青薔薇の箱庭



 屋敷の広大な敷地をようやく抜け、古びた街灯が頼りなく夜道を照らす場所まで逃げ延びる。 
 肺を焼くような冷たい空気を吸い込み、乱れる呼吸を整えようと膝に手をついた。
 視界の先には予期せぬ人物たちが待っていた。不安げに肩を震わせ、暗がりに立ち尽くす紫凛と桃凪がいる。

「紫凛さん、なんで……」
「桃凪呼んだらついてきたんだよ。とりあえず、作戦会議するから後ででいい?」

 橙真が緊張感の失せない手短な口調で、再会の動揺を強引に打ち切る。
 混乱の余韻に浸る間もなく、隣に立つ蒼美が、冷徹な、けれどその奥にどこか悲痛な決意を孕んだ声で告げた。

「薔薇を、終了処分する」
「えっ……処分、って……」

 白良は、咄嗟に拒絶するように、小さく首を振った。
 心臓が不規則に跳ね、視界が真っ白に染まっていく。薔薇との時間が、鮮やかな走馬灯のように脳裏をよぎる。
 終了処分、という無機質な、機械を壊すためだけの響きと、柔らかく微笑む薔薇の姿が、どうしても結びつかない。
 白良に優しく触れる薔薇の指先の、ひんやりとした温度を、白良はずっと、覚えている。肌を撫でる力の強さを、耳元で囁く声の甘さを、何かに焦がれるように揺れる瞳を、白良は知っている。
 彼が精巧に造られたアンドロイドであることなんて、白良は最初から、ずっと、分かっているはずなのに。白良の目に映る薔薇は、いつだって誰よりも懸命に、人間だったから。

 激しく動揺する白良を宥めるように、蒼美は務めて冷静に、一言ずつ重みを噛みしめるように言葉を重ねた。
 それは、周囲への説明であると同時に、今にも折れそうな自身へ言い聞かせるようでもあった。

「あまりにも力が強大で、被害が甚大だ。他者に害をなすプログラムを残しておくわけにはいかない。薔薇の管理者は私だ。……私が責任を持って、終わらせる」

 蒼美の言葉の末尾が、微かに、揺れる。そこには、家族と呼べるかもしれなかった唯一の存在に対する、断ち切りきれない慈愛が滲んでしまったようにも聞こえた。
 白良は、ぐ、と、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめた。心臓が、鷲掴みにされたように苦しい。
 平然を装い、一人で冷酷な審判を下そうとする蒼美が悲しくて、辛かった。
 なんでもないわけがない。だって、蒼美にとって薔薇は、たった一人の家族だ。

 白良の目には、あの屋敷にいた二人は、間違いなく兄弟として映っていた。
 ぎこちなく、ときには互いを傷つけ合いながら、それでも確かに互いの存在を唯一の拠り所として尊重し合える──そんな暖かなつながりを、二人はあの歪な檻の中で結びかけていたのを、隣で見守っていた白良は知っている。

 もう二度と、その絆を温め直すことは叶わない。

 白良は溢れそうになる涙をまぶたの裏に必死に押し込め、震える拳にさらに力を込めて、頷いた。

「……分かった。協力する」

 蒼美は白良の静かな返答に、僅かに瞳を揺らした。
 たとえ白良が否定したところで、冷徹な論理で説き伏せるつもりだったはずだったろうに。白良にだけは薔薇の終了を、反対してほしかったのかもしれない。
 だけど、白良にも薔薇に対する責任はある。蒼美だけに、その選択の重さを背負わせるわけにはいかなかった。
 眠りについていた薔薇を呼び起こし、一番初めに彼と関係性を築いたのは、自分だ。
 であるならば、彼を看取り、再び眠らせるのもまた、自分でありたかった。
 少年たちの沈痛な覚悟を静かに見守るように、冴え渡る月が、彼らの影を夜道に長く引き伸ばしていた。



 作戦は、夜の冷気に身を削るような緊張感のなか、迅速に共有された。薔薇が支配するあの屋敷へ、それが自ら死地へ赴くことだとしても、再び戻らなければならない。

「橙真たちはメイドを頼む。おそらく薔薇に操られているだろうから、適当に無力化してくれればいい」
「雑な指示だなぁ。まあやるけどさ」
「私も、頑張る……!」
「……」

