「あんたたち、人の教室でなに始めようとしてんの?」
冷ややかな声を浴びせられ、紫己は上げかけていた手を止める。
自分より一回り大きな同級生に後ろからすっぽりと包み込まれているだけでも、どうにも居たたまれない。その上、第三者から冷静なツッコミまで入り、すっかり出鼻をくじかれた。
言いたくなる気持ちもわかる。自分がもし逆の立場だったら、同じことを言いたくなっただろう。
「佐久良、やっぱりこの体勢は……」
言いかけた言葉を途中で遮られる。
「これが一番いいってお前も納得したはずだろう?」
佐久良の力を借りて霊視をするのはこれで三度目。一度目は霊園で霊を見ていたとき、気づいたら佐久良が隣にいて、彼に触れられた瞬間、霊の姿がはっきりと見えたので驚いた。そのときに気を失ったせいで、二度目は最初からバックハグで行うこととなった。
そのときも、別にハグをしなくても、ただ手を繋ぐだけでもいいのではないかと提案したのだ。だが、「このほうが意識を飛ばしたときに体を支えやすい」と言われ、受け入れた。ただ、あのときは、見物人はいなかった。
「こいつ、霊視したあと意識失くすから、体を支えるのにこの体勢が一番いいんすよ」
前回、紫己に説明したのと同じことを佐久良が秦に説明する。
「意識失くすんだったら、最初から床に寝てやったらいいんじゃない?」
秦の意見は今まで思いつかなかったもので、もっともだった。
「あ、それいいな。そうしよう」
「別にそれでもいいけど、床に寝て抱きしめるって、そっちのほうが逆に際どくないか?」
「床に寝るんだったら抱きしめなくてもいいだろう?」
「いや。いざというときのために抱いてたほうがいい」
いざというときって何なん? と思ったが、床に寝ても結局は抱きしめられるのなら、そちらのほうが羞恥で身の置き所がない気がする。
「もうどっちでもいいから、早く始めて」
投げやりに秦が言い放ち、結局そのまま進めることになった。
「いつでもどうぞ」
紫己の胸の前に回された腕に、わずかに力がこもる。
前回と違い、二人もブレザーを着ておらず、薄いシャツ越しに佐久良の体温が感じ取れる。彼の長袖シャツは紫己が触れやすいよう、左腕だけ肘まで捲られていた。
顔が熱を持ちそうになるのを、すりガラス越しの霊に意識を集中させてやり過ごす。
「じゃあ、ごめん。後はよろしく」
そう声をかけると、一度下ろしていた両手を持ち上げ、佐久良の逞しい前腕にしがみついた。
すりガラスが晴れ、教室に浮いていた霊の姿が鮮明になっていく。写真で見た通り、涼しげな二重の眼とすっきりとした鼻筋。秦と同じように、ストレートの黒髪は肩の上で切り揃えられている。髪型と制服が同じせいか彼女と似た雰囲気を感じるが、こちらは薄幸そうな美人といった感じだった。
こちらがずっと彼女を凝視しているせいか、向こうも不思議そうにこちらを見下ろしている。
少しも怖くはなかった。
霊園で生き霊を見たときと一緒で、子供の頃のように霊が鮮明に見えることに、むしろ感動すら覚える。
でも、見えていても見えないふりをしたほうがいいと言ったのは、子供の頃、母を祓いにきた祓い屋だったか。理由も聞いたはずだけど、忘れてしまった。
なぜ、祓い屋はそんなことを言ったのだろう。
見える者が認識してやらなければ、彼らは存在しないものとされてしまうのに。
紫己は何のためらいもなく、左手で佐久良の腕を掴んだまま、右手を彼女に向かって伸ばした。心の中で念を送る。
――来て。こっちに……。僕のところに、来て。
彼女が宙に浮かんだまま、ゆっくりと近づいてくる。
思いが通じたことが、嬉しかった。
「くる……」
佐久良の左腕を掴む手に、ぎゅっと力を込める。
伸ばした右手が、ずぶずぶと霊体の胸の辺りに飲み込まれていく。
心が身体からも、日常の心配事や辛い記憶からも切り離され、ふわふわと軽くなっていく感覚がする。同時に、目の前の霊の姿も、その向こうの教室の風景も霞んでいき、視界が暗くなっていった。
頭上で、パラパラと何かが弾けるような音がする。
澱んだ湿り気を帯びた匂い。点在する外灯の明かりは頼りなく、濡れた路面の上でぼんやりと滲んでいる。
頭上の音は、傘を叩く雨の音だった。
雨の中、暗い夜道を歩いていた。
――既読スルーが増えていたのも、新しい友達と遊ぶのに忙しいだけかと思っていたけど……。私が嫌われていたからだったんだ……。
深い悲しみが、ひっきりなしに涙を溢れさせる。
