秦の隣でベンチに座っていた紫己は、彼女がぽつりぽつりと搾り出す言葉に、ただ耳を傾けた。
秦が中3に上がる年に槇村が大学を卒業したため、家庭教師は槇村の後輩に引き継がれたが、その後も彼とは連絡を取り合っていて、受験勉強の相談にも乗ってもらっていたらしい。合格のお祝いに何が欲しいか聞かれ、秦は一緒に遊園地に行きたいと答えた。家庭教師を引き継いだ女子学生も一緒で、親の許可ももらえるならいいよ、という返事で、三人で遊びに行った。秦は槇村に彼女がいないと知り、その日、駅で解散したあと、槇村の後をつけて住んでいるマンションを特定したそうだ。
それ以降、高校入学後も、「人間関係や将来のことで相談したい」という理由を建前にしてマンションの入り口で待ち伏せし、外で話すほうが人の目があるからと家に上げてもらえるようになった。
「先生を困らせているってわかってたけど……拒絶されないってことは脈があるかもって思っちゃって……。先生、『相談なら学校の相談室で聞くよ』って言いながらも、私が部屋に行くと、お茶を煎れてくれたりお香を焚いたりして、いつも優しくしてくれていたから……」
「お香?」
質問を挟んだのは佐久良だ。
紫己もつられて彼女の横顔へと視線を向ける。
「甘くて……ちょっと植物系? 草っぽい感じもするかな」
花房の手から香ったハンドクリームの匂いを思い出した。オーガニック製品で麻の実オイルが入っていると花房が言っていた。あれに近い匂いだろうか……。
「いい匂いで気分がふわふわして……。ちょっと大胆というか、甘えたい気分になっちゃうの。たぶんそれもあって、16歳の誕生日プレゼントに何がいいか聞かれたとき、私、キスしてほしいって答えて……」
思いのほか赤裸々な話になってしまい、それ以上彼女の顔を見ることができずに、視線を泳がせる。
「最初はね。卒業するまで待ってって言われたの。でも、私が『待てない』って言って、ソファに座ってた先生の膝に乗り上げて、無理やり……」
「そういうのは、無理やりとは言いません」
佐久良が毅然とした口調で話を遮った。
「俺も、好きな相手にそこまでされて我慢できるかは自信がありませんが、教師と生徒の関係を保ちたかったのなら、貴方を家に上げるべきではありませんでした。貴方を自宅に上げて二人きりになっている時点で、責任は先生のほうにあります」
秦はつぶらな瞳を軽く見開き、直後、口元に自嘲の滲む笑みを浮かべた。
「それ、あの人も似たようなこといつも言ってた。拒めなかった僕が悪いんだって。だから……、学園の理事長から孫娘との縁談を持ちかけられて、立場上、断れないって言われたときも、あの人の性格上、そうだろうなと思った……」
彼女は一度唇を引き結び、膝の上で組んだ両手へと視線を俯かせる。
「形ばかりの結婚だし、理事長も75歳を超えていて次の再任はないだろうと言われている。結婚後は奥さんに自由に遊んでもらって、誰か好きな相手ができたら向こうから離婚してもらうつもりって言われて、それを信じたの。私も今年は受験生だから、卒業までは二人で会うのは我慢してほしいって言われて、一応は納得したんだけど……。どうしても、このまま先生とのこと終わりにしたくなかったから……、私、先生を脅したの」
話が核心に迫ろうとしている気配を感じ取り、固唾を飲んで彼女の横顔を見つめる。
「写真や動画は一枚も撮らせてくれなかったから……。先生と付き合っていることを形に残したくて、こっそり録音アプリで音声だけは録音していたの。それを使って、もし、卒業した後も二人で会ってくれなかったら、その音声を学校や奥さんにバラすからって言って……」
「音声? ってなんの音声ですか?」
紫己が小首を傾げると、「馬鹿。待て」と佐久良から飛んできた。同時に、秦の声が重なる。
「それはもちろん、ヤッてる最中のやつよ。私のこと、可愛いとか好きとか、いっぱい言ってくれてるやつ」
みるみる顔が熱を持っていくのがわかる。
「こいつそういうのに免疫ないんで、オブラートに包んでください」
さも自分は免疫がありそうな佐久良の口調にちょっとムッとするが、顔色を見れば動じていないことは一目瞭然なので、何も言えない。
「これでもかなりオブラートでしょ」
心外といった顔をした秦に、佐久良が表情を変えず言葉を続ける。
