佐久良はその日のうちに母と兄に父親のことを話したそうだ。紫己がその顛末を聞いたのは、翌日の月曜日だった。
さすがに人がいるところで話すのは憚られる。そのため、昼休みに体育館入り口のピロティまで行き、弁当を食べながら話をした。
「父さんと一緒にいた女の人……、兄貴を産んだ人だった」
「宗史さんのお母さん!?」
わざわざ「兄貴を」と限定しているということは、佐久良はそうではないということだ。
佐久良の父が再婚だったという話を聞いたこともなく、紫己は目を丸くした。
佐久良は母親と兄に未央の苑のパンフレットを見せ、父親が失踪する前に、そこに写っている教団幹部の女性と一緒にいるところを見かけたと話したらしい。
特に母親は驚いていたという。
『橙子さん……』
彼女はそう呟いた。
教団信者から『橙花様』と呼ばれていたその女性は、本名、三澤橙子。佐久良の父の前妻で、兄・宗史の実の母親だった。
「ってことは、宗史さんと佐久良はお母さんが違ってたってこと?」
佐久良はわずかに眉根を寄せ、頷いた。
「俺は全然知らなかったけど、兄貴は今のオカンと暮らすようになった頃のことは、なんとなく覚えていたみたい。オカンが話すかどうか迷ってるのを見て、自分から実の母のことを尋ねたんだ」
佐久良は続けて、時折り言葉を詰まらせながら、彼自身も昨日知ったばかりの事情を説明してくれた。
佐久良の兄、宗史には、もともと双子の弟がいたらしい。
佐久良が「昴にぃ」と呼ぶその子は、生まれつき心臓に重い病気があり、手術や入退院を繰り返していたという。
佐久良の母は当時、小児科病棟の看護師で、橙子さんや昴にぃとはそこで知り合った。橙子さんは昴にぃの病気のことでかなり思い悩んでいて、入院中には佐久良の母もよく話を聞いていたそうだ。
しかし、昴にぃの病状が思わしくなく、橙子さんは次第に医療以外に救いを求めるようになった。それが、未央の苑だった。
「母さんも、父さんと結婚してから知ったそうだが……、橙子さんは、昴にぃが重い病気を持って生まれてきたのは、二人分の業を背負わされたからだと、教団関係者から吹き込まれていたらしい」
「二人分って、もしかして……」
どこか苦々しそうに佐久良が頷く。
宗にぃの分と、二人分。きっとそういうことだろう。
そのせいで重い病気になったと言っているくらいだから、その「業」というのは、前世の悪い行いとか、そういうことを指しているに違いない。
なぜ、藁にも縋る思いで救いを求めてきた母親に、そんなひどいことを言えるのか。
怒りで胸の奥がカッと熱くなった。
「橙子さんも……、頭では、そんな馬鹿な話あるわけないってわかってたんだろうな……。でも、昴にぃが手術後に病状が悪化して亡くなってからは、何かに理由を求めずにはいられなかったのかもしれない……」
なぜ……、我が子は生まれながらに重い病を背負い、何の楽しいことも知らないまま逝かなければならなかったのか……。悲しみのあまり、その理由を、もう一人の子供に求めてしまったのだとしたら――。
「そ……、そんなの……」
――悲しすぎる。
最後の言葉は掠れて声にはならなかった。
胸の奥で煮え滾っていたものが、一気にせり上がってくる。
ぶわりと視界が歪み、瞼から溢れ出したときには、怒りだったものは別のものへと形を変えていた。
橙子さんも、昴にぃも、幼い宗史さんも、佐久良のお父さんも。
それぞれの気持ちを考えると、胸が締めつけられ、喉に何かが詰まったように苦しくなった。
理由を示されたことで、橙子さんは本当に、救われたというのだろうか……。
「兄貴も泣かなかったのに。何でお前が泣いてんだよ」
呆れた声がする。
濡れた瞼に指が伸びてきて、紫己は膝の上に置いていた弁当箱を慌てて脇へ下ろした。
