青薔薇の箱庭



 薔薇に連れられた先は、屋敷のなかでも特に静謐が支配する、主のいない書斎だった。
 重厚なカーテンが夜の闇を遮断し、琥珀色のランプが二人の影を長く、歪に壁へと投影している。

「答え合わせって、なに……?」

 白良の声は、極限まで張り詰めた弦のように震えていた。薔薇は本棚に背を預け、自らの指先を見つめながら、まるで遠い異国の神話を語るような口調で応じる。

「僕が、作られた理由」

 それは、白良が蒼美と薔薇という二人の孤独に深く関わる、きっかけになった話だ。
 もう、白良はその真実を、知っている、はずだった。
 だが、目の前の怪物はその前提を、根底から覆そうとしていた。

「僕を作ったのは蒼美の父ではなく、蒼美の母だ。それに、本当は蒼美より早く作られたから、どちらかというと僕が兄なんだよ」
「……それって、どういう……」

 理解を拒む白良を嘲笑うように、薔薇の言葉が冷たく、脳内に侵入してくる。

「旦那様は奥様を愛していたけれど、奥様はそうでもなかったんだって。優秀で才気に溢れる奥様の心が離れていくのを恐れた旦那様は、彼女をここに閉じ込めたそうだ。望めば何もかも与えられるのに、どこに行くことも誰にも会うことも許されなかった奥様は精神を病んで壊れてしまったけれど、それでもなお──優秀な科学者だった」
「あ、」

 白良が何かを言いかける前に、薔薇の指先がその頬に滑り込んできた。
 ひんやりとした指先。触れられた場所から毒のような甘い痺れが広がり、少し撫でられるだけで、白良の理性は簡単に、陶然とした霧の中に沈みそうになる。

「奥様が僕を作ったのは退屈凌ぎで、孤独を慰めるためで、旦那様への当てつけ。理想の恋人として」

 薔薇が音もなく腰を寄せ、白良の逃げ場を奪う。その瞳は、深淵よりも深い色をともなって、白良を凝視していた。

「ねえ、白良。だから」

 耳元に、羽毛のような吐息が吹き込まれる。抗いようもなく腹の奥が熱くなり、吐息が漏れるのを抑えられない。

「僕はとても、魅力的でしょう?」

 この甘美な誘惑に、膝を折って仕舞えばどんなに楽か。すべてを諦め、この美しい虚構に身を浸してしまえば──。
 それでも、白良は必死で、残った理性を掻き集めて薔薇を振り払った。

「っ……!!」

 全力で薔薇の胸を突き飛ばし、なんとか距離を確保する。しかし、恐怖と、強引に与えられた快楽の残滓のせいで腰が抜け、その場に力なく座り込んでしまう。
 薔薇は怒る風でもなく、優雅な動作で白良の前にしゃがみ込む。目線を合わせ、乱れた白良の髪を慈しむように撫でながら、話し続けた。

「奥様は本当に限界だったらしくて、僕を取り上げると自傷行為がひどくなってしまったんだって。彼女にとっての唯一の持ち物が僕で、拠り所だったみたい」
「……」
「だから旦那様もしばらくはどうすることもできなかったのだろうけど、彼にもともと堪え性があったら、愛する人を監禁することなんてないでしょう?」

 薔薇はそう言って、残酷なほどに美しい微笑を浮かべた。しかし白良には、あまりに救いのないその誕生の呪いを、笑うことなんて到底できなかった。

「そうして、蒼美が生まれて、奥様は死んだ」

 白良は言葉を失った。
 視線を逸らそうとするが、薔薇の冷たい指先が顎を掴み、強制的に向き合わせる。逃避を許さない、支配的な優しさ。結ばれた視線の先で、薔薇の語る悲劇は加速する。

「奥様が居なくなったなら、僕を処分するのになんの障害もないはずだけれど、旦那様も難儀だよね。奥様は僕以外の何もかもを連れて逝ってしまわれたから、旦那様にとって愛する妻の形見となる存在は僕と、それから蒼美だけになってしまった」
「……」
「白良の推測も少し、正解なんだよ」
「……何が……」

