誰かの話し声を耳にした気がした。
スーっと何かが擦れるような音がし、全身がわずかに前へと傾く。すぐに動きが止まり、体の片側にかすかな振動だけが残る。側頭部に触れる硬さとあたたかさには、なんとなく覚えがあった。
――そうだ……。僕はファミレスで意識を失くして……。
寝心地の悪さと、それとは相反する安心感が、まどろみの底から似たような記憶を拾い上げる。
霊園で初めて佐久良の力を借りて霊視した日も、気づけば車の中で佐久良の膝に頭を預けていたことを、ぼんやりと思い出した。
「……それで、未央の苑とは何か関係があったのか?」
前方から男性の声がする。
――びようのその……。どこかで聞いた記憶があるが、すぐには思い出せそうになかった。
「……あるにはあったが、父さんに繋がるようなものは何もなさそうだ」
「父さん」という言葉で、佐久良とその兄の宗史の会話だと察しがついた。
兄弟の気安さとはかけ離れた深刻な空気に引きずられ、思考の靄が少しずつ薄れていく。起きるにはタイミングが悪く、目を開けることは憚られた。
「槇村は学生の頃から教団のセミナーに参加していて、信者に顔が利くらしい。華橘に採用されたのも、信者を通じて学園の関係者にコネがあったからだとか。入試委員になったことで、華橘に子供を入れたい信者が声をかけたようだ。報酬をもらって受験予定の子供らに特別講義をしていたらしい」
「その中で受験問題を漏出させたということか」
「自分が作成した数学以外は、印刷前の最終チェックでざっと見ただけらしいけどね。カメラアイって言うの? 一度見ただけでたいていのことは覚えられるみたい。模試でE判定だった子も合格したと言っていたから、かなり有利なものではあったんだろうな」
「傘の柄で人を取り違えたのも、記憶力に自信があったからかもしれないな」
断片的だった情報が、ようやく繋がる。
槇村との会話で秦が口走った「受験問題漏出の証拠」という言葉の意味も、なんとなく腑に落ちた。
槇村からそこまで話を聞きだせたということは、彼が自首を決意したということだろうか……。
薫子を襲った犯人が捕まることはずっと望んでいたことだけれども。
あまりの後味の悪さに、解決してよかったという気分にはなれなかった。
「紫己君には、親父のこと話したのか?」
ふいに自分の名前が出てきて、胸の奥が小さく跳ねる。
「……まだ」
一拍の間を置き、宗史が「そうか」と返すと、車内は沈黙に包まれた。
車が動き出したのか、また少し揺れ、重心が後ろへと流れる。
……お父さんのこと……。って、いったい何だろう。
「まだ」ということは、いつか何か話すつもりってことだろうか……。
気になりながらも、動きの鈍い頭では思考が続かない。振動と横髪を指で梳かれる心地よさに誘われ、しばらくすると意識はまた、まどろみの底へと沈んでいった。
再び意識が浮上し、ゆっくりと瞼を上げる。ぼやけた視界の中に、見慣れたリビングと、その手前のうなじで揃えられた黒髪を捉えた。
「あれ……ここ、うち?」
「あぁ、起きたか」
床に座り、ソファに背を預けてスマホをいじっていた佐久良が振り向く。紫己はクッションを枕に、ソファに横になっていた。
体を起こしかけると、佐久良が身をよじって腕を伸ばしてきて、軽く肩を押し戻される。
「目が覚めたばかりだろ。もう少し横になってたほうがいい」
「何で僕、家に……?」
「お前が起きそうになかったから、ファミレスで兄貴に連絡して迎えにきてもらったんだ。ついでに秦先輩も家まで送った。うちに連れて帰るつもりでお前の親父さんに連絡したら、もうすぐ家に帰るから、リビングに寝かせといてくれって言われてな」
以前、佐久良の兄に家まで送ってもらったことがあったから、家の場所もわかったのだろう。
父が帰るまで、佐久良が付き添ってくれていたということか。
「じゃあもしかして、宗史さんが家の中まで運んでくれたってこと? 起こしてくれたらよかったのに」
「何でそこで兄貴が運んだって決めつけんだよ。……まぁ、兄貴だけど」
佐久良は悔しそうに顔をしかめた。
「お茶も出さずにごめんね」
