*
一人で帰宅した白良は、何かに導かれるようにして屋敷の奥に広がるバラ園へと足を踏み入れた。
夕闇が迫る園内は、昼間の華やかさが嘘のように静まり返っている。
なぜだか、心臓の奥を冷たい指で撫でられるような嫌な予感がした。どくどくと脈打つ鼓動が、耳の奥でうるさくはやり、白良は無意識に早歩きになる。
勝手知ったるはずの道を、背後から何かに追い立てられるように歩くうち、迷宮のように入り組んだ緑の壁に突き当たった。
そこには、一箇所だけ不自然に太い蔦が蛇のようにねじれ、光さえも通さない厚い帳となって茂っている場所があった。
こんなところは、記憶にない。不気味だった。嫌な予感は、もう、無視できないほど巨大な恐怖となって喉元までせり上がっている。
それでも、白良は覚悟を決めて、その隙間に分け入った。瞬間、白良は肺の空気をすべて吐き出すように悲鳴をあげた。
「ひ、なんだよ、これ……!」
そこには、メイドのマリーナがいた。だが、その姿はあまりに、見慣れたものとはかけ離れて、凄惨だった。
意思を持つかのように不気味にうねるバラの太い蔦が、彼女の四肢を無慈悲に、そして執拗に縛り上げている。鋭く硬い棘が柔らかな肌を深く貫き、あちこちから滲み出た鮮血が、清潔だった制服の白をどす黒く汚していた。
その、血の匂いが立ち込める足元で、泥を被ったようにうずくまっている影がある。
「……っ!」
白良が短い悲鳴を上げると、その影がゆっくりと、錆びついた人形のような動きで顔を上げた。
「マ、サユキ……?」
「白良ぁ……たすけて……」
マサユキの声は枯れ、震え、その瞳には底知れない恐怖がこびりついていた。
白良は慌ててマリーナを助けようと、肉を抉る蔦に素手を伸ばしたが、マサユキは絶望したように、弱々しく首を振る。
「……無理だ、それは無理だよ。薔薇は、それを許さない……」
「な、んだよ、それ。意味わかんねえよ……!」
頭を重い金槌で殴られたような鈍い痛みが走る。それでも、これ以上ここに居るのは危険だと本能が警鐘を鳴らし、白良はガタガタと震えるマサユキを抱えるようにして、自分の部屋へと連れ帰った。
逃げ込むように入った室内で、机のライトを点ける。
オレンジ色の光に照らされたマサユキの手を見れば、指先は棘による無数の刺し傷で、痛ましく血にまみれていた。白良は救急箱を取り出し、震える手で手当を始める。
「なんで、こんな……マリーナさんも、あんなことになって……なんで、誰が……」
「……薔薇を、説得しようとして、失敗したんだよ」
「説得……って、何を……」
薔薇を、説得。その響きが、白良の麻痺した脳内で妙に鋭く反響する。
マサユキは白良の手によって包帯の巻かれた自分の手を見つめたまま、白良の瞳を射抜くような、必死の、そして祈るような眼差しで問いかけてきた。
「てか白良、蒼美様がどこにいるかってわかる?」
「蒼美様……?」
どこかで、聞いたことがある名前だ。確かに知っているはずなのに、今の白良にとっては、深い霧の向こう側に隠されているように一向に思い出せない。
白良が困惑し、戸惑うのを見て、マサユキの顔から急激に血の気が引いていった。
「まさか、蒼美様がわからないの? あんたは蒼美先輩って呼んでたでしょ」
「蒼美、先輩……」
その単語を口にした瞬間、脳裏に雷が落ちたような鋭い痛みが走り、一瞬だけ、月の光を受けて青く揺れる髪がフラッシュバックした。
だが、すぐに薔薇の甘くとろけるような囁きが、その記憶を強引に塗り潰していく。
「蒼美、先輩、薔薇、くそ、なんで、なんで思い出せないんだよ……!」
「……ねえ。白良はなんでここにいるんだと思ってんの」
「なんで、って……だって、ここが俺の家で、俺は薔薇と……」
ずっと、ここで、家族として暮らしてきた、はずだ。
そう言い切ろうとして、白良は自分の言葉のあまりの頼りなさに戦慄した。
いつから? 昨日は? 一ヶ月前は? 記憶の引き出しをいくら開けても、そこにあるのは不自然なほど鮮明な薔薇の笑顔があるだけで、生活の汚れや匂いが、昨日までの自分たちがそこにいた証拠が、まるでなかった。
