青薔薇の箱庭



 それから、この奇妙な日常が、静かに定着していった。
 蒼美は相変わらず旧校舎の静寂の中で微睡み、代わりに薔薇が教室へ向かう。
 最高傑作の知能をもつ薔薇にとって、高校の授業は退屈なものだったが、それでもどこか楽しげに、そして完璧にそれをこなした。白良と同じ目線で言葉を交わすための共通言語を手に入れるために。
 そして、西日の差し込む化学室。旧校舎の古い木の香りとバラの香りが混ざり合う独特の空気の中で、薔薇が弾んだ声を上げた。

「ねえ白良。僕、白良の家に行ってみたい!」
「えっ、俺の家!?」
「うん、だってこちらには来るけど、逆はないのは不公平じゃない?」
「……普通のマンションだし、そんな面白いもんじゃないけど」

 困惑し、おどおどと視線を泳がせる白良の背中を、橙真がニヤニヤしながら乱暴に叩いた。

「いいじゃん、おもしれーじゃん。オレも乗った! 白良のプライベート、覗き見しに行こうぜ」
「橙真先輩まで……」
「あ、桃凪ちゃんも誘おうぜ。せっかくだし、賑やかな方がいいだろ」

 橙真の提案に、ちょうど部室に顔を出した桃凪が「行く行く! タコパしよ、タコパ!」と瞳を輝かせて飛びついた。こうなるともう、元来流されやすい白良には、拒否権など残されていない。
 白良は溜息を一つ吐き、恐る恐る、紫凛にメッセージを送った。

『週末、友達が遊びに来てもいいかな?』

 数分後、スマホの画面に冷徹な姉からの通知が届く。『構わないけど、掃除だけはしておきなさい』と、余計な詮索のない短い許可だった。

「白良の家いくの、楽しみ」
「あ、薔薇。……あっち盛り上がってるけど、いいの?」

 賑やかにはしゃぐ二人を余所に、薔薇は吸い寄せられるように白良の隣に座った。甘やかに目尻を下げ、白良を独占するようにぴったりと寄り添う。
 オレンジ色の西日が低い角度から差しこみ、部室に飾られた色とりどりのバラをセピア色のフィルターで優しく包み込んでいた。

「白良がいなきゃ全部、意味ないよ」

 それは蕩けるような、静かで、なお切実な重みを含んだ声だった。
 なんでもないことでも口説き文句のように甘く解ける薔薇の声に、白良は慣れてきたようで慣れていない。平然を装いながら、心臓がうるさくなるのをいつも止められないのを、白良は密かに隠していた。

「白良。僕、君に伝えたいことがあるんだ」
「……なに?」

 薔薇は、白良の右手をそっと掬い上げると、慈しむように自分の頬に寄せた。
 指先から伝わる感触に、金属の冷たさは微塵もない。そこには、作成者が執念に近い心血を注いで再現したであろう、少しひんやりとした、けれど紛れもない完璧な、人間の体温だった。

「触れる温度も、肌の柔らかさも、優しい言葉の心地よさも、『家族』も。君が教えてくれたものが、僕のすべて」

 色気を含んだ、甘美な囁き。
 普段よりも何か明確な意図を持って耳朶を震わせる吐息の熱さに、白良は顔を赤くしながら、照れ隠しの苦笑いを浮かべる。そして、逃げるようにその手を引いた。
 それを許さないとでもいうように、薔薇は再度手を、今度は指ごと絡ませ、そのまま口元に持っていった。

「ねえ、白良。君が、僕だけのそばにいてくれたらいいのに」

 指先から、ちゅ、と可愛らしいリップ音が鳴る。
 肩をびくっと揺らして目を逸らしながら、白良は苦笑した。

「あー。……薔薇のお父さん、ロマンチストだったんだな、まじで。はは、嬉しいけど、ちょっと、びっくりした」

 熱のこもった瑠璃色の瞳。
 至近距離で見つめられ、白良は思わず顔を赤くしながらも、それをプログラムされた愛情表現だとどこかで決めつけ、冗談のように受け流す。
 瞬間、薔薇の表情が、唐突に曇った。
 開け放たれた窓から風が二人の間を冷たく吹き抜け、校舎の喧騒が、別世界のように遠ざかる。