「……そ……だよね……。ごめん……」
辛かったのは佐久良家の人たちだ。部外者の僕が泣いたところで、同調ではなく同情にしかならない。それはきっと、ただの自己満足でしかないのだろう。
そう思うのに。佐久良に拭われるそばから、止めどなくまた涙が溢れた。
「兄貴はさ……。全然覚えてないって言ってた。橙子さんのことも、当時のことも。……でも、思い出せないだけで、過去を完全になかったことにできるわけじゃないから……。代わりに泣いてくれる人がいて、子供の宗にぃは救われたと思う」
そんなことを言われて、一層嗚咽が激しくなる。
佐久良がそっと紫己の後頭部を引き寄せ、その胸に顔をうずめさせた。
しばらくの間、子供をあやすように背をぽんぽんと叩かれていたが、肩の震えが治まった頃、佐久良はまた話し始めた。
紫己は息を詰め、そのくぐもった声に、じっと耳をそばだてていた。
昴にぃが亡くなったあと、しばらくは、ただ彼を悼む日々が過ぎていったそうだ。ひずみが表に出たのは、昴にぃが亡くなって半年ほどが経ち、佐久良の父が内勤から刑事課へ異動した頃だった。
父親は、事件が起これば何日も家を空けることも珍しくなかった。昴にぃがいた頃は、入院に付き添いが必要なため、宗にぃは保育園に通っていたが、それができなくなっていたことも大きかったようだ。
橙子さんは子供を亡くしたショックから仕事に復帰できず、宗にぃとの、ほとんど母子二人だけの生活が続く中、父親は児童相談所からの連絡で、橙子さんにネグレクトの疑いがあることを初めて知ったそうだ。児相が介入したのは、近所から「子どもがずっと泣いている」という通報が相次いだからだった。
児相に勧められて病院を受診した宗にぃは、栄養状態がかなり悪く、そのまま入院することになった。父親は自分の母を呼び寄せて入院の付き添いを頼み、妻の様子を見に一旦家に帰った。だが、橙子さんはサイン済みの離婚届けを残し、すでに家を出ていたそうだ。
「そのあと、未央の苑に?」
涙はいつのまにか乾いていて、紫己は佐久良の胸からそっと顔を離した。
「おそらくな。実家にも目ぼしい友達のところにも行ってなくて、教団の事務局にも何度も問い合わせたが、信者の個人情報は教えられないの一点張りだったらしい。……母さんはその頃まだ小児科病棟にいて、父さんとはそこで知り合ったって言ってた。たまたま家が近所で、事情を知ってたから放っとけなくて、宗にぃのために退院後も色々サポートしていたら、気づいたら三年くらい経ってたって……」
『今さら他の人とって気力もなかったから、宗史が小学校に入学する前に、籍を入れて一緒に住み始めたのよ』
佐久良の母は、笑ってそう話していたらしい。
前妻である橙子さんと佐久良の父が一緒にいたという話にも、「お父さんはそういう人だから」と目を細めていたという。
夫を信じているということか、刑事の仕事を理解しているということか……。紫己にはわからなかった。
「あのさ……。僕に何かできることない?」
「え?」
佐久良が顔を覗き込んでくる。
「具体的に何ができるかは、今は全然思いつかないけど……。お父さんを探すために、僕にできることがあったら何でもするよ」
佐久良は少し考えるような表情を浮かべ、ありがとうと破顔した。
「まぁ、でも、それより先に解決しないといけないことがあるからな」
笑みを消し、周囲へさっと目を配る。
「どう?」と視線で問われ、紫己は軽く首を横に振った。
「薫子さん、今もいるよ」
「やっぱそうか……」
霊なりに気を使ってくれたのか、佐久良の家族の話をしている間、彼女は紫己から離れ、校内を浮遊していた。今は戻って来て、ピロティの天井近くをふよふよと漂っている。
槇村先生の自首を見届けたことで、てっきり成仏しただろうと思っていた薫子が、今朝再び、登校してきた紫己の前に現れたのだ。
