*
翌日、白良は胃の奥を焼くような絶望感を抱えたまま、それでも再び洋館の門を叩いた。
しかし、指先に伝わるのは鉄格子の冷たさだけで、重く閉ざされた扉はびくともせず、何の応答もない。
インターホンの無機質な沈黙そのものが、蒼美からの、これ以上ないほど明確な拒絶だった。
「白良様……」
「あ、エリナさんと、ジュリアさん……!?」
「しっ、こちらへ。マリーナさんが呼んでますよ!」
「はぁ……私は、反対したのですが」
門前で立ち尽くす白良の袖を、背後から控えめに引く手が二つ。
エリナは明るく、ジュリアは主人を案じて良い顔はしないもののどこか気遣わしげに、裏口の茂みへと導いてくれる。
通された勝手口の先、薄暗い使用人部屋の隅で、マリーナが静かに待っていた。
「黙っていて、ごめんなさい。薔薇を作ったのは、蒼美様ではない、ということを」
「いや、それは……」
「……少し、昔話をしましょうか」
白良を包み込むように見つめるマリーナの視線は、古い記憶の地層を慎重に、そして大切に掘り起こすように、淡々と、けれど消えない湿り気を帯びていた。
白良が迷いながらも一つ頷いたのをみて、静かに、マリーナは話し出す。
「科学者であった旦那様は、真理を解き明かす才には恵まれていましたが、父親としての才は、ついぞ持ち合わせていなかったのでしょう。幼い息子をどう慈しめばいいのか分からず、蒼美様の世話のすべてを使用人たちだけに任せきりなさいました」
マリーナの話は、主家への忠誠ゆえか端的で、すべてを正確に詳らかにしているわけではなかった。
語られない空白、意図的に濁された言葉。
自分がどこまでも部外者であり、この家に触れる資格を本来持たないことを痛感させられる。
それなのに、その曖昧な語り口からでさえ、蒼美が過ごした冬のような、孤独で凍てついた幼少期が鮮明に浮かび上がってくるから、悲しかった。
「それでも、私は、旦那様は蒼美様を愛していたと、そう思います」
「それって、どういう……」
「……蒼美様は、バラが嫌いだと?」
マリーナが、白良の問いかけには直接答えず、窓の外、夕闇に沈む庭園へ視線を投げた。どこか遠くを見るようなその瞳が、白良に問い返す。
「はい。そう、言ってました、けど……」
「そうですか」
マリーナは、誰も手をつけないまま机の上で冷めていたジュリアの淹れた紅茶を、ひとくち、口にした。それから、胸の奥に溜まった澱を吐き出すように深く目を伏せる。
「奥様と旦那様は、バラがとてもお好きでした。このバラ園はお二方が大変な手間をかけて作り出した、夢の庭なのです。お二人の、愛の象徴のような場所とも言えるかもしれません」
──だからだ、と、白良はようやく、分かった。
バラを嫌いだと言い、逃げるように目を逸らし、忌み嫌いながらも、狂おしいほどの情熱でこの園を守り続けているのは。
それが今は亡き父母が愛し、遺した、確かな形見だからなのだ。
そのあまりにも健気で、歪な親愛の形に、白良の胸は激しく痛む。
だって、それはきっと、アンドロイドの薔薇に対してもそうなのだ。
自分への否定そのものである彼を、憎くてたまらないのに、それでも手放すことも壊すこともできないのはきっと、それが父が魂を注いだ最高傑作だから。
視界が滲む。蒼美の献身は、決して報われることがないのに、だからこそ、あまりにも悲しくて、美しい。
「ごめんなさい、白良様。私のせいで……私が、あの人の、薔薇を、また見たいと、思ってしまったから……」
マリーナが震える声で頭を下げた。薔薇を秘密裏に起動させていたことが露見し、白良が蒼美から最大の拒絶を受けたことに、深い責任を感じているのだろう。
「俺が、悪いんです。マリーナさんのせいじゃない。……俺が、正面から、向き合わなきゃいけなかったんだ」
白良は、自分でも驚くほど静かな、けれど熱を持った声でそう告げた。
