*
アンドロイドの『薔薇』を目覚めさせてしまったあの日から、白良の放課後の風景は一変した。
色々な場所に行って油を売る時間は減り、代わりに、駅前から続く緩やかな坂道を登る回数が増えた。
当初は恐る恐るだった訪問も、回数を重ねるうちに気楽なものになった。
蒼美が消極的ながら白良の存在をそこにあるものとして受け入れ出したのをいいことに、頻繁にあの浮世離れした洋館へ通っている。
あくまで目的は、マリーナからの依頼を果たし、秘密の温室で眠りから覚めた『薔薇』の様子を見るため。
薔薇に対面するたびに白良は、自身の常識が音を立てて崩れるのを感じている。アンドロイドであるはずの彼は、驚くほどに、人間らしかった。
「よ、元気してた?」
「! 白良、もう来てくれたの? いつもより早いよね」
白良が部屋に足を踏み入れると、薔薇は弾かれたように椅子から立ち上がり、嬉しそうに駆け寄ってくる。
そして当然のように白良の手を取りソファに座らせ、自身も隙間を埋めるように体を寄せて座る。
細く長い指を白良の指に絡めてきたり、迷いなく肩に頭を預けてきたりと、その距離感は妙に近い。その無防備な親愛の示し方は、蒼美が深層心理で求めている理想の反映なのだろうか、と、想像する。
薔薇との交流はいつも、思わぬ形で先輩の秘めたる嗜好を突きつけられるようで、絶妙に気まずい。
最近の白良は、屋敷で会う蒼美の顔をまともに直視できずにいた。下手な猥談を聞かされるよりもずっと、彼の内側に深く触れてしまっているような、後ろめたい恥ずかしさがある。
「薔薇は、いつもこうなの?」
「こう、って?」
「いや、その……ひっついてくるな、と思って」
「だめ? 白良に触れたくて……」
「お、おう。蒼美先輩じゃなくて?」
「だって、話したこともないし」
きゅ、と絡ませた指に、確かな力が込められる。機械の指先は、人間よりも少しだけ冷たく、熱が一定で、なぜか余計に生々しい。
蒼美は彼を、理想の恋人、として構築したと言っていた。
甘えるような仕草や、迷いのない接触。確かにそれらしいといえばそう感じる。
けれど、薔薇の言動からは蒼美に対する盲目的な愛情や、性的なプログラムが施されている気配が一切感じられないのが、白良には不思議だった。
最初から生みの親である蒼美だけを思い、彼だけを愛するように縛りをつければいいはずなのに、薔薇はあまりに無垢で、白良にも等しく親愛を示す。
白良の身体への触れ方は微妙に、いかがわしいといえばいかがわしい。優しくゆっくりと撫ぜるように肌に触れられるとドギマギもする。
しかし、白良はどちらかというと、ただひたすらに温もりを求めている幼子のような危うさを感じるのだ。
「……こんな広い屋敷に、蒼美先輩は一人で、寂しかないのかな」
「寂しい?」
「だって、親兄弟いなくて、それも小さい頃からなんだろ。あ、でも、メイドさんたちとは仲良く話すのかな?」
薔薇は、白良の肩に頭を乗せたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「どうだろう。あくまで雇用主と使用人の関係だから。おそらく、無駄な会話はしないんじゃないかな」
「そっか。それってなんか、可哀想……いや、ううん、可哀想ってのは失礼か。なんていったらいいんだろう」
「家族がいないと、可哀想なの?」
薔薇の瑠璃色の瞳が、真っ直ぐに白良を射抜く。その透明な眼差しに、白良は言葉に詰まった。
一概には言えない。家族がいるから幸せとは限らない。現に白良だって、今、同じ屋根の下にいる血の繋がらない姉紫凛との、息の詰まるような距離感にひどく頭を悩ませているのだから。
「……なんだろ、俺はさ、父親が結構いい加減な人で。母親とは死別でシングルファザーってやつだったんだけど、俺のこと一人家に置いて遊び行ったりとか、結構してたんだよな。色々雑だし、嘘もつくしさぁ」
「そうなんだ」
「それでも俺は、父さんが好き。でも、他人だったらムカつくし、嫌いなタイプなんだよ。同い年だったとしても友達にはならないと思う。父親で、嫌でもずっと一緒に生きてきて、他人じゃ知りようもないこと知ってて、だから憎みきれないってだけで……家族じゃなかったら、多分全然合わない。俺が特別なんじゃなくて、そういうのって結構あると思うし」
自分で選んだ相手ではない。考えてみれば家族とは、偶然に根ざしている割に強固に縛られる、不可思議な共同体である。
「家族だから、って、無条件に肯定してしまえるような、パワーがある気がする。家族として生まれてきたから、って、それだけの理由で繋がれてしまうような、そういうパワー。それにいつも、守られてきた気がしてて」
何があっても最後には味方でいてくれるはずだ、という根拠のない期待。それが持てるのは、相手が家族という不可逆な絆に属しているからだ。裏切られたらきっと、ダメージも大きい。
相手が人間ではないからだろうか。白良は、親しい友人にも言えないような本音を、淀みなく吐き出していた。
「だから、それがないのは、寂しいような気がしちゃうのかなあ」
「……そっか」
蒼美の孤独に胸が痛む理由を、白良はそう結んだ。寂しく感じるのは白良の勝手な見当違いで、蒼美がひとりを謳歌している可能性もあるし、それならその方がいいとも思うけれど。
ぼんやりと相槌を打った薔薇は、うっすらと口の端を持ち上げた。
ふと目が合って、白良もつられるように微笑み返す。瞳の温度が変わらないから、薔薇が笑みという形をトレースしていることに気づくまでに、わずかなタイムラグがあった。
外見はどう見ても人間なのに、こうした細部には確かに、機械特有の無機質さが顔を出す。
筋肉が動き、表情が変わる。けれどそこには、人間が持つはずの感情の揺らぎがにじまない。
「じゃあ、僕が奥様や旦那様、蒼美様に敵意を抱かないようにできているのは、僕が彼らの家族だからなのかな?」
さらりと流れる、夜の色を映したような青みがかった黒髪。小首を傾げた美しい顔。
形のいい目が細められてもやはり、その顔はどこか、笑みらしくは見えない。見ようによってはゾッとするほど不気味でもあった。
だけど、そんな空虚な表情よりも、その言葉そのものを受け止めて、白良は小さく笑った。
「っはは、それ、いいな」
「いい?」
「蒼美先輩と薔薇が、家族なら。ひとりぼっちじゃないって、やっぱりいいことだと思うよ」
蒼美は『理想の恋人』として彼を作ったと言った。だから、白良が思う家族とは、求められている形も名前も違うのかもしれない。
けれど、血の繋がりや役割の名前ではなく、この広い世界で、絶対的な味方だと信じられる誰かがいること。そこにこそ、家族としての本質的な意義がある気がするから。
もしも、蒼美と薔薇の二人がそうなれるのなら。孤独を抱えた二人が、互いの欠落を埋めるように寄り添える可能性があるのなら。
それはやっぱり、白良にとっては、祝福すべき良いことのように思えた。
*
通い詰めるうちに、屋敷の住人たちとの距離も随分と縮まっていた。
今では、フリルの揺れる独特な光景も、どこか浮世離れした会話も、白良の放課後の一部として馴染みつつある。
「よ、白良。今日も子守ご苦労様」
廊下で鉢合わせたのは、モップを手にしたマサユキだった。その生意気な物言いに、白良は苦笑いを返す。
「子守って……そんなんじゃないけど。あ、あとでマリーナさんに報告しないと」
「あー、いつものとこにいるよ。マリーナも変だよね〜。もともとアレのことすごい気にかけてたけど、今もいちいち報告させるんでしょ? なんでなんだろ」
「さぁ……」
白良があの日、吸い寄せられるように入ってしまったあの部屋。てっきり、主である蒼美が夜な夜な入り浸って心血を注いでいる場所なのだと思っていたが、事実は違ったらしい。
蒼美が普段籠っているのは別の最新鋭の研究室であり、あの部屋は現在の形に完成して以来、ほとんど放置されていたのだという。
心血を注ぎ、理想をすべて詰め込んで形にしたはずのアンドロイド。それを起動確認すらすることなく、暗い部屋に置き去りにしていた蒼美の真意は、白良にはわからない。
そしておそらく、マリーナもまた、年若い主人のその煮え切らない、あるいは空虚な沈黙を案じて、白良という異分子をあえて薔薇に近づかせたのかもしれなかった。
「あ、てか、今日おれ髪巻いたんだけど、どう? かわいくね?」
思考を遮るように、マサユキがくるりと一回転して見せた。丁寧に巻かれた栗色の髪が軽やかに弾ける。
「かわいい、かわいい」
「雑すぎん?」
膨れっ面をするマサユキは、本来なら高校一年生になる年だが、学校には通わずこの屋敷の仕事を手伝っている。深く事情を尋ねたことはないが、同年代との会話に飢えているのか、白良を見つけるとこうして絡んでくるのだ。
この屋敷に居るのは大抵、どこか変わった者ばかりだが、マサユキもその例に漏れない。
女装してメイド服を纏っているのは、女装癖があるからではなく、「自分が美しい男子であるために、男性の格好をしていると主である蒼美に惚れられてしまうのでは?」という考えゆえの防衛策なのだという。
実際、彼は確かに綺麗な顔立ちをしていた。その突き抜けた傲慢さはどこか蒼美の気質に通じるものがあり、白良から見れば、相性がいいんじゃないか、と思えてしまう。
「あ、蒼美先輩はどこにいんの?」
「……白良ってほんと変わってる。よく好き好んであの人と話したがるよね」
「えー、面白い人じゃん。せっかくなら仲良くなりたいし」
「うげ〜。……まあ多分、研究室にいるんじゃないの」
「そっか、ありがと! じゃあ行くわ。あ、今日はマドレーヌ持ってきたから食べてね」
「やったぁ、いつもありがと〜」