 橙真が軽く肩をすくめて手をひらひらと振り、桃凪が震える手で小さく拳を固める。そして、紫凛も視線を彷徨わせながら、小さくではあるが、確かに頷いた。

 いよいよ二手に分かれるというその直前、紫凛が意を決したように白良の前に歩み寄った。
 彼女の瞳は酷く混乱し、植え付けられた記憶の不協和音に耐えるように、苦しげに細められている。

「あたし、あなたのことは、分からない。誰なのか、もやがかったみたいで、思い出せないの。それに、あなたのことを考えると吐き気がしてくるし、頭も痛くなる。変だよね」
「……」

 薔薇が施した強烈な暗示が、今もなお彼女の精神を縛り、白良という存在への拒絶を強いている。白良は胸を締め付けられる思いで、その痛々しい独白を聞いた。
 しかし、紫凛は顔を歪め、喉の奥から絞り出すように言葉を継いだ。

「だけど、わかるの。……あなたは多分、あたしにとって大事な子。だから、絶対に、無事で帰ってきて」

 大事な子。その言葉に、瞼の裏が熱くなるのがわかった。ぐ、と、唇を噛み締める。
 紫凛の、きっと本心からの、必死な訴えに触れた瞬間、白良の胸の中にずっと澱のように溜まっていた迷いが消え、温かな覚悟が形を成した。

「うん。──姉さんも、気をつけて」

 はじめて、その呼称を迷いなく口にすることができた。
 紫凛の瞳が、驚きに大きく見開かれる。
 ずっと、喉まで出かかっては飲み込んできた。
 姉と呼んでいいのか、呼ぶことを許されるのか。拒絶されるのが怖くて、本当の家族にはなれないことを認めるのを恐れて、踏み込むことに怯えてきた。
 だけど、白良にとって紫凛は、大切な姉で、確かに家族だと、そう思いたいのだと、決めたから。
 もう、白良は逃げない。

「いってきます!」
「……いってらっしゃい」
 
 それは、死地へ向かう戦士の言葉ではなく、明日もまた当たり前に顔を合わせる、いつもの朝の光景のような。暖かく、自然な、ありふれた家族のやりとりだった。
 その響きを道標にするように、白良は暗い屋敷の方角へと足を踏み出した。




 白良と蒼美は、死んだように静まり返った廊下を急いでいた。目指すは、すべての始まりの場所。
 薔薇が眠り、そしてエネルギーを補給する充電装置──あの巨大なガラスケースのある研究室だ。その装置には、緊急時に備えた終了プログラムが組み込まれている。
 そこに薔薇を追い込み、終了処置を行うこと。それが、この悲劇を終わらせる唯一の方法だった。

「蒼美先輩、本当に、こうするしかないんですか」

 白良の震える声が、人気のない冷たい壁に反響する。
 覚悟を決めたはずなのに、足を進めるたびに迷いが幾度も去来する。あるいは、これ以上迷わないためにもう一度、誰かに「仕方ない」と断言してほしかったのかもしれない。
 あの子どものように無垢で美しい青年と共に生きていく方法は、本当にもう存在しないのか。
 蒼美は前を見据えたまま、一度だけ強く唇を噛み、己の情を切り捨てるように短く息を吐いた。

「……もう私ですら、薔薇がどこまで、何をできるのか把握できていない。あいつを止めるには、殺すしかない」

 蒼美は、あえて殺すという言葉を選んだ。薔薇は、緻密な演算回路と人工筋肉で構成された機械で、人じゃない。
 けれど、白良にとっても、そして蒼美にとっても、彼はただの無機物ではないから。
 薔薇を機能停止させることは、一人の人間としての彼を、その魂ごと抹殺することに他ならなかった。
 部屋の前に、たどりつく。何度、ここで薔薇と言葉を交わしただろう。その思い出の断片すべてが、白良にとって痛々しくも大切な、無くしたくない宝物だった。