「……そうか。僕がアンドロイドである限り、僕の気持ちを、僕自身のものとして白良が受け取ってくれることはないんだね」
「え? それは……でも、だって……」

 薔薇の丸い瞳が色を濃くして、言葉に詰まる白良を、逃げ場を塞ぐような冷徹さで見つめる。

「人間の感情だって、突き詰めればただの電気信号なのに。君の心と僕の心に、どれだけの違いがあるんだろう。……ねえ、もしこれが、兄さんだったら?」
「……蒼美先輩?」

 不意に突きつけられた名前に、白良の心臓が大きく跳ねた。
 もし、あの孤高で、誰にも心を開かない不器用な蒼美が、自分に対して今の薔薇と同じような熱を帯びた瞳で「好きだ」と告げてきたら──。
 ありもしない光景を脳裏に描いただけで、頬が燃えるように熱くなる。白良は無意識に、動悸を抑えるように自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
 そのあからさまな反応を見た薔薇が、自嘲気味に、今にも壊れてしまいそうなほど悲しげに、眉を下げて俯いた。

「好きだって白良に言うのが、僕じゃなくて兄さんだったら、君はその言葉を本物だと信じるんだね。……そうだろ?」
「ちが、違うよ……!」

 傷つけた。修復できないほどの深い場所を抉ってしまった。そう確信して、白良は慌てて手を伸ばした。
 薔薇は静かに首を振って、白良の手に、すり、と愛しそうに自分の頬を擦り付けた。

「いいんだ。そりゃあ、そうだよね。わかってる」

 頬は相変わらずうっすらひんやりとしていて、白良にはその温度が、どこか気の遠くなるほど遠くかんじられて、ぞっとする。
 薔薇は、もう一度だけ、無垢で、悲しげで、けれどその裏に形容しがたい残酷さを秘めた微笑みを浮かべた。

「でも、好きだよ。白良が好き。信じてもらえなくても、本当」

 白良は、薔薇の瞳の奥で燻るように明滅する熱を見つめたまま、動くことができなかった。



 週末の白良宅は、かつてない喧騒に包まれ、どこか浮かれていた。
 狭いリビングに広げられたホットプレートの上で、タコ焼きが小気味よい音を立てて弾けている。
 白良が強引に誘い、薔薇が半ば引きずるようにして連れてきた蒼美でさえ、居心地悪そうにしながらも橙真にせっつかれて、不格好に竹串を動かしていた。
 
 薔薇はあの日、化学室で情熱的な告白をしたことなどなかったかのように、表面上は穏やかに振る舞っている。
 けれど、白良の首筋を羽のようになぞる指先や、不意に耳元で囁かれる甘い吐息。そういった、意図的な愛撫に近い接触は確実に、そして執拗に増えていた。
 その度にあの日突きつけられた切実さが胸を掠め、白良はどう応じればいいのか分からず、困ったように笑うことしかできない。

「わあ、紫凛さん! その手つき、職人みたいです。格好いい……!」
「大袈裟だなあ。焦がさないように回しているだけ」

 キッチンでは、桃凪が紫凛にすっかり懐いていた。テキパキと準備をこなす紫凛の隣で、桃凪が目を輝かせる。

「いいなあ、白良くん。こんなお姉ちゃんがいたら、毎日楽しそう!」
「……はは。あたしも、あなたみたいな可愛い妹がいたら、楽しかったと思うよ」

 ふと聞こえてきたその言葉に、皿を運んでいた白良の足が止まった。
 桃凪にも、紫凛にも、悪気がないことは分かっている。それは場を和ませるための、ただの社交辞令かもしれない。
 けれど、冷徹な姉が自分に向けることのない柔らかな肯定を、他人にいとも容易く投げかけた事実に、白良の胸は鉛を飲んだように重くなった。
 姉にとって白良は多分、未だ家族よりも他人に近い存在で。
 疎まれている、とまでは思いたくないが、桃凪との会話の裏側にある「白良が弟では楽しくない」という拒絶を、どうしても深読みしてしまう。
 居たたまれず、白良はベランダへと逃げ出した。夜風が火照った頬を撫でて、気持ちいい。逆だった心が少しだけ落ち着くのを感じる。
 