甘味への期待に現金にも目を輝かせ手を振るマサユキへ、白良は背中越しにサムズアップを返した。
冷たい静寂を纏ったこの屋敷の主人である蒼美の元へと、白良は足を踏み出した。
*
結局、蒼美の研究室の重厚な扉をノックしても応答はなかった。
白良は少し悩んだあと、広大な庭園へと足を向けた。
迷路のように入り組んだ薔薇の生垣は、手入れが行き届いているはずなのに、どこか人を拒むような深さがある。一際鮮やかな大輪が頭を垂れる陰に、彫刻のように佇む蒼美の背中を見つけ、白良は芝生を蹴って駆け寄った。
「蒼美先輩!」
呼びかけられた蒼美は、微かに肩を震わせ、重い瞼を持ち上げるようにして億劫そうにこちらを振り向いた。
西日に透ける青い髪が、背後に咲き誇る薔薇の深紅と混ざり合い、毒々しいまでの鮮烈なコントラストを描き出す。その双眸に宿る温度は相変わらず氷のように冷ややかだが、出会った頃のように即座に背を向けられないことに、白良は確かな進歩を感じていた。
はじめは本当に、道端の石ころのように存在すら視界に入れてもらえなかったのだ。それが少しずつ、刺のある言葉が返ってくるようになり、ついには名前で呼ぶことさえ許されるようになって。
それは、決して人間に懐こうとしない高貴な野良猫が、長い時間をかけてようやく指先に触れる距離まで近づくのを許してくれたかのような、静かで、しかし確かな達成感を白良にもたらしていた。
「……またお前か。人の静寂を乱す才能があるな」
「褒め言葉として受け取っておきます。あ、あとでマドレーヌもらってくださいね! 今回は甘さ控えめで、甘いの苦手な人でも食べられそうなやつですよ」
白良が、遠くの窓からこちらを窺っているメイドのエリナに大きく手を振りながら言うと、蒼美は呆れたように鼻を鳴らした。吐き出された溜息が、夕暮れの湿った空気に溶けていく。
「お前が来ると、どうもあいつらまで浮き足立って、屋敷の中が騒がしくなる」
「え……迷惑でした?」
「……帰った後、沈黙がいっそう深くなるのがわかるんだ。それが、どうしようもなくうっとうしい」
わずかに、蒼美の眉間に苦い皺が寄った。ぱちぱち、数度瞬きして、その言葉の奥底に隠された寂寥を探るように、白良はいたずらっぽく顔を覗き込んだ。
「それって……俺がいると賑やかでいい、っていう意味ですか?」
期待を込めて尋ねると、蒼美は一瞬だけ喉を詰まらせ、決まり悪そうに視線を逸らした。
即座に否定の言葉が出てこなかった時点で、それはもう、答えのようなものだった。白良の口がにやにやと緩む。
「……別に、違う。ただ、耳が慣れるまで時間がかかるというだけの話だ」
「へえ〜、ふう〜ん!」
「おい……出禁にするぞ」
「できるのにしてないんですね、ふう〜ん!」
揶揄うように、つんつんと蒼美の肩を指先でつつく。
いよいよ我慢の限界が訪れたのか、白良の頭上に鋭い軌道でチョップが振り下ろされた。流石に調子に乗りすぎたらしい。
「いっ、たぁ……」
じんわりと滲む涙を拭いながら見上げると、蒼美の口角は、本人も無自覚なのだろうか、どこか楽しげに、柔らかな弧を描いていた。
本気で拒絶されているわけではない。その事実に心底安心して肩の力を抜くと、白良は少しだけ拗ねるように唇を尖らせ、視界に広がる庭園を見渡した。
「あ、そういえば、蒼美先輩が庭にいるのは珍しいですね。どうしたんですか?」
「別に、特に意味はない。……橙真から嫌味を言われたけど、お前、あいつのところに顔を出していないのか」
「え、あぁまあ、以前よりは……」
話題を逸らされたことを少しだけ疑問に思いながらも、白良は答えた。
「このお屋敷にお邪魔させてもらうことが増えたので」
「そうか」
白良の苦笑に、蒼美はわざとらしくため息を吐いた。
「橙真が面倒だから、たまにはあちらに顔を出せ。私に構うのにも、そろそろ飽きただろう」
「俺をなんだと……飽きるとか、ないですけど、まあ化学部は行きますよ。会いたいし」
橙真からの小言は白良自身ももらっている。と言っても、部室で大袈裟に泣き真似をしながら「ついに白良にまで捨てられたオレの気持ち、わかる?」と茶化されただけだが。
橙真も桃凪も、本質的にはバラの栽培にしか興味がないマイペースな集まりだ。名前だけ貸している白良の不在が部の存続を脅かすわけではないことも分かっている。
ただ、橙真と蒼美が幼馴染だということは使用人たちから聞いていたが、それにしても親しいのだな、と意外に思う。
「橙真先輩と、ほんとに仲良しなんですね」
「気色悪いことを言うなよ……そういうんじゃない」
げ、とでもいいたげに秀麗な顔を歪めるその仕草すら、親しさを示しているような気がする。あの強引な橙真が、この偏屈な美青年の懐へグイグイと踏み込んでいった光景を想像して、少し笑った。
怪訝な顔をする蒼美を誤魔化しつつ、白良は目の前のバラの見事な枝ぶりに目を細めた。
「旧校舎のバラも綺麗だけど、ここのバラもすごい綺麗ですよね。先輩も手入れとかするんですか?」
「私が? するわけないだろう」
それは、心外だとでも言いたげな、迷いのない即答だった。
「そうなんですか? 全然興味ないとか?」
「顔に棘でも刺さったらどうするんだ。私の美しさが損なわれるなんて、あってはならないだろう」
「……多少の傷は、むしろ男ぶりをあげるような気もしますけど……」
「はっ」
嘲るように鼻で笑われる。白良の返答は蒼美にとって、よほど馬鹿馬鹿しく、無価値な戯言のように聞こえたらしい。
若干ムッとしながらも、白良は改めて彼の顔を見やり、納得せざるを得ないな、と思う。
「まあ、確かに先輩は綺麗な顔してますもんね。大切にするのも、わかるかもしんないです」
「美しさは価値だからな。私が美しいから、誰も私を軽んじない。蔑まない」
淡々と、まるで市場の相場や普遍的な真理でも語るような無機質な口調。しかし、その言葉の裏側には、歪なほどに脆い自己卑下の響きが混じっている気がする。
白良は不思議に思い、小首を傾げた。
「マイナスが少ないから、美は価値なんですか? 人より好いてもらいやすいとか、プラスが多いからじゃなくて?」
「歩むべき道は整備されている方がいい、というだけの、当たり前の話だ。プラスも何も、自己だけでは完結しないものをはじめから望むのは馬鹿げているだろ」
淡々と、自明な事実を告げるように、蒼美は続けた。
「愛も承認も、必然によって与えられるものじゃない。なんの脈略もなく他者の気まぐれで降りかかるものだ。美しさによってすら、必ず得られるものではない」
他者との交わりそのものを否定するような、強迫観念にも似た冷徹な言葉。
白良は、今までも何度か会話を交わす中で、蒼美の言葉に混じる鋭利な拒絶を感じてきた。その度、蒼美が積み上げてきた孤独の壁の厚さを思い、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
他者からの愛や承認を信じることができず、裏切られることを恐れる男が、それでも何かを求めて縋った先。
「だから、……だから、アンドロイドを作ったんですか?」
白良の脳裏に、ガラスケースの中で眠っていた、蒼美にどこか似た面影を持つアンドロイドの姿が浮かぶ。
本当にあれは、ただの『理想の恋人』なのだろうか。それならばなぜ、彼は完成した傑作を一度も起動させず、暗闇の中に凍結させていたのか。
今もなお、彼を勝手に動かす白良にも気づかないほど、その存在を閑却し続けているのか。
蒼美と関わり、薔薇と関わり、この屋敷の空気に触れるうち、白良はその理由を、どんどん知りたくなっている。それはただの野次馬根性ではなく、何か切実な願いに近い。
屋敷の隅々にまで満ちている、静かな寂しさを受け取るたび、白良はわけもなく泣きたくなってくるから。
「……なんでもいいだろ」
蒼美の言葉が険しさを帯びる。あまりに白良が『薔薇』のことばかり問いかけるからか、彼の濃い色の瞳には、隠しきれない苛立ちが混じり始めていた。
「お前は、あのアンドロイドのことばかりだな。そんなにアレに興味があるのか?」
「いや、というか、蒼美先輩がどういう人が好きなのかとか気になるし。理想の人って言うから! 俺、先輩に気に入られたいですもん」
「……へぇ」
慌てた白良の言葉に、蒼美が、蛇のように粘着質な視線を白良に這わせてくる。
そこに僅かな揶揄いの響きを感じ取って、白良は顔を赤くして慌てて首を振った。
「あ、いや、変な意味じゃないですからね!? 普通に! 嫌われるよりは好かれたいってだけなんで!」
「残念だが、お前は私の好みには一ミリも掠っていない。私があまりにも美しいからお前が惹かれるのも分かるが……」
「だから違うって言ってるのに〜! そもそも男の顔とかどうでもいいですから!」
「どうでもよくはないだろう」
「俺にとってはって話です! 確かに先輩は美人さんですけど、それより俺には、蒼美先輩が意外と面白い人なんだなってことの方が超重要ですし」
白良の放った言葉に、蒼美は一瞬、拍子抜けしたように瞬きをした。それから、照れたように顔を背ける。
白良が蒼美を褒めるような言葉をかけるたび、蒼美がいつもこんなふうに、無防備な表情を見せるのが不思議だった。容姿も頭脳も優れているのだから、褒められ慣れているだろうに。
そんなにまっすぐ受け止められると、白良は少し居た堪れなくなる。自分の言葉がなにか、蒼美にとって価値あるもののように自惚れてしまうから。
庭園の小道を夕風が吹き抜け、満開の薔薇の香りが一気に二人を包み込む。むせ返るような、濃密で甘い芳香に、白良は頬を緩めた。
「良い匂い……蒼美先輩はやっぱり、バラが好きですか?」
それは、深い意味のない、問いだった。