 力なく問い返した白良を慰めるように、薔薇は顎のラインを指の背で優しくくすぐった。
 そして、慈愛に満ちた声で、続ける。

「蒼美のための僕だった、ということ。旦那様は夫としての才も、父としての才もなかったみたい。だから僕を、蒼美を育てるための存在に改良しようとした。ただ一つの奥様の形見を捨てることができないなら、いっそ利用してしまおうというのは合理的だよね」

 その声は楽しげでありながら、その実、酷薄で、耳を塞ぎたくなるほど痛々しい。もう聞きたくないという叫びが、白良の喉元までせり上がっている。

「でも、人間の感情はそんなに簡単なものではないでしょう? 僕を完成させることは、旦那様にはできなかった。僕への憎しみを捨てきれなかったから」

 憎しみと愛着、そして異常な執着。そのすべてを煮詰めたようなこの屋敷の歴史に、白良は吐き気を覚えた。

「なんで今更、俺に、そんな話するんだよ……」
「僕が君を好きな理由を聞きたかったんでしょう?」
「……今の話の、何が、……」

 薔薇は、純粋な少年が恋心を打ち明ける時のように、少しだけ照れたように微笑んだ。

「白良が見出した答えの方が、真実より美しかったから。僕には愛は分からなかったけれど、白良のそれは愛だと思った」

 薔薇の瞳に、機械的な冷徹さではない、仄かな熱のようなものが確かに、ゆらめいている。

「僕はずっと、理解したかったのかもしれない。あるいは納得を求めていたのかもしれない。僕は愛のために生まれたわけではないと知っているのに、君の答えがあまりにも美しかったから、そうであれば良いと思った。機械のくせにと自分でも思うけれど、奥様は僕に情緒的なやりとりを求めて作ったのだから仕方がないよね。僕に心らしきものがあることも当然だ」
「それで、俺のことが好きだって……?」
「そうだよ。僕は君に恋をするために生まれてきたのだとさえ思ったもの!」

 あまりにも馬鹿げている。薔薇が誰かに恋をするために生まれたというなら、その対象は間違いなく彼の生みの親たる女性だったはずだ。自分に向けられているこの感情は、その欠落を埋めるための代償行為ではないのか。
 ああでも、そんなふうに根拠もなく浮かれてしまうのが恋なのだとすれば。薔薇は、確かに今、人間になっている。

「白良は、僕のことが好きでしょう」
「は……? そんなわけ……」
「蒼美が何をしたのかは知らないけれど、そんな簡単に全てが元通りにはならないよ。君の脳の電気信号はまだ、僕への好意を訴えているはずだ」

 すり、と白良の首元を親指で撫でる。その感触に、白良の身体は簡単に反応し、肩を震わせた。

「奥様は旦那様のことを愛せなかったけれど、愛したかったみたい。情はあったんだろうね。きっと、僕がお役御免になるまで、本当にもう少しだった……」
「薔薇、待って、ん、く……」

 首筋に押し当てられた親指から、微かな振動が伝わって悦楽を呼び、白良の思考を再び濁らせていく。

「はは、かわいい。……ねえ、僕、旦那様のようになりたかったわけじゃないんだ。君が僕を好きになってくれるなら、独占できなくたって構わない。だから、僕を受け入れて。逃げないで。ここに帰ってくるって言って。そうしたら今まで通り、学校に行って、お友達と話して、そういう毎日を返してあげられるから」

 それは、究極の譲歩であり、同時に最も狡猾な脅迫だった。

「それは、変だろ……は、お前に返してもらえなくたって、っ、もともと、それは、あ、俺のもんだよ……っ」

 奪われた日常を、返す、と言われる歪さに、白良は必死で抗おうとする。
 しかし、薔薇の差し出した甘美な檻の扉は、白良の理性を飲み込もうと、今も静かに開かれていた。



「白良は僕のことが好きなんだから、僕と暮らした方がいいと思わない? あのお姉さんよりも、僕といた方がいいでしょう」

 薔薇の問いかけは、ひどく純粋で、それゆえに逃げ場のない鋭さを持っていた。窓の外では夜の帳が完全に下り、書斎の琥珀色の灯りが、薔薇の現実味のないほど整った造作を浮き彫りにしている。