「……お前も、悩むことがあるんだな」

 静寂を割るような低い声に驚き、肩を跳ねさせて振り返る。
 そこには、いつの間にか蒼美が立っていた。
 おそらく、室内で橙真に絡まれて鬱陶しくなり、避難してきたのだろう。手には飲みかけのグラスが握られ、その縁が月光を反射して冷たく光っている。

「……当たり前でしょ。俺だって、人間なんですから」

 自分でも驚くほど、棘を含んだ言い方になってしまった。けれど、蒼美は怒る風でもなく、ただ静かに白良の隣へ歩み寄ると、手すりに体重を預けた。

「いや、悪い。そうだな……お前はいつも他人の心配ばかりしているから、自分の痛みには鈍感なのかと思っていた」
「……」
「礼を、言っていなかったと。……感謝している」
「……何に?」
「意地が悪いな」

 素直に謝意を受け取らない白良に、蒼美は珍しく穏やかに笑った。
 そんなふうに目尻を下げる姿ははじめて見た。普段よりも大人っぽくみえて、自分の子どもじみた様子が恥ずかしくなると同時に、心臓が高鳴る。

「お前が私の元へ来て、もたらしてくれた、その全てのことに、だよ」

 月光の下、蒼美が不器用に、けれど真摯な眼差しを向けてくる。
 姉の言葉で冷え切っていた心が、そのらしくもなく真っ直ぐな蒼美の言葉によって、じわりと解けていくのが分かった。
 張り詰めていた感情の糸が不意に爆ぜ、白良の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「な……なんで泣くんだよ。私が悪いのか」
「違っ……先輩のせいじゃ、ないです……」

 蒼美は狼狽え、グラスを持ったまま所在なげに視線を泳がせた。
 しばらく迷うように指を動かした後、意を決したように、大きな手で白良の頭を撫でる。
 無言でのそれは不器用で、力が入りすぎているほどなのに、そこから伝わる確かな熱と鼓動の、その心地よさに、白良は鼻を啜って、さらに涙を零した。
 蒼美と薔薇の白良への触れ方は、似ているようで全く違うな、なんて感想が頭に浮かぶ。
 同時に、薔薇に口説かれているという事実を思い出す。
 蒼美に、相談するべきなのだろうか。どうやって? 
 どうしたらいいかわからないなりに、白良だって、それはきっと自分が解決しなければならないことだと、どこかで理解していた。
 助けを求めたい気持ちを心の奥底へ押し込めながら、白良は照れ隠しに笑みを浮かべた。

「蒼美先輩って……意外と、ロマンチストなんですね」
「は? なんの話だ」
「いや、なんか、今の慰め方とか? 薔薇ほどじゃないですけど」
「アレはロマンチストなのか……? だとしても、少なくとも、私は違う」
「じゃあ、先輩は……たとえば、どうやって人を口説くんですか?」

 冗談のつもりだった。
 けれど、蒼美は撫でていた手を止め、真剣な表情で、白良の顎を指先で持ち上げた。
 至近距離で見つめ合う。深い色の瞳が、夜の闇の中で青く、艶やかに光った。

「私なら、言葉など使わない」

 低い、鼓膜に直接響くような声。蒼美の顔がゆっくりと近づき、白良は心臓が止まるかと思うほどの衝撃に、思わず目を瞑った。

「……おい、なんで目を瞑るんだ」
「……いや、別に……」
「まさか、本気で、キスされるとでも?」
「はぁ!? 違います! びっくりしてつぶっちゃっただけです!」
「へえ、本当に? 期待したんじゃないのか」
「しませんよ! 蒼美先輩がまじでナルシで超面食いの贅沢男だって、ちゃんとわかってますから、俺」