さすがに人がいるところで話すのは憚られる。そのため、昼休みに体育館入り口のピロティまで行き、弁当を食べながら話をした。
「父さんと一緒にいた女の人……、兄貴を産んだ人だった」
「宗史さんのお母さん!?」
わざわざ「兄貴を」と限定しているということは、佐久良はそうではないということだ。
佐久良の父が再婚だったという話を聞いたこともなく、紫己は目を丸くした。
佐久良は母親と兄に未央の苑のパンフレットを見せ、父親が失踪する前に、そこに写っている教団幹部の女性と一緒にいるところを見かけたと話したらしい。
特に母親は驚いていたという。
『橙子さん……』
彼女はそう呟いた。
教団信者から『橙花様』と呼ばれていたその女性は、本名、三澤橙子。佐久良の父の前妻で、兄・宗史の実の母親だった。
「ってことは、宗史さんと佐久良はお母さんが違ってたってこと?」
佐久良はわずかに眉根を寄せ、頷いた。
「俺は全然知らなかったけど、兄貴は今のオカンと暮らすようになった頃のことは、なんとなく覚えていたみたい。オカンが話すかどうか迷ってるのを見て、自分から実の母のことを尋ねたんだ」
佐久良は続けて、時折り言葉を詰まらせながら、彼自身も昨日知ったばかりの事情を説明してくれた。
佐久良の兄、宗史には、もともと双子の弟がいたらしい。
佐久良が「昴にぃ」と呼ぶその子は、生まれつき心臓に重い病気があり、手術や入退院を繰り返していたという。
佐久良の母は当時、小児科病棟の看護師で、橙子さんや昴にぃとはそこで知り合った。橙子さんは昴にぃの病気のことでかなり思い悩んでいて、入院中には佐久良の母もよく話を聞いていたそうだ。
しかし、昴にぃの病状が思わしくなく、橙子さんは次第に医療以外に救いを求めるようになった。それが、未央の苑だった。
「母さんも、父さんと結婚してから知ったそうだが……、橙子さんは、昴にぃが重い病気を持って生まれてきたのは、二人分の業を背負わされたからだと、教団関係者から吹き込まれていたらしい」
「二人分って、もしかして……」
どこか苦々しそうに佐久良が頷く。
宗にぃの分と、二人分。きっとそういうことだろう。
そのせいで重い病気になったと言っているくらいだから、その「業」というのは、前世の悪い行いとか、そういうことを指しているに違いない。
なぜ、藁にも縋る思いで救いを求めてきた母親に、そんなひどいことを言えるのか。
怒りで胸の奥がカッと熱くなった。
「橙子さんも……、頭では、そんな馬鹿な話あるわけないってわかってたんだろうな……。でも、昴にぃが手術後に病状が悪化して亡くなってからは、何かに理由を求めずにはいられなかったのかもしれない……」
なぜ……、我が子は生まれながらに重い病を背負い、何の楽しいことも知らないまま逝かなければならなかったのか……。悲しみのあまり、その理由を、もう一人の子供に求めてしまったのだとしたら――。
「そ……、そんなの……」
――悲しすぎる。
最後の言葉は掠れて声にはならなかった。
胸の奥で煮え滾っていたものが、一気にせり上がってくる。
ぶわりと視界が歪み、瞼から溢れ出したときには、怒りだったものは別のものへと形を変えていた。
橙子さんも、昴にぃも、幼い宗史さんも、佐久良のお父さんも。
それぞれの気持ちを考えると、胸が締めつけられ、喉に何かが詰まったように苦しくなった。
理由を示されたことで、橙子さんは本当に、救われたというのだろうか……。
「兄貴も泣かなかったのに。何でお前が泣いてんだよ」
呆れた声がする。
濡れた瞼に指が伸びてきて、紫己は膝の上に置いていた弁当箱を慌てて脇へ下ろした。
「……そ……だよね……。ごめん……」
