ガタッと音がし、掌のぬくもりが消える。
佐久良の手が離れた瞬間、二人いた女子生徒のうちの一人だけが、陽炎のようにゆらゆらと揺らいだ。彼女の周りだけ急にピントが合わなくなり、眼鏡のレンズが急速に度を増していくかのように不鮮明さを増していき、最後はすりガラス越しの人型のシルエットになった。
「八神、大丈夫か?」
音は、佐久良が立ち上がったときに椅子を引いた音だったようだ。
向かいの席に座っていた佐久良がテーブルを回り込んで紫己の傍らに立ち、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「一瞬だったから。大丈夫だよ」
強張っていた頬の筋肉をわずかに緩める。
紫己はなぜか佐久良に触れている間だけ、霊がはっきりと見えるし思念を読み取ることができる。ただ、これまでは、それをやると必ず最後は意識を失くしていた。
「やっぱり……、私に憑いてるんでしょ?」
震える声が、まだ少しぼんやりしている頭をすぐに現実に引き戻した。
視線を戻すと、やはり二人の少女のうち一人はすりガラス越し。はっきり見えているほう――秦茉莉花は、昼休みに会ったとき以上に、血の気が引いた蒼白な顔をしていた。
「とりあえず、座ってください。あんたもぶっ倒れそうだ」
佐久良が彼女に声をかけ、自分が座っていた、紫己の向かいの席に座らせた。
すりガラス越しの幽霊はテーブルの周りをうろうろと浮遊し始める。亡くなってそれほど時間が経っていないせいか、霊園で会った生き霊ほど強い思念は感じない。なんとなく警戒されているオーラは感じ、落ち着かない気分ではあるけれども。
「何かあったかいもん買ってきます。お茶でいいっすか?」
「飲み物なら……持ってるから。……大丈夫」
秦の声は途切れ途切れだったが、さっきよりはしっかりとした口調で答えた。
佐久良が彼女に向けていた視線を紫己へと移す。
「お前は?」と視線で問われた気がして、「僕も大丈夫」という意味でコーヒーが半分残った紙カップを軽く持ち上げてみせた。宥めるように紫己の肩をぽんぽんと叩き、佐久良も隣の席に腰を下ろした。
秦は不安げに佐久良と紫己の間で視線を往復させながら、言葉を探しているようだった。
相変わらず、少女の霊はテーブルの周りをふらふらと浮遊しているが、なるべく視界に入れないよう、目の前の彼女に意識を集中させる。
会話の口火を切ったのは佐久良だった。
「俺は八神と同じクラスの佐久良です。もし、秦先輩が八神に相談したいことが心霊関係の話なら、俺が一緒のほうが話が早いので、同席させてもらってもいいですか?」
彼女が不審そうにわずかに片眉を上げる。
今度は紫己が話を引き継いだ。
「あの……、昼休みの質問の答えですが……、僕はおそらく、人よりも霊のようなものが見える体質だと思います。でも、年を取るほどに子供のときほどはっきりとは見えなくなっていたんです。それが、何故か佐久良に触れているときだけ、霊らしきものがはっきりと見えるんです。それで……」
「じゃあ、さっきのはそういうこと?」
「そういうこと」というのが何のことかはわからなかったが、彼女は独りでに何かを納得したようだった。
「それで、今の質問の答えですが……」
彼女が身を強張らせる気配がする。
「確かに今、霊らしきものがこの場にいるのが、僕には見えます。ただ……『憑いてる』という表現が正しいのかは僕にはわかりません。今はまだ……迷子でさ迷っている、という感じなので……」
「どういうこと?」
「これは僕一人の経験に基づく勝手な憶測ですが……、亡くなって日が浅い霊は、だいたい『道に迷った人』という感じなんです。なぜそこに留まっているのかも、何がしたいのかもわかりません。亡くなってから時間が経った霊は、何かしら未練を感じ取れることが多いです」
「なぜ、私の周りにいるの?」
「それもわかりません。ただ……、最初からこの場所にいたのではなく、先輩と一緒に現れたのは間違いありません」
秦が息を呑む。