 そう言い放って、白良が真っ赤な顔で睨みつける。
 二人は至近距離で数秒間、互いの瞳の奥を覗き込むように沈黙した。気まずくなって、白良が先に目を逸らす。
 やがて、二人はどちらからともなく、小さく吹き出した。その笑いは夜のベランダに響き渡る。白良は涙の跡も忘れて、腹を抱えてしばらく笑い続けた。
 先ほどまでの胸の痛みは、冷たい風に流される雲のように、いつの間にか消え去っていた。


 

 ──穏やかな笑い声が響く光景の、裏側。
 リビングの隅、影の落ちるキッチンカウンターの陰で、紫凛の背後に薔薇が音もなく立っていた。まるでそこに最初から存在していた闇が形を成したかのような、気配を一切断った静かな侵入だった。
 タコ焼きを囲む騒ぎに紛れ、薔薇の白く細い指先が、紫凛の後頭部へと吸い付くように触れる。

「ねえ、お姉さん」

 慈愛に満ちた、けれど感情の温度が完全に欠落した、恐ろしいほど純粋な声。
 接触した指先から、目に見えない電気信号の奔流が、シナプスを通り紫凛の脳の深部へと、容赦なく流し込まれていく。

「何か、疲れている? 大丈夫?」
「……弟との関わり方に、ずっと、悩んでいて。歩み寄りたいけれど、でも、どうしたらいいのかわからない。家族と言っても、ずっと共に生きてきたわけでも、血縁があるわけでもないから」

 紫凛が、夢遊病者のように力なくこめかみを押さえた。
 理性の強い彼女が、初対面の相手にこれほど脆い本音を吐露するなど、通常ではあり得ない事態だった。脳内の防壁を直接ハッキングされ、言葉を引きずり出されていることに、彼女自身は気づくことすらできない。

「僕が、少し楽にしてあげる」

 薔薇は聖者のような慈しみをもって、紫凛の青白い額に指先を滑らせた。それは、対象を破壊することで救済しようとする、歪んだ神の指先のようだった。

「白良のこと、もう弟だと思わなくていい。あの子と君は、本当は他人なんだもんね? いっそ嫌いになってしまっても、大丈夫。僕が代わりに、白良を守るから」

 脳内の神経回路が強引に繋ぎ変えられる、パチ、という不可視の火花が散る。
 紫凛の瞳から意志の光が急速に失われ、代わりに底の見えない、昏い濁りが広がっていく。
 白良への、脆く、しかし確かな家族愛の絆が、今、電気信号によって無残に焼き切られた。

 用は済んだとばかりに、薔薇は崩れそうになる紫凛を一瞥もせず背を向けた。

 無表情のまま、薔薇は冷淡な瑠璃色の瞳を、ベランダの向こうに向けた。そうして、月光の下で蒼美と見つめ合い笑い合っている白良を、じっと見つめていた。
 まばたきもせずに、ずっと。



 夜の静寂が支配する茨邸の廊下は、月明かりさえも拒むように深く重い影を落としていた。古びた木材が呼吸するように時折軋み、冷ややかな大気が肌を刺す。
 その濃密な闇の中で、二人の"兄弟"が対峙していた。蒼美が纏う、寄せ付けぬ氷のような威圧感に対し、薔薇はただ、月光を透過させた凪いだ水面のような穏やかさで、そこに佇んでいる。

「兄さんも、白良のことが好きなんでしょう?」

 唐突に投げかけられた言葉に、蒼美の眉間がわずかに動いた。
 その一瞬の空白こそが、何より雄弁な肯定だった。図星を突かれた動揺を心臓の奥へ押し殺すように、乾いた喉の奥で冷たく笑う。

「そんなんじゃない」
「嘘つき。誤魔化さなくたっていいのに」

 薔薇は、蒼美が築いた拒絶の城壁を、透き通った瑠璃色の瞳で容易く見透かした。
 その声には嘲笑の色はなく、ただ冷徹な事実を確認するような、無機質でいて美しい響きがあった。
 す、と、一本、薔薇が指を立てる。美しい所作で、それを口元に持っていき、可愛らしく首を傾けた。

