ギャラリーの中にいた大柄な男性が、スマホのカメラを向けながら歩いて来る。明らかに体格差のある男の登場に、今にも旺史に乗りかかろうとしていた男が動きを止めた。
怯んだのは体格差が理由だけではないかもしれない。
声をかけた男性は口元に薄い笑みを浮かべていたが、目尻の少し吊り上がった三白眼には有無を言わせぬ威圧感がある。
旺史によく似たその鋭い眼光の主は、七つ上の兄、宗史だった。
宗史がスマホを仕舞いながら吉岡の彼氏と旺史の間に入り、その隙に八神が足をもつれさせるようにして旺史の元に駆け寄った。
「佐久良、大丈夫?」
「まともに食らったわけじゃねーから、大丈夫だよ」
「あれくらいも避けきれねーなんて、体なまりすぎじゃねーの?」
ぼそりと聞こえてきた頭上からの声は、宗史のものだ。通りすがりに助けに入ってくれた人が急に馴れ馴れしく話しかけたもんだから、八神は「え?」と目を瞬かせている。
「止めに入んのがおせーからだろ」
自分でも飛ぶタイミングが遅れた自覚があり、悔し紛れに憎まれ口を返したが、殴られるより先に止められていたら、それはそれで文句を言っていただろう。
話している途中で兄が到着し、柵にもたれて海を見ているふりをしてこちらの様子を窺っていることには気づいていた。男を罵倒し始めたあたりから兄がスマホで撮影し始めたのも、旺史の意図に気づいたからだろう。
要は、阿吽の呼吸というやつである。
宗史はスマホを仕舞うと同時に警察手帳を取り出し、中を開いて男の目の前に掲げてみせた。
「俺はたまたま通りがかった警察官です。未成年への暴行を目撃しました。詳しくお話を聞きたいので、近くの警察署までご同行いただけますか? 応じていただけない場合は、現行犯で逮捕することもできます」
暴行罪だけなら大した時間稼ぎにならないだろうが、男が警察に拘束されている間、吉岡は束縛から解放される。多少は気持ちの余裕が生まれ、客観的に自分の気持ちを見つめ直すことができるかもしれない。そう思い、わざと殴られてやったのだ。
できることならこれを機に、男から洗いざらい話を聞き、あわよくば東雲坂霊園の刺傷事件まで解決されてほしいものだが……。それだと「別件逮捕」ってやつになる可能性がある。最近では控える流れになったと何かの記事で読んだ記憶があるから、実際は難しいかもしれない。
八神はそこでようやく、旺史によく似たその男が兄だと気づいたらしく、「もしかしてお兄さん?」と耳元で尋ねてくる。旺史はわずかに鼻に皺を寄せ、頷いた。
男は苦々しそうに宗史を睨みつけていたものの、それ以上は抵抗を諦めたようだった。
ギャラリーたちも、これ以上は面白いこともおきないと思ったのか、徐々に人が散っていく。
「旺史。お前も被害届の手続きがあるから、一緒に来てもらっていいか? そっちのかわい子ちゃんは……、もしかして、お前の彼女? 彼女も目撃者ってことで一緒にいいかな? 帰りは車で家まで送っていくから」
一瞬、吉岡のことを言っているのかと思ったが、その視線はどう見ても八神に向けられている。
数秒の沈黙ののち、みるみるうちに八神の顔が真っ赤に染まっていく。
「ぼ、僕、男です!」
「どう見てもスラックス穿いてんだろーが!」
顔だけでは一瞬迷ってしまうことは、旺史も否定しない。
「そうかなとは思ったけど、最近は制服も自由みたいだからさー。逆に間違うよりはいいだろ?」
旺史は、いけしゃあしゃあと言う兄の脛を、軽く足蹴にした。
旺史に駆け寄ったとき、八神は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
場を和ませるための冗談だったのかもしれないが、そのデリカシーのなさこそが、23にして浮いた話一つ出たことのない理由ではなかろうか。
「いつまでも歩道に寝転がってたら、通行人の邪魔だぞ」
手を差し出され、渋々その手を取る。
「まぁ、よく頑張ったな」
引き上げながら肩口で囁かれた。急に兄の顔をされても、それはそれで反応に困る。