「……白良、おねがい、協力して。一緒に蒼美様を探してほしい。薔薇を止められるとしたら多分、蒼美様だけなの」
血の通ったマサユキの手が、白良の腕を骨が軋むほど強く掴む。
その痛切な温もりと、しがみつくような必死さだけが、狂い始めた世界の中で、唯一手を伸ばせる真実のように感じられて。
白良は小さく、頷いた。
*
蒼美の捜索のため、マサユキと二手に分かれる。
迷宮のような廊下を走る白良の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響いていた。
白良には蒼美がわからない、と言っても、マサユキは「絶対に分かる」の一点張りで、結局、白良は顔も名前も知らない男を探すために、湿った冷気が淀む屋敷の奥へと走り回っている。
辿り着いたのは、屋敷の最深部、重厚な鉄扉が巨大な力で歪にひしゃげた地下室だった。
カビと埃、そして微かな焦げ茶色の沈黙が支配するその冷え切った闇の底で、一人の男が壁に背を預けて座り込んでいた。
「……誰、ですか?」
白良の声が、心細く震える。
目の前の男からは、凍てつくような峻烈な威圧感と、それとは相反するような、ひどく懐かしい体温が伝わってきた。
記憶の糸は無残に断ち切られ、名前すら喉の奥で形を結ばない。
それなのに、初対面のはずなのに、心の奥底が「この人を知っている」と、痛いほど激しく脈打っている。
男は重い瞼を持ち上げ、ゆっくりと顔を上げた。その端正な顔立ちの半分を、呪いのような、あるいは芸術のような赤黒い跡が、無慈悲に侵食していた。
「私が、恐ろしくないのか」
ふいに目が合った瞬間、この男が蒼美なのだと確信する。しかしその声は、地を這うように低く、深い自嘲に満ちていた。
「恐ろしい……? なんでですか」
「醜いだろう、こんな。はは、美しさのかけらもない」
蒼美は汚れた指先で、自身の顔に走る不吉な紋様を隠すように、力なく顔を背ける。だが、白良は無意識にその凍えた手を取り、じっとその鮮烈な跡を見つめた。
「むしろ、かなりかっこいいと思いますけど。タトゥーみたいっていうか……似合ってますよ、すごく」
その言葉に、蒼美は数秒、目を見開いた。
「……ふっ、お前らしいな」
蒼美の口元に、一瞬だけ微かな、けれど深い慈愛を孕んだ笑みが浮かんだ。白良もなんとなく気を許し、強張っていた口元を緩める。
──次の瞬間、蒼美は白良の項を力強く引き寄せ、抗う隙も与えず、その唇を奪った。
深く、肺の中の空気をすべて吸い出されるような、狂おしい口づけ。
「!? ……っ、ふ、あ、ぁ……ん、んぅ、っ」
白良の脳内に、焼き切られたはずの回路が火花を散らして再接続される感覚が走る。
薔薇の甘い香りに隠されていた、透き通るような青い空、旧校舎の懐かしい木の匂い、この男と過ごした短くも痛いほど鮮やかな日々が、せき止めていたダムが決壊したかのように押し寄せてきた。
そして、数十秒にもわたる長く深い口付けは、ちゅ、と、場違いなほど可愛らしい音をもって、終わりを告げた。
「白良、私の名前は?」
「蒼美先輩! あの、な、なな」
「よし、思い出したな」
「な、ななな、なんで、キスなんか……っ!」
息を切らし、顔を林檎のように真っ赤にして飛び退く白良に、蒼美は面倒そうに片眉をあげた。
しかし白良だって、呼び覚まされた記憶の濁流と、あまりに唐突なキスの衝撃に、脳の処理が追いつかず動揺を隠せるわけがない。
「お前の洗脳を解くためだ」
「それで、キス!? 意味わかんないですけど!」
あまりの衝撃に、白良の手からスマホが滑り落ち、硬い床に乾いた音を立てて転がった。蒼美はそれを無造作に拾い上げると、自身の服のポケットに無愛想に押し込む。
「どうせ理屈を説明したところで、お前は理解できないだろう」
「えぇ……真実の愛のキス、的な?」
「はぁ……」
「ため息は酷くないですか!?」
「軽口を叩ける余裕があるようで何よりだ」
「……ないですよ、余裕なんて……」
強がりとは裏腹に、白良の膝は小刻みに震えていた。世界が、再び残酷で歪な姿で牙を剥き始めている。