「ねえ、兄さん。僕たち、協力しない?」
「何を……」
「この屋敷に、白良を閉じ込めてしまおうよ」

 正気を疑うような狂った提案を、薔薇はなんでもないことのように告げる。
 蒼美の背中に、鋭い戦慄が走った。
 しかし、薔薇は自らの語る夢想に陶酔したように、その瞳を熱っぽく、妖しく輝かせる。

「だって、白良にずっとそばにいてほしい。傷ついてほしくないし、守ってあげたい。愛したいし愛されたい」
「……勝手にすればいいだろ」

 蒼美の絞り出した、突き放すような言葉すら、薔薇は甘美な肯定として受け取った。一歩、また一歩と、影が混じり合うほど距離を侵食するように近づいてくる。

「白良が屋敷にずっと、ずーっといてくれた方がいいでしょう? もちろん白良に不自由はさせないし、兄さんだって嬉しいはずだ。だって、白良が来るととても喜ぶもの」
「それは」

 否定しようとした言葉が、喉の奥でつかえて消えた。
 白良がこの玄関を潜るとき、自分の凍てついた時間がどれほど鮮やかに動き出すか。その熱を知ってしまった今の蒼美には、薔薇の傲慢な言葉を完全に撥ね除ける力はなかった。
 薔薇の言葉ひとつひとつに、苛立ちが募る。理性がとどめても、本能が、共感を訴えるのを、止められないから。

「そうやって、白良も家族になってくれたら、夢みたいに素敵だよね」

 家族、という甘い蜜に浸された毒を含んだ言葉が、蒼美の頑なな心を静かに侵食していく。
 白良を独占したい。誰の目にも触れさせたくない。そういう醜く黒い渇望を、薔薇の紡ぐ美辞麗句が、正当な望みであるかのように塗り替えていく。
 蒼美は、微かな理性を振り絞るように問いを投げた。

「……白良がそれを、許容するとでも?」
「いきなり閉じ込めたら怒るってこと? もちろん白良の意思は尊重するつもりだけど……確かに白良は優しいから、あのお姉さんを捨ててまで僕たちを選んではくれないよね」

 薔薇は少しだけ、困ったように首を傾げた。その仕草はあまりに無邪気で、だからこそ、思考の異常さが際立つ。
 彼は薄暗い廊下で、まるで舞台上の役者のように優雅な所作を見せた。

「でももし、最初からお姉さんなんて、居なかったら?」
「お前、何を」
「最初から僕たちが家族だったら、一緒に暮らすのは当然だと思わない?」

 薔薇の薄い唇が、優美な曲線を描いて三日月のように吊り上がった。その瞬間、彼が白良の姉、紫凛に何を仕掛けたのか、その悍ましい真実を察し、蒼美の指先が凍りついたように止まる。

「薔薇、お前、何を考えている?」
「僕にとっても、兄さんにとっても、白良にとっても。誰にとっても、きっと、悪くないことだよ」

 薔薇は事も無げに、その恐るべき手段を口にした。
 脳内を駆け巡る無数の電気信号。それを特定の周波数で干渉・変調させることで、記憶を強引に繋ぎ変え、人格の深層心理さえも書き換える。
 薔薇という最高傑作の機械にとって、人間の認識や愛情など、操作可能な、脆弱で不安定なデータの一部に過ぎなかった。

「……父はお前に、倫理観をプログラムすることを忘れたのか?」

 震える声で吐き捨てる蒼美の、その言葉は、この化物を生み出した亡き創造主への糾弾であり、同時に目の前の"弟"への、激しい非難だった。
 だが、薔薇はまるで最高の賛辞を受けた子供のように、楽しげに首を傾げた。

「どうかな? プログラミングは完璧だったと思うけど。僕の愛が勝った、とは考えられない?」
「馬鹿げてる」
「ふふ、そうだね。でも、兄さんだって望んでいるでしょう?」