「途中で買ってきたからいい。お前も飲む?」
差し出されたペットボトルを受け取り、礼を言う。
喉は乾いていたが、それ以上に気になることがあった。
「佐久良……、ごめん。帰りの車の中で少し目が覚めていた時間があって……。起きたって言いそびれて、君とお兄さんの話を聞いちゃった」
佐久良はわずかに眉を上げたものの、さほど驚いた様子はなく、口元に苦笑を浮かべた。
「俺たちが話してたせいで起こしちゃったよな。槇村が未央の苑に出入りしてたって話を兄貴にもしてたから、兄貴もずっと気にしてたみたいで」
「えっと……、それって、僕が聞いていい話?」
紫己は片手をついて体を支え、ゆっくりと上半身を起こす。両足を座面から降ろし、ソファに座る体勢になった。
床に座っていた佐久良が腰を浮かせ、紫己の隣に座り直す。
「八神には、そのうち話すつもりだったから」
そう言いながらも、佐久良は口を噤み、思い詰めた顔のまま膝の上で指を組み変えていた。
そんな佐久良は初めて見る。
「また話したくなったときでいいよ」
見かねて声をかけると、佐久良は「いや」と小さく首を振り顔を上げた。
目が合いかけて、その前に逸らされる。けれど今度はすぐに、口を開いた。
「俺の父親……父さんは、俺の中学の入学式の日を最後に、家に帰ってない」
ふっと苦笑を漏らすような、崩れた口調だった。理解した瞬間、喉がきつく締まる。
佐久良の顔を正視することができず、胸の辺りにそろそろと視線を下げた。
「半年ほど海外の大使館に出向することになったと聞かされていたんだ。最初の半年は月1くらいで連絡もあって、帰国が延びることになりそうと言われていた。でも、そのあと連絡が取れなくなって……。母さんが警察に問い合わせたんだ。結局、連絡が途絶えてから3カ月ほど経った頃に父さんの上司だった人が来て、任務中に連絡が取れなくなったと説明された」
「……それって……行方不明になったってこと?」
上目遣いで窺うと、佐久良が小さく頷いた。
その頃には兄の宗史は警察学校を卒業し既に交番に勤務していて、父親の上司だった人の口利きで、去年、刑事課に異動になったという。
「刑事になってようやく、父さんは海外出張なんかじゃなく、『未央の苑』という宗教団体に潜入中に失踪したことを教えてもらえたんだ」
――未央の苑。
車の中で半覚醒だったときには思い出せなかった記憶を、今はすっと思い出せた。
槇村が学生の頃からセミナーに参加していたという宗教団体の名前だった。
「華橘学園に入学したのも、この学園の卒業生の中に未央の苑の信者が多いと聞いたからだ。何か父さんの行方を知る手掛かりがないか調べたかった」
「もしかして、部活よりもやりたいことがあるって言ってたのは、それのこと?」
佐久良がわずかに顔を傾け、ようやく視線が合う。今度はさっきよりもしっかりと頷いた。
「八神が意識を失くしたあと、槇村に少し話を聞いたんだ。学生の頃からの繋がりで、未央の苑の信者の子らに受験問題を漏出させていたことを聞き出した。父さんについても何かわかるかもと期待したけど……」
佐久良が言い淀み、声が一段沈む。
「俺……、兄貴にもまだ話せていないことがあるんだ……。中学の入学式から一か月くらい経った頃、柔道の試合の帰り道で父さんを見かけたことがあるんだよ」
「え?」
紫己は小さく声を漏らす。
佐久良は口元をわずかに緩め、自嘲の滲む笑みを浮かべた。
「マンションっぽい建物から出てきて……、女の人と一緒だったんだ。すごく綺麗な人だった。父さんがその人の背中を抱くみたいにして……、道路に停まっていたタクシーに乗り込んで、いなくなった」
霊視するときと一緒だった。
苦しげに絞り出される声に、泥沼に引きずり込まれたような息苦しさを覚える。
ほとんど無意識に手が動いていた。佐久良の膝の上でぎゅっと握り込まれた拳を、上から包み込む。
――佐久良なら、きっとそうするだろうから。
後付けで、そんな言い訳が浮かんだ。
佐久良は一瞬目を瞠ったが、すぐにホッとしたように表情を和らげた。
