兄の宗史は近くのコインパーキングに車を停めていたようで、駅の改札で吉岡を見送っている間に、車をロータリーまで回してくれていた。
気が抜けたのか、後部座席に揃って乗り込んだ直後、八神が大きなあくびをする。時間はすでに9時近い。
「被害届って翌日以降でもよかったよね? 八神が疲れてるみたいだから、今日はもう帰らせてやりたいんだけど」
「僕なら大丈夫だよ」
「お前、今日、隈できてんじゃん。緊張して、昨日の夜、よく眠れなかったんじゃねーの」
そんな会話をしていると、運転席の宗史が体を捻って後部座席を振り返った。
「紫己君、無理しなくていいよ。今日はもう家に送って行こうか? 帰りがもう少し遅くなってもいいなら、夕飯だけ食べて帰らない?」
「おい、ちょっと待て。何で兄貴が名前で呼んでんだよ」
夕飯うんぬんよりそっちの方が気になった。
「八神君より紫己君のほうが紫己君っぽいじゃん。駄目だった?」
「へ? い、いえ、そんなことは……」
「俺のことは宗君って呼んで。宗にぃでもいいよ。最近、弟が名前で呼んでくれなくなったからさー」
「いい年した大人のくせに、図々しいんだよ。八神、いちいち真に受ける必要ないからな」
兄をジロリと睨み、隣に顔を向ける。
旺史からしたら日常会話と何ら変わらないが、八神は気心の知れた者同士のこういった応酬に慣れていないのだろう。本気の兄弟喧嘩と思ったのか、心配そうな顔をしている。
「ぼ、僕は……、名前で呼んでもらって嬉しいです! じゃあ、僕も、宗史さんって呼びますね。佐久良さんだと紛らわしいので……」
「旺史も、紫己君のこと名前で呼びたかったら、呼んだらいいんじゃねーの?」
兄が顔をニヤつかせているのは、旺史が、そんなことを言われると余計に反発してしまう、兄限定の天邪鬼だからだ。八神のことを名前で呼びたくないわけではないが、素直に兄の言葉に従うのは、お膳立てされたようで面白くない。
「俺は……呼び方とかは別にどうでもいいんだよ!」
――八神のアースは俺だけだから!
秘かに胸の内で主張し、多少は溜飲を下げる。
兄は八神の返事を待たずに近隣警察署に連絡し、旺史と八神は明日以降に署に行くことになった。夕食の誘いも、八神が「外で食べて帰ると言ってなかったから、父が僕の分も用意してくれていると思います」と言って断ったので、直で家まで送り届けることになった。
八神から聞いた住所を宗史がナビに入力し、RV車が静かに発進する。
「眠いなら寝てていいぞ。ついたら起こすから」
「今は大丈夫。でも、寝ちゃってたらごめん」
そう言いつつも、申し訳なさそうに眉尻を下げる顔は、瞼が重そうに見える。
枕代わりに「なんなら膝も貸すぞ?」と冗談交じりに言ってみようかとも思ったが、バックミラー越しの兄の視線が煩いのでやめておいた。
警察の寮に入っている兄とは普段離れて暮らしている。久々に会えばあれこれウザいほどに話しかけられるのが常だが、眠そうな八神に気遣ってか、走り出して以降、珍しく無口だった。
しばらくの間、車窓を流れる夜の街並みに視線を向けていたが、八神が寝息を立てる気配はない。起きているのに全く会話がないのも気づまりなので、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「八神。まだ眠くないなら、一つ聞きたいことあるんだけど……」
八神が身じろぎし、かすかな衣擦れの音がする。
「何?」
「さっき、吉岡さんに何か言いかけて途中でやめていただろ? あれは何を言おうとしていたんだ?」
宙を見上げ考え込んでいた八神が、「あぁ」と小さく声を漏らした。
「店長さんの記憶の中にね。動画が出てきたんだ。女の人が歌ってるやつで、どれも聴いたことがない曲ばかりだった。それを見ているときの店長さんの感情は、すごく穏やかで……。でも、その奥には寂しさや後悔もあって……。きっと何か辛い経験をしたときに、彼女の歌に救われていたんじゃないかな。そのことを伝えようかと思ったけど、店長さんが、いつか自分で伝えたいと思っていたかもしれないから……意識が戻ったときに、本人から直接聞いてくださいって言ったんだ」
「その動画で歌っていたのが吉岡さんだったってこと?」
「おそらくね。店長さんも、そうかもしれないと気づいたから、吉岡さんに趣味を聞いたんじゃないかな。だからきっと、吉岡さんへの感謝の気持ちの中には、刺されたあと救急車を呼んでもらったことだけでなく、彼女の歌に救われた気持ちも含まれていたんだと思う……」
