翌日の日曜日。午前8時半――普段の休日ならまだ惰眠を貪っている時間に、紫己は佐久良と連れ立って、秦の自宅近くのファミレスに来ていた。
二つある分厚いガラス扉を押して入ると、入店を知らせる音が鳴り、店の奥から店員が出てくる。
「いらっしゃいませ。空いているお席にどうぞ」
店員に目礼し、店の奥へと進む。
店内はほとんどの席が空いていて、日常から切り離されたような長閑さに包まれていた。
奥に視線を向けると、事前の打ち合わせ通り、秦は一番奥の窓側の席に、入り口側を向いて座っていた。ここに来る前に彼女の家を訪ね、店の入り口が見えるところまでは一緒に来たのだが、時間をずらして入店した形だった。
紫己と佐久良は、彼女の席から通路を挟み、さらに一列隔てた斜向かいの席に並んで腰を下ろした。
昨日、秦を家まで送ったあと、下見のためにこの店に来ている。そのとき、空いていればこの席に座ることも決めておいた。この席なら、間仕切り用のプランターボックス越しに彼女の様子が窺える。
「じゃ、こっちのマイクはオフにするから」
佐久良は秦と通話が繋がっているスマホをテーブルに置き、マイクをミュートにした。
秦と別のグループを装って入店したのは、秦がここに槇村を呼び出したからだ。彼女のスマホから槇村の連絡先は消えていたが、母親の携帯のアドレス帳に番号が残されていたらしい。
二人の会話を聞き取るために、スマホは繋ぎっぱなしにしてある。こちらのマイクはオフにし、助けが必要なときは左耳を触って合図してもらう手はずだった。
秦の向こう、壁一面に広がる窓の外へと視線を向けていると、ふいに横髪に何かが触れた。ふわふわした猫っ毛を耳へとかけられ、慣れないくすぐったさに、思わずビクッと肩をすくめる。続けて耳に硬質なものを押し込まれた。
「な、なに?」
「なにってイヤホン」
ワイヤレスイヤホンで通話を聞く予定だったことを思い出した。
「言ってくれたら自分でしたのに」
「今は彼氏だから。このくらい普通だろ」
佐久良は、まるで本物の恋人に向けるような甘い顔で、紫己の横髪を元に戻す。
「正確には彼氏の『ふり』だろ」
「ふり」を強調して軽く睨んでみせたが、甘い顔が満足げに笑みを深めただけだった。
頼むからそういうのは本物の彼女相手にやってくれ! ――と心の中で悪態をつく。
彼氏のふり――よくわからないうちに何故かそういうことになっていた。しかも、同性のカップルではなく、男女のカップルである。玄関先で顔を合わせるなり強引に秦の部屋へと連れて行かれ、あれよあれよという間に紫己ばかりが女装させられていたのだ。
『先生に気づかれないように、貴方たちはカップルのふりをしたほうがいいんじゃない?』
と彼女が提案し、佐久良がノリノリで賛同した。
断る理由を考えている間に、秦が槇村の家に行くときに変装用に使っていたという茶髪のウィッグをかぶせられ、『せっかくだから』という謎の理由でメイクまで施されていた。
危うくスカートまで履かされそうになったが、さすがにそれは、「ファミレスで座っていたら見えないですよね?」と言って全力で回避した。
「ゆかりも朝飯まだって言ってたよな。モーニングセット頼む?」
紫己の『紫』を取って『ゆかり』。
仮名を呼ぶ声までもが、自分が女子なら勘違いしてしまいそうなほどに甘い。
「ぼ……、わ、わたくしは、カフェラテがよろしくてよ」
佐久良と違って全く役に入りこめていない紫己は、目を泳がせ、妙な日本語になってしまった。
槇村もまだ現れていないのだから演技をする必要はないのだろうが、「事前に慣れておいたほうがいい」という理由で、秦の家を出た時から女性の言葉を喋らされている。
佐久良はしばらく頬をニヤつかせていたが、店員が水を運んでくると、笑みを消して自分の分のモーニングセットと紫己のカフェラテを注文した。
しかし、店員がいなくなるとすぐに、内緒話のていで顔を寄せてくる。
「薫子さんはどう?」
紫己は店の奥の天井付近に視線を移した。
「秦先輩の周りをぐるぐるしてる。先輩のことを心配してる感じで、今のところ、あまり物騒なオーラはなさそうだけど……」
憑りつかれて体の自由を奪われた一昨日以降、薫子の気配は紫己の近くにあった。学校で槇村と鉢合わせしたときほど鬼気迫るものはなく、なるべく同調しないよう意識していれば、やり過ごせる程度のものだった。それも、厄除けの護符が家の数か所に貼ってあるおかげか、自宅にいる間はほとんど気にならなかった。
「先生、来たみたい」
ふいにイヤホンから声が聞こえてきて、紫己は身を固くした。
佐久良がお尻の位置をずらし、体を密着させてくる。
腕を伸ばし、紫己の頭を抱き込むようにして横髪を撫で始めた。傍目には、片時も離れたくないカップルが、寄り添いながらスマホの画面を一緒に覗き込んでいるように見えるだろう。
ウィッグだから地肌のくすぐったさはないが、朝からシャワーを浴びてきたのか、佐久良が学校にいる時よりいい匂いがするし、柔道で鍛えたたくましい腕や肩を意識してしまって、どうにも身の置きどころに困る。
無理やり意識を秦のほうへ向けると、一人の男が店の奥へと進み、秦の前に腰を下ろすのが見えた。こちらに背を向けていたが、背格好から槇村に違いなかった。
髪を撫でていた手が離れていき、ようやく普通に息ができるようになる。そのタイミングでモーニングセットとカフェラテが運ばれてきて、佐久良は何事もなかったかのようにトーストを手に取った。
二つある分厚いガラス扉を押して入ると、入店を知らせる音が鳴り、店の奥から店員が出てくる。
「いらっしゃいませ。空いているお席にどうぞ」
店員に目礼し、店の奥へと進む。
店内はほとんどの席が空いていて、日常から切り離されたような長閑さに包まれていた。
奥に視線を向けると、事前の打ち合わせ通り、秦は一番奥の窓側の席に、入り口側を向いて座っていた。ここに来る前に彼女の家を訪ね、店の入り口が見えるところまでは一緒に来たのだが、時間をずらして入店した形だった。
紫己と佐久良は、彼女の席から通路を挟み、さらに一列隔てた斜向かいの席に並んで腰を下ろした。
昨日、秦を家まで送ったあと、下見のためにこの店に来ている。そのとき、空いていればこの席に座ることも決めておいた。この席なら、間仕切り用のプランターボックス越しに彼女の様子が窺える。
「じゃ、こっちのマイクはオフにするから」
佐久良は秦と通話が繋がっているスマホをテーブルに置き、マイクをミュートにした。
秦と別のグループを装って入店したのは、秦がここに槇村を呼び出したからだ。彼女のスマホから槇村の連絡先は消えていたが、母親の携帯のアドレス帳に番号が残されていたらしい。
二人の会話を聞き取るために、スマホは繋ぎっぱなしにしてある。こちらのマイクはオフにし、助けが必要なときは左耳を触って合図してもらう手はずだった。
秦の向こう、壁一面に広がる窓の外へと視線を向けていると、ふいに横髪に何かが触れた。ふわふわした猫っ毛を耳へとかけられ、慣れないくすぐったさに、思わずビクッと肩をすくめる。続けて耳に硬質なものを押し込まれた。
「な、なに?」
「なにってイヤホン」
ワイヤレスイヤホンで通話を聞く予定だったことを思い出した。
「言ってくれたら自分でしたのに」
「今は彼氏だから。このくらい普通だろ」
佐久良は、まるで本物の恋人に向けるような甘い顔で、紫己の横髪を元に戻す。
「正確には彼氏の『ふり』だろ」
「ふり」を強調して軽く睨んでみせたが、甘い顔が満足げに笑みを深めただけだった。
頼むからそういうのは本物の彼女相手にやってくれ! ――と心の中で悪態をつく。
彼氏のふり――よくわからないうちに何故かそういうことになっていた。しかも、同性のカップルではなく、男女のカップルである。玄関先で顔を合わせるなり強引に秦の部屋へと連れて行かれ、あれよあれよという間に紫己ばかりが女装させられていたのだ。
『先生に気づかれないように、貴方たちはカップルのふりをしたほうがいいんじゃない?』
と彼女が提案し、佐久良がノリノリで賛同した。
断る理由を考えている間に、秦が槇村の家に行くときに変装用に使っていたという茶髪のウィッグをかぶせられ、『せっかくだから』という謎の理由でメイクまで施されていた。
危うくスカートまで履かされそうになったが、さすがにそれは、「ファミレスで座っていたら見えないですよね?」と言って全力で回避した。
「ゆかりも朝飯まだって言ってたよな。モーニングセット頼む?」
紫己の『紫』を取って『ゆかり』。
仮名を呼ぶ声までもが、自分が女子なら勘違いしてしまいそうなほどに甘い。
「ぼ……、わ、わたくしは、カフェラテがよろしくてよ」
佐久良と違って全く役に入りこめていない紫己は、目を泳がせ、妙な日本語になってしまった。
槇村もまだ現れていないのだから演技をする必要はないのだろうが、「事前に慣れておいたほうがいい」という理由で、秦の家を出た時から女性の言葉を喋らされている。
佐久良はしばらく頬をニヤつかせていたが、店員が水を運んでくると、笑みを消して自分の分のモーニングセットと紫己のカフェラテを注文した。
しかし、店員がいなくなるとすぐに、内緒話のていで顔を寄せてくる。
「薫子さんはどう?」
紫己は店の奥の天井付近に視線を移した。
「秦先輩の周りをぐるぐるしてる。先輩のことを心配してる感じで、今のところ、あまり物騒なオーラはなさそうだけど……」
憑りつかれて体の自由を奪われた一昨日以降、薫子の気配は紫己の近くにあった。学校で槇村と鉢合わせしたときほど鬼気迫るものはなく、なるべく同調しないよう意識していれば、やり過ごせる程度のものだった。それも、厄除けの護符が家の数か所に貼ってあるおかげか、自宅にいる間はほとんど気にならなかった。
「先生、来たみたい」
ふいにイヤホンから声が聞こえてきて、紫己は身を固くした。
佐久良がお尻の位置をずらし、体を密着させてくる。
腕を伸ばし、紫己の頭を抱き込むようにして横髪を撫で始めた。傍目には、片時も離れたくないカップルが、寄り添いながらスマホの画面を一緒に覗き込んでいるように見えるだろう。
ウィッグだから地肌のくすぐったさはないが、朝からシャワーを浴びてきたのか、佐久良が学校にいる時よりいい匂いがするし、柔道で鍛えたたくましい腕や肩を意識してしまって、どうにも身の置きどころに困る。
無理やり意識を秦のほうへ向けると、一人の男が店の奥へと進み、秦の前に腰を下ろすのが見えた。こちらに背を向けていたが、背格好から槇村に違いなかった。
髪を撫でていた手が離れていき、ようやく普通に息ができるようになる。そのタイミングでモーニングセットとカフェラテが運ばれてきて、佐久良は何事もなかったかのようにトーストを手に取った。


