青薔薇の箱庭

プロローグ



 旧校舎四階には、異世界へと続く扉がある。
 重い木製の扉を押し開けた瞬間、肺の奥まで侵食するような、むせ返るほど甘い香りに襲われた。視界を埋め尽くすのは、咲き誇る豪奢な花弁の群れ。

 そこは、薔薇の海だった。

 本来、花というものは季節を巡り、枯れゆくからこそ尊いはずなのに、この部屋の薔薇たちはまるで時間を止める呪いをかけられたかのように一年中、いつなんどきも瑞々しく咲き誇っている。

 そんな異世界を支配するのは、高潔な王様……なんていうのが物語の定石だろうけれど、残念ながらここは平凡な高等学校である。
 平凡な学び舎に似つかわしくない、非凡すぎる薔薇の迷宮を管理しているのは、しかし、平凡な化学部だった。
 とはいっても、部長以外は名前を貸しているだけの幽霊部員。活動内容といえば、化学実験など微塵もせず、ただ薔薇の機嫌を伺い、傅くように世話をするだけ。
 園芸部か、いっそ薔薇部にでも改名した方がいいんじゃないか。化学部に強引に名前を書かされた被害者の一人、遠香白良(おか あきら)は、常々そう思っていた。

「……綺麗、だなぁ」

 ぼんやり薔薇を眺めて、白良は思わず、そう溢した。いつ見てもあまりに綺麗だから、毎度毎度、独り言が溢れるのを抑えられない。
 今日は白良が薔薇に水をやる当番を押し付けられたが、そんなことはもう済ませているし、花弁や葉の観察もして問題がないことを確認したから、もう立ち去ったっていい。でも、時間には余裕があるから、立ち去らなくたってよくて。白良は夢見心地で、薔薇をひたすら見つめていた。
 朝八時過ぎ、生徒たちの青春はすでに稼働している時間帯。けれど、この旧校舎の最上階だけは、深い森のような静寂に包まれている。そんなのは、いつものこと。それくらい、隔絶された空間だった。
 
 白良は誘われるように、薔薇の茂みのさらに奥、部屋の最も日当たりの悪い隅へと足を踏み入れ、目を見開いた。

「あ、人……寝てる……?」

 人が、いる。古びたソファに横たわり、薔薇の蔦に抱かれるようにして、眠っている。
 この部屋で知らない人を見るのは初めてで、白良は奇妙な緊張に襲われた。
 近づいて覗き込み、息を呑む。

 眠るその人は、眩いほど美しかった。

 窓から差し込む斜光が、その肌の白さを陶器のように透かし、鮮やかに染められた青い髪を、漣のように揺らして見せる。
 整った眉、長く影を落とす睫毛、すっと通った鼻筋に、薄い唇。
 絵画のような光景に、白良の心臓は不規則な音を立てた。

「……王子様?」

 零れた呟きを、慌てて手で覆う。

 王子様なんていない。ここは平凡な高等学校なのだから。この薔薇の香りに包まれた異空間を支配しているのは、化学部部長の刺野橙真先輩。王子様じゃ、ない。

 でも、そうだ。その橙真先輩が言っていた。化学部に在籍する幽霊部員のひとり。美しく神経質な、孤高の王子様。

『学校には滅多に来ないから気にしなくていいけど、もし会っちゃったら、機嫌を損ねないように気をつけろよ。だいぶ気難しくて、面倒なやつだから』

 どこか楽しそうに笑う橙真は、けれどそれ以上は何も言わなかったし、白良とて何も聞かなかった。
 ああ、いや。名前だけ。聞いて、美しいな、と、そう思ったんだっけ。

茨、蒼美(いばら あおい)……」
「…………誰だ」

 冷たい声が、温室に響いた。眠るその人の睫毛が震え、ゆっくりと、まぶたが持ち上がる。
 固まる白良を、冷徹な光を湛えた瞳が、射抜いた。

「えっ、あ、いや、あの。……遠香白良です。俺も、その、化学部員で……」
「いい。興味はない」
「あ、はい……すみません」

 しどろもどろに応える白良を、美貌の青年——茨蒼美は、値踏みするように一瞥した。そして、興味を失ったように、気怠げに上半身を起こす。
 拒絶されてもなお、白良の目は蒼美の顔に釘付けだった。
 起き上がった蒼美は、寝ぼけているのか、白い指先で自身の首筋や腕を無造作にさすっている。その仕草すら、計算された舞台装置のよう。目が離せなくなるほど美しい。

 白良の視線に気づいた蒼美が、眉を寄せた。

「なんだ。見惚れているのか?」
「……あ、いや……まぁ。すごく、整ったお姿だなぁ、とは……」

 変な言い回しだな、と自分でも思いながら、それでも正直に答えると、蒼美は一瞬、意外そうに目を見開いた。
 直後、その唇が歪な曲線を描く。

「ふっ……そうかそうか。正直なやつだ」

 蒼美は傲慢な笑みを形作り、立ち上がった。
 すれ違いざま、白良の耳元に冷ややかな吐息を落とす。

「だが、残念だったな。……お前の方は、救いようがないほど、つまらない顔だ」
「あ、はい」

 ぽかん、と口を開けて、白良は頷いた。反論の余地は、特になかった。
 蒼美は間抜け顔を晒す白良を振り返ることもなく、つかつかと足音を響かせ、部屋を立ち去っていった。開け放たれたままの扉の向こう、青い髪が揺れて消える。

 つまらない顔。
 そりゃあ、貴方に比べたらそうでしょうとも。

 立ち尽くしたまま、白良は自分の平凡な頬を指で触って、思った。
 ひどく変わった先輩。面白い人。そして。

 咲き乱れる薔薇がこれほど似合う人間に、自分は生涯、出会わないだろう、と。

「なんか……夢でも、見たみたい」

 それが、遠香白良と茨蒼美の、出会いだった。