「そっか……」
いくらDVのことを相談されていたとしても、その交際相手が彼女を強引に連れ帰ったとしても、店からナイフを持ち出し、それで脅して男から引き離そうとするのは、どう考えても行き過ぎだ。それくらい、店長のほうも吉岡に好意を抱いていたのかと思っていたが……、八神が言うように、本当に、店長の中にあるのは、ただ吉岡の身を案ずる気持ちと、感謝の気持ちだけだったのかもしれない。
「店長さんの意識……。戻るといいね」
「戻るよ。絶対に戻る」
旺史が力強く言い切ると、八神が俯かせていた顔を上げた。
「なんか……佐久良が言うと、本当にそうなりそうな気がする」
「俺は自分で見聞きしたものしか信じない」と豪語していた手前、そんなふうにキラキラした信頼の眼差しを向けられることに、尻の座りの悪い感じはするが。
ただ、吉岡のことも、絶対に八神の言葉が彼女に届くと信じていたら、結果的にそうなった。だから、まずはそこから。自分たちは、店長の意識が戻ると信じて、彼女からの伝言を届けなければいけない。
「言霊っていうだろ。柔道の試合のときも、勝つ勝つ言ってたら大抵は勝てた」
「それは言霊関係なく、君が強いからだろ」
八神は身をよじってひとしきり笑うと、ふいに笑みを消し表情を険しくした。
「でももう、あんな無茶は絶対にやめてくれよ」
無茶というのは、旺史が吉岡の彼氏に殴られたことだろう。吉岡を見送った後、兄の車まで向かう間、八神があまりに「自分が巻き込んだせいだ」と責任を感じるものだから、わざと殴られたことを教えてやった。それはそれで、「なぜ君がそこまでするんだ!」と怒られたけれども。
「俺だって、二度とやだよ。あんなへなちょこパンチにやられたふりするなんて、公開処刑もんだよ」
口調がへらへらしていたせいか、八神は疑わしげなジト目を崩さなかった。
「反省してます。二度としません」
今度はしょんぼりと眉を下げてみせる。数秒の睨み合いののち、彼はふっと溜め息交じりに口元を緩めた。
「まぁ、でも。僕一人じゃ、あの彼氏が出てきた時点でどうすることもできなかったから。今日は助けてくれて、本当にありがとう」
「い、いや、別に……。八神を助けようとしたわけじゃねーから、お前に礼を言われるのは……」
責められるより褒められるほうが弱い。
視線のやり場に困っていると、運転席から感情のこもっていない平坦な声がかかった。
「あー君たち、俺の存在忘れてイチャつくのはやめてねー」
気が抜けたのか、後部座席に揃って乗り込んだ直後、八神が大きなあくびをする。時間はすでに9時近い。
「被害届って翌日以降でもよかったよね? 八神が疲れてるみたいだから、今日はもう帰らせてやりたいんだけど」
「僕なら大丈夫だよ」
「お前、今日、隈できてんじゃん。緊張して、昨日の夜、よく眠れなかったんじゃねーの」
そんな会話をしていると、運転席の宗史が体を捻って後部座席を振り返った。
「紫己君、無理しなくていいよ。今日はもう家に送って行こうか? 帰りがもう少し遅くなってもいいなら、夕飯だけ食べて帰らない?」
「おい、ちょっと待て。何で兄貴が名前で呼んでんだよ」
夕飯うんぬんよりそっちの方が気になった。
「八神君より紫己君のほうが紫己君っぽいじゃん。駄目だった?」
「へ? い、いえ、そんなことは……」
「俺のことは宗君って呼んで。宗にぃでもいいよ。最近、弟が名前で呼んでくれなくなったからさー」
「いい年した大人のくせに、図々しいんだよ。八神、いちいち真に受ける必要ないからな」
兄をジロリと睨み、隣に顔を向ける。
旺史からしたら日常会話と何ら変わらないが、八神は気心の知れた者同士のこういった応酬に慣れていないのだろう。本気の兄弟喧嘩と思ったのか、心配そうな顔をしている。
「ぼ、僕は……、名前で呼んでもらって嬉しいです! じゃあ、僕も、宗史さんって呼びますね。佐久良さんだと紛らわしいので……」
「旺史も、紫己君のこと名前で呼びたかったら、呼んだらいいんじゃねーの?」
兄が顔をニヤつかせているのは、旺史が、そんなことを言われると余計に反発してしまう、兄限定の天邪鬼だからだ。八神のことを名前で呼びたくないわけではないが、素直に兄の言葉に従うのは、お膳立てされたようで面白くない。
「俺は……呼び方とかは別にどうでもいいんだよ!」
――八神のアースは俺だけだから!
