青薔薇の箱庭



 夕食は、温められただけのレトルトのカレーだった。
 換気扇の回る音だけが低く唸るダイニングで、向かい合わせに座る紫凛は、スマホを片手にサラダをつついている。カチカチと、画面を叩く乾燥した音だけが、会話の途絶えた食卓に無機質に響いていた。

「……あの、紫凛さん」

 耐えきれない静寂を破るように声をかけたが、返ってきたのは、冷ややかな声だった。

「何か、学校で問題でも?」

 顔も上げずに返される。その視線は、皿の上のレタスか、あるいはスマホの向こう側に向けられたままだ。

「え、っと、それは、ない……ごめん、なんでもない」
「……そう」

 紫凛は短くそれだけを口にすると、皿に残った欠片を機械的に片付け、淡々と自室へ戻っていった。閉まったドアの音が、物理的な壁以上に重く白良の鼓動を打つ。

 拒絶されているわけではない。怒られているわけでもない。けれど、そこには決して踏み越えさせてはもらえない、明確で強固な境界線が引かれている。

 ──代替品。
 あの部屋で聞いた蒼美の言葉が、無理やり飲み込んだカレーとともに胃の奥で重く沈んだ。
 もうすでに亡くなっている父が残した呪いが、今もなお蒼美を蝕んでいる。
 自分そのものを否定され、別の何かに挿げ替えられることを望まれる絶望は、幼かった蒼美にとってどれほどのものだったんだろう。

 今になって、ようやく気づく。白良が、なぜあれほどまでに蒼美のことが気になって仕方がなかったのか。
 彼の背負う深い孤独に、自分自身の似たような傷を重ねていたからだ。

 目の前にいても、声が届いても、決して自分を見てはくれない家族。どれほど手を伸ばしても、指先さえ触れられない場所にある、どうしようもない渇望。

 自分なんかに共感できるわけもないほど、彼のそれは深いのに。

 白良はスプーンを動かし、表面の乾き始めた冷めたカレーを、無理矢理喉の奥へと押し込んだ。
 味は少しもしない。ただ、胸の奥にこびりついた寂しさだけが、じりじりと熱を持って白良を苛んでいた。



 翌日、重い足取りで洋館を訪れた白良は、磨き上げられた床に落ちる自分の影を見つめたまま、書斎で独り佇む蒼美に対し、深く、折れそうなほどに頭を下げていた。

「……蒼美先輩。勝手に資料を見たりして、本当にすみませんでした。俺、踏み込みすぎました」

 返ってくる言葉はなく、心臓の音だけが耳の奥で早鐘を打つ。
 広い書斎を支配する静寂。窓の外からは、夕暮れに湿り気を帯びたバラ園の、むせ返るような重厚な芳香が風に乗って紛れ込んでくる。
 蒼美は、テーブルに用意されたアフタヌーンティーに口を付けることもなく、ただ遠くの燃えるような紅を、窓硝子越しに虚ろに見つめたまま、自嘲気味に呟いた。

「……いい。私が、お前を招き入れすぎたんだ。何の色もない私の領域に、毒にも薬にもならない人間を一人くらい置いてもいいと……浅はかにも油断した。それだけだ」

 その声に、白良を激しく責める色はなかった。むしろ、白良に入り込まれる隙を自分自身に許してしまったことへの、救いようのない、冷徹な呆れが含まれている。
 その突き放すような物言いに、白良は胸の奥を締め付けられるような痛みを感じる。
 一歩ずつ、慎重に距離を詰めていたつもりだった。もしかしたら、わずかな信頼を得かけていたのかもしれない。それなのに、白良は身勝手にも、全てを台無しにした。
 それでも白良は、その傷口をさらに抉ってしまうかもしれないと分かっていてなお、どうしても確かめたいことを口にする。

「先輩。あの……薔薇を、起動させる気はないんですか?」

 昨日から、そればかりを考えていた。
 父の呪縛。代替品。それでもなお、蒼美があのガラスケースを壊しもせず、塵のように捨てもせず、今日までこの屋敷に残し続けてきた意味。
 普段は存在すら忘れたように放置する素振りを見せながら、時折、何かに導かれるように様子を見に来てしまう。その矛盾した執着の正体。
 それは、蒼美自身が気づかないふりをしているだけで、あの鏡のようなアンドロイドに、何かを期待しているからではないのか。

「……あいつは、父が私を見限った証拠だ。そんなもの、今更動かしてどうなる。私の劣等感が肉体を持ち、目の前で歩き出すだけだろう。それ以上に残酷なことが、この世にあるか?」

 蒼美の瞳に、深い、底の見えない陰りが落ちる。父に認められなかった幼き日の絶望、その停滞した冷たい空気が、巨大な屋敷の隅々にまで今も充満しているのだろう。

「でも、じゃあなんで……お父さんの研究を引き継いで、薔薇を完成させたんですか? 本当に嫌いなら、壊して捨てればよかったはずなのに」
「……完成?」

 蒼美が、凍りつくような鋭い視線で白良を射抜いた。その瑠璃色の瞳には、剥き出しの悲しみに似た怒りが宿っている。
 白良は、自分の失言を悟った。 

「なぜ、お前が完成しているなどと断言できる。私はまだ、一度もアレを──」

 その決定的な言葉を遮るように、白良のズボンのポケットの中で、場違いで無機質なバイブレーションが鳴り響いた。
 蒼美は無言のまま、白良のスマホを取り上げると、冷徹な手つきで画面を操作する。
 スピーカーに切り替えられた瞬間、静まり返った部屋に、間の抜けたマサユキの声が、残酷なほど明るく響き渡った。

『あ、白良? 悪い、今、薔薇がさ……「白良の好きなケーキの味を知りたい」ってきかなくて。マリーナも困ってるから、教えてくんない? ……って、あれ? おーい、もしもし?』

 プツン、と通話が切られる。痛いほどの、そして刺すような静寂が、書斎を包み込んだ。
 蒼美の白磁のような美しい顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。
 震える指先がスマホを強く握りしめ、その瞳には驚愕と失望が混濁している。

「アレを……起動していたのか」
「先輩、ごめんなさい、でも!」
「でも? なんだ。お前は、何度も何度も何度も、あの部屋を、アレの元を訪れたんだろう。楽しかったか? 毎日のように会いにくるくらいだ、そんなにアレが好ましかったのか? そうだろうな、アレは父の最高傑作なんだから!」
「ちがうんです先輩、俺は」
「っ出て行け!」

 低く、地を這うような、そして隠しきれない震えを伴った声。怒りに歪みながら、でもそれが涙声に聞こえて、白良は泣きそうになった。自分には、泣く資格なんて、ないのに。
 蒼美が、震える手で顔を覆う。
 今まで完璧に整えられていた仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、信頼していた相手に裏切られ、暗闇の中で傷ついた一人の少年の、悲痛な拒絶だけが残されていた。

「もう、なにも、聞きたくない。……私の前から、消えろ」

 冷徹な最後通告を投げ捨てたあと、蒼美はそれ以上、白良と視線を合わせることもなかった。
 白良は伸ばしかけた手を力なく下ろし、夕闇が深く降り始めた屋敷を、逃げるように後にした。