それでは、お先にごきげんよう

 改札を見渡せる柱を背に立っていると、やがて一人の女性がホームから吐き出される人波から外れ、こちらに近づいてきた。八神が話していた通り、くっきりとした二重の整った顔立ちで、背もすらりと高い。

「あ、あの人……」

 隣で八神が呟く。
 予想通り、彼女が待ち合わせ相手の吉岡美桜(よしおかみお)だった。

 霊園で八神が見たという「金髪に近い明るい髪色」は、今はくすんだベージュブラウンに変わり、肩口で切り揃えられている。
 黒のハイネックニットに軽いプリーツの入ったアイボリーのロングスカート、ベージュのトレンチコートが、彼女のすらりとした体型によく似合っていた。

「吉岡さんですよね? 今日はお時間を作ってもらってありがとうございます。俺が佐久良で、こっちが八神です」

 声をかけると、彼女は周囲に目を走らせながら答えた。

「話は外でもいい?」
「あ、はい」

 人に話を聞かれずにすむ場所となるとカラオケ店という手もあるが、旺史としては、できれば他人の目のある場所がよかったから、秘かに助かったと思った。向こうも初対面の高校生二人と個室で話をするのは抵抗があるのだろう。
 彼女は「ちょっと待ってて」と言って一度離れると、ロッカーの並ぶ構内の隅へと向かった。バッグからスマホを取り出してロッカーに預けているようだ。

 彼女が戻ってくるまでの間に手早く兄にメッセージを送る。
 八神の霊視能力のことは伏せて、今日、霊園の刺傷事件の関係者に会うことは、刑事をしている兄に事前に伝えておいた。捜査には加わっていないと言っていたが、何か不穏な匂いを感じ取っているのかもしれない。追跡アプリをオンにしておくよう言われた。

 彼女は駅ビルを出ると、ついてくるよう目配せして、海沿いのプロムナードへと足を向けた。
 夜の7時を過ぎ、外はすっかり日が落ちていた。夜の海風はまだ肌寒い。
 駅に向かってくる人の流れに逆らい、コートの裾をひらめかせて歩く彼女の背中を追う。
 歩道の端に点在するベンチに空きを見つけ、彼女は足を止めた。
 視線で促され、八神を間に挟んで腰を下ろす。外灯や周囲のビルの明かりで辺りは十分に明るかった。八神が後ろぎりぎりまでお尻を引いたおかげで、旺史の位置から吉岡の顔も見て取れた。その表情が露骨に身構えていて、話す前から空気が重い。

「それで、話って何ですか?」

 ベンチに腰を落ち着けるやいなや、吉岡が会話の口火を切った。
 八神は珍しく緊張しているのか、膝の上で両手を握ったり開いたりしている。
 ネットカフェでの反省をふまえ、今日は八神に好きに喋ってもらうことにし、事前の打ち合わせをしなかった。もちろん、必要があれば旺史もサポートするつもりだ。

 八神が目の端でこちらを見やり、旺史は小さく頷く。彼は一度ゆっくり肩を上下させ、意を決したように話し始めた。

「あの……、突然こんな話をしても、信じてもらえないかもしれませんが……、実は僕……、霊媒体質というか……昔から人の霊らしきものが見えるんです」

 吉岡の反応は予想通りだった。柳眉を寄せ、うろんな目つきを八神に向ける。八神は居たたまれなさそうに視線を伏せながらも、言葉を選びつつ話を続ける。

「店長さんから伝言があるとご連絡したのは、先週、東雲坂霊園で店長さんらしき霊を見たからなんです……。店長さんは今も意識不明で入院中らしいので、そうなると生き霊ってことになるんですが……。吉岡さんが勤めていたネカフェの店員さんに確認したら、前の店長さんに容姿が一致していました」

 その瞬間、吉岡がふいに、すくっと立ち上がった。

「悪いけど、そんなふざけた話に付き合うほど暇じゃないから」

 想定内の反応ではある。八神に任せるか自分が引き止めるか。旺史が答えを出すより先に、八神が動いていた。
 ベンチから腰を浮かし、声を張り上げる。

「手首の痣!」

 立ち去ろうとしていた吉岡が、ビクッと肩を震わせ、足を止めた。
 
 手首の痣――。それは生き霊の話を信じてもらえなかったときの、切り札の一つだった。
 食器を洗っている手首にある、ベルトか何かで縛られたような青紫の痣。八神が霊から読み取った断片的な光景の一つで、自分たちは店長の記憶の一部だと信じている。
 それが吉岡の手だと判断した理由は、ネットカフェの店員から聞いた彼女の服装だった。

