それでは、お先にごきげんよう

 深い眠りから目を覚ましたとき、ぼんやりとした視界に映ったのは、心配そうに覗き込む佐久良と父の顔だった。
 薫子に体の自由を奪われ、槇村を線路に突き落とす寸前で佐久良に止められた紫己は、その後、駅の医務室で二時間近く眠っていたらしい。薫子の気配は、もう自分の中には感じられなかった。

 父がいることに驚いた紫己に、佐久良が担任を通じて連絡したことを説明してくれた。
 紫己も佐久良も、ホームルームをサボって学校を抜け出している。家族に連絡したほうが、教師から詳しい事情を聞かれずに済むと判断したようだ。

 佐久良も父も、紫己の身に何が起きたのか、大方は察しているようだった。
 父は紫己の意識が戻ったことを担任に連絡するために一度席を外し、その間に佐久良が経緯を話してくれた。

 ホームルームの時間になっても紫己が教室にいなかったことから、花房と話しながら廊下を歩いているところを見ていたクラスメイトが、担任にそのことを伝えたらしい。それを聞き、佐久良は事情も説明せずに教室を飛び出したという。

 彼は職員室の花房の元へ行き、紫己が槇村と鉢合わせしたことや、その後、急に反応が鈍くなり、槇村の後を追うように帰って行ったことを聞いた。その時点で紫己の身に何が起こったかピンときて、そのまま駅に向かったそうだ。
 二人分の通学鞄を駅まで届けてくれたのは上野だった。

「先生は?」

「俺がお前を引き留めてすぐに電車が来たんだ。先生が振り返ったときにはお前は意識を失くす寸前だったから、単に具合が悪くなって倒れたと思ったんじゃないかな。驚いてはいたけど、『こいつ貧血でよく倒れるんです。あとは俺が引き受けます』って言ったら、『急いでいるから、お願い』つってそのまま電車に乗って行った」

 たとえ薫子に体を乗っ取られていたとしても、それを証明する術はない。万が一、槇村を線路に突き落としていたらと考えると、今さらながらに背筋が冷えた。

「佐久良……。また迷惑かけてごめん。本当にありがとう」

 佐久良は何も言わず、優しく双眸をたわめ、頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「思い出したんだ……。薫子さんを襲った犯人の左手首に、手術の痕みたいな傷痕があった。槇村先生にも同じ傷があって、それで薫子さんも思い出したみたい。そのことや今回読み取った薫子さんの思いは……、できれば秦先輩に伝えたい。でも……」

 言い淀み、一度言葉を切る。

「これ以上は、ただ追い打ちをかけるだけかもしれない」

 槇村に容疑がかかれば、監視カメラやドライブレコーダーの映像でも重点的に見てもらえるだろう。そのためには、秦に証言を決意してもらう必要があった。槇村先生を調べてほしいと自分たちが言ったところで、疑う理由がなければ警察は動いてくれない。
 ただ、すでに秦には、狙われたのが彼女かもしれないことと、スマホを奪うことが目的だった可能性は伝えてある。心当たりがあるのなら、彼女の中でも容疑者はほぼ固まっているはずだ。

「……霊の記憶や思いを伝えることは……すごく傲慢なことなんだろうね」

 心配そうに覗き込んでいた切れ長の目が、わずかに揺れた。
 
 霊園で生き霊の声に引き寄せられたときは、店長の思いを伝えなければと思った。あのときはそれで上手くいったけど、未練を残して亡くなった人たち全員が、思いを伝えたかったわけではないだろう。中には、言いたいことがあっても、言わないと決めていた人だっているはずだ。それを勝手に読み取り、本来聞くはずのなかった人たちに伝えることは、とても傲慢なことではないかと、今回初めて気づいてしまった。

「たしかに……、読み取ったものが正しいという保証はないし……、伝えたところで、傷に塩を塗ることになるのかもしれない」

 考え込むように宙を睨んでいた視線が、再び紫己へと定められる。

「でも……、霊の記憶や思念を読み取れるってことはさ。その人の中に、死んでもなお誰かに伝えたい気持ちが残っていたってことだと思うんだよな……。俺だったら、もし大切な人が亡くなって、そんな思いを抱えたままさ迷っているのなら、それが何であれ知りたいと思う」

 霊視するときと同じだった。
 目をくらませていた迷いや不安が、佐久良の言葉によって、霧が晴れるようにサーっと遠ざかっていく。

 ずっと思っていた。
 きっとお母さんは、この世に留まり、人の形を失った姿を、紫己には見られたくなかったに違いない。「みーんなお母さんが懲らしめてあげる」なんて言う母親になりたくなかったに違いない。
 自分が見えてしまうせいで、母親としての誇りを傷つけてしまったのではないかと。

 でも、もしかしたらそれは全て、自分の心の奥底にあるものが言わせてしまっていたのかもしれない。
 これからもずっと、傍にいてほしい。僕をいじめる子は、みんな懲らしめてほしい。そんな思いが。

 孤独な時間が、愛情を少しだけ歪な形にしてしまったけれども。

『紫己のことは、これからもずっと、お母さんが守ってあげる。お母さんがいれば、紫己は誰よりも強い子になれるのよ』

 あの言葉で母が言いたかったのは、きっと。

『お母さんは、これからもずっと見守っているから。強い子になるのよ』

 そういうことだったのではないか――。

 長年、胸の奥で疼いていた棘のようなものが抜け、じんわりと温もりが広がっていく。
 なんだか目頭まで熱くなってきて、紫己は毛布を額まで引き上げた。

「また眠くなった?」

 毛布の上からぽんぽんと胸を叩く手は優しく、何もかも見透かされているようだった。

 佐久良が僕にとってのアースなら、僕は佐久良の何になれるのだろう。
 あたたかな暗闇の中で、せり上がってくるものをやり過ごしながら、そんなことを考えていた。


 その日の夜、再び秦にメッセージを送った。

『槇村先生のことでお話したいことがあります』というメッセージに、彼女はようやく返信をくれて、翌日の土曜日に会う約束を取り付けた。

 指定された自宅近くの公園に現れた彼女は、一週間前と比べて、やつれて見えた。
 霊視で見た犯人の左手首に手術痕があったことを説明しても、彼女は全く動じなかった。
 
「……それで、私にどうしろと言うの?」

 佐久良と顔を見合わせると、彼が「あとは俺が……」というように頷いてみせた。

「もし、先輩が槇村先生と特別な関係にあって、スマホに先生にとって不都合なデータが残っていたとしたら、薫子さんを襲った犯人も槇村先生の可能性が高い。それを警察で証言してほしいんです。秦先輩に槇村先生から襲われる理由があるのなら、先輩と薫子さんを取り違えた可能性を考えて、先生に捜査の目が向くはずです」

「無理よ」

 彼女はベンチの前に立つ佐久良を睨みつけたまま、一蹴した。
 けれど、その鋭い眼差しは、すぐに力なく眉尻を下げる。

「無理なの……。あの人と付き合っていた証拠、もう何も残ってないのよ……」