夢を見ているのだと思った。
意識の奥底に閉じ込められたような思考力で、今見ているものが現実のものでないことはぼんやりとわかる。
そのなけなしの鈍い理性が、今すぐ目を覚ませと警鐘を鳴らしている。
理由の分からない焦燥に駆られながらも、どうすれば目が覚めるのかもわからなかった。
『……みんながお母さんの話をするから……、僕も、僕のお母さんもたくさんお話してくれるし、夜も一緒に寝てくれるって言ったんだ。そうしたら、みさき君が僕のこと嘘つきって言って……。教科書や机にも、嘘つきって書かれたんだ……」
しゃくりあげながら話しているのは子供の自分で、話している内容にも覚えがあった。
ほとんど思い出せなくなった子供時代の中で、数少なく鮮明に覚えている記憶の一つ。
抱きしめている母の体は冷たく、ドライアイスが気化していくように、輪郭があやふやで、体からふよふよと蒸気のようなものが立ち昇っている。
『大丈夫よ。お母さんが懲らしめてあげるから』
優しげなのに。どこか仄暗さを感じる声に不安を覚え、顔を上げる。
『紫己のことは、これからもずっと、お母さんが守ってあげる。紫己をいじめる子も紫己が嫌いな子も、みーんなお母さんが懲らしめてあげるから。お母さんがいれば、紫己は誰よりも強い子になれるのよ』
ノイズがかかったように歪みながら、頭の中に直接声が響く。
そう言う母の顔は、目も口も鼻も、肌色の絵の具で塗りつぶされたように、のっぺらぼうだった。
いつからだろう。徐々に母の姿が曖昧になり、他の人たちとは違う姿かたちになっていった。
それでも、その異形をお母さんだと思い込み続けたのは、母じゃないと認めることは、母がいなくなったことを認めることだったから。
何か……お母さんに言いたいことがあったはずなのに。結局はあのときと同じように、目の前の現実から逃れるように、思考が麻痺していく。
意識が暗闇に沈んでいく中で、誰かの怨嗟を聞いた気がした。
――コロ、ス……。
コロス……、コロス、コロス、コロスコロスコロスコロスコロスコロス。
あいつを、コロス――――。
最初は、それが誰の声かはわからなかった。
ぼんやりとした頭でも、その人を止めなければいけないことはわかる。
けれど、暗い夜の海を泳いでいるようで、必死に手足をばたつかせても、一向に出口が見えてこなかった。
目を覚ますことは諦めて、意識を怨嗟へと同調させる。
いつもの霊視と一緒だ。
なるべく思考を「無」にして、自分の中に渦巻く負の感情へと自分を明け渡す。
――コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス。
ひっきりなしに吐き出される殺意は、まるで慟哭のようでもあった。
その思いの激しさに、内側から圧し潰されるような息苦しさを覚える。
ただ、そこに混じる不安や悲しみに手を伸ばせば、わずかな光が見えた気がした。その光へと、意識を集中させる。
――あいつを、殺す。殺さないと、次はあの子が――。
その瞬間、霧が晴れるように、暗闇が後ろへと流れ、視界が明るくなった。
見慣れた景色は、いつも利用している学校の最寄り駅だった。
ICカードをかざして改札を抜けホームへと向かっているのは、たしかに自分なのに。自分で手足を動かしている感覚はなかった。
視線の先は、ずっと一人の男性の後ろ姿に固定されている。
男性は階段を上りきり、人の並んでいなかった乗り場に立った。帰宅時間には早いのか、ホームには人がまばらだった。
自分の体は、彼から離れた自動販売機に立ち、様子を窺っている。しばらくして電車の走る音が聞こえてきた。それを合図に、体が動き出す。
線路の奥に、ホームへと入ってくる電車が現れる。
忍び足で男へと近づいていく。自分が何をしようとしているかを察し、ぞっとした。
けれど体は、紫己の意志に反して、総毛立つこともなければ止まることもない。
――駄目だ! 薫子さん、やめて!
必死の叫びも彼女に届くことはなく、残り5メートルほどになったところで、急に体が走り出した。
電車はもうすぐ傍まで迫っている。
電車の音で足音に気づかないのか、男――槇村は振り返りもしない。
両手が前方へと上がり、次に起こることを覚悟したとき――。
「八神!」
声と同時に、急に体が後ろへと引っ張られた。
もんどり返るようにして、背後へとひっくり返る。
尻もちをついたはずなのに、ほとんど痛くはなかった。下敷きになってくれた人がいたから。
「八神、大丈夫か?」
後ろから抱き留めたまま心配そうに覗き込まれ、ぺちぺちと軽く頬を叩かれる。
その瞬間、自分の中に飽和していた彼女の意識や怨念が、すーっと洗い流されていく感覚がした。
「さ、くら……」
以前、彼が自分のことを「アース」と言っていた意味を、身をもって体験した気がした。
「ぼ、ぼく……」
今頃になって体が震えてきて、カチカチと歯が鳴る。
「先生は無事だ。もう大丈夫だから。今は休め」
熱いものが込み上げてきて、頬へと伝う。
それは彼女の悔し涙か、自分の安堵の涙か。答えが出るより先に、再び意識を手離していた。
意識の奥底に閉じ込められたような思考力で、今見ているものが現実のものでないことはぼんやりとわかる。
そのなけなしの鈍い理性が、今すぐ目を覚ませと警鐘を鳴らしている。
理由の分からない焦燥に駆られながらも、どうすれば目が覚めるのかもわからなかった。
『……みんながお母さんの話をするから……、僕も、僕のお母さんもたくさんお話してくれるし、夜も一緒に寝てくれるって言ったんだ。そうしたら、みさき君が僕のこと嘘つきって言って……。教科書や机にも、嘘つきって書かれたんだ……」
しゃくりあげながら話しているのは子供の自分で、話している内容にも覚えがあった。
ほとんど思い出せなくなった子供時代の中で、数少なく鮮明に覚えている記憶の一つ。
抱きしめている母の体は冷たく、ドライアイスが気化していくように、輪郭があやふやで、体からふよふよと蒸気のようなものが立ち昇っている。
『大丈夫よ。お母さんが懲らしめてあげるから』
優しげなのに。どこか仄暗さを感じる声に不安を覚え、顔を上げる。
『紫己のことは、これからもずっと、お母さんが守ってあげる。紫己をいじめる子も紫己が嫌いな子も、みーんなお母さんが懲らしめてあげるから。お母さんがいれば、紫己は誰よりも強い子になれるのよ』
ノイズがかかったように歪みながら、頭の中に直接声が響く。
そう言う母の顔は、目も口も鼻も、肌色の絵の具で塗りつぶされたように、のっぺらぼうだった。
いつからだろう。徐々に母の姿が曖昧になり、他の人たちとは違う姿かたちになっていった。
それでも、その異形をお母さんだと思い込み続けたのは、母じゃないと認めることは、母がいなくなったことを認めることだったから。
何か……お母さんに言いたいことがあったはずなのに。結局はあのときと同じように、目の前の現実から逃れるように、思考が麻痺していく。
意識が暗闇に沈んでいく中で、誰かの怨嗟を聞いた気がした。
――コロ、ス……。
コロス……、コロス、コロス、コロスコロスコロスコロスコロスコロス。
あいつを、コロス――――。
最初は、それが誰の声かはわからなかった。
ぼんやりとした頭でも、その人を止めなければいけないことはわかる。
けれど、暗い夜の海を泳いでいるようで、必死に手足をばたつかせても、一向に出口が見えてこなかった。
目を覚ますことは諦めて、意識を怨嗟へと同調させる。
いつもの霊視と一緒だ。
なるべく思考を「無」にして、自分の中に渦巻く負の感情へと自分を明け渡す。
――コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス。
ひっきりなしに吐き出される殺意は、まるで慟哭のようでもあった。
その思いの激しさに、内側から圧し潰されるような息苦しさを覚える。
ただ、そこに混じる不安や悲しみに手を伸ばせば、わずかな光が見えた気がした。その光へと、意識を集中させる。
――あいつを、殺す。殺さないと、次はあの子が――。
その瞬間、霧が晴れるように、暗闇が後ろへと流れ、視界が明るくなった。
見慣れた景色は、いつも利用している学校の最寄り駅だった。
ICカードをかざして改札を抜けホームへと向かっているのは、たしかに自分なのに。自分で手足を動かしている感覚はなかった。
視線の先は、ずっと一人の男性の後ろ姿に固定されている。
男性は階段を上りきり、人の並んでいなかった乗り場に立った。帰宅時間には早いのか、ホームには人がまばらだった。
自分の体は、彼から離れた自動販売機に立ち、様子を窺っている。しばらくして電車の走る音が聞こえてきた。それを合図に、体が動き出す。
線路の奥に、ホームへと入ってくる電車が現れる。
忍び足で男へと近づいていく。自分が何をしようとしているかを察し、ぞっとした。
けれど体は、紫己の意志に反して、総毛立つこともなければ止まることもない。
――駄目だ! 薫子さん、やめて!
必死の叫びも彼女に届くことはなく、残り5メートルほどになったところで、急に体が走り出した。
電車はもうすぐ傍まで迫っている。
電車の音で足音に気づかないのか、男――槇村は振り返りもしない。
両手が前方へと上がり、次に起こることを覚悟したとき――。
「八神!」
声と同時に、急に体が後ろへと引っ張られた。
もんどり返るようにして、背後へとひっくり返る。
尻もちをついたはずなのに、ほとんど痛くはなかった。下敷きになってくれた人がいたから。
「八神、大丈夫か?」
後ろから抱き留めたまま心配そうに覗き込まれ、ぺちぺちと軽く頬を叩かれる。
その瞬間、自分の中に飽和していた彼女の意識や怨念が、すーっと洗い流されていく感覚がした。
「さ、くら……」
以前、彼が自分のことを「アース」と言っていた意味を、身をもって体験した気がした。
「ぼ、ぼく……」
今頃になって体が震えてきて、カチカチと歯が鳴る。
「先生は無事だ。もう大丈夫だから。今は休め」
熱いものが込み上げてきて、頬へと伝う。
それは彼女の悔し涙か、自分の安堵の涙か。答えが出るより先に、再び意識を手離していた。


