれでいい。学校に居場所のない奏多にとって、ここは一番気持ちが安らぐ場所だ。
「おーい、来たよ~」
部屋に入った奏多に気が付かないのか、反応しない穂高に声をかけてやる。しかし返答がない。
「おいってば」
近づいてみると、どうやら穂高はいつもの安楽椅子に座ったままうたた寝しているようだった。後ろの窓が開いていて、そよ風がその黒い髪を撫でている。
「珍しい…」
腕組して、すらりとした長い足を組んで座っている穂高は、いつもなら不機嫌そうに歪めている顔から力を抜いて、小さく寝息を立てている。奏多は穂高の寝顔を覗き込んだ。比較的色素が薄い奏多に対して、黒々としたまつ毛が枝垂れかかっている。
「なんか、可愛い」
奏多は、ふふ、と小さく声を出して笑った。奏多は高校生、穂高は大人だ。だから穂高を可愛いと感じるなんて、なんだかおかしかった。何をするわけでもないのに、穂高の寝顔を見ているのは楽しいし、いつまでも見ていられそうだ。
「好きだからかな…」
わざと独り言ちてみる。奏多は、そよ風にかすかに揺れる穂高の前髪に手を伸ばした。
カランコロン…
穂高の髪に触れるか触れないかの瞬間に、事務所のドアが開いてベルが鳴った。その音に穂高がゆっくりと目を開ける。目を開けて最初に、穂高が奏多を見る。
「…かなた?」
奏多にしか聞こえないくらいの少しかすれた声だった。
じっと見つめ合っていると、ドアの方から男の声がした。
「おーい穂高、ご依頼人を連れてきてやったぜ~。」
その声に穂高と一緒に振り返ると、先日の依頼で掛け軸の焚き上げをした寺、鵬印寺で穂高に声をかけてきた男、四谷博隆が立っていた。
「…何だよ。」
「何だとは何だ。さっきお姉さまに聞いたぞ、今日はもう仕事ないんだろ。この優しいお兄さんが、いつものように仕事を持ってきてやったんじゃないか。」
四谷は、ふんぞり返ったポーズで、フンと鼻を鳴らした。先日寺で会った時と同じような格好で、丸くて小さいレンズのサングラスをかけ、派手な柄のシャツを着ている。穂高とは学生時代からの付き合いらしく、妙に距離が近い。鵬印寺の住職の息子なのだが、寺の跡継ぎは弟に任せ、この近所でバーを経営している。奏多は、この男が何度かこの事務所に出入りしているのを見ていた。
「…お前が持ってくる仕事は…」
「大抵あたり、だろ?」
四谷がサングラスからはみ出した目の片方を不格好につぶった。どうやらウインクだ。
「…依頼人は?」
「もうすぐ来るよ。待ってな。」
四谷の経営するバーには、様々な客が来る。四谷はたまに、霊障に悩まされている客を依頼人として荒巻霊媒事務所に斡旋しているのだ。しばらく待っていると、四谷の後ろに今回の依頼人だという人物がやって来た。
その日四谷が連れて来た依頼人―――田貫峰子は初老の女性で、パツパツに張ったツイードのツーピース姿で、来客用のソファにどっしりと腰を下ろした。
「田貫様、本日はどのようなご相談でしょうか。」
いつもの営業スマイルで応対する穂高を、田貫夫人はお気に召したようだった。
「まずは突然押しかけてしまったご無礼を謝らないといけませんわね。あたくしの友人の友人が以前、四谷さんを通してこちらでお世話になった話を突然思い出しましたの。最近もうお話するのも嫌になるくらい気味の悪いことがありましてね、いてもたってもいられず、ますは四谷さんのお店にお伺いしましたの。そうしたら、今日ご紹介くださるということだったから、お言葉に甘えた次第ですのよ。」
夫人は矢継ぎ早に話すと、さっきスミレが出したお茶をすすって一息ついた。
「あら、美味しいお紅茶ですこと。」
穂高はにこりとして、無言で話の続きを促した。
「手っ取り早く本題に入ってしまってよろしいかしら。…この写真を見て頂きたいの。」
夫人は暗い顔になり、手元の小さくて派手な色のバッグから、L版の写真を取り出し、忌々しそうに、半ば放るような形で裏向きでテーブルに置いた。
「ご覧になればわかるはずですわ…」
「拝見します。」
穂高は、躊躇なくその写真を手に取って表に返す。
「なるほど…」
穂高のソファの後ろに立っていた奏多と四谷も穂高の背後から腰を曲げて、写真を覗き込んだ。
「わっ」
「何これ」
二人とも思わず声が出た。その写真は、どこからどう見ても心霊写真だった。
「なんか気持ち悪い…」
「初めて見た」
「こんなの、本当にあるんだ。」
「これは面白い話になりそうだな」
「全然面白くないよ、何言っているのこの人…」
「いやあ人生で本物の心霊写真にお目にかかれる日が来るとは。」
奏多と四谷が口々に話すのに我慢ならなくなった穂高が、二人の方を振り向いた。
「うるさいぞお前ら。少し静かにしろ。」
「え?」
夫人と四谷が首を傾げた。穂高が二人を睨みつけた顔は夫人には見えなかったはずだが、急に言葉を崩した穂高に夫人は一瞬戸惑ったようだった。しかし、振り返った穂高が「失礼しました」と言ってにこりと微笑むと、気を取り直して、話の続きを始めた。
「その写真、四谷さんがおっしゃいますように、いわゆる心霊写真というものでしょう?」
「確かに、そのようにお見受けします。」
写真には、夫人と、この世の者ならぬ男の影が写っていた。
暗い顔で、ただ写真に写っている。
「…今すぐここで祓います。」
穂高は立ち上がった。「え?」と全員が穂高を見上げる。奏多は、まさかと思って夫人の背後を見た。
…いる。
奏多は硬直した。気が付かなかったが、暗く落ち窪んだ目をした男が、夫人の真後ろに佇んでいた。
でも、この人は…
「この人は、ただ立っているだけだ。」
穂高が言った。奏多に言っているのだ。
男の姿が見えない四谷と夫人は、ただ困惑している。
「でも、仕方がないよな。」
穂高は冷淡に言い、男の霊を祓った。
3
季節は本格的な夏になろうとしていた。梅雨が明けてセミが鳴きだし、太陽光が温度をぐんと上げた。
奏多は、いつものように学校に来て、授業を聞いていた。進学校だから真面目に授業を聞いている生徒も多いが、塾でも勉強できるからか、授業に集中できていない生徒もちらほらいる。教室の最前列の席で堂々と船を漕ぐ生徒に気が付いて、先生が注意する。注意された生徒は勢いよく起きようとして、寝ぼけているのか立ち上がってしまう。その姿を見て教室中が笑いに包まれた。この生徒はクラスでもお調子者で通っているのだろう。先生も半分笑いながら、冗談交じりにこぶしを上げてみせる。その姿に、何人かの男子が手を叩いて笑った。
奏多は、彼らの名前も知らない。奏多だけが、この教室の皆と同じように笑うことができない。相変わらずの、灰色の高校生活だ。窓から見える景色に目を向けた。景色と言っても、正面には向かいに建つ校舎が見えるだけ。その校舎の左右にも、校舎。建物が、ちょうどロの形に中庭を囲んでいるのだ。ぼーっと窓の外を見ていると、学校生活とは関係がないことばかり頭に浮かんでくる。
穂高の顔、穂高の声。除霊の仕事をしているときの穂高はかっこいい。かっこいいのに、寝顔はかわいい。接客用の笑顔は完璧で爽やかだけど、素の時の仏頂面や機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せる顔まで、かわいい。誰が見ても穂高は奏多より年上の大人の男なのに、こんなふうに感じるのはおかしいだろうか。穂高は、奏多が突然距離を縮めたり、顔をのぞき込んだりすると怒る。照れているのだとしたら、一層かわいい。
「大人のくせになあ」
誰にも聞こえないくらいの声量でつぶやいた。
最近は、灰色の学校生活も、こうして穂高のことを思い浮かべていると、以前よりだいぶ楽に一日を過ごせるようになった。学校がどんなに楽しくなくても、奏多はちゃんと通っていた。病気を患っている間はろくに登校できなかったから学校に行きたいという気持ちもあるし、何よりも、自分が理由なく学校を休んだら両親が悲しむ。
両親のことが頭に浮かぶと、複雑な気分になった。放課後や休日を荒巻霊媒事務所で過ごすようになってから、家で過ごす時間は無くなった。仲の良い家族だったが、両親の傍にいるのが辛くなっていた。
「…」
以前自分が横たわるベッドの脇で泣き崩れた母親の姿が脳裏に浮かび、奏多は考えを打ち消すように頭を振った。ため息をついて、気分が悪くなったため、教室を出る。親のことを考えると、すっかり暗い気持ちになってしまった。日陰になっていてひんやりとした廊下を少し歩いて、どこに向かうか考える。一旦校庭にでも行って、外の風に当たった方がいいだろうか。思案していると、さっきまで自分がいた教室の方から、女子の叫び声が聞こえた。
驚いて教室へ戻ると、皆が窓際に集まって下を見ていた。
「やばい、あっちの校舎から誰か落ちた!」
今度は男子生徒が叫んだ声がはっきり聞こえ、そこから先は、教室中、いや学校中が騒然となった。教師が制止するが誰も聞かず、窓際には人だかりができていて、奏多は近づくことができない。窓の外で何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。
「誰かが落ちたらしいよ」
「…えっ」
いつの間にか奏多の隣に立っていた男子生徒が、独り言のようにつぶやいた。驚いて顔を向けると、男子生徒も奏多の方をちらっと見上げた。奏多より少し低い背丈。全く日に焼けていない青白い肌。長い前髪の隙間から、つり気味の鋭い目が覗いている。
「屋上から、落ちたみたい」
その男子生徒は続けて言った。目はがっちりと奏多と合っている。
「そ、そうなの?」
奏多は少し思案してから遠慮がちに返事をした。何しろ、奏多は学校で誰かに話しかけられることがほとんどない。それに、多分同じクラスでもないし、見たことのない顔だった。だから、本当に奏多に話しかけたのか、そうだとして似た友達と勘違いしたのではないかと疑った。
奏多が返事を返したことに、その男子生徒は満足したようだった。どうやら本当に、奏多に話しかけたらしい。ちょっと首を伸ばして覗き込むと、制服のシャツに付けられた名札には、森と書かれている。
「…落ちたって、事故?」
名札から森の横顔に視線を移して問うてみる。森は窓に群がる生徒たちの人込みをじっと見つめ、少しの間黙っていた。
「さあ。知らない。」
黙った後につづいた答えはそっけなかった。
「そっか」
よくわからない。万年ボッチの奏多が言うのもなんだが、暗い子だなだと思った。そしてそこから会話が続くこともなく、奏多と森はただ並んで教室の隅に立っていた。
しばらくすると救急車のサイレンの音が近づいて来た。その音はだんだんと大きくなり、校門の方向で止まった。
「つまり、飛び降り自殺…?」
学校から荒巻霊媒事務所へ向かう途中の、夕方のY字路。今日学校であった出来事を話すと、さすがの早苗も目を見開いて奏多の方を振り返った。
「事故なのか何なのか、わからないんだけど…多分そうじゃないかって、皆言ってた。」
「誰も見ていないの?校舎に囲まれた場所だったんでしょう?」
「うん、それが、ちょうど僕がいた教室の目の前の校舎から落ちたみたいなんだけど、誰も落ちた瞬間は見ていないんだ。」
「…皆、落ちた後を見ちゃったのね。」
「うん。中庭の植え込みの上に落ちたみたいで、そういう、その…血とかは見えなかったみたいだけど」
「それでも、トラウマになるよね、そんなの。かわいそう。」
早苗は、自分の体がどこか痛いかの様に顔をしかめた。奏多も、見てしまった生徒たちのことは気の毒に思った。と言っても、好奇心で自分から覗き込んだ生徒も少なくないだろうが。
「もちろん、落ちた子もお気の毒だけどね。自殺は嫌だな、悲しいから…」
「僕もそう思う。」
二人の間に沈黙が流れた。
早苗が道路の方に体を向けなおしたため、奏多も同じ方向を向く。
「…穂高君に相談してみたら?彼なら、自殺なのか事故なのか、調べられるんじゃない?」
「早苗さん、あいつは霊媒師で、探偵じゃないよ。」
そうだったわね、と言って、早苗は弱弱しく笑った。
「この後も穂高君のところに行くんでしょ?」
「うん、行くよ」
「そう、じゃあ、一応穂高君に話してみたらどうかな?」
「うん、そうする」
奏多は素直に頷いて、Y字路を後にした。
荒巻霊媒事務所のあるビルの前に着くと、シエルの店先にスミレが立っていた。
「あら、奏多君。こんにちは。」
「こんにちは、スミレさん。」
「とっても良い天気ね。穂高は中にいるよ、今日はお客さんも来てないから、ゆっくりしていってね」
「ありがとう」
奏多はスミレににこりと微笑んで、花の咲き乱れるシエルの店内に入っていった。荒巻霊媒事務所はシエルと同じ一階の奥にあるため、事務所に行くにはシエルの中を通っていかなければならないのだ。相変わらず、シエルの店内には所狭しと花々が並んでいる。季節は夏の初め。紫陽花の鉢や、ラベンダーの切り花などが並ぶ店内を縫うように進んでいくと、荒巻霊媒事務所の扉が現れる。
事務所に入ると、穂高は机に向かって本を読んでいた。放課後事務所に行くとすでに来客の時間が終わっていて、穂高が一人なことが多い。接客が得意なくせに嫌いな穂高は、嫌なことはさっさと済まそうと、わざと依頼人とのアポイントメントを午前中に取っているらしかった。一緒にくつろいで話すのも良いけれど、仕事モードの穂高はかっこいいから、見られる機会が少なくて少し残念だ。
「おーい、来たよー。」
奏多が声をかけると、穂高は顔は上げずに片手を上げて答えた。
「なんだよ適当な反応だなあ。今日は聞いてほしいことがあるんだけど…。何読んでるの?」
「…黎弦さんが新しく出した本。さっき郵送されてきて、明日感想を聞きに来るって手紙が付いてた。」
相変わらず本から顔を上げないまま、穂高は不機嫌そうに答えた。
黎弦さん、というのは、オカルト系のテレビや雑誌で活躍するそれなりに有名なタレント霊媒師、氷川黎弦のことだ。黎弦は七〇歳近い大ベテランで、穂高の祖父である荒巻平蔵の大学時代の後輩だという。小さい頃から穂高を可愛がっていて、穂高が今の仕事を始めたときから何かと気遣ってくれているらしい。今日配送された本を翌日までに読めとはかなり押しつけがましい性格の様だが、小さい頃から世話になっている自覚がある穂高にとっては、簡単に逆らえない存在の様だった。
「へえ、あのおじいさん、明日ここに来るの?僕、お会いするの初めてだ!」
嬉しそうに奏多が言うと、そこで初めて穂高が顔を上げた。
「会う気かよ。」
「もちろん。ダメなの?」
「…ダメじゃないけど。てか、聞いてほしいことって、何?」
「あ、そうだった。」
奏多は、今日学校であった騒動の件を話した。帰りにY字路で、早苗と話したことも。穂高は黙って耳を傾けていたが、表情はだんだん厳しくなっていった。
「…と、いうことがあったって話なんだけど。」
「ふーん。」
「ふーん、て」
興味のなさそうな反応に、奏多は拗ねて唇を尖らせる。穂高はその顔を見て、安楽椅子から立ち上がって奏多に近づいた。
「で、その森って奴は何者?」
「え、森君?」
「おかしいだろ、いきなりお前に声をかけてくるなんて。見たことない奴なんだろ?」
「うん、別のクラスなんじゃないかな…?知らない子だった。」
「ま、お前が知っている奴なんかいないだろうけど。」
「…そりゃ、僕友達いないし…。あ、でも、もしかしたら森君が初めての友達になるかもなのかな」
思いついたことをつぶやくと、穂高の表情が曇った。凄みのある形相で奏多を睨む。その睨みに動揺して後退りすると、穂高もそのまま距離を詰めてくる。ついに奏多は壁際に追いやられ、背中が壁に着いた。穂高は奏多の顔の横に肘をついて、なおも睨んでくる。
「な、なに、顔すっごく怖いんだけど…」
怖いし、近い。奏多は思わず顔を背けたが、穂高はその顔を覗き込むように身をかがめた。
「お前はそいつと友達になりたいわけ?」
「え、そ、そりゃ、僕だって友達くらいほしいよ」
「…そんなにそいつが気に入ったの?」
「え?」
穂高の拗ねたような言い方が引っ掛かった。ちらっと穂高の顔を見上げると、眉間に刻まれた皺のせいで迫力があるが、どことなく拗ねた表情に見えないこともない。
「もしかして穂高、やきもち焼いてる?」
「はあ?」
形勢逆転の気配を察知して、奏多はにやっと口角を上げた。
「あはは。可愛すぎる。安心してよ、僕と一番仲良しなのは穂高だよ!」
「うるさいな、誰が可愛いだと。気持ち悪いこと言うな。それに、俺は別にお前と友達じゃないぞ。」
背筋を伸ばした穂高に、今度は奏多がぐいっと顔を寄せた。下から挑発するように見上げる。
「知ってるよ。でも、友達じゃなくても、僕と一番仲良いのは穂高だよ。」
