青薔薇の箱庭



 洋館の静謐を破ったのは、薔薇の突拍子もない一言だった。

「ねえ白良、兄さん。僕も明日、学校に行ってみたい」
「……は?」

 白良は、宿題のプリントに走らせていたシャープペンの動きを止めた。芯が折れる小さな音が、しんと静まり返った部屋に響く。
 隣では、蒼美が淹れたての紅茶を口に運ぼうとして、その動きを完全に静止させていた。カップから立ち上る湯気が、呆然とした蒼美の顔を白くぼかしている。
 窓から差し込む斜陽を受けて、薔薇の瑠璃色の瞳は、まるで磨き上げられた宝石のように、純粋な好奇心でキラキラと輝いていた。その無垢な光は、見つめるこちらの思考を狂わせるほどに鮮烈だ。

「白良が毎日通っている場所でしょう? そこで何を見て、誰と話しているのか、僕も共有したいんだ。ダメかな、兄さん」
「ダメに決まっているだろう。お前は……」

 蒼美が、お前は、人間ではない、と突きつけるより早く、薔薇はふわりと、春の陽だまりのような温かさで微笑んだ。
 その表情には、一切の悪意も、計算の気配すら感じられない。ただ、真っ白なキャンバスのような好奇心だけがそこにある。

「大丈夫だよ。僕、うまくやれるから!」
「え〜、そうは言っても……」

 白良は、自分の通う高校の騒がしい校舎を思い浮かべた。
 良くも悪くも平々凡々、規律と喧騒が入り混じるあの場所に、この世のものとは思えない美貌を持ち、どこか浮世離れした空気を纏うこの部外者を連れて行って、無事で済むとは思えない。周囲の視線に晒される自分を想像するだけで、冷や汗が背中を伝う。
 しかし、薔薇の言葉は止まらない。

「ダメって言っても勝手にいくし。白良をこっそり追いかけるのも、それはそれで楽しそうだけど……できれば許可がほしいな」
「う、うーん、勝手にくるのは困るな……。流石に、蒼美先輩も来てくださいよ。俺一人じゃ、何かあったとき手に負えませんって!」
「はぁ……なんで私が、そんな面倒なことに」

 蒼美は深いため息をつき、眉間を指先で強く押さえた。その指は、苛立ちを隠すように僅かに震えている。
 拒絶の言葉を吐こうと唇を動かす蒼美の、その視界の端では、まるで捨てられた子犬のように潤んだ瞳の白良と、獲物を追い詰める猟犬のような、底の知れない色を宿して自分を見つめる薔薇。二対の視線が、じっ、と、蒼美に注がれている。

「……仕方ない。監視役がいなければ、何を仕出かすか分かったものではないからな」

 観念したように呟く蒼美の横顔には、心底迷惑がりながらも、どこか新しい家族の破天荒な我儘に振り回されることを受け入れ始めている、微かな柔らかさが漂っていた。
 こうして、世間知らずの麗しきアンドロイドの、あまりにも危うく、爆弾を抱えたような登校日が決まってしまった。
 白良は、期待よりも圧倒的な不安が勝る胸の鼓動を感じながら、震える手で折れた芯を出し、ひとまず明日の提出に向けて、宿題の白紙に目を落とした。



 うまくやれる、と自信満々に言っていた薔薇の、その言葉の意味を、白良は登校直後の正門前で思い知ることになった。

「あの……君、見かけない顔だけど、転校生かな?」

 不審そうに眉を寄せ、歩み寄ってきた担任の教師。その至極真っ当な疑問に対し、薔薇は戸惑う素振りも見せず、吸い寄せられるように至近距離まで歩み寄った。
 長い睫毛が影を落とし、瑠璃色の瞳の奥で、膨大な演算処理を示す微かな光が静かに明滅する。
 薔薇の指先が、親愛を示す挨拶の振りをしながら、吸い付くように教師の側頭部へ触れた。その瞬間、指先と肌の接地面を通じて、超微弱な電気信号が神経系を伝い、直接脳の基底核へと送り込まれる。