何がいけなかったのだろう。大好きな友達にあそこまで言わせてしまうような存在であることが恥ずかしく、今すぐ消えてしまいたくなる。
それは明らかに自分の感情ではないとわかるのに、不思議なほどに、自分の内側から湧き上がってくる感覚があった。
――予備校で同じクラスになったら、また前みたいに仲良くしてもらえると思ってたのに……。
自分の中にあるぼんやりとしたもう一つの意識が、するすると記憶の糸を手繰り寄せる。
そうだ……。これは彼女の記憶だ。彼女――薫子さんの、亡くなった日の記憶。
そのことを思い出したら、彼女の感情と自分の意識の間に薄い膜ができた感じで、少しだけ悲しみが軽くなった。
やがて暗がりの中に、ライトアップされた石碑の『東雲坂霊園』の文字が浮かんでくる。
彼女は迷うことなく、霊園の中へと入って行った。霊が出ると噂の霊園。恐怖心はなく、今、彼女の頭の中にあるのは、大好きな友達に拒絶されたことへの悲しみだけだ。
雨で霞む視界が、徐々に階段へと近づいていく。彼女が転落した階段だと思うと、結果がわかっていても、心臓が加速していく。
――と、そのとき。ふいに背後から、雨音とは異なる音がした。
気が付いたときにはすぐ真後ろまで足音が迫っていて、傘が上に引っ張られると同時に、体に何かが巻き付く。
「ひっ……!」
漏らした悲鳴は、自分のものか、記憶の中の彼女のものか。
傘の下に潜り込む形で、背後に男がいた。巻き付いていたのは男の腕だった。逃げないよう、片腕で体をホールドし、もう片方の手が腰のあたりを這い回る。
「い……いやだ!」
振り払って逃げようにも、恐怖で竦んだ体は思うように動かない。
抱き込む腕が、ぎゅっと強さを増す。
「八神、落ち着け! 俺だ! 佐久良だ!」
耳元で声がし、動きを止めた。
今、自分の背後にいるのは佐久良だったことを思い出し、パニックが少しだけ落ち着く。
ただ、そんな紫己の意識と関係なく、彼女の身に降りかかった理不尽な暴力は続いていて、恐怖心が止めどなく膨れ上がっていく。
――嫌だ。怖い! 誰か……誰か、助けて!
手袋をした手に口を塞がれていて、うまく声が出せない。
必死にもがいているうちに手と口の間にわずかな隙間ができた。
「……たすけ…………」
いつのまにか傘はどこかに消えていて、雨粒が髪や顔を叩く。それでも、背後にいる男の顔は見えなかった。
口を塞いでいる腕に両手でしがみつき、指先に引っかかった布を全力で引っ張る。するりと何かが引っ張られる感触がした。手袋が脱げ、生身の肌に触れる。手首に爪を立て、歯を剥き出しにして掌に噛みつこうとすると、押さえつけていた腕の力が緩んだ。その隙に体を捻り、腕を振りほどいて駆けだした。
「――待って!」
叫んでも、紫己の言葉は記憶の中の彼女には届かない。
その先は階段だった。男から逃げることしか頭になく、走りながら振り返る彼女の視界に、階段は入っていない。追いかけてくる目出し帽をかぶった男の姿を目にした途端、急に足元の地面がなくなり、ぐらりと体が傾いた。
回転した頭と体が激しく石段に打ち付けられた瞬間、痛みが遠のくかわりに、意識が何かに強く引っ張られる感覚がした。
霊園で生き霊の記憶を見たときと一緒だ。意識が身体から引き離され、何か強い力に吸い込まれそうになる。
「八神! 俺に集中しろ!」
耳元で声がし、体に纏わりつくものの締め付けが強くなる。
それが佐久良の腕であることを思い出し、しがみついていた両手にぎゅっと力を込めた。その上にもあたたかな掌が重ねられ、手の甲を強く掴まれる。
意識を――魂そのものを、抱き留められているようだった。
しがみついているこの手さえ離さなければ、大丈夫だと思える。
意識が遠のいていく最中、今度は別の光景が流れてきた。
激しく口論する大人の男女。
――あーもう。あんなに毎日喧嘩するくらいなら、結婚しなければよかったのに。
流れてくる彼女の思考で、二人が薫子の両親だということはわかった。
両親に「行ってきます」の挨拶もせず家を出る彼女は、朝食を食べていないのか、お腹を空かしている。
自分で食パンを焼いて食べることもできたが、空腹を満たすよりも、一刻も早く耳障りな罵詈雑言から解放されたかった。
それでも、学校に向かう足取りは軽かった。
――学校に行ったらマリちゃんに会える。テストでいい点をとってようやく買ってもらえたこのリボン、また『お揃いだね』って言って喜んでくれるかな……。