なんの疑問も持てずに、当然のように白良は、今日まで薔薇のそばにいた。薔薇に身を任せ、心さえ差し出せるような──。
自身の意思などそこにはなく、そしてそれに疑問さえ抱けなかった空虚な時間は、あまりにも恐ろしく、今この瞬間の白良をも蝕む。
「とにかく、お前は戻れ。振る舞いを間違えるなよ。正気に戻っていることを気取られるな」
「……先輩は?」
「十分な準備ができるまでは大人しくしている。少なくとも殺されはしないだろう」
白良を安心させるための蒼美のその言葉を、背後から響いた、凛とした声が切り裂いた。
「どうしてそう思えるの、蒼美」
ば、と振り返ると、そこには薄く、憐れむような微笑を湛えた薔薇が立っていた。その隣には、目が空洞のように虚ろで、顔を青白くさせたマサユキが、糸に操られた人形のように力なく佇んでいる。
「確かに殺すつもりはないけれど、殺せないだけ。僕だけではまだ屋敷や生活を維持するのに十分な能力がないし、必要だから生かしているだけ。別に、蒼美が蒼美のまま生きている意味は僕にはないんだけどな」
薔薇は淡々と、血の通わない機械的な合理性を口にしながら、一歩、また一歩と優雅に距離を詰めてくる。
「ねえ、どうして勝手に、白良に触れているの?」
薔薇の低く静かな声に呼応するように、隣のマサユキが、自らの首に両手をかけ、恐ろしい力でどんどん締め上げ始めた。ミシミシと、喉の骨が鳴るような悍ましい音が静寂を劈く。
「っマサユキ! やめろ、薔薇、お願いだから……!」
「白良がこっちにきてくれたら、やめる」
こてん、とかしげられた首。薔薇の瑠璃色の瞳に、逃げ場を塞ぐような狂気的な執着が宿る。
蒼美は怯む白良を背後に庇うように立ちはだかり、薔薇を鋭く睨みつけた。
薔薇は少しだけ眉を寄せ、蒼美の喉元に人差し指をぴたりと当てる。そして再度、軽く首を傾げて、白良を射貫くような視線で見つめる。
「白良。おいで?」
「な、んで……」
「好きだから、拒絶されたら寂しい。当然でしょう? こうなるかもとは思っていたけれど、想像より早かったなぁ」
「なんで、こんなことするんだよ!」
白良の魂を絞り出すような叫びに直接答えることはせず、薔薇はただ悲しげに眉を下げてみせた。
「逃げようとしないで。僕を拒まないで。僕のそばにいて。全部、ただ、君が好きだからだよ」
「好きって、なんで、俺、俺はなんもしてないだろ」
「本当に、そう思ってるの? 僕も蒼美も、君に救われたのに」
薔薇の指が、蒼美の喉元に強く押し込まれる。リヒテンベルク図形が走る肌から、ぷつりと一筋の鮮血が滴り落ちた。
「なんで、こんな……」
「ふふ、なんでなんで、って、こどもみたいで、かわいい。じゃあ、教えてあげるから、おいで」
毒を孕んだ蜜のような薔薇の誘惑に、白良は絶望的な選択を迫られる。
「……俺が、行けば」
「白良、駄目だ。行くな」
「蒼美先輩とマサユキのことは、解放してくれる?」
白良の問いに、薔薇は無表情で、僅かに首を振った。
「自由にさせるという意味なら、それはできないけれど」
「……薔薇と二人で話したい、って言ったら」
「! とても嬉しい! そういうことなら、うん、いいよ」
「ぐ、ぁ!」
薔薇は花の綻ぶような、無垢な少年のような笑みを浮かべ、白良に駆け寄った。
その後ろでは、ばちん、と鋭い静電気のような音が弾け、蒼美の体から全ての糸が切れたように力が抜け、床に倒れ伏す。マサユキもまた、自らの首を絞めていた手を離し、床に膝をついて激しくむせ込みながら、ぜえぜえと空気を求めて蹲っていた。
咄嗟に蒼美の体を支えた白良に、薔薇は不快そうな、酷く人間臭い顔を隠そうともせずに、乱暴に蒼美をどかした。
——薔薇はずいぶんと、表情が豊かになった。
極限の恐怖の中で、白良は場違いにもそんな感慨を抱いた。それは一種の、現実逃避とも言えるかもしれなかった。
再び二人に手を伸ばそうとした白良を、薔薇が優しく制する。
「おいで、白良。……答え合わせをしよう」
薔薇の満面の笑みを、ゆらめく古い灯火が、耽美な影と共に美しく照らしていた。
*
一人で帰宅した白良は、何かに導かれるようにして屋敷の奥に広がるバラ園へと足を踏み入れた。