「僕は、3年4組の茨蒼美の弟の、薔薇です。今日からここで一緒に勉強することになっています。そうですよね?」
「ああ、……そうだ。そうだった。蒼美くんの弟の、薔薇くんだな。話は聞いている。教室の場所はわかるかな?」
「はい、大丈夫です。ではこれで」

 焦点の定まらない目で、糸を切られた操り人形のように虚脱した頷きを返す教師。
 その無機質な肯定の返答を見て、白良の背中にどろりと冷たい汗が伝い落ちた。

「おい薔薇、今、何した!? 先生、様子がおかしいんだけど……」
「脳の電気信号を直接ハッキングして、認識を書き換えたんだ。僕を、ここにいて当然の存在だと定義し直しただけ。簡単だよ」

 それはつまり、洗脳ということではないのか。
 人間の尊厳や倫理観を根底から揺さぶる暴挙。その底知れぬ力に恐怖し、震える白良をよそに、薔薇は「ね、うまくやったでしょう?」と春風のような微笑みを浮かべ、いたずらっぽくウィンクしてみせた。
 そのあまりにも無垢で、悪意のない笑顔が、今は何よりも恐ろしい。

「おい、薔薇。お前、私の代わりに授業を受けたらどうだ」

 高く昇り始めた太陽を眩しそうに細め、あくびを噛み殺しながら、蒼美が事も無げに提案した。
 彼にとっては、この異質な弟が人間をどう作り替えようと、興味のない些末なことなのだろう。
 平穏に慣れ、最近忘れていた蒼美という人間の本質的な傲慢さを突きつけられ、白良はひくひくと口の端を痙攣させた。
 蒼美の言葉に対して、薔薇はマイペースに悲しげな顔をした。

「え、それじゃ白良とは離れないといけないの? それは嫌だな」
「いや、俺についてきてもお前の席ないから……っていうか蒼美先輩、ご自分はどうするつもりなんですか!?」
「私は旧校舎で寝る」
「は!? 薔薇を一人にするんですか!? 何をしでかすか分からないんですよ!?」

 白良の悲痛な叫びも、自由奔放で徹底して自分勝手な蒼美の耳には届かない。
 蒼美はひらひらと軽やかに手を振ると、重い足取りで喧騒から逃れるように背を向け、影の濃い廊下へと消えていく。

「別に平気だろ。放課後に迎えに来いよ。じゃあ、おやすみ」

 朝の柔らかな光を浴びながら、悠然と去っていく蒼美の背中。
 後に残されたのは、圧倒的な力を無自覚に振りかざす麗しき怪物と、胃を抉られるような思いで見守るしかない、平凡で無力な白良だけ。
 波乱に満ちた、そして取り返しのつかない一日を予感させるチャイムが、無慈悲な音色で校舎に鳴り響いた。



 放課後のチャイムが鳴り響くまで、白良の危惧とは裏腹に、校内の時間は意外なほど平穏に過ぎていった。
 薔薇に暗示をかけられた教師たちは、教室の隅に佇む薔薇をそこにいて当然の学生として機械的に扱い、クラスメイトたちもまた、あの変人として名高い茨蒼美なら、親戚を代わりに学校によこす奇行もあり得るか、と無理やり自分を納得させていたらしい。

「授業はどうだった? つまんなかっただろ」
「そうだね。……でも、日本史の教師が何度"つまり"を言うのか数えるのは面白かったよ。あまりにもたくさん"つまり"と言うから」
「はは、めっちゃ学生してんじゃん」

 西日が長く伸びる廊下を通り、白良は薔薇を連れて、化学部の重い木製の扉を開いた。

「化学部はバラまみれで、結構屋敷に近いから、薔薇には馴染み深いんじゃないかな。部員もちょっと変わってるし、すんなり受け入れてくれると思うよ」

 部室には、放課後まで寝ていたらしい蒼美と、橙真、桃凪の二人が待っていた。
 室内を埋め尽くすように咲いたバラが、夕陽を反射して怪しく光っている。

「紹介します。ええと、蒼美先輩の弟の……薔薇くんです」
「へぇ、弟!? はは、おもしれ〜」

 橙真は人当たりのいい笑みを浮かべて歩み寄ったが、その瞳の奥には、鋭いナイフのような警戒心と、獲物を解剖するかのような好奇心が同居していた。
 幼馴染として蒼美の複雑な家庭環境を知り尽くしている彼にとって、突如として湧いて出た"弟"の存在は、奇妙極まりない興味の対象なのだろう。薔薇の喉元を、剥製師が品定めするような視線が冷たく撫でていく。
 一方、桃凪は対照的に、純粋な好奇心を弾けさせて、薔薇に勢いよく詰め寄った。

