青薔薇の箱庭



 あの日以来、洋館を支配していた重苦しい沈黙は霧散し、空気は劇的に変わった。
 薔薇が屋敷の一員として公然と加わり、白良が訪れる頻度もさらに上がったことで、常に重たい沈黙が漂っていた廊下にさえ、どこか明るい陽だまりのような雰囲気が満ち始めている。
 とはいえ、長年、"それ"を忌むべき影として遠ざけてきた蒼美の戸惑いは、隠しようもなかった。
 重厚で巨大なベルベットソファ。その中央に座る蒼美の両隣を固めるように、白良と薔薇が当然のような顔をして腰を下ろす。

「蒼美先輩と薔薇って、どっちが兄なんだろ? やっぱ、人間である蒼美先輩?」
「は、なんだそれ。馬鹿馬鹿しい」
「なるほど。……兄さん、お茶のおかわりはどう?」
「やめろ! 気味が悪いんだよ!」
「まあまあ先輩、たった二人の家族なんですから、仲良くしないと! ね、薔薇!」
「そうそう、慣れてもらわないと。ね、白良?」

 面白がってニヤニヤする白良と、クスクスと喉を鳴らして楽しげに揶揄う薔薇。その間に挟まれ、苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか突き放しきれない顔をした蒼美。
 隣に座るまだぎこちない"兄弟"を眺めながら、白良は胸の奥がじんわりと温かくなるのを抑えられなかった。

 よかった。不器用で、ひどく遠回りだったけれど、二人は今、ちゃんと家族になろうとしている。

 歪ながらも再生していく二人の姿は、白良の心にも小さな勇気の灯を点してくれた。
 二人の仲をとりもち、穏やかな時間を共有しながら、白良はいつも密かに想像する。

 白良の、血の繋がらない姉、紫凛。
 彼女との冷え切った関係に悩む白良にも、いつかこんな風に、他愛ない軽口を叩き合える日が来るのではないか。
 そう思えるだけで、この屋敷を出て家へ帰る足取りが、昨日までより少しだけ軽くなる気がする。
 浮かれた気持ちのまま、白良は手を挙げて提案した。

「はい! せっかくだし、外でお茶しません? 今日は晴れてるし、バラでも見ながら!」
「いいね、そうしようよ。兄さんもいいでしょ?」
「……勝手にしろよ」

 素直じゃない蒼美の気が変わらないうちに、急かすように背を押して外に出る。
 昼下がりの庭園には、眩い太陽の光が降り注いでいた。
 手入れの行き届いた真紅のバラたちは、光を透過して輝かんばかりに咲き誇り、むせ返るような香りを風に乗せている。

「ほら、蒼美先輩、薔薇! 見てください、きれいに咲いてますよ」

 白良の弾んだ呼びかけに、蒼美は視線を彷徨わせた後、複雑な影を宿した表情で足元の花に視線を落とした。
 その頑なな様子に、白良は苦笑混じりに呆れながら、そっとその肩をたたく。

「……」
「なんでそんな、暗い顔してるんですか。本当に嫌いなんですね。こんなに綺麗なのに」
「……だからだよ」

 それは、地を這うような、こぼれ落ちるほどに低い吐息だった。

「え?」
「……大切に守られたから、何より綺麗にあれるんだろう。幼い頃からずっと、私の記憶にある限り、この庭のバラが美しくなかったことなど一度もない。……父は、私よりもこのバラに、手をかけていた」
「……それって、バラに嫉妬してる、ってことですか?」
「うるさいな。……そんな単純な話ではない」

 蒼美はぷいと顔を背けたが、白皙の耳たぶが僅かに赤らんでいるのを白良は見逃さなかった。あまりにも人間らしく、子供じみたその反応を、微笑ましく思う。 
 蒼美にとってのバラは、決して捨てられない、両親の面影。それをずっと嫌い続けるのはきっと、蒼美にとってあまりにも辛いはずだ。
 蒼美が少しでも心穏やかにバラを見つめられるように、白良は言葉を探した。

「だけど今、ここに咲いているバラが綺麗なのは、お父さんじゃなくて、先輩が大切にしたからでしょ。蒼美先輩に守られて、こんなに頑張って咲いてるのに。それを作った先輩が見てあげなかったら、バラたちが可哀想ですよ」
「……私が、守った……?」
「そうですよ。ほら、見て。本当に綺麗」

 白良に促され、蒼美はおそるおそる、震える指先を大輪の花びらに触れさせた。絹のように滑らかな感触が、彼の指を伝って心を解いていく。
 慈しむような白良の眼差しに見守られ、蒼美の強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。  
 蒼美の表情が緩んだのを見て、白良もまた、破顔した。

「あ、薔薇はバラ、好き?」

 白良が不意に、隣で黙り込んでいた薔薇に問いかける。薔薇は小首を傾げ、花の香りを吸い込んだ。

「どうかな。ふふ、分からないや。……白良は?」
「俺は、結構好き、かな。見てると元気がもらえるし」
「ふぅん」
「……あ、なんか、あっちでマリーナさん手ぇ足りてなさそうだから、俺手伝いに行くね」

 白良が片付けのために背を向け、数歩歩き出した、その瞬間だった。
 薔薇の顔から、灯が消えるように一切の感情が消え失せた。
 それから、無表情のまま、目の前の、蒼美が今しがた愛おしそうに触れていた大輪のバラを無造作に掴み取ると、鋭い棘が柔らかい指に食い込むのも構わず、ぐしゃり、と無残に握りつぶす。
 指の間から滴る、血のように赤い花の汁を無感動に眺めながら、薔薇は首を機械的に四十五度傾けた。

「ふぅん……これの、どこがいいんだろう、みんな」

 静かすぎる声。白良は背中に、言いようのない薄ら寒さを感じて、弾かれたように振り返った。
 けれど、白良と目が合った瞬間には、薔薇はいつもの無垢で愛らしい笑顔に戻っていた。
 その手のひらの中に、潰された花など存在しないかのように。