夕闇が迫る園内は、昼間の華やかさが嘘のように静まり返っている。
なぜだか、心臓の奥を冷たい指で撫でられるような嫌な予感がした。どくどくと脈打つ鼓動が、耳の奥でうるさくはやり、白良は無意識に早歩きになる。
勝手知ったるはずの道を、背後から何かに追い立てられるように歩くうち、迷宮のように入り組んだ緑の壁に突き当たった。
そこには、一箇所だけ不自然に太い蔦が蛇のようにねじれ、光さえも通さない厚い帳となって茂っている場所があった。
こんなところは、記憶にない。不気味だった。嫌な予感は、もう、無視できないほど巨大な恐怖となって喉元までせり上がっている。
それでも、白良は覚悟を決めて、その隙間に分け入った。瞬間、白良は肺の空気をすべて吐き出すように悲鳴をあげた。
「ひ、なんだよ、これ……!」
そこには、メイドのマリーナがいた。だが、その姿はあまりに、見慣れたものとはかけ離れて、凄惨だった。
意思を持つかのように不気味にうねるバラの太い蔦が、彼女の四肢を無慈悲に、そして執拗に縛り上げている。鋭く硬い棘が柔らかな肌を深く貫き、あちこちから滲み出た鮮血が、清潔だった制服の白をどす黒く汚していた。
その、血の匂いが立ち込める足元で、泥を被ったようにうずくまっている影がある。
「……っ!」
白良が短い悲鳴を上げると、その影がゆっくりと、錆びついた人形のような動きで顔を上げた。
「マ、サユキ……?」
「白良ぁ……たすけて……」
マサユキの声は枯れ、震え、その瞳には底知れない恐怖がこびりついていた。
白良は慌ててマリーナを助けようと、肉を抉る蔦に素手を伸ばしたが、マサユキは絶望したように、弱々しく首を振る。
「……無理だ、それは無理だよ。薔薇は、それを許さない……」
「な、んだよ、それ。意味わかんねえよ……!」
頭を重い金槌で殴られたような鈍い痛みが走る。それでも、これ以上ここに居るのは危険だと本能が警鐘を鳴らし、白良はガタガタと震えるマサユキを抱えるようにして、自分の部屋へと連れ帰った。
逃げ込むように入った室内で、机のライトを点ける。
オレンジ色の光に照らされたマサユキの手を見れば、指先は棘による無数の刺し傷で、痛ましく血にまみれていた。白良は救急箱を取り出し、震える手で手当を始める。
「なんで、こんな……マリーナさんも、あんなことになって……なんで、誰が……」
「……薔薇を、説得しようとして、失敗したんだよ」
「説得……って、何を……」
薔薇を、説得。その響きが、白良の麻痺した脳内で妙に鋭く反響する。
マサユキは白良の手によって包帯の巻かれた自分の手を見つめたまま、白良の瞳を射抜くような、必死の、そして祈るような眼差しで問いかけてきた。
「てか白良、蒼美様がどこにいるかってわかる?」
「蒼美様……?」
どこかで、聞いたことがある名前だ。確かに知っているはずなのに、今の白良にとっては、深い霧の向こう側に隠されているように一向に思い出せない。
白良が困惑し、戸惑うのを見て、マサユキの顔から急激に血の気が引いていった。
「まさか、蒼美様がわからないの? あんたは蒼美先輩って呼んでたでしょ」
「蒼美、先輩……」
その単語を口にした瞬間、脳裏に雷が落ちたような鋭い痛みが走り、一瞬だけ、月の光を受けて青く揺れる髪がフラッシュバックした。
だが、すぐに薔薇の甘くとろけるような囁きが、その記憶を強引に塗り潰していく。
「蒼美、先輩、薔薇、くそ、なんで、なんで思い出せないんだよ……!」
「……ねえ。白良はなんでここにいるんだと思ってんの」
「なんで、って……だって、ここが俺の家で、俺は薔薇と……」
ずっと、ここで、家族として暮らしてきた、はずだ。
そう言い切ろうとして、白良は自分の言葉のあまりの頼りなさに戦慄した。
いつから? 昨日は? 一ヶ月前は? 記憶の引き出しをいくら開けても、そこにあるのは不自然なほど鮮明な薔薇の笑顔があるだけで、生活の汚れや匂いが、昨日までの自分たちがそこにいた証拠が、まるでなかった。
「……白良、おねがい、協力して。一緒に蒼美様を探してほしい。薔薇を止められるとしたら多分、蒼美様だけなの」