しかし、問いかけた白良の隣で、蒼美はゆっくり、暗い視線を足元の影へと落とした。
その横顔は、沈みゆく夕闇に溶けそうなほど儚く、どこか悲しげだった。
「……嫌いだよ。心の底から」
絞り出すような声には、自分自身で作り上げた理想郷さえ呪うような、深い嫌悪が滲んでいた。
*
旧校舎四階、廊下の突き当たりにある化学部室。
西日が差し込み、豪華なバラとのコントラストが際立つその場所で、白良は久々に、窓辺で談笑する橙真と桃凪の輪に加わっていた。
屋敷の濃密な沈黙とは違う、学生らしい軽やかな空気。しかし、視界に入るバラとその香りが、否応なしにあの広大な庭園の主を連想させる。
「あの、橙真先輩。ここのバラって、学校の予算でやってるんですか? 肥料とか設備とか、結構すごいですけど」
白良はふと、前々から気になっていた疑問を口にした。
一般的な高校の弱小部活にしては、自動の温度管理システムや高価な肥料の袋が並ぶ光景はあまりに不自然だ。
「ははっ、まさか! 学校がこんな贅沢許すわけないだろ。全部、蒼美のポケットマネーだよ」
橙真がケラケラと軽薄に笑いながら、誇らしげに咲き誇る豪華な大輪のバラを指差した。
「あいつ、とんでもないからな。設備投資から苗の買い付けまで、化学部の活動資金は全て、茨蒼美様が支えてる、ってわけ」
「じゃあもうこれ全部、蒼美先輩の私物じゃないですか」
「でも、それでこんな貴重な体験してるって思ったら、感謝しかないかも。茨先輩って太っ腹なんだねぇ」
桃凪が感心したように肩をすくめて笑う。彼女の屈託のない笑顔の傍らで、白良は一人、胸のざわつきを感じていた。
「実際、蒼美の実験の手伝いでもあるっていうか。教室って当たり前だけどバラの栽培に適した場所じゃないじゃん? こういう場所でもちゃんと育てられるかっていう。バラの室内栽培なんて相当むずいけど、蒼美のよこす設備はすごいよな」
「……そこまで……」
「そんなの、愛がなきゃできないと思う! もしかして茨先輩、同志なのかな!?」
キラキラ目を輝かせる桃凪から目を逸らし、白良は俯いた。
私財を投じ、自身が暮らす屋敷はおろか学校でまで環境を整え、薔薇の城を築き上げているのはなぜなのか。その理由は、単純に考えれば確かに、バラへの愛であるべきだろう。
その一方で、あの夕暮れの庭園で、縋るような、あるいは呪うような声で、バラが嫌いだ、と吐き捨てた彼の歪な横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
白良は、甘く重い芳香の裏に隠された、茨蒼美という人間の底知れない孤独に触れた気がして、喉の奥に小さな、それでいて消えない違和感を覚えた。
*
部活後、白良は橙真に連れられ、蒼美の洋館を訪れることになった。
夕闇が迫り、住宅街の輪郭が深い藍色の影に飲み込まれていく。街灯の乏しい、どこか現世から切り離されていくような道すがら、橙真はいつになく軽薄さを封印した、低く真面目なトーンで話し始めた。
「……蒼美の親父さん、あいつが小さい頃に亡くなっててさ。歴史に名を残すレベルの天才科学者だったんだけど」
「天才……」
「ああ。蒼美のあの頭脳も美貌も、父親譲りだよ。親父さんが死んでから、蒼美は学校にもほぼ来なくなって。今も引きこもりがちじゃん」
「……はい」
橙真の静かな言葉を聞きながら、白良はあの屋敷の持て余すほどに広い空間と、そこに澱のように漂う停滞した空気を思い出していた。
親が遺した巨大な城の中で、一人、時間を止めてしまった青年。外の世界との繋がりを断ち、完成された箱庭の中に安住しようとする彼の、拒絶にも似た静寂。
それはあまりにも純度の高い、孤独だった。
俯く白良とは正反対に、橙真はどこか楽しげに、夜の帳が下りる空を見上げている。
「だからオレ、結構嬉しいんだよね。白良がこうやって、あいつと仲良くしてくれてんの」
「……仲良く、なれてるんですかね?」
「なにその感じ、自信持ちなって」
橙真は笑ったが、自信なんてもてそうもない、と、白良は心中で弱音を零した。
近づけば近づくほど、蒼美の心がどれほど強固な殻に守られ、到底手の届かない遠い場所にあるのかを思い知らされる。
だけど思い返してみれば、蒼美と仲良くしようだなんて、はじめは考えてもいなかったのだ。
どうしてここまで、彼に寄り添えない自分が苦しいのか、白良自身にもその正体は、分からなかった。
*
洋館に着くと、橙真は「蒼美と少し込み入った話がある」と言って、慣れた足取りで奥の書斎へと消えていった。
主人のプライベートな領域へ迷いなく踏み込める、彼らが重ねてきた歳月。その特権的な背中を見送ったあと、一人手持ち無沙汰になった白良は、もはや無意識のうちに吸い寄せられるようにして、薔薇のいる部屋へと足を向けた。
暇を持て余した様子のマサユキと、手土産の焼き菓子を手にしたマリーナも、迷子の子供を見守る保護者のような眼差しで付いてきてくれている。
「白良! 今日も来てくれたの?」
「うん、たまたまだけど……」
扉を開けた瞬間、薔薇はいつも、弾けるような笑顔で迎えてくれる。
ガラスケースの中から解放された彼は、白良の姿を見つけるたび、分かりやすく相好を崩す。
計算されたプログラムだとは到底思えないほどの、あまりに無垢な喜びは、白良の胸をいつも少し、甘がゆく、そしてくすぐったくさせる。
椅子に腰を下ろすと、薔薇は待ってましたとばかりにマリーナが用意したお菓子をつまんで、楽しそうにそれを白良の口に運んでくる。白良はマサユキたちの視線を感じて恥ずかしさに倒れそうになりつつ、ひとまず口を開いて迎え入れた。
「白良、美味しい?」
「うん。……先輩たち、なんの話してるんですかね。やっぱバラの話?」
甘い菓子を飲み込みながら、なんとなく気になって尋ねると、マリーナは小さく笑って答えた。
「バラの話でしょうね。橙真様がいらしたときは、そればかりですよ。というか、それ以外の会話をしているところは見たことがないですし」
「え、……幼馴染なのに!?」
「ふふ、バラで繋がった縁ですから。ここの庭、個人所有とは思えないほど広いでしょう? 昔からバラに執心していた橙真様が迷い込んでらっしゃって、それがきっかけで……」
「ああ、広いし、めっちゃ綺麗ですもんね。ほんと、お金取れるくらいで」
そんな賑やかなやり取りの傍らで、薔薇がふと、窓の外に広がる夕闇に目を細めた。
それはどこか寂しげで、今までよりも感情が滲むような、切ない視線だった。
白良は息を呑む。
薔薇は、加速度的に人間味を増してきている気がする。
あまりに端正に形作られた顔が、陰りという情緒を帯びるとき、それはとんでもない破壊力を持つのだと白良は初めて知った。匂い立つような色気がある。
「薔薇……?」
「いいな」
薔薇は、艶めかしい色を少し残したまま、子供っぽく拗ねるように唇を尖らせてみせた。ぎこちなさがない、自然な、あまりに人らしい仕草だ。恐ろしいほど。
「僕も庭のバラ、見てみたい。……誰も、ここから出してくれないんだもの」
「そりゃ、バレたらやばいもん。バカなの?」
「こら、マサユキ」
マサユキの容赦ないツッコミにたじろぎながらも、白良は薔薇の子供っぽく寂しげな横顔を凝視した。
言われてみれば、確かに。すぐそこに、自分の名前と同じ美しく咲き誇るものがあるというのに、一度もその実物をその目で見たことがないのは、あまりに悲しいことに思えた。
「……でも、蒼美先輩にバレたら俺が殺されるかもしれないし……」
「え、白良、殺されてしまうの? それは嫌だよ」
「俺ももちろん嫌だよ。蒼美先輩を殺人鬼にもしたくないし」
「蒼美様も流石にそこまでバイオレンスじゃないだろ。なんで殺害前提なの?」
子どもたちのやり取りを微笑ましく眺めていたマリーナが、つい、助け舟を出すように口を出した。
「若様と橙真様の研究話は一度始まると際限がなく、なかなか部屋から出てこないのが常ですから。今なら若様に内緒で、少し、外の空気を吸えますよ」
いたずらっぽく唇に指を当てて微笑むマリーナに、白良は薔薇と目を合わせる。
それから、笑って頷いた。チャンスがあるなら、試してみたい。白良だって、薔薇がいつもこの部屋から出られないことを気にしていないわけではなかったのだ。
マサユキも、面倒そうに肩をすくめているが、どうせ付いてくるのだろう。
「なんか、ワクワクするし、緊張もする、かも」
「大丈夫。白良のことは僕が守るよ」
「……じゃあ、お願いしようかな」
張り切ったように言う薔薇に、白良は笑いながら、その冷たくも滑らかな手を取った。
普段の幼なげな姿からはアンバランスなほどに、時折、薔薇は騎士のように凛とした佇まいを見せた。それはきっと、そう望まれた理想の残滓なのかもしれない、と思う。
逆に、いつも子供っぽく甘えてくる姿は、どうなんだろう。それを、薔薇自身が獲得しようとしている自我だと思うのは、白良が「彼は機械である」という現実をあまりに無視しすぎている、ということになるのだろうか。
白良の思考を奪うように、薔薇が繋いだ手をいたずらに指先でくすぐった。思わず顔を見ると、目が合ったことが嬉しい、とでも言うように微笑まれる。
「楽しみだね、白良」
「……うん」
恋人のように熱心に絡められる指先をそのままに、暮れなずむ庭園、秘密のバラ園へと、一歩、足跡を刻むように強く、踏み出した。
*
庭には、沈みゆく残光を浴びて燃えるような紅が広がっていた。
庭園の奥に広がるバラ園は、迷宮のように入り組んだ小径の左右を、何百、何千という大輪が埋め尽くしている。風が吹くたび、重厚な甘い香りが津波のように押し寄せ、肺の奥まで侵食してくるかのようだ。