「それは……」

 どうなんだろう。言葉が喉の奥でつかえる。
 白良にとって紫凛との関係はずっと、薄氷の上を歩くような、絶妙な距離感のまま停滞しているものだった。そして紫凛にとっての白良も、おそらくは同じだったはずだ。
 家族になりたくて、だけど踏み込み方も、拒絶の仕方もわからなくて。
 それでも。
 いま、取り戻したいのは、夕飯の匂いや、冷え切ったリビングの静寂といった、どうしようもなく生活の染み付いた、あの家の景色だった。
 白良の帰りたい場所は、歪であっても、紫凛の待つあの家なのだ。失いかけていた足元の感触を、今、ようやく指先に捉える。

「薔薇は蒼美先輩のこと、どう思ってるの」
「……特にどうも、思っていないよ。どうでもいい」

 薔薇は視線を逸らし、無造作にそう言い放った。だが、その声の響きはあまりに平坦すぎて、逆に不自然な空白を感じさせた。

「本当に? はは、そうは思えないけど」

 乾いた笑いがこぼれる。少なくとも白良の知る限り、蒼美の存在は薔薇にとって、そう簡単に切り捨てられるようなものではないはずだ。
 それは温かい愛着ではなく、呪縛に近い執着なのかもしれない。それでも、切り離したくても切り離せないほど、蒼美と薔薇はあまりに近すぎる場所に魂を置いているのだと、白良は思う。

「薔薇が蒼美を簡単には捨てられないのと、俺だって同じなんだ。そうじゃないかもしれないと思って、そうなれはしないと思ったりもして、だけどやっぱり、紫凛さんは家族なんだよ」
「……家族だから、大切?」
「そうだよ」
「僕と蒼美も家族だって、白良は今でも思うの」
「……そうであったらいい、って思うよ」

 そうでなきゃあまりにも、二人とも孤独で、悲しすぎるから。
 白良が帰るべき場所が紫凛のいるあの家なように、蒼美と薔薇にとっての家は、お互いのいるこの屋敷であればいい、と、白良はどうしても願ってしまう。この屋敷を寄る辺とする、たった二人なのだから。

「白良は、家族であれば無条件に愛してくれるんでしょう? だからそうなりたかったんだけど……そうじゃなくても、僕に恋をしてくれるならそっちの方がいいし。それに家族って、やっぱりよく分からないよね」

 薔薇は小首を傾げ、書架の影に沈む闇を見つめた。

「そんなに強くて確かな絆なのかな。あのお姉さんと白良は血が繋がっていないから尚更だけど、血が繋がっていてすら。どうしたって分かり合えない人が、たまたま血族として生まれてくることもあるよね。それでも、家族だったら愛せる? 愛さなければならない? 大切にできる? 大切にしなければいけない?」
「……それは」
「蒼美は確かに、父母の愛を知らずに育ったことに苦しんでいただろうね。それを救えるのは家族といえる存在だけ? 白良が見つけてくれた父の愛は偽物だけど、確かに蒼美を救った。白良はきっと、蒼美に真実を告げられない。家族の愛、みたいなものは、代替不能で不可侵だから? でもそれは、白良がそう思いたいだけじゃないのかな」
「っ……」

 心臓の奥を、冷たい針で突かれたような気がした。
 白良を追い詰めるように淡々と、薔薇は歌うように、言葉を繋げる。

「白良はずっと、家族の絆が確かであってほしいと思ってるんだよね。家族の愛は揺るがないものであってほしいと思ってる。それは、家族なら許し合えると信じていないと、家族なんだから分かり合えると信じていないと、それに縋らないとどうしようもないからじゃないの。本当は"家族の絆"みたいなものを一番疑っているのは、白良なんじゃないの?」
「薔薇、」
「だから、僕と蒼美の仲を取り持とうとするんでしょう。僕たちを通して、確かめたいんだよね。家族なんだから、きっと支え合える、って」