血の通ったマサユキの手が、白良の腕を骨が軋むほど強く掴む。
その痛切な温もりと、しがみつくような必死さだけが、狂い始めた世界の中で、唯一手を伸ばせる真実のように感じられて。
白良は小さく、頷いた。
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蒼美の捜索のため、マサユキと二手に分かれる。
迷宮のような廊下を走る白良の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響いていた。
白良には蒼美がわからない、と言っても、マサユキは「絶対に分かる」の一点張りで、結局、白良は顔も名前も知らない男を探すために、湿った冷気が淀む屋敷の奥へと走り回っている。
辿り着いたのは、屋敷の最深部、重厚な鉄扉が巨大な力で歪にひしゃげた地下室だった。
カビと埃、そして微かな焦げ茶色の沈黙が支配するその冷え切った闇の底で、一人の男が壁に背を預けて座り込んでいた。
「……誰、ですか?」
白良の声が、心細く震える。
目の前の男からは、凍てつくような峻烈な威圧感と、それとは相反するような、ひどく懐かしい体温が伝わってきた。
記憶の糸は無残に断ち切られ、名前すら喉の奥で形を結ばない。
それなのに、初対面のはずなのに、心の奥底が「この人を知っている」と、痛いほど激しく脈打っている。
男は重い瞼を持ち上げ、ゆっくりと顔を上げた。その端正な顔立ちの半分を、呪いのような、あるいは芸術のような赤黒い跡が、無慈悲に侵食していた。
「私が、恐ろしくないのか」
ふいに目が合った瞬間、この男が蒼美なのだと確信する。しかしその声は、地を這うように低く、深い自嘲に満ちていた。
「恐ろしい……? なんでですか」
「醜いだろう、こんな。はは、美しさのかけらもない」
蒼美は汚れた指先で、自身の顔に走る不吉な紋様を隠すように、力なく顔を背ける。だが、白良は無意識にその凍えた手を取り、じっとその鮮烈な跡を見つめた。
「むしろ、かなりかっこいいと思いますけど。タトゥーみたいっていうか……似合ってますよ、すごく」
その言葉に、蒼美は数秒、目を見開いた。
「……ふっ、お前らしいな」
蒼美の口元に、一瞬だけ微かな、けれど深い慈愛を孕んだ笑みが浮かんだ。白良もなんとなく気を許し、強張っていた口元を緩める。
──次の瞬間、蒼美は白良の項を力強く引き寄せ、抗う隙も与えず、その唇を奪った。
深く、肺の中の空気をすべて吸い出されるような、狂おしい口づけ。
「!? ……っ、ふ、あ、ぁ……ん、んぅ、っ」
白良の脳内に、焼き切られたはずの回路が火花を散らして再接続される感覚が走る。
薔薇の甘い香りに隠されていた、透き通るような青い空、旧校舎の懐かしい木の匂い、この男と過ごした短くも痛いほど鮮やかな日々が、せき止めていたダムが決壊したかのように押し寄せてきた。
そして、数十秒にもわたる長く深い口付けは、ちゅ、と、場違いなほど可愛らしい音をもって、終わりを告げた。
「白良、私の名前は?」
「蒼美先輩! あの、な、なな」
「よし、思い出したな」
「な、ななな、なんで、キスなんか……っ!」
息を切らし、顔を林檎のように真っ赤にして飛び退く白良に、蒼美は面倒そうに片眉をあげた。
しかし白良だって、呼び覚まされた記憶の濁流と、あまりに唐突なキスの衝撃に、脳の処理が追いつかず動揺を隠せるわけがない。
「お前の洗脳を解くためだ」
「それで、キス!? 意味わかんないですけど!」
あまりの衝撃に、白良の手からスマホが滑り落ち、硬い床に乾いた音を立てて転がった。蒼美はそれを無造作に拾い上げると、自身の服のポケットに無愛想に押し込む。
「どうせ理屈を説明したところで、お前は理解できないだろう」
「えぇ……真実の愛のキス、的な?」
「はぁ……」
「ため息は酷くないですか!?」
「軽口を叩ける余裕があるようで何よりだ」
「……ないですよ、余裕なんて……」
強がりとは裏腹に、白良の膝は小刻みに震えていた。世界が、再び残酷で歪な姿で牙を剥き始めている。
なんの疑問も持てずに、当然のように白良は、今日まで薔薇のそばにいた。薔薇に身を任せ、心さえ差し出せるような──。