「海外に行ってるはずの父さんが日本にいるはずない。他人の空似だ。……そう思い込んだけど、母さんにも兄貴にもそのことを言えなかったのは……、どっかで父さんを疑っていたからなんだろうな。もしかしたら海外赴任の話は嘘で、国内の別の場所で、誰かと暮らしているんじゃないかって。失踪の話を聞かされたあとも、俺たち家族が捨てられたんじゃないかって気持ちを捨てきれなかった」
俺は自分で見聞きしたものしか信じない――霊園で初めて霊視した日に、彼がそう言っていたことを思い出した。
それは父親を信じられない気持ち、最悪の可能性を考えそうになる気持ちを、その言葉で抑え込んでいたのかもしれない。
「兄貴が刑事課に異動になって、未央の苑の話を知ってから、教団のパンフレットを取り寄せたんだ。その中に、あの人――父さんと一緒にいた女がいた。槇村にパンフレットを見せて尋ねたが、教団の幹部の一人で、『橙花』様と呼ばれていることしかわからなかった。たとえ信者でも、幹部の居所や連絡先は教えてもらえないらしい」
「……そのパンフレット、見てもいい?」
自分が見たところで何の役にも立てないことはわかっている。ただ、興味本位とは別の感覚で、見たいという衝動が沸き起こっていた。
「いいよ」
佐久良は「ありがとう」とでも言うようにもう片方の手で重ねていた紫己の手にぽんぽんと触れてから、やんわりと押し戻した。
床に置いていた自身のバッグを引き寄せ、中から一冊の冊子を引っ張り出す。
『自然と共に生きる』――表紙には、その言葉と、陽だまりの草原で並んで腰を下ろし、穏やかに語らう人々の写真が載っている。
佐久良が膝の上でパラパラと冊子を捲り、とあるページを開いて差し出した。
ワークショップのようなものだろうか。大勢が芝生にマットを敷き、ヨガのようなポーズをしている写真が載っていた。
「この人」
佐久良が指し示したのは、最前列にいた一人。三十代後半くらいの、彫りの深い顔立ちの綺麗な女性だった。
なぜか懐かしさにも似た、胸をキュッと締め付けられるような痛みを覚える。
「どうした?」
食い入るように見ていたからか、佐久良が気づかわしげに尋ねた。
「初めて見るはずなんだけど……、なんか…、どこか懐かしいというか……」
「懐かしい?」
追及され、そう思う根拠について考えこむ。
じっと見つめているうちに、とある人の顔が浮かんできた。
「なんとなく、だけど……。この人、ちょっと宗史さんに似てない?」
「兄貴に?」
佐久良が軽く瞠目した。
「ご、ごめん。変なこと言って。雰囲気でそう思っただけだよ。宗史さん、佐久良とよく似てるけど、宗史さんのほうが濃いめじゃん。二重がくっきりしてるところとか、睫毛が長いところとか……、この写真見てたら、なんとなく宗史さんのこと思い出しちゃって……」
「お前、兄貴の顔、よく見てるんだな」
急に佐久良の機嫌が怪しくなって、紫己は慌てて付け足した。
「よく見なくても、そのくらいわかるだろ!」
機嫌を損ねたのは「ふり」だったようで、佐久良は一瞬だけ尖らせた唇をすぐに元に戻す。
「冗談だよ。……でも、ありがとう。八神に話したら、なんかちょっと気持ちが楽になった」
佐久良は冊子をさりげなく引き寄せ、バッグへと仕舞った。
「俺……、兄貴と母さんに、昔、父さんを見かけたこと、話してみようと思う。話したら余計に不安にさせてしまうと思ってたけど……、俺が父さんの手掛かりを探すために華橘に入ったみたいに、あの二人も、ほんのわずかな手掛かりでも知りたいと思ってるはずだから……」
バッグを床に置き、再び挙げられた佐久良の頭へと手を伸ばす。彼は硬直するように途中で動きを止めた。
「今まで一人で、頑張ってきたんだな」
自分が佐久良の頭を撫でるなんて、考えたこともなかった。
でも、今はそうしたかった。
「こ……、子ども扱いすんな!」
佐久良は邪険に返しながらも、俯かせた顔を少し赤くし、素直に撫でられていた。
「15才は子供だろ」
赤面がうつりそうになるのを自覚しつつ、わざと子供に言い聞かせる口ぶりで言う。
何だか本当に彼が弟にでもなったかのような錯覚を覚え、妙に可愛く見えてしまう
普段とは立場が逆転していることが嬉しくて、いつまでも彼の頭から手を離せなかった。
