午後の授業は全く集中できていなかった。
秦は、今年のバレンタイン前にフラれたと言っていた。
佐久良が彼女の友人たちに聞いて回ったところによると、秦ははっきりと「彼氏がいる」と断言したことはなかったようだ。ただ、高1の夏休み明け頃から休日の遊びの誘いに乗らなくなり、彼女たちいわく「女の勘」ってやつで「彼氏ができたんじゃないか」ということだった。メイクや物腰が急に大人びてきて、合コンや紹介系も断られていたらしい。
友人の勘が正しければ、秦が「フラれた」と言っていたのは、好きな人に告白したのではなく、付き合っていた相手に別れを告げられた可能性が高い。
それに加えて、昼休みに新たに得られた情報。彼女の好きな相手は中学のときの家庭教師で、今はこの高校の教師かもしれない。
点と点を繋いで得られた仮説に、「まさか」と思う一方で、腑に落ちる部分もあった。犯人にとって何か不都合なデータが彼女のスマホに保存されているとしたら、狙いがスマホだった可能性にも納得がいく。
秦が昨日から学校を休んでいるのも、そのことに気づきショックを受けているのかもと思った。欠席二日目ともなると最悪の事態も脳裏をよぎる。
佐久良が刑事の兄から聞ける範囲で聞いた話では、薫子の転落について、警察もまだ他殺の可能性を完全には捨てておらず、捜査が続いているようだった。だとすると、薫子が犯人と揉みあった際、爪に犯人の皮膚片が付着していた可能性もある。
秦に、何か元カレ(仮)から襲われるような理由があり、その元カレが自分と薫子を取り違えたかもしれないことを証言することができれば、容疑者の行動履歴を追うことで、DNAの照合に持ち込めるかもしれないというのが、佐久良の見立てだ。
ただ、秦の証言なしに、霊視で得た情報と高校生の推理だけで警察を動かすことは難しい。ひとまず秦の顔を見て、彼女の気持ちを確認したかった。
しかし、今のところ、「話だけでも聞いてほしい」と送ったメッセージは全て既読スルーされている。
学校側は生徒の住所を教えてくれないだろうし、霊視した内容を信じてくれるはずもない。同じ小学校だった薫子なら、彼女の家の場所を知っているかもしれない。
もし放課後まで返事が来なかったら、佐久良を説き伏せ、二度目の霊視をしよう。
そう心に決めて臨んだ本日最後の授業は、奇しくも英語だった。
「suggestは、suggest 人 to doの形は取れません。I suggested going there. もしくは、I suggested that he go there.が正しい形です。そこ間違っている人が多かったから、ちゃんと復習して身につけてくださいね」
鈴の鳴るような声で解説を加えながら、英語教師の花房が先週の小テストを返して回っている。
彼女は、萩原いわく「清純派」のおっとりとした和風美人で、いかにもいいところのお嬢様といった雰囲気だ。
そして先週、女子たちが騒いでいた彼女の婚約した相手というのが、三年担当の数学教師である槇村。秦の元家庭教師で、彼女の想い人かもしれない人だった。
「佐久良さん、二人目の満点ですね」
花房の弾んだ声に、パラパラと拍手が上がる。
自分と同じように、彼女に対し複雑な気持ちを抱いているはずの佐久良は、それを臆面にも出さず、いつも通りの軽いノリで「あざーす」と受け取っていた。
自分の列の先頭に花房が立ち、紫己は秘かに身を固くする。
彼女が一人ずつプリントを渡していき、いよいよ自分の番になった。目を合わせて受け取る勇気はなく、視線を伏せたままプリントが捲れる音に合わせてそろそろと手を上げる。
プリントを掴んだ細い指が視界に下りてきた瞬間――、何かが引っかかり、上げかけていた手を途中で止めた。
「八神さん? ですよね?」
名前が違うせいで紫己が受け取らないでいると思ったのか、声が降ってくる。
「あ、は、はい。すみません」
慌ててプリントを受け取ると、花房はすぐに後ろへと流れていった。
両手でプリントを掴み、文字を読むでもなくただぼんやりと視線を紙面に落としているうちに、ふと「引っかかり」の正体に気がついた。
匂いだ。彼女がプリントを差し出したとき、袖のあたりから香り立った匂いが、どこかで嗅いだ覚えがあった。樹脂っぽい甘さとハーブのような青臭さが混ざり合った匂い。
テストを配り終えた頃、ちょうどチャイムが鳴った。
匂いの元は確かに記憶のどこかにあるはずなのに、全く思い出せそうにない。
考えるより先に体が動き、気づけば教室を出て行く彼女を追いかけていた。