宗史は最後に吉岡の元に行った。
「東雲坂霊園の事件の関係者の方ですよね? 担当が話を聞きたがっていたので、できれば貴方にも署に来ていただきたいのですが……、来ていただけるのなら今日でなくても構いません」
吉岡はちらりとこちらを見やり、軽く頷いた。
「警察には必ず行きます。ただ、できれば今日のうちに荷物をまとめて彼の家を出たいので、今日は家に帰らせてください」
「わかりました。身を寄せる先はありますか?」
「今日はどこかのホテルかネカフェにでも泊まって、明日、不動産屋に行きます」
「民間シェルターの空きがあれば、そのほうが安全なので、不動産屋より先に警察署にいらしてください。交際相手を解放する前に、担当から貴方に連絡が行くよう伝えておきます」
宗史はその後、スマホの位置共有を解除することや、追跡タグの検知方法があることを説明していた。アプリで検知できるものもあるが、完全ではないらしい。そのため、ネカフェではなくビジネスホテルに泊まるよう勧めていた。
割って入る前にギャラリーの一人に110番通報を依頼していたらしく、話しているうちに緊急サイレンの音が近付いてきて、赤色灯を点滅させたパトカーが近くの車道に停まった。
「吉岡さん」
パトカーに連れて行かれる交際相手を見送り、八神が吉岡に声をかけた。
「あの……、一つわからないことがあって。店長さんが『いつまでも待ってる』と貴方に言ってましたよね? あれは、何を待ってると言っていたんですか?」
吉岡は「あぁ」と呟き、懐かしそうに目を細めた。
「私、もともとシンガーソングライターを夢見て地方から出てきたの。あの人とつき合ってからは、あの人が嫌がるから動画配信や路上ライブはやめちゃったけどね。休憩室で店長と二人になったときに、急に趣味を聞かれたことがあって。不意打ちだったから、つい『曲作り』って正直に答えちゃったのよ。それから休憩室で顔を合わせるたびに、音楽の話をするようになって。私の曲も聴いてみたいって言うから、『恥ずかしいから嫌です』って断ったら、『いつまでも待ってる』って言われて……。まぁ、社交辞令ってやつでしょうけどね」
「そんなことないです!」
苦笑を浮かべた彼女に、八神が食い気味に言葉を返す。
「店長さんは今も待っています。何を待っているのかはわからなかったけど、何かをずっと待ち続けている気持ちだけは読み取れたんです。それが歌だと聞いて、合点がいきました。店長さんは……」
何か言いかけ、八神が首を横に振った。
「――いえ。これは、店長さんの意識が戻ったときに、本人から直接聞いてください」
吉岡の表情に、ふいに翳りが差す。
「店長は、私のことが心配で、あの場所を離れられなかったんでしょ? 私がもう大丈夫ってわかったら、ちゃんと体に戻れるよね? そうしたら意識も覚めるよね?」
八神が申し訳なさそうに視線を伏せた。
「そもそも生きている人の霊が見えたのは初めてなんです。僕も、吉岡さんが心配いらないとわかったら、店長さんは霊園からいなくなるんじゃないかと思っていますが……。その後どうなるか、実際のところはわからないんです。意識が戻らないのは、医学的な理由もあるかもしれないので……」
あの場所から霊がいなくなることが、意識が戻ることとイコールとは限らない。
八神が口には出さなかったことを察したのか、吉岡は顔色を失くし、視線を揺らした。
何かを言おうとして唇が震え、崩れそうになった顔が、それを堪えるように唇を引き結ぶ。
大きな瞳に張った水の膜がまた決壊するかと思ったが、その前に目尻がキッと吊り上がった。
「だったら、店長に伝えて。私のことはもう心配いらないって。私も、店長の意識が戻るの、いつまでも待ってるからって! それと……」
吉岡がひと息に喋り、ふっと表情をやわらげる。
「やっぱりいい。これは私が、店長の意識が戻ったときに、自分で言うから」
八神が顔色を窺うように旺史を見上げる。
旺史は力強く頷いてみせた。