薔薇は、自分と同じ名を冠したその花々を、静かに見渡すように眺めていた。はじめての外の景色であるはずのそれを、目に焼き付けるように。
だが、その横顔を見た白良は、奇妙な感覚に陥る。
これほど美しい光景を前にしながら、彼の瑠璃色の瞳は凪いでいた。そこには驚きも高揚もなく、ただ光を反射する鏡のような空虚さが横たわっている。
あれほど強請っていた割に、そこにはなんの感慨もないように見えて、その視線にはどこか薄寒さすら感じる。
白良の目に気づいたのか、薔薇がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「きれいだね、白良」
蜜のように甘い声。柔らかな微笑。いつも通りの、美しい薔薇。
白良は、気のせいか、と思い直しつつも、花を見つめる彼の瞳が、どこか深いところで感情を器用に抑え込んでいるような、そんな得体の知れない違和感を拭いきれなかった。
そのざわつきを振り払うように、白良は周囲のバラへと視線を移した。
「本当に大きいですよね、このバラ園……手入れとか、大変そう」
見渡す限りの紅。その壮絶なまでの美しさに、白良は改めて圧倒され、呟いた。
「そうですねぇ。若様は外の人間を入れるのを好まないので、私共だけで管理しているんですよ」
マリーナが静かに応じると、横からマサユキが、肩をすくめて口を挟んだ。
「あの人、自分はなんもしないけど、すっごく口うるさくバラの管理に口出ししてくるんだよ。うっとうしいったらないんだから」
「こら、マサユキ。失礼ですよ」
「あはは……」
いつもの光景に苦笑いする白良だったが、マリーナはマサユキをたしなめながら、どこか誇らしげに目を細めた。
「何もしないなんてことはないんです。お金は惜しまないですし、知識もあって、それにバラのためだと言えばなんでも揃えてくださるんですよ。このバラ園を、とても大切になさってくれているんです」
「へえ……バラは嫌いって、言ってたのに」
白良の口から、無意識に、小さく、本音がこぼれ落ちた。
あの夕暮れの庭で、憎悪さえ感じさせる声で放たれた言葉。嫌いなものを、なぜこれほどまでに慈しみ、執着するのか。
矛盾した蒼美の行動が、白良の胸を重くさせる。
考え込む白良の隣で、どこか遠く──過ぎ去った時間に焦点を合わせるようにして、マリーナもまた、思わずといった様子で呟いた。
「旦那様のときから、何も変わらない。いつでもずっと、きれい……」
「え?」
白良が問い返すと、マリーナははっとしたように取り繕い、穏やかな笑みを浮かべ直した。
「元々は、旦那様……蒼美様のお父様が、お造りになった庭園ですから。それをほとんど変わらないまま、維持してくださっているんです。屋敷も、何もかも、受け継いだまま、若様は……本当に、いじらしくて」
「……もしかして、研究室も、残されていたものなんですか? あの、薔薇の」
「そう、ですね。……詳しいことはわからないですけれど、若様は、旦那様のものを全て、受け継いでらっしゃいますよ」
マリーナの言葉が、白良の胸に小さな、けれど確かな波紋を広げる。
「……もしかして……」
白良の視線が、自然と、隣で一輪のバラをぼんやりと眺める薔薇へと向いた。
ただの妄想かもしれない。
しかし、理屈が繋がり始める。蒼美自身が装備を「作った」と言ったが、高校生が独力で完成させるには、あまりに次元の違う技術だ。
この広大な屋敷の全ては、もともと、彼の父のもの。橙真曰くの、天才科学者。
──もし、薔薇の制作者が蒼美ではなく、彼の父親だったとしたら?
蒼美が起動を拒み、あの暗い温室に彼を放置していた理由が、それだとしたら。
「……白良、見て。蝶も居るよ。綺麗だね」
「あ、ああ、そうだね」
思考の海に沈みかけた白良を、現実へ引き戻す柔らかな感触があった。薔薇がその細い指先で、白良のシャツの裾をぎゅっと掴んでいる。
その表情をのぞき見ると、あまりにも無邪気で、心に柔らかな暖かさを感じる。
薔薇の瞳は、日々、世界の色を吸収し、その輝きを増している。ころころと変わる表情、ふとした仕草、言葉の端々。
それらは以前よりずっと自然に、鮮やかに、彼の美しさを飾り立てていた。
「ねえ、白良」
薔薇が白良の顔を覗き込み、わずかに眉を寄せた。そんなひとつの動作にさえも、機械には備わっていないはずの、繊細な心の揺らぎが見える。
「白良は、蒼美のことを気にかけているんだね」
「? ど、うだろ、そう見える?」
「うん。どうして?」
「どうして、って、言われても……」
不意に問われ、白良は答えに詰まった。薔薇の瑠璃色の瞳の奥に、湿り気を帯びた仄暗いものが一瞬混じった気がして言葉に詰まるが、そんなわけはないと自分を叱咤する。
だが、問いそのものに対しても、白良は確かな言葉を持てなかった。
自分はどうしてこれほどまでに、あの孤独な青年の影を追いかけてしまうのだろう。
「別に、そんなこと、ないと思うよ」
「……そう」
結局、心の中の正体不明の熱を誤魔化すように、白良は曖昧に首を振った。
*
薔薇を月明かりのような照明が落ちるガラスケースの部屋へと送り届け、彼が静かに目を閉じ、システムが深いスリープモードに入るのを見届ける。
カチリ、と微かな駆動音が止まった瞬間、白良は独り、底のない静寂の中に取り残された。
マリーナとマサユキはすでにそれぞれの仕事へと戻り、広い屋敷に漂う微かな生活音さえ、ここでは厚い壁に遮られて届かない。空調の微かな唸りだけが、この部屋が生きていることを辛うじて示していた。
ふと、部屋の隅に鎮座する古い木製の棚に目を留める。
主人が不在のその場所には、背表紙の擦り切れた何冊もの古いファイルが、重苦しく肩を並べていた。
「これ……」
心臓の鼓動が、耳元でどくどくと煩く鳴り響く。
それに手を伸ばすことは、白良には許されていない、越えてはならない一線を踏み越える行為だと分かっていた。
だが、バラ園で聞いた「旦那様の代から変わらない」というマリーナの言葉から膨らんだ妄想が、いまだ棘のように胸に刺さったままで、引き抜くことができない。
迷いを振り切るように、一冊目を手に取る。ドイツ語かなにかなのか、白良には解読できない言語が並ぶ研究ノート。二冊目、三冊目……バラの室内栽培や、未知のバイオ技術に関する難解な記述が続く。
四冊目、五冊目──。
指先を走らせ、夢中でファイルを漁り続けた白良の手が、ある一冊の前で凍りついた。
『アンドロイド 薔薇 設計思想及び運用マニュアル』
褪せた表紙には、蒼美と同じ苗字を持つ「茨 藍」という名前が刻まれていた。
「茨、藍……」
震える手でページを捲る。精緻な回路図。皮膚の質感さえデータ化した設計図。パラパラとめくった先、余白を埋め尽くすように記された、殴り書きのようなメモ。
そのうちのひとつを、指でなぞる。
『息子に欠落したものを補うために、これを利用し──』
「……何をしている」
背筋を氷の刃でなぞられたような錯覚に、白良は肩を大きく跳ねさせた。
振り返ると、そこには開かれた扉の前に、死神のように影を背負った蒼美が立っていた。
その瞳には、奈落の底のような暗闇が沈んでいる。平素は透き通り、青く光を反射するはずの瞳が、今は光をすべて吸い込むように、ただ、真っ黒だった。
蒼美は無造作に白良に歩み寄ると、抵抗する間もなく、その細く冷たい指先でファイルをひったくる。
「お前がここに無断で立ち入るのは、二度目だな。懲りないやつだ」
「ごめん、なさい……」
凍りついたような沈黙が続く。どちらもが、次の言葉を探していた。あるいはお互いに核心に触れず、このまま冗談めかして流すことを望んでいるのかもしれなかった。
それでも、白良は口を開いた。開かなければ白良は、蒼美の心に触れる機会を永遠に失うと、本能でわかっていた。
「茨先輩。このアンドロイドって……本当に、先輩が『理想の男』として作ったんですか?」
逃げ場のない場所での、確信的な問い。白良の真っ直ぐな視線を受け、蒼美は一瞬、喉を詰まらせたように呼吸を止めた。
次の瞬間、彼の唇が酷く歪に吊り上がる。それは、今にも耐えきれずに泣き出しそうな、あまりに脆い、絶望の笑みだった。
「……いいや」
蒼美は吐き捨てるように呟き、その端正な横顔を自嘲の影で染めた。指先に白くなるほど力を込め、ひったくったファイルを無造作に棚へ投げ戻す。
バタン、という乾いた音が、静寂の中で残酷に響いた。その所作の一つ一つが、隠し通せなかった真実への、そして自分自身への苛立ちを露わにしていた。
「私は、完成品を微調整しただけに過ぎない。ガラクタの埃を払っただけだ」
蒼美は、ガラスケースの中で深い眠りにつく薔薇を見つめた。その瞳には、今まで白良に見せていた冷静さをすべて飲み込むほどの、深い憎しみと、そしてそれ以上に深い、耐え難いほどの劣等感が混ざり合っている。
白良は思わず、その震える肩に手を伸ばし、しかし躊躇い、やめた。今、蒼美の隠していた傷口を無理やり抉り出した当人である自分に、何ができると言うのだろう。
「薔薇は……父が作った、父の理想の息子だ」
震える声が、静寂を切り裂く。
一歩、蒼美が吸い寄せられるようにガラスケースに歩み寄る。その滑らかな表面に映る、泣きそうに歪んだ自分の顔と、中で目を閉じる完璧な造形を重ね合わせるようにして、彼は絞り出すように言葉を続けた。
「私の代わりを務めるために用意された、瑕疵なき代替品。私という失敗作には到底不可能な、父の望む完璧を体現するためだけの器だ」
その言葉は、自分という存在そのものを根底から否定するように、静かに、重く、逃げ場のない部屋に響き渡った。
白良は言葉を失い、ただ、どうすることもできずに、立ち尽くすしかなかった。
*