紫己の言った言葉を、時間をかけて自分の中に浸透させているようだった。
「その霊って……、どんな人?」
正直に答えて良いものか迷い、一瞬、目の端で佐久良の横顔を盗み見る。まっすぐに秦を見つめる彼の迷いのない表情に、勇気をもらった。
「えっと……、うちの学校の制服を着た女子生徒で……、髪型は先輩と一緒です。顔は……パッと見、目鼻立ちが整っていて、綺麗な人でしたけど……。どんな顔か説明は難しくて……。芸能人に例えられたらいいんでしょうけど、僕、あまり詳しくなくて、すみません」
話しているうちに大きく見開かれていた目は、瞳を揺らし、やがてゆっくりと瞬きした。
「それって……」
声を上擦らせ、秦がスマホを取り出す。指が震えているのか、時間をかけて何度もタップし、紫己のほうに差し出した。
「この人だった?」
画面に映っていたのは、笑顔でピースサインをする二人の少女だった。髪型は今と違っていて、二人ともポニーテール。一人は秦先輩。そしてもう一人は――。
「そうです。確かに、この人でした」
「……そう……」
秦が目を伏せ、唇を嚙みしめる。
しばらくの間、彼女は何かを考え込むように、難しい顔をしていた。
伏せられていた視線が、再びまっすぐに紫己を捉える。
「……霊園にも、霊がいたのよね?」
「あ……、はい。あっちは、生き霊でしたけど……」
「それって、貴方たちが霊を体に戻したってこと?」
紫己は佐久良と顔を見合わせた。
「それが理由かはわかりませんが……、霊園に残されていた思念をある人に伝えて、その人からも伝言を預かって、霊に伝えました」
「だったら、この子も成仏させて!」
きつく眉根を寄せ、目を剥いて睨みつけてくる顔は、「必死の形相」と呼べるものに思える。
「私、もう耐えられない! このままじゃ受験も失敗する。お金が必要なら払うから……。一日でも早く、薫子を成仏させて!」
秦と彼女との間に何があったのかはわからない。ただ、霊とは生きている人にとってそういう存在なのだと突きつけられた気がして、少しだけ胸が苦しくなった。
佐久良の手が離れた瞬間、二人いた女子生徒のうちの一人だけが、陽炎のようにゆらゆらと揺らいだ。彼女の周りだけ急にピントが合わなくなり、眼鏡のレンズが急速に度を増していくかのように不鮮明さを増していき、最後はすりガラス越しの人型のシルエットになった。
「八神、大丈夫か?」
音は、佐久良が立ち上がったときに椅子を引いた音だったようだ。
向かいの席に座っていた佐久良がテーブルを回り込んで紫己の傍らに立ち、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「一瞬だったから。大丈夫だよ」
強張っていた頬の筋肉をわずかに緩める。
紫己はなぜか佐久良に触れている間だけ、霊がはっきりと見えるし思念を読み取ることができる。ただ、これまでは、それをやると必ず最後は意識を失くしていた。
「やっぱり……、私に憑いてるんでしょ?」
震える声が、まだ少しぼんやりしている頭をすぐに現実に引き戻した。
視線を戻すと、やはり二人の少女のうち一人はすりガラス越し。はっきり見えているほう――秦茉莉花は、昼休みに会ったとき以上に、血の気が引いた蒼白な顔をしていた。
「とりあえず、座ってください。あんたもぶっ倒れそうだ」
佐久良が彼女に声をかけ、自分が座っていた、紫己の向かいの席に座らせた。
すりガラス越しの幽霊はテーブルの周りをうろうろと浮遊し始める。亡くなってそれほど時間が経っていないせいか、霊園で会った生き霊ほど強い思念は感じない。なんとなく警戒されているオーラは感じ、落ち着かない気分ではあるけれども。
「何かあったかいもん買ってきます。お茶でいいっすか?」
「飲み物なら……持ってるから。……大丈夫」
秦の声は途切れ途切れだったが、さっきよりはしっかりとした口調で答えた。
佐久良が彼女に向けていた視線を紫己へと移す。
「お前は?」と視線で問われた気がして、「僕も大丈夫」という意味でコーヒーが半分残った紙カップを軽く持ち上げてみせた。宥めるように紫己の肩をぽんぽんと叩き、佐久良も隣の席に腰を下ろした。
