それでは、お先にごきげんよう

『待たせてごめん』

 イヤホン越しの声は、距離を感じるものの、内容はどうにか聞き取れた。

『木曜日から休んでるんだって? 顔色も悪いね。体調が悪いのに外出して大丈夫なの?』

 職員室の前で会ったときと同様に、槇村の声は気づかいに溢れている。犯人と同じ傷を見た今でも、やっぱり先生は無関係なのではないかと、期待と自信のなさが入り混じったような気持ちが胸をよぎる。
 ただ、薫子はそうではないようで、槇村が現れて以降、店の奥から漂ってくる気配は殺伐としたものへと変わっていた。
 彼女に憑りつかれたときの、意志に反し体が勝手に動いてしまう恐怖がぶり返しそうになり、乱れ始めた鼓動を押さえるように胸にそっと手を当てる。

「どうした?」

 表情に出ていたのか、佐久良がトーストを片手に、心配そうに顔を覗き込んできた。

「薫子さんがちょっと……」

 紫己は強張った顔のまま、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。その間もイヤホンからは緊張を孕んだ秦の声が聞こえていた。

『先生に、お願いしたいことがあったから』
『お願いって? あぁ、その前に何か注文しようか。秦さんは何にする?』
『……ミルクティー』

 答えるまでに一拍の間があったのは、もしかしたら普段、二人きりのときは、下の名前で呼んでいたのかもしれない。
 オーダーを知らせるチャイムが店内に鳴り、店員が彼女たちの元へと注文を取りに行き、またすぐに離れていく。
 トーストを食べ終えた佐久良と二人して息を詰め、イヤホンに意識を集中させた。

『お願いって何? また勉強の相談事?』
『もし、先生が婚約を解消してまた私とつき合ってくれるなら、何も知らなかったことにしてあげるって言ったら、どうする?』

 出し抜けに聞こえてきた一言に、紫己は思わず、「えっ」と口の中で呟いた。
 彼女は昨日確かに、「私の知ってることを警察で話そうとは思ってる」と言っていた。だから、その前に槇村に会いたいというのは、てっきり自首を勧めたいとかそういう話だと思っていたのだが……。
 佐久良の顔を盗み見たが、彼は小難しい表情で奥の席を見つめたままだった。
 槇村はすぐには返事をせず、イヤホン越しでもわかる緊迫した沈黙が続く。
 店の奥から漂ってくる暗く澱んだ気の中に、今は憎悪とは別の苛立ちを感じ取れた。

「佐久良……」

 紫己は小声で話しかけた。

「薫子さんが……話を聞きたいみたい」

 ただの憶測ではあるが。もし、彼女が本当に苛立っているのなら、その理由は二人の会話を理解できないせいに思える。霊になったお母さんも、たまにそういうことがあったから。

「ったく。ファミレスで二時間寝るのはナシだぞ」

 腕を回され、肩を抱き寄せられる。もう片方の手がテーブルの下で重なる。自分よりも少しあたたかな掌が手の甲を包み、指と指の間で、節ばった指が一回り小さな紫己の手を握り込んだ。
 その瞬間、店の奥に浮かんでいた人影が、はっきりとした女子高生の姿に見えた。

 ――薫子さん。

 紫己の呼びかけに気づいた彼女がこちらに顔を向け、妖艶に口の端を上げる。 

 ――来て。
 
 鼓膜ではなく、頭の中で声が響く。
 全身に悪寒が走り、ふいに何かに強く引っ張られる。
 それは自分自身が身体から引き剥されるようで、彼女が自分の中に入ってきたときとは全く逆の感覚だった。

「八神!」

 耳元で呻くような声がする。

「俺に集中しろ」

 重ねた手に更にぎゅっと力を込められ、引っ張られる勢いが止まる。触れ合う肌の感触や自分の体――もしかしたら魂ってやつかもしれない――を包み込む存在を意識すると、あたたかな腕に縫い留められたまま、自分の一部分だけが細く引き延ばされていく。

 とても不思議な感覚だった。

『秦さん……』

 イヤホンからはそれまでとは打って変わって、冷ややかさを感じる声が聞こえてくる。
 それなのに、自分の意識は鼓膜とは遠いところで、話をする秦と槇村を見下ろしていた。夢を見ているようなぼんやりとした思考力で、これは薫子の視点だと認識する。

『君は、僕が学生の頃から勉強を教えてきた、大切な生徒だ。今も進路指導係として、できる限りのサポートをしたいと思っている。それで、木曜日から休んでるって聞いて、わざわざ休日に出向いてきたんだよ。教師をからかってるだけなら僕は帰るよ』

『からかってなんていません』

 イヤホンから聞こえる声色の通り、秦の表情は怒りでも軽蔑でもなく、ただ毅然としているように思えた。

『先生が私のスマホを狙っていた一番の目的は、私とつき合っていた証拠じゃなく、私がシャワーを浴びていた間にかかってきた電話の会話――受験問題漏出の証拠を消したかったからでしょう?』

 息を呑んだのが自分なのか薫子なのか佐久良なのかはわからなかった。

 ――受験問題漏出!?