にこりと笑いかけると、今度は穂高が言葉に詰まった顔をした。穂高は、人と距離が近いことに耐性がないのだろう、こうして奏多からぐっと距離を縮めると、ぼーっとした表情になったり、照れるような表情をしたりする。それが奏多には気分が良いことだった。今回完全に形勢逆転に成功した奏多は、更に気分が良かった。
至近距離でお互い見合っていると、まるで我慢大会の様になってきた。奏多が一歩も引かずに穂高を見上げていると、ついに穂高の方が後退って行って安楽椅子に座りなおした。
「僕の勝ち。」
にやっとしながら言うと、穂高はより一層眉間に皺を寄せてため息をついてから、話題を戻した。
「早苗さんが言っていた、その飛び降りが事故か自殺かって話は、お前の言う通り俺の専門外だ。それに俺が調べなくても警察が調査するだろうし、いずれわかる。」
「でも、警察が調査したって生徒まで情報が回ってくるのかな?」
「そういうのはどういうわけか簡単に噂になって、勝手に耳に入ってくる。どんなに聞きたくないことでも。」
「どんなに聞きたくないことでも?」
「そう。どんなに聞きたくないことでも。学校中がその話題で持ちきりになる。誰かが死ぬなんて、好奇心だらけの人間にとっては恰好のネタだからな。」
「…でも今回に限っては、僕は知りたいな。早苗さんが心配してるし。早苗さんにこのことを話しちゃったのは僕だし。」
そう言う奏多を一瞥して、穂高は机の上に置いた本を再び開いた。そこからは二人で何か話すわけでもなく、ただ事務所でくつろいで過ごした。途中スミレが一輪挿しに新しい切り花を入れて持ってきて、奏多と少し話し、出て行った。
翌日は土曜日で、奏多は朝から荒巻霊媒事務所にいた。この日は穂高の恩人である氷川黎弦が訪ねてくる日で、奏多はそわそわしていた。穂高は昨日の夜には黎弦の本を読了していて、気の抜けた様子で来客用のソファに沈み込んでいた。
「ねえ、黎弦さんて何時に来るの?」
「さあ。手紙には、午前中に来るって書いてたけど。ていうか、何をそわそわしているんだお前は。」
「だって、氷川黎弦って、僕初めて会うんだ。テレビでしか見たことない人だし、そんな人に会うなんて初めてだから」
「お前意外とミーハーだな。」
「え、そうかな」
穂高はじっと奏多を見つめると、自分の座っているソファをポンポン叩いた。
隣に座れという意味だと理解して、奏多は穂高の隣に座る。
「いいか。お前は今日ずっと俺の傍にいること。」
「え、どういう意味?」
「なんでもいいからそうしろ。黎弦さんはタレントに持ち上げられてはいるけど、見た目の胡散臭さとは違ってちゃんとした霊媒師だ。だから…」
「誰が胡散臭いだって?」
突然背後から声がかかり、穂高と奏多は驚いて振り返った。
そこには、上品な和装を身にまとった恰幅の良い老人が、ドアを背にして立っていた。
「ひ、氷川黎弦…」
思わず呟く奏多を、黎弦は一瞥する。たれ目で人相が良く、真顔でも笑っているような顔つきをしているが、テレビや雑誌で見るのとは違って、目の奥が笑っていない。柔和なお茶の間のイメージとは違って、実物は厳格そうな印象を受けた。
「あんた変なのに懐かれてんじゃないのよ。」
奏多には一瞥をくれただけで、黎弦は穂高に視線を向け、席を勧められるより前に、二人の向かいのソファに腰を下ろした。
「相変わらず暗い事務所だねエ。あ、この花はセンスが良い、さすがスミレだね。」
黎弦は、デスクの上に置かれた一輪挿しの花を見て満足そうに頷いた。
「ちょっと、師匠がはるばる訪ねて来たんだから、挨拶の一つもしないかい。」
黎弦は向かいに座る穂高にぴしゃりとした口調で言った。当の穂高は、なぜかさっきから呆然とした様子で黎弦を見ている。
「黎弦さん、あんた…」
穂高が何か言いかけるのと同時に、事務所のドアが開いてカランコロンとベルが鳴った。奏多がドアを振り返ると、入って来たのはスミレだった。
「あら」
スミレは、ソファに座る黎弦と目が合うと、驚いた顔をした。
「黎弦さん、いついらっしゃったの?」
「ついさっき。久しぶりだね、スミレ。」
黎弦はにこりともせず(と言っても笑っているような顔だから、にこりとしている様に見えるものの、表情筋は動いていない)、スミレに挨拶した。スミレも、「お久しぶりです」と改めて挨拶を返す。
「いらっしゃるって穂高から聞いていたから、お待ちしていたのよ。事務所に入るとき声をかけてくだされば良かったのに。」
「さア、どこにいるのかわからなかったのヨ。それより、スミレはちゃんと挨拶が出来て良い子だねエ。この馬鹿はさっきからぼーっとしちゃって、ろくに返事もしないんだヨ。」
そう言って黎弦は目を細めて穂高を見た。睨んでいるわけではなく、どことなく、生意気な子供を可愛がっているような空気が滲んでいる。
「いやだねエ。いちゃついているとこ邪魔されて怒ってんのかしら。」
「…誰もいちゃついてねえ。」
「おややっとしゃべったね。全く、こんなぼけっとした子じゃないはずなんだけどねエ」
黎弦はさっきから言いたい放題だ。奏多は言われっぱなしの穂高が珍しいやら、さっきの黎弦の視線が怖かったやらで、すっかり空気に吞まれている。穂高は小さく息を吐くと、また黎弦をじっと見つめた。何か言おうとして、言うべきか考えている顔だと、奏多には思えた。
「何見てんのサ。あたしの顔に何か付いてるかい。」
「…いや別に。」
穂高は、言おうとした言葉を結局飲み込んだようだった。奏多の方を見て、大丈夫、と目配せしてくる。さっきの黎弦の、奏多に向けられた冷たい視線についてだろう。
「お久しぶりですね、黎弦さん。お元気でした?」
「フン。何をボケてんだか知んないけど、その子は何なのサ。困ってんならあたしが追い払ってあげようか?」
「え?」
黎弦が奏多の方を見ると同時に、穂高が奏多の目の前に手を差し出した。ちょうど黎弦から、奏多の顔がすっぽりと隠れて見えなくなる。
「こいつは変なのじゃない。勝手なことしないで。」
奏多からは、黎弦を睨みつける穂高の横顔だけが見える。
「はア。勝手におし。あんたが良いなら何もしないヨ。」
一瞬張り詰めた空気が少しゆるみ、穂高も手を下ろした。奏多と黎弦の目が合う。奏多は小さく黎弦に会釈をしたが、黎弦の方は鼻を鳴らしただけだった。
「スミレ、お茶淹れてくんない?」
穂高がスミレの目を見て言う。スミレは頷いた後、「奏多君、手伝ってくれる?」と言って奏多を伴って事務所を出た。シエルの店内には販売スペースとは区切られたスミレの休憩スペースがあり、二人でそこに入る。
「僕、黎弦さんに嫌われてる…?」
お茶を用意するスミレの横で、奏多はしょんぼりした顔をした。スミレは笑って、
「あんな人なのよ」
と答えた。
「昔から穂高が可愛くて仕方がないの。勿論私のこともね。本当の孫みたいに思ってくれていて、ちょっと過保護なのよ。奏多君は何も気にしなくて良いわ。あの人は、穂高の言葉なら信じるから。」
「そっか…」
奏多は力なく答えたが、もう黎弦に会う気にはなれなかった。スミレが話し相手になってくれたので、その日は黎弦が帰るまでシエルで過ごした。
月曜日。登校すると、穂高の言った通り、学校中が金曜日の事件のことで持ちきりだった。奏多は話す友達がいないため情報収集は難しいかと思ったが、勝手に事の詳細が耳に入ってきた。
飛び降りは、自殺―――。警察はそう判断したらしい。
飛び降りたのは二年生で、奏多がいた向かいの校舎に教室がある。ちょうど授業の時間だったため、一人で抜け出したその生徒は、自分から屋上へ行き、上履きを脱いで、飛び降りたのだという。
自殺だとわかり、奏多はやるせない気分に落ち込んだ。早苗が一番望んでいなかった結果だ。勿論、奏多も。気になるのは、誰もその生徒の名前がわからないことだった。皆の噂の主人公は、飛び降りた奴、と呼ばれていた。
授業中も、生徒たちは全く集中できていない様子だった。騒がしい教室の様子を見かねて教師が説教を開始し、奏多は一層やるせない気持ちになって教室を抜け出した。
どこへ行くでもなく、廊下を歩く。人が亡くなったのに、皆が面白い話のネタとして噂をしているのが嫌だった。
渡り廊下に差し掛かった時、足を止めた。ちょうど窓から、その生徒が落ちたという屋上が見えた。
「ねえ。この前話した人だよね?」
突然背後から声をかけられた。振り返ると、飛び降り事件があった時、教室で声をかけてきた生徒、森だった。
「あ、うん」
奏多が返事をすると、森は遠慮がちに手を差し出してきた。
「あの時はいきなり話しかけてごめんね。僕は、森圭吾。」
握手を求められているのだと気が付き、奏多も名乗りながら手を差し出した。軽い握手をして、手を離す。
「柏木君は、三年生?」
「うん。」
奏多たちの高校には、学年で色が違うピンバッジをつける校則がある。森は奏多の制服のシャツに付いている青いピンバッジを見て、奏多の学年がわかったのだ。奏多も森のピンバッジの色を見た。
「森君は、黄色だから二年生か。」
「そうだよ。柏木君はここで何をしているの?」
「え。何って?」
「だって授業中じゃないか。」
森は、引きつったように顔を歪めた。どうやら笑っているらしい。
「あ、僕は…」
教室の居心地が悪くて、抜け出してきたと正直に言った。後輩にこんなことを言って良いのだろうか、とも思ったが、他に理由が無いから仕方なかった。
「そっか。僕と同じだね。」
「森君も教室に居づらかったの?」
「僕は、教室に居やすかったことなんてほとんど無いよ。」
森はすっと真顔になった。奏多はその表情が少し怖いと感じたが、学校に居場所が無い者同士のシンパシーの様なものを感じた。
「柏木君はよく授業サボるの?」
「…まあね」
サボる、というか。もともと体が弱かった奏多は、授業中に体調が悪くなって抜けることも多かった。だから、授業中に誰もいない校内を歩くことには慣れている。
「何か良いサボり場所って無いかな?僕、あんまり授業を抜け出したことなんて無いんだ。」
「…うーん。」
学校で誰かとこんなに長く話すことなんて無いから、浮かれていたのかもしれない。奏多は森と一緒に、校内を散策することにした。校庭、体育館の裏、校舎からは見えない中庭の死角など、色んな所を徘徊して、色んな話をした。しかし、もともと立ち入り禁止で、さらに飛び降りの事件があった屋上には近づかなかった。
放課後、その日はまっすぐ穂高のもとへ向かった。
この前は森の話をしたら機嫌を損ねてしまったが、学校で話せる相手ができたことは嬉しく、嬉しい話はやはり穂高に聞いてほしかったのだ。
しかし、事務所には誰もいなかった。
穂高が事務所を開けることは珍しく、奏多は立ち尽くした。というのも、穂高は大抵の場合、外出を伴う霊媒の仕事は土日に入れる。大抵は憑かれている本人が依頼に来るため、そもそも外出しなければならない依頼の割合は少ない。だから土日のアポイントメントで事足りるのだという。基本的に平日には事務所にいるし、奏多は事務所にさえ行けばほぼ毎日いつでも穂高に会えるのだ。
だが今日はいない。どういうことだろう。ちょっとコンビニへ行ったような気配でもない。
うーん、と首をひねって考える。不思議な感覚だったが、真剣に集中して考えれば穂高の居場所がわかるような気がした。
神経を集中させていると、カランコロンとベルの音が鳴った。その音で集中が途切れる。ドアからスミレが覗いていた。
「あ、スミレさん。穂高がいないんだけど…」
奏多が尋ねると、スミレは困った顔をして答えた。
「それがね、前に来た黎弦さん、いるでしょ。」
「うん」
「ここを訪ねてきたあの日に、穂高にいろいろ仕事の手伝いを頼んでいったらしいの。それで朝から出かけているのよ。結構な数をこなさなきゃいけないみたい。」
「え、そうなんだ。今日はどこにいるの?」
「それがね、教えてくれなかったの。何でも黎弦さんのところの依頼人って、結構な大物が多いらしくて、守秘義務みたいなものを守らないといけないんだって。霊障に悩まされていることが公になると良くない人が多いみたい。」
「政治家とか、大企業の社長さんとか?」
「そうね、きっと。」
「そっか」
穂高が守秘義務を守って仕事をしているのなら、探すのはやめた方がいいだろう。奏多はそう思って、穂高の行き先を探るのは諦めた。
学校での話は、また穂高が戻ってきたらにしよう。
そう思っていたのに、穂高はなかなか帰って来ず、次の日も、その次の日も、事務所には戻らなかった。
穂高に会えない日々が続く中、奏多は学校へ行くと度々森に話しかけられるようになった。
学校生活に馴染めない者同士、お互いに共感できる部分が多く、奏多もだんだん心を許すようになっていた。
そんなある日、奇妙な事が起きるようになったのだ。
あの飛び降り事件以来、屋上は全面的に立ち入り禁止になった。もともと立ち入ってはいけないルールがあったのだが、今までは屋上に続くドアには鍵が掛けられていただけだったのが、バリケードが作られ、厳重に塞がれるようになっていた。しかし、何人かの生徒が授業時間に教室を抜け出し、屋上へ上がっていたのだ。それも皆バラバラの日に、バラバラの時間に、一人で屋上にぼーっと立ち尽くしていたり、階段を上がっていったりしているところを発見されている。彼らの中にはお互いに知り合いの生徒もいたが、全員につながりがあるわけでは無く、冷やかしや悪ふざけだとは考えにくかった。そして奇妙なのは、全員が、屋上へ近づいて行ったときの記憶が無い、と証言していることだった。まだ飛び降り事件の話題は生徒たちの関心の的だったため、この件も学校中で噂になっていて、「飛び降りた奴の呪いだ」と騒がれ始めていた。
その日、奏多は、今日こそ事務所に穂高がいる予感がしていた。放課後になり、駆け足で昇降口へ向かう。穂高が黎弦の仕事の手伝いで事務所を空けてから、四日経過していた。
「柏木君」
「あ、森君」
校門を出る直前、森に話しかけられた。早く穂高のところに行きたくてうずうずしていた奏多は、森には申し訳ないが急いでいる素振りをわざと見せた。
「そんなに急いでどこかに行くの?」
「うん。ちょっとね、早く会いたい人がいるんだ。」
「…会いたい人?」
森は、無表情で首を傾げる。悪いが、今は森と長く話すつもりはない。
「ごめんね、僕行かなきゃ。また明日!」
森はまだ話したそうだったが、奏多は一方的に挨拶を済ませると、校門の外へ出た。
「…あれ?」
違和感に気が付いて、後ろを振り返る。だが、もう森の姿は無かった。
「…森君、靴履いてなかったな。」
靴下で校舎の外に立っていた森の姿が気になったが、穂高に会うために奏多は急いで学校を後にした。
事務所に入ると、やはり穂高が戻ってきていた。
ソファに寝転んで、ぐったりしている。奏多は穂高の顔の横にしゃがんだ。声をかけると、穂高は閉じていた目を開いて奏多を見た。
「奏多…」
「穂高、久しぶり!」
会えなかったのは数日だが、すごく長く感じた。思い返せば穂高と出会ってから、こんなに会えない日々が続いたことは無い。
穂高は奏多の頬に触れようと手を伸ばしたが、やめて引っ込めた。
「黎弦さんのお手伝いに行ってたんでしょ?ずいぶん遠くまで行ってたんだね。」
「…あの爺さん、人使いが荒いんだよ。遠い上にあちこち行かされてマジで疲れた。」
「お疲れさま。がんばったね、穂高。」
穂高の顔が見られたのが嬉しくて、奏多はにっこりとほほ笑んだ。よっぽど疲れているのかとろんとした目でその顔を見つめる穂高に、今度は胸のあたりがきゅうっとなる。気づくと、引き寄せられるように穂高の顔に自分の顔を寄せていた。
「…奏多?」
かすれた声で名前を呼ばれて、奏多は我に返った。
「あ、なんでもない」
慌てて誤魔化して、顔を離す。自分は何をしようとしていたんだと動揺する。あのまま、穂高にキスしてしまうところだった…。自分がしようとしていたことに思い至ってものすごく恥ずかしくなった。いくら穂高のことが好きだからって、いきなりそんなことをしようとするなんて、自分が信じられなかった。しかも、穂高を愛しいと思うあまり、無意識でそんな行動をするなんて…。
当の穂高は、奏多がしようとしたことをわかっているのかいないのか、はたまた疲れすぎて考えが至らないのか、横になったまままた目を閉じた。仕事の無いときはだらけている穂高だけれど、かなりぐったりした様子に、今度は奏多の中に心配の気持ちが大きくなってくる。
「仕事、そんなに大変だったの?」
「…うん。大変だった。やっぱあの爺さん、伊達に何十年も祓い屋やってねえな。」
「そっか。一段落したの?」