蒼美の、あの美しく完璧な姿に隠された裏側。そこに潜む、ただ親を愛し、愛されたかっただけの少年を、白良はただ、見つけて、抱きしめてあげたいと、そう思った。
*
マリーナとジュリアが足早に持ち場へと戻り、冷え切った使用人部屋には、白良とエリナの二人だけが残された。
西日が部屋の隅々を長く引き延ばし、埃の粒子が静かに踊っている。
「旦那様は、蒼美様を愛していた……」
先ほどのマリーナの言葉が、重い残響となって耳の奥で反芻される。
もしそれが本当なら、あの部屋で眠る薔薇という存在は、蒼美を否定し、追い出すための残酷な装置などではない、のだろうか。
膝を抱えて考え込む白良の背中に、エリナが意を決したように声をかけた。
「ねえ、白良様。……薔薇に、会いに行きませんか?」
「えっ……でも……そんなことしたら、今度こそ本当に許されないですよ。きっと二度と、ここには来られなくなる」
即座に首を振る白良だったが、エリナはいつになく真剣な、射抜くような視線を真っ直ぐにぶつけてきた。
「だからって、このままでいいんですか? ……私、ずっと変だと思ってたんです。蒼美様は、薔薇を綺麗に整えて飾ったけれど、それだけ。中身のプログラムや機能はなにも、いじっていないはず。それなのに……」
「何が、変なんですか?」
白良の問いに、エリナは一歩詰め寄り、声を潜めた。
「だって、旦那様が作った『理想の息子』って言うには、あの子、ちょっとポヤポヤしすぎてるでしょ? 完璧な科学者の後継者にしては可愛すぎるっていうか……隙がありすぎる。白良様が起こしてから、ずっと疑問だったんです。それに、誰も、白良様が読んじゃったっていうあのファイル、最後まで読んでないですから」
「え、そうなんですか」
「はい。みんな、旦那様の狂気が怖くて、読めなかった。……あるいは、真実を知るのが怖かったのかも」
エリナの指先が、僅かに震えていた。長年この屋敷に仕え、沈黙のルールを守ってきた彼女にとっても、それは大きな賭けなのだ。
「だから、もう一度あれをちゃんと読んでみてほしいんです。私も真実が知りたい。私がやったら一発でクビになっちゃうけど、白良様は……失うものとか、もうないですもんね?」
エリナの揶揄い混じりの言葉に、白良は苦笑しながらも、ゆっくりと腹を括った。
確かに、おそらくもうすでに嫌われて、明確に拒絶された今の自分には、これ以上の底など存在しない。
白良がファイルを確認する間、エリナが蒼美の足止めを引き受けてくれるという。
それを信じて、白良は息を潜め、廊下の影を縫うようにして、再びあの禁じられた部屋へと滑り込んだ。
棚から、呪縛の象徴であるあのファイルを取り出す。
ここにある真実が、もし期待を裏切る残酷なものだったら、自分はどうするべきなのか。そう思うと、手が震えて、踵を返してしまいそうになる。
それでも、知ることで、蒼美の孤独が報われる可能性が万に一つでもあるなら、白良はこれに立ち向かうべきだと思った。
ページを開く。一字一句、読み飛ばさずに一枚ずつ、捲っていく。
はじめの方は単に設計についての、専門用語と数式の羅列が続く。白良には理解できない記号の海。
しかし、その先に、余白を埋め尽くすように記された、殴り書きのようなメモを見つけた。そうだ、あの時も、これを読みかけたんだった。
そのうちのひとつを、震える指でなぞる。
『息子に欠落したものを補うために、これを利用し──』
どくん、と心臓が跳ねた。その先の文章を、白良は指でなぞる。
『息子に欠落したものを補うために、これを利用し、健全な成長に寄与させる。本機との対話と共有が、彼の人生に彩りを与えることを願う。一人の世界を恐れる彼に、この腕が温もりを教えることを』
「……代替品なんて、書いてない」
このメモだけじゃない。薔薇がどうやって蒼美に寄り添うのか、そのためのシミュレーションが、不器用に細かくいくつものメモに書き込まれている。