アンドロイドの『薔薇』を目覚めさせてしまったあの日から、白良の放課後の風景は一変した。
色々な場所に行って油を売る時間は減り、代わりに、駅前から続く緩やかな坂道を登る回数が増えた。
当初は恐る恐るだった訪問も、回数を重ねるうちに気楽なものになった。
蒼美が消極的ながら白良の存在をそこにあるものとして受け入れ出したのをいいことに、頻繁にあの浮世離れした洋館へ通っている。
あくまで目的は、マリーナからの依頼を果たし、秘密の温室で眠りから覚めた『薔薇』の様子を見るため。
薔薇に対面するたびに白良は、自身の常識が音を立てて崩れるのを感じている。アンドロイドであるはずの彼は、驚くほどに、人間らしかった。
「よ、元気してた?」
「! 白良、もう来てくれたの? いつもより早いよね」
白良が部屋に足を踏み入れると、薔薇は弾かれたように椅子から立ち上がり、嬉しそうに駆け寄ってくる。
そして当然のように白良の手を取りソファに座らせ、自身も隙間を埋めるように体を寄せて座る。
細く長い指を白良の指に絡めてきたり、迷いなく肩に頭を預けてきたりと、その距離感は妙に近い。その無防備な親愛の示し方は、蒼美が深層心理で求めている理想の反映なのだろうか、と、想像する。
薔薇との交流はいつも、思わぬ形で先輩の秘めたる嗜好を突きつけられるようで、絶妙に気まずい。
最近の白良は、屋敷で会う蒼美の顔をまともに直視できずにいた。下手な猥談を聞かされるよりもずっと、彼の内側に深く触れてしまっているような、後ろめたい恥ずかしさがある。
「薔薇は、いつもこうなの?」
「こう、って?」
「いや、その……ひっついてくるな、と思って」
「だめ? 白良に触れたくて……」
「お、おう。蒼美先輩じゃなくて?」
「だって、話したこともないし」
きゅ、と絡ませた指に、確かな力が込められる。機械の指先は、人間よりも少しだけ冷たく、熱が一定で、なぜか余計に生々しい。
蒼美は彼を、理想の恋人、として構築したと言っていた。
甘えるような仕草や、迷いのない接触。確かにそれらしいといえばそう感じる。
けれど、薔薇の言動からは蒼美に対する盲目的な愛情や、性的なプログラムが施されている気配が一切感じられないのが、白良には不思議だった。
最初から生みの親である蒼美だけを思い、彼だけを愛するように縛りをつければいいはずなのに、薔薇はあまりに無垢で、白良にも等しく親愛を示す。
白良の身体への触れ方は微妙に、いかがわしいといえばいかがわしい。優しくゆっくりと撫ぜるように肌に触れられるとドギマギもする。
しかし、白良はどちらかというと、ただひたすらに温もりを求めている幼子のような危うさを感じるのだ。
「……こんな広い屋敷に、蒼美先輩は一人で、寂しかないのかな」
「寂しい?」
「だって、親兄弟いなくて、それも小さい頃からなんだろ。あ、でも、メイドさんたちとは仲良く話すのかな?」
薔薇は、白良の肩に頭を乗せたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「どうだろう。あくまで雇用主と使用人の関係だから。おそらく、無駄な会話はしないんじゃないかな」
「そっか。それってなんか、可哀想……いや、ううん、可哀想ってのは失礼か。なんていったらいいんだろう」
「家族がいないと、可哀想なの?」
薔薇の瑠璃色の瞳が、真っ直ぐに白良を射抜く。その透明な眼差しに、白良は言葉に詰まった。
一概には言えない。家族がいるから幸せとは限らない。現に白良だって、今、同じ屋根の下にいる血の繋がらない姉紫凛との、息の詰まるような距離感にひどく頭を悩ませているのだから。
「……なんだろ、俺はさ、父親が結構いい加減な人で。母親とは死別でシングルファザーってやつだったんだけど、俺のこと一人家に置いて遊び行ったりとか、結構してたんだよな。色々雑だし、嘘もつくしさぁ」
「そうなんだ」
「それでも俺は、父さんが好き。でも、他人だったらムカつくし、嫌いなタイプなんだよ。同い年だったとしても友達にはならないと思う。父親で、嫌でもずっと一緒に生きてきて、他人じゃ知りようもないこと知ってて、だから憎みきれないってだけで……家族じゃなかったら、多分全然合わない。俺が特別なんじゃなくて、そういうのって結構あると思うし」
自分で選んだ相手ではない。考えてみれば家族とは、偶然に根ざしている割に強固に縛られる、不可思議な共同体である。
「家族だから、って、無条件に肯定してしまえるような、パワーがある気がする。家族として生まれてきたから、って、それだけの理由で繋がれてしまうような、そういうパワー。それにいつも、守られてきた気がしてて」
何があっても最後には味方でいてくれるはずだ、という根拠のない期待。それが持てるのは、相手が家族という不可逆な絆に属しているからだ。裏切られたらきっと、ダメージも大きい。
相手が人間ではないからだろうか。白良は、親しい友人にも言えないような本音を、淀みなく吐き出していた。
「だから、それがないのは、寂しいような気がしちゃうのかなあ」
「……そっか」
蒼美の孤独に胸が痛む理由を、白良はそう結んだ。寂しく感じるのは白良の勝手な見当違いで、蒼美がひとりを謳歌している可能性もあるし、それならその方がいいとも思うけれど。
ぼんやりと相槌を打った薔薇は、うっすらと口の端を持ち上げた。
ふと目が合って、白良もつられるように微笑み返す。瞳の温度が変わらないから、薔薇が笑みという形をトレースしていることに気づくまでに、わずかなタイムラグがあった。
外見はどう見ても人間なのに、こうした細部には確かに、機械特有の無機質さが顔を出す。
筋肉が動き、表情が変わる。けれどそこには、人間が持つはずの感情の揺らぎがにじまない。
「じゃあ、僕が奥様や旦那様、蒼美様に敵意を抱かないようにできているのは、僕が彼らの家族だからなのかな?」
さらりと流れる、夜の色を映したような青みがかった黒髪。小首を傾げた美しい顔。
形のいい目が細められてもやはり、その顔はどこか、笑みらしくは見えない。見ようによってはゾッとするほど不気味でもあった。
だけど、そんな空虚な表情よりも、その言葉そのものを受け止めて、白良は小さく笑った。
「っはは、それ、いいな」
「いい?」
「蒼美先輩と薔薇が、家族なら。ひとりぼっちじゃないって、やっぱりいいことだと思うよ」
蒼美は『理想の恋人』として彼を作ったと言った。だから、白良が思う家族とは、求められている形も名前も違うのかもしれない。
けれど、血の繋がりや役割の名前ではなく、この広い世界で、絶対的な味方だと信じられる誰かがいること。そこにこそ、家族としての本質的な意義がある気がするから。
もしも、蒼美と薔薇の二人がそうなれるのなら。孤独を抱えた二人が、互いの欠落を埋めるように寄り添える可能性があるのなら。
それはやっぱり、白良にとっては、祝福すべき良いことのように思えた。
*
通い詰めるうちに、屋敷の住人たちとの距離も随分と縮まっていた。
今では、フリルの揺れる独特な光景も、どこか浮世離れした会話も、白良の放課後の一部として馴染みつつある。
「よ、白良。今日も子守ご苦労様」
廊下で鉢合わせたのは、モップを手にしたマサユキだった。その生意気な物言いに、白良は苦笑いを返す。
「子守って……そんなんじゃないけど。あ、あとでマリーナさんに報告しないと」
「あー、いつものとこにいるよ。マリーナも変だよね〜。もともとアレのことすごい気にかけてたけど、今もいちいち報告させるんでしょ? なんでなんだろ」
「さぁ……」
白良があの日、吸い寄せられるように入ってしまったあの部屋。てっきり、主である蒼美が夜な夜な入り浸って心血を注いでいる場所なのだと思っていたが、事実は違ったらしい。
蒼美が普段籠っているのは別の最新鋭の研究室であり、あの部屋は現在の形に完成して以来、ほとんど放置されていたのだという。
心血を注ぎ、理想をすべて詰め込んで形にしたはずのアンドロイド。それを起動確認すらすることなく、暗い部屋に置き去りにしていた蒼美の真意は、白良にはわからない。
そしておそらく、マリーナもまた、年若い主人のその煮え切らない、あるいは空虚な沈黙を案じて、白良という異分子をあえて薔薇に近づかせたのかもしれなかった。
「あ、てか、今日おれ髪巻いたんだけど、どう? かわいくね?」
思考を遮るように、マサユキがくるりと一回転して見せた。丁寧に巻かれた栗色の髪が軽やかに弾ける。
「かわいい、かわいい」
「雑すぎん?」
膨れっ面をするマサユキは、本来なら高校一年生になる年だが、学校には通わずこの屋敷の仕事を手伝っている。深く事情を尋ねたことはないが、同年代との会話に飢えているのか、白良を見つけるとこうして絡んでくるのだ。
この屋敷に居るのは大抵、どこか変わった者ばかりだが、マサユキもその例に漏れない。
女装してメイド服を纏っているのは、女装癖があるからではなく、「自分が美しい男子であるために、男性の格好をしていると主である蒼美に惚れられてしまうのでは?」という考えゆえの防衛策なのだという。
実際、彼は確かに綺麗な顔立ちをしていた。その突き抜けた傲慢さはどこか蒼美の気質に通じるものがあり、白良から見れば、相性がいいんじゃないか、と思えてしまう。
「あ、蒼美先輩はどこにいんの?」
「……白良ってほんと変わってる。よく好き好んであの人と話したがるよね」
「えー、面白い人じゃん。せっかくなら仲良くなりたいし」
「うげ〜。……まあ多分、研究室にいるんじゃないの」
「そっか、ありがと! じゃあ行くわ。あ、今日はマドレーヌ持ってきたから食べてね」
「やったぁ、いつもありがと〜」