 宥めるように、慰めるように、薔薇は白良の肌をゆっくりと撫でる。
 その指先はどこまでも優しく、だからこそ、逃げ場を塞ぐように白良を縛り上げる。

「それは君を顧みない君の親を心の底では恨んでいて、君に心を許さない姉に本当は傷ついていて、それを隠したいからじゃないの」

 愛撫するように触れる手を、白良は強い力で掴んで止めた。指先から伝わる機械の拍動が、自分の激しい鼓動と混ざり合う。

「薔薇は、正しいよ」

 薔薇の言うことはきっと、正しい。白良も心のどこかで、わかっていた。
 家族だから、という言葉は、何を解決してくれるわけでもない。それは剥き出しの孤独に蓋をし、自分を納得させるための、痛々しい言い訳にすぎないこと。
 いつも自分を置いてどこかに消える父の背中。同じ家に暮らしながら、食卓で一度も言葉を交わすことのない紫凛の横顔。
 白良は確かに、その一つひとつに摩耗し、傷ついてきた。家族でなければ、ただの他人であれば、とうに見限って離れてしまえば良いだけなのに。家族だから、は呪いで、でもその呪いに縋ることでしか、自分を保てなかったのだ。

 いずれにせよ、それはただの、白良のわがまま。誰に強要されているわけでもない。
 家族の絆なんてものは、薔薇の言う通り、白良の想像よりずっと脆くて弱いものなのだろう。白良は今にも壊れてしまいそうな、いつでも捨てられるはずの細い糸を、掌を血に滲ませながら必死で、握りしめている。

「恨んでいて、傷ついていて、それでも、大切なんだ。重たくてぐちゃぐちゃしてて、もしかしたらいつかはいらなくなるかもしれないけれど、今はまだ、俺は大切にしたい。大切にすることを諦めたくないんだよ」

 琥珀色の光の中で、白良は薔薇の瞳を真っ直ぐに見返した。
 それは理論でも合理性でもない、白良という一人の人間が、地獄のような屋敷の中で絞り出した、最後にして最大の意志だった。
 その根底に横たわる、白良から薔薇への、静かな拒絶。薔薇はふっと表情を消し、長い睫毛を瞬かせた。

「そっか。ごめんね」
「……紫凛さんに、何を、したの?」
「ごめん、怒ってるよね」
「そういう話を、してるんじゃなくて……!」

 白良が詰め寄ろうとした瞬間、薔薇は優雅な所作で白良の前に恭しく跪いた。ロマンス映画の主人公のような、美しく敬虔な姿。
 薔薇は白良の手を取り、その甲に深く、熱い口づけを落とす。

「告白の返事、聞いてなかったね。……白良、僕と生きてくれる?」
「っなぁ、そんなのもう、脅しだってわかってるだろ!」
「そうかも。ごめんね、うまくできなくて」

 顔を上げた薔薇の瞳は、これまでにないほど澄んでいた。

「それでも、白良のことが好きなんだ。君だけが、僕の世界に現れてくれた、唯一愛せる他者。僕の愛。お願いだから、僕から君を奪わないで」

 跪いた機械の少年は、獲物を追い詰める捕食者のようでもあり、たった一人の神に縋る信徒のようでもある。
 白良は、自分を掴むその手の震えが、偽物なのか本物なのか、もう、判別がつかなくなっていた。



 白良を閉じ込めていた琥珀色の静謐な世界が、凄まじい衝撃音と共に砕け散った。
 書斎の重厚な扉が、まるで薄い板のように暴力的に蹴破られる。同時に投げ込まれた数個の金属筒が床を転がり、そこから視界を白く塗り潰す猛烈な煙幕が噴き出した。

「っ、な……!?」

 鼻を突く刺激臭と、一瞬で視界を奪う白濁した闇。
 混乱し、反射的に目を閉じた白良の腕を、迷いのない力強い手が掴む。
 熱いほどの体温が、恐怖で冷え切っていた肌に伝わった。

「白良、こっちだ!」

 煙の向こう側から現れたのは、鋭い眼光に揺るぎない覚悟を宿した蒼美と、その背後で不敵な笑みを浮かべた橙真だった。
 蒼美の左手に握られているのは、先ほど床に落としたはずの白良のスマホだ。これを外への通信手段として利用していたのだと気づく。

「……あ、蒼美、先輩……!」
「再会の感動は後で! あいつにまた捕まる前に、出るぞ!」

 橙真が、煙の中に佇む薔薇を挑発するように言い放つ。
 視界の端で、白煙に巻かれた薔薇の瑠璃色の瞳が、かつてないほど激しく明滅し、歪な感情に揺れるのが見えた。
 夜の闇へと続く出口に飛び出した乱入者に導かれ、白良も迷うことなく、必死で走った。
 泣きそうに顔を歪ませる薔薇に、思わず手を伸ばしそうになったのを、誤魔化すように。