「蒼美先輩、わがまま言ってもいいですか」
「……なんだ」
「ひとりで、いかせてください」

 駄目だ、と言いかけて、白良の瞳に宿る真剣な光に、蒼美は思わず息を呑んだ。

「どうしてだ。……危険なことは、分かっているよな」
「だって、俺、薔薇に告白の答え、言わないと。それは、ふたりきりのほうがいいでしょ?」

 に、と、無理に歯を見せて、白良は痛々しく笑った。
 蒼美は呆れたように、あるいは直視できないほどの眩しさに目を細めるように、重いため息をついた。

「そうだな。真摯に、答えてやってくれ」

 冗談めかしたようでいて、どこか切実な祈りが籠もった蒼美の言葉に、白良は力強く頷いた。
 扉の前で、深く息を吸う。心臓の鼓動が耳の奥まで響く。別れの覚悟なんて、何度呼吸したところでできそうになかった。それでも、もう、終わらせなければならないから。
 扉を開けると、そこには主を待つ揺り籠のように、青白い光を湛えたガラスケースが鎮座していた。

 そして、その前に薔薇は立っている。きっと、白良の目的さえも察した上で。

 恐ろしいほど整った顔が、微動だにせず白良を射抜く。わかりやすい表情を作っているわけではないのに、その無機質な瞳の裏側に、どろどろとした感情が渦巻いているのがわかった。
 場違いにも、感慨深くなる。こんなに顕に感情を表す薔薇を、少し前までの白良は想像もしていなかった。こんなに大切な存在になることも。

「白良は僕を、壊しにきたの」

 薔薇の問いは、責めるような響きではなく、ただひどく透き通っていた。

「……嫌だよ薔薇、もうやめよう。こんなの、もう……」

 いざ本人を前にすると、押し殺していた弱音が決壊したように溢れ出す。どうして、こんな残酷な真似をしなければならないんだろう。
 理由は、わかっている。分かっていても、込み上げる悲しみが止まるわけではなかった。

「やめるって、何を? 白良を好きでいること? 白良に好きになってもらえるように努力すること?」
「そうじゃ、なくて、だって俺は、薔薇のことちゃんと好きだよ」

 白良の叫びに、薔薇は一瞬だけ、一時停止したかのような奇妙な静寂を見せた。そして、ガラス細工が壊れる時のような、悲痛なほどに美しい微笑を浮かべる。

「わかってる。それで満足できない僕が、きっと悪いよね。でも、僕だけのそばにいてほしい。僕だけを選んでほしい。それが愛で、それ以外は愛じゃないって、ごめんね、僕は、それしか知らないから」

 一歩、また一歩と、薔薇が白良に触れようと近づく。白良は逃げずに、ただ、歪んでいく視界の中でそれを見つめていた。
 薔薇の告白が、悲しかった。揺らがず甘い声は、それでも、奥の悲哀を隠さない。
 薔薇が愛を求めた気持ちが、白良にも痛いほどわかる。その寂しさを、白良だって知っている。

 薔薇の指先が、白良の肌に届こうとした刹那。
 背後の闇に潜んでいた蒼美が、音もなく飛び出し、手近にあった重厚な真鍮の燭台を振りかざした。
 鈍い衝撃音と共に、薔薇の身体が糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちる。

「急所はほとんど、人間と同じだからな」

 蒼美の呟きは、掠れて消えそうだった。白良は溢れ出す涙で視界を歪ませながら、必死で声をこらえた。
 倒れた薔薇の頬に手を伸ばしかけ、寸前で思い止まる。別れを惜しむ時間も、そんな感傷に浸る権利も、自分にはないように思えた。
 蒼美と二人、物言わぬ重みとなった薔薇を抱え上げる。想像していた重さより軽くても、力ない男の身体は重たくて、辛かった。動かなくなったモノ特有の、沈黙を伴う重み。
 涙を堪えながら、無理矢理に、薔薇を冷たいガラスケースへと押し込める。

 ──扉を閉めようとした、その瞬間だった。
 薔薇の白い手が、白良の服を強く掴み、自分の方へと引き込んだ。

「あ……!」

 薔薇と共に白良までもがケースの中に閉じ込められ、電子ロックが作動する。外側では、血相を変えた蒼美が拳でガンガンとガラスを叩いているが、強固な壁はびくともしなかった。