「えっと……。霊と会話するのは子供の頃以来で、うまくやれるかわからないけど……。やるだけやってみます」
怯んだのは体格差が理由だけではないかもしれない。
声をかけた男性は口元に薄い笑みを浮かべていたが、目尻の少し吊り上がった三白眼には有無を言わせぬ威圧感がある。
旺史によく似たその鋭い眼光の主は、七つ上の兄、宗史だった。
宗史がスマホを仕舞いながら吉岡の彼氏と旺史の間に入り、その隙に八神が足をもつれさせるようにして旺史の元に駆け寄った。
「佐久良、大丈夫?」
「まともに食らったわけじゃねーから、大丈夫だよ」
「あれくらいも避けきれねーなんて、体なまりすぎじゃねーの?」
ぼそりと聞こえてきた頭上からの声は、宗史のものだ。通りすがりに助けに入ってくれた人が急に馴れ馴れしく話しかけたもんだから、八神は「え?」と目を瞬かせている。
「止めに入んのがおせーからだろ」
自分でも飛ぶタイミングが遅れた自覚があり、悔し紛れに憎まれ口を返したが、殴られるより先に止められていたら、それはそれで文句を言っていただろう。
話している途中で兄が到着し、柵にもたれて海を見ているふりをしてこちらの様子を窺っていることには気づいていた。男を罵倒し始めたあたりから兄がスマホで撮影し始めたのも、旺史の意図に気づいたからだろう。
要は、阿吽の呼吸というやつである。
宗史はスマホを仕舞うと同時に警察手帳を取り出し、中を開いて男の目の前に掲げてみせた。
「俺はたまたま通りがかった警察官です。未成年への暴行を目撃しました。詳しくお話を聞きたいので、近くの警察署までご同行いただけますか? 応じていただけない場合は、現行犯で逮捕することもできます」
暴行罪だけなら大した時間稼ぎにならないだろうが、男が警察に拘束されている間、吉岡は束縛から解放される。多少は気持ちの余裕が生まれ、客観的に自分の気持ちを見つめ直すことができるかもしれない。そう思い、わざと殴られてやったのだ。
できることならこれを機に、男から洗いざらい話を聞き、あわよくば東雲坂霊園の刺傷事件まで解決されてほしいものだが……。それだと「別件逮捕」ってやつになる可能性がある。最近では控える流れになったと何かの記事で読んだ記憶があるから、実際は難しいかもしれない。
八神はそこでようやく、旺史によく似たその男が兄だと気づいたらしく、「もしかしてお兄さん?」と耳元で尋ねてくる。旺史はわずかに鼻に皺を寄せ、頷いた。
男は苦々しそうに宗史を睨みつけていたものの、それ以上は抵抗を諦めたようだった。
ギャラリーたちも、これ以上は面白いこともおきないと思ったのか、徐々に人が散っていく。
「旺史。お前も被害届の手続きがあるから、一緒に来てもらっていいか? そっちのかわい子ちゃんは……、もしかして、お前の彼女? 彼女も目撃者ってことで一緒にいいかな? 帰りは車で家まで送っていくから」
一瞬、吉岡のことを言っているのかと思ったが、その視線はどう見ても八神に向けられている。
数秒の沈黙ののち、みるみるうちに八神の顔が真っ赤に染まっていく。
「ぼ、僕、男です!」
「どう見てもスラックス穿いてんだろーが!」
顔だけでは一瞬迷ってしまうことは、旺史も否定しない。
「そうかなとは思ったけど、最近は制服も自由みたいだからさー。逆に間違うよりはいいだろ?」
旺史は、いけしゃあしゃあと言う兄の脛を、軽く足蹴にした。
旺史に駆け寄ったとき、八神は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
場を和ませるための冗談だったのかもしれないが、そのデリカシーのなさこそが、23にして浮いた話一つ出たことのない理由ではなかろうか。
「いつまでも歩道に寝転がってたら、通行人の邪魔だぞ」
手を差し出され、渋々その手を取る。
「まぁ、よく頑張ったな」
引き上げながら肩口で囁かれた。急に兄の顔をされても、それはそれで反応に困る。
宗史は最後に吉岡の元に行った。