甘味への期待に現金にも目を輝かせ手を振るマサユキへ、白良は背中越しにサムズアップを返した。
冷たい静寂を纏ったこの屋敷の主人である蒼美の元へと、白良は足を踏み出した。
*
結局、蒼美の研究室の重厚な扉をノックしても応答はなかった。
白良は少し悩んだあと、広大な庭園へと足を向けた。
迷路のように入り組んだ薔薇の生垣は、手入れが行き届いているはずなのに、どこか人を拒むような深さがある。一際鮮やかな大輪が頭を垂れる陰に、彫刻のように佇む蒼美の背中を見つけ、白良は芝生を蹴って駆け寄った。
「蒼美先輩!」
呼びかけられた蒼美は、微かに肩を震わせ、重い瞼を持ち上げるようにして億劫そうにこちらを振り向いた。
西日に透ける青い髪が、背後に咲き誇る薔薇の深紅と混ざり合い、毒々しいまでの鮮烈なコントラストを描き出す。その双眸に宿る温度は相変わらず氷のように冷ややかだが、出会った頃のように即座に背を向けられないことに、白良は確かな進歩を感じていた。
はじめは本当に、道端の石ころのように存在すら視界に入れてもらえなかったのだ。それが少しずつ、刺のある言葉が返ってくるようになり、ついには名前で呼ぶことさえ許されるようになって。
それは、決して人間に懐こうとしない高貴な野良猫が、長い時間をかけてようやく指先に触れる距離まで近づくのを許してくれたかのような、静かで、しかし確かな達成感を白良にもたらしていた。
「……またお前か。人の静寂を乱す才能があるな」
「褒め言葉として受け取っておきます。あ、あとでマドレーヌもらってくださいね! 今回は甘さ控えめで、甘いの苦手な人でも食べられそうなやつですよ」
白良が、遠くの窓からこちらを窺っているメイドのエリナに大きく手を振りながら言うと、蒼美は呆れたように鼻を鳴らした。吐き出された溜息が、夕暮れの湿った空気に溶けていく。
「お前が来ると、どうもあいつらまで浮き足立って、屋敷の中が騒がしくなる」
「え……迷惑でした?」
「……帰った後、沈黙がいっそう深くなるのがわかるんだ。それが、どうしようもなくうっとうしい」
わずかに、蒼美の眉間に苦い皺が寄った。ぱちぱち、数度瞬きして、その言葉の奥底に隠された寂寥を探るように、白良はいたずらっぽく顔を覗き込んだ。
「それって……俺がいると賑やかでいい、っていう意味ですか?」
期待を込めて尋ねると、蒼美は一瞬だけ喉を詰まらせ、決まり悪そうに視線を逸らした。
即座に否定の言葉が出てこなかった時点で、それはもう、答えのようなものだった。白良の口がにやにやと緩む。
「……別に、違う。ただ、耳が慣れるまで時間がかかるというだけの話だ」
「へえ〜、ふう〜ん!」
「おい……出禁にするぞ」
「できるのにしてないんですね、ふう〜ん!」
揶揄うように、つんつんと蒼美の肩を指先でつつく。
いよいよ我慢の限界が訪れたのか、白良の頭上に鋭い軌道でチョップが振り下ろされた。流石に調子に乗りすぎたらしい。
「いっ、たぁ……」
じんわりと滲む涙を拭いながら見上げると、蒼美の口角は、本人も無自覚なのだろうか、どこか楽しげに、柔らかな弧を描いていた。
本気で拒絶されているわけではない。その事実に心底安心して肩の力を抜くと、白良は少しだけ拗ねるように唇を尖らせ、視界に広がる庭園を見渡した。
「あ、そういえば、蒼美先輩が庭にいるのは珍しいですね。どうしたんですか?」
「別に、特に意味はない。……橙真から嫌味を言われたけど、お前、あいつのところに顔を出していないのか」
「え、あぁまあ、以前よりは……」
話題を逸らされたことを少しだけ疑問に思いながらも、白良は答えた。
「このお屋敷にお邪魔させてもらうことが増えたので」
「そうか」
白良の苦笑に、蒼美はわざとらしくため息を吐いた。
「橙真が面倒だから、たまにはあちらに顔を出せ。私に構うのにも、そろそろ飽きただろう」
「俺をなんだと……飽きるとか、ないですけど、まあ化学部は行きますよ。会いたいし」
橙真からの小言は白良自身ももらっている。と言っても、部室で大袈裟に泣き真似をしながら「ついに白良にまで捨てられたオレの気持ち、わかる?」と茶化されただけだが。
橙真も桃凪も、本質的にはバラの栽培にしか興味がないマイペースな集まりだ。名前だけ貸している白良の不在が部の存続を脅かすわけではないことも分かっている。
ただ、橙真と蒼美が幼馴染だということは使用人たちから聞いていたが、それにしても親しいのだな、と意外に思う。
「橙真先輩と、ほんとに仲良しなんですね」
「気色悪いことを言うなよ……そういうんじゃない」
げ、とでもいいたげに秀麗な顔を歪めるその仕草すら、親しさを示しているような気がする。あの強引な橙真が、この偏屈な美青年の懐へグイグイと踏み込んでいった光景を想像して、少し笑った。
怪訝な顔をする蒼美を誤魔化しつつ、白良は目の前のバラの見事な枝ぶりに目を細めた。
「旧校舎のバラも綺麗だけど、ここのバラもすごい綺麗ですよね。先輩も手入れとかするんですか?」
「私が? するわけないだろう」
それは、心外だとでも言いたげな、迷いのない即答だった。
「そうなんですか? 全然興味ないとか?」
「顔に棘でも刺さったらどうするんだ。私の美しさが損なわれるなんて、あってはならないだろう」
「……多少の傷は、むしろ男ぶりをあげるような気もしますけど……」
「はっ」
嘲るように鼻で笑われる。白良の返答は蒼美にとって、よほど馬鹿馬鹿しく、無価値な戯言のように聞こえたらしい。
若干ムッとしながらも、白良は改めて彼の顔を見やり、納得せざるを得ないな、と思う。
「まあ、確かに先輩は綺麗な顔してますもんね。大切にするのも、わかるかもしんないです」
「美しさは価値だからな。私が美しいから、誰も私を軽んじない。蔑まない」
淡々と、まるで市場の相場や普遍的な真理でも語るような無機質な口調。しかし、その言葉の裏側には、歪なほどに脆い自己卑下の響きが混じっている気がする。
白良は不思議に思い、小首を傾げた。
「マイナスが少ないから、美は価値なんですか? 人より好いてもらいやすいとか、プラスが多いからじゃなくて?」
「歩むべき道は整備されている方がいい、というだけの、当たり前の話だ。プラスも何も、自己だけでは完結しないものをはじめから望むのは馬鹿げているだろ」
淡々と、自明な事実を告げるように、蒼美は続けた。
「愛も承認も、必然によって与えられるものじゃない。なんの脈略もなく他者の気まぐれで降りかかるものだ。美しさによってすら、必ず得られるものではない」
他者との交わりそのものを否定するような、強迫観念にも似た冷徹な言葉。
白良は、今までも何度か会話を交わす中で、蒼美の言葉に混じる鋭利な拒絶を感じてきた。その度、蒼美が積み上げてきた孤独の壁の厚さを思い、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
他者からの愛や承認を信じることができず、裏切られることを恐れる男が、それでも何かを求めて縋った先。
「だから、……だから、アンドロイドを作ったんですか?」
白良の脳裏に、ガラスケースの中で眠っていた、蒼美にどこか似た面影を持つアンドロイドの姿が浮かぶ。
本当にあれは、ただの『理想の恋人』なのだろうか。それならばなぜ、彼は完成した傑作を一度も起動させず、暗闇の中に凍結させていたのか。
今もなお、彼を勝手に動かす白良にも気づかないほど、その存在を閑却し続けているのか。
蒼美と関わり、薔薇と関わり、この屋敷の空気に触れるうち、白良はその理由を、どんどん知りたくなっている。それはただの野次馬根性ではなく、何か切実な願いに近い。
屋敷の隅々にまで満ちている、静かな寂しさを受け取るたび、白良はわけもなく泣きたくなってくるから。
「……なんでもいいだろ」
蒼美の言葉が険しさを帯びる。あまりに白良が『薔薇』のことばかり問いかけるからか、彼の濃い色の瞳には、隠しきれない苛立ちが混じり始めていた。
「お前は、あのアンドロイドのことばかりだな。そんなにアレに興味があるのか?」
「いや、というか、蒼美先輩がどういう人が好きなのかとか気になるし。理想の人って言うから! 俺、先輩に気に入られたいですもん」
「……へぇ」
慌てた白良の言葉に、蒼美が、蛇のように粘着質な視線を白良に這わせてくる。
そこに僅かな揶揄いの響きを感じ取って、白良は顔を赤くして慌てて首を振った。
「あ、いや、変な意味じゃないですからね!? 普通に! 嫌われるよりは好かれたいってだけなんで!」
「残念だが、お前は私の好みには一ミリも掠っていない。私があまりにも美しいからお前が惹かれるのも分かるが……」
「だから違うって言ってるのに〜! そもそも男の顔とかどうでもいいですから!」
「どうでもよくはないだろう」
「俺にとってはって話です! 確かに先輩は美人さんですけど、それより俺には、蒼美先輩が意外と面白い人なんだなってことの方が超重要ですし」
白良の放った言葉に、蒼美は一瞬、拍子抜けしたように瞬きをした。それから、照れたように顔を背ける。
白良が蒼美を褒めるような言葉をかけるたび、蒼美がいつもこんなふうに、無防備な表情を見せるのが不思議だった。容姿も頭脳も優れているのだから、褒められ慣れているだろうに。
そんなにまっすぐ受け止められると、白良は少し居た堪れなくなる。自分の言葉がなにか、蒼美にとって価値あるもののように自惚れてしまうから。
庭園の小道を夕風が吹き抜け、満開の薔薇の香りが一気に二人を包み込む。むせ返るような、濃密で甘い芳香に、白良は頬を緩めた。
「良い匂い……蒼美先輩はやっぱり、バラが好きですか?」
それは、深い意味のない、問いだった。
