青薔薇の箱庭

エピローグ



 眩しい朝の光が差し込む玄関先で、白良はスニーカーの紐をきつく結び直す。
 背後から聞こえてきたのは、かつての刺々しさが消え、どこか柔らかい響きを帯びた、聞き慣れた足音だった。

「……白良、忘れ物はない?」

 振り返ると、紫凛が少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに白良を見つめていた。
 記憶を取り戻した彼女の瞳からは、あの時の濁りは消えている。もうそこには、薔薇が植え付けた偽物の拒絶はない。

「大丈夫。……いってきます!」
「うん。いってらっしゃい」

 ごく平凡な、けれど白良がずっと焦がれていた、家族らしいやりとり。その温かさを胸に、白良は家を出た。



 洋館は、今も静寂の中に佇んでいた。
 出迎えたメイドたちに軽く会釈をし、白良はかつて薔薇と過ごしたあの研究室へと足を踏み入れた。
 部屋の奥では、青白い静謐な光を湛えたガラスケースの中で、薔薇が眠っていた。
 機能は完全に停止している。
 肌の質感も、睫毛の長さも、あの日最後に笑った時のまま、ただの精巧な彫刻のようになってしまったその姿を、白良は無言で見つめ続けた。

 背後で足音が響き、蒼美が現れた。彼は装置の傍らに立ち、決意を秘めた目で薔薇を見つめる。
 あの日以来、この部屋で、二人で揃うのははじめてだった。そう頼んだわけでもないのに、白良が薔薇に会いにくるとき、蒼美はそこには立ち入らなかったから。
 蒼美もきっと、まだ、薔薇を失った傷を、膿んだまま抱えている。

「再起動の準備を進めている。……人を、お前を傷つけないように教え込んで、絶対に傷つけないように、そういう薔薇を私が作る。そうしたらまた、薔薇に会えるだろ」

 蒼美の声は、低く掠れていた。蒼美の、贖罪に似た言葉。しかし、白良はちいさく、首を振った。

「そんなの」

 声が震えた。笑おうとして、失敗する。

「そんなの、薔薇じゃないよ……」

 視界が歪み、大粒の涙が頬を伝った。白良はそれを右手で乱暴に拭って、必死に隠した。
 
 薔薇は愛を手に入れたかっただけ。愛を知りたかった。愛を得る方法を知らなかった。
 傷つける方法でしか手を伸ばせなかったのかもしれないけれど、それでも白良は、薔薇に愛されていた。
 薔薇の愛を、白良だけは知っている。その愛がないのなら、薔薇は薔薇たりえないことも。
 白良を傷つけないように制御されたプログラムの中にはきっと、あの瑠璃色の瞳の少年は、もういない。

 蒼美は痛みを分かち合うように、そっと、白良を抱きしめた。

「……悪かった」
「蒼美先輩、俺。……俺さ。蒼美先輩や、薔薇に出会えたこと、本当に良かったって、思ってるんだよ」

 白良は腕の中から顔を上げ、蒼美の頬を両手で包み込んだ。

  蒼美の父母の確執、そして薔薇の誕生の真実。それを蒼美に伝えることは、一生ないだろう。
 薔薇と共に真実を暗闇へ葬り去ろうとしていることは、明確に自分の罪だと、白良は認識していた。
 それでもいい。その罪を墓場まで連れていく覚悟は、もうできている。
 残酷な真実よりも愛おしい嘘を、白良もまた、選びたいから。

「生まれてきてくれてありがとう、蒼美先輩」

 白良から蒼美に深く抱きつくと、張り詰めていた蒼美の肩が激しく震え出す。
 蒼美は白良の肩に顔を埋め、静かに、けれど堰を切ったように、涙を流した。



 帰り道。夕暮れに染まる路を歩きながら、白良はふと立ち止まる。
 ポケットの中で、スマートフォンが震えたような気がした。
 取り出した画面は、まだ暗いままだ。
 けれど、彼が歩き出す直前。
 漆黒のディスプレイの片隅に、微かな瑠璃色の光を放ちながら、一輪の薔薇の紋章が、ぼんやりと浮かび上がっていた。