それでは、お先にごきげんよう

 八神の死人のような青白い顔に、旺史自身も血の気が引きかけた。
 パニックにならずにすんだのは、中学まで習っていた柔道のおかげだった。練習中、失神した人間を何度か見たことがある。
 八神をアスファルトの上にゆっくりと寝かせ、口元に手をかざし、頸動脈に触れて呼吸と脈を確認する。

 何度目かの呼びかけで彼は薄っすらと瞼を開いた。
 だが、焦点の定まらない虚ろな目は、まだ「正気」には程遠い。反応はあるものの、何を聞いても「あぁ」「うん」とぼんやりした声が返ってくるだけだった。
 支えて立ち上がらせることはできたが、背骨を抜かれたように体がぐらぐらし、とても歩ける状態ではなかった。

 八神の体格なら、学校まで背負って行くこともできなくはない。ただ、はたしてこの状態で動かしてよいものかわからない。ひとまず学校に連絡し、担任ではなく養護教諭に電話を回してもらった。
 化学教師である担任の藤井は眼鏡にひょろりとした長身のいかにも研究者といった風貌で、ぶっちゃけこういうとき頼りになるとは思えない。

 それから10分ほどして駐車場に1台のコンパクトカーが現れた。養護教諭だけでなく、男性の体育教師も一緒だった。
 養護教諭の指示で、ふくらはぎの下にバッグを置いて下肢を高くしていたからか、八神の顔色はだいぶよくなっていた。

「すぐに病院を受診させる必要はなさそうね。しばらく保健室で様子を見ましょう」

 彼女は八神の目の下を引っ張ったり、手首で脈をみたりして、そう判断した。

 体育教師は移動のための助っ人だったらしい。軽々と八神をお姫様抱っこし、後部座席に乗せる姿に、ちょっとだけ敗北感を覚える。5分程で学園に到着し、玄関から先は車椅子で保健室へと向かった。 
 保健室のベッドに寝かせる頃には八神の受け答えもだいぶはっきりしていて、恐縮した様子でしきりに「すみません」と呟いていた。

「脳貧血だと思うけど、こういうことが頻繁にあるようなら、自律神経にも問題があるかもしれないわね。一度病院で診てもらったほうがいいわ」

 診察を終えた養護教諭に、八神は居心地の悪そうな顔をする。

「原因はわかっているので……、気を付けます」

 霊園での様子は明らかに貧血で倒れるのとは違っていた。原因がわかっているということは、こういうことは初めてではないのだろうか。

 浮かんだ疑問を、旺史は口には出さなかった。

「先生たち今から職員会議でしょ。俺、見てるから行ってきてください」

「……そうね。今回は事故ではなかったけど、また霊園でのトラブルだから、朝礼でも報告したほうがよさそうね。そうしてもらっていいかしら? 八神君に何か変化があったら、そこの電話で職員室に電話して」

「僕はもう一人でも大丈夫だから。佐久良君は教室に行って」

「絶対に大丈夫って保証はないだろ。何かあったときのほうが後味悪い」

 散々迷惑をかけておいて今更だろという思いもあり、少しつっけんどんに返すと、「じゃあ、お願いね」と言い残し養護教諭は保健室を出て行った。
 部屋の隅に畳んで立ててあったパイプ椅子をベッドの傍まで持ってきて、旺史も腰を落ち着ける。
 