しかし、問いかけた白良の隣で、蒼美はゆっくり、暗い視線を足元の影へと落とした。
その横顔は、沈みゆく夕闇に溶けそうなほど儚く、どこか悲しげだった。
「……嫌いだよ。心の底から」
絞り出すような声には、自分自身で作り上げた理想郷さえ呪うような、深い嫌悪が滲んでいた。
*
旧校舎四階、廊下の突き当たりにある化学部室。
西日が差し込み、豪華なバラとのコントラストが際立つその場所で、白良は久々に、窓辺で談笑する橙真と桃凪の輪に加わっていた。
屋敷の濃密な沈黙とは違う、学生らしい軽やかな空気。しかし、視界に入るバラとその香りが、否応なしにあの広大な庭園の主を連想させる。
「あの、橙真先輩。ここのバラって、学校の予算でやってるんですか? 肥料とか設備とか、結構すごいですけど」
白良はふと、前々から気になっていた疑問を口にした。
一般的な高校の弱小部活にしては、自動の温度管理システムや高価な肥料の袋が並ぶ光景はあまりに不自然だ。
「ははっ、まさか! 学校がこんな贅沢許すわけないだろ。全部、蒼美のポケットマネーだよ」
橙真がケラケラと軽薄に笑いながら、誇らしげに咲き誇る豪華な大輪のバラを指差した。
「あいつ、とんでもないからな。設備投資から苗の買い付けまで、化学部の活動資金は全て、茨蒼美様が支えてる、ってわけ」
「じゃあもうこれ全部、蒼美先輩の私物じゃないですか」
「でも、それでこんな貴重な体験してるって思ったら、感謝しかないかも。茨先輩って太っ腹なんだねぇ」
桃凪が感心したように肩をすくめて笑う。彼女の屈託のない笑顔の傍らで、白良は一人、胸のざわつきを感じていた。
「実際、蒼美の実験の手伝いでもあるっていうか。教室って当たり前だけどバラの栽培に適した場所じゃないじゃん? こういう場所でもちゃんと育てられるかっていう。バラの室内栽培なんて相当むずいけど、蒼美のよこす設備はすごいよな」
「……そこまで……」
「そんなの、愛がなきゃできないと思う! もしかして茨先輩、同志なのかな!?」
キラキラ目を輝かせる桃凪から目を逸らし、白良は俯いた。
私財を投じ、自身が暮らす屋敷はおろか学校でまで環境を整え、薔薇の城を築き上げているのはなぜなのか。その理由は、単純に考えれば確かに、バラへの愛であるべきだろう。
その一方で、あの夕暮れの庭園で、縋るような、あるいは呪うような声で、バラが嫌いだ、と吐き捨てた彼の歪な横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
白良は、甘く重い芳香の裏に隠された、茨蒼美という人間の底知れない孤独に触れた気がして、喉の奥に小さな、それでいて消えない違和感を覚えた。
*
部活後、白良は橙真に連れられ、蒼美の洋館を訪れることになった。
夕闇が迫り、住宅街の輪郭が深い藍色の影に飲み込まれていく。街灯の乏しい、どこか現世から切り離されていくような道すがら、橙真はいつになく軽薄さを封印した、低く真面目なトーンで話し始めた。
「……蒼美の親父さん、あいつが小さい頃に亡くなっててさ。歴史に名を残すレベルの天才科学者だったんだけど」
「天才……」
「ああ。蒼美のあの頭脳も美貌も、父親譲りだよ。親父さんが死んでから、蒼美は学校にもほぼ来なくなって。今も引きこもりがちじゃん」
「……はい」
橙真の静かな言葉を聞きながら、白良はあの屋敷の持て余すほどに広い空間と、そこに澱のように漂う停滞した空気を思い出していた。
親が遺した巨大な城の中で、一人、時間を止めてしまった青年。外の世界との繋がりを断ち、完成された箱庭の中に安住しようとする彼の、拒絶にも似た静寂。
それはあまりにも純度の高い、孤独だった。
俯く白良とは正反対に、橙真はどこか楽しげに、夜の帳が下りる空を見上げている。
「だからオレ、結構嬉しいんだよね。白良がこうやって、あいつと仲良くしてくれてんの」
「……仲良く、なれてるんですかね?」
「なにその感じ、自信持ちなって」
橙真は笑ったが、自信なんてもてそうもない、と、白良は心中で弱音を零した。
近づけば近づくほど、蒼美の心がどれほど強固な殻に守られ、到底手の届かない遠い場所にあるのかを思い知らされる。
だけど思い返してみれば、蒼美と仲良くしようだなんて、はじめは考えてもいなかったのだ。
どうしてここまで、彼に寄り添えない自分が苦しいのか、白良自身にもその正体は、分からなかった。
*
洋館に着くと、橙真は「蒼美と少し込み入った話がある」と言って、慣れた足取りで奥の書斎へと消えていった。
主人のプライベートな領域へ迷いなく踏み込める、彼らが重ねてきた歳月。その特権的な背中を見送ったあと、一人手持ち無沙汰になった白良は、もはや無意識のうちに吸い寄せられるようにして、薔薇のいる部屋へと足を向けた。
暇を持て余した様子のマサユキと、手土産の焼き菓子を手にしたマリーナも、迷子の子供を見守る保護者のような眼差しで付いてきてくれている。
「白良! 今日も来てくれたの?」
「うん、たまたまだけど……」
扉を開けた瞬間、薔薇はいつも、弾けるような笑顔で迎えてくれる。
ガラスケースの中から解放された彼は、白良の姿を見つけるたび、分かりやすく相好を崩す。
計算されたプログラムだとは到底思えないほどの、あまりに無垢な喜びは、白良の胸をいつも少し、甘がゆく、そしてくすぐったくさせる。
椅子に腰を下ろすと、薔薇は待ってましたとばかりにマリーナが用意したお菓子をつまんで、楽しそうにそれを白良の口に運んでくる。白良はマサユキたちの視線を感じて恥ずかしさに倒れそうになりつつ、ひとまず口を開いて迎え入れた。
「白良、美味しい?」
「うん。……先輩たち、なんの話してるんですかね。やっぱバラの話?」
甘い菓子を飲み込みながら、なんとなく気になって尋ねると、マリーナは小さく笑って答えた。
「バラの話でしょうね。橙真様がいらしたときは、そればかりですよ。というか、それ以外の会話をしているところは見たことがないですし」
「え、……幼馴染なのに!?」
「ふふ、バラで繋がった縁ですから。ここの庭、個人所有とは思えないほど広いでしょう? 昔からバラに執心していた橙真様が迷い込んでらっしゃって、それがきっかけで……」
「ああ、広いし、めっちゃ綺麗ですもんね。ほんと、お金取れるくらいで」
そんな賑やかなやり取りの傍らで、薔薇がふと、窓の外に広がる夕闇に目を細めた。
それはどこか寂しげで、今までよりも感情が滲むような、切ない視線だった。
白良は息を呑む。
薔薇は、加速度的に人間味を増してきている気がする。
あまりに端正に形作られた顔が、陰りという情緒を帯びるとき、それはとんでもない破壊力を持つのだと白良は初めて知った。匂い立つような色気がある。
「薔薇……?」
「いいな」
薔薇は、艶めかしい色を少し残したまま、子供っぽく拗ねるように唇を尖らせてみせた。ぎこちなさがない、自然な、あまりに人らしい仕草だ。恐ろしいほど。
「僕も庭のバラ、見てみたい。……誰も、ここから出してくれないんだもの」
「そりゃ、バレたらやばいもん。バカなの?」
「こら、マサユキ」
マサユキの容赦ないツッコミにたじろぎながらも、白良は薔薇の子供っぽく寂しげな横顔を凝視した。
言われてみれば、確かに。すぐそこに、自分の名前と同じ美しく咲き誇るものがあるというのに、一度もその実物をその目で見たことがないのは、あまりに悲しいことに思えた。
「……でも、蒼美先輩にバレたら俺が殺されるかもしれないし……」
「え、白良、殺されてしまうの? それは嫌だよ」
「俺ももちろん嫌だよ。蒼美先輩を殺人鬼にもしたくないし」
「蒼美様も流石にそこまでバイオレンスじゃないだろ。なんで殺害前提なの?」
子どもたちのやり取りを微笑ましく眺めていたマリーナが、つい、助け舟を出すように口を出した。
「若様と橙真様の研究話は一度始まると際限がなく、なかなか部屋から出てこないのが常ですから。今なら若様に内緒で、少し、外の空気を吸えますよ」
いたずらっぽく唇に指を当てて微笑むマリーナに、白良は薔薇と目を合わせる。
それから、笑って頷いた。チャンスがあるなら、試してみたい。白良だって、薔薇がいつもこの部屋から出られないことを気にしていないわけではなかったのだ。
マサユキも、面倒そうに肩をすくめているが、どうせ付いてくるのだろう。
「なんか、ワクワクするし、緊張もする、かも」
「大丈夫。白良のことは僕が守るよ」
「……じゃあ、お願いしようかな」
張り切ったように言う薔薇に、白良は笑いながら、その冷たくも滑らかな手を取った。
普段の幼なげな姿からはアンバランスなほどに、時折、薔薇は騎士のように凛とした佇まいを見せた。それはきっと、そう望まれた理想の残滓なのかもしれない、と思う。
逆に、いつも子供っぽく甘えてくる姿は、どうなんだろう。それを、薔薇自身が獲得しようとしている自我だと思うのは、白良が「彼は機械である」という現実をあまりに無視しすぎている、ということになるのだろうか。
白良の思考を奪うように、薔薇が繋いだ手をいたずらに指先でくすぐった。思わず顔を見ると、目が合ったことが嬉しい、とでも言うように微笑まれる。
「楽しみだね、白良」
「……うん」
恋人のように熱心に絡められる指先をそのままに、暮れなずむ庭園、秘密のバラ園へと、一歩、足跡を刻むように強く、踏み出した。
*
庭には、沈みゆく残光を浴びて燃えるような紅が広がっていた。
庭園の奥に広がるバラ園は、迷宮のように入り組んだ小径の左右を、何百、何千という大輪が埋め尽くしている。風が吹くたび、重厚な甘い香りが津波のように押し寄せ、肺の奥まで侵食してくるかのようだ。