視界が急激に滲んで、次のページがめくれない。でも、もう、十分だった。
それは単なる設計図などではなく、愛を伝える術を持たなかったのだろう蒼美の父が綴った、稚拙で、あまりにも切実な、不器用な愛の日記だった。
『私は愛をうまく扱えない。正しい愛を知らないのだろう。だから、間違えた。間違えてしまった。取り返しのつかないことになった。しかし、それでもせめて、この薔薇を、蒼美のそばで、蒼美のための存在として、何かを与えてやれる存在にしたいと思う』
『私と彼女の息子に寄り添う。この薔薇を、そういう存在と定義づけたい。そうすれば、そうなれば、私の愛も報われるのではないだろうか』
涙が溢れて、ファイルが濡れてしまいそうで、歯を食いしばって堪える。
それから、白良は覚悟を決めて、静かに、ガラスケースの中の薔薇を起動した。スリープから目覚める微かな電子音が、産声のように聞こえる。
目を覚ました薔薇が、白良の顔を見て、小さく目を見開いた。
「薔薇……」
「白良、泣いてるの? どうしたの、大丈夫?」
「薔薇、あのさ、先輩のお父さんは……きっと、ちゃんと、家族を作りたかったんだ」
白良の頬にそっと冷たい手を添え、心配そうに覗き込んでいた薔薇が、ゆっくりと瞬きをした。
その瑠璃色の瞳が、部屋に差し込む夕闇の光を優しく反射する。
「家族……?」
「蒼美先輩が、孤独にならないように、薔薇はいたんだ。薔薇は、誰かの身代わりじゃなくて、──誰かを愛するために、愛されるために、生まれたんだな」
だからこんなに、薔薇の手は迷いなく、優しいのだと、そう思う。
涙を拭ってくれる薔薇の、滑らかで慈しむような手に、白良は小さく擦り寄った。
薔薇の、白良に差し伸べられていた手が、わずかに震えて止まる。
いつも完璧に整えられていた薔薇の呼吸が、一瞬だけ、白良にも聞こえるほど深く、重く乱れる。
「……ああ、君は」
薔薇が何かを言いかけて、喉を鳴らす。
その瞬間、白良の頬を支える薔薇の指先に、グ、と力がこもった。痛いほどではない。
けれど、絶対に逃がさないとでも言うような、縋り付くような重みがそこにはあった。
白良が見上げると、視線が交わって。
それから薔薇は、凍てついた冬が明けて咲き誇るバラのように、笑った。
「……僕も、そうだったらいい、と思うよ。白良」
薔薇の瞳が、白良を射抜くように見つめている。
いつも、どこか遠くを眺めているようだったその双眸に、今は白良一人しか映っていない。
暗い淵の底で、小さな、けれど消えない熱を帯びた火が灯ったような、そんな恐ろしいほどに強い光が、瞳に宿っていた。
一瞬、息が止まるような心地がして、白良は頭を下げた。あまりにも熱烈な視線に、焼かれてしまうかと思った。
白良は正気を取り戻すように首を振り、蒼美の父が遺したファイルを大事に胸に抱きしめ直す。それから、薔薇を見つめ返した。
「俺は、……俺は、蒼美先輩に、お父さんの本当の優しさを受け取ってほしい。あんなに悲しい誤解をしたまま過ごすなんて、そんなの嫌だよ」
「……うん」
「薔薇が、ほんとうは蒼美先輩の敵なんかじゃないって、知ってほしい。恨むべき存在なんかじゃ、ないって、一緒に、生きていけるんだって、知ってほしいよ……」
堪えきれなくなった涙が頬を伝って、床に小さな波紋を作って落ちる。
薔薇は一歩踏み出し、白良の震える身体をゆっくりと、しかし確実に両腕のなかに招き入れた。
一瞬、白良の身体が強張った。けれど、薔薇の手がそっと背中に添えられ、温もりと重みが伝わると、深く吐き出すような吐息とともに、その胸に顔を埋める。
抱きしめる腕があまりにも優しいから、涙がずっと、止まりそうもなかった。
バラの香りが、かつてないほど優しく、二人を包み込んでいた。
*
部屋の扉が、悲鳴を上げるような音を立てて乱暴に跳ね飛ばされた。