「今、話しても大丈夫? あ、俺、同じクラスの佐久良旺史」

「知ってるよ。急にどうしたの?」

 八神はおかしそうに目を細める。

「話すの初めてだから。一応、自己紹介。『君』付けはいらないから、『佐久良』って呼んで」

「そう言えばそうだったね。僕は八神紫己。僕のことも、『八神』でいいよ。さっきは、本当にありがとう」

 クラスメイトと友達になるときにこんなふうにちゃんと自己紹介をしたことはない。若干の気恥ずかしさを覚えつつ、単刀直入に本題を切り出した。

「――で、八神は何のために霊園に行って、何を見たんだ?」

 涼しげな切れ長の眼が、軽く見開かれる。
 八神は逃げるように目を泳がせた。

「『なんとなく寄り道したくなっただけで、霊園でも何も見ていない』という答えでも、納得してもらえるのかな?」

 その口ぶりだと、答えは別にあるのだろう。
 無理に聞き出したいわけではないが、ただの興味本位とも違う。少し間を置き、自分の気持ちを整理してから再び口を開く。

「俺は自分で見聞きしたものしか信じないことにしている。ただ、八神が霊園で何かを見たというのなら、それを信じる」

 かつて家族ですら信じきれなくなったことがある。だから、初めて話すような相手にそんなふうに思っていることを、自分でも不思議に思った。

 逸らされていた視線が、ゆっくりと戻ってくる。

「お前は覚えていないかもしれないが……、意識を失くす直前、お前は『助けて』と言っていたんだ。何か俺にできることがあるのなら、力になりたい」

 八神は気難しい顔で押し黙っていたが、やがて思い詰めた口ぶりで話しだした。

「佐久良君……、佐久良は、今まで一度も見えたことがないの?」

「『見えたことがない』とは?」

 何のことを言っているのかは察しがつく。ただ、見たことがない以上、何が見えるのかは説明してもらわないとわからない。

「……霊とか……、その先の怨念のようなもの」

「今までそうかもと思ったことはないな。霊園でも、普通の霊園の景色にしか見えなかった」

「……そっか……、もしかしたら、佐久良も同類かもって思ったんだけど……」

 八神が口元にひっそりとした微笑を浮かべる。

「俺が霊園に行ったのは、お前らしき人間がそっちに向かうのが見えたから、後を追っただけだ」

「僕も……、最初は、誰かが懸命に叫んでいる声と、形のない『霊のようなもの』しかわからなかったんだ。子供の頃はもっとよく……ちゃんと人の形に見えて、会話もできていたんだけど。成長するにつれてはっきりとは見えなくなっていて……。でも、君に触れられた瞬間、昔みたいにはっきりと見えた」

 霊園で、八神の頬に触れたとき、すごく驚いた顔をしていたことを思い出した。
 あれは、急に人がいたことに気づいたからかと思っていたが、霊が鮮明に見えたから驚いたということだろうか。

「……そんなこと言われても、俺、自分に霊感があるって思ったことねーし……。他の人でも同じことになるんじゃねーの?」

 八神は記憶を掘り起こすように宙を睨み、軽く首を振った。

「中学の修学旅行のとき、そういうのが出る部屋だったけど、誰かに触れているときだけ見え方が変わるなんてことはなかったと思う。それに……」

 まっすぐに見上げてくる目に、先ほどまでなかった真剣さが宿っていた。

「それだけじゃない。君に触れていると、霊に触れることができた。今までになく同調できた感じで……、見たことのない光景が勝手に頭に流れ込んできたんだ。あれはきっと、あの人の記憶だと思う。僕が『助けて』と言ったのなら、それは僕ではなく、あの人の言葉だ」

 すぐには言葉が出てこなかった。
 廊下や校庭でふざけ合う生徒たちの声が遠くに聞こえる中、八神と見つ合うことになる。
 ちゃんと理解できたわけではないが、あまりに自明の理のように力説されたもんだから、話の信憑性についてツッコむ気にはならなかった。

