それでは、お先にごきげんよう

「花房先生」

 声をかけると、前を歩いていた女性教師が足を止め、振り返った。
 身長165センチの紫己より目線は少し下にくる。小首をかしげて不思議そうに見上げてくる仕草はどこかあどけなく、紫己もしゃちほこばった肩の力をほんの少し抜いた。

「あの、すみません……。授業とは関係ないことなんですけど、ちょっとお尋ねしたいことがあって……。職員室に戻るまでの間でいいので、少しお時間いただけますか?」 

「授業とは関係ないこと……」

 彼女は一瞬、戸惑うそぶりを見せたが、すぐに口の端に上品な微笑を滲ませた。

「いいですよ。私でよければお聞きします」
「あ、じゃあ、僕、プリント持ちます」

 彼女の腕には、今日やった分の小テストの束が抱えられている。
 手を差しだしたが、これも教師の仕事のうちだからとやんわりと断られた。
 
 視線で促され、揃って歩き出す。
 肩が触れるほど近くにいても、あの香りはしない。
 もしかしたら先生は関係なく、近くの席の誰かから漂ってきたのかもしれない。徐々にそんなふうに思えてきて後悔し始めたが、声をかけた手前、今さら引くにも引けない。
 質問を待つ花房のやわらかな雰囲気に背中を押され、意を決して話を切り出した。

「すみません。かなり……不躾な質問だということはわかっていますが……。さっきテストを返されたとき、先生から何かいい匂い……ハーブみたいな香りがしたんです。香水とはちょっと違う感じだったから、ポプリの移り香でしょうか……。とてもいい香りだったので、今度、母の誕生日にプレゼントしたくて……。もしよければ、どこで買えるか教えてもらえませんか?」

 喋りながら、こんな生徒嫌だなと自分で自分に引いてしまう。手八丁口八丁な佐久良の偉大さを身に沁みて感じた。
 話しているうちに廊下の突き当りまで来ていて、左に折れ、階段を上って行く。職員室は2階の渡り廊下を渡った先の管理棟にある。

 花房は引いている様子もなく、柔和な微笑みを崩さなかった。

「あぁ、それはポプリではなくハンドクリームよ。八神君、鼻がいいのね」

 周りに他の生徒がいなくなったからか、口調は授業中よりくだけていて、呼び方も「さん」付けから「君」付けに変わっている。

「ハンドクリーム?」

 意外そうな顔を向けると、彼女ははにかむように肩を揺らした。

「お付き合いしている方が匂いのキツい化粧品は苦手なの。だから私も香水は使っていないのよ。ハンドクリームがオーガニック系だから、その匂いじゃないかしら」

「お付き合いしている方」という言葉に、紫己の胸にさざ波が立つ。
 紫己がそっと視線を逸らしたことに気を留める様子もなく、彼女は得意げに言葉を重ねる。

「そのハンドクリームも(あさひ)さん……婚約者からのプレゼントなのよ。ヒペリカムガーデンという、オーガニック製品を扱っている会社のものなの。麻の実オイルが入っていてリラックス効果もあって、今はもうこれ以外使えなくなっちゃった。プレゼントしたら、お母様もお喜びになるわよ。職員室にあるから、一度自分で試してみたら?」

 どこかで嗅いだ覚えのある匂い。その匂いの元かもしれないハンドクリームをプレゼントしたのが槇村だという。

 秦の中学の頃の家庭教師が槇村かもしれないとわかって以降、一つの可能性がずっと頭の中にあった。
 かと言って今はまだ、その考えを突き詰める勇気はなく、苦々しさに蓋をして花房へと視線を戻す。

「ヒペリカムガーデン……。初めて聞きました」
「広告宣伝はほとんどしていないみたいね。私も、頂いて初めて知ったわ」
「あの……、婚約者って槇村先生のことですよね? 槇村先生は、どうしてそんな……宣伝もされていないハンドクリームに詳しいんですか?」

 少し踏み込みすぎだろうか――。何でもないふうを装いながら、内心ではノミの心臓がばくばくしている。

 2階の踊り場まで上がり、そこから管理棟へと繋がる渡り廊下へと折れる。
 他に人のいない渡り廊下に、花房の弾んだソプラノが響く。

「『未央(びよう)(その)』ってご存知かしら? 未来の『未』に中央の『央』で『びよう』。宗教団体だそうよ。槇村先生はオーガニック信仰に興味があって、学生の頃からセミナーに参加していたそうなの。ヒペリカムガーデンはその『未央の苑』の協力企業で、セミナーでも商品が販売されていたそうよ」

「宗教団体……」

 胸の内で呟いたつもりが、気づけば声に出てしまっていた。
 花房が慌てて言い添える。

「宗教団体といっても、怪しいところじゃないのよ。槇村先生のように、他者との調和や自然との共生を目指す思想に共感して、入信しなくてもセミナーだけ参加する人も多いそうよ。意外とうちの学園の生徒のご家族や卒業生にも信者が多いの」

 紫己の顔を下から覗き込むようにして懸命に喋っていたせいで、彼女は前を見ていなかった。
 渡り廊下を渡った先にある職員室が目と鼻の先にきたとき、ふいにその入り口の扉が開き、人が出てきた。