「…ん」
二人の間に沈黙が流れる。嫌な沈黙ではなかったが、奏多は学校で起きた話をするのは無理だな、と思った。飛び降り事件の顛末や、最近起こっている奇妙な出来事、森という友人が出来たことも、穂高に聞いてほしかったのだが。
「ま、いっか。今日は穂高に会えただけでいいや。」
そうつぶやいた奏多の声は、すでに小さく寝息を立てている穂高の耳には届いていなかった。
次の日。飛び降り事件から一週間が経とうというその日、騒動が起きた。
「おい、誰か屋上に立ってる!」
誰かが叫び、教室は騒然となった。先生が慌てて携帯を取り出し、どこかに電話を掛ける。窓際で授業を聞いていた奏多も、窓の外に目を向けた。
小柄な女子生徒が、一人で屋上に立ち尽くしていた。
隣の教室の窓から、誰かが「やめろ!」と叫んだ。
次の瞬間、女子生徒が、一歩前に踏み出した。そこにはもう地面が無い。彼女の体は、校舎の下へ落ちた。
奏多は目を瞑ったので、彼女が落ちた瞬間は見なかった。皆が息を飲む気配が伝わってきたが、しばらくすると、それがどういうわけか歓声に変わった。
「…?」
目を開けて、おそるおそる下を見ると、彼女は避難用の巨大なマットの上に落ちていた。先生が一階にいた職員に電話をかけて、彼らが急いで用意したマットが彼女の体をギリギリのところで受け止めたのだ。
大けがになっている可能性はあったものの、一命は取り留められたようだった。ほっとして、顔を上げる。
「…あれ?」
さっきまで女子生徒が立ち尽くしていた屋上に人影が見えた。奏多以外には見えなかったのか、誰も気づいていない。皆、階下に向かって、女子生徒を救助した先生たちに完成を送っていた。
荒巻霊媒事務所を訪ねると、先客がいた。
四谷博隆は、ソファにくつろいでスミレが淹れたらしいコーヒーを飲んでいた。
今日は穂高に話したい事がたくさんあった奏多は、四谷の姿を見て顔をしかめた。昨日は穂高が眠ってしまって、ろくに話せなかった。何日もお預けを食らったのに、穂高を横取りされた気分だった。
「それで、依頼人はいつ来る?」
穂高に声をかけようとしたが、穂高が話し出したので機会を失った。黙って二人の話を聞く。穂高は奏多や四谷がいる方には背を向けて安楽椅子に座っていて、窓の外を見ていた。
「学校が終わって雑務が終わったらすぐ来るって言ってた。早くてあと三時間くらいか。」
奏多は、四谷の「学校」という言葉が引っ掛かった。おそらく今日も四谷の紹介で依頼人が来るのだろうが、教師なのか学生なのか、学校関係者の様だ。
「本当に嫌な話だよなあ。呪いだなんて。俺たちが高校生の頃は、そんなオカルトな事件起きたことないのになあ」
「…お前はただ自分が高校生だったら、そのオカルトな事件に関わりたかっただけだろ。」
「そりゃあね、オカルト研究会代表としては、悔しい話だよ。にしてもオカルトな事件が多い学校だよなあ。お前、覚えてる?何年か前にも、依頼があったよな。ほら、音楽室でピアノを弾く幽霊!」
「…はあ」
その手の話が好きなのか、顔を輝かせる四谷に背を向けたまま、穂高はため息をついた。
「そんな話、俺が学生の頃にはなかったのになあ。ほんと、なんで今俺はバーの経営なんてやってるんだ。俺がオカ研代表だったなら、今頃その事件解決に向けて乗り出しているというのに!」
四谷はドラマチックに頭を抱えた。その様子を見なくてもわかっている様な穂高は、あからさまに呆れた態度だった。
「…お前はしょうもないインチキ降霊術にかまけてただけなんだから、今高校生やってたとして何の役にも立たねえだろうが。」
「言うねえ、穂高チャンは。」
「…依頼人が来るのはわかったから、お前はさっさと帰れよ。」
そう言って椅子から立ち上がり、振り返った穂高の目が奏多を捉える。穂高は目を見開いて心底驚いた顔をした。
「そういえば、俺らの代にも亡くなった奴がいたよなあ。まああいつは、自殺なんかじゃなかったけど。だから呪いにならなかったのかなあ。」
穂高の態度にはお構いなしでソファに寝転ぼうとした四谷の腕を、穂高が掴んで引き起こした。いきなりのことに、四谷が目を白黒させる。
「なんだよ、穂高チャン」
「いいからさっさと帰れ。入り浸られたら邪魔。すっごい邪魔!」
「むむ、先輩に向かってなんだねその態度は!あ、こら、押すなよ!」
「うるさい。客が来る前にお前が汚したのを掃除する。」
「はあ?何も汚してないんですけど?てかあと三時間はあるったら!」
「黙って帰れ。お前も開店準備があるだろう」
「だからうちの開店時間もそんなに早くねえよ。バーなんだから!」
穂高はぐいぐい四谷の背中を押して、ドアの外に追い出した。バタンと四谷の鼻先でドアを閉める。ドアに付けられたベルが激しく鳴った。ドアの外では、「まだコーヒー全部飲んでないのにー!」と四谷が憤慨している声が聞こえたが、帰ったのかすぐに静かになった。
四谷が出て行った事務所は、しんと静まり返った。
事の次第をぽかんと見守っていた奏多を、穂高が振り返る。
「あ、僕も邪魔?」
「お前は居て良い。」
即答だったから安心した。穂高は基本的には人に冷たい態度を取る。心を許している人たちに対してはそうなのだ。だが、今の四谷への態度には少し驚いた。力尽くで強引に人を追いやるところなど初めて見た。
「今日お客さん来るの?」
「…そうらしい。」
穂高はさっきまで四谷が座っていたソファに腰を下ろした。奏多もその隣に腰を下ろす。
「お前、最近学校で何があった?」
体ごと奏多の方を向いて、穂高が尋ねてきた。
奏多は、穂高に会えなかった数日の間に起ったことを話した。飛び降り事件は自殺という判断が下ったこと、屋上へ近づく生徒が続出し、なぜか彼らにはその時の記憶が無いこと、それらが飛び降りした生徒の呪いとして噂になっていたこと、そして今日、第二の飛び降り事件が起きたがなんとか救助されたこと。最後に、蛇足かと思ったが、森のことも話した。
「はあ…」
全部聞き終わると、穂高はため息をついた。
「穂高?」
「今日来る依頼人は、そのことで来るらしい。」
「え?」
「お前の学校の教師だ。今回の飛び降りからの一連の話、もしかしたら霊障かもしれない。」
「じゃあ、それを調べに行くの?」
「…おそらくそうなるな。」
奏多は、穂高の体が心配になった。黎弦の依頼で、穂高は四日間も出ずっぱりだった。その間、ずっと依頼人の霊を祓っていたのだ。霊を祓うのがどんな負担を体に負わせるのかはわからないが、穂高の疲れが残っているのは明らかだった。
「ねえ、大丈夫?」
穂高の顔を覗き込む。近いのが嫌だったのか、穂高は顔を背けた。その様子に気が引けてしまって、奏多は黙った。
「ちょっと寝たら?疲れてるみたい。」
「…お前がどこにも行かないなら。」
「え?」
意外な発言だった。疲れすぎて甘えたくなっているのだろうか、と思い、奏多は穂高に微笑みかけた。
「大丈夫、僕はどこにも行かないから、少し休んで。お客さんが来るの、七時くらいだったよね?一時間前には起こすよ。」
「…ん」
穂高は疲れが限界なのか、奏多の言葉に素直に従った。
奏多は、六時になるまで、ぐっすり眠る穂高の顔を見て過ごした。思えば、昨日もずっと穂高の寝顔を見ていた。
目覚めた穂高は、眠る前より顔色が良くなっていた。
少しは回復したようで安心する。
依頼人は、四谷が言った七時を少し過ぎてやって来た。奏多の通う高校の教師ということだが、確かに見覚えがあるような気がした。しかし、奏多のいるクラスを受け持っていないのか、面識があるわけではなかった。
その教師が語った事の詳細は、ほとんど奏多が先刻話した内容と同じだった。付け足された情報としては、最初に飛び降りた生徒の自宅の部屋には遺書があり、それが自殺を決定付けたことだった。
「情けないことですが、学校側は、遺書に書いてあったようないじめには全く気が付きませんでした。内容としては、クラス全員からの無視。担任にヒアリングを行ったところ、確かにクラスメイトと交流する姿はほとんど見受けられなかったと。ただ、一年生の頃からかなりおとなしい生徒だったらしく、誰も異変に気が付きませんでした。」
今日あった第二の飛び降りについては、教師陣の中でも呪いについては半信半疑だったものの、事件後屋上に近づく生徒たちが続出していたことで、いつ同じ様なことが起きても対応できるように対策していたということだった。
「屋上に近づいた生徒たちに話を聞いても、皆口をそろえて覚えていないと言うのです。私も一人、屋上近くで生徒を発見したことがあるのですが、その生徒もまた、記憶が無いと言って、自分がなぜ授業を抜け出して屋上に向かっていたのか、わからない様子でした。生徒の言う呪いが本当だとは思えませんが、…本当だと思わずにはいられないありさまで。今回の飛び降りも、呪いを信じたわけではありませんが、もしもに備えていたため、事なきを得ました。まあ、飛び降りた女子生徒は骨折で入院しましたが、意識ももう戻っていますし、命は助かって一安心ですよ。ただやはり、自分がなぜあんなことをしたのか、記憶が曖昧でわからないと言うんです。彼女の担任にも話は聞きましたが、繊細で優しく共感性の高い子で、友達も多いということでした。本人の言う通り、彼女には自殺する理由が見受けられない。…このままでは、他の生徒たちにも何が起こるかわかりません。そこで、学校として公に動くことはできませんが、有志で話し合い、こちらにご相談に伺いました。」
そこまで話すと、依頼人は穂高の顔を見た。
「何年か前にも、こちらにはお世話になったとお聞きしました。その時こちらに依頼に来たという先生は他校に異動されていましたので、電話で今回の事情をお伝えし、四谷さんの連絡先をお聞きしたのです。荒巻さんはお忙しいとお聞きしましたが、四谷さんの紹介ならスムーズにお話を聞いていただけるとのことだったので…」
穂高は営業スマイルを崩さなかったが、「四谷の紹介なら…」のあたりで一瞬眉間に力が入ったのを、奏多は見逃さなかった。
「お話は分かりました。では、明日にでも調査で入校することは可能でしょうか」
「もちろんです、校長に話は通してきましたので。」
穂高は、来校の約束をして依頼人を帰した。明日は土曜日で授業は無いが、部活動があるため来校するのは夕方からになった。学校として呪いの噂を真に受けているという話を広めるわけにはいかないため、大々的に動くわけにはいかず、生徒たちが帰った後に、ということになったのだ。
翌日、奏多は穂高と一緒に学校へ行った。
昨日の依頼人が迎え入れ、穂高たちは調査のために校舎内を見て回ることになった。
奏多にとっては、穂高が自分の学校にいるのは変な気分だった。小学校の時の授業参観を思い出す。病弱だった奏多は授業参観の日を一回しか経験しなかったが、いつも通っている学校という空間に、母親が来た時の非日常に感じたわくわくした気持ちが、同じように湧き上がってきていた。
二人で校内を肩を並べて歩いているのが、なんだか嬉しい。
一回の理科室の前の廊下を通ると、写真部の展示コーナーになっていた。
「へえ、こんなのやってるの、知らなかった。」
「写真部か」
「きれいな写真だね。」
奏多が足を止めたので、穂高も立ち止まって二人で写真を見物する。
同じ写真を眺めながら、奏多はちらっとすぐ横にある穂高の顔を見た。
穂高はどんな高校生だったのだろう。どんな制服を着て、どんな学校生活を過ごしたのだろう。確か四谷とは高校時代からの知り合いと言っていたが、その時には学校でもいつもの不機嫌そうな顔をしていたのだろうか。いや、外面の良い穂高のことだから、何でもそつなくこなしていたに違いない。女子にもモテただろうな…。たくさんの友達に囲まれて笑っている姿は思い浮かばなかったが、女子たちからあこがれのまなざしを向けられながら涼しい顔をして校内を歩く穂高の姿は容易に想像できた。
「…何見てんの、さっきから」
「えっ」
奏多はさっきから、穂高の顔をガン見していたらしい。眉間に皺を寄せた穂高の顔が、至近距離で奏多を見返していた。
「な、なんでもない!」
焦って顔を離した。
穂高は、焦る奏多の様子に怪訝な顔をし、再び歩き始めた。奏多はなんとか取り繕おうとして、隣を歩く穂高に、テンション高く話し始めた。
「ね、穂高は高校生のころから霊感があったんだよね?」
「…まあ。高校生の頃からじゃなくて、ガキの頃から見えてはいたけど」
「じゃあさ!学校の怪談みたいなやつって、本物見たことあんの?」
奏多はわくわくした面持ちで、隣を歩く穂高の顔を見上げた。
「学校の怪談?」
穂高は、ピクリと片眉を上げる。
「うん!トイレの花子さんとか、音楽室のバッハとかベートーヴェンが夜な夜な動きだす、とか。」
「音楽室のバッハとかベートーヴェンが動いて何すんだよ」
眉間に皺を寄せる穂高にはお構いなしに、奏多は得意げに胸を張る。音楽室でやることと言ったら一つだ。
「そりゃ、ピアノでクラシックを演奏するんでしょ」
「…はあ」
穂高は呆れた顔で、わざとらしいため息をついた。
「四谷みたいなこと言うな。あほらしい。」
「えー。じゃあ、音楽室でピアノを弾く幽霊ってなんの話だったの?」
「は?」
四谷が言っていた。数年前にも、穂高は学校の音楽室でピアノを弾く幽霊について調査をしたと。
「…」
穂高は何か言いたげに、立ち止まって奏多を見つめた。
「…何?」
「いや、何でもない。」
再び歩き出した穂高を、奏多は慌てて追いかけた。
思い返せば、奏多が初めて穂高と出会ったのも学校だった。春の日の放課後に奏多が音楽室でピアノを弾いていると、突然教室のドアが開いて穂高が入ってきたのだ。誰とも話さないつまらない生活が、あの時一変した。穂高の視界に、奏多が初めて捉えられたあの日から。
だからこんなにも自分は浮かれているのかと、奏多は合点した。穂高と初めて出会った場所に二人で戻ってきたから、こんなにうれしいのだ。
「…そういえば、お前まだ音楽室でピアノ弾いてるのか?」
穂高が聞いた。
「え、ううん。全然弾いてないよ。久しく音楽室にも行ってないけど」
「あ、そ。」
「何、興味ないなら聞かないでよね」
穂高と出会ってから、放課後はほぼまっすぐ荒巻霊媒事務所に向かっているから、音楽室に行く時間は無くなっていた。自分の人生の中で、ピアノを弾かない時間がこんなにも長くなるとは思わなかった。以前は、病弱で、友人もいない自分にはピアノしか無かった。ピアノを弾いていれば皆が褒めてくれたし、体調の良いときはコンテストに出場すれば賞もいくつか獲得した。両親も喜んでくれたし、奏多自身も、ピアノを弾いているときは、世間に馴染めない自分を忘れられた。何も出来ない自分の存在が、ピアノさえ弾いていれば世間と対等になれる気がした。
そんな自分が、今はピアノを置いて穂高に夢中になっている。深く考えてはいなかったが、随分穂高にのめり込んだな、と自覚した。
一階の理科室前の廊下の奥にある階段を上がり、上の階まで行くと、隣の校舎に繋がる渡り廊下がある。この渡り廊下を渡った先が、男子生徒が飛び降りた屋上がある建物だった。
渡り廊下の窓からは、屋上が見える。
穂高は立ち止まって、窓から外を見た。その視線は何故か階下に向けられている。
「あそこがあの屋上だよ」
と言って、屋上を指し示そうと奏多も窓から外を覗いた。その時、
「…あれ?」
屋上に誰かの人影が見えた気がした。よく見ようと身を乗り出すと、後ろから声をかけられた。
「柏木君、そんなことしてたら落ちちゃうよ。」
穂高の声ではなかった。声がした方を振り向くと、奏多より少し低い身長で、黄色いピンバッジを付けた男子生徒がすぐ傍に立っていた。
「え、森君…?どうして…」
「柏木君こそ。」
「奏多?」
穂高が異変に気付いて、奏多の方に近付いてくる。森の鋭い目が、長い前髪の間から穂高を見た。
「行こう、柏木君」
「え?」
森は突然奏多の手首を握って、渡り廊下の先の暗闇に引っ張った。
「奏多!待て!」
穂高が止めようと手を伸ばしたが、その手は奏多を掴むことは出来ず、虚しく空を切る。その間に、奏多は森に引っ張られて、廊下の闇に消えた。
いつの間に目を閉じたのかわからないが、目を開けると、奏多は外にいて、夜風が頬を撫でていた。
「ここって…」
辺りを見渡すと、すぐ向かいの校舎の屋上が見えた。いつも奏多がいる教室がある校舎だ。ということは、奏多が今いるのは、飛び降り事件のあったあの屋上だった。
「柏木君、大丈夫?」
「森君…」
屋上の淵に、森が立っていて、奏多の方を振り返る。
「危ないよ、森君。そんなところに立っていたら。こんなところにいちゃダメだ。早く降りよう。」