辛かったのは佐久良家の人たちだ。部外者の僕が泣いたところで、同調ではなく同情にしかならない。それはきっと、ただの自己満足でしかないのだろう。
そう思うのに。佐久良に拭われるそばから、止めどなくまた涙が溢れた。
「兄貴はさ……。全然覚えてないって言ってた。橙子さんのことも、当時のことも。……でも、思い出せないだけで、過去を完全になかったことにできるわけじゃないから……。代わりに泣いてくれる人がいて、子供の宗にぃは救われたと思う」
そんなことを言われて、一層嗚咽が激しくなる。
佐久良がそっと紫己の後頭部を引き寄せ、その胸に顔をうずめさせた。
しばらくの間、子供をあやすように背をぽんぽんと叩かれていたが、肩の震えが治まった頃、佐久良はまた話し始めた。
紫己は息を詰め、そのくぐもった声に、じっと耳をそばだてていた。
昴にぃが亡くなったあと、しばらくは、ただ彼を悼む日々が過ぎていったそうだ。ひずみが表に出たのは、昴にぃが亡くなって半年ほどが経ち、佐久良の父が内勤から刑事課へ異動した頃だった。
父親は、事件が起これば何日も家を空けることも珍しくなかった。昴にぃがいた頃は、入院に付き添いが必要なため、宗にぃは保育園に通っていたが、それができなくなっていたことも大きかったようだ。
橙子さんは子供を亡くしたショックから仕事に復帰できず、宗にぃとの、ほとんど母子二人だけの生活が続く中、父親は児童相談所からの連絡で、橙子さんにネグレクトの疑いがあることを初めて知ったそうだ。児相が介入したのは、近所から「子どもがずっと泣いている」という通報が相次いだからだった。
児相に勧められて病院を受診した宗にぃは、栄養状態がかなり悪く、そのまま入院することになった。父親は自分の母を呼び寄せて入院の付き添いを頼み、妻の様子を見に一旦家に帰った。だが、橙子さんはサイン済みの離婚届けを残し、すでに家を出ていたそうだ。
「そのあと、未央の苑に?」
涙はいつのまにか乾いていて、紫己は佐久良の胸からそっと顔を離した。
「おそらくな。実家にも目ぼしい友達のところにも行ってなくて、教団の事務局にも何度も問い合わせたが、信者の個人情報は教えられないの一点張りだったらしい。……母さんはその頃まだ小児科病棟にいて、父さんとはそこで知り合ったって言ってた。たまたま家が近所で、事情を知ってたから放っとけなくて、宗にぃのために退院後も色々サポートしていたら、気づいたら三年くらい経ってたって……」
『今さら他の人とって気力もなかったから、宗史が小学校に入学する前に、籍を入れて一緒に住み始めたのよ』
佐久良の母は、笑ってそう話していたらしい。
前妻である橙子さんと佐久良の父が一緒にいたという話にも、「お父さんはそういう人だから」と目を細めていたという。
夫を信じているということか、刑事の仕事を理解しているということか……。紫己にはわからなかった。
「あのさ……。僕に何かできることない?」
「え?」
佐久良が顔を覗き込んでくる。
「具体的に何ができるかは、今は全然思いつかないけど……。お父さんを探すために、僕にできることがあったら何でもするよ」
佐久良は少し考えるような表情を浮かべ、ありがとうと破顔した。
「まぁ、でも、それより先に解決しないといけないことがあるからな」
笑みを消し、周囲へさっと目を配る。
「どう?」と視線で問われ、紫己は軽く首を横に振った。
「薫子さん、今もいるよ」
「やっぱそうか……」
霊なりに気を使ってくれたのか、佐久良の家族の話をしている間、彼女は紫己から離れ、校内を浮遊していた。今は戻って来て、ピロティの天井近くをふよふよと漂っている。
槇村先生の自首を見届けたことで、てっきり成仏しただろうと思っていた薫子が、今朝再び、登校してきた紫己の前に現れたのだ。