冷ややかな声を浴びせられ、紫己は上げかけていた手を止める。
自分より一回り大きな同級生に後ろからすっぽりと包み込まれているだけでも、どうにも居たたまれない。その上、第三者から冷静なツッコミまで入り、すっかり出鼻をくじかれた。
言いたくなる気持ちもわかる。自分がもし逆の立場だったら、同じことを言いたくなっただろう。
「佐久良、やっぱりこの体勢は……」
言いかけた言葉を途中で遮られる。
「これが一番いいってお前も納得したはずだろう?」
佐久良の力を借りて霊視をするのはこれで三度目。一度目は霊園で霊を見ていたとき、気づいたら佐久良が隣にいて、彼に触れられた瞬間、霊の姿がはっきりと見えたので驚いた。そのときに気を失ったせいで、二度目は最初からバックハグで行うこととなった。
そのときも、別にハグをしなくても、ただ手を繋ぐだけでもいいのではないかと提案したのだ。だが、「このほうが意識を飛ばしたときに体を支えやすい」と言われ、受け入れた。ただ、あのときは、見物人はいなかった。
「こいつ、霊視したあと意識失くすから、体を支えるのにこの体勢が一番いいんすよ」
前回、紫己に説明したのと同じことを佐久良が秦に説明する。
「意識失くすんだったら、最初から床に寝てやったらいいんじゃない?」
秦の意見は今まで思いつかなかったもので、もっともだった。
「あ、それいいな。そうしよう」
「別にそれでもいいけど、床に寝て抱きしめるって、そっちのほうが逆に際どくないか?」
「床に寝るんだったら抱きしめなくてもいいだろう?」
「いや。いざというときのために抱いてたほうがいい」
いざというときって何なん? と思ったが、床に寝ても結局は抱きしめられるのなら、そちらのほうが羞恥で身の置き所がない気がする。
「もうどっちでもいいから、早く始めて」
投げやりに秦が言い放ち、結局そのまま進めることになった。
「いつでもどうぞ」
紫己の胸の前に回された腕に、わずかに力がこもる。
前回と違い、二人もブレザーを着ておらず、薄いシャツ越しに佐久良の体温が感じ取れる。彼の長袖シャツは紫己が触れやすいよう、左腕だけ肘まで捲られていた。
顔が熱を持ちそうになるのを、すりガラス越しの霊に意識を集中させてやり過ごす。
「じゃあ、ごめん。後はよろしく」
そう声をかけると、一度下ろしていた両手を持ち上げ、佐久良の逞しい前腕にしがみついた。
すりガラスが晴れ、教室に浮いていた霊の姿が鮮明になっていく。写真で見た通り、涼しげな二重の眼とすっきりとした鼻筋。秦と同じように、ストレートの黒髪は肩の上で切り揃えられている。髪型と制服が同じせいか彼女と似た雰囲気を感じるが、こちらは薄幸そうな美人といった感じだった。
こちらがずっと彼女を凝視しているせいか、向こうも不思議そうにこちらを見下ろしている。
少しも怖くはなかった。
霊園で生き霊を見たときと一緒で、子供の頃のように霊が鮮明に見えることに、むしろ感動すら覚える。
でも、見えていても見えないふりをしたほうがいいと言ったのは、子供の頃、母を祓いにきた祓い屋だったか。理由も聞いたはずだけど、忘れてしまった。
なぜ、祓い屋はそんなことを言ったのだろう。
見える者が認識してやらなければ、彼らは存在しないものとされてしまうのに。
紫己は何のためらいもなく、左手で佐久良の腕を掴んだまま、右手を彼女に向かって伸ばした。心の中で念を送る。
――来て。こっちに……。僕のところに、来て。
彼女が宙に浮かんだまま、ゆっくりと近づいてくる。
思いが通じたことが、嬉しかった。
「くる……」
佐久良の左腕を掴む手に、ぎゅっと力を込める。
伸ばした右手が、ずぶずぶと霊体の胸の辺りに飲み込まれていく。
心が身体からも、日常の心配事や辛い記憶からも切り離され、ふわふわと軽くなっていく感覚がする。同時に、目の前の霊の姿も、その向こうの教室の風景も霞んでいき、視界が暗くなっていった。
頭上で、パラパラと何かが弾けるような音がする。
澱んだ湿り気を帯びた匂い。点在する外灯の明かりは頼りなく、濡れた路面の上でぼんやりと滲んでいる。
頭上の音は、傘を叩く雨の音だった。
雨の中、暗い夜道を歩いていた。
――既読スルーが増えていたのも、新しい友達と遊ぶのに忙しいだけかと思っていたけど……。私が嫌われていたからだったんだ……。
深い悲しみが、ひっきりなしに涙を溢れさせる。