自身の意思などそこにはなく、そしてそれに疑問さえ抱けなかった空虚な時間は、あまりにも恐ろしく、今この瞬間の白良をも蝕む。
「とにかく、お前は戻れ。振る舞いを間違えるなよ。正気に戻っていることを気取られるな」
「……先輩は?」
「十分な準備ができるまでは大人しくしている。少なくとも殺されはしないだろう」
白良を安心させるための蒼美のその言葉を、背後から響いた、凛とした声が切り裂いた。
「どうしてそう思えるの、蒼美」
ば、と振り返ると、そこには薄く、憐れむような微笑を湛えた薔薇が立っていた。その隣には、目が空洞のように虚ろで、顔を青白くさせたマサユキが、糸に操られた人形のように力なく佇んでいる。
「確かに殺すつもりはないけれど、殺せないだけ。僕だけではまだ屋敷や生活を維持するのに十分な能力がないし、必要だから生かしているだけ。別に、蒼美が蒼美のまま生きている意味は僕にはないんだけどな」
薔薇は淡々と、血の通わない機械的な合理性を口にしながら、一歩、また一歩と優雅に距離を詰めてくる。
「ねえ、どうして勝手に、白良に触れているの?」
薔薇の低く静かな声に呼応するように、隣のマサユキが、自らの首に両手をかけ、恐ろしい力でどんどん締め上げ始めた。ミシミシと、喉の骨が鳴るような悍ましい音が静寂を劈く。
「っマサユキ! やめろ、薔薇、お願いだから……!」
「白良がこっちにきてくれたら、やめる」
こてん、とかしげられた首。薔薇の瑠璃色の瞳に、逃げ場を塞ぐような狂気的な執着が宿る。
蒼美は怯む白良を背後に庇うように立ちはだかり、薔薇を鋭く睨みつけた。
薔薇は少しだけ眉を寄せ、蒼美の喉元に人差し指をぴたりと当てる。そして再度、軽く首を傾げて、白良を射貫くような視線で見つめる。
「白良。おいで?」
「な、んで……」
「好きだから、拒絶されたら寂しい。当然でしょう? こうなるかもとは思っていたけれど、想像より早かったなぁ」
「なんで、こんなことするんだよ!」
白良の魂を絞り出すような叫びに直接答えることはせず、薔薇はただ悲しげに眉を下げてみせた。
「逃げようとしないで。僕を拒まないで。僕のそばにいて。全部、ただ、君が好きだからだよ」
「好きって、なんで、俺、俺はなんもしてないだろ」
「本当に、そう思ってるの? 僕も蒼美も、君に救われたのに」
薔薇の指が、蒼美の喉元に強く押し込まれる。リヒテンベルク図形が走る肌から、ぷつりと一筋の鮮血が滴り落ちた。
「なんで、こんな……」
「ふふ、なんでなんで、って、こどもみたいで、かわいい。じゃあ、教えてあげるから、おいで」
毒を孕んだ蜜のような薔薇の誘惑に、白良は絶望的な選択を迫られる。
「……俺が、行けば」
「白良、駄目だ。行くな」
「蒼美先輩とマサユキのことは、解放してくれる?」
白良の問いに、薔薇は無表情で、僅かに首を振った。
「自由にさせるという意味なら、それはできないけれど」
「……薔薇と二人で話したい、って言ったら」
「! とても嬉しい! そういうことなら、うん、いいよ」
「ぐ、ぁ!」
薔薇は花の綻ぶような、無垢な少年のような笑みを浮かべ、白良に駆け寄った。
その後ろでは、ばちん、と鋭い静電気のような音が弾け、蒼美の体から全ての糸が切れたように力が抜け、床に倒れ伏す。マサユキもまた、自らの首を絞めていた手を離し、床に膝をついて激しくむせ込みながら、ぜえぜえと空気を求めて蹲っていた。
咄嗟に蒼美の体を支えた白良に、薔薇は不快そうな、酷く人間臭い顔を隠そうともせずに、乱暴に蒼美をどかした。
——薔薇はずいぶんと、表情が豊かになった。
極限の恐怖の中で、白良は場違いにもそんな感慨を抱いた。それは一種の、現実逃避とも言えるかもしれなかった。
再び二人に手を伸ばそうとした白良を、薔薇が優しく制する。
「おいで、白良。……答え合わせをしよう」
薔薇の満面の笑みを、ゆらめく古い灯火が、耽美な影と共に美しく照らしていた。
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