スーっと何かが擦れるような音がし、全身がわずかに前へと傾く。すぐに動きが止まり、体の片側にかすかな振動だけが残る。側頭部に触れる硬さとあたたかさには、なんとなく覚えがあった。
――そうだ……。僕はファミレスで意識を失くして……。
寝心地の悪さと、それとは相反する安心感が、まどろみの底から似たような記憶を拾い上げる。
霊園で初めて佐久良の力を借りて霊視した日も、気づけば車の中で佐久良の膝に頭を預けていたことを、ぼんやりと思い出した。
「……それで、未央の苑とは何か関係があったのか?」
前方から男性の声がする。
――びようのその……。どこかで聞いた記憶があるが、すぐには思い出せそうになかった。
「……あるにはあったが、父さんに繋がるようなものは何もなさそうだ」
「父さん」という言葉で、佐久良とその兄の宗史の会話だと察しがついた。
兄弟の気安さとはかけ離れた深刻な空気に引きずられ、思考の靄が少しずつ薄れていく。起きるにはタイミングが悪く、目を開けることは憚られた。
「槇村は学生の頃から教団のセミナーに参加していて、信者に顔が利くらしい。華橘に採用されたのも、信者を通じて学園の関係者にコネがあったからだとか。入試委員になったことで、華橘に子供を入れたい信者が声をかけたようだ。報酬をもらって受験予定の子供らに特別講義をしていたらしい」
「その中で受験問題を漏出させたということか」
「自分が作成した数学以外は、印刷前の最終チェックでざっと見ただけらしいけどね。カメラアイって言うの? 一度見ただけでたいていのことは覚えられるみたい。模試でE判定だった子も合格したと言っていたから、かなり有利なものではあったんだろうな」
「傘の柄で人を取り違えたのも、記憶力に自信があったからかもしれないな」
断片的だった情報が、ようやく繋がる。
槇村との会話で秦が口走った「受験問題漏出の証拠」という言葉の意味も、なんとなく腑に落ちた。
槇村からそこまで話を聞きだせたということは、彼が自首を決意したということだろうか……。
薫子を襲った犯人が捕まることはずっと望んでいたことだけれども。
あまりの後味の悪さに、解決してよかったという気分にはなれなかった。
「紫己君には、親父のこと話したのか?」
ふいに自分の名前が出てきて、胸の奥が小さく跳ねる。
「……まだ」
一拍の間を置き、宗史が「そうか」と返すと、車内は沈黙に包まれた。
車が動き出したのか、また少し揺れ、重心が後ろへと流れる。
……お父さんのこと……。って、いったい何だろう。
「まだ」ということは、いつか何か話すつもりってことだろうか……。
気になりながらも、動きの鈍い頭では思考が続かない。振動と横髪を指で梳かれる心地よさに誘われ、しばらくすると意識はまた、まどろみの底へと沈んでいった。
再び意識が浮上し、ゆっくりと瞼を上げる。ぼやけた視界の中に、見慣れたリビングと、その手前のうなじで揃えられた黒髪を捉えた。
「あれ……ここ、うち?」
「あぁ、起きたか」
床に座り、ソファに背を預けてスマホをいじっていた佐久良が振り向く。紫己はクッションを枕に、ソファに横になっていた。
体を起こしかけると、佐久良が身をよじって腕を伸ばしてきて、軽く肩を押し戻される。
「目が覚めたばかりだろ。もう少し横になってたほうがいい」
「何で僕、家に……?」
「お前が起きそうになかったから、ファミレスで兄貴に連絡して迎えにきてもらったんだ。ついでに秦先輩も家まで送った。うちに連れて帰るつもりでお前の親父さんに連絡したら、もうすぐ家に帰るから、リビングに寝かせといてくれって言われてな」
以前、佐久良の兄に家まで送ってもらったことがあったから、家の場所もわかったのだろう。
父が帰るまで、佐久良が付き添ってくれていたということか。
「じゃあもしかして、宗史さんが家の中まで運んでくれたってこと? 起こしてくれたらよかったのに」
「何でそこで兄貴が運んだって決めつけんだよ。……まぁ、兄貴だけど」
佐久良は悔しそうに顔をしかめた。
「お茶も出さずにごめんね」
「途中で買ってきたからいい。お前も飲む?」