秦は、今年のバレンタイン前にフラれたと言っていた。
佐久良が彼女の友人たちに聞いて回ったところによると、秦ははっきりと「彼氏がいる」と断言したことはなかったようだ。ただ、高1の夏休み明け頃から休日の遊びの誘いに乗らなくなり、彼女たちいわく「女の勘」ってやつで「彼氏ができたんじゃないか」ということだった。メイクや物腰が急に大人びてきて、合コンや紹介系も断られていたらしい。
友人の勘が正しければ、秦が「フラれた」と言っていたのは、好きな人に告白したのではなく、付き合っていた相手に別れを告げられた可能性が高い。
それに加えて、昼休みに新たに得られた情報。彼女の好きな相手は中学のときの家庭教師で、今はこの高校の教師かもしれない。
点と点を繋いで得られた仮説に、「まさか」と思う一方で、腑に落ちる部分もあった。犯人にとって何か不都合なデータが彼女のスマホに保存されているとしたら、狙いがスマホだった可能性にも納得がいく。
秦が昨日から学校を休んでいるのも、そのことに気づきショックを受けているのかもと思った。欠席二日目ともなると最悪の事態も脳裏をよぎる。
佐久良が刑事の兄から聞ける範囲で聞いた話では、薫子の転落について、警察もまだ他殺の可能性を完全には捨てておらず、捜査が続いているようだった。だとすると、薫子が犯人と揉みあった際、爪に犯人の皮膚片が付着していた可能性もある。
秦に、何か元カレ(仮)から襲われるような理由があり、その元カレが自分と薫子を取り違えたかもしれないことを証言することができれば、容疑者の行動履歴を追うことで、DNAの照合に持ち込めるかもしれないというのが、佐久良の見立てだ。
ただ、秦の証言なしに、霊視で得た情報と高校生の推理だけで警察を動かすことは難しい。ひとまず秦の顔を見て、彼女の気持ちを確認したかった。
しかし、今のところ、「話だけでも聞いてほしい」と送ったメッセージは全て既読スルーされている。
学校側は生徒の住所を教えてくれないだろうし、霊視した内容を信じてくれるはずもない。同じ小学校だった薫子なら、彼女の家の場所を知っているかもしれない。
もし放課後まで返事が来なかったら、佐久良を説き伏せ、二度目の霊視をしよう。
そう心に決めて臨んだ本日最後の授業は、奇しくも英語だった。
「suggestは、suggest 人 to doの形は取れません。I suggested going there. もしくは、I suggested that he go there.が正しい形です。そこ間違っている人が多かったから、ちゃんと復習して身につけてくださいね」
鈴の鳴るような声で解説を加えながら、英語教師の花房が先週の小テストを返して回っている。
彼女は、萩原いわく「清純派」のおっとりとした和風美人で、いかにもいいところのお嬢様といった雰囲気だ。
そして先週、女子たちが騒いでいた彼女の婚約した相手というのが、三年担当の数学教師である槇村。秦の元家庭教師で、彼女の想い人かもしれない人だった。
「佐久良さん、二人目の満点ですね」
花房の弾んだ声に、パラパラと拍手が上がる。
自分と同じように、彼女に対し複雑な気持ちを抱いているはずの佐久良は、それを臆面にも出さず、いつも通りの軽いノリで「あざーす」と受け取っていた。
自分の列の先頭に花房が立ち、紫己は秘かに身を固くする。
彼女が一人ずつプリントを渡していき、いよいよ自分の番になった。目を合わせて受け取る勇気はなく、視線を伏せたままプリントが捲れる音に合わせてそろそろと手を上げる。
プリントを掴んだ細い指が視界に下りてきた瞬間――、何かが引っかかり、上げかけていた手を途中で止めた。
「八神さん? ですよね?」
名前が違うせいで紫己が受け取らないでいると思ったのか、声が降ってくる。
「あ、は、はい。すみません」
慌ててプリントを受け取ると、花房はすぐに後ろへと流れていった。
両手でプリントを掴み、文字を読むでもなくただぼんやりと視線を紙面に落としているうちに、ふと「引っかかり」の正体に気がついた。
匂いだ。彼女がプリントを差し出したとき、袖のあたりから香り立った匂いが、どこかで嗅いだ覚えがあった。樹脂っぽい甘さとハーブのような青臭さが混ざり合った匂い。
テストを配り終えた頃、ちょうどチャイムが鳴った。
匂いの元は確かに記憶のどこかにあるはずなのに、全く思い出せそうにない。
考えるより先に体が動き、気づけば教室を出て行く彼女を追いかけていた。