何がいけなかったのだろう。大好きな友達にあそこまで言わせてしまうような存在であることが恥ずかしく、今すぐ消えてしまいたくなる。
それは明らかに自分の感情ではないとわかるのに、不思議なほどに、自分の内側から湧き上がってくる感覚があった。
――予備校で同じクラスになったら、また前みたいに仲良くしてもらえると思ってたのに……。
自分の中にあるぼんやりとしたもう一つの意識が、するすると記憶の糸を手繰り寄せる。
そうだ……。これは彼女の記憶だ。彼女――薫子さんの、亡くなった日の記憶。
そのことを思い出したら、彼女の感情と自分の意識の間に薄い膜ができた感じで、少しだけ悲しみが軽くなった。
やがて暗がりの中に、ライトアップされた石碑の『東雲坂霊園』の文字が浮かんでくる。
彼女は迷うことなく、霊園の中へと入って行った。霊が出ると噂の霊園。恐怖心はなく、今、彼女の頭の中にあるのは、大好きな友達に拒絶されたことへの悲しみだけだ。
雨で霞む視界が、徐々に階段へと近づいていく。彼女が転落した階段だと思うと、結果がわかっていても、心臓が加速していく。
――と、そのとき。ふいに背後から、雨音とは異なる音がした。
気が付いたときにはすぐ真後ろまで足音が迫っていて、傘が上に引っ張られると同時に、体に何かが巻き付く。
「ひっ……!」
漏らした悲鳴は、自分のものか、記憶の中の彼女のものか。
傘の下に潜り込む形で、背後に男がいた。巻き付いていたのは男の腕だった。逃げないよう、片腕で体をホールドし、もう片方の手が腰のあたりを這い回る。
「い……いやだ!」
振り払って逃げようにも、恐怖で竦んだ体は思うように動かない。
抱き込む腕が、ぎゅっと強さを増す。
「八神、落ち着け! 俺だ! 佐久良だ!」
耳元で声がし、動きを止めた。
今、自分の背後にいるのは佐久良だったことを思い出し、パニックが少しだけ落ち着く。
ただ、そんな紫己の意識と関係なく、彼女の身に降りかかった理不尽な暴力は続いていて、恐怖心が止めどなく膨れ上がっていく。
――嫌だ。怖い! 誰か……誰か、助けて!
手袋をした手に口を塞がれていて、うまく声が出せない。
必死にもがいているうちに手と口の間にわずかな隙間ができた。
「……たすけ…………」
いつのまにか傘はどこかに消えていて、雨粒が髪や顔を叩く。それでも、背後にいる男の顔は見えなかった。
口を塞いでいる腕に両手でしがみつき、指先に引っかかった布を全力で引っ張る。するりと何かが引っ張られる感触がした。手袋が脱げ、生身の肌に触れる。手首に爪を立て、歯を剥き出しにして掌に噛みつこうとすると、押さえつけていた腕の力が緩んだ。その隙に体を捻り、腕を振りほどいて駆けだした。
「――待って!」
叫んでも、紫己の言葉は記憶の中の彼女には届かない。
その先は階段だった。男から逃げることしか頭になく、走りながら振り返る彼女の視界に、階段は入っていない。追いかけてくる目出し帽をかぶった男の姿を目にした途端、急に足元の地面がなくなり、ぐらりと体が傾いた。
回転した頭と体が激しく石段に打ち付けられた瞬間、痛みが遠のくかわりに、意識が何かに強く引っ張られる感覚がした。
霊園で生き霊の記憶を見たときと一緒だ。意識が身体から引き離され、何か強い力に吸い込まれそうになる。
「八神! 俺に集中しろ!」
耳元で声がし、体に纏わりつくものの締め付けが強くなる。
それが佐久良の腕であることを思い出し、しがみついていた両手にぎゅっと力を込めた。その上にもあたたかな掌が重ねられ、手の甲を強く掴まれる。
意識を――魂そのものを、抱き留められているようだった。
しがみついているこの手さえ離さなければ、大丈夫だと思える。
意識が遠のいていく最中、今度は別の光景が流れてきた。
激しく口論する大人の男女。
――あーもう。あんなに毎日喧嘩するくらいなら、結婚しなければよかったのに。
流れてくる彼女の思考で、二人が薫子の両親だということはわかった。
両親に「行ってきます」の挨拶もせず家を出る彼女は、朝食を食べていないのか、お腹を空かしている。
自分で食パンを焼いて食べることもできたが、空腹を満たすよりも、一刻も早く耳障りな罵詈雑言から解放されたかった。
それでも、学校に向かう足取りは軽かった。
――学校に行ったらマリちゃんに会える。テストでいい点をとってようやく買ってもらえたこのリボン、また『お揃いだね』って言って喜んでくれるかな……。