差し出されたペットボトルを受け取り、礼を言う。
喉は乾いていたが、それ以上に気になることがあった。
「佐久良……、ごめん。帰りの車の中で少し目が覚めていた時間があって……。起きたって言いそびれて、君とお兄さんの話を聞いちゃった」
佐久良はわずかに眉を上げたものの、さほど驚いた様子はなく、口元に苦笑を浮かべた。
「俺たちが話してたせいで起こしちゃったよな。槇村が未央の苑に出入りしてたって話を兄貴にもしてたから、兄貴もずっと気にしてたみたいで」
「えっと……、それって、僕が聞いていい話?」
紫己は片手をついて体を支え、ゆっくりと上半身を起こす。両足を座面から降ろし、ソファに座る体勢になった。
床に座っていた佐久良が腰を浮かせ、紫己の隣に座り直す。
「八神には、そのうち話すつもりだったから」
そう言いながらも、佐久良は口を噤み、思い詰めた顔のまま膝の上で指を組み変えていた。
そんな佐久良は初めて見る。
「また話したくなったときでいいよ」
見かねて声をかけると、佐久良は「いや」と小さく首を振り顔を上げた。
目が合いかけて、その前に逸らされる。けれど今度はすぐに、口を開いた。
「俺の父親……父さんは、俺の中学の入学式の日を最後に、家に帰ってない」
ふっと苦笑を漏らすような、崩れた口調だった。理解した瞬間、喉がきつく締まる。
佐久良の顔を正視することができず、胸の辺りにそろそろと視線を下げた。
「半年ほど海外の大使館に出向することになったと聞かされていたんだ。最初の半年は月1くらいで連絡もあって、帰国が延びることになりそうと言われていた。でも、そのあと連絡が取れなくなって……。母さんが警察に問い合わせたんだ。結局、連絡が途絶えてから3カ月ほど経った頃に父さんの上司だった人が来て、任務中に連絡が取れなくなったと説明された」
「……それって……行方不明になったってこと?」
上目遣いで窺うと、佐久良が小さく頷いた。
その頃には兄の宗史は警察学校を卒業し既に交番に勤務していて、父親の上司だった人の口利きで、去年、刑事課に異動になったという。
「刑事になってようやく、父さんは海外出張なんかじゃなく、『未央の苑』という宗教団体に潜入中に失踪したことを教えてもらえたんだ」
――未央の苑。
車の中で半覚醒だったときには思い出せなかった記憶を、今はすっと思い出せた。
槇村が学生の頃からセミナーに参加していたという宗教団体の名前だった。
「華橘学園に入学したのも、この学園の卒業生の中に未央の苑の信者が多いと聞いたからだ。何か父さんの行方を知る手掛かりがないか調べたかった」
「もしかして、部活よりもやりたいことがあるって言ってたのは、それのこと?」
佐久良がわずかに顔を傾け、ようやく視線が合う。今度はさっきよりもしっかりと頷いた。
「八神が意識を失くしたあと、槇村に少し話を聞いたんだ。学生の頃からの繋がりで、未央の苑の信者の子らに受験問題を漏出させていたことを聞き出した。父さんについても何かわかるかもと期待したけど……」
佐久良が言い淀み、声が一段沈む。
「俺……、兄貴にもまだ話せていないことがあるんだ……。中学の入学式から一か月くらい経った頃、柔道の試合の帰り道で父さんを見かけたことがあるんだよ」
「え?」
紫己は小さく声を漏らす。
佐久良は口元をわずかに緩め、自嘲の滲む笑みを浮かべた。
「マンションっぽい建物から出てきて……、女の人と一緒だったんだ。すごく綺麗な人だった。父さんがその人の背中を抱くみたいにして……、道路に停まっていたタクシーに乗り込んで、いなくなった」
霊視するときと一緒だった。
苦しげに絞り出される声に、泥沼に引きずり込まれたような息苦しさを覚える。
ほとんど無意識に手が動いていた。佐久良の膝の上でぎゅっと握り込まれた拳を、上から包み込む。
――佐久良なら、きっとそうするだろうから。
後付けで、そんな言い訳が浮かんだ。
佐久良は一瞬目を瞠ったが、すぐにホッとしたように表情を和らげた。