 ケースの中、密閉された空間で、白良と薔薇は見つめ合った。

「薔薇……」
「心配しないで。別に心中しようなんて、思ってないんだ。それを君が望んでくれたらどれだけ素敵だろうと思うけれど、違うでしょう?」

 喉元を這う白く長い指に怯えることなく、白良はただ、震える腕で薔薇を抱きしめた。

「うん。……ごめん、ごめん、俺は、一緒に死んであげられない……っ」
「ふふ、謝ったって、許さない」

 薔薇は完璧に美しい笑みを浮かべて、白良の顎を掴み、無理矢理に目を合わせると、その頬を伝う涙を自らの唇でそっと拭った。

「ねえ、白良。僕は君が好き」
「うん……うん、知ってる。知ってるよ」
「本当? よかった」

 今度は薔薇から、子どものように無邪気に、白良の体をぎゅっと抱きしめた。
 胸元に耳を寄せても、鼓動は聞こえない。ただ、機械音が少しだけ。
 それでも伝わる感触は柔らかく、優しくて、切実で、胸が潰れそうになる。
 薔薇は白良の髪を、壊れものを扱うように丁寧に撫でた。

「僕は君が好き。君を好きになれてよかった。間違えてしまったみたいだけど、ごめんね、後悔はしてないんだ。だって今、君は、僕だけを見てくれている。僕だけのために、泣いてくれている」

 どこか満足げに、そして驚くほど晴れやかな表情で、薔薇は言った。ぐちゃぐちゃの顔でぼろぼろと涙を流す白良とは、あまりに対照的だった。

「薔薇、俺は、」
「ねえ白良。嘘でも、いいから。最後に、好きだ、って言ってほしい。そうしたら、君をちゃんと、帰すから」

 薔薇は自分の形のいい鼻を白良のそれに擦り付けながら、強請った。掠れた声は色気を孕んでいたが、しかし白良には、拒絶を恐れる幼子の声のように聞こえた。
 白良は薔薇の白い頬に手を添えて、正面から、その瑠璃色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 
「薔薇。俺は、薔薇が好きだよ。愛してる。……嘘なんかじゃないよ」

 薔薇は驚いたように目を見開き、それから耐えきれないというように唇を噛んだ。無理やりに、けれど心底幸せそうに、笑う。

「僕も、愛してる」

 薔薇は白良を突き出すようにしてケースの外へ追い出し、自らの手で内側から扉を閉める。
 その瞬間、蒼美は、迷いを断ち切るように、すぐさま終了処分の実行ボタンを押し込んだ。

「薔薇……!」

 白良は激しく稼働し始めた装置にすがりついた。
 溢れ落ちる涙をそのままに、ガラスの向こう側の薔薇の顔をなぞる。
 そして、祈るように目を瞑り、冷たいガラスに口づけをした。

 薔薇は最初、きょとんとした表情で白良を見ていた。やがて、その意味を悟ったように、瞳を潤ませ、唇を震わせる。それは、薔薇がはじめて見せた、弱々しい表情だった。

 震える手を重ね合わせる。薔薇は、ゆらゆらと視線を彷徨わせた。
 数センチ先にあるはずのその温かさに触れることは、もう二度と叶わない。惜しむように、ガラスを爪で引っ掻いた。
 白良の吐息で白く曇り、硝子の上に小さな真珠のような結露を作る。薔薇は吸い寄せられるように、その曇りの中心へと顔を寄せた。
 そうして、自身の唇を、白良の唇にガラス越しに、重ねた。
 消えゆく意識のなか、薔薇は白良の目を見た。これ以上ないほど幸せな顔で笑い、そしてゆっくりと、瞼を閉じた。

 装置の稼働音がやがて止まり、心臓を圧迫するような静寂が部屋を支配する。
 ガラスに縋りついたまま、白良は動けなかった。押し寄せる後悔と、二度と埋まらない喪失感に、白良も蒼美も、ただ立ち尽くす。

「薔薇と、家族になりたかった。なれたはずだった」
 
 それは、蒼美の抑えきれない弱音だった。最善の選択をしたと分かっていても、心が納得してくれるわけではない。

「だけど、お前を──白良を、守りたかった」

 蒼美の独白が、薄暗い闇の中に溶けて消える。

「いや、違うな。お前を、奪われたくなかっただけかもしれない」
「蒼美、先輩……」
「お前がいつも、ずっと、……何よりも、美しく見えたから」

 拭うそばからこぼれ落ちてくる白良の涙を、蒼美はひたすら、やさしく指で拭った。壊れそうな宝物を慈しむように、愛おしむように、ずっと。
 夜が明けて、窓の外が白み始めるまでずっと、ふたりはそうやって、静かに寄り添っていた。