 薔薇は最後の一歩を踏み出し、蒼美の耳元で甘く、そして死刑宣告のように冷たく、囁いた。
 その問いに対し、蒼美は反論の言葉を見つけられない。心の底、暗い欲望の澱が、薔薇の差し出した手を取り、白良を自身の側に縛りつけたいと、醜く叫んでいたからだ。

 ぐ、と唇を噛み締め、自己嫌悪と渇望の狭間で揺れる蒼美の耳に、静寂を破って来客を告げるチャイムの音が聞こえてきた。

 ゆっくりと、表情を陶酔にも似た喜びに変える薔薇を見て、蒼美はその来客の正体を悟る。

 薔薇という怪物を止められるのか、自分にもわからない。蒼美自身も、薔薇と同じ、醜い欲望を飼っている。

 それでも、地獄のような孤独から自分を救い出してくれたあの子の陽だまりのような心を、今度は自分が守りたいと、そう思っているのもまた、真実だから。

 蒼美は闇の中で、静かに覚悟を決めた。



 薔薇に呼びだされるまま、白良がその重厚な門を潜ったとき、肌を撫でたのはどこか粘着質な、異様な空気だった。
 庭園に咲き誇るバラたちは、夜の闇に同化し、まるで滴る返り血を吸ったかのようにどす黒く変色している。

 白良への薔薇の想いが本物なら、白良は、応えるかそうでないかを、選ばなければならない。

 愛の告白、らしきものを受けて以降、白良はその回答を探し続けている。
 もしかしたら今日、求められるのはそれかもしれない、と覚悟はしていた。

 だけど白良は未だ、心の曖昧な輪郭の中から何も抜け出せないまま、答えを決めることができずにいる。

 いつもなら心地よく鼻をくすぐるはずの濃厚なバラの香りは、今夜に限っては、むせ返るように重苦しく、甘ったるい腐敗の気配を孕んでいる。

 廊下に響く自分の足音は虚ろに吸い込まれ、闇の深淵から無数の冷徹な目が、自分という獲物を監視しているような錯覚がする。
 正体不明の恐怖に、白良はひくりと喉を鳴らした。

「……薔薇? 蒼美先輩?」

 おそるおそる呼びかけながら、いつもの部屋の扉を、軋む音とともに押し開ける。

 そこには、月の青白い光を背負った薔薇が、佇んでいた。
 窓から差し込む一筋を浴びて、ただ静かに、立っている。この世のものとは思えぬ精巧な美貌が引き立ち、神々しささえ通り越して、恐ろしくすら見えて、白良は一瞬、息を止めた。

 薔薇は白良の姿を認めると、陶器のように滑らかな頬を綻ばせ、迷える子羊を楽園へ導く救世主のように、しなやかな指先を差し伸べた。

「おいで、白良」

 いつも通りの、甘く、鼓膜を優しく愛撫するような声。それなのに、白良の足は石になったかのように、ちっとも前に動かない。
 本能が激しく、薔薇に近づくことを拒んでいた。
 薔薇は白良の怯えを、まるで愛しい子供の悪戯のように意に介さず、甘やかに、誘うように微笑んでいる。
 そして、もう一度、おいで、と薔薇の薄い唇が動こうとした瞬間。

 ──背後の、濃密な闇の中から、蒼美の悲痛な叫びが轟いた。

「逃げろ、白良! その手を取るな!!!」

 白良がその声に反応し、弾かれたように駆け出そうとした瞬間、薔薇の指先から、目に見えぬ高電圧の余波が、雷鳴を伴わずに爆ぜた。

「ぅ、が……っ!」

 激しい閃光が部屋を真っ白に塗り潰し、白良を庇った蒼美の体は、木の葉のように力なく壁へと叩きつけられる。
 彼の透き通るような白い肌には、内側から引き裂かれた血管のように、不吉な枝分かれを見せる漆黒の稲妻の跡──リヒテンベルク図形が、無慈悲に、そして鮮烈に焼き付いていった。