「ちょっと待て。話を整理しよう。まず、『あの人』っていうのはどの人のことだ?」

 時間をかけてそう返すと、八神が急にぷっと噴き出した。

「気にするのそこ? 僕のこと信じるっていうの、嘘じゃなかったんだ」

 孤高のクラスメイトがくつくつと肩を揺らす姿は初めて見るもので、呆気にとられる。
 無口なタイプかと思っていたが、こんなふうに笑うこともあるらしい。

「お前に嘘吐く理由はないだろ」

 反応に困り、こめかみを指先で掻く。八神の肩の震えはすぐに落ち着いたが、口元にはまだ笑いの余韻が残っている。

「そうだよね。でも、今までこんな話をしてまともに信じてもらえたことがなかったから、嬉しくて」

「俺も……実際にあの場にいなかったら、信じられなかったかもしれない。あのときのお前の様子を見れば、みんなお前が何かを見たってことは信じると思うよ」

 なんだか慰めるような言い方になってしまった。
 八神は「ありがとう」と軽く肩をすくめ、話を続けた。

「僕が霊園で見たのは、男性の霊だった。眼鏡をかけていて、髪は天パでモサっとしていて、30代くらい。かなりはっきり見えて声も聞き取れたから、亡くなってそう時間が経ってない人だと思う」

「亡くなってからの時間が見え方に関わってくるのか?」

「確実ではないけど、子どもの頃の経験で、そうかなと思ってる。亡くなった人の年齢や性別、事故の種類なんかを知っているとそういうふうに見えたりもするから、僕の先入観でフィルタリングされている部分も大きいと思うけど」

 年齢や性別はまだわかるとして、事故の種類で見え方が違うって……。
 考えようとして背筋が薄ら寒くなり、慌てて思考から振り払った。

「お前、そういうの見えてて、怖くねーの?」

 淡々と話していた八神の表情が、わずかに翳る。

「子どもの頃は見えているのが普通だったから、他の人がなぜ見えないと言うのか、理解できなかったんだ……。話の通じる霊のことは、道に迷った人という感じであまり怖いと思ったことはないかな。人の姿を失くして残留思念になっている場合は、負の感情に同調するとかなり苦しくなる。でも、最近は、意識を失くしたり熱を出したりすることもほとんどなくなっていたんだ」

 柔道でも、強い人間は物腰が穏やかでもオーラが違う。大会のときは、練習にはないピリピリとした空気を会場全体から感じる。
 それはきっと柔道をやっていない人間にはわからない感覚だろう。八神の『感じやすさ』も、そういう違いかと思った。

「男の霊ってことは……、3月に転落した女子高生のほうじゃねーな。ストーカー事件のほうか……。ネットニュースでは、ネカフェの店長が横恋慕していた店員の彼氏をナイフで刺そうとして、返り討ちに遭ったようなことが書いてあったな。結局、刺された人が亡くなったってことなのかな……」

 もしかしたらもっと前にも人が亡くなるような事件か事故があったのかもしれないが、八神の経験則が正しいのなら、それほど昔からいる霊とは思えない。まぁ、霊園だから、いてもおかしくないのかもしれないが。

「それは……本当なのかな……」

 八神が呟いた言葉に、旺史は「え?」と声を漏らした。

「……あの人の中にあるのは……『助けて』という感情だけだった。自分のことじゃなく、誰かのことを『助けて』と強く叫んでいて……。あの人に触れて見えたのも、女の人が首を絞められている光景だった。女の人が別の男に首を絞められている光景と、その男がこちらに向かってくる光景……」

 八神がぽつりぽつりと紡いでいた言葉を、一度切った。顔色を窺うような、自信なげな眼差しがこちらに向けられる。

「……あの人は、本当にストーカーだったのかな?」

 顎を指で掴み、考え込む。
 事件のその後は知らない。ただ、ネットニュースを読んだ印象では、つき合っている二人にナイフを持って別れろと迫り、切りつけたあげく揉みあいになって刺されたのなら、自業自得。刺した交際相手には正当防衛が認められて当然だろうと思っていた。
 しかし、八神が見た光景がそのときのものなら、かなり話が違ってくる。

「佐久良……。できれば放課後、一緒に霊園に行ってくれないか? 君がいてくれたら、もっと色々見えそうな気がする。僕……、あの人のことは、そのままにしちゃ駄目な気がするんだ」

 旺史は顎から指を離し、視線を上げた。

「一緒に行くのは構わないが、またぶっ倒れられたら困る。行くのは別のところでもいいか?」

 きょとんとした顔で小首をかしげた八神に、旺史は意味深に片頬を上げてみせた。

「まぁ。行けるかどうかは、お前の体調しだいだな」