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重厚なカーテンの隙間から差し込む光が、豪奢な天蓋付きのベッドを白く照らしていた。
白良が意識を浮上させたとき、肌を撫でたのは、上質なシルクのシーツと、それよりも滑らかな指先の感触だった。衣服を纏わぬ剥き出しの肌に、ひんやりとした、けれど不思議と心地よい体温が這う。
「おはよう、白良。よく眠れた?」
視界が開けると、すぐ目の前に薔薇の瑠璃色の瞳があった。
白良はそれに対し、一抹の疑問も抱かなかった。この屋敷で、薔薇の隣で、こうして目覚めること。それは朝が来れば太陽が昇るのと同じくらい、絶対的で当然の摂理だから。
「……おはよう、薔薇」
薔薇の指先が、白良の鎖骨から胸元へと、なぞるように滑り落ちる。は、と、吐息を漏らすと、脳の奥で甘い火花が散った。昨夜、幾度となく繰り返された行為の残滓が、微かな疼きとなって全身を駆け巡る。
触れられるたびに、思考が泥のように溶け、意識が快楽の深淵へと沈み込んでいってしまう。抗う術など最初から持ち合わせていない。
白良はとろけた瞳で、自分を支配する麗しき怪物を見つめ、ただその愛撫に身を委ねた。
気だるい充足感が、蜜のように甘く、二人を繋ぎ止めていた。
「お二人さーん! 学校遅れますよー!」
「エリナさんだ。……ほら、薔薇、そんな拗ねた顔すんなよ」
「ねえ、もうちょっと、だめ?」
「だめ。ジュリアさんめっちゃ怒るだろうし、マサユキに冷たい目で見られたくないし、マリーナさんとかきたら終わりだろ」
ぐずるように胸元に縋り付く薔薇の髪を雑にかき回して、支度するよ、と声をかける。それでも顔をあげないから、仕方なく、つむじにキスを落とした。そうすれば、薔薇は渋々ながらも、準備をはじめるから。
これが、白良の、いつも通りの、幸福な朝だった。
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街並みを彩る瑞々しい朝の空気の中で、白良は薔薇と肩を並べて登校していた。
道端に咲く名もなき花が朝露に濡れ、舗装された道路を柔らかな光が反射している。そのあまりに平穏な光景の中で、白良の心だけが、霧の中にいるような輪郭のなさを抱えていた。
不意に、前方に二人の人影を見つける。弾むような足取りの桃凪と、その隣には、凛とした佇まいの会社員らしき女性がいた。
「あ、白良くん! おはよー!」
桃凪が弾けるような笑顔で駆け寄ってくる。その隣で、どこか懐かしく、親しみを感じざるをえない女性が、音もなく立ち止まった。
「あ、おはよう。……ええと、桃凪ちゃん、その人は?」
白良が隣の女性を指すと、桃凪は自慢げにその人の腕にぎゅっと抱きついた。
「えへへ、紫凛さんはわたしの、本当のお姉ちゃんみたいな存在なの! とっても優しくて、大好き!」
「……そう、なんだ。素敵なお姉さんだね」
白良は穏やかに返したが、その瞬間、胸の奥を鋭い針で深く刺されたような、説明のつかない不快な痛みが走った。
なぜ、こんなにも息苦しいのか。心臓を直接握りつぶされるような圧迫感。
失ってはいけない大切な何かを、とうの昔に、あるいは今この瞬間に失ってしまったような猛烈な空虚感が、一瞬だけ意識を白く塗りつぶした。
「白良、どうしたの? 顔色が悪いよ」
隣にいた薔薇が、計算されたかのような絶妙なタイミングで心配そうに顔を覗き込んできた。瑠璃色の瞳が、白良の動揺を静かに記録している。
白良は強張った頬を無理に動かして口角を上げ、短く首を振った。
「……ううん、なんでもない。ちょっと、太陽が眩しかっただけ」
だが、異変は白良だけに留まらなかった。正面に立つ紫凛の様子は、到底、なんでもない、と言い切れるものではなかった。
白良を視界に入れた瞬間、彼女の瞳孔は焦点が定まらずに激しく揺れ、透き通っていた肌は紙のように青ざめていく。額にはべっとりと嫌な脂汗が浮かび、腕には、生理的な嫌悪を示す鳥肌が立っていた。
「あの、お姉さん……? 大丈夫ですか?」
あまりの豹変ぶりに、白良が心配して無意識に手を伸ばそうとした、その時。
「触らないでっ……!!」
紫凛が、喉を引き裂くような悲鳴に近い拒絶を上げた。その強く、鋭く、憎悪さえ孕んだ拒絶に、白良は射すくめられたように足を止める。
紫凛自身も、なぜ自分がこの赤の他人──ではない、と、脳の片隅が疼く誰か──に対して、これほどまでに烈しい拒絶反応を示しているのか分からず、怯えたように自分の体を抱きしめ、激しく動揺している。
書き換えられた記憶と、身体が覚えている情動が、彼女の内で血を流しながら衝突していた。