「危ないのは君の方だよ。どうしてあんなのと一緒にいたの?」
「あんなのって…?穂高のこと?」
「僕らみたいなのはあんなのと近づいちゃダメだ。何されるかわからない。」
「え、穂高は悪い奴じゃないよ。何もしたりしないよ。」
森は、青白い顔で奏多の顔を見た。
「つまんないよ。柏木君は、独りぼっちじゃなかったの?」
「え…?」
奏多には森の言っていることの意味がわからなかった。ただ、気になることがあって、奏多は森に尋ねた。
「ねえ、森君。君、さっきこの屋上から僕たちのことを見ていなかった?それに、女子生徒が落ちたときも同じ様な人影が見えた。…もしかして、君あの時もここにいたの?」
「…いたよ。」
「どして止めなかったの?全部見てたなら、あの子が落ちるときに止められたはずだよね」
「どうして僕が止めるの?」
「え?」
「落としたのは僕なのに。」
奏多は絶句した。森が言っていることが、いよいよよくわからない。オトシタノハ僕、とは、どういう意味だ。
「お、落としたって…どういうこと…?」
「突き落としたりはしてないよ。ちょっとあの子に、僕の記憶を見せただけ。そしたら、落ちた時の僕と同じ感情になって、ここまで上がってきて自分で落ちたんだ。他の生徒にも何人か試したけど、途中で先生に見つかったり正気に戻っちゃったりして、落とすところまで成功したのは彼女だけだった。」
森は淡々と話した。あまりにも淡々と話すから、奏多の方も段々と混乱が落ち着いてきて、森が何を言っているのか、少しずつわかってきた。
「…じゃあつまり、君が、あのとき死んじゃった子なの?」
「そうだよ。」
この校舎から飛び降りて、亡くなった生徒は森だったのだ。そして、生徒に取り憑いて彼らを屋上に誘ったのも。
「なんでそんなことするの」
「…僕一人であっちへ逝くなんて嫌だからだ。」
奏多の避難する視線に、森は少しだけ顔を背けた。あっちとは、あの世のことだろう。
「そんなのおかしいよ。他の子を道連れにするなんて…」
「もういい。柏木君は優しいから、全部わかってくれるはずだよ。」
森が奏多の言葉を遮ると同時に奏多の中で知らない記憶が再生され始めた。
桜の咲く季節。新しい生活に胸を高鳴らせ、入学した時のこと。勇気を出して声をかけたのに、クラスメイトに無視されたこと。最初は気のせいかと思ったのに、明確にクラス全員に無視され始め、存在を消されたいじめの日々。誰とも話せない灰色の学校生活…。薄っすら期待していたのに、二年生になっても扱いは変わらなかった。確かに存在しているのに、そこにいないような扱いを受け続け、森の心は限界だった。
もう死のう、と思った。
皆の前で死んでやろう。遺書を書いて自室に残し、授業を抜け出して屋上へ行った。森は空中に身を投げた。
これで誰も僕を無視はできない。
そう思っていたのに。
森の死は、学校中の注目の的になった。皆が事件のことを噂して、皆が「飛び降りた奴」の話をした。けれど気づいてしまった。誰の口からも、「森圭吾」の名前は出て来ない。同じクラスの者でさえ、森の名前を知っているはずなのに、名前を言わなかった。いや、同じクラスだったからこそ、皆忌避していたのだ。それが森には気に入らなかった。
死んだ直後、自分と同じ様な存在が生徒の群れに紛れているのに気が付いた。柏木奏多は独りぼっちで、授業をサボって廊下を歩いていた。僕と同じ、独りぼっちで居場所のない人。名乗ったら、僕の名前を呼んでくれた。この人は僕を無視しない。
…そう思っていたのに。彼は校門から颯爽と外の世界へ出ていった。僕を置いて、誰かに会うために急いでいた。
ダメだよ。あなたも僕と同じ、独りぼっちでいてくれなきゃ。
奏多の意識が森の記憶から復帰した。
森は無表情で奏多を見ていた。
「森君…」
「柏木君、僕は君なら僕の気持ちを分かってくれると思う。他の誰よりも。だから、僕と一緒に行ってほしい」
「…無理だよ。僕はここに残る。」
「どうして?」
森の鋭い目が一層吊り上がった。
「…確かに、君の言うことは当たっているよ。僕は学校に居場所が無いし友達もろくにいなかった。僕は独りぼっちだった。」
誰にも話しかけられず、誰にも話しかけない学校生活。誰にも存在を認められず、認識されない辛さ。奏多にも痛いほどよく分かった。奏多はかつて皆に無視されていたわけではなかったが、遠巻きに見られて関わってもらえなかった。その淋しさを思い出す。
「でも、僕は自分から死を選ぶようなことはしないよ。」
「…」
「僕は生まれつき病弱だったし、そのせいで友達の作り方もわからないまま高校生になって、ずっと独りぼっちだった。でも、僕は病気じゃなかったら、君みたいに健康な体を持っていたら、ずっと生きていたかったよ。」
奏多は森に心から訴えていた。
ずっと生きていたかった。生きている体で、穂高と出会いたかった。
生徒にも教師にも認識されない独りぼっちの学校生活、千田宅で出された二つのティーカップ、さっき奏多の手を掴もうとして空を切った穂高の手。
「…もう良いよ。柏木君となら分かり合えると思っていたのに。」
「ごめんね、森君。」
奏多は心の底から悲しかった。
その時、屋上へ上がってくるためのドアが重たく錆びついた音を立てて開いた。穂高だ。屋上へ上がる階段は立ち入り禁止になっていてバリケードが作られていたから、来るのが遅れたのだろう。
「穂高は良い奴だよ。霊媒師っていうのをやっているんだ。だから、きっと森君の話も穂高なら聞いてくれる…」
「良いよ。聞きたくない!」
森は奏多に向かって手を伸ばした。
「一緒に来て。君を道連れにするよ。」
奏多はぎゅっと目を瞑った。
穂高が奏多の名前を呼びながら奏多と森の間に立ちはだかった気配がする。
「こいつを連れて行くのは許さない。」
穂高の呟くような声が聞こえ、森が叫んだ。
一瞬の後、森の叫び声がぴたりと消えた。奏多が目を開けると、目の前には奏多を庇うようにして立つ穂高の背中があった。
穂高の背中越しに覗き込むと、もう森の姿はそこには無かった。
*
森が除霊され、穂高と奏多は学校を後にした。依頼人には全て完了と報告し、向こう1週間何も起こらなければ、事態を解決とすることとした。
事務所へ戻る道中、押し黙っている奏多を見て、穂高が言った。
「悪かったな、お前の友達を祓ったりして。」
「ううん」と奏多は首を横に振った。
「良いんだ。森君、すごく辛そうだった。成仏した後がどうなるのかはわからないけど、あのまま留まっていても、きっと辛かったと思う。」
「…お前も、成仏したいの?」
意を決した様に穂高が聞いた。
「え?」
意外な言葉に、奏多は目を丸くして穂高を見た。
「俺はお前たちの感覚はわからない。でも…、仕事柄、この世に留まっていて幸せそうな霊はほとんど、見たことない。…お前はどうなんだ…?」
穂高は途切れ途切れに聞いた。
「僕は…。僕はまだこっちにいたいよ。穂高とまだ一緒にいたい。」
「本当に?」
珍しく自信のなさそうな穂高の様子に、奏多は胸が締め付けられるようだった。
「本当だよ。でも、もし僕が成仏したいって言ったら、その時は穂高が僕を祓ってくれるの?」
奏多は、これだけは聞いておきたかった。だって、祓われるなら穂高にしてほしいから。
穂高は目を閉じて、息をついた。少し考えてから、目を開けて奏多をまっすぐにる。
「お前が望むなら。でも、俺がお前を祓うとしたら、俺が死ぬ時だよ。」
「…それって、死ぬまで僕とずっと一緒にいたいってこと?」
奏多はにやりと笑って穂高を見た。
穂高も珍しく口元を緩めて、奏多に笑い返した。
後日、事の顛末を話して聞かせると、早苗はとても悲しそうな顔をした。
「早苗さん?」
「あ、ううん、解決して良かった。二人とも、無事で。」
「うん。そうだね。」
早苗は少しの間黙った。奏多も、早苗の言葉を待つわけでもなく、黙った。
黙ると、森のことが思い出された。幽霊になってからの友人なんて奇妙だが、確かに森は存在していた。なのに、もうこの世のどこにもいないのだ。笑顔だとは分かりにくいあの笑い方も、ボソボソした話し方も、今となっては懐かしかった。せっかく、学校で出来た友達だったのにな…と、森が祓われてから初めて感傷的になった。
「奏多君、私ね、息子がいるの。」
二人して押し黙っていると、早苗が先に口を開いた。
「え、そうなの?」
「うん、…今はもう、小学二年生。私が一緒にいたころは、まだ幼稚園を卒業する前で、小学校入学する前だった。」
早苗は、愛おしくも悲しそうに目を細めた。
「あの子が小学生になるのも、見られなかった。中学生や、高校生になる姿も、きっと見られない。」
「…うん。」
「だから、悲しいな。奏多君や、その森君の話を聞くと、本当に悲しい。ずっと元気でいてほしいのに、どうして無理なんだろうね。私の息子だって、生きていれば、いつ何があるのかも、わからないんだよね。」
「…ごめんね、悲しくさせて。」
早苗は、学生服姿の奏多を見て高校生になった自分の息子の姿を想像していたのだろうか。
「ううん、いいの。」
早苗は、力なく笑った。
足元の、以前穂高がやってきて花束を置いた場所あたりに視線を移す。
「なんで私、あの子を残して死んじゃったんだろう。生きていれば、あの子に何かあった時、守ってあげられるのにね。」
「早苗さんは、事故だったの?」
奏多は、思い切って尋ねた。
早苗は小さくうなずいた。
「ここの道、今は閑散としているけど、以前は車通りが激しくてね。少し行けば国道があるから、通り抜ける車が多かったの。でも、この通り、曲がり角の見晴らしが悪いでしょう。」
早苗はすうと遠い目をして続けた。
「…息子が幼稚園で吐いたって電話があったの。ものすごい熱だって。小さい子にはよくあることだけど、…私、今思えばかなり過保護だったのよ。心細い思いをさせたくなくて、仕事先から自転車に乗ってこの道を急いで通った。」
曲がり角の死角から、いきなり目の前にトラックが現れて…と言って、早苗は言葉を切った。
「一刻も早くあの子に会いたかったのに、まさか二度と会えなくなるなんて思わなかった。」
「…早苗さんは息子さんに会いに行かないの?」
「…行けないの、どこにも。」
「え?」
「…幽霊になってから、ずっとここにいるの。奏多君みたいに好きな人のところに好きなように行けたらいいのにね。」
早苗は、悲しい横顔のまま、やはり目の前の道から目を離さなかった。
穂高の事務所に帰って早苗の話をすると、穂高は最初から何もかもわかっていたかのように平然とした態度だった。
「好きな人のところに好きなように行ける僕が羨ましいって、そう言われた。そう言えば、早苗さんをあのY字路以外で見かけることはなかったけど、そういうことだったんだな」
「…あの人は地縛霊だ。あのY字路に縛られている。」
「地縛霊…」
「おそらくだが、亡くなった時、あのY字路を通った後悔が大きいんじゃないか。そういう思いが鎖になって、あの人を縛っている。」
「鎖…」
「大抵の霊はそうだけどな、物に憑りついたり、場所に縛られたり、人に固執したり。何かこの世に未練があって幽霊になり、その未練を象徴するような物に憑く。…なあ。」
「何?」
穂高は、安楽椅子を動かして傍らに立っていた奏多に近づいた。組んだ足の膝の上に頬杖をついて、上目遣いに奏多を見上げる。
「一つ聞きたいんだけど。」
「何を?」
聞き返しながら、穂高の顔をじっと見る。今は穂高が座って奏多が立っているので、奏多が穂高を見下ろす形になる。背が高い穂高の上目遣いが珍しくて、可愛い。
「お前は何に未練があんの?」
「え?」
「お前が幽霊になった理由って、何?」
奏多は答えようとして、できなくて押し黙った。
「幽霊になったってことは、何かに未練があるんだよな?」
「未練…」
奏多はこのときはじめて、自分が幽霊になってこの世にとどまっている理由を考えた。正確には、思い当たることがいくつもあって纏まらなかった。皆と同じような学校生活が送れなかったこと、病気を拗らせて18歳で亡くなってしまったこと、そして今は、穂高の傍にいたいという思いが強い。
「…考えたこと、なかった、かも。」
「そうか」
穂高は少し期待が外れたような顔をして、奏多の顔を覗き込む体勢をやめて姿勢を戻した。その顔に、奏多の胸がチクリと痛む。いや、幽霊だから実際の痛みはない。でも心が痛い気がした。しかし奏多は、穂高の顔を見て、「思い当たることが多すぎて考えが纏らない」というところまで言い出せなかった。
「あの、穂高…?」
「いや、デリカシーの無いこと聞いて悪かったな。気にするな。」
「…そっか」
穂高は奏多に、どんな答えを期待していたのだろう。奏多になんと言ってほしかったのか。確かに何かの答えを期待したような表情だったのが気になった。でも、そのまま俯いた穂高に、何も聞くことができなかった。
4
氷川黎弦の逝去はお昼のワイドショーでも大きく取り上げられ、日本中の話題となった。亡くなったのは二週間前。ちょうど、黎弦が荒巻霊媒事務所を訪ねてきた日の朝、心臓発作で倒れ、そのまま搬送された病院で亡くなった。その死は、メディアには内々の葬儀や告別式が行われた後で公開された。黎弦に膨大な数の依頼の後任を頼まれた穂高は通夜には行けなかったが、スミレと共に葬儀と告別式には依頼の合間を縫って参列した。
「それにしても黎弦さん…ここにいらした時、やっぱり亡くなってたのね…」
後日、スマホで有名霊媒師、氷川黎弦の訃報を告げるネットニュースを見ながら、スミレは哀しみに沈んだ声で言った。
スミレや穂高は、黎弦が訪ねてきた時、彼がもうこの世の人ではなくなっていることに気が付いていた。
「あの爺さん、音もなく事務所に入ってきたからな。普通はそのベルが鳴るから、気付かないなんてありえない。お前と一緒だ。」
穂高は、訃報のニュースに驚く奏多に向けて言った。奏多はドアを開けなくても部屋に入れるため、事務所のドアに取り付けられたベルが鳴ることはない。確かにあの時も、黎弦は突然部屋の中に現れた。穂高は、その時に気が付いていたのだ。幼い頃からの恩人の死に。
「全く、自分が死んだからってとんでもない量の仕事を押しつけて行きやがって…」
「あら。それで黎弦さんが来たのがもし自分のところじゃなかったら、今ごろ盛大に拗ねてたくせに。」
事務所の来客用のソファに腰掛けてネットニュースを読んでいたスミレが顔を上げる。
穂高はぶつぶつ文句を言ったが、その表情を見て、スミレが言っていることは図星なんだろうな、と奏多は思った。黎弦は穂高たちの祖父の古くからの友人で、小さかった穂高たち姉弟を自分の孫の様に可愛がっていたのだという。子供の頃から霊感があった穂高にとって、その特殊な力との向き合い方を教えたのは実の祖父ではなく黎弦だったのだとスミレから聞いた。荒巻海運創始者の平蔵氏が霊感持ちだという噂は業界では有名な話らしいが、世間では面白可笑しい話のタネになっているだけだ。しかしその実、荒巻家には平蔵氏以前からの先祖の霊感が脈々と受け継がれているのだという。
「昔から私たちのこと気遣ってくださって、とっても良いお爺さんだったのにね、淋しいわ。」
スミレは心底悲しそうだった。
血の繋がりが無くても、大切な人との別れは辛いものだ。奏多はスミレの悲しそうな顔を見て、同じように悲しくなった。
奏多、奏多と自分の名前を呼んで、泣いていた母の姿を思い出す。
「ていうか、店は良いのかよ、いつまで入り浸っているつもりだ。」
眉間に皺を寄せて、穂高はスミレを睨んだ。
「良いじゃない、お昼休憩くらい。一人でいると淋しくなっちゃうの!」
「はあ。店が暇だと大変だなぁ。」
「暇じゃないわよ、休憩時間なの!」
「うるせぇな、人の仕事場に入り浸るなよ」
「うるさいのはどっちよ。私はあんたじゃなくて、可愛い可愛い奏多君の顔を見て癒されに来てるの」
「勝手に奏多で癒やされるな。」
姉弟喧嘩はいつも唐突に始まる。兄弟のいない奏多には慣れない展開なのだが、これもいつも大事にはならずお互い言いたいことを言い合うとそのうちあっさり収束してしまう。傍から見ると、お互い形良く吊り気味な大きな目を一層吊り上がらせて睨み合う美形の姉弟の図は、かなり迫力があるのだが。
この日も二人はしばし睨み合うと、どちらからともなく肩の力を抜いて平静に戻った。兄弟の感覚って不思議だなぁと、奏多はしみじみ思う。
「と、もうこんな時間か。本当に生産性の無い会話にしかならないんだから嫌になっちゃう。お店に戻るわ」
スミレは奏多ににこっと微笑むと、事務所の扉を開けた。カランコロン…と、扉に吊り下がったベルが鳴る。