 寝耳に水の言葉が出てきて激しく混乱する。
 薫子も話を理解しているのか、彼女からも動揺が感じ取れた。
 迷惑そうにしていた槇村も、みるみる顔色を失っていく。

『なぜそうなったのかはよくわからないけど、クラウドのゴミ箱に音声のバックアップが保存されていたのよ。恥ずかしくて全部聞いたことなかったから、受験問題の件に気づくのが遅れたけど。そのことを黙っていてあげるかわりに、花房先生と別れて、また私とつき合って』

 槇村が言葉を失う中、店員がコーヒーとミルクティーを運んできて、去って行く。

『と……とりあえず、場所を変えよう。こんなところでできる話じゃないだろう?』

『駄目。ここで今すぐ花房先生に電話して婚約解消して。あ、二人きりになってスマホを奪おうとしても無駄だから。データはUSBメモリに入れて、家に置いてある。私に何かあったらそれを警察に渡すように人に頼んであるの』

 強気を崩さない秦とは裏腹に、槇村は苦々しそうに眉間に深い皺を寄せ、計算を巡らせているようだった。
 一方で、紫己を内包した薫子にも、裏切られたような絶望が去来する。それでも、「マリちゃんが幸せならそれでいい」と彼女が思っていることが切なかった。

『わ……わかった。婚約は解消する。でも、今すぐは無理だ。君だって、僕が学園で立場を失くして教師を辞めてしまったら、そんな男とつき合いたくはないだろう? 3月に卒業した生徒の中に花房に気がある奴がいたんだ。そいつに薬を渡して既成事実を作らせよう。そうしたら彼女のほうから婚約解消を申し出るはずだ』

 どこまで女性の敵なんだ!? 先輩はこんな奴のどこがいいんだ!?
 そう思って、心の中でギリと歯を食いしばったとき――秦がふっと口元をゆるめた。

『本当はね、先生とヨリを戻す気なんてない。ただ、最後に先生の気持ちを確認したかっただけなの。先生が好きなのが私でも花房先生でもなく、自分自身なんだってわかって、スッキリした。私は明日警察に行くから、先生は自首したかったらすればいい』

 秦が警察で証言する気持ちを変えていなかったことにホッと肩の力を抜く。
 
 しばらくの間、強張った顔のまま秦を見据えていた槇村が、これみよがしに大きなため息を吐いた。表情を消し、眼鏡の奥の目をすっと眇める。

『君はもう少し分別があると思っていたんだけどな』

 まるで優雅にお茶でもするように、カップを持ち上げコーヒーに口をつける。
 それまでと打って変わった冷静沈着ぶりが不気味だった。

『僕だって、これ以上君に幻滅されたくはなかったんだよ。だから、これはできれば最後まで使いたくなかったんだけど』

 槇村はそう言うと、スマホを取り出し操作し始めた。秦に差し出すようにテーブルに置かれた画面に、映像が流れる。
 マナーモードなのか音はない。映っているのは秦だった。
 普段の彼女よりも大人びた、どこか艶めかしい表情を捉えたカメラは、下へとアングルを変える。移動した先で、制服の裾に忍び込む手が映った瞬間、全身がドクンと激しく脈打った。
 目を背けるより先に画面は暗く沈み、すぐに真っ暗になった。
 
『こういうときのために、念のため映しておいたんだ。家の中では度の低い眼鏡を使ってるって話、信じてたみたいだね。君がどうしても警察に行くと言うなら、この動画を校内の君の知り合いにばらまく』

 激しく火を噴いたように自分の内側がカッと熱くなり、 一瞬、視界も思考も血色に染まる。それは自分ではなく薫子の怒りだと、焼ききれそうな意識で理解した。
 彼女に引きずられ、急速に体の中へと戻って行く。

 目を開けたとき、まるで地震の前触れみたいに目の前のカップがカタカタと揺れていた。それはここだけではないようで、店内のあちこちでカチャカチャと食器がぶつかる音が聞こえ、照明が点滅する。

「わっ。なに? 地震?」
「でも、全然揺れてないよね?」

 周りの客が騒ぐ声が聞こえてくる。

「八神?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる男を思いきり突き飛ばし、席を立った。
 駅で槇村を線路に突き落としそうになったときと同様に、自分の体なのに自分ではどうにもできなかった。駅のときと違って、体を突き動かす激しい怒りが薫子のものか自分のものかわからなくなる。

 奥の席まで行くと、槇村が驚愕に目を見開いていた。
 口を大きく開けているのに声はなく、金縛りにあったかのようにただ体を硬直させている。
 自分の両手が上がる。
 抵抗することもない彼の首へとその手がかかろうとしたとき――両側から、手首をパシッと掴まれた。

「八神!」
「薫子!」

 同時に、二人分の声がする。
 意志に反し勝手に動いていた手が止まった。

「ありがとう。でも、もういいから」

 震える声につられて顔を向ける。
 秦は充血させた目から大粒の涙をぽろぽろと溢れさせていた。

「あなたが怨霊になる価値もない人だよ」

 秦は涙を拭いもせず、目の前の男をまっすぐに見据えた。

「動画をバラまきたければ、バラまけばいい。それくらいで私の気持ちは変わらない。……死にたいくらいに恥ずかしくても、苦しくても、私たちは生きてるじゃない。……薫子にはもう何の未来もないんだよ……」

 最後のほうは絞り出すような悲痛な声だった。
 薫子が自分の中からスーッと抜け出ていく。
 彼女が秦を抱きしめる光景が熱い水の膜の向こうで揺らぐ中、紫己は佐久良の腕へと倒れ込んだ。