「大丈夫? 紫凛さん……」
「……平気。桃凪は、お友達と学校に行きなさい。あたしのことは、気にしないで」
紫凛は気遣わしげに見上げる桃凪の頭を、震える手で撫でた。そして、掠れた声でそう告げると、白良から逃げるように背を向け、足早に去っていった。白良はただ呆然と、冷たい風が吹き抜ける中で、遠ざかる彼女の背中を見つめるしかない。
その様子を、薔薇は一歩引いた場所から、温度の欠片もない冷徹な瞳で観察していた。
まるで、設計通りの挙動を見せる実験体を見下ろすかのような、残酷な視線。そのあまりに非人間的な、暗い色を目にしてしまい、隣にいた桃凪は言いようのない本能的な怯えを感じて思わず後ずさった。
「ねえ、白良、薔薇先輩って……あれ? なんで、白良くんは、薔薇先輩と、いるんだっけ。……何か変、だよ」
「え? なんでって、だって、それは……」
白良が混乱に揺れる思考を言葉にしようとした瞬間、それを遮るように冷たく、澄んだ美しい声が重なった。
「一緒に暮らしてる、家族だからだよ」
有無を言わせない断定。
言い切った薔薇のその圧倒的な光を湛えた視線に射抜かれ、桃凪は抗う術を失い、怯えを隠せないまま、ぐっと自分を守るように腕を組んで縮こまり、何度も頷いた。
何かがおかしいはずなのに、それが何かがわからない。書き換えられた正解が朝の光を侵食していくのを、違和感を持ちながらも、誰もが止められなかった。
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校内に入っても、白良の思考はずっと、分厚くもやがかったままだった。
擦りガラス越しに世界を見ているような、酷く頼りない感覚。
廊下ですれ違いざま、慇懃に挨拶をしてきた教師たちの眉間に、薔薇は無造作に、けれど羽が触れるような軽やかさで指先を当てる。
瞬間、教師たちの表情から生きた人間の意志が霧散し、糸の切れた、あるいは新しい主を得た操り人形のような従順さが瞳に宿る。
白良は、その異様な光景をすぐ傍で、ただぼんやりと眺めていた。
薔薇が何をしているのか、視覚的な認識はできている。
それなのに、不思議と喉元まで出かかった疑問の言葉が、形を成す前に消えていく。
薔薇がすることなら、きっと正しい。薔薇が自分と一緒にここにいるためには、これが必要な不可抗力なのだと、麻痺した脳が都合よく事実を塗り替え、都合の悪いノイズを削ぎ落としていく。
一方で、深い闇に沈んだ心の底の方だけが、必死でこの異常事態を訴えようと叫び声を上げている。その矛盾に、ちぐはぐになった脳は処理を拒むように動きを鈍くしていった。
どことなく、自分を含む世界全体が薄皮一枚隔てた向こう側にあるような、薄ら寒い違和感を覚えたまま、一日は静かに、淡々と進んでいった。
放課後、長く伸びた影を踏みながら校門へ向かおうとする二人の前に、橙真がひょっこりと姿を現した。
「よお、白良。悪いけど、薔薇だけちょっと借りるぜ? ちょーっと、こいつの知恵が必要なんだわ」
「えっ、薔薇を?」
白良が聞き返すと、薔薇はあからさまに不機嫌そうな冷気を纏い、橙真を射貫くような視線を向ける。
「……僕、嫌なんだけど」
「そう言うなよ、オレら幼馴染じゃん? よしみじゃん? 助け合いじゃんじゃん?」
「うわ、橙真先輩だるっ」
いつもの調子で軽口を叩く橙真。だが、その瞳の奥には、薔薇という存在をこの場から引き剥がそうとする、隠しきれない焦りと意志が宿っていた。何が橙真にそこまでさせるのかがわからず、白良は小さく首を傾げる。
それに、幼馴染? 薔薇と、橙真が? いや、橙真の幼馴染は、薔薇ではなくて──
「白良」
「あ、え? ごめん、ぼーっとしてた」
「はぁ……わかった、橙真、いいよ。手伝う。白良、すぐ終わらせるから、先に帰ってて」
薔薇は名残惜しそうに白良の頬を一度だけ撫でた。その指先の熱に、白良の思考がまた一瞬、とろけていく。
薔薇は橙真に促されるようにして、何度か白良を振り返りながら校舎の奥へと戻っていった。
一人になった白良は、燃えるように赤く、沈みゆく夕陽に照らされた廊下を歩き出す。
静まり返った校舎に響く自分の足音が、耳障りなほど大きく聞こえる。
隣に誰かがいないだけで、心にぽっかりと穴が開いたような、耐え難い寂寥感が押し寄せてきた。
ずっと、その胸の穴から、大切に抱えていた何かが止めどなく溢れ続けているような感じがして。
どうして自分がこんなにも悲しいのか、その理由すら思い出せないまま、白良はなぜだかひどく泣きそうになった。
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