「海外に行ってるはずの父さんが日本にいるはずない。他人の空似だ。……そう思い込んだけど、母さんにも兄貴にもそのことを言えなかったのは……、どっかで父さんを疑っていたからなんだろうな。もしかしたら海外赴任の話は嘘で、国内の別の場所で、誰かと暮らしているんじゃないかって。失踪の話を聞かされたあとも、俺たち家族が捨てられたんじゃないかって気持ちを捨てきれなかった」
俺は自分で見聞きしたものしか信じない――霊園で初めて霊視した日に、彼がそう言っていたことを思い出した。
それは父親を信じられない気持ち、最悪の可能性を考えそうになる気持ちを、その言葉で抑え込んでいたのかもしれない。
「兄貴が刑事課に異動になって、未央の苑の話を知ってから、教団のパンフレットを取り寄せたんだ。その中に、あの人――父さんと一緒にいた女がいた。槇村にパンフレットを見せて尋ねたが、教団の幹部の一人で、『橙花』様と呼ばれていることしかわからなかった。たとえ信者でも、幹部の居所や連絡先は教えてもらえないらしい」
「……そのパンフレット、見てもいい?」
自分が見たところで何の役にも立てないことはわかっている。ただ、興味本位とは別の感覚で、見たいという衝動が沸き起こっていた。
「いいよ」
佐久良は「ありがとう」とでも言うようにもう片方の手で重ねていた紫己の手にぽんぽんと触れてから、やんわりと押し戻した。
床に置いていた自身のバッグを引き寄せ、中から一冊の冊子を引っ張り出す。
『自然と共に生きる』――表紙には、その言葉と、陽だまりの草原で並んで腰を下ろし、穏やかに語らう人々の写真が載っている。
佐久良が膝の上でパラパラと冊子を捲り、とあるページを開いて差し出した。
ワークショップのようなものだろうか。大勢が芝生にマットを敷き、ヨガのようなポーズをしている写真が載っていた。
「この人」
佐久良が指し示したのは、最前列にいた一人。三十代後半くらいの、彫りの深い顔立ちの綺麗な女性だった。
なぜか懐かしさにも似た、胸をキュッと締め付けられるような痛みを覚える。
「どうした?」
食い入るように見ていたからか、佐久良が気づかわしげに尋ねた。
「初めて見るはずなんだけど……、なんか…、どこか懐かしいというか……」
「懐かしい?」
追及され、そう思う根拠について考えこむ。
じっと見つめているうちに、とある人の顔が浮かんできた。
「なんとなく、だけど……。この人、ちょっと宗史さんに似てない?」
「兄貴に?」
佐久良が軽く瞠目した。
「ご、ごめん。変なこと言って。雰囲気でそう思っただけだよ。宗史さん、佐久良とよく似てるけど、宗史さんのほうが濃いめじゃん。二重がくっきりしてるところとか、睫毛が長いところとか……、この写真見てたら、なんとなく宗史さんのこと思い出しちゃって……」
「お前、兄貴の顔、よく見てるんだな」
急に佐久良の機嫌が怪しくなって、紫己は慌てて付け足した。
「よく見なくても、そのくらいわかるだろ!」
機嫌を損ねたのは「ふり」だったようで、佐久良は一瞬だけ尖らせた唇をすぐに元に戻す。
「冗談だよ。……でも、ありがとう。八神に話したら、なんかちょっと気持ちが楽になった」
佐久良は冊子をさりげなく引き寄せ、バッグへと仕舞った。
「俺……、兄貴と母さんに、昔、父さんを見かけたこと、話してみようと思う。話したら余計に不安にさせてしまうと思ってたけど……、俺が父さんの手掛かりを探すために華橘に入ったみたいに、あの二人も、ほんのわずかな手掛かりでも知りたいと思ってるはずだから……」
バッグを床に置き、再び挙げられた佐久良の頭へと手を伸ばす。彼は硬直するように途中で動きを止めた。
「今まで一人で、頑張ってきたんだな」
自分が佐久良の頭を撫でるなんて、考えたこともなかった。
でも、今はそうしたかった。
「こ……、子ども扱いすんな!」
佐久良は邪険に返しながらも、俯かせた顔を少し赤くし、素直に撫でられていた。
「15才は子供だろ」
赤面がうつりそうになるのを自覚しつつ、わざと子供に言い聞かせる口ぶりで言う。
何だか本当に彼が弟にでもなったかのような錯覚を覚え、妙に可愛く見えてしまう
普段とは立場が逆転していることが嬉しくて、いつまでも彼の頭から手を離せなかった。