震える白良の肩を包み込んでいた薔薇の腕が、微かな駆動音とともに止まる。
白良は、弾かれたように入り口を振り返った。
そこに立っていたのは、激しく肩を上下させ、夜色の瞳に狂気的な怒りと底知れない絶望を宿した、蒼美だった。
「……白良」
地を這うような、冷え切った声。蒼美は薔薇の腕の中に収まる白良の姿を一瞥し、それから信じていた者に裏切られた子供のような視線で、白良を射抜いた。
「お前も、父と同じなんだな。私という失敗作などより、そのガラクタの方が、よほど愛おしいらしい。……私を、誰も見ようとしない」
「違います、先輩。俺の話を聞いてください」
白良はやっと、逃げずに蒼美の目を見ることができた。後ろめたさから何度も逸らしてきたその瞳は、今、白い光に照らされて青く澄んで、あまりにも脆く、美しかった。
白良にはもう、蒼美と向き合う覚悟がある。だから、目を合わせられる。父が遺した不器用な愛を、蒼美に伝えたかった。
しかし蒼美は、その真っ直ぐな視線にむしろ苛立ちを増幅させ、絶望を振り払うように激しく頭を振った。
「黙れ! どうして私に近づいた! どうして放っておいてくれない! どうして……! なのに、どうして、私を選んでくれないんだ、私には何が足りない!? そのガラクタと何が違う!?」
叫びは悲鳴に近かった。蒼美は薔薇を庇うように前に出た白良の、その献身的な姿に、泣きそうな顔を歪ませた。
それから、力任せに白良を突き飛ばすと、そのまま薔薇の胸ぐらを掴み、壁際へと荒々しく押し込む。
「お前は、私から何もかも奪わなければ気が済まないのか!」
その細く美しい指先が、薔薇の陶器のように白い喉にかけられた。ぎりぎりと、精密な機械の関節が軋む鈍い音が静寂に響く。
「壊してやる……はは、もっとはやく、こうすればよかった。こんなものがあるから、私はいつまでも、お前の、父の、影に怯えていなきゃならないんだ」
「蒼美先輩!」
「黙れ! あぁ、くそ、消えろ、消えてくれ……! 私の世界を、これ以上壊さないでくれ……!」
蒼美の瞳からは、大粒の涙が溢れ出していた。それは怒りというより、居場所を奪われ、暗い場所に閉じ込められ続けた子供の、悲鳴だった。
白良は必死に蒼美の背中にしがみつき、その腕を解こうと必死で力を込める。
「やめてください、先輩! 薔薇は、あなたの代わりなんかじゃない! 壊しちゃダメだ!」
「うるさい! 離せ、白良……! お前は、私を見捨てるんだろ!? アレの方がいいって言うんだろ!」
「言いません! 離してください、先輩!」
叫ぶと同時に、渾身の力で蒼美の胴を抱きしめ、背後へ引き剥がす。
勢い余って床に崩れ落ちた蒼美に、白良は逃がさないように覆い被さり、泣きながら叫んだ。
「先輩のお父さんは、あなたを否定なんてしてなかった! 代替品なんか、求めてなかった! ファイルをちゃんと見ましたか!? 見てないんでしょう! あなたが孤独にならないようにって、あなたの隣に居るべき存在として、薔薇を作ったんです! あなたを愛してたから、あの子を遺したんだ!」
白良の涙が、蒼美の白磁のような頬の上に落ちる。熱い滴は蒼美の涙と混ざり合って、冷たい床に溢れた。
見下ろす蒼美の姿が、あまりに無防備で、脆くて、今にも壊れてしまいそうなほど震えているから、白良は悲しかった。自分よりも年上のはずなのに、幼く見える。
宥めるように、白良は必死に蒼美を抱きしめた。もう大丈夫だ、と。あなたは一人なんかじゃない、少なくとも俺はここにいる、と、伝えたくて。
その時、壁際に立ち尽くしていた薔薇が、静かに、そして慈愛に満ちた凪のような声で口を開いた。
「……蒼美。旦那様──父様が、最後に言っていたよ。『蒼美は、私に似て不器用だから。せめてお前だけは、あの子の冷えた指先を温めてやってくれ』と」
「……」
「そのために、僕は目覚める日を待っていたんだ」
蒼美の身体が、目に見えて硬直した。