「すごーい! 美形一族なんですね、茨先輩って」
「あはは、ほんとだよな。並ぶと残酷すぎる……」
「いやいや、白良もかっこいいよ? 薄目で見ると、割と」
「おい」

 屈託なく笑い合い、肩を並べてじゃれ合う白良と桃凪。
 その親密そうな光景を、部屋の隅で椅子に深く腰掛けた蒼美が、沈黙の中、沼の底から見上げるように見つめていた。
 ふと、蒼美は左胸のあたりを無意識に押さえた。チクチクと、細い氷の針を何本も刺されたような不快な痛み。
 白良が自分以外の誰かに向ける、無防備で明るい笑顔。それが、まるで自分の聖域を土足で荒らされたかのように不愉快で、同時にひどく虚しかった。
 その感情の正体がつかめず、蒼美はただ不機嫌そうに眉根を寄せ、逃げるように視線を逸らす。
 だが、その一瞬の感情の機微を、薔薇だけが逃さなかった。

「……嫌なら、嫌と言えばいいんじゃないの?」

 不意に耳元で囁かれた、無機質に透明な声。
 いつの間にか隣に音もなく立っていた薔薇が、感情の読み取れない静かな目で、白良と桃凪のやり取りをじっと見つめている。

「なんの話だ」
「僕は嫌だよ。兄さんも同じでしょう」
「は? 嫌って、何が」

 蒼美は苛立ち紛れに低く問い返したが、薔薇は白良たちの方を見据えたまま、事も無げに、けれど確信に満ちた口調で続けた。

「白良が、僕以外の何かに笑いかけるのが」

 蒼美は絶句した。
 剥き出しの独占欲を、薔薇が露わにしていることに。その言葉が、今自分の胸を苛んでいるどろりとした不快感の輪郭と、あまりに正確に一致してしまったことに。
 平静を装い、蒼美は薔薇を鼻で笑った。

「お前、機械のくせに、何を……」
「だって、嫌なものは嫌なんだもん」

 薔薇は感情の起伏を感じさせないまま、唇の端を僅かに吊り上げた。
 その徹底した独占欲の吐露に、蒼美は思わず吐き捨てるように、呟いた。

「……好きなのか、白良のことが」

 思わず漏れた、自問自答のような問い。
 その言葉を聞いた瞬間、薔薇はきょとんとしてすべての動きを止めた。
 深い藍色の瞳が大きく見開かれ、何度かパチパチと瞬きを繰り返す。
 そのわずか数秒の間、彼の中の何兆という回路が青い火花を散らし、既存の全データを再定義して、新しい意味を構築していくのが見えるようで、蒼美はぞっとした。
 やがて、薔薇の顔に、これまでに見たどの表情よりも鮮やかな、魂の震えさえ感じさせるような笑みが浮かぶ。
 それはまさに、烈日の下で一気に開花し、世界をその色に染め上げる一輪のバラ、そのものだった。

「そうか」

 その声は、震えるような喜びと、ドロリとした欲を孕んでいた。蒼美はそれに、静かに息を呑む。

「僕は白良が、好きなんだ」

 自らが定義したその衝動に、薔薇自身が深く、感銘を受けたように、瞳を揺らした。
 春の嵐よりも鮮烈で、残酷なほどに清らかな、告白だった。

 濁って、熱くて、制御不能な何か。
 微笑む薔薇の瞳の奥で、再び怪しい光が明滅する。
 白良を独占するためなら、この世界ごと、望む形に書き換えてしまっても構わない。
 そんな、狂気にも似た甘い恋心が、この放課後の化学室で産声を上げた。