「東雲坂霊園の事件の関係者の方ですよね? 担当が話を聞きたがっていたので、できれば貴方にも署に来ていただきたいのですが……、来ていただけるのなら今日でなくても構いません」
吉岡はちらりとこちらを見やり、軽く頷いた。
「警察には必ず行きます。ただ、できれば今日のうちに荷物をまとめて彼の家を出たいので、今日は家に帰らせてください」
「わかりました。身を寄せる先はありますか?」
「今日はどこかのホテルかネカフェにでも泊まって、明日、不動産屋に行きます」
「民間シェルターの空きがあれば、そのほうが安全なので、不動産屋より先に警察署にいらしてください。交際相手を解放する前に、担当から貴方に連絡が行くよう伝えておきます」
宗史はその後、スマホの位置共有を解除することや、追跡タグの検知方法があることを説明していた。アプリで検知できるものもあるが、完全ではないらしい。そのため、ネカフェではなくビジネスホテルに泊まるよう勧めていた。
割って入る前にギャラリーの一人に110番通報を依頼していたらしく、話しているうちに緊急サイレンの音が近付いてきて、赤色灯を点滅させたパトカーが近くの車道に停まった。
「吉岡さん」
パトカーに連れて行かれる交際相手を見送り、八神が吉岡に声をかけた。
「あの……、一つわからないことがあって。店長さんが『いつまでも待ってる』と貴方に言ってましたよね? あれは、何を待ってると言っていたんですか?」
吉岡は「あぁ」と呟き、懐かしそうに目を細めた。
「私、もともとシンガーソングライターを夢見て地方から出てきたの。あの人とつき合ってからは、あの人が嫌がるから動画配信や路上ライブはやめちゃったけどね。休憩室で店長と二人になったときに、急に趣味を聞かれたことがあって。不意打ちだったから、つい『曲作り』って正直に答えちゃったのよ。それから休憩室で顔を合わせるたびに、音楽の話をするようになって。私の曲も聴いてみたいって言うから、『恥ずかしいから嫌です』って断ったら、『いつまでも待ってる』って言われて……。まぁ、社交辞令ってやつでしょうけどね」
「そんなことないです!」
苦笑を浮かべた彼女に、八神が食い気味に言葉を返す。
「店長さんは今も待っています。何を待っているのかはわからなかったけど、何かをずっと待ち続けている気持ちだけは読み取れたんです。それが歌だと聞いて、合点がいきました。店長さんは……」
何か言いかけ、八神が首を横に振った。
「――いえ。これは、店長さんの意識が戻ったときに、本人から直接聞いてください」
吉岡の表情に、ふいに翳りが差す。
「店長は、私のことが心配で、あの場所を離れられなかったんでしょ? 私がもう大丈夫ってわかったら、ちゃんと体に戻れるよね? そうしたら意識も覚めるよね?」
八神が申し訳なさそうに視線を伏せた。
「そもそも生きている人の霊が見えたのは初めてなんです。僕も、吉岡さんが心配いらないとわかったら、店長さんは霊園からいなくなるんじゃないかと思っていますが……。その後どうなるか、実際のところはわからないんです。意識が戻らないのは、医学的な理由もあるかもしれないので……」
あの場所から霊がいなくなることが、意識が戻ることとイコールとは限らない。
八神が口には出さなかったことを察したのか、吉岡は顔色を失くし、視線を揺らした。
何かを言おうとして唇が震え、崩れそうになった顔が、それを堪えるように唇を引き結ぶ。
大きな瞳に張った水の膜がまた決壊するかと思ったが、その前に目尻がキッと吊り上がった。
「だったら、店長に伝えて。私のことはもう心配いらないって。私も、店長の意識が戻るの、いつまでも待ってるからって! それと……」
吉岡がひと息に喋り、ふっと表情をやわらげる。
「やっぱりいい。これは私が、店長の意識が戻ったときに、自分で言うから」
八神が顔色を窺うように旺史を見上げる。
旺史は力強く頷いてみせた。
「えっと……。霊と会話するのは子供の頃以来で、うまくやれるかわからないけど……。やるだけやってみます」