白良は、涙を流しながら、その細い身体をもう一度、壊れないように、けれど力いっぱい抱きしめた。
「先輩。お父さんの愛は、ちゃんとあったんです。形は歪だったかもしれないけど、あなたを守りたかった。薔薇は、あなたの敵じゃない。……あなたの家族になるために、生まれたんだ」
「っう、うぅ、」
「先輩は、失敗作なんかじゃないです。薔薇は代替品にはならない。蒼美先輩は、蒼美先輩だけ。たった一人の、茨蒼美でしょう」
青い髪を撫でながら、その溢れる涙を自分の胸で受け止めながら、やさしく、やさしく、白良は蒼美を抱きしめ続けた。
月明かりが部屋に深く差し込み、影を一つにする。
長い、長い時間ののち。白良の胸の中でようやく蒼美の激しい呼吸が整い、泣き疲れた子供のように、深い眠りに落ちた。
*
蒼美を寝室まで運び、マリーナたちに使用人としての後を託したあと。
白良は一人、再びあの嵐が去った後のような部屋に戻り、散乱した書類や倒れた椅子を片付けていた。
夜の静寂が戻った室内、月光を浴びて彫刻のように佇む薔薇の姿を見て、白良はふと、胸につかえていた疑問を口にする。
「薔薇。さっきの、お父さんの伝言……直接、聞いたの?」
薔薇は機械特有の滑らかな動作で、ゆっくりと白良へ顔を向けた。
その表情は、先ほど蒼美を宥めていた慈愛に満ちたものとは打って変わり、凪いだ水面のように平坦で、底知れないほどに静かだった。
「ううん。そうじゃないよ、白良」
「え……? でも、だって、さっき……」
白良の手が止まる。薔薇は首を僅かに傾げ、その無機質な美しさを一層際立たせるような笑みを浮かべ、淡々と告げた。
「あの状況において、蒼美と君との関係を修復するための最短ルートを計算した結果だよ。手記の内容をベースに、彼の深層心理に届く語彙を選択し、構築した。あれが、彼を鎮めるために最も効率的な言葉だと思ったから」
薔薇の瑠璃色の瞳が、暗闇の中で怜悧な光を放つ。
それは、白良と蒼美を救うための、善意による行動には違いなかった。
けれど、あまりにも正確に、あまりにも冷徹に人の心さえ演算の対象として扱い、最適解を導き出したその高度な知性に、白良は背筋が凍りつくような戦慄を覚えた。
「あの時は、あれが最善だと思ったけど……間違えてしまったかな、ごめんね」
白良の強張った表情を読み取ったのか、薔薇の声に僅かな憂いが混じる。
白良は震える声でどうにか言葉を絞り出し、戸惑いながらも、微笑む薔薇の柔らかい髪に手を伸ばして撫でた。
「いや、ううん……ありがとう、薔薇」
きょとん、と幼気な子供のような顔を浮かべる薔薇。その姿は、先ほどの冷徹な様子とは同一人物とは思えないほど無垢に見える。
白良は無理に口角を上げ、笑いかけた。
「あのさ。蒼美先輩だけじゃなくて、薔薇も、薔薇だけで。たった一人、誰の代わりでもない、俺の大事な……」
「……大事な?」
重ねられた問いに言葉が詰まる。ただの機械ではもちろんなくて、しかし改めて考えると、薔薇と自分の関係に何かの定義を下すのは、あまりに難しかった。
だけど、今、胸にある温かな感情を信じるなら。
「大事な、友達、だよ」
「ふぅん。……まあ、今は、それでいいか」
薔薇は小さく、どこか楽しげに笑った。そして白良の手を強引に引き寄せ、逃がさないように自分の腕の中に閉じ込めた。
不意を突かれた白良の鼻腔に、濃密な薔薇の香りが突き刺さる。
「ありがとう、白良」
「っえ、何……?」
「僕に意味を与えてくれて。愛するために、愛されるために生まれてきた、って」
本当に、嬉しかったんだよ、と。耳元で告げる薔薇の声は、恋人への睦言のように、あるいは盛りを迎えたバラのように、甘やかだった。
赤く染まった白良の耳を満足そうに眺めて、薔薇はガラスの中へと帰っていく。
窓の外では、夜の闇に深く沈んだバラ園が、不気味なほど静かに、強い香りを漂わせていた。
*