「あら?」
外に出ようとしたスミレはそこで立ち止まった。
なんだろうと思って、奏多はスミレの後ろからドアの外を覗いた。
「あ…」
そこには、小さな男の子が立っていた。小学校二年生くらいで、その小さな顔には少し大きい眼鏡をかけ、スミレを見上げている。
「こんにちは、お客さん?」
スミレが優しく声をかけたが、男の子は走って店を出て行ってしまった。
「あらら…」
「何だ?」
奏多の後ろに穂高も立って、ドアの外を覗こうとしていた。顔を向けるとすぐ隣に穂高の顔があったので、奏多はそのまま答えた。
「なんか小さいお客さんがいたんだけど、帰っちゃった。」
「小さいお客さん?」
「もう!あんたの顔が怖いからでしょ!」
「は?俺見てもないけど。」
また喧嘩が始まりそうだったので、奏多は慌てて仲裁に入った。
その日、穂高はまた黎弦の遺していった仕事を片付けに外出していた。学校に行っている間に穂高は出かけてしまっていたため、奏多は暇になってしまった。
早苗のところにでも行こうかと、夕方になるのを事務所で待った。早苗はあのY字路に囚われる霊だが、姿を現す時間も、日が傾いて夕方になってからと決まっている。だから、早く行っても遅く行っても会えないのだ。
早苗はあのY字路で亡くなり、ずっとそこにいる。決まって現れる夕方という時間は、恐らくスミレが事故に遭った時刻で、彼女は場所にも時間にも縛られているのだと、穂高が言っていた。夕方のY字路、それがスミレの後悔の象徴なのだ。
奏多は自分のことについて考えた。以前、穂高に訊かれた、自分の未練について。あの時は、考えが上手く纏まらなかった。今自分が執着しているのは紛れもなく穂高だ。けれど、自分が幽霊になった時、何に未練を残してこの世に留まったのかが、上手く言えなかった。幽霊になって学校へ行ったって、ただピアノを弾くことしか出来ない自分は変わらなかった。それどころか、生前は遠巻きに見られて友達が出来ないでいたのに、今は誰にも視えないから、余計に独りぼっちだ。
亡くなってすぐ、奏多は両親の傍にいた。しかし、一人息子を失った両親の落ち込み様は、見ていられなかった。奏多の看病をいつでも出来るように専業主婦をしていた母親は、奏多の写真を見て昼も夜も泣き続けた。会社で重責を負っている父親は、忌引き休暇が明けてすぐ通常勤務に戻らなくては行けず、悲しみを押し殺して仕事をし、帰って母親を慰める姿が見ていて辛かった。
自分は本当に良い両親の元に生まれた。愛されていたと実感する代わりに、両親の傍に居続けることはとてもじゃないが辛くて出来なかった。そうして奏多は家に留まることもできず、学校へ戻ったのだ。授業を聞いたりサボったり、放課後にはピアノを弾いて過ごした。生きていても死んでいてもピアノしかない自分の生活を変えたのは、穂高だった。
あの日の音楽室で、穂高に出会わなかったら…。
奏多は考えを払う様に、首を横に振った。穂高がいなかったら、自分も森の様に淋しさでおかしくなっていたかもしれない、と思った。少なくともあの時穂高がいなかったら、森の道連れになっていただろう。
「早く穂高に会いたい…」
今出かけていて、ここにはいない穂高のことを想った。
カランコロン…
事務所のドアが開いた。
「穂高?」
奏多は穂高が帰ってきたのかと思って扉を振り向いた。しかし、そこにいたのは、長身にサングラス、派手なシャツを来た男だった。
「げ、四谷さん…」
四谷に霊感は無い。奏多の姿が視えない四谷は、ずかずかと事務所に入ってきた。
恐らく、シエルを通る時に穂高の不在はスミレから聞いているのだろう。穂高がいないことには特に反応はなかった。
「全く人使いが荒いんだから、うちの母ちゃんは」
四谷は独り言ち、手に抱えた段ボールを応接用の机に置いた。奏多は気になって、蓋の開いている段ボールの中を覗き込む。中には大根や胡瓜、白菜などの野菜が入っている。「母ちゃん」というのは四谷の母親で、鳳印寺の住職の奥さんだ。つまりは四谷母が、穂高宛の野菜のおすそ分けを四谷に持ってこさせたのだろう。
「重すぎんだよ、たく」
四谷は腰を擦りながら事務所を出ようとして、何かを思い出したように踵を返した。
「そういや、懐かしいモンが出てきたんだった。」
細身のジーンズのポケットから何かを取り出し、穂高のデスクの上に置き、今度こそ事務所を後にした。
「…なんだろ?」
奏多は四谷がデスクに置いていった物を見た。
「え、これって…」
そこには、青いピンバッジが置かれていた。奏多の制服のシャツに付いている赤いピンバッジの色違いだ。
「…何で四谷さんがこれを…?」
夕方になり、奏多はY字路に出かけていった。オレンジ色の空気に包まれ、早苗が立っていた。
「早苗さん、こんにちは」
「こんにちは、奏多君。」
奏多は、早苗と話す時間が好きだった。いつも同じ時間に同じ場所に立っている早苗は聞き役で、いつも話題を持ってくるのは奏多の方だ。だから、以前早苗が話した息子の話や早苗の死因については、知り合って数年になるのにも関わらず、全くの初耳だった。
「…それで、どういうわけか僕が付けてるコレと同じピンバッジを、四谷さんが持ってきたんだ。」
奏多は、自分の来ている制服のシャツに付いている赤いピンバッジを指さした。
「それは一体どういうことなのかしらね。」
「わからない。スミレさんなら知っているかと思ったけど、接客が忙しそうで訊けなかったし。」
「そう、それは残念だね。でも、穂高君が帰ってきたら、訊けば良いんじゃない?」
「うん、そうするつもり。」
会話が途切れ、二人はただ目の前の道を眺めた。早苗は亡くなってからずっとこうやって、自分の未練と向き合ってきたのだろうか。
「…あれ?」
奏多の視界の端に、何かが動いた。
「どうしたの?」と早苗が問う。
「今、小さい子が一人であそこに立っていたような…」
「え?」
道の奥の方に、確かに小さな人影が動いた気がした。しかしそれは一瞬で、すぐに走り去ったのか、既に見えなくなっていた。この道は子供が一人で通るような道ではないから、目についたのだ。
早苗はその人影が気になるようだった。奏多は、一か八かその子を追いかけたが、追いつくことはできなかった。早苗のところに戻ったが、既に日が陰っていて、夕方の時間は終わっていた。
「あ、穂高。帰ってたんだ。」
「ああ」
事務所に戻ると、穂高が先に戻ってきていた。ソファに四肢を投げ出して、完全にくつろいでいる。
「ねえ、穂高。それって…」
奏多は、まず穂高のデスクの上に四谷が置いて行ったピンバッジのことを訪ねたかった。
「あ?」
「これ、この机の上のバッジ、さっき四谷さんが置いて行ったよ。」
「バッジ?」
穂高は、デスクの上のピンバッジに気が付いていなかったらしい。だるそうに体を起こすと、デスクの上を確かめた。
「あ」
「ねえ、それって、僕の高校の制服に付けるバッジだよね?四谷さんが、懐かしいものって言ってたんだけど…」
「あいつ…」
穂高はこめかみに手を当てた。
「それって、…もしかして穂高のなの?」
穂高は、観念したように頷いた。
うすうす予想していたことだったが、奏多は驚きを隠せなかった。
「まさか、同じ高校だったなんて!なんで言ってくれなかったの?」
「別に…わざわざ言うことでもないだろ」
穂高はソファに座りなおした。奏多も、その隣に腰を下ろす。
「ねえ、穂高って、年齢で言うと…」
「…お前の二個下だ。」
「ってことは、在学期間ちょっとだけど被ってるじゃん!うわあ、もしかしたら、学校のどこかですれ違っていたかもしれないってことだよね!すごい!」
奏多は、お互いの年齢差についてはわかっていた。奏多は高校三年生で亡くなり、穂高は今二十五歳。亡くなってから経過しているはずの大体の年数を考えれば、生きていれば、穂高は奏多より年下なのだ。
穂高はどこか恨めしそうに奏多を見ていたが、奏多はそんな視線には気づくことなくただはしゃいだ。そして、高校時代の穂高を見たかったと悔しがった。その様子に、穂高がなぜか笑い出した。
「む、何笑ってんの。僕にこんな大事なこと、秘密にしておいて。」
奏多は頬を膨らませて穂高を見た。
ひとしきり笑った穂高は、奏多の膨らんだ頬にほとんど無意識で手を伸ばした。その手は奏多の頬に触れることはできず、宙を彷徨った。
穂高の顔から、ゆっくりと笑顔が消える。
「…死にたい。」
「え?」
穂高が小さくつぶやいた言葉を、奏多は聞き返した。
「お前に触りたいから、死にたい。」
奏多はその言葉に答える方法がわからなかった。二人はただ、お互いに見つめ合った。
次の日の夕方、穂高が食材の買い出しに行くのに、奏多も付いて行った。
スーパーで買い物をして、Y字路を通りがかる。ちょうど早苗がいる時間だった。早苗はやはり、いつものようにそこに立っていた。
「こんにちは、早苗さん。」
奏多が声をかける。
「こんにちは、奏多君、あら、今日は穂高君も一緒なんだね。」
「どうも。」
穂高は小さく会釈をした。早苗は、ニコニコと奏多と穂高を交互に見た。そして、ニコニコしたまま、目の前を通る道に視線を戻す。
「今日は鶏肉がセールだったから、から揚げするんだってー」
「へえ。穂高君が作るの?」
「そ。穂高はこう見えて料理上手みたいなんだよ。」
「おい。みたい、とは何だ。」
「だって僕は食べられないから、見た目しかわかんないもん」
「…反応に困ること言うなよ」
「そっちが聞いてきたんじゃん」
二人のやり取りに、早苗はくすくすと笑った。
その時だった。
「え、…優君…?」
早苗の目線が、目の前の道路からまたすこし奥の方向に釘付けになった。
「え?」
奏多と穂高も、同じ方向に目を向ける。
「あれ、あの子…。」
遠目だが、確かに、前に奏多が見かけた子供だった。
「優君って、もしかして早苗さんの…」
奏多が言いかけると同時に、穂高が走り出していた。
「穂高!」
穂高は走るのが速い。奏多は慌てて後を追った。
穂高はその子供に近づいたところで、スピードを落として、優しく声をかけた。
「ねえ、そこの君、ちょっと教えてほしいんだけど。」
まるでうたのお兄さんかのような優しく爽やかな笑顔は、さすがだ。
穂高は、笑顔のまま子供の目線に合わせてしゃがんだ。
「君、優君?」
「…なんで僕の名前知っているの?」
名前を呼ばれた優は、心底驚いた様子で、目を大きくして穂高の顔を見た。
「君のお母さん、早苗さんから聞いたんだ。」
「ママのお友達なの?」
「うん、そんなところかな。」
その時、優の名前を呼ぶ男の声がした。
「優!」
「あ、パパ。」
優の父親らしいその男は、穂高を見るなり険しい顔をして近づいて来た。
「うちの息子に、何か御用ですか?」
優の父親は、もともとは優しそうな人相に思えたが、今は眉間に皺を寄せ、不審感をあらわにしている。その形相に、奏多は焦った。穂高のことを不審者だと思っているのは明らかだ。
対して穂高は、よそ行きの柔和な笑顔を崩さないまま、そっと立ち上がった。長身な穂高を、優の父親が下から睨みつける。
「私、こういう者です。」
穂高は優の父親に向かって、名刺を差し出した。「荒巻霊媒事務所 荒巻穂高」と書かれたシンプルな名刺だ。奏多は心配になった。ただでさえ、今穂高は知らない小学生に声をかけている不審者扱いだ。霊媒師、という職業は一体身元証明としてどこまで通用するのだろう。
案の定、優の父親の疑心は深まってしまったようだった。
「霊媒…」
気持ち悪そうに顔をしかめる。だが、その表情は穂高の名前を読み上げた瞬間に変化した。
「荒巻って、まさか。」
「何でしょう。」
「あの、失礼ですが、お父様のお名前は何と?」
「…荒巻柊一です。」
優の父親は態度を一変させ、穂高の話を聞く気になったようだった。それもそのはずで、彼は穂高の父、柊一が経営する荒巻海運の子会社、荒巻海洋保険サービスの社員だったのだ。社内では、創始者一族の霊感について世間よりかなり真実味を持って語られているらしく、その噂と穂高の職業、そして名前が、点と点が繋がるように、彼を納得させたのだった。
立ち話を続けるわけにもいかず、一行は荒巻霊媒事務所に移動した。事務所に入るにはシエルを通る必要があるため、そこで優の姿を見たスミレは、目を丸くした。
「あれ、君は…」
「お姉さん、この間はごめんなさい。」
優はスミレにぺこりと頭を下げた。以前事務所のドアの前でスミレと対峙し、走って逃げ帰った時のことを言っているのだ。スミレは、「全然良いよ」と言ってにっこりと笑った。
「つまり、早苗はまだあの場所に留まっているのですか?」
事務所のソファに座った優の父親は、まだ半信半疑な様子ではあるものの、穂高の話を素直に聞いた。
「ええ、優君の話も、早苗さんからお聞きしました。熱を出した優君を迎えに行く途中だったとか。」
「…その通りです。そんなことは家族しか知らない。…本当に早苗は、幽霊になってこの世にまだいるんですね。」
優の父親は、開けっ放しになっているドアの向こうで、スミレと一緒に花を見ておしゃべりしている優の姿を見つめた。
「優にそのことを話してしまったのは僕です。あの子が一年生になった頃、ママはなんで死んじゃったの?と聞かれました。私は、馬鹿正直に話してしまった。熱が出た優を迎えに行く途中に、事故に遭って亡くなったことを。親として、熱が出た子供を迎えに行くなんて当然でしょう。そう思って…、それを聞いたあの子が、母親が死んだのは自分のせいだと思うなんて。そんなこと、少し考えればわかることなのに…。あの子は母親の墓参りに行くのを嫌がるようになりました。ママは僕のせいで死んだから、ママはきっと怒っているからって。そんなことないと何度言い聞かせてもダメで…。」
話し声にはだんだんと涙の気配が滲んできた。穂高の隣で話を聞いていた奏多は、胸が締め付けられている様だった。この人も、生きながら、後悔を抱えているのだ。
「あの、優君と一緒に早苗さんのところに行ってみませんか。」
「早苗のところに?」
「あのY字路に。早苗さんがあのY字路に留まって待っているのは、おそらく、あなたたちお二人です。」
奏多は窓の外を見た。
日が傾きだし、もうすぐ夕方になろうとしている。
早苗は優の顔を見るなり、泣き崩れた。いつも穏やかな顔で佇んでいる早苗が、こんなに感情をあらわにするのは初めてだった。
「優君…」
早苗は嗚咽の間に優の名前を呼んだ。
「…ママ?」
優には早苗の声は聞こえない。
けれど、優は虚空に向かって母親を呼んだ。
早苗は、優の頭に手を伸ばした。
「優君、大きくなったね」
優の頭にそっと手を置く。その瞬間、優は不思議そうな顔をして、穂高を見上げた。穂高は、何も言わずに頷いた。その顔を見て、優の顔がぱっと明るくなる。
「パパ、本当にママはここにいるよ!今、僕の頭を撫でたよ!ママ、僕、二年生になった!ママの名前の漢字も書けるし、時計もわかるよ!毎日楽しいよ!」
矢継ぎ早に話す優の前にしゃがみこんで、早苗は泣きながら「うん、うん」と頷いた。優の父親は、最初は何が何だかわからない様子だったが、そのうち目に涙を溜めて優の様子を見守っていた。
その日、夕日が見えなくなるまで、早苗たち家族は確かに、Y字路で家族の時間を過ごした。
早苗は夜と同時に、姿を消した。
次の日穂高は午前の依頼人との約束の前に、早苗に最後の献花をしにY字路に行った。
平日だったから、奏多はいつも通り学校へ行って授業を聞いていた。窓から空を眺めながら、早苗のことを考えた。
思えば、早苗とは長い付き合いになっていた。その間、早苗はずっと二人を待っていたのだ。家族だけの間に水を差すわけにはいかず、あの日を最後に消えてしまう早苗に奏多は声もかけられないまま、Y字路に指すオレンジの光は消えてしまった。
寂しいな、と思った。
早苗との思い出に浸りたくて、奏多は放課後、Y字路に立ち寄った。
まだ夕方というには少し早い時間だったが、いつも早苗の隣に立っていた位置に今日も立つ。足元には、今朝穂高が置いたらしい、シエルの花束があった。
何をしていたわけでもない。ただここに立ち尽くして、つかの間のおしゃべりをしていただけだ。けれど、早苗と過ごした時間は大切だった。今思えば、早苗は奏多の…
「最後の挨拶、しに来てくれたの?」
気づくと隣に早苗が立っていた。
「早苗さん!どうして。」
「ふふ。だって、大事なお友達に挨拶もせずに、行くわけにはいかないでしょ。」
「友達?」
「うん、友達。」
嬉しかった。早苗はやはり、奏多の友達だったのだ。
「僕、友達いたのか。」
「奏多君、今までありがとうね。奏多君と出会えて、良かった。」
「うん、僕もだよ。」