秘かに胸の内で主張し、多少は溜飲を下げる。
兄は八神の返事を待たずに近隣警察署に連絡し、旺史と八神は明日以降に署に行くことになった。夕食の誘いも、八神が「外で食べて帰ると言ってなかったから、父が僕の分も用意してくれていると思います」と言って断ったので、直で家まで送り届けることになった。
八神から聞いた住所を宗史がナビに入力し、RV車が静かに発進する。
「眠いなら寝てていいぞ。ついたら起こすから」
「今は大丈夫。でも、寝ちゃってたらごめん」
そう言いつつも、申し訳なさそうに眉尻を下げる顔は、瞼が重そうに見える。
枕代わりに「なんなら膝も貸すぞ?」と冗談交じりに言ってみようかとも思ったが、バックミラー越しの兄の視線が煩いのでやめておいた。
警察の寮に入っている兄とは普段離れて暮らしている。久々に会えばあれこれウザいほどに話しかけられるのが常だが、眠そうな八神に気遣ってか、走り出して以降、珍しく無口だった。
しばらくの間、車窓を流れる夜の街並みに視線を向けていたが、八神が寝息を立てる気配はない。起きているのに全く会話がないのも気づまりなので、気になっていたことを尋ねてみることにした。
「八神。まだ眠くないなら、一つ聞きたいことあるんだけど……」
八神が身じろぎし、かすかな衣擦れの音がする。
「何?」
「さっき、吉岡さんに何か言いかけて途中でやめていただろ? あれは何を言おうとしていたんだ?」
宙を見上げ考え込んでいた八神が、「あぁ」と小さく声を漏らした。
「店長さんの記憶の中にね。動画が出てきたんだ。女の人が歌ってるやつで、どれも聴いたことがない曲ばかりだった。それを見ているときの店長さんの感情は、すごく穏やかで……。でも、その奥には寂しさや後悔もあって……。きっと何か辛い経験をしたときに、彼女の歌に救われていたんじゃないかな。そのことを伝えようかと思ったけど、店長さんが、いつか自分で伝えたいと思っていたかもしれないから……意識が戻ったときに、本人から直接聞いてくださいって言ったんだ」
「その動画で歌っていたのが吉岡さんだったってこと?」
「おそらくね。店長さんも、そうかもしれないと気づいたから、吉岡さんに趣味を聞いたんじゃないかな。だからきっと、吉岡さんへの感謝の気持ちの中には、刺されたあと救急車を呼んでもらったことだけでなく、彼女の歌に救われた気持ちも含まれていたんだと思う……」
「そっか……」
いくらDVのことを相談されていたとしても、その交際相手が彼女を強引に連れ帰ったとしても、店からナイフを持ち出し、それで脅して男から引き離そうとするのは、どう考えても行き過ぎだ。それくらい、店長のほうも吉岡に好意を抱いていたのかと思っていたが……、八神が言うように、本当に、店長の中にあるのは、ただ吉岡の身を案ずる気持ちと、感謝の気持ちだけだったのかもしれない。
「店長さんの意識……。戻るといいね」
「戻るよ。絶対に戻る」
旺史が力強く言い切ると、八神が俯かせていた顔を上げた。
「なんか……佐久良が言うと、本当にそうなりそうな気がする」
「俺は自分で見聞きしたものしか信じない」と豪語していた手前、そんなふうにキラキラした信頼の眼差しを向けられることに、尻の座りの悪い感じはするが。
ただ、吉岡のことも、絶対に八神の言葉が彼女に届くと信じていたら、結果的にそうなった。だから、まずはそこから。自分たちは、店長の意識が戻ると信じて、彼女からの伝言を届けなければいけない。
「言霊っていうだろ。柔道の試合のときも、勝つ勝つ言ってたら大抵は勝てた」
「それは言霊関係なく、君が強いからだろ」
八神は身をよじってひとしきり笑うと、ふいに笑みを消し表情を険しくした。
「でももう、あんな無茶は絶対にやめてくれよ」
無茶というのは、旺史が吉岡の彼氏に殴られたことだろう。吉岡を見送った後、兄の車まで向かう間、八神があまりに「自分が巻き込んだせいだ」と責任を感じるものだから、わざと殴られたことを教えてやった。それはそれで、「なぜ君がそこまでするんだ!」と怒られたけれども。
「俺だって、二度とやだよ。あんなへなちょこパンチにやられたふりするなんて、公開処刑もんだよ」
口調がへらへらしていたせいか、八神は疑わしげなジト目を崩さなかった。
「反省してます。二度としません」
今度はしょんぼりと眉を下げてみせる。数秒の睨み合いののち、彼はふっと溜め息交じりに口元を緩めた。
「まぁ、でも。僕一人じゃ、あの彼氏が出てきた時点でどうすることもできなかったから。今日は助けてくれて、本当にありがとう」
「い、いや、別に……。八神を助けようとしたわけじゃねーから、お前に礼を言われるのは……」
責められるより褒められるほうが弱い。
視線のやり場に困っていると、運転席から感情のこもっていない平坦な声がかかった。
「あー君たち、俺の存在忘れてイチャつくのはやめてねー」