「あ、きら、にげろ……!」

 今度こそ、白良は部屋を飛び出した。
 背後で薔薇が小さく、歌うように笑う気配が、凍てつく冷たい風となって、逃げる背中を追いかけてくる。

 どうして、こんなことになっているんだろう。何が起きているんだろう。

 薔薇と蒼美は、不器用に、でも確かに、寄り添い合おうとしていたのではなかったのか。白良は、何を間違えたのだろう。
 混乱で千切れそうな頭で考えながらも、足は全速力で逃げ場を探す。

 どれくらい逃げただろうか。迷宮のような廊下の果て、物置らしき狭い暗がりに身を隠し、白良は爆発しそうな激しい鼓動を抑えて座り込んでいた。

 だが、その安息は一瞬で終わる。

「白良、みぃつけた」
「っ、薔、薇」
「こんなところに隠れてたんだ。ふふ、白良は自分の家みたいに、この屋敷のことをよく知ってるよね」

 頭上から降ってきたのは、どこまでも澄んだ、楽器のような声だった。
 薔薇が、もう逃げられない獲物を慈しみ、観察するような瞳で白良を見下ろしている。

「なんで……蒼美先輩は!? なんでこんな」
「兄さんは無事だよ? ちょっと眠っているだけ」
「だから、なんで! こんなことする必要があんだよ!」
「ねえ白良。僕たち三人で、ここで暮らそう?」
「……は……?」

 恐怖で思考が霧散し、ガチガチと歯の根が合わない白良に、薔薇は淡々と、けれど極上の愛の言葉のように柔らかく語りかけていく。

「……いや、意味が……」
「分からなくても大丈夫。白良は家で寂しい思いをしているんでしょう? 僕たちと一緒にいれば、絶対にそんな思いはさせないし」
「ごめん、だから、本当に意味が、わかんないって……今までみたいに、時々遊びに来るんじゃ駄目なのか? なんで、一緒に暮らすなんて」
「だって、好きだから。好きだからもっと一緒にいたいし、離れたくないし、他の人と居るところなんて見たくない」

 薔薇の紡ぐ言葉は、狂気的な熱を帯びて白良の耳朶を焦がす。
 平素なら頬を染めてしまいそうな熱烈な口説き文句も、こんな逃げ場のない状況の中では、白良には恐ろしくしか感じられなかった。

「っ、いや、そういうのが聞きたいんじゃ、なくて」
「白良のために、少しなら我慢できるし、したいとも思うけど。ならせめて、白良の帰ってくるところがこの家ならいいなって」

 薔薇が、ダンスの一節を踊るようなしなやかな動作で、その場にしゃがみ込む。
 そして、白良の頭を両手で包み込むように掴むと、優しく、しかし、いかなる拒絶も許さぬ絶対的な力で顔を持ち上げた。
 無理やり視線を合わされ、瑠璃色の深淵──その美しき演算の渦に、引き摺り込まれる。

「ぅ、え……?」

 薔薇の指先から、思考の神経系を麻痺させる、甘く痺れる微弱な信号が流れ込む。
 抗おうとする生存本能さえも、とろけるような甘美な快楽へと変換され、脳の髄まで痺れさせていく。
 かぱ、と空いた白良の口が、呼吸を求めてうごめく。誘うように差し出された舌の、その艶かしさに、薔薇はうっとりと目を細めた。

「ひ、ぁ……っん、え? は、なに、これ」
「大丈夫。怖くないよ。僕がいるからね」
「ふ、ん、ぁ、まって、ぁ、だめ、」

 薔薇に触れられている場所から、じんわりと心地よい、しかし内側から燃えるような悦楽が広がる。
 恐怖も、理路整然とした疑問も、蒼美への心配さえも、すべてが遠く霧散していった。

 思考が真っ白な光の中に消え、自我の境界が曖昧になっていく。

「大好きだよ、白良」

 薔薇の震える、泣いているようにも聞こえる声が、最後の一撃となって、白良の空っぽになった心を貫いた。