それでは、お先にごきげんよう

 読んでいる途中から秦のすすり泣く声が聞こえてきて、紫己もつられて、時折り声を詰まらせながら読み終えた。
 字面を追うことに集中していたから、便箋から顔を上げて初めて、変化に気が付いた。スリガラス状だった薫子が、さらに淡く霞んで見える。明らかに、彼女の霊気も薄くなっていた。

「佐久良!」

 思わず佐久良の手を握る。佐久良に触れても同じだった。スリガラスが取れ、ぱっと見、彼女本来の姿に見える。ただ、これまでと違い、その色調がかなり薄い。奥のグラウンドが透けて見えていた。
 彼女はこのまま消えてしまうのだと直感した。

「先輩!」

 佐久良の手を握ったまま、今度は秦に向かって声を張り上げる。

「薫子さんがいなくなります! 何か言っておきたいこと、ないんですか?」

 ゴンと派手な音がする。
 秦が小箱を取り落とした音だった。
 濡れた瞳と一瞬視線がぶつかり、次の瞬間には、彼女が飛び込むように紫己に抱きついてきた。
 勢いでぐらりと倒れそうになった体を、背中から佐久良に支えられる。

 ――薫子さん、もう少しだけ待って!

 必死の呼びかけが届いたのか、薫子の気配がこちらに近づいてくる。ずぶずぶと、何かが自分の中に入り込んでくる感覚がした。何度経験してもそれは決して気持ちいいものではなく、背筋にぞおっと悪寒が走る。

「薫子、ゴメン……ゴメンね……」

 耳元でしゃくり上げる声がする。

「塾で言ったこと、あんなの全部嘘だから。先生にフラれて、成績も下がって、むしゃくしゃして八つ当たりしただけ。薫子だから、一番嫌な自分を見せられたの。薫子に甘えてただけだった……」

『私、あんたのこと、もう友達とは思ってないから。学校では友達のふりしてあげるけど、外では話しかけないで。私の真似するのも、気持ち悪いからやめてくれる?』

 そんなふうに言われた記憶が、まるで自分の記憶のように心の中に蘇った。
 言われたときの悲しみも、薫子の今の気持ちも、自分の感情のように胸を支配する。

「……マリちゃん、もういいの。私は笑ってるマリちゃんが好きだから。これ以上、私のことで、自分を責めたり泣いたりしないで」

 薫子の言葉が、紫己の声で発せられる。
 体を乗っ取られているのに、今は恐怖はない。
 槇村が自首したあとも彼女が成仏していなかった理由がわかった気がした。「大人になんてなりたくないし、今はまだ、なりたいものもやりたいことも見つからない」と言っていた彼女が唯一未来でやりたかったことが、秦と一緒にタイムカプセルを開けることだった。

「薫子……、ごめんね……。それで、ありがとう。私、ずっと忘れないよ。誰といても……、嬉しいときも楽しいときも、寂しいときも悲しいときも、貴方のこと思い出す。貴方が生きられなかった未来を生きてるってこと、絶対に忘れない。これからも、ずっとずっと大好きだから……」

 縋るように紫己の肩口に顔をうずめ、泣きじゃくる彼女の背を、ただぽんぽんと優しく撫でていた。
 薫子が、すーっと自分の中から抜け出ていく。

 少し寂しげな微笑を浮かべ、手を振る彼女の姿が茜色の空に溶け込んでいく。

 ――マリちゃんのこと、よろしくね。それでは、お先にごきげんよう。

 そんな声が聞こえた気がした。