「私たち、もし生きている人同士だったら、きっとこんなふうに隣に並んでおしゃべりしたり、きっとあり得なかったよね。」
「うん、高校生と主婦だもんね。」
二人で笑った。
「奏多君、私、奏多君と穂高君のこと、応援しているよ。たとえ幽霊と生きている人だとしても、穂高君には奏多君が見えるし、…大切な人と一緒に居られるって、とても幸せなことだから。たくさん一緒に笑って、同じ時間を過ごして、たくさん愛を伝えてほしい。」
「うん。」
「いつまでも、二人の幸せを願っているからね。」
「うん。早苗さん、今まで、ありがとう。」
早苗はふんわりと、奏多に笑いかけた。そして、夕日が沈む前に、この世を後にした。
*
早苗を見送った後、奏多は急いで荒巻霊媒事務所に向かった。試したいことがあったのだ。奏多は、優の頭に手を置いた、早苗の姿を思い出していた。
いつものように、音も無く事務所に入り、安楽椅子に座る穂高を見つける。
「穂高!」
名前を呼ぶと、穂高が奏多に気が付いて顔を上げた。
「おかえり、奏多。」
奏多は穂高に近づいて、腰を屈めた。
急に縮まった顔の距離に、穂高が驚いて固まる。奏多はお構いなしに、穂高の唇に口付けた。
そのキスには、音も温度も無かった。
唇を離して、穂高の顔を見つめる。
穂高は一瞬何が起こったのかわからない様子で、奏多と見つめ合った。
どちらからともなく、笑みが零れた。
「穂高、僕、穂高が好きだよ。」
穂高は、愛おしそうに目を細めて奏多を見た。
「俺も。」
5
柏木奏多は高校生だった。そして、彼が3年生になった春、同じ高校に荒巻穂高が入学した。
入学して数日、渡り廊下ですれ違った奏多を初めて見たとき、穂高は息を飲んだ。あんなに綺麗な顔をした男を見たのは初めてだったからだ。
「なあ、あの人って…」
その時一緒にいたクラスメイトに、思わず訪ねた。
「ん?あー、3年の柏木先輩じゃね?結構有名だよ、あの人。」
「…そうなの?」
「うん。めちゃくちゃピアノがうまくて、いっぱい賞を取ってんだって、姉ちゃんが言ってた。」
おしゃべりなこのクラスメイトは奏多と同じ学年に姉がいるらしく、奏多の校内での評判を穂高に聞かせた。おかげで穂高は、奏多の名前、ピアノの腕前、学校を休みがちなこと、校内では高嶺の花の様な扱いをされていることまで知った。
「あんなイケメンで、家も金持ちらしいぜ。人生勝ち組って感じだなー」
「…」
“人生勝ち組”…?そうなのだろうか。
穂高は、すれ違った時の整った横顔が、なんだかひどく淋しそうに見えたのを思い出していた。
「よっ、荒巻クン。君、オカ研に入らないか?」
高校入学後半月も経たない内に、妙な先輩に絡まれだした。何やらオカルト研究会という非公認の部活動をごく少数の有志で立ち上げ、そこに穂高をしつこく誘ってくるのだ。なんでも荒巻海運の創始者が霊感を持っているらしいという胡散臭い噂を前々から聞きつけていて、その孫が偶然にも入学してきたのをこれ幸いと捉えているらしかった。
「前にも言いましたけど、僕、霊感とか無いので。」
「えー本当にぃ?おじいちゃまには霊感があるらしいじゃん。孫の君にも受け継がれているんじゃないの~?」
「さあ。祖父にそんな力があるかどうかも、僕は知りませんので。」
霊感があることを知られて得をしたことなど皆無に等しかった。だから最初のうちは笑顔を作って、知らぬ存ぜぬで断り続けていたのだ。しかし、この3年生―――四谷は非常にしつこかった。
ある日の昼休み、渡り廊下から奏多を見つけた穂高は、思わず足を止めて窓から下を通っていく奏多の後ろ姿を見ていた。
奏多は学校を休みがちだと聞いていた。確かに毎日の様に視界の端で奏多を探しているのに、見かける機会はかなり少なかった。
「あ、荒巻クン、こんなところにいた~。も~探したんだけどお」
…こいつは頼んでもないのに、毎日会いに来るというのに。
「そろそろ決心してくれた?ぜひとも僕たちオカ研に…」
「入りません。」
「そう言うと思った!諦めないよ僕は。」
「諦めてください、頼むから。」
もう付きまとわれて2週間ほど経っていた。いい加減笑顔で応対することも面倒になってきて、真顔で返すようになっていた。
四谷は全くのノーダメージという感じで、穂高の隣に立って窓の外を見た。
「何見てんの?もしかして何かいる?」
幽霊でも見ていると思ったのか、いかにもわくわくした様子で穂高の目線を追う四谷が、去っていく奏多の後ろ姿に目を留めた。
「あ、柏木だ。珍しい。今日は学校来てたんだ。」
「え?四谷さん、あの人と知り合いなの?」
穂高は、思わず目を丸くして四谷を見た。
「当たり前じゃん、同級生なんだから。去年同じクラスだったよ。」
「そうなの、話したことあんの?」
「ない」
「何だよ…」
少しがっかりした。あの人はどんな風に話すのか、知りたかった。どんな声で、どんなことに興味があって、どんな話を聞いて笑うのか興味があったのに。
「でも、学校に来られているってことは、体調が良いんだな。良かった良かった。」
四谷は穂高の様子にはお構いなしで、腕組みしてうんうんと頷いた。
「体調?」
「あれ、知らない?あいつめっちゃ体弱いんだよ。欠席理由のほとんどが病欠だし。」
知っているわけがない。でも、病弱なのは初めて知る情報だった。最初に穂高に奏多のことを教えたクラスメイトは、奏多が学校を休みがちだという話はしていたが、理由までは知らないらしかった。
「同じクラスだった時もかなりレアキャラだったなあ。俺は会えたらラッキーくらいに思っていたね、まさにツチノコだ。」
「何馬鹿なこと言ってんだ」
呆れた穂高のツッコミに、四谷はケラケラ笑った。こいつ、本当に変な奴だ…と四谷を睨んでから、また下に目線を戻したが、もう奏多は見えなくなっていた。
それから、ごくごくたまに奏多を見かけた。そして奏多を見かけた日は、下校時に音楽室の前を通るのが習慣になっていた。教室を覗くことももちろん話しかけることもなく、ただ、奏多がピアノを弾いているか確認するだけ。奏多は登校してきた日に、たまにだが音楽室でピアノを弾いていた。おそらくそういう日は体調が良好な日で、校内に響く美しいピアノの音を聞くと、たとえ姿が見られなくても奏多が比較的元気なことがわかって嬉しかった。
「聞いた?3年の柏木先輩、亡くなったらしい。」
その知らせは、8月のある日突然届いた。昼過ぎから分厚い雲が空を覆い、夕方には豪雨が降った日だった。
朝から何となく校内が騒然としていて、落ち着きがなかった。
穂高は騒ぎの原因を誰にも追及しなかったが、学校の高嶺の花だった柏木先輩の訃報は校内の注目の的で、皆がこの話をしていたために自然と耳に入ってきた。最初は何の話をしているのかよくわからなかったが、あまりにも周りがその話で持ちきりで、嫌でも、彼らの言葉の意味を理解しなければならなかった。少し前から奏多は持病が悪化して、ガッペイショウというやつを起こして入院していたのだと、クラスメイト達が話しているのを聞いた。―――ジャア、病死ッテコト?―――ソウミタイ…。―――カナシイネ。クラスメイト達の声はどんどん遠くなっていった。
柏木先輩が亡くなった。
結局その日は一日中、上の空だった。昔から幽霊が見えて、小さいときは生きている存在との区別がつかずお化けと遊んでいた。だからその手の話には人より馴染みがあるはずなのに、奏多の死は、どこか自分がいる世界とは違うところで起こった話の様だった。放課後になって、靴を履いて昇降口を出た。ぼーっとした頭のまま歩いていると、後ろから誰かに肩を掴まれた。振り向くと、四谷が立っていて、何度も呼んだのに、的なことを言っていた。その時初めて、自分が土砂降りの中傘もささずに歩いていたことに気付いた。
半年ほど経って、穂高はオカ研に入部した。四谷の熱量に押されたわけではなく、四谷が、オカ研で降霊会に挑戦すると言ったからだ。奏多が亡くなってから、もしかしたら、と校内で奏多を探すクセがついていた。もしかしたら、自分だけは会えるかもしれない。視界にあの淋しそうな綺麗な横顔が映らないか、淡い期待を抱いていた。しかし、そんな期待は徐々に打ち砕かれていた。そもそも、奏多が霊としてこの世を彷徨っている保証は無かった。だから、もしかしたらと降霊会に参加した。素人が寄ってたかって怪しげな儀式をやったって効果は無いだろうことは明らかだった。でも、そこに自分が参加したら、或いは…。
「…どうだ?穂高、どなたかいらっしゃったか?」
手作りのよくわからない黒いマントの下から、興奮した様子で四谷が訪ねた。ほかの参加者たちも、期待を込めた目で穂高を見た。窓に暗幕を貼った暗い仮の部室の中で、四谷が本で見たという下手な魔法陣が書かれた紙を、皆で囲んで座っていた。穂高以外の各々が、四谷同様、よくわからない黒いマントを着ている。
「何も。」
穂高は首を横に振った。この降霊で来た霊は一体もいない。そこの隅で何をするわけでもなく座り込んでこっちを見ている男は、四谷に引きずられて初めてこの仮部室に来た時からずっといるのでノーカウントだろう。
「やっぱダメか~」
皆落脱力して姿勢を崩した。魔法陣の書き方が間違っているのかもとか、必要な詠唱を飛ばしたのかもとか、各々落胆した様子で話し始める中、内心一番落胆していたのは穂高だった。家族の中でもひと際霊感が強くて、中学生の時、除霊の能力があることに気が付いた。そんな自分だから、もしかしたら、と思っていた。けれど、残念ながら自分には、霊をあちらに追いやる力はあっても、こちらに呼び戻す力はないのだ。
降霊会は失敗に終わったが、穂高は何となくオカ研に籍を置いていた。籍、と言っても非公式の部活動だったし、四谷達が卒業するまで彼らに仲間面されるのをいちいち拒否する体力が惜しかっただけだった。
大学に入り、四谷に再会した。それなりの偏差値の大学だったので驚いたが、四谷は意外にも勉強ができるようだった。なぜそんなに優秀なのに、あんな馬鹿なことに時間を使うんだろうか。しかも聞いてみると、大学を選んだ理由も、オカルトサークルなるものが存在しているから、という呆れた話だった。
「もちろんオカサー入るよね?穂高キュン」
「…入らない。」
「なーんでだよー」
四谷は渋ったものの、頑なな穂高を高校時代ほどしつこくは誘わなかった。代わりというわけではないが二人はそれなりに気心が知れた仲として、穂高が二十歳になってからはたまに飲みに行くようになった。
大学を卒業する少し前から、穂高は除霊の仕事を始めていた。と言っても、祖父の知り合いに頼まれた仕事をこなし、お小遣いをもらうような形だった。それを稼業にすることに決め、父親の所有する物件に事務所を構えることにした。父親の持ちビルに入ったのは、学生時代からの依頼人のツテでそれなりに収入があったとはいえ、駆け出しの仕事だったし、内容が内容なだけあって、テナントとして入れる物件が見つからなかったからだった。2年先に大学を卒業していた四谷は、外資系の商社に勤めた後、会社員が肌に合わないと言っていきなり退職し、バーを経営し始めた。四谷が会社員としてそれなりの成績を収めていたことを知っていた穂高からしてみれば勿体ない気がしたが、バーの店主は確かに四谷の適職だったようで、すぐに杞憂だと気づいた。四谷のところには学生時代のオカルト趣味繋がりの友人たちも顔を見せ、身の回りのその手の噂や相談ごとを酒の肴にしていた。四谷はその中から、これは、と思った話を穂高のところにまわし、依頼獲得に貢献するようになった。
依頼人が依頼人を呼び、四谷の持ってくる依頼も併せて徐々に安定して仕事を獲れるようになった頃だった。
「俺たちのいた高校なんだけどな、そこで今教師やっている同級生がいるんだけど。この前、お前の事務所の話を聞いてうちに来たんだよ。出るんだと。幽霊。」
「はあ」
幽霊なら、いくらでもいたけど。とは、四谷が喜ぶので言わない。
なんで自分たちがいたときには出ないんだ、幽霊、とぼやきながら、四谷は後日その同級生を依頼人として連れてきた。
依頼人はかつて穂高の2年上の学年であの高校に通い、最近教師として赴任して来たという。彼の話によると、日はまばらだが、暗くなった放課後の誰もいない音楽室で、ピアノの音がするのだという。
よくある学校の怪談話じゃないのか。額に飾られている絵の中からベートーヴェンが抜け出してきて、夜な夜な演奏をするとか、そういう。半ば呆れて話を聞いていたが、正式に依頼として受けることにした。
そして、あの日。穂高は調査のために入った校内で、知っているピアノの調べを耳にした。
一瞬で高校生の頃の記憶がよみがえり、思わず音楽室に向かって駆け出していた。近づくにつれて、ピアノの音がはっきりしてくる。この演奏をする人を知っている。高校生には見合わないような腕前で、しなやかに奏でられるこの音。
走って音楽室にたどり着くと、扉の前で呼吸を整えた。未だ鳴り続けるピアノの音が、心臓の動きを掻き立てるようだった。
本当にあの人なのか。
でも、どうして今?高校生のころ、あの人が、自分にだけは見える形でまたどこかに現れるんじゃないか、そう期待していた淡い日々を思い出す。そして降霊まで挑戦したのに、結局ただの一度も、あの人に会うことはできなかった苦い気持ちを思い出す。四谷は羨ましがるが、幽霊が見えたって、得したことはほとんど無い。せっかく好きな人に自分だけが会えたかもしれないのに、好きな人が霊にならなかったから、何の意味もなかった。
…なのに今更、この扉の向こうにいるっていうのか…?
落ち着いた呼吸とは反対に、ピアノに交じって大きな音を立てる心臓。
穂高は初めて、奏多のいる音楽室の扉を開けた。高校時代、ただの一度も開けなかった扉だ。
扉を開けると、窓から入って来た桜が、外からの光を受けてちらちらと光っていた。
ピアノの音は止み、静けさの中に、あの人がこちらを振り返っていた。あの時と変わらない、穂高が一目惚れしたあの頃のままの姿で。
「…誰?」
穂高に聞こえているとわかっているのかいないのか、奏多は独り言のようにつぶやいた。
「…俺は、荒巻穂高。」
穂高が答えると、奏多は目を見開いて、すごい勢いで椅子から立ち上がった。
「僕が、見えるの?」
初めてだ。初めて、奏多の目に穂高が移った。
奏多は立ち上がった勢いのまま穂高に近づいて来た。対して穂高は、想い人が喜びに顔を輝かせ、かつては想像もできなかったほどの距離に近づいて来たことに動揺して、一歩後ずさった。
「僕が見えるんだね」
穂高は言葉に詰まって、こくりと頷いた。
初めて聞く声だ。姿はあんなに目で追っていたのに。いや、正面からちゃんと顔を見るのだって初めてだ。横顔や後ろ姿は、網膜に焼き付いているのに。
「初めてだ。僕が見えるなんて。あなたはここで何をしているの?制服じゃないから、先生?僕は最近はずっと学校にいるけど、今年赴任した先生の中にいたかなあ。荒巻先生は、何の先生なの?」
奏多は矢継ぎ早にしゃべった。正直、憧れた先輩はもっと大人びて物静かな印象で、穂高にとっては少し意外だった。
「…違う、先生じゃない」
「え?」
喉から言葉を捻りだすと、案外ちゃんと喋れた。
「俺は教師じゃなくて、霊媒師だ。今日は依頼の調査でここに来た。」
「え…」
奏多は大きな目をさらに大きくして穂高を見つめた。一瞬、穂高はしまった、と思った。目の前にいる想い人は、今はもう幽霊なのだ。そしてどうやら、自身が幽霊である自覚もある様だ。知識が無くても、霊媒師が何をするのか、何となくイメージが付くはずだ。奏多の中で、穂高に突然祓われる想像が成り立ったのではないかと心配になった。これまでだって、強制的に除霊されたくないと抵抗した霊はいる。奏多にとっての自分が、まるで敵の様な扱いになるのは避けたかった。
「じゃあ、霊を見たり祓ったりするんだね」
気まずく思いながら目線を合わせると、奏多はさっきまでと同じキラキラした目のまま穂高を見ていた。自分が除霊される対象だと思っていないのか、自分が見える人間に会えた興奮でそこまで思い至っていないのか、なんにせよ、奏多は気にしていないようだった。
「じゃあ、もしかして、ここに幽霊を探しに来たってこと?」
穂高はすぐには答えられなかった。今回の依頼で探しに来たのは、誰もいない教室でピアノを弾いているという幽霊、つまりは奏多のことだった。いや、まさかそれが奏多だとは思いもよらなかったが。
いつもなら、依頼にもよるが大抵は霊を祓って任務完了としている。依頼人が困っている霊障を取り除くのだ。でも今回は…。
―――俺はこの人を除霊しないといけないのか…?