秦は不安げに佐久良と紫己の間で視線を往復させながら、言葉を探しているようだった。
相変わらず、少女の霊はテーブルの周りをふらふらと浮遊しているが、なるべく視界に入れないよう、目の前の彼女に意識を集中させる。
会話の口火を切ったのは佐久良だった。
「俺は八神と同じクラスの佐久良です。もし、秦先輩が八神に相談したいことが心霊関係の話なら、俺が一緒のほうが話が早いので、同席させてもらってもいいですか?」
彼女が不審そうにわずかに片眉を上げる。
今度は紫己が話を引き継いだ。
「あの……、昼休みの質問の答えですが……、僕はおそらく、人よりも霊のようなものが見える体質だと思います。でも、年を取るほどに子供のときほどはっきりとは見えなくなっていたんです。それが、何故か佐久良に触れているときだけ、霊らしきものがはっきりと見えるんです。それで……」
「じゃあ、さっきのはそういうこと?」
「そういうこと」というのが何のことかはわからなかったが、彼女は独りでに何かを納得したようだった。
「それで、今の質問の答えですが……」
彼女が身を強張らせる気配がする。
「確かに今、霊らしきものがこの場にいるのが、僕には見えます。ただ……『憑いてる』という表現が正しいのかは僕にはわかりません。今はまだ……迷子でさ迷っている、という感じなので……」
「どういうこと?」
「これは僕一人の経験に基づく勝手な憶測ですが……、亡くなって日が浅い霊は、だいたい『道に迷った人』という感じなんです。なぜそこに留まっているのかも、何がしたいのかもわかりません。亡くなってから時間が経った霊は、何かしら未練を感じ取れることが多いです」
「なぜ、私の周りにいるの?」
「それもわかりません。ただ……、最初からこの場所にいたのではなく、先輩と一緒に現れたのは間違いありません」
秦が息を呑む。
紫己の言った言葉を、時間をかけて自分の中に浸透させているようだった。
「その霊って……、どんな人?」
正直に答えて良いものか迷い、一瞬、目の端で佐久良の横顔を盗み見る。まっすぐに秦を見つめる彼の迷いのない表情に、勇気をもらった。
「えっと……、うちの学校の制服を着た女子生徒で……、髪型は先輩と一緒です。顔は……パッと見、目鼻立ちが整っていて、綺麗な人でしたけど……。どんな顔か説明は難しくて……。芸能人に例えられたらいいんでしょうけど、僕、あまり詳しくなくて、すみません」
話しているうちに大きく見開かれていた目は、瞳を揺らし、やがてゆっくりと瞬きした。
「それって……」
声を上擦らせ、秦がスマホを取り出す。指が震えているのか、時間をかけて何度もタップし、紫己のほうに差し出した。
「この人だった?」
画面に映っていたのは、笑顔でピースサインをする二人の少女だった。髪型は今と違っていて、二人ともポニーテール。一人は秦先輩。そしてもう一人は――。
「そうです。確かに、この人でした」
「……そう……」
秦が目を伏せ、唇を嚙みしめる。
しばらくの間、彼女は何かを考え込むように、難しい顔をしていた。
伏せられていた視線が、再びまっすぐに紫己を捉える。
「……霊園にも、霊がいたのよね?」
「あ……、はい。あっちは、生き霊でしたけど……」
「それって、貴方たちが霊を体に戻したってこと?」
紫己は佐久良と顔を見合わせた。
「それが理由かはわかりませんが……、霊園に残されていた思念をある人に伝えて、その人からも伝言を預かって、霊に伝えました」
「だったら、この子も成仏させて!」
きつく眉根を寄せ、目を剥いて睨みつけてくる顔は、「必死の形相」と呼べるものに思える。
「私、もう耐えられない! このままじゃ受験も失敗する。お金が必要なら払うから……。一日でも早く、薫子を成仏させて!」
秦と彼女との間に何があったのかはわからない。ただ、霊とは生きている人にとってそういう存在なのだと突きつけられた気がして、少しだけ胸が苦しくなった。