薔薇は、自分と同じ名を冠したその花々を、静かに見渡すように眺めていた。はじめての外の景色であるはずのそれを、目に焼き付けるように。
だが、その横顔を見た白良は、奇妙な感覚に陥る。
これほど美しい光景を前にしながら、彼の瑠璃色の瞳は凪いでいた。そこには驚きも高揚もなく、ただ光を反射する鏡のような空虚さが横たわっている。
あれほど強請っていた割に、そこにはなんの感慨もないように見えて、その視線にはどこか薄寒さすら感じる。
白良の目に気づいたのか、薔薇がゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「きれいだね、白良」
蜜のように甘い声。柔らかな微笑。いつも通りの、美しい薔薇。
白良は、気のせいか、と思い直しつつも、花を見つめる彼の瞳が、どこか深いところで感情を器用に抑え込んでいるような、そんな得体の知れない違和感を拭いきれなかった。
そのざわつきを振り払うように、白良は周囲のバラへと視線を移した。
「本当に大きいですよね、このバラ園……手入れとか、大変そう」
見渡す限りの紅。その壮絶なまでの美しさに、白良は改めて圧倒され、呟いた。
「そうですねぇ。若様は外の人間を入れるのを好まないので、私共だけで管理しているんですよ」
マリーナが静かに応じると、横からマサユキが、肩をすくめて口を挟んだ。
「あの人、自分はなんもしないけど、すっごく口うるさくバラの管理に口出ししてくるんだよ。うっとうしいったらないんだから」
「こら、マサユキ。失礼ですよ」
「あはは……」
いつもの光景に苦笑いする白良だったが、マリーナはマサユキをたしなめながら、どこか誇らしげに目を細めた。
「何もしないなんてことはないんです。お金は惜しまないですし、知識もあって、それにバラのためだと言えばなんでも揃えてくださるんですよ。このバラ園を、とても大切になさってくれているんです」
「へえ……バラは嫌いって、言ってたのに」
白良の口から、無意識に、小さく、本音がこぼれ落ちた。
あの夕暮れの庭で、憎悪さえ感じさせる声で放たれた言葉。嫌いなものを、なぜこれほどまでに慈しみ、執着するのか。
矛盾した蒼美の行動が、白良の胸を重くさせる。
考え込む白良の隣で、どこか遠く──過ぎ去った時間に焦点を合わせるようにして、マリーナもまた、思わずといった様子で呟いた。
「旦那様のときから、何も変わらない。いつでもずっと、きれい……」
「え?」
白良が問い返すと、マリーナははっとしたように取り繕い、穏やかな笑みを浮かべ直した。
「元々は、旦那様……蒼美様のお父様が、お造りになった庭園ですから。それをほとんど変わらないまま、維持してくださっているんです。屋敷も、何もかも、受け継いだまま、若様は……本当に、いじらしくて」
「……もしかして、研究室も、残されていたものなんですか? あの、薔薇の」
「そう、ですね。……詳しいことはわからないですけれど、若様は、旦那様のものを全て、受け継いでらっしゃいますよ」
マリーナの言葉が、白良の胸に小さな、けれど確かな波紋を広げる。
「……もしかして……」
白良の視線が、自然と、隣で一輪のバラをぼんやりと眺める薔薇へと向いた。
ただの妄想かもしれない。
しかし、理屈が繋がり始める。蒼美自身が装備を「作った」と言ったが、高校生が独力で完成させるには、あまりに次元の違う技術だ。
この広大な屋敷の全ては、もともと、彼の父のもの。橙真曰くの、天才科学者。
──もし、薔薇の制作者が蒼美ではなく、彼の父親だったとしたら?
蒼美が起動を拒み、あの暗い温室に彼を放置していた理由が、それだとしたら。
「……白良、見て。蝶も居るよ。綺麗だね」
「あ、ああ、そうだね」
思考の海に沈みかけた白良を、現実へ引き戻す柔らかな感触があった。薔薇がその細い指先で、白良のシャツの裾をぎゅっと掴んでいる。
その表情をのぞき見ると、あまりにも無邪気で、心に柔らかな暖かさを感じる。
薔薇の瞳は、日々、世界の色を吸収し、その輝きを増している。ころころと変わる表情、ふとした仕草、言葉の端々。
それらは以前よりずっと自然に、鮮やかに、彼の美しさを飾り立てていた。
「ねえ、白良」
薔薇が白良の顔を覗き込み、わずかに眉を寄せた。そんなひとつの動作にさえも、機械には備わっていないはずの、繊細な心の揺らぎが見える。
「白良は、蒼美のことを気にかけているんだね」
「? ど、うだろ、そう見える?」
「うん。どうして?」
「どうして、って、言われても……」
不意に問われ、白良は答えに詰まった。薔薇の瑠璃色の瞳の奥に、湿り気を帯びた仄暗いものが一瞬混じった気がして言葉に詰まるが、そんなわけはないと自分を叱咤する。
だが、問いそのものに対しても、白良は確かな言葉を持てなかった。
自分はどうしてこれほどまでに、あの孤独な青年の影を追いかけてしまうのだろう。
「別に、そんなこと、ないと思うよ」
「……そう」
結局、心の中の正体不明の熱を誤魔化すように、白良は曖昧に首を振った。
*
薔薇を月明かりのような照明が落ちるガラスケースの部屋へと送り届け、彼が静かに目を閉じ、システムが深いスリープモードに入るのを見届ける。
カチリ、と微かな駆動音が止まった瞬間、白良は独り、底のない静寂の中に取り残された。
マリーナとマサユキはすでにそれぞれの仕事へと戻り、広い屋敷に漂う微かな生活音さえ、ここでは厚い壁に遮られて届かない。空調の微かな唸りだけが、この部屋が生きていることを辛うじて示していた。
ふと、部屋の隅に鎮座する古い木製の棚に目を留める。
主人が不在のその場所には、背表紙の擦り切れた何冊もの古いファイルが、重苦しく肩を並べていた。
「これ……」
心臓の鼓動が、耳元でどくどくと煩く鳴り響く。
それに手を伸ばすことは、白良には許されていない、越えてはならない一線を踏み越える行為だと分かっていた。
だが、バラ園で聞いた「旦那様の代から変わらない」というマリーナの言葉から膨らんだ妄想が、いまだ棘のように胸に刺さったままで、引き抜くことができない。
迷いを振り切るように、一冊目を手に取る。ドイツ語かなにかなのか、白良には解読できない言語が並ぶ研究ノート。二冊目、三冊目……バラの室内栽培や、未知のバイオ技術に関する難解な記述が続く。
四冊目、五冊目──。
指先を走らせ、夢中でファイルを漁り続けた白良の手が、ある一冊の前で凍りついた。
『アンドロイド 薔薇 設計思想及び運用マニュアル』
褪せた表紙には、蒼美と同じ苗字を持つ「茨 藍」という名前が刻まれていた。
「茨、藍……」
震える手でページを捲る。精緻な回路図。皮膚の質感さえデータ化した設計図。パラパラとめくった先、余白を埋め尽くすように記された、殴り書きのようなメモ。
そのうちのひとつを、指でなぞる。
『息子に欠落したものを補うために、これを利用し──』
「……何をしている」
背筋を氷の刃でなぞられたような錯覚に、白良は肩を大きく跳ねさせた。
振り返ると、そこには開かれた扉の前に、死神のように影を背負った蒼美が立っていた。
その瞳には、奈落の底のような暗闇が沈んでいる。平素は透き通り、青く光を反射するはずの瞳が、今は光をすべて吸い込むように、ただ、真っ黒だった。
蒼美は無造作に白良に歩み寄ると、抵抗する間もなく、その細く冷たい指先でファイルをひったくる。
「お前がここに無断で立ち入るのは、二度目だな。懲りないやつだ」
「ごめん、なさい……」
凍りついたような沈黙が続く。どちらもが、次の言葉を探していた。あるいはお互いに核心に触れず、このまま冗談めかして流すことを望んでいるのかもしれなかった。
それでも、白良は口を開いた。開かなければ白良は、蒼美の心に触れる機会を永遠に失うと、本能でわかっていた。
「茨先輩。このアンドロイドって……本当に、先輩が『理想の男』として作ったんですか?」
逃げ場のない場所での、確信的な問い。白良の真っ直ぐな視線を受け、蒼美は一瞬、喉を詰まらせたように呼吸を止めた。
次の瞬間、彼の唇が酷く歪に吊り上がる。それは、今にも耐えきれずに泣き出しそうな、あまりに脆い、絶望の笑みだった。
「……いいや」
蒼美は吐き捨てるように呟き、その端正な横顔を自嘲の影で染めた。指先に白くなるほど力を込め、ひったくったファイルを無造作に棚へ投げ戻す。
バタン、という乾いた音が、静寂の中で残酷に響いた。その所作の一つ一つが、隠し通せなかった真実への、そして自分自身への苛立ちを露わにしていた。
「私は、完成品を微調整しただけに過ぎない。ガラクタの埃を払っただけだ」
蒼美は、ガラスケースの中で深い眠りにつく薔薇を見つめた。その瞳には、今まで白良に見せていた冷静さをすべて飲み込むほどの、深い憎しみと、そしてそれ以上に深い、耐え難いほどの劣等感が混ざり合っている。
白良は思わず、その震える肩に手を伸ばし、しかし躊躇い、やめた。今、蒼美の隠していた傷口を無理やり抉り出した当人である自分に、何ができると言うのだろう。
「薔薇は……父が作った、父の理想の息子だ」
震える声が、静寂を切り裂く。
一歩、蒼美が吸い寄せられるようにガラスケースに歩み寄る。その滑らかな表面に映る、泣きそうに歪んだ自分の顔と、中で目を閉じる完璧な造形を重ね合わせるようにして、彼は絞り出すように言葉を続けた。
「私の代わりを務めるために用意された、瑕疵なき代替品。私という失敗作には到底不可能な、父の望む完璧を体現するためだけの器だ」
その言葉は、自分という存在そのものを根底から否定するように、静かに、重く、逃げ場のない部屋に響き渡った。
白良は言葉を失い、ただ、どうすることもできずに、立ち尽くすしかなかった。
*