穂高の困惑を、奏多は違う意味にとったようだった。
「あの、ごめんなさい、僕…。誰かと話すの久しぶりで。いきなり話しまくってしまって。」
奏多がしょんぼりと俯いた顔を見て、穂高は胸が詰まった。
「いや、いいんだ。その…、君、名前は?」
「僕?僕は」
―――柏木奏多
「柏木奏多」
自分の心の声と、奏多の声が重なった。
この人を祓ったりなんかしない。
要は、霊障を取り除けば良いのだ。自分が奏多を引き取ることに決めた。
奏多が場所に縛られるいわゆる地縛霊でないことは、うすうすわかっていた。地縛霊なら、亡くなってすぐに今いるこの学校に縛られたはずだし、もしそうなら穂高に見つけられないわけがなかった。奏多が何に未練があってこの世にいるのかはわからなかったが、興味の対象が自分になれば、きっと憑いて来るだろう。だから、穂高は奏多の興味をそそる話し方をして、自分の仕事について教えた。狙い通り、奏多は霊媒師の仕事に興味津々で、頻繁に穂高のところに現れるようになった。
奏多を自分に憑いて来させるつもりだったのに、穂高の中には高校生のころと同じか、それ以上の気持ちが湧き上がってきていた。
ある日、来客対応に疲れて事務所でうたた寝している間に、奏多がいなくなっていたことがあった。事務所のドアにはベルが取り付けられているため人間の出入りがあればわかるが、奏多は別だ。
音もなく現れ、音もなくいなくなる。奏多は生前の行動範囲が狭かったせいか、事務所にいない時は、大抵は学校にいるか、町内でも少し探せば見つかるところにいた。でも、奏多が何に執着しているのかわからない穂高にとって、奏多が突然いなくなることは不安でしかなかった。ある日突然、自分の知らないところで成仏してしまうかもしれないのだ。もう、突然二度と会えなくなるのは嫌だった。
かつては校内で見られただけで満足していたのに、今となっては、奏多が傍にいないと不安だった。
その日も、すこし事務所から離れたところにあるY字路に奏多はいた。遠目に奏多の姿を捉えて、ほっと胸を撫でおろす。奏多はY字路に毎日佇んでいる早苗という女の霊と、よくそこで立ち話をしていた。Y字路に女性が一人、何もせずただ道路を見つめて立っている。その隣には、学生服を着た奏多。見える穂高には奇妙な光景だが、二人が見えない人間たちはその前をまばらに通り過ぎていく。二人も、道行く人々のことはいちいち目に留めず、何やら楽しそうに話している。その姿を見て、穂高は顔をしかめた。なぜ自分だけがこうなのだろう。見える人間より見えない人間の方が圧倒的に多いこの世界で、奏多の姿を捉えられる自分は特別だ。自分にだけ、奏多が見えている。だからほとんどの場所で、奏多を独り占めできる。けれど、相手が見える人間だったり、幽霊だったりすると話が変わる。突然奏多が穂高だけのものではなくなる感覚に陥るのだ。淋しそうな顔も、楽しそうな顔も、自分だけが見ていたい。こんなことを考えているのは、きっと穂高のほうだけだ。
穂高はぎゅっとこぶしを握り締めて、事務所に踵を返した。姉、スミレが営む花屋「シエル」に行って、小さなブーケを作ってもらう。スミレは何も聞かずに、愛らしいブーケを作ってくれた。花があまり好きではない穂高が花を買うのは、誰かへの献花であるとわかっているのだ。穂高は早苗に手向けるブーケを片手に、再びY字路に向かった。
そんなに時間はかかっていないため、奏多はまだY字路にいた。早苗の隣に立って話し込んでいる。穂高が近づいても二人とも気が付かず、近づくに連れて二人の話し声も聞こえてきた。
「早苗さんもきれいだよ」
「ふふ、どうもありがとう」
「ほんとなのに」
―――何の話をしているんだ。
早苗に「きれいだ」という奏多の言葉に、一気に気分が悪くなった。早苗がきれいなのか、奏多にとっては。確かに早苗は一般的に見て素朴で愛らしい女性だったが、それとこれとは話が別だ。奏多がもし、早苗を好きになったらどうなるのだろう。自分以外に興味を持ってほしくないのに、幽霊である早苗を好きになってしまったら?早苗が消えたら、奏多まで消えてしまう。
「お前はいつもこんなところで女性を口説いてんのか」
この人は俺の。そんな幼稚な気持ちばかり膨らんでいく。
穂高には、仕事人間だった祖父の代わりに、まるで本物の孫の様に可愛がってくれた人がいた。その人は、氷川黎弦。テレビや雑誌に取り上げられる霊媒師で、何十年も活躍している人だった。小さい頃から霊感があったスミレや穂高は、その能力との付き合い方を黎弦から教わった。特に穂高は幼い頃は霊とばかり遊ぶような子供だったため、黎弦からの指導は役に立った。奏多や早苗の様に無害な霊は沢山いるが、そうではない場合、かなり危険な目に合うからだ。そういった霊との付き合い方を黎弦は教えてくれ、一族内でも力の強い穂高に除霊の力があることに最初に気が付いたのも黎弦だった。
そんな黎弦が、霊となって目の前に現れた。
荒巻霊媒事務所のドアにはベルが吊り下げられており、誰かが来たら必ず気付く。にも関わらず、黎弦は奏多がいつもそうであるように、音もなく部屋の中に現れたのだ。
「爺さん、死んじゃったのか?」
黎弦が奏多を見るなり除霊しようとしたため、スミレに目配せして奏多を退出させた後、穂高は単刀直入に尋ねた。
「ああ、そうらしいねエ」
黎弦は、何の気なしに答えた。
「じゃあなんでこんなとこに来てんだよ。あんたのことだから、長くこの世に留まる気はないんだろう。家族に会いに行くなら、今のうちじゃないのか。」
「会いに行ったって視えもしないのに、どうするってんだい。あんたに遺言託した方がよっぽど生産的じゃないのサ。」
黎弦の妻や子供達には霊感が無い。荒巻家の様に、脈々と霊感が受け継がれている家系ばかりではないのだ。
「…死んでも偏屈爺だな。」
黎弦は鼻で笑った。
「もちろん、あんたんとこが終わったら顔くらい見に行くヨ。」
「あ、そ。」
「それより何だい、あれは。あんた何でまた霊なんかと仲良しこよししてんのサ。」
黎弦は、穂高が奏多と仲良くしているのが気に入らないらしかった。それもそうで、黎弦にとっては、祓う側と祓われる側の存在は相容れない者同士なのだ。穂高にとっても、奏多に再会するまではそうだった。子供の頃、何も知らずに幽霊と遊んでいた穂高に、その価値観を教えたのは黎弦だ。
「あのさ、あいつに手出したら俺、いくらあんたでも許さないから。」
「わかったってば、うるさい子だねエ。」
「それで、今日はどんな用で来たの?」
「私の本読んだかい」
「読んだ。」
「どうだった?」
「最後の三行だけ面白かった。」
「そうかい」
黎弦は穂高の答えに満足したようだった。
「手紙に書いただろう、本の感想聞きに行くヨって。」
穂高はわざと大きなため息をついた。
「あのさ、郵送の時間を考えてよ。あの本昨日ここに着いたから、一日で読んだんだぞ。無駄に長い本書きやがって。」
「それが遺作になるんだから、長くてちょうどいいじゃないか。」
「そういうもんかな」
「そうだよ。」
他愛のない話をして、いつものように憎まれ口を叩き合って、黎弦は、自身が引き受けていた大量の依頼を穂高に託して行った。その量に辟易したが、世話になったことは確かだったので、最期の置き土産を断る選択肢は無かった。
「じゃ、ここいらでお暇するヨ。」
ソファから腰を上げた黎弦に、穂高は最後に質問した。
「あのさ、俺が死ぬまで、消えてほしくない人がいるんだ。そういう時は、どうしたら良い?」
「なあに、私は何を言われても行くヨ。」
「爺さんのことじゃねえよ。」
穂高が呆れたように言うと、黎弦はその日初めて、肩を揺すって笑った。
「わっかているヨ、あの幽霊のことだろう。何あんた、幽霊なんかに恋してんのかい。」
「…ほっとけ。」
「昔から偏屈な餓鬼だったけど、あんた相変わらず面白い子だねエ。」
黎弦は目を細めて穂高の顔を見上げた。恰幅の良い黎弦は、幼い頃から穂高にとっていつまでも大きな人というイメージだったが、今こうして向かい合って立つと、身長はとっくに穂高が追い越していることに改めて気付く。
「そうねエ。幽霊をこの世に留まらせようとしたことなんて無いんだけど。…やっぱり自分に憑かせるしかないだろうねエ。」
「自分に憑かせるには、どうしたら良いの?」
黎弦は、うーんと唸って首を捻った。
「あの子は何に未練があって幽霊になったのか、何に執着してこの世に留まっているのか、それを知りたいところだね。あんたもそこは考え付いているだろうけど、その未練や執着の対象があんたになれば、あんたが存在する限りは、消えたりしないだろうサ。」
「俺に執着しているかどうかはどうやったらわかる?」
「あんたのいるところに現れるようになるだろうサ。あの子の行動範囲じゃなくても、あんたさえいれば、見つけ出して傍にいるようになる。そうしたら、あんたに憑いているって、言えるんじゃないの。」
「そうか、わかった。」
穂高は奏多の行動範囲から出ることはほとんど無い。仕事も生活も、ほとんど事務所で事足りるからだ。それに、奏多は学校以外は穂高のところに入り浸っていて、離れる機会はそうそう無い。その時が来たらわかるだろうからと、穂高は気長に構える気でいた。
しかし、気が付いた。黎弦から引き継がれた大量の依頼の中には、金持ちの別荘やリゾートホテルなど、そもそも東京を離れなければいけない現場もたくさんある。ちょうど奏多の行動範囲から逸脱する機会だった。
穂高はわざと数日事務所を空け、地方の依頼を片付けに遠出した。高齢の黎弦は各依頼人との契約書に、自分が依頼遂行不可能になった時には代理人として荒巻穂高を遣わすという内容を盛り込んでいたため、どの現場でもスムーズに動けた。代理人の件は、穂高に断りなどなく勝手に決められていたのだが、あの偏屈爺め、と苦笑いで済ました。
数日の間に黎弦の葬儀と告別式があったため、穂高は東京と地方を往復した。通夜は、亡くなった日に本人と話し込んでいたため、時間が間に合わず欠席した。もともと血縁者だけで執り行うつもりだったということで、通夜に行けなかったことはお咎め無しだった。
奏多が現れるかと期待したが、奏多の姿はどこに行っても見えなかった。
葬儀と告別式にはスミレも参列していたので、奏多の様子を聞くことができた。
「あんたがいなくて淋しそうよ、奏多君。ギリギリ東京から通える距離なら、毎回帰ってくれば良いのに。」
「…淋しそうならなんで会いに来ないんだ?」
「場所もわからないのにどうやって会いに行くのよ」
黎弦との会話を知らないスミレは、呆れたように言った。
「…ま、私から言っといたから。」
「何を?」
「黎弦さんのお客さんは大物ばっかりだから、厳重な守秘義務があるって、あんたが言ったんじゃない。だから私も場所は知らないわけだし。奏多君にもそう言ったの。ちゃんと理解してくれて、おとなしくあんたの帰りを待っているから安心しなさい。」
「余計なことを…」
「え、何?」
それでは奏多が穂高に憑いているのかいないのか、わからないではないか。しかし穂高はスミレを睨んだが、何も言わなかった。
何となく不安だったのだ。いつまで経っても奏多が現れないのは、自分に憑いていないからではないか?そんな考えを否定する材料が、一つできたということだった。
久しぶりに事務所に帰った穂高は、奏多の学校で何か事件が起こっていることを知った。奏多の学校で飛び降り事件が発生したことは聞いていた。しかし、その事件が尾を引いていることは、奏多と依頼人の話で知った。
穂高は奏多とともに、学校へ調査に出向いた。穂高が卒業し、奏多が卒業できず今も通い続けている場所だった。そして、奏多を初めて見かけ、毎日の様に奏多を探していた場所であり、人間と幽霊として再会した場所だった。調査は部活動の生徒が帰った後に開始しなければならなかったため、日が陰りだして、校内は薄暗かった。世界は夜になろうとしている。あの春の日、音楽室で奏多と再会した時も、外が暗くなった後だった。
渡り廊下を奏多と歩いているのは不思議な感覚だった。
あの日、ここで奏多を見つけなかったら、今奏多と一緒にここを歩いている自分はいない。あの淋しそうな横顔を思い出したが、今隣を歩く奏多の横顔は、どこか楽しそうで、あの時のような淋しさは感じなかった。
幸せだ。
そう思った。高校一年生と高校三年生が、大人と高校三年生になっても。
たとえ人間と幽霊であっても、奏多と過ごせて幸せだ。
あの頃憧れていた柏木先輩は、儚くて物憂げで、綺麗だった。今の奏多は、病気から解放されて、あの頃の表情とは印象の違う明るい顔で笑いかけてくる。
奏多が好きだ。
憧れの柏木先輩を追い求めていた頃とは、また少し違う感情が芽生えている気がした。
渡り廊下の窓から階下を覗き込む。あの頃、ここから柏木先輩の後ろ姿を見つめていた自分には想像できない未来を生きている。
珍しく感傷に浸っていると、奏多が誰かと話す声が聞こえた。
目を向けると、小柄な男子生徒が奏多に話しかけている。こんな時間に生徒が?依頼人である教師の話では、部活動が終わったら校内に残っている生徒はいないということだった。それに、どことなく嫌な感じがする。
「奏多?」
奏多に声をかけると、その男子生徒も一緒に穂高の方を向いた。長い前髪の間から、陰気で尖った目が穂高を睨む。この男子生徒は、もしかして奏多の行っていた森という奴じゃないだろうか。奏多が見えるということは、霊感持ちか、幽霊だ。
森が後者であることはすぐに分かった。
森が奏多の手に触れたからだ。奏多の手首を掴んで、廊下の先の闇に消えようとする。
「待て!」
奏多を取り返そうと手を伸ばしたが、穂高の手は奏多の体に触れることはできず、むなしく空気を切り裂いただけだった。
「くそっ」
穂高は闇に向かって走った。
行き先はわかっている。森が飛び降りた生徒だとしたら、屋上だ。
屋上に続く階段には、生徒を立ち入らせないためのバリケードが組まれていた。人間とは不便だなと、こんな状況なのに笑えて来る。
穂高は懸命にバリケードを破って、屋上へ続く扉の鍵を壊して外へ出た。
穂高は森を祓い、奏多の救出に成功した。
「お前は何に未練があんの?」
「え?」
「お前が幽霊になった理由って、何?」
奏多は押し黙った。
「幽霊になったってことは、何かに未練があるんだよな?」
「未練…」
穂高は食い下がってみたが、奏多が困った顔をしたので諦めた。
奏多には、穂高こそが未練なのだと、穂高に執着しているのだと言ってほしかった。
だから、穂高が、祓われるなら穂高に祓われたいと言ったのは嬉しかった。
音も温度もない、感覚だけのキスが嬉しかった。
奏多が、自分に好きだと言ったことが、嬉しかった。
穂高は、このままずっと奏多と一緒にいるつもりだった。
ある依頼が舞い込んでくるまでは。
6
四谷博隆は、東京A町の下町で、小さなバーを経営している。店の規模は小さなものだが、連日客入りは良く、繁盛している。
もうすぐ本格的な夏になろうとしている時期だったが、その日は大雨で、珍しく客が少ない日だった。
グラスを磨いていると、カウンターに突っ伏して酔いつぶれていた客が顔を上げた。
「あ、起きました?お客さん、酔いつぶれるなんて珍しいですね。」
その客はいつもちゃんとした身なりをした会社勤めらしい男で、たまに仕事帰りに一人で来ては、ウイスキーを一杯だけ飲んで帰っていくのだが、この日はどういうわけか何杯もウイスキーを注文して、酔いつぶれて眠っていたのだ。かつて営業マンを経験した四谷が見るに、普段の物腰や、スーツの仕立て、腕時計のブランドなどから、所謂エリートで、かなり良い役職についているのではないかと思われた。
「すみません…お水を頂けますか。」
「もちろん。」
新しいグラスを手に取って、ミネラルウォーターを注いで渡す。
「大丈夫ですか?」
「…ええ、まあ。体の方は平気です。」
「心が弱っていらっしゃるんですか?」
「…もうすぐ、息子の命日なんです。」
その男性客は、弱弱しく笑った。
おっと、これは、と四谷は思った。飲みの席では珍しくないが、思ったよりも重たい話題を引き当ててしまった。
四谷は特に何も促さなかったが、客の方から事情を話し出した。酒ほど高くないが、ジンジャーエールを追加注文されたので、その分くらいは話を聞いても良いだろう。土砂降りの雨のせいで、客がまばらなのが良かった。
「息子は小さい頃からそれはそれは可愛くて、まるで天使の様な子だったんです。優しくて、お利口で。」
ほお、これは相当な親ばかだな、と四谷は小さく苦笑した。自分の子供、それを息子を天使とは。
「ただ、生まれたときから体が弱くて。本当にかわいそうだった。いろいろと持病があって、すぐに体調を崩してしまって。外でかけっこをしているところなんて、見たことも無かったなあ。」
客は、息子がどんな病気だったのか、どんな症状があったのかかいつまんで話したが、四谷は医学的なことにはまったく明るくないため、言われた病名のほとんどを聞き逃した。
「中学生になって、高校生になって。小さい頃、この子は長くは生きないかもしれないとお医者様に言われていたけれど、学生服を着た息子の姿には感動した。母親に似て美形でね、イケメンに成長して…」
息子がでっかくなっても相変わらずの親ばかだ。さらには愛妻家、というやつでもあるらしい。四谷の家では、父親が母親を美形と称するなんてまず考えられない。
「そうだ。ピアノを小さい頃から習わせていて、それがとってもうまくて、何度も何度も賞を取ったんですよ。何をとっても、いくら病弱でも、自慢の息子でした。」
自慢の息子なのはさっきからよくわかる。四谷は、うんうんと頷いた。
「でも…高校三年生の頃、持病が悪化して。そのまま合併症を引き起こして、あっさり亡くなってしまいました…」
客は、話しながら声を震わせた。
美形、高校生、病弱…さらにピアノ…?何か引っ掛かるワードの羅列だ。
「もうすぐあの子が亡くなってから、十年になるんです。私も妻もそれなりに前を向けるようにはなって来たんです。それでも、この時期になると辛くて。」
もうすぐ十年…?四谷は九年前、高校三年生だった。
高校三年生の夏、同級生が亡くなった。彼は病弱で学校を休みがちで、ただの高校生とは思えないほどピアノがうまかった。
「…あの。お客さん。息子さんが通っていた高校って…?」
ビンゴだ。
客が答えた高校は、まさに四谷が卒業した高校だった。
「だから、ここは霊媒事務所なの。カウンセリングとかやってねえの!」
穂高は、電話越しに相手に向かって怒鳴った。
『まあまあそう言わずにさ!話だけでも聞いて差し上げてよ~穂高チャン』
電話の向こうの調子の良い声は、どうやら四谷のものだった。
「だから、そういう話は専門外なんだって。…おい、聞いてる?」
穂高はスマホを耳から離して画面を睨んだ。どうやら一方的に切られたらしい。穂高が顔を上げると、来客用のソファに腰掛けて、その様子を見ていた奏多と目が合った。
「電話、四谷さん?」
「ああ」
穂高は安楽椅子から立ち上がって奏多の隣に座った。片膝を立ててソファの上に上げ、体を奏多の方に向けるように座り、奏多の顔をじっと見る。
「四谷さん、どうかしたの?」
奏多も、同じように穂高の方に体ごと向き直って座り直した。
「…また依頼人を連れてくるらしい」
「嫌な仕事なの?」
いつも客の前以外では機嫌の悪そうな仏頂面をしている穂高だが、電話越しでも声を荒げるなんて珍しい。奏多は心配そうに穂高の顔を覗き込んだ。
「嫌な仕事っていうか…専門外の仕事だ。かいつまんだ話しかしてなかったけど、どこにも霊障らしい話がない。」
「え、珍しいね。四谷さんがそんな依頼を持ってくるなんて。」
四谷は経営するバーの客やそのつてから、霊障に悩む依頼人を度々穂高のところへ斡旋している。多少強引に依頼を捩じ込むこともあるものの、穂高の仕事をよく理解していて、「霊媒師の仕事」を持ってくるのだ。だから、こんなふうに穂高を困らせるなんて珍しい。
「話を聞くだけでもって言われたけど、霊が出てこないんじゃ何の役にも立てねぇ。わざわざこんなところまで来てもらっといて、話を聞くだけで帰すなんて申し訳ないだろ。」
イライラして穂高は髪を掻きむしった。ジャケット姿に合うようにセットされた髪が少し乱れる。穂高の事務所では、一つの依頼にそれなりの報酬を提示する。冷やかしで依頼をしに来る客を追い払うために、高めに設定しているのだ。つまり、この事務所内で穂高が客に使う時間には、それなりの金額が発生するということだ。穂高は話を聞くだけでも賃金が発生するのに、自分の専門外の依頼で客に無駄足を踏ませることを心配している。それがわかっている奏多には、穂高がいじらしかった。穂高の髪に手を伸ばして、乱れた髪を直してやる。
温度も無い手の感触に、穂高はイライラが落ち着いたのが、眉間に皺を寄せるのをやめた。奏多にされるがままに、髪を触らせている。
奏多は、もっと早く、穂高に触れておけば良かったと後悔していた。幽霊の自分には、穂高に触れることは出来ないものと思い込んでいたのだ。思い返せば、幽霊になってから学校音楽室に入り浸り、ピアノを弾いていたのだから、物に触れることは可能だったのに、どういうわけか、自分が穂高に触れることができるとは思い至らなかった。奏多は移動の時は歩くし、生きている人とほとんど変わらない。しかし、部屋に出入りするときにドアを開ける必要はなく、そういった物理法則は無視して移動できる。つまり、物理法則に囚われた人間らしい動きも、物理法則を無視した幽霊らしい動きも、両方できるのだ。どちらも出来るのだから、少し考えれば穂高に触れられることもわかったはずなのに、物に触ることと、穂高に触れることは同等に考えられなかった。
「ピアノが弾けるから物には触れるのに、何で俺には手を出してこないんだろうって、それは思ってた。」
「え、穂高、気づいてたの?気づいてたなら言ってよ。」
「…誰が触ってくれってお願いするんだよ、気色悪い。」
「えー、僕はお前がそんなかわいいこと言ってきたら、一か八かでも速攻で触っていたと思うけどなぁ。」
「かわいくない。きしょいだろ。」
「僕がお願いしても気色悪い?」
「お前はきしょくない。」
奏多は、素直に即答してくる穂高が可愛かった。いつも無愛想なくせに、こういう時の言葉はストレートだ。見た目は大人なのに、素直に表現してくるところは年下っぽい、と感じる。学生時代に穂高に出会っていたらどうだったのだろう。二人はちゃんと出会って、今みたいにお互いを見つめ合っていただろうか。穂高が自分と同じ高校に通っていたと発覚したときから、奏多は度々高生の自分と穂高の姿を妄想していた。生きているときもなぜか皆に遠巻きにされ、嫌われている感じはしないものの誰とも友達にはなれなかった。穂高なら、その目に見えない壁を乗り越えて、近づいてきてくれただろうか。でもいくら考えても最後には、きっと自分たちは人間と幽霊だから出会えたのだ、という結論に落ち着いてしまう。
だから今を大切にしたい。せっかく穂高に触れられるようになったのだから。2人で過ごす時間を大切にしたい。奏多はそう思っていた。
奏多が穂高を愛おしく見ている反面、穂高は浮かない顔をしていた。
「…俺はもしお前頼んできても、お前に触ってやれない。」
穂高の思い詰めた表情に、こいつ、また死にたいとか言うかも、と奏多は焦った。
自分に触りたいから死にたいなんて、なんてことを言うんだ。
病気のせいで生きたくても生きられなかった奏多の前でよく死にたいなんて言うなぁと呆れるが、理由が理由だから責められない。奏多は、焦って話題を変えた。
「そういえばさ、気づいたことがあるんだけど」
「…何?」
「僕と初めて出会った時のこと、覚えてる?」
「え?」
穂高は目を丸くして聞き返した。
「ほら、音楽室で、僕がピアノを弾いていたら穂高がいきなり入ってきたでしょ?」
「…ああ」
穂高は目を伏せて、「なんだ、渡り廊下でのこと覚えてんのかと思った」と小さく呟いた。
「え、なに、渡り廊下?」
「なんでもない。で、それがどうかしたのか?」
「あの時も、幽霊の調査で学校に来たって言ってたよね」
「ああ」
「思ったんだけどさ、その幽霊ってもしかして僕のことだった?森君の事件の時、何年か前にも学校から調査依頼があった話してたよね?」
「…」
「音楽室でピアノを弾く幽霊って、もしかして僕のことだった?」
奏多が神妙な面持ちで尋ねると、穂高は堪えきれずに噴き出した。
珍しく、笑い声を上げる。
「お前、今更気がついたの?遅…」
「うわ、やっぱり僕のことだったんだ!」
「あの時お前が学校の怪談がどうのって言い出した時は呆れたよ。バッハだとかベートーヴェンだとか言い出して…お前だっつの」
穂高は、よっぽどおかしかったらしく、笑いすぎて脇腹を痛めるほど笑った。奏多も、最初は笑われてむっとしたものの、穂高があんまり気前よく笑うからだんだんつられて一緒に笑い出した。
「まさか自分がいつの間にか学校の怪談になってたなんて、考えもしなかったよ。」
「音楽室でピアノを弾いてるのなんか、お前くらいしかいないのにな。」
ひとしきり二人で笑い合っていると、カランコロンと事務所のドアベルが鳴り、来客を告げた。ドアを開けたのは四谷で、目を丸くして穂高を見ている。
「何、なんで一人で笑ってんだよ、穂高チャン」
そもそも穂高が笑っていることが珍しい。その上、事務所の中には穂高以外いなかったので、四谷は怪訝な顔をしていた。
穂高の方は気にしていない様子で、フンと鼻を鳴らすと、いつもの仏頂面に戻った。機嫌を損ねたのではなく、この仏頂面が穂高のデフォルトの表情なのだ。
「…ま、いいや。かわいい笑顔が見れてラッキー」
四谷はにっと笑って茶化し、思い出したように自分の後ろを振り返った。
「すみません、世にも奇妙な光景が広がっていたので…。どうぞ、中に入ってください」
「だれが世にも奇妙だ。」
穂高は独り言を言いながら、立ち上がって服装を正した。さっき奏多が直した髪はそのままだ。
四谷に誘われ事務所に踏み入れた依頼人は、二人だった。中年の男女で、二人とも温和そうで上品な印象だ。恐らく夫婦だろう。どことなく、お互いに寄り添うように立っている。
穂高は接客モードに切り替わり、笑顔で夫婦に一歩近付いた。その時背後で、夫婦の顔を見た奏多が驚愕の表情で固まっていることには気がついていなかった。
「はじめまして、荒巻穂高と申します。お茶を用意いたしますので、おかけになってお待ちください」
夫婦は微笑んで礼を言うと、来客用のソファに腰掛けた。穂高は来客用のティーセットでお茶を用意し、二人の前に置いた。
いつもは依頼人の側に座る四谷が、今回はスペースが足りず穂高の隣に座る。いつも穂高の隣には奏多が座っているため、穂高は立ちすくんでいる奏多を見やった。
奏多…?
奏多は思い詰めた表情で、夫婦に釘付けになっていた。
その様子が気にかかる。
「穂高?」
なかなか話し出さない穂高を不思議に思い、四谷が声をかけた。穂高は居住まいを正し、夫婦に話しかけた。
「それで、本日はどのようなご相談内容でしょうか?えっと…」
「あ、ご挨拶がまだでしたね」
夫の方が、ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出す。
「ほ、穂高…」
奏多は、何か言いたげに穂高を呼んだ。
こういうタイミングで、奏多が発言するのは珍しい。ただ、客と向かい合って座る穂高の隣に立つ奏多の顔を覗き込んで確認するのは難しかった。
「この度はお忙しい中お時間を作っていただいてすみません。」
その客は名刺を取り出し、ビジネスマン然とした所作で穂高に手渡した。
「私、」
「穂高、」
「柏木豊と申します。」
「この人たちは、」
「こちらは妻の柏木奏絵です。」
「僕のお父さんとお母さんだ。」
事務所に沈黙が満ちた。
穂高は、名刺も見ずに、目の前の夫婦を見て固まっていた。
唖然とする穂高に見つめられ、夫婦は不思議そうに首を傾げた。四谷だけが、どこか嬉しそうにはしゃいだ声を上げた。
「穂高?びっくりしたか?もしかして、お前気がついたの?」
「…なにを」
「お前、覚えてる?俺と同じ学年に柏木奏多っていたろ?三年生のころ、亡くなっちゃった。」
「…ああ、覚えてる。」
「こちらは、柏木のご両親なんだ。」
四谷は得意そうに掌を向けて二人を指し示した。
「お前は専門外だなんて言っていたけど、そのことはちゃんとお話してある。不思議なご縁だし、話だけでも聞いて差し上げてくれないか?な?」
「いいだろ?」と四谷が念を押す。
つまりこの男は、かつて亡くなった自分の同級生である奏多の父親と偶然出会い、何か力になりたいと穂高を紹介しようと思ったらしい。
「…柏木様。早速ご相談内容をお聞かせ願えますか?」
穂高は冷静になろうと努め、目の前の依頼人に集中する。
依頼人夫婦は、夫が豊、妻が奏絵。二人とも上品で、姿勢良くソファに座る姿が、言われて見れば奏多と同じだ。
豊は中年男性にしては身綺麗で、清潔感がある。奏絵はいわゆる美人で、年齢を重ねていても衰えていない美しさがある人だった。奏多の顔は母親に似ている。
「私たちの間には、一人息子がおります。」
豊が事情を話し出した。奏絵は、黙ってその隣に座っている。
「名前は奏多。優しい子で、ピアノが上手くて、小さい頃から病弱な子でした。…四谷さんと荒巻さんは、奏多と同じ高校なのですよね。先ほど覚えて下さっていると仰っていましたので端的に申しますと、奏多は高校三年生の夏、亡くなりました。」
豊は、膝の上に置いた拳をぎゅっと握った。奏絵も悲しそうに下を向く。
奏多は、二人の様子を穂高の隣に立ちすくんでじっと見ていた。同時に脳裏には、自分が死んだ時、病院のベッドの横で泣き崩れた母、奏絵の姿が浮かんだ。
「…奏多は亡くなって、およそ十年になります。」
正確には、奏多が亡くなって、今年は九年目だ。
「私たちは、一人息子の死を乗り越えようと懸命に生きてきました。」
奏多は亡くなってすぐ、両親の傍にいた。幽霊になって家に帰り、両親と共にいた。しかし、両親の悲しみ様は凄まじく、特に奏絵が毎日奏多の写真を見て涙するのを、傍らで見ているのが奏多には耐えられなかった。それでも、幽霊として奏多がこの世に存在しているこの約十年のうち、三年あまりを両親の傍で過ごした。三年経っても二人が奏多を失った傷は消えず、奏絵は毎日泣くことはなくなっても以前のような明るさを取り戻すことはなかった。そのうち奏多は両親の元と学校を行き来するようになり、家を覆う哀しみの大きさに耐えきれずに学校に入り浸るようになった。手持ち無沙汰になり音楽室の幽霊となってしばらく経ったとき、穂高と出会ったのだ。
「しかし十年経とうとしていてもなお、私たちは、まだ…」
豊も奏絵と同じ様に俯いた。小さく肩を震わせる。泣くのを堪えているのだ。奏多はそれを知っていた。奏多が亡くなってから毎日悲嘆の涙に暮れる奏絵の隣で、この人は会社のために働きに行き、家では妻を慰め懸命に支えていた。自分が泣く時には、奏多が自宅でピアノを引くためにあつらえられた防音室の中で、一人で泣いていた。奏多はそれらの姿を、全て見ていた。
「…もう耐えられないんです。それで、荒巻さん」
「はい。」
この時この夫婦が穂高に言ったことは、依頼を斡旋した四谷にも聞かされていないことだった。
「私たちはもう奏多のところへ逝こうと思っています。」
「…え?」
穂高も、奏多も、四谷も絶句した。
「もう、この悲しみと向き合う術がわからないのです。だからあなたに教えていただきたい。どうしたら、死後、奏多に会えるのでしょうか。ばかばかしいと思われるかもしれないが、幽霊についてよくご存知の荒巻さんに、教えていただきたくて、今日は参ったのです。」
豊の目は据わっていた。奏絵は暗い目でじっと下を見ていた。二人とも、奏多の死に向き合うことに疲れ果ててしまった顔をしていた。
「穂高、お願い、お父さんとお母さんを止めてほしい!」
四谷と柏木夫妻が事務所を去った後、奏多は穂高に頼み込んだ。
柏木夫妻からの依頼内容については、追って連絡をするという曖昧な返事をして帰した。
「もちろん止める。今、何か策がないか考えている。」
穂高は来客用のソファに足を組んで座り、眉間に皺を寄せて考えを巡らせていた。
突然自殺したいなんて、相手が奏多の両親じゃなかったとしても、止めなければならない。だが初めてのケースすぎて、解決策が思い浮かばない。あの二人に霊感はないし、奏多がこうして幽霊になって、さっきも二人のすぐ傍にいたことなど、気付いていない。奏多が亡くなってから、悲嘆に暮れる二人をずっと見守っていたことだって、知る由もないのだ。
降霊術の類でも使えれば、霊感のない人に死者の姿を見せることもできるのだろうか。死へ向かおうとする二人を説得できるのは、奏多しかいないのは明らかだ。でも奏多が二人と話すことができない今、なす術がない。穂高が代理で話したって、信憑性は低く、ただ二人を慰めているだけにしか聞こえないだろう。
「そうだ、何か、僕と両親しか知らない情報を言うとか?そうしたら、僕がここにいるってわかるかも。」
「例えば?」
「えーとえーと…昔飼っていたインコの名前とか…」
「弱いだろ。少し調べれば分かるようなこと、言ったってダメだ。お前の親父さん、賢い人なんだろう。ああいう人は手放しでその手の話を信じたりしない。」
「そっか…そだよね…」
奏多は、しょんぼりと下を向いた。下を向いた時の角度で見える顔が、本当に母親似だった。
穂高は焦っていた。
うすうす、奏多がこの世に留まっている理由は両親なのではないかと思っていたからだ。両親を救うことができたら、それを見届けたら、奏多はいなくなってしまうかもしれない。
穂高はそんな考えを打ち切るために頭を振った。今はそんなことを考えている時ではない。人の命がかかっているのだ。真剣に、何か打開策がないか考えなくてはならない。夫妻はいつ死ぬのか言わなかったが、奏多の命日が差し迫ってきていることを考えると、もうあまり日がなかった。
「…そうだ。」
下を向いて頭を巡らせていた奏多が、何か思いついた様子で顔を上げた。
「穂高、これなら行けるよ。」
その日は朝から気持ちよく晴れた日だった。
穂高は、柏木夫妻に連絡を取り、奏多を伴って柏木家に来ていた。
奏多が使っていたピアノはまだ防音室にあり、調律も手入れもされていた。奏絵が、この約十年の間、それだけは欠かさずに行ってきたのだという。
「あの、荒巻さん、ピアノを見せてほしいとは、一体どういうことなのでしょか」
詳しく事情を言わずにやって来たため、夫妻は怪訝な顔をしていた。
「本日は、お二人が死ぬ前に、奏多さんに会っていただきたく参りました。」
「あの、奏多に会うとはどういう…」
もちろん、二人は奏多の姿を見ることは出来ない。
穂高は落ち着き払った顔をして、防音室の入口でじっと立っていた。
その時、ぽろん…とピアノの音がした。
夫妻は驚いてピアノを振り返る。
ピアノに触れている者は誰もいないはずなのに、ひとりでに音楽を奏でていた。優しくも軽快な調べが部屋に鳴り響く。
ピアノの音は、しっかり3分間、一曲分の音色を奏でた。その間、奏絵は泣き崩れ、豊はその肩を抱いて支えた。
音が鳴り止む。奏多が、ピアノの演奏を終えたのだ。
「お父さん、お母さん、これは僕が作曲していた曲で、譜面も無いし、他の誰も弾けない曲だよ。わかるよね?」
奏多の言葉を、穂高が代理で伝える。奏絵はうんうんと頷き、豊も耐えきれずに涙を零していた。
「僕、ほんとは死んですぐ、ずっと二人の傍にいたよ。お母さんが泣くのも、お父さんが耐えているのも、全部見ていた。もう死ぬんだってね。死にたいんだってね。」
奏多は二人の前まで歩み出て、向き合った。
「こんなにも生き続けたかった僕の前で、死にたいなんて、僕はがっかりしました。」
二人は目を見開く。奏多の姿を見ることはできないが、まるで見えるかのように、虚空を見上げる。
「僕はお父さんとお母さんの近くにいるよ。だから、死なないで。」
そこまで代弁すると、穂高は両親と見つめ合う奏多の姿をじっと見つめた。
両親の近くに留まることが奏多の望みなら、自分にできることは何もないのだ。
穂高は何も言わずに、柏木家を後にした。
*
柏木家での一件以来数日、穂高は荒巻霊媒事務所でひとり過ごした。夫妻からは、自殺はやめたと、連絡が来た。二人とも、奏多の激が効いたのか、思いのほかさっぱりした声をしていた。自死の相談をしたことを悔いていて、穂高に何度も謝っていた。
「何よあんた、灯りもつけないで」
ドアベルを鳴らしながら、スミレが向日葵を片手に入ってきた。もう夜になっていたのか。明るいうちに仕事をこなし、あとはひとりで事務所で過ごす。毎日ぼーっと奏多のことを考えていると、いつの間にか日が落ちている。
「奏多くんがいないと、ダメダメね。まったく。」
スミレは文句を言いながら灯りをつけた。眩しくて目を閉じる。
奏多はあの一件以来、柏木家にいるのか、まさか消えてしまったのか、穂高のところには戻ってきていない。
奏多がいないと妙に事務所が広い気がする。明るくても暗くても、どうでも良い。
「俺、明日は休業するよ。」
スミレに言うと、穂高は立ち上がった。
事務所にひとりで過ごしていたって何も解決しない。ただ虚しさが大きくなるだけだ。今は気分転換が必要だと思った。
次の日穂高は、海を見に出かけた。黎弦の仕事で地方にやってきた時に見つけた、綺麗な海岸たった。東京からは二時間ほどかかる。
凪いだ海を見ていると、心が落ち着いた。小さな海岸で、昼間地元民が散歩していた以外は、海水浴客もおらず、閑散としている。穂高は防波堤の上に腰掛け、夕方になっても日が落ちても、ずっとただ海を見ていた。
奏多は今どこにいるのだろう。自分は、奏多が視界からいなくなってしまえば、もう探す術も無いのだ。せっかく霊感があったって意味が無い。またそう思った。目を閉じて探せば、奏多がどこにいるのか分かればいいのに。少なくとも、まだこの世にいるのか、また会える可能性があるのか、それだけでも分かればいいのに。もう一生、会えないのだろうか。世の中の大切な人を失った人たちは、ほとんどがこうした感情と向き合っているのだ。
目を閉じて、波の音を聞く。
心がすっと凪いでいく。
「奏多…」
小さく名前を呼んだ。ずっと恋い焦がれてきた、今も好きで仕方ないその人の名前を。
「何?」
目を開けた。
隣を見ると、奏多が自分と同じ様に、防波堤の上に座っていた。
「…なんで」
「なんでって、事務所に帰ったらお前、いないんだもん。」
「お前、ここに来たことあんの?」
「え?無いよ?海なんて初めて!」
穂高は、心底楽しそうに笑う奏多の横顔を、じっと見つめた。
完