 吉岡は以前は膝丈のスカートや衿ぐりの広いトップスなども着ていたのが、今の彼氏とつきあい始めてからは、露出の少ない地味な服装に変わったそうだ。それだけでなく、「冷房に弱いから」と言って、夏場でもネカフェの制服の下にハイネックの長袖シャツを着ていることもあったらしい。おそらく手首以外にも痣があって、服で隠していたのだろう。

 吉岡の背に向けられていた八神の必死の眼差しが、ふっと力を抜き、優しさを纏う。 

「店長さんは吉岡さんの痣に気づいたから、体調を気遣ったり、家に帰りたくない時は個室を使ったらいいと言ったりしたんですよね?」

 その声もまた、硬さが抜け、優しく語りかけるようだった。

「吉岡さんには『社員への福利厚生ってことで料金はいらない』と説明していたようですが、実際は店長さんが個室料金を払っていたそうです」

 背を向けたまま微動だにしなかった吉岡が、ゆっくりと体ごと振り返った。街灯の仄白い光の下、蒼白な顔は、警戒の色を崩してはいない。ただ、拒絶はなかった。

「僕が店長さんらしき霊から読み取ったのは、吉岡さんがスーツ姿の男に首を絞められている光景です。貴方はすごく苦しそうにしていて……。男が手を離し、貴方は地面に崩れ落ちた。店長さんは咳き込む貴方に駆け寄ろうとしていました。あのとき、彼は貴方しか見ていなかったんです。だから、捨てたナイフを男が拾い上げたことにも、それが自分に向けられていることにも、気づくのが遅れた……」

 八神が読み取った感情が正しければ、あのとき、店長には吉岡の彼氏を刺す意志はなかった。ただ、無理やり連れ帰られた吉岡の身を案じ、彼女を恋人から引き離すために、咄嗟に店からナイフを持ち出したのだろう。そしておそらく、男は吉岡の首を絞めて彼女が苦しむ姿を見せ、ナイフを捨てるよう店長を脅した。

「貴方はすぐに救急車を呼ぼうとしましたが、彼氏が貴方のスマホを取り上げましたよね? 店長さんは意識を失くす直前、貴方が『救急車を呼んで』と男に泣いて頼む声を聞いていました。あの男が、『次に逃げたら、今度こそ店長を殺す』と貴方を脅す声も……」

 話すうちに徐々に沈んでいた顔を上げ、八神が再び真っすぐに彼女を見据える。

「店長さんは……、今もあの場所で、貴方のことを、『助けて』と願い続けています。霊園に残されたあの人の思いの中には、恨みも怒りもなく、ただ貴方のことを心配する気持ちと、貴方に対する感謝の気持ちがあるだけでした。あの人の願いは、貴方に、貴方らしく生きてもらうことです。だからどうか……、店長さんの思いを無駄にしないでください」

 その瞬間、ただ呆然と立ち尽くしていた吉岡の頬に、一筋の光が伝った。
 何か言おうとしているのか、口をかすかに喘がせるが、声は聞き取れない。
 感情に乏しい表情の中で、涙だけが、張りつめていた糸が切れたかのように、次々と瞼に浮かんでは彼女の頬を濡らしていた。

 旺史も腰を上げ、あとは自分が引き受けることを八神に視線で伝える。「任せた」とでも言うように、彼はゆっくり瞬きをした。

「実は俺の兄が刑事をやっているんです。事件のことは伏せて聞いてみたんですけど……。同居人からのDV被害の場合、本人が望めば、警察で保護してもらえることもあるそうです」

 吉岡は焦点の定まらない視線を、八神から旺史へと移した。
 旺史は語気を強めながらも、彼女に圧を与えないよう、気持ちを抑えて話を続ける。

「それに、もし八神の話が事実なら、唯一の証人である貴方が加害者と一緒にいるのは、非常に危険なことです。個人的には、今すぐにでも警察に助けを求めたほうがいいと思う」

 きっかけは店長がナイフを突きつけたことでも、無抵抗の人間を刺した上に携帯を奪って救急車も呼ばせないというのは、殺意があったとしか思えない。それをただ一人証言できるのが、吉岡だった。

「どうか警察で、本当のことを話してください。裁かれるべき人間が自分の犯した罪で正しく裁かれることが、店長の救いにもなると思います」

 相手の親が警察官僚という話もある。それを理由に『証言したところで揉み消してもらえる』とかなんとか吹き込まれているのかもしれないが、今の警察はそんなに甘くないはずだ。

 そんなことを考えていると、背後から声がした。

「はあ? ふざけんな!」