「あっ、先生!」

 危ない、と言うより先に、彼女は出てきた男性とぶつかっていた。

「キャッ!」
「おっと」

 男性が避けきれずに彼女を抱き止めた格好になり、ぶつかった衝撃はほとんどなさそうだった。ただ、彼女が腕に抱えていたプリントの半分ほどがひらひらと宙に舞う。
 紫己は慌ててしゃがみこみ、プリントに手を伸ばした。

「なんだ君か。相変わらずだな」
「あらやだ。ごめんなさい。話していて前を向いてなかったのよ。早引き? 体調でも悪いの?」

 職員室から出てきたということは、当然、彼も教師のはず。帰るところなのか、ブリーフケースを手に、スーツの上着を小脇に抱えていた。花房が「早引き?」と尋ねたのはそのせいだろう。

「夕方、曙ゼミで学校説明会があるって朝礼で言ってたでしょ。6時からだから、早めに出ないと間に合わないんだよ」
「そう言えばそうだったわね」

 頭上から降ってくる会話は随分と親しげで、彼が誰なのか悟った瞬間、紫己の中で暗く淀んだ感情が渦巻きはじめた。
 しゃがみこむ前に目にしたのは、ノンフレームの眼鏡が理知的な雰囲気によく似合う、端整な顔立ちだった。この学園には珍しい若い教師で、花房がタメ口で話すほど親しい相手と言えば、一人しか思いつかない。

 遅れて二人も跪き、プリントを拾い始める。

「八神君にまで迷惑をかけて、ごめんなさいね」
「あ、いえ。もともとは僕が個人的な質問をしたせいなので……」

 加速する心臓の音がドクドクと鼓膜に響き始める。
 彼らの顔を見ることができず、掠れた声でどうにか返した。
 体そのものが鉛になったように重く、プリントを拾い集める自身の動きが、まるでスローモーションのように感じられる。

 覚えのある感覚だった。
 いつのまにかすぐ傍に薫子の気配があり、彼が槇村だと悟ったときから、陰鬱な霊気が全身にねっとりと絡みついていた。

 薫子さんがここに来たということは、やはり槇村先生が自分を襲った犯人だと疑っているからだろうか……。

 しかし、それにしては、(オーラ)が恨みや怒りに振り切れているわけではない。今、彼女を形作っているのは、出口を求めて暗闇でさ迷っているような、不安や焦燥だった。
 ただ、そのほうが、恨み辛みを垂れ流している怨霊よりも、得体の知れない不気味さを感じる。

「個人的な質問? 花房先生が力になれたのかな?」

 控えめに気づかわしげな声を向けられる。
 秦のことがなければ、ただの通りすがりの生徒のことまで気にかけてくれる、優しい先生という印象を抱いただろう。

「そうそう。彼、ヒペリカムガーデンのハンドクリームの匂いが気に入ったんですって。八神君、こちらが、さっき言ってた槇村先生よ」
「なに? 僕のこと噂してたの?」
「どこで買えるか聞かれたから、貴方にもらったことを説明しただけよ」

 話を振られたことはわかる。
 何か返事をしないといけないと思うのに、頭が重く、思考がおぼつかない。
 今にも爆発しそうな苛立ちがぐつぐつと煮え滾っている。
 それが薫子のものか、自分のものかはわからなかった。

「気に入ったのなら、今度サンプル品をもらってこようか? 他の生徒には内緒だけどね」

 すぐ傍で声がし、俯かせた視界の中に手が入ってくる。長袖のシャツを着た男性の手だった。
 わずかに、あの匂いが香り立つ。樹脂っぽい甘さとハーブのような青臭さ。

 ……あ、そうだ……。あれは……。あの匂いを嗅いだのは……。

 プリントを拾った手を追い、顔を左へと向ける。
 鉛のようだった体が、何かに引き寄せられるように、今はすっと動いた。

 拾われたプリントは、左手の中の束へと重ねられる。スーツを腕に抱えているせいか、Yシャツが肘のほうに引っ張り上げられ、手首までが露わになっていた。その手首の内側にあったのは――。

 その瞬間――、ずぶずぶと自分の中に何かが入り込んでくる感覚がした。
 目の前の光景が遠のき、辺りが暗くなる。

 夢と現の狭間のような世界で、見えてきたのは夜の霊園の景色だった。外灯の淡い光と、髪や顔を叩く雨粒。
 いきなり背後から抱きついてきた腕が、右の腰の辺りをまさぐっていた。

 振り払って逃げようにも、恐怖で竦んだ体は思うように動かない。
 口を塞いでいる腕に両手でしがみつき、指先に引っかかった布を全力で引っ張る。するりと何かが引っ張られる感触がした。
 手袋が脱げ、生身の肌に触れる。手首に爪を立て、歯を剥き出しにして掌に噛みつこうとすると、押さえつけていた腕の力が緩んだ。

 体を捻り、腕を振りほどいて駆けだした瞬間、視界の端を掠めたのは――、離れていく男の手だった。左手首の内側にある、手術痕のような傷痕――。

「……見つけた」

 喋ったつもりもないのに。
 自身の口から漏れたぞっとするほど冷ややかな声は、たしかに自分の声だった。