「それで、その音声データが失くなったということですか」
秦は苦いものを噛みしめるように頷いた。
「貴方たちに、薫子は自分で転んだんじゃなく、誰かに襲われていたかもって聞かされたとき、もしかしたらって思ったの。でも、先生がそんなことするはずないと思い込みたくて……。その可能性から目を背けていたの。でも、気づいたら、授業中も廊下ですれ違うときも、先生が全然目を合わせてくれなくなっていて……。不安になってアプリを開いたら、保存していたはずのデータも先生の連絡先もトーク履歴も消えていたの」
ところどころ声を震わせながら話し終えると、秦は濡れた目元を手の甲で拭った。
一昨日と昨日、彼女が学校を休んでいたのもそのせいかと思った。
「体育のときは更衣室にスマホを置いてるから、たぶんその間にデータを削除されたんだと思う。PINナンバー、自分の誕生日にしてたから、先生ならわかるし」
「槇村先生が更衣室に忍び込んだということですか?」
授業中は更衣室付近は無人になるとは言え、俄かには信じがたい話に、紫己は思わず顔をしかめた。
「今は先輩が音声で脅したときとは話が違ってる。それが明らかになったら薫子さんの殺害容疑までかかるんだから、それくらいするだろ。先輩はその音声、全部聞きました?」
秦は唇を噛みしめたまま、首を横に振った。
「最初のほうの、先生がよく喋ってる部分だけは。途中からは自分の声が恥ずかしくなって……。先生に聞かせたのも、最初のほうだけ」
そんな話を聞いただけでも紫己などは赤面がぶり返してくるのに、佐久良は小難しい顔を崩さない。
「ちょっと兄貴に電話してくる」
そう言ってスマホを操作しながらその場を離れた。
「私……本当最低だよね……。私が先生を脅さなかったら薫子も死ななかっただろうし、貴方たちに薫子が襲われていた話を聞いた時点で警察に行ってたら、データも消されずにすんだのに……」
鼻を啜りながら絞り出される言葉に、胸が痛んだ。
恋愛未経験の紫己には、好きな人を信じたかった気持ちも、裏切られたショックも、100%は理解できない。どう言葉をかけてよいかわからず、佐久良ならどう答えるだろうと考えた。
一度深く深呼吸し、口を開く。
「槇村先生が薫子さんを襲った犯人だとして……、それは秦先輩のせいではありません。襲うことを決めたのは先生だし、救急車を呼ばなかったのも先生です。昨日……、薫子さんに憑りつかれている間に、また少しだけ彼女の記憶を読み取ったんです。階段から落ちて彼女が意識を失くす直前……、犯人が『茉莉花じゃない』と呟いたんです。だから、薫子さんは亡くなった後もずっと、先輩から離れなかったんだと思います」
紫己は尻の位置をずらして体の向きを変え、秦の顔を正面に捉えた。
「今の薫子さんの中には、犯人に対する深い憎悪があります。先生のことを殺したいと思っている。でもそれは、先生を殺さないと、今度は貴方が危ない目に遭うと思っているからなんです。どうすれば薫子さんが諦めてくれるかはわかりませんが……、そのことだけは先輩に伝えておきたくて……。ただの自己満足ですみません」
その瞬間、乾いていた秦の瞼に、また大粒の涙が込み上げてきた。
「あの子……。頭いいのに、そういうところ、本当馬鹿よね……」
ハンカチに顔をうずめ、ただ嗚咽を漏らすことしかできなくなった彼女の背をそっとさする。
「付き合っていた証拠がなくても……警察は先生のこと調べてくれるかな……」
独り言のような彼女の問いに返答できないでいると、離れたところで電話をかけていた佐久良が戻ってきた。
「先輩、ちょっとスマホを借りてもいいですか? 兄貴の話では、アプリやクラウドのデータを削除した場合でも、バックアップフォルダや音声アプリの専用領域に保存されている可能性もあるみたいなんです。先輩のクラスで、勝手にデータが飛ばされたり、アプリがアップロードされたりする不具合が多発してたみたいだから、どこかに残ってるかもしれない。そうでなくても、警察なら復元できる可能性もあるらしい」
ハンカチに顔をうずめていた秦が、おずおずと顔を上げる。
言葉を反芻するように濡れた瞳を揺らしていた彼女は、やがて何かを決意するように、ゆっくりと瞬きした。
「音声データが復活してもしなくても、私の知ってることを警察で話そうとは思ってる。でもその前に……、もう一度だけ……先生と話がしたい」
秦が中3に上がる年に槇村が大学を卒業したため、家庭教師は槇村の後輩に引き継がれたが、その後も彼とは連絡を取り合っていて、受験勉強の相談にも乗ってもらっていたらしい。合格のお祝いに何が欲しいか聞かれ、秦は一緒に遊園地に行きたいと答えた。家庭教師を引き継いだ女子学生も一緒で、親の許可ももらえるならいいよ、という返事で、三人で遊びに行った。秦は槇村に彼女がいないと知り、その日、駅で解散したあと、槇村の後をつけて住んでいるマンションを特定したそうだ。
それ以降、高校入学後も、「人間関係や将来のことで相談したい」という理由を建前にしてマンションの入り口で待ち伏せし、外で話すほうが人の目があるからと家に上げてもらえるようになった。
「先生を困らせているってわかってたけど……拒絶されないってことは脈があるかもって思っちゃって……。先生、『相談なら学校の相談室で聞くよ』って言いながらも、私が部屋に行くと、お茶を煎れてくれたりお香を焚いたりして、いつも優しくしてくれていたから……」
「お香?」
質問を挟んだのは佐久良だ。
紫己もつられて彼女の横顔へと視線を向ける。
「甘くて……ちょっと植物系? 草っぽい感じもするかな」
花房の手から香ったハンドクリームの匂いを思い出した。オーガニック製品で麻の実オイルが入っていると花房が言っていた。あれに近い匂いだろうか……。
「いい匂いで気分がふわふわして……。ちょっと大胆というか、甘えたい気分になっちゃうの。たぶんそれもあって、16歳の誕生日プレゼントに何がいいか聞かれたとき、私、キスしてほしいって答えて……」
思いのほか赤裸々な話になってしまい、それ以上彼女の顔を見ることができずに、視線を泳がせる。
「最初はね。卒業するまで待ってって言われたの。でも、私が『待てない』って言って、ソファに座ってた先生の膝に乗り上げて、無理やり……」
「そういうのは、無理やりとは言いません」
佐久良が毅然とした口調で話を遮った。
「俺も、好きな相手にそこまでされて我慢できるかは自信がありませんが、教師と生徒の関係を保ちたかったのなら、貴方を家に上げるべきではありませんでした。貴方を自宅に上げて二人きりになっている時点で、責任は先生のほうにあります」
秦はつぶらな瞳を軽く見開き、直後、口元に自嘲の滲む笑みを浮かべた。
「それ、あの人も似たようなこといつも言ってた。拒めなかった僕が悪いんだって。だから……、学園の理事長から孫娘との縁談を持ちかけられて、立場上、断れないって言われたときも、あの人の性格上、そうだろうなと思った……」
彼女は一度唇を引き結び、膝の上で組んだ両手へと視線を俯かせる。
「形ばかりの結婚だし、理事長も75歳を超えていて次の再任はないだろうと言われている。結婚後は奥さんに自由に遊んでもらって、誰か好きな相手ができたら向こうから離婚してもらうつもりって言われて、それを信じたの。私も今年は受験生だから、卒業までは二人で会うのは我慢してほしいって言われて、一応は納得したんだけど……。どうしても、このまま先生とのこと終わりにしたくなかったから……、私、先生を脅したの」
話が核心に迫ろうとしている気配を感じ取り、固唾を飲んで彼女の横顔を見つめる。
「写真や動画は一枚も撮らせてくれなかったから……。先生と付き合っていることを形に残したくて、こっそり録音アプリで音声だけは録音していたの。それを使って、もし、卒業した後も二人で会ってくれなかったら、その音声を学校や奥さんにバラすからって言って……」
「音声? ってなんの音声ですか?」
紫己が小首を傾げると、「馬鹿。待て」と佐久良から飛んできた。同時に、秦の声が重なる。
「それはもちろん、ヤッてる最中のやつよ。私のこと、可愛いとか好きとか、いっぱい言ってくれてるやつ」
みるみる顔が熱を持っていくのがわかる。
「こいつそういうのに免疫ないんで、オブラートに包んでください」
さも自分は免疫がありそうな佐久良の口調にちょっとムッとするが、顔色を見れば動じていないことは一目瞭然なので、何も言えない。
「これでもかなりオブラートでしょ」
心外といった顔をした秦に、佐久良が表情を変えず言葉を続ける。
「それで、その音声データが失くなったということですか」
秦は苦いものを噛みしめるように頷いた。
「貴方たちに、薫子は自分で転んだんじゃなく、誰かに襲われていたかもって聞かされたとき、もしかしたらって思ったの。でも、先生がそんなことするはずないと思い込みたくて……。その可能性から目を背けていたの。でも、気づいたら、授業中も廊下ですれ違うときも、先生が全然目を合わせてくれなくなっていて……。不安になってアプリを開いたら、保存していたはずのデータも先生の連絡先もトーク履歴も消えていたの」
ところどころ声を震わせながら話し終えると、秦は濡れた目元を手の甲で拭った。
一昨日と昨日、彼女が学校を休んでいたのもそのせいかと思った。
「体育のときは更衣室にスマホを置いてるから、たぶんその間にデータを削除されたんだと思う。PINナンバー、自分の誕生日にしてたから、先生ならわかるし」
「槇村先生が更衣室に忍び込んだということですか?」
授業中は更衣室付近は無人になるとは言え、俄かには信じがたい話に、紫己は思わず顔をしかめた。
「今は先輩が音声で脅したときとは話が違ってる。それが明らかになったら薫子さんの殺害容疑までかかるんだから、それくらいするだろ。先輩はその音声、全部聞きました?」
秦は唇を噛みしめたまま、首を横に振った。
「最初のほうの、先生がよく喋ってる部分だけは。途中からは自分の声が恥ずかしくなって……。先生に聞かせたのも、最初のほうだけ」
そんな話を聞いただけでも紫己などは赤面がぶり返してくるのに、佐久良は小難しい顔を崩さない。
「ちょっと兄貴に電話してくる」
そう言ってスマホを操作しながらその場を離れた。
「私……本当最低だよね……。私が先生を脅さなかったら薫子も死ななかっただろうし、貴方たちに薫子が襲われていた話を聞いた時点で警察に行ってたら、データも消されずにすんだのに……」
鼻を啜りながら絞り出される言葉に、胸が痛んだ。
恋愛未経験の紫己には、好きな人を信じたかった気持ちも、裏切られたショックも、100%は理解できない。どう言葉をかけてよいかわからず、佐久良ならどう答えるだろうと考えた。
一度深く深呼吸し、口を開く。
「槇村先生が薫子さんを襲った犯人だとして……、それは秦先輩のせいではありません。襲うことを決めたのは先生だし、救急車を呼ばなかったのも先生です。昨日……、薫子さんに憑りつかれている間に、また少しだけ彼女の記憶を読み取ったんです。階段から落ちて彼女が意識を失くす直前……、犯人が『茉莉花じゃない』と呟いたんです。だから、薫子さんは亡くなった後もずっと、先輩から離れなかったんだと思います」
紫己は尻の位置をずらして体の向きを変え、秦の顔を正面に捉えた。
「今の薫子さんの中には、犯人に対する深い憎悪があります。先生のことを殺したいと思っている。でもそれは、先生を殺さないと、今度は貴方が危ない目に遭うと思っているからなんです。どうすれば薫子さんが諦めてくれるかはわかりませんが……、そのことだけは先輩に伝えておきたくて……。ただの自己満足ですみません」
その瞬間、乾いていた秦の瞼に、また大粒の涙が込み上げてきた。
「あの子……。頭いいのに、そういうところ、本当馬鹿よね……」
ハンカチに顔をうずめ、ただ嗚咽を漏らすことしかできなくなった彼女の背をそっとさする。
「付き合っていた証拠がなくても……警察は先生のこと調べてくれるかな……」
独り言のような彼女の問いに返答できないでいると、離れたところで電話をかけていた佐久良が戻ってきた。
「先輩、ちょっとスマホを借りてもいいですか? 兄貴の話では、アプリやクラウドのデータを削除した場合でも、バックアップフォルダや音声アプリの専用領域に保存されている可能性もあるみたいなんです。先輩のクラスで、勝手にデータが飛ばされたり、アプリがアップロードされたりする不具合が多発してたみたいだから、どこかに残ってるかもしれない。そうでなくても、警察なら復元できる可能性もあるらしい」
ハンカチに顔をうずめていた秦が、おずおずと顔を上げる。
言葉を反芻するように濡れた瞳を揺らしていた彼女は、やがて何かを決意するように、ゆっくりと瞬きした。
「音声データが復活してもしなくても、私の知ってることを警察で話そうとは思ってる。でもその前に……、もう一度だけ